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親権の概念の再確認と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在 [家事]

親権の概念と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在

法制審議会が8月29日に離婚後の共同親権を含む家族法改正のたたき台を発表しました。離婚後の共同親権の是非を議論する前に、先ず親権概念をはっきりさせておいた方が良いと思いました。書いているうちに、筆が止まらなくなり、なぜ共同親権に反対するのかの理由まで考えてしまいました。このため大分長くなってしまいましたが、実務家としていつも感じていることを正直に書きました。
 
1 親権の内容
 
 親権という概念は各国にあり、実はいろいろな意味があるようです。文明国の親権という意味で「近代的な親権」というためには、親権の内容に子どもに教育を受けさせる義務を設けるなど、子どもが幸せになるように行動をする義務が含まれなければなりません。
例を挙げると、子どもを教育する義務、子どもを監護する義務、子どもの財産を適正に管理する義務などがあります。今、議論になっているのは懲戒権です。懲戒の内容はいろいろありますが、子どもが悪い行為をしたらその行為に否定的評価を与え、今後の改めるべき行動様式を指導することが共通内容でしょう。子どもが間違った道に進まないためには、私は親の懲戒権は必要だと思います。但し、親の気分によって子どもにつらく当たったり暴力をふるったりすることは、そもそも親権の中に規定されている「懲戒」ではありません。うまく言ってわからせることができる場合は懲戒という概念は不要かもしれませんが、子どもの意思をある程度制圧しても懲戒しなければならない場合、特に子ども自身の安全のために必要な場合が現実にはあると思います。

話を戻しますが、近代における親権の内容は、どちらかというと「権利」というより「義務」に近いのですが、子どもは親の親権(指導や教育)に服しなければならないという意味もあるため「子どもに対する権利」であると説明されています。ではいっそのこと権利という言葉を使わないで「親責任」という言葉を使うべきではないかという意見もあります。実際にそのような意味の言葉を使う国も外国にはあります。しかし、親権制限、親権喪失などの法律用語との整合等を考えなければならず、そう単純には決められないという指摘も有力です。

私は、親権には、親権に対する妨害を排除するという意味での自由権的側面もあると考えていますので、親権という言葉は残すべきだと思っています。親権妨害が損害賠償や妨害排除の対象となることは裁判所でも認められていることです。
 国家との関係では、最近は痛ましい虐待事例に居ても立っても居られない人たちが児童相談所の現状を苛烈に批判し、児童相談所の家庭への介入を強化し、警察との連携を主張する傾向が多くなってきました。そうすると、介入の弊害も懸念しなくてはなりません。本来虐待をしていない場合に親子分離がなされてしまうことも当然でてきます。過度な親子関係に対する公権力の介入を抑止する観点からも親権の自由権的側面を改めて強調するべきだと考えています。

2 親権を行使する主体

  親権を行使するのは親であるということは明治民法の時代から規定されています。ここで指摘しておかなければならないことは、明治民法は、封建的な「家」制度を維持するための制度となっており、親権制度も家父長的な観点から定められているという誤解があることです。
  家父長制という概念はヨーロッパの家族関係を知らなければその意味を正しく使用することはできません。法律を超えた文化的な考え方という根強いものです。この意味で日本の家族制度に家父長制という概念をストレートに当てはめることには無理があると私は考えています。
  もし明治民法が家父長制的な「家」制度の維持のための制度設計だとするならば、親権は「家」のトップである戸主にあると定められるはずです。ところが明治民法は先ず父が親権者であり、父が親権を行使しえない事情がある場合には母が親権者になると定めているのです。親権は、子どものための制度であるから、自然な情愛に基づいて親権を行使するべきであり、それは親がふさわしいという考え方が採用されて立法化されたものです。但し、父親が第一順位というところに男女差別があることは看過できません。しかし、これをもって欧米の家父長制と共通だと考えることには無理があるのです。

