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「いじめ」の解消をどのように進めればよいのか  他者に対する貢献の喜びを教えること 現代版黄金律の構築の必要性4 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「いじめ」という言葉は注意が必要です。世間一般で「いじめ」と言えば、一人の子どもを大勢が取り囲んで暴力をふるったり、嫌がらせをしたりという意味だと思います。ところがいじめ防止対策推進法では意味が全く異なります。「法で言ういじめ」は、同じ学校に通う児童生徒などから、心理的、物理的に影響が与えられる行為で、本人が苦痛を感じるものということであれば全部「いじめ」になります。

1対1の喧嘩でもいじめになりますし、先に手を出してきた方に対して反撃してもいじめになります。問題行動を起こした相手を注意することもいじめになりかねません。一緒に遊ぼうと言われて他の子と約束があるからダメだといってもいじめにあたるわけです。いじめの内容が広すぎるということには様々な弊害があるため日弁連も意見を上げているのですが、改正されたりはしていません。

但し広い定義には、メリットもあります。学校はいろいろ言い訳をしていじめはないと言いがちです。世間的な意味でいじめがありながら、「うちの学校ではいじめをする児童はいない」という教育者にあるまじき発言をする校長がいる学校も存在しています。こういう様々な理屈をつけていじめの対処をしないことを防止するために広い意味でいじめをとらえたということのようです。そしていじめを小さな芽のうちに一つ一つ丁寧になくしていくことによって、重大問題を引き起こさないようにしようという理想があったのだと思います。

しかし、こんな広範囲な意味をみんないじめとしておきながら、「法のいじめ」をしてはらならないとか、「法のいじめ」を早期に予防しようとか言っても、実情にそぐわないわけです。世間的な意味での過酷ないじめについてならば、してはならないとか早期に予防ということは適切な表現だと思います。しかし、法の定義する広範な意味のいじめは、必ずしもしてはらないとか早期に予防とかが適当ではないこともあります。法律は「二つのいじめの意味」を混在して規定した未整理な状態であると感じられます。

法の広いいじめは、相手の感情を基準としますので、現代版修正黄金律である
・ 相手のしてほしいことをしよう
・ 相手のしてほしくないことをしないようにしよう
という観点からは正しいとは思います。

しかし相手の感情を読むことはとても難しいことです。その上、悪意が無くても、偶然でも相手が嫌な気持ちになることをしてはならないとか、早期に予防しようとか言われても、現実問題何をしてよいのか現場ではわからないでしょう。
遊ぼうと言われたら遊ばなくてはならないとしてしまうと、先に約束した方に対するいじめになりかねません。子どもたちにこうすることが良いことだ、こうしてはならないというルール設定ができない状態と言わざるを得ません。法律がいじめを減少させるとは思えないというのが本音です。

学校も広いいじめの定義に従って指導するわけにはいかないと考えているようです。実質的にそれぞれの学校、それぞれの教師の独自のいじめの解釈で運用されているということが実情で、その結果、「うちの学校にはいじめをするような児童はない」という発言をする校長が出てきてしまうわけです。校長でありながらいじめ防止対策推進法を理解していないわけです。

またいじめを悪と決めつけるために、いじめをした児童生徒は加害者になってしまい、一方的に指導や処分の対象としか見られなくなる危険が出てきてしまいます。これではいじめの実態からもかけ離れてしまう場面も多くなるでしょう。とくに未熟で、何に気を付けて行動するか定まらない児童生徒という特性や、自分の近くの事情しか考慮できない発達上の限界があるという特性にそぐわない指導になるほかありません。

特に過酷ないじめを起こしてしまわないためには、初期のいじめ、からかい、いじりを程度が小さいうちにやめさせる必要がありますが、悪であると決めつけず、児童生徒の人格の向上のための良い機会だととらえて一緒に考える絶好の機会にするべきです。相手の気持ちを考える訓練と、相手の気持ちと他の事情をどう調整するかということを一つ一つ覚えていく貴重な機会です。自分の言動が相手を喜ばせたり安心させたりすることの喜びを感じてもらう方向で指導をするべきだと思います。

