SSブログ

家庭では意識して要領の良さを追求しないことこそが要領の良いスタイルであること 家族は安心するために一緒に生活しているということ [家事]



先日、新幹線と在来線を乗り継いで離婚調停に代理人として出席してきました。離婚をするべきか、どうすればよかったか、これからどうするか等、調停委員の先生方も一緒になって考えるという理想的な家事調停が行われたと感じました。

さて、その事案も、真面目で責任感がありすぎる夫婦が、相手のことを思い、子どものことを気に掛けるあまり、無駄な衝突を繰り返しているという多くの離婚事件に共通の出来事があり、調停委員の先生を交えてその原因について検討し、対策を話し合いました。

常々私は、夫婦喧嘩の原因が、正義感、合理性を家庭の中に持ち込んで、厳密な公平を求めすぎるところにあるということを述べてきました。ここでは合理性の弊害がまな板の上に上がりました。

合理性というと少しわかりにくいのですが、要領の良さを相手に求めるというと少し思い当たることがあるのではないでしょうか。

例えば、洗濯物を干すときに乾かすためには洗濯物と洗濯物の間をあけなければならないとして相手が干した後で干しなおすとか、風呂掃除をしているときに洗剤をつけて1分そのままにしなければならないので、その間に夜間に水を入れてお湯を沸かし始めることができるのにボーっと風呂桶を見ているなとか、無駄を省けということを家族に言ってしまうということは無いでしょうか。

液体をこぼした時に新しいティッシュを使わないで広告紙を使えとか、落語の小言隠居みたいなことをつい言ってしまうことがあるようです。落語の世界ならばうるさい爺だと相手にしないしたたかな長屋の人たちの対応が笑いにかわります。しかし、言われた相手が、真面目で責任感があって、相手から愛想をつかされたくないと考えているとき悲劇が始まるようです。

言った者の言い分が正しいように感じますから、言われた方は反論できません。そうしなければいけないのだろうなと頭では考えてしまいます。相手から失望されたくないという無意識の願いは、自分が相手から否定されたという被害意識を感じやすくなっています。さらには、相手が疲れているから休ませてあげたいと思って、本来相手の当番の洗濯物を干すことを買って出たのに後から干しなおされたり、皿洗いを買って出たのに洗いなおされたりする場合、相手のことを思いやってやったことで喜ばれると思うのに逆に否定されるアクションを受けるわけですからカウンターとなり余計にダメージが大きくなるわけです。

このように要領の良さを追求した行為で、相手が不快になることは当たり前のことだと思います。相手方を不快にするデメリットを払ってまで追求しなくてはならない要領の良さというものはあるのでしょうか。洗濯物なんてよっぽど重ねなければそのうち乾くでしょうし、食器なんてなんなら食べる直前できれいにすれば足りることでしょう。どうしても気になるのであれば、相手に気が付かれないようにそっと治しておけばよいはずです。

どうしてそのように相手の気持ちを考えることをしないのでしょうか。

つまり、そこまで考えていなかった。

ということのようです。相手の気持ちを考えないで夢中になって合理性を追求しようとしてしまっているのでしょう。それでは、わずかなバイト料を得ようとして逮捕されるということまで考えていなかった闇バイトをすることや、視聴者数を増やそうとして損害賠償を受けることまで考えていなかった迷惑系動画を発信する人とあまり変わりないということは言いすぎでしょうか。

もう少し相手の気持ちを考えてみましょう。
要領の良い行動をするためには、常に物を考えて要領の悪い行動をしていないか、もっと要領の良い在り方があるのではないかと考えている必要があります。無意識でできるひと、考えることが楽しいという人は確かにいます。

しかし、相手は必ずしもそうではない。要領よくやる必要性を感じていなければ特に考えたりしません。家事や労働につかれている人は、そこまで余裕がなく、風呂掃除の洗剤を巻いてしばしば休息が必要な状態かもしれません。体調の問題もあるでしょう。また、一つ一つ完結させてから次の仕事をしたいと言う人もいると思います。