3 現代社会の婚姻時の共同親権という制度

戦後親子関係に関しては民法改正がされて、親権の主体は一人ではなく、父母双方であり、父母が共同して親権を行使することが定められました。

親である以上、男女の性別にかかわらず親権の主体とされるべきだということは、男女平等の価値観の元当然のことです。子どもに対する自然の情愛に委ねるという考え方は、父と母の双方が親権を有するということがよりよくなじむと思います。

明治民法では親権者は一人でしたが、二人が親権者となると、何らかの決定をしなくてはならない場合にはどうするかという問題が出ます。制度としては、どちらかに優先順位をつけるという形です。明治民法は性別で優先順位を決めましたし、理屈の上では二人の年齢によって決めるなど決め方はいろいろありうると思います。しかし、改正民法では、親権者二人に優劣を決めず、二人で相談して決めるということになっています。父親と母親とどちらにも優劣が無く、平等に話し合いで親権行使を決めるということが、日本国憲法体系かにある民法の考え方だということです。

4 現代日本の共同親権の実態

現代日本では、多くの親権侵害が存在しています。

1)一方の親が子どもを排他的に確保して他方の親の親権行使を侵害

いわゆる連れ去り事案が典型的です。つまり、例えば子どもの母親が、子どもの父親に知られないように子どもを連れて現在の居住地から離れて別居をする場合です。子どもがどこにいるかわからなくなりますので、他方の親は親権を行使することができません。明らかな親権侵害です。

このほかにも、例えば逆に父親が、母親が精神障害にり患しているとして入院させるなどして家から退去させ、母親が退院しても家に戻ることを妨害する事例が実際には多くあります。夫の母親が嫁を嫌っていて、家から追い出すという封建時代かと思わせる女性の被害が起きています。現実には少なくない母親も親権侵害を受けていています。それどころか子どもに会うことすらできない母親も少なくないのです。

また何らかの事情で、例えば母親が夫との関係で罪悪感を持っていることを利用して母親の子どもへの関与を排除してしまう事例も実際は多く相談が寄せられています。

親権侵害の事例は、子どもと一方の親を断絶させるもので、深刻な精神的打撃を受けます。とくに連れ去り事例では、一人残された父親が自死したり、廃人のようになったりするケースを私も多く見ています。


2)親権侵害に対する公権力の加担

一方の親による他方の親の親権侵害の事例の典型的な例は母親の子の連れ去りの事案です。この事案には公権力が加担している案件が実に多くあります。「DV被害者の保護」という名目です。しかし、実際には、身体的暴力や精神的虐待があったと認められるケースは例外的です。判決や和解でもDVは無かったこととして結論が出されることが多いということが実感です。

それにもかかわらず、地方自治体や警察、NPO法人は、ありもしないDVがあったとして父親の親権侵害に加担しているのです。
一方的な母親からの事情聴取だけで「それは夫のDVです。」と宣言し、子どもを連れて父親の知らないところに逃げることを勧め、そして夫から知られないように住処を与えて、生活保護を支給して逃亡生活を援助します。そして、裁判手続きを勧め、法テラスを通じて弁護士を依頼させて、保護命令申立や離婚申立てなどを行うことを容易にしています。

「DV被害者ならば逃がすのは当然ではないか」と、この時点で結論を出す人もいるかと思います。しかし、DVという概念は広範な概念で、DVというだけでは何が起きているのか皆目見当もつかないのです。離婚調停や裁判においても、DVの具体的中身が母親側から具体的に主張立証されることはほとんどありません。

事情聴取はすることになっているのですが、あまり具体的な話は聞いていないのではないでしょうか。また、その話の事実評価も行われていないようにも思われます。私が良く例に出す実際に会った話ですが、月4万円しか夫から渡されないという妻の訴えに対して相談所は「それは夫の経済的DVだ。」と即時に断定されたと専業主婦の妻が言っていました。

