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リストカットのメカニズム 痛みを感じる仕組みと痛みを抑える仕組み [自死(自殺)・不明死、葛藤]



最近中学校の管理職と話をする機会があり、リストカットは目立ちたいから、関心を自分に引き寄せたいから行うという見解を持っていることに驚きました。それはその人の個人的見解ではなく、教師を対象とした研修会で教わったことだというのでさらに驚きました。

実際に人目を引くためにリストカットをするケースがあるのかどうかわからないが、私が担当したケースは、その人なりに精神的に辛いことがあり、居ても立っても居られない焦燥感というか、不快感というか、負の感情が押し寄せるときに(ディスフォリア)、自分を落ち着かせるために行っているケースばかりです。

仮に人目を引くためにリストカットをしたからと言って、自分に関心を持たせるためにそのような手段に出ること自体が要保護事態だとしなくてはならないと思います。しかし、研修会の結論は、図に乗るから相手にしないということだったらしいです。結論だけ言えば、この研修は生徒の成長や保護を目的とした研修ではなく、生徒を管理する対象としての学校管理の研修だったのでしょう。

このように、自傷行為が死ぬことが目的ではなく、「耐えられない心の痛みを和らげることをめざすものであり、多くの生存者は自傷行為を、逆説的であるが、自己保存行為の一つの形と考えている」という見解は20世紀のころから取り上げられていました。上記引用個所は1982年にアメリカで出版されたジュディス・L ハーマンの「心的外傷と回復」の1999年発行の日本版から引用したものです。

どうして、身体を傷つけると耐えられない心の痛みを和らげることができるかということについて簡単な説明を試みます。ここでのみそは、身体の痛みによって、心の痛みを和らげるという別異のはずの痛みが連動しているというところにあります。

そもそも痛みというのは、身体の痛みが基本です。これは人間に限らず動物の仕組みだと思います。

身体の痛みとは、例えば皮膚が切れたり(裂傷)、筋肉などが挫滅(打撲や捻挫)して当然起きるものではありません。その傷んだ末梢神経が、損傷を起こしたことを電気信号で脳に向けて発信し、脳が痛みを感じるということはご存じだと思います。この過程の中の末梢神経から脊髄に到達した箇所で痛みの信号が増幅されるなどの工夫が行われます。痛みを感じた脳は、痛みを修復させるために血管を通して様々な物質と損傷個所に運びます。その物質がさらに痛みを感じやすくして、さらに修復物質を損傷個所に運び修復作業をしやすくします。

しかし、それほどうまくはできておらず、修復物質を必要十分な程度に加減して運ぶことができません。放っておけば、どんどん痛みを感じる物質が集中してきて、痛みに耐えられなくなるようです。

そのため、脳の中で、痛みを感じた場合、修復物質を運ぶ働きが始まると同時に、痛みを抑制する物質を産み出して、不必要な痛みを感じなくするという働きが起きるそうです。

痛みを感じさせる目的は、身体の部分が傷んだ場合、身体を休ませて損傷個所が治癒しやすいように行動決定を促すところにあるようです。痛みを感じないというなら、損傷個所に気が付かずにそこに負荷をかけ続け、治癒不能なまでに身体の部分を破壊してしまい、致命的な事態を起こしやすく、簡単に絶滅してしまうことでしょう。

痛みを抑制する物質としては、ドーパミンが放出され、μ―オピオイド系というエンケファリンやエンドルフィンなど(麻薬のようなもの)が活性されて痛みが抑制されます。また、ノルアドレナリン、セロトニンなどのモノアミンと呼ばれる物質が脊髄の入り口の痛みを増幅させるシステムを抑制するようです。

ここで面白いのはドーパミンは、何か良いことがあったときに活発になり、喜びを感じさせる物質だということです。快によって痛みという不快を抑制しようとしているわけです。

また、モノアミンは、脳内で欠乏している状態がうつ病と呼ばれる状態でして、モノアミンの回収を抑える薬がうつ病の治療薬として活用されているということは頭に入れておいてください。

このように、痛みを感じるシステムが働くときは、痛みを抑えようとするシステムも発動しているということが今回のキモです。

さて、身体の痛みが発生した時に、身体の痛みを抑えるというのであれば、素直に、「ああなるほど」となるのですが、リストカットの場合、心の痛みを和らげるために体の痛みを起こすということが興味深いことです。もちろん本人は、そのような理屈を知っているわけではなく、なんとなくディスフォリアの状態になったときにリストカットなどの自傷行為をしたらディスフォリアが収まったという経験から、ディスフォリアの状態になると意識的にリストカットをするようになるようです。

どうして、身体の痛みを緩和するシステムが心の痛みにも通用するのかということが一番興味を引いた部分です。

先ず心の痛みとは何かということです。

身体の痛みを感じる目的が体の損傷に気が付いて身体を休ませるところにあるというのであれば、心の痛みの目的も心に何らかの不具合が発生したので心を休ませるためにあるのだと思います。家庭を省略して結論だけを言うと、心の痛みは、身体の損傷だけでなく、対人関係的な不具合が発生していて不具合を修正する必要があるという警告なのだと思います。

極端な例は、いじめやパワハラで、その対人関係を形成している仲間から追放されそうになっているということです。人間は群れの中に自分を置こうとする本能があるので、群れから否定評価されたり、肯定評価をされなかったり、攻撃されるなどの事情があれば、本能的に群れから追放されるという不安が生まれてしまい、群れにとどまろうとしてしまうと考えるとよく話がつながると思います。

本来であれば、不安や心の痛みを感じたら、自分の行動を修正して元の調査が取れた群れの中に戻ればよいはずなのです。しかし、どうしても自分の力では自分の群れの中に戻ることが不可能だと感じた場合、強い心の痛みが発生し、ディスフォリアの状態になってしまうのでしょう。あたかも今まさにライオンが襲ってきて食べられてしまいそうになっているような場合の脳の状態と同じになっているのだと思います。

つまり、本来は対人関係的な痛み、不具合を感じる感じ方は、身体生命の痛み、損傷を感じる感じ方と別の方法で良いはずなのですが、自然というか人間の進化の到達というかは、対人関係的な痛みの感じさせ方として、身体生命の痛みの感じ方を「流用」しているということなのだと思います。

この言い回しは私のオリジナルではなくて、アントニオ・ダマシオの「デカルトの誤り」の二次の情動は一次の情動の表象を借りて発言するという言い回しを借用しています。

身体の痛みを抑制するシステムを発動させると、身体生命の損傷が無いのに、心の痛みである対人関係的な不安や焦燥感も同じように抑制することができるということになります。

リストカットをする人たちは、確実に心の痛みを抱えており、さらにその痛みを解消する合理的方法が無いと絶望しているという共通点があるのではないでしょうか。体の痛みが無いにもかかわらず、強制的に体の痛みを抑制するシステムを作動させるために、自分の体を物理的に傷つけているということになります。

家族や教育者という子どもに対しての保護的な立場の人間がリストカットを等閑視することはしてはならないことであると思います。まずは、どこにその人の絶望があるのか、時間を取ってよく話を聞く必要があると思います。そしてできるならば自分はあなたを決して見捨てないというメッセージを発していただきたいと考えています。

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