これができないまま、強い方が指導を受けたり、親の影響力が強い方が被害者として扱われたりしてしまうと、子どもたちはあまりにも早く世間の不条理を知ってしまうことになりかねません。

根本的には、相手の気持ちを考えないで行動してしまうことを、悪であり否定評価の対象とだけ考えることを止めるべきです。そのような行動をしてしまうことは、うっかりすると大人だってあるということは、前回の記事に記載した通りです。ましてや、自己中心的で、他者の気持ちに立って行動することが苦手な発達段階の子どもの行為を善と悪に塗り分けることは科学的ではありません。

こまめにどんな場合、何に気を付けて、どう気をつけて行動すればよいかという経験値を丁寧に教えていくことが一番大切なことだと思います。特に、自分の言動で相手に不愉快な思いをさせずに物事を解決したり、相手から感謝されたり、相手とさらに強いつながりができるということの喜びを教えていくということを主にしていくべきだと私は思います。これなくして学校教育は成り立たないはずです。

具体的には、担任教諭の指導力の強化であり、そのためには担任教諭の立場の強化が必要です。

学校の人間関係も人間関係である以上、秩序が必要です。また人間は無意識に秩序を求める動物のようです。児童生徒という若年者の場合は、抽象的な法律や道徳によって秩序を作ることはなおさら困難です。やはり担任がクラスの秩序を形成し、秩序者の権威によって、小さないじめの芽を丁寧に積んでいくことがいじめ撲滅の唯一の方法だと私は考えています。権威者として人間が秩序を形成しようとする性質を利用して、先ほど述べたように、他者の気持ちに配慮すること、他人が嫌がっていることをしないことで、お互いが安心して暮らせることがとても楽しいことを教えていくこと、やがてはそれが自分の身を守ることだということを教えることが初めてできるのだと考えています。



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疑似発達障害の起きる環境 誰もが置かれた環境によって相手の気持ちを考えられなくなる 現代版黄金律の構築の必要性3 [進化心理学、生理学、対人関係学]



ぜひ前々回のシリーズ1の記事を読んでいただきたくお願いいたします。
かなり要約してお話しすると、発達障害の人は話しかける相手に対して、その人の気持ちを考えて、こういうことを言うと嫌な思いをするだろうから発言をやめようとしたり、表現方法を工夫してなるべく傷つかないように発言しようとすることが苦手であること、その結果悪意が無いのに相手を傷つけたり、立腹させたりすることがあること、そして相手が傷ついていたり立腹していることに気が付かないし、傷ついたり立腹する理由もわからないということがあるということを紹介しました。

しかし、読んでいただいている方の多くは、これは発達障害の人だけの問題ではないことにうすうす気が付いているはずです。

例えば、いつもは相手の気持ちに配慮した話し方をされている方が突然相手の気持ちを考えないような話をすることがあるとか、職場では厳しすぎるパワハラぎりぎりの言動をする人が家庭では穏やかな家庭人であったりということがあると思います。

またご自分でも、いつもは相手の気持ちを考えているのに、自動車を運転して割り込みをされたときに激高して同乗者にびっくりされたとか、買い物をしていて急いで職場に帰らなければならないのにお年寄りがレジでもたもたしていることでイライラしたり、職場で不条理な扱いをされてイライラして帰宅したときにいつもはなんとも思わない子どもの発言が癇に障って思わず怒鳴ったりということがあるのではないでしょうか。

こういう時、相手の気持ちを考えないまま自分の言いたいことを言ってしまっているのではないでしょうか。

こう考えると、相手の気持ちを考えないで相手を傷つけたり不快にする発言をするということは発達障害だけの特性ではなく、条件によっては発達障害が無い人でもつい行動をしているということになると思います。

そもそも相手の気持ちを知るということはなかなか難しいことです。おそらく相手の気持ちを考えて行動をするということ自体が難しいことで、頭をフル回転させて考えなければできることではないのかもしれません。つい、相手の気持ちを無視するだけではなく、相手の気持ちを自分勝手に決めつけて逆方向の話をしてしまうということもありそうです。