しかし、夫の賃金(手取り20万円を切る)が低いうえ、光熱寮などの生活経費や教育費は夫の銀行口座から引き落としになっている上、食材なども夫が全て出していた。つまり、妻の小遣いを何とか4万円捻出していたということが真実だったのです。低賃金の社会構造に原因があるにもかかわらず、夫のDVだと決めつけるところにDV相談が何なのかを象徴していると思います。

むしろ、誰にも相談できないところで深刻なDVは起きているということが実感です。量的には男女差が無いということも感じています。

母親の連れ去り事例における相談所(役所、警察、NPO他)の問題点を整理します。

・ 裁判手続きを経ないで父親の親権侵害行為が行われていること
つまり、父親には反論する権利が無く親権侵害が行われていること
・ 連れ去りに正当性が無いことが裁判で確定しても、親権が回復しない。また親権侵害による損害賠償を請求する方法が存在しないこと
・ 父親の人権侵害に重要な役割を果たしているのは、地方自治体やNPO法人などというつまり税金を使ってのこういであること

父親の親権侵害の観点からはこれらが主たる問題だと思いますが
子どもの健全に成長する権利からはまだまだ大きな問題があります。
突然住み慣れた家、仲良しの友達、学校、地域、何より父親と父親側の祖母やいとこなどの親戚から隔絶されてしまうのですから、子どもの精神的負担は大きく、チックや睡眠障害などの精神症状が出現する例が報告されています。

本来平等だと定めた父親と母親の親権ですが、実際は母親の親権が、税金を使って排他的に優先されているのが現実です。

5 離婚後の共同親権のあり方 現状から見えてくる本当の反対論者の問題の所在
 
8月29日の法制審議会の改正案のたたき台では、離婚後の共同親権が議論されています。しかし、離婚後に共同親権になったからといって、私はあまり楽観できないと思っています。なぜならば、現行法では、婚姻中は共同親権と定められています。ところが述べたように離婚前から別居親、特に父親の親権侵害が公権力によって行われているのです。母親の親権が回復する方法どころか、我が子と面会する強力な公的手段も存在しません。このような現状を見ると、離婚後に共同親権制度になろうと親権侵害が終わるという楽観的な観測を持つことは私にはできません。子どもに会えない母親が子どもに会えるようになるとは思われません。

ただ、面白いことに、そうだとすると現状で父親の親権侵害を支援している人たちは、離婚後に共同親権になったとしても同じようにDVを理由として親権侵害を継続すればよいのだから、熱心に反対する必要は無いわけです。ところが、これ等の人たちは熱心に離婚後の共同親権に反対しているのです。

これには理由があります。現状では、離婚をすれば単独親権となり、親権者でなくなった親は親権を失います。本来親権は、親子という自然な情愛に基づく関係で付与されるものです。夫婦が離婚したところで親子の情愛は続くのですから、離婚をしても親権が存続しても良かったはずです。単独親権と定めた理由は、離婚をしてしまえば他人に戻るのだから親権行使の方法を話し合うことは現実的ではないという考えが大きな理由でしょう。しかし、それは親権の順位をきめればすむことです。「親権行使の意見が分かれた場合は同居している親の考えを優先する。」という決め方だってできたはずです。法改正でこれをしなかったのは、封建制度の考え方が残存していたことによると私は思います。つまり、「離婚をすると一方は家(「家」制度の家ではなく、文字通りの家)から出て行くのだから、家とは無関係になる。子どもは家の所有だから家から出て行った場合には子どもに対しての権利を失うことは当然である。」という考え方です。子どもを一人の人格主体とは見ていなかったということです。これには時代的制約があるためにやむを得ない側面があります。日本を除く世界において子どもの権利を考えるようになったのは、第2次大戦後に始まり21世紀になって定着していったからです。日本だけはまだ子どもは母親の所有物だという考えが公権力にも残っていて、子育ては女がすることだという意識が疑問を持たれないで温存されています。看過しえないジェンダーバイアスであるとともに日本の人権意識の遅れが如実に出ている問題です。

話を戻しますと、離婚後は単独親権になっている現在の制度が連れ去り型の親権侵害では極めて有効な条件で、もしかしたら不可欠な条件なのだという認識が連れ去り推進論者にはあるのでしょう。