それにもかかわらず、一人の視点の要領の良さを押し付けられてしまうと、自分の視点では何をどう要領よくやればよいかわからなくなります。何をやっても要領が悪いと非難される危険もあるわけです。相手のやった行動を見て後付けで要領の良い方法に気が付くこともあるでしょう。

それにもかかわらず、いちいち非難されてしまうと、自分のやることすべてに自信が無くなり、相手が返ってくると何か言われるのではないかとびくびくして、常に相手の顔色を気にしている状態になる危険があるわけです。これだけでそういう気持ちにならないかもしれませんが、要領の良さの「指導の仕方」によっては、他の体調面の問題、他の人間関係での問題と相まって、家族であるはずの相手を嫌悪する要因の一つになりかねないようです。

では逆に合理性、要領の良さを犠牲にしてまで家族に気を使わなければならない理由があるのでしょうか。

あるというのが私の結論です。

そんなことに科学的裏付けは本来不要だと思うのですが、一つの考え方として読んでください。家庭では要領の良さを追求しないことが合理的だという理論的根拠です。

夜勤をされている方々には申し訳ないのですが、夜に寝て朝に起きて仕事に行って夕方ないし夜に帰ってくるという生活スタイルを前提にお話をします。

人間は、概日リズムというものが体内にあり、細胞レベルで、朝と夜を知る体内時計があるそうです。脳の仕組みも、明け方から夕方にかけては、活動する仕様になっていて、夕方から明け方にかけては休息をする仕様になっているそうです。活動する仕様というのは、交感神経が活性化し、緊張して集中し、諸活動をうまくこなすことに都合が良い状態になっているということです。これに対して、休息をする仕様というのは、昼間の緊張によって血管をはじめとして体の部分を酷使しているわけですから、休息をして心身のメンテナンスをする仕様になっているようです。

本来副交感神経が優位になって効果的に休息をする体の状態になっている時間帯に、緊張が連続して起きてしまうと、身体の様々な部分に不具合が起きてきてしまい、このような不自然な状態が極端に続くとメンテナンスができなくなり、過労死をしたり過労自死をしたりするわけです。

つまり、夕方から明け方にかけては、極力緊張をしない、させないということが長生きするためには要領が良いスタイルなのです。また、脳が休息モードになっていれば、細かい配慮などもできにくくなります。緊張をして要領の良さを追求すること自体が要領が悪いということになるでしょう。そうして、結果的にメンタルにおいて圧迫をし続けてしまうと相手はあなたと一緒にいることが苦痛になり、あなたという存在を嫌悪するようになってしまいます。

要領の良さを追求するだけでこのようなことになることはめったにないでしょう。妊娠・出産及びその後2年くらい、頭部外傷があった場合、ホルモン分泌異常やうつ病などの疾患がある場合、お子さんに障害がある場合、勤務先での人間関係の不具合、睡眠不足と相まって不安の原因を誰かに求めようとしてしまうようです。その時、休息を妨げて緊張を強制する相手が自分の唯一のストレッサーだと決めつけるということをよく見ています。

その結果別居になって二重に生活費がかかったり、財産分与で老後の計画が崩壊したりということは、洗濯物を干したり食器に汚れが遺ったりするよりもよほど要領の悪いことになってしまいます。

どうやら人間にとって家族とは、一日の活動を終えて同じ場所に帰ってくることによって自分も安心するし、相手も安心するという存在のようです。家族と合流することで安心を増幅して、心身の休息の効果を増大させるという役割があるようです。

本来の家族の役割は他の家族を安心させること、緊張から解放することにあると言えるのではないでしょうか。大いに安心してリラックスして休息して心身のメンテナンスを行い、明日の活動の体力、活力、集中力につながるのだと思います。

ところが、職場や学校などで、要領の良さや集中力を発揮しなくてはならないようにさせられてしまうと、ついそれがすべての人間関係で同じように行わなければならないと勘違いしてしまうのでしょう。余計なものを家庭の中につい持ち込んでしまうようです。

だから、家庭の中では細かいことは言わないし、相手の行動を否定する言動をしない。すべてを大目に見て家族でいることに安心してもらう。これを意識的に行う必要が現代日本では必要であるようです。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。