相手の気持ちを知ることが難しいということであれば、「難しいことを考えることができない脳の状態」のときに、相手の感情にそぐわない言動をしやすくなるということです。思考が停止している状態や、思考力が減退している状態です。どういう場合に思考が停止したり減退したりして、相手の気持ちを考えないでつい相手不愉快にしたり、怒らせたりするか予め知っておくことで、不用意な発言を防止しやすくなります。

思考力の減退、停止が起きる典型場面が、自分を守ろうとしているときです。

何かから逃げようとしているときや何かを攻撃するときは、危険を無くすことだけを考えるようにできているため、相手の気持ちを考えるなどという余計なことをしないように作られているわけです。逃げなければいけないのではないか、攻撃しなければいけないのではないかと感じる事情がある時、つまり危険を感じているときに思考力が低下します。

身体生命の危険だけではなく、対人関係的危険、つまり自分が組織や社会という人間関係から孤立する危険、追放される危険がある時、もっと平たく言えば自分の評価が下がる危険のある時、立場が無くなりそうなとき、こだわっていることができなくなりそうなとき、自分の仲間を守ろうとする時、こういう人間関係的な危険を感じている時に思考力が低下して、相手の気持ちを考えることができなくなるようです。

具体例を挙げると、会社の部署の責任者であり、その部署全体のノルマが達成できなくなりそうだというときに、部下の気持ちも考えずに第三者から見れば罵倒にしか聞こえない言動をするということが典型かもしれません。取引相手との約束の時間がギリギリなのに、開いたエレベーターのドアの前で入ろうか遠慮しようかともじもじしている人を見ると、どっちかさっさと決めてくれと毒づきたくなるわけです。
先ほど挙げた例もすべて自分を守る必要性を感じている場合ですね。

この他に、体調が悪いとき、睡眠不足、副作用のある薬を服用した時、それから時間が無い等の焦りがある時も同様に複雑な思考ができなくなり、他者の気持ちを考えて行動するということができなくなるようです。

思えば現代社会は、相手の気持ちを考えて行動できなくなる事情にあふれているように思われてきました。

会社に行っても家庭に帰っても、本当に自分はこの人間関係で受け入れられているのだろうかということを常に不安に感じるという事情、会社からこんな業績では成績評価を下げるぞと脅かされたり、退職を迫られたりするという事情という事情のある人も少なくないでしょう。今の世の中、自分は安全だ、安心だ、大丈夫だと感じられない人間関係が多いのではないでしょうか。特に日本では他国に比べて時間に追われるということも多いようです。何かと寝不足になる事情も多いですね。自分以外の誰かが起きて活動をしているとなると、SNS等のインターネットをのぞいてみたくなってしまいます。また、昼間のストレスで眠れないということもありそうです。

そうだとすると、現代社会は、大人の発達障害の行動を起こさせる原因に満ち溢れていることにならないでしょうか。ついつい他人の気持ちを考えずに自分の言いたいことを発信してしまうということが起こりがちになっているのではないでしょうか。その結果、自分の所属する家族や職場での自分の立場がますます不安定になってしまっているわけです。まさに心無い言動が理由で不安になっているという二次被害のような人も出てくれば、悪循環が大きくなっていきます。

現代社会は、発達障害の特性の行動類似の行動が起きやすい社会だと思います。それにもかかわらず、空気を読むことが強制され、空気を読めない人が低い評価を受けているような気がします。それができない環境にありながら、強制的に緊張を強いられ、空気を読ませられている、とても生きづらい社会なのではないでしょうか。

人々は、常に自分の感情が他者から考慮されずに行動提起がなされるので、指図されている不自由感を慢性的に感じているのかもしれません。自分のことを自分で決められないという閉塞感を抱きやすいのかもしれません。自分の感情を考えずに問題敵されることに過敏になっている可能性もあるのかもしれません。