つまり、
行政の支援を受けて子連れ別居をする
⇒ 調停などを起こして離婚を申し立てる
⇒ DVの主張が認められなくても、現在の家裁実務では
  「別居の事実」と「離婚の堅い意思」があれば離婚判決を勝ち取れる
  加えて、連れ去り後子どもと同居している、乳幼児のころ母親の方が父親より子どもと一緒にいる時間が長いならば、裁判所は母親に親権を定める
⇒ 離婚が認められ自分が親権者となる
⇒ 父親が子どもに、子どもが父親に愛情があっても父親の親権が離婚と同時にはく奪される
⇒ 養育費は、強制執行の威嚇の下に支払いを確保できる
⇒ ひとり親家庭ということで手厚い行政の支援金が交付される
⇒ ゴールは父親を排除して子どもとの生活

という、今やルーティンともいえるような家裁実務により、連れ去りのゴールが設定されるといううまみが離婚後の単独親権にはあるわけです。(ただし、現実には生活は同居中より格段に厳しくなり、こんなはずではなかったと相談所に抗議をしても、相談所からは「離婚はあなたが決めたことですよ。」と判で押したような返事が来るだけである。という相談を人権擁護委員の多くが聞いている。)

ところが法改正されて、離婚後も共同親権となってしまい、離婚後の父親の子どもに対する関与が認められてしまうと、ゴールが見えなくなります。離婚後のバラ色の姿(空手形ですが)を吹き込むことができなくなることによって、連れ去り別居の意欲がそがれてしまうということに危機感を抱いているのだと思います。

これが離婚後の共同親権に反対する人たちの中核の問題の所在なのです。どうして、当事者でもない支援者が危機感を抱くのか。それは、バラ色のゴールが無ければ、離婚プランの相談をしようとさえしなくなるわけです。相談所のニーズが無くなってしまいます。連れ去りの支援を受けようとしなくなれば、相談や支援を行うNPO法人の存在意義がなくなり、予算が配分されなくなるということがおそらく最大の問題なのではないかと考えることはうがちすぎでしょうか。

もう一つありました。連れ去り事例が多くなって目につくようになったのは、DV加害者に対するセミナーです。妻がいなくなった夫で、もともと真面目な人、ややうつ状態になった人は、自分に原因があって妻がいなくなり、子どもが寂しい思いをしているのではないかと自責の念に駆られる人が多いです。このため、自分のどこが悪かったのだろうか、どう直していけば良いのだろうかと悩むようです。そういう人たちがたどり着くのが加害者セミナーです。独力でたどり着くだけでなく、「離婚調停などで本当に行動を改めるつもりなら、セミナーに通え」と言い渡されて通う人もいるようです。

この種のセミナーを主宰している人に連れ去り支援に加担している人がいます。もちろん離婚後の共同親権制度の創設にも反対しています。

セミナーは長期間行われます。受講するためにはかなり高額な受講料を払わなければなりません。受講経験者から話を聞くと、いろいろ新しい知識が付くので、目からうろこが落ちた思いにはなるようですが、率直に言って効果には疑問があります。そもそも加害者セミナーという名称がその内容を表しているのではないでしょうか。

職業的な共同親権反対論者は、他でも活動をされていますが、どの分野でも共通のスキームを持っているようです。即ち、行政からの委託料ないし補助金と、高額のセミナー開催です。また、特徴として、公金の流れが、民主主義の原理によって決定されないで、情報開示請求などが無い限り公にされないというところも共通であるようです。

公的な親権侵害の特徴は、国民が知らない間にいつの間にか制度が出来上がっていて、その制度で利益を得ている人たちが行っているということです。そして、その確信犯に、心情的に追随してしまう人、正義感が強すぎる人が、一部の被害実態(あるいはアメリカの被害実態)が日本においても普遍的な事態だと思い込んでしまう人が、良心的に指示してしまっているところにあると思います。

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