現代版の黄金律である
・ 相手のしてほしいことをしてあげる
・ 相手のしてほしくないことをしない
ということはますます難しいことになってしまいます。

だから黄金律だけを述べることは無責任なのでしょう。
・ 自分と他人が違うことを前提にして
・ 他人の感情を察して自分の行動を決めるという価値観、理想を掲げること
・ そして、他人の感情を考えることができる環境をできる限り調えていく
ということが本当は言うべきなのかもしれません。

できれば社会全体がこの価値観で回ることが人間の幸せのためには効果的だと思います。それができないのならば、せめて職場の中とか家族間とかで、そのような価値観を共通の価値観として共有する必要があるのだろうと思います。

せめて家族の中では、自分が大人の発達障害類似の事情を抱えているならば、むしろ家族を安心させようとする気持ちを持つようにすることが必要なのかもしれません。

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パワハラの落とし前のつけ方 現代版黄金律の構築の必要性2 [労務管理・労働環境]



パワハラがなぜ悪いのか。当たり前という回答はありうるかもしれません。しかし、私のようにパワハラによる損害について弁護士としてやり取りをしている者にとっては、パワハラの本質がどこにあるかという仮説を立てることは、必要なことです。どこからがパワハラで、どこからが損害賠償の対象になるのかということは、「パワハラがなぜ悪いのか」ということを考えないままでは、とても頼りないぼやけた境界線しか引けません。

これまでの過労自死事案や精神疾患事案を見ると、パワハラそれ自体よりも、それが組織的に放置されているとパワハラを受けている人が感じることが、より精神疾患の発症の原因になるし、症状が重篤化しなかなか治らない原因だという感覚を持っています。

これはパワハラの本質が、パワハラを受けた者が「自分が努力をしたのに、その努力を否定された。」、「自分の能力や人格を簡単に否定された」と受け止め、自分が会社という人間関係の中で劣っている者、取るに足らない者、簡単に切り捨てて良い者だという否定評価をされたというように感じ、危機感を抱かせることにあります。孤立させることと孤立回復に対して絶望させることがパワハラの本質だと仮説を立てています。

そうすると、一人の人からパワハラを受けることによる孤立感や絶望感もさることながら、その自分に対しての否定的な評価がその会社全体の自分に対する評価だと感じてしまうことによって、より大きく、深くなる、より苦しくなることはあまりにも当然のことになると思うのです。

パワハラを受けた人から見ると、世界中から自分が孤立していて、自分は人間として扱われることが今後一切ないというような感じ方になるようです。
パワハラを見て見ぬふりをするということは、パワハラを受けた人がどんどん孤立感を深めて、絶望に向かっていることを放置することと等しいのです。会社はパワハラがあるかもしれないと思ったら、パワハラの対象者の孤立感を解消する手立てを取らなければならないと思います。

つまり組織は、パワハラがあれば、
1 それはしてはいけないことだと否定評価をすること
2 改善を具体的に指導して同種行為の反復をさせないこと
3 パワハラを受けていた人が自分が守られていると実感すること
が行われなくてはなりません。

これを放置すると、パワハラの被害を受けた人だけが病むだけでなく、組織全体が不必要な緊張感が支配的になり、殺伐とした組織になり、ミスが増えたり、自分の頭で考えないで上司の言われたことしかしなくなる、あるいは優秀な人材から順番に外部に流出していくということにもなりかねません。公務員の場合は転職をあまり考えませんので、精神的被害が深刻になるばかりではなく、第2、第3の被害者が生まれてしまい、職場の中に休職者が増大し、残された者の仕事量が増えるという悪循環に陥ってしまいます。

さて、それにもかかわらず、多くの企業では、コンプライアンスの部署がありながら、このコンプライアンスの部署がパワハラを無意識に隠ぺいしようとする行動をとってしまいがちです。コンプライアンス担当部署側の理由は何なのでしょう。
① パワハラの行為者(あるいはその後ろ盾)と対決することが嫌だ。
② パワハラがあるといううわさが外部に流出されると会社の評判を落とす
こんなところではないでしょうか。
そして、実際にどのように隠蔽するかというと
A)上司の言っていることは正論だからパワハラではない
B)業務に必要な伝達事項だからパワハラではない
C)そのぐらいは通常の指導の範囲内だ
D)あなたの言い分だけでパワハラだとは確認できなかった
という感じが多いように思われます。

これではだめなのです。何のためのコンプライアンス部署なのかわかりません。結局労働者が精神疾患を発症し、労災認定がなされ、事案によっては高額な損害賠償を支払い、裁判報道として会社の名前が世に知られてしまい、取引が先細り、優秀な人材が会社を後にするということにならざるを得ません。第2第3の疾患者が出れば、悪名は固定されてしまうでしょう。こんなコンプライアンス部署の従業員に給料を支払っているのは、無意味な話です。単に会社がコンプライアンスに取り組んでいます、予算もつけていますというアリバイ作りという意味にすぎません。

あくまでも、従業員が孤立感や絶望感を感じた場合は、事態を改善しなければならないのです。行為者がどういうつもりでそれをやったかではなくて、言われた方がどう感じるかということを基準に行動をしなければならないのです。

ここでもう一つパワハラが放置される重大な理由を指摘しなければなりません。それはパワハラ改善部署がコンプライアンス担当だという致命的な欠陥です。つまり、コンプライアンス担当部署は、その上司の行為が過去の裁判でパワハラだと認定された行為に該当しなければ放置してよいと考えているようです。もっともパワハラ研修自体がそのような実務からかけ離れた、裁判というより判決文だけを元にして組まれたプログラムばかりということで役に立っていないのです。

さらには適切な解決方法の知識とノウハウが無いということもパワハラが放置される原因になるでしょう。これはコンプライス担当部署が第一次的なパワハラ担当をしていることから派生する問題です。

つまりコンプライアンス担当部署がパワハラだと認定したならば違法であり、上司を懲戒しなければならないという手続きの流れになるために、担当部署はなかなかパワハラを認定できないということなのです。

会社としては、真黒なパワハラがあり懲戒処分の対象となる行為と、グレーゾーンであり処分の対象とはならないのではないかという行為と二種類のパワハラがあることになります。しかしその境界線は曖昧です。そうなるとついつい、極端なケースだけをパワハラとして認定して懲戒処分の対象とし、それ以外は放置するということになるわけです。しかもその極端な例というのは、パワハラ行為者に悪意があり、人格的問題があり、意図的に部下を追い込む行為であり、第三者から見てもすぐにひどい話だと感じられる行為ということになります。パワハラを受けている相手の感情はどこにも入りません。

これでは、パワハラを防ぐことはできません。

グレーゾーンを放置するから真正パワハラになり、人の命が失われるのです。そうなってからは取り返しがつきません。パワハラを本気になくそうとするならば、グレーゾーンを一つ一つ丁寧に解消していくほかはありません。パワハラを予防するということはそういうことです。そのような予防が企業を発展させていくことにもつながります。

後にパワハラ認定された上司だって、部下を精神疾患にしようとか自殺に追い込もうと思って行為をしているということは実際は多くありません。必要な指導を適切な形で行うことができないために、部下が孤立感や絶望感を感じるということがほとんどです。

その行為が部下にどのように映っているかの認識を共有することが第一です。つまり現代版黄金律である、「相手のしてほしくないことをしない」ということを基準とするべきなのです。その上で、改善の必要性に応じて、改善の適切な方法を一緒に考えるという流れになるにすることをまず考えることです。

そうやって、指導のスキルを底上げしていく絶好のチャンスとしてとらえなければもったいないということです。これは取引相手などにも応用の効くスキルだと私は思います。

つまり、自分が誰かに働きかけるときに、相手の気持ちを考慮して働き方を工夫するようにスキルアップするということなのです。現代版黄金律です。

相手の気持ちを考えるということは、簡単ではありません。しかしスキルや経験が増えれば、仕事の範囲であればそれほど難しいことでもありません。そのスキルアップをすることで組織力は確実に向上するのです。

スキルアップのためには、知識、ノウハウが必要であることもまた事実です。他人の気持ちなんて実際はわからないからです。そうだとすれば、他人の気持ちに気が付かなかったことをもって直ちに処分を検討するという流れはやめるべきです。改善を指導する過程の中で、社会人としてあまりにも非常識な対応をしていたのであれば、いたずらに企業秩序を乱したことになるので、その場合はそれ相応の懲戒処分をすることになると思います。パワハラ是正の論理と、処分の論理は次元を異にすると考えなければならないと思うのです。

大きな組織であれば、パワハラ改善の部署は一時的には労務管理の指導部門が担当するべきです。悪質で企業秩序違反が認められた時に、レポートをつけてコンプライアンスに回すということが合理的だと私は思います。

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大人の発達障害をきっかけに考えた旧黄金律の弊害 現代版黄金律の構築の必要性1 [進化心理学、生理学、対人関係学]



発達障害は、様々な症状の組み合わせということなので、発達障害だからこういう行動傾向があるとかこういう行動傾向があるから発達障害だとは必ずしも言い切れないそうです。ここでいう発達障害の人の行動特性とは、何人かの私のかかわった人たちの共通点の行動傾向を、架空のキャラクターQ氏の目を通してお話ししています。医学的な正確さではなく、人間関係の紛争解決と予防の実務的観点でお話ししていることをお断りします。

よい歳になれば、それなりの処世術を身につけますから、延べ数時間話したくらいではなかなか発達障害だと気が付かないものです。Q氏は、もしかして自分が発達障害ではないかと自分を疑い、精神科に言って心理検査を受けて、発達障害だと診断されたというのです。それでも私はすぐにQ氏が発達障害だと納得できませんでした。

しかし、彼の話を聞くと、なるほど発達障害ということはそういうことかという新鮮な衝撃を受けました。

彼によると、若いうちから人づきあいが苦手で、グループの中に入れず一人で過ごしてきたそうです。仲間と打ち解けることのできない具体的な原因の一つとして、「余計なことを言う」ということがあったようです。こういうことを言うと嫌な気持ちになるかもしれないと考えて、発言をやめるとか、表現を穏やかにするということができないため、思ったことを言ってしまうのです。賞賛や感謝をすぐに口に出すのならばよいですが、そうではないようです。例えば学校で、課題を提出できなかった同級生がいた時、その同級生が「難しくてどうしてもできなかったよ。」というと、「できなかったのではなくて、しなかっただけだろう。」なんて言ってしまうようです。会社などでも、ノルマを達成しなかった同僚に対して、思った通りの言葉を言ってしまう、「やれなかったのではなく、やらなかっただけだろう。」と言っていたようです。

多くの人は不愉快になるし、けんかを売っているのかと思うでしょう。実際にQ氏に対しても、言われた本人だけでなく周囲の人間からも反発をされたり、そういう言い方はだめだよと注意されたりしたそうです。しかし、Q氏は、どうして反発されているのか、どうして自分が注意されるのかが理解ができなかったそうです。

どうやらここがポイントのようです。

Q氏は、自分の言葉は当たり前のことを言っているだけだと思っているようです。言われて当たり前だということでしょうね。どちらかというと正義感に基づいた発言のようです。その言葉で相手が嫌な気持ちになるということが理解できないようです。

もしかすると、課題を与えた学校やノルマを課した会社からすればQ氏の発言こそが正しい発言だと考える人もいるでしょう。しかし、その結果Q氏は孤立してしまい、楽しくない状態になっているのです。他者から受け入れられないことの苦しみはきちんと感じるのです。

これが、会社という組織ならばまだよいかもしれませんが、家庭でも同じならば家族は辛いでしょう。「なんでこんな問題ができないんだ。勉強する気が無いふざけた態度では将来社会から脱落するぞ。」とか、「あんなくだらないママ友との付き合いのためにこんな必要でもないものを買うなんて何を考えているのだ。」とか、子どもの進路や妻の交友関係にまで、過酷な表現で自分の意見を押し付けてくるわけです。

その背景としては、「よく考えないからそういう間違いを犯すのだ。自分が言い聞かせれば、自分と同じ結論になるはずだ。」という極度に自分と他人の区別がつかないという感覚の問題があるように思われます。自分の言葉は、攻撃ではなく、気づきのために必要な方法だということになるようです。

だから、家族の「幸せ」を思えば思うほど、正しい自分の意見を強く押し付けようとすることになります。表現は過酷になり、態度も圧迫的になります。家族のことを思えば思うほど、一方的な押し付けが強まるので、家族はQ氏のような人を煙たく感じるようになるわけです。やがてQ氏の愛情は、家族から拒まれ、Q氏は家庭の中でも孤立していくことになります。愛するがゆえに嫌われるという側面もあるので、これは切ないことです。

Q氏の正しさは、伝統的な黄金律に合致しています。
黄金律とは、「自分のしてほしいことを相手にしてあげなさい」とか
「自分がしてほしくないことを相手にしてはならない」ということです。

おそらくこの黄金律が作られた2000年前であれば、人間の個性というものは、それほど気にしなくても良かったのではないかと想像します。自分がしてほしいことはほとんどの他人もしてほしいし、自分がしてほしくないことはほとんどの他人もしてほしくなかったのだと思います。また、個性ではなく、常識とか社会秩序とかが重んじられていたので、常識や社会秩序に合致したことをされていれば相手も満足していたのではないかと思うのです。

ところが現代社会は、社会が複雑化して、一つの常識や一つの秩序では人間をすべて規律することが不可能になったのではないでしょうか。したいこと、されたいことが人によってバラバラになっているのだと思います。その結果、自分のことは自分で決めたいということを強く感じるようになっているということもあるように思います。

だから、「昔」であれば、Q氏の発達障害は、あまり目立たなかったはずです。世間の常識、共通の道徳に基づいた発言は、少々煙たがられても受け入れられることが多かったと思います。言われた方も常識や道徳に反発することもできなかったのでしょう。その代わり、相手に任せたことについては口出ししないという道徳もあったはずです。世の中便利に動いていたと思います。

発達障害の人の場合に限らず、過去の黄金律は現代社会においては妥当性を欠くばかりではなく、人間関係の不具合の原因になるようです。修正が必要なのだと思います。つまり
・ 相手がしてほしいと思うことをしなさい。
・ 相手がしてほしくないことをしないこと
というように自分ではなく、相手を基準に物を考えなければならないということなのだと思います。

ところで、正しいQ氏の発言が、どのように間違っていて、言うべきことではなかった、あるいは言い方を修正するべきなのかということについて、あえて言葉での説明を試みてみます。

言われた方の心情としては、「自分が努力をしたのに、その努力を否定された。」、「自分の能力や人格を簡単に否定された」と受け止め、自分が人間関係の中で劣っている者、取るに足らない者、簡単に切り捨ててもよい者だという否定評価をされたというように感じ、「攻撃」だと受け止め、危機感を抱かせ、ある人はがっかりするでしょうし、また別の人は腹が立って反撃をすることになるわけです。いたずらに、相手に精神的ダメージを与えることをするべきではないということがするべきではないという理由だと思います。

Q氏は、何の悪気もなくQ氏なりの正義や正しさを言葉にしただけです。しかし言われた相手からすると、Q氏が自分の考えを口に出しているのですから、自分はQ氏から攻撃された、Q氏は自分を否定しようとしていたという悪意であると感じるわけです。

黄金律を現代版のように相手の心を基準としなければ、言われた相手も傷つきますが、結局Q氏も孤立して苦しむことになります。その人間関係全体がピリピリとして不安定な状態になってしまいます。だから修正黄金律にするべきなのです。

但し、修正黄金律の大きな弱点は、発達障害がなくても、他人である相手の心なんてわかりにくいということです。今回はこの問題を短期集中シリーズにして何を考えるべきか、どう考えるべきかということを、検討していきたいと思います。

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一人で生きられるって、それは素敵なことだろうか?  [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


表題に比べて無粋な書き出しをするわけです。
現代社会は、お金さえあれば「物理的には」、誰ともかかわらずに生きて行けるようにも思われます。今の人間関係で、思い悩むときは、いっそのこと人間関係を断ち切って一人で生きてみようかなんて思うこともあると思います。

そうやって実際に一人で生きている人もいるかもしれません。
また、本当は誰かと暮らしたいのに、事情があって一人で生きていると言う人も多くいらっしゃいます。

対人関係学の基礎になる学説のうちの非常に大きな位置を占めるバウマイスターという認知心理学者の「The Need to Belong」(所属の要求)という論文があります。結論から言うと、「人間は、他者のグループに所属することを本能的に求めており、その要求が満たされないと心身に不調が表れてしまう。」ということを述べています。様々な文献の研究からそのような結論を導き出しているようです。

だから一時「一人で生きていたい」と思っても、やがては人間の中で生きていきたいと思うようになるか、その願いがかなわないまま精神を病んでいってしまうのかもしれません。

ただ逆に、職場や友人関係などで誰かとかかわっていながら、所属の要求を満たしているはずなのに、その人間関係が原因で同じように精神を病むような現象が見られます。これはどうしてでしょうか。

パワハラなどの自死事案を多く担当した私は、そもそも人間の要求は、誰かとかかわっていればよい、人間の集団に所属していればよいというだけのものではないと考えています。「自分がそのグループで、仲間として尊重されるという関わり方をしたということ」が、人間の根源的要求なのだと、バウマイスター先生の学説を修正する必要があると考えています。

バウマイスター先生の論文は、先ほども文献研究の手法だと言いましたが、人質にされた事案とか、刑務所内の対立の事案とか、極端な事案が多いようです(翻訳がされていないので、私の英語読解力の範囲での話ですが)。その中でも、つい人間は人間を求めてしまうということで磨かれた真実があることは間違いありません。

しかし、現実の人間の紛争や過労自死の事案を見ると、「仲間として尊重されない人間と一緒にいること自体が人間にとって過酷なことであり、心身に不具合が生じることだ」と結論付けたくなるのです。

ただ、この「仲間として尊重されている」と感じているかどうかということは大変難しくて、一方が他方を尊重していると頭の中では考えていたとしても、他方が「こんな扱いでは自分は尊重されていない」と感じると、心身に不具合が生じたり、仲間から離脱しようとするところが難しいところだと思います。

どんな場合に相手が「仲間として尊重されている」と感じているか。それは人それぞれなので、インターネットや本には書いていないことです。相手をよく観察して(どういう場合に嫌がるか、嫌がる場合はやめる。どういう場合に喜ぶか、喜ぶことは積極的にやる)、場合によってははっきり言葉にして尋ねてみるということでかかわりの中で学習していくということなのでしょう。

さらに難しいことは、相手が仲間として尊重されると感じることが、自分にとっては苦痛である場合があるということです。人間は「自分」というものがあり、自分を自分で裏切り続けると、やはり苦しくなるようです。一方で他者と一緒にいたいという要求がありながら、他方で自分を壊したくないという気持ちなのでしょうか。例えば会社で、会社の命じたことが自分の良心に反することなのに、無理にそれを行い続けるとやはり心身に不具合が出てきてしまうようです。

相手が会社であれば、自分を大切にするために退職をするという選択肢を持つべきです。
これが相手が家族の場合が切ないところです。ただ、この場合は別離だけが選択肢ではなく、相手に対して働きかけを行い、自分の気持ちを相手に理解してもらい、相手を変えていくということも選択肢として持つべきだと思うのです。

この調整のお手伝いをする人がなかなかいないのが現代日本です。私はそのような時に家族再生のお手伝いをすることも弁護士としての仕事だと思っているのです。

そして現代の様々な公的な「支援」は、別離だけが唯一の選択肢だとでもいうような働きかけをしているのではないかと憂慮しているのです。

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