SSブログ

離婚後の親権制度について、他国に恥じることのない議論のために 子どもの権利を最優先にした議論の枠組みをするべき [家事]


8月29日に法制審議会は、離婚後の共同親権制度などのたたき台を発表し、離婚後の親権制度についての法改正が目前という状況になっています。世界ではごく例外を除いて離婚後においても共同親権制度をとっています。日本だけは、国際的に異例の単独親権制度をとっていて、今回の改正においても共同親権が曖昧な形のまま法制化される懸念があるというのが、現在の立法にまつわる政治状況だと言えるでしょう。

この状況は、国際的に見てとても恥ずかしい状況です。なぜならば、世界では子どもが一人の人格主体であると認識されていて、大人は子どもの健全な成長に責任を持たなくてはならないという理由から、両親が離婚しても子どもは父親からも母親からも愛されて育つ権利主体であると法的にも位置付けて、共同親権制度に次々に変更していったという経緯があります。日本だけが、子どもの両親から愛されるという切実な権利に価値を置かず、子どもの権利とは別の次元で子どもの権利を制約し続けているのです。日本は権利を主張できない弱者の権利擁護を考えない国だと実際にも国際的に評価されています。結論も一択しかないと思うのですが、何よりも議論の過程を世界が注目していると思います。

前回の記事では、親権概念を確認し、
・ 親権は親が子どもを思う自然な情愛に基づいて親に親権をゆだねたということ、
・ 戦後の法改正で父親と母親の双方が平等に親権主体と定められたこと、
・ しかし実際には一方の親によって他方の親の親権が侵害されているのに回復する強力な制度が無いこと
・ 父親の親権が母親によって侵害される場合に、公権力やNPOが侵害に加担していること等を述べました。

今回の記事では、
1 立法についての議論がどのような道筋で行われるべきか
2 夫婦が離婚しても、両親から積極的に愛情を受けていることがどのように子どもの利益になるのか、
3 立法趣旨との関係で共同親権制度にする必要性はどこにあるかということを述べていきます。
今回も、実際に離婚事件その他の子どもの養育に関する事件を多く担当する法実務家として、私の実務経験をもとにお話をしていきます。

1 立法の議論のあるべき道筋

親権制度は、前回お話しした通り、世界的に近代以降では、子どもが健全に成長するために親が行うべき義務がその概念の中核になっている必要があります。「子どもが健全に成長をするためにどのような親権制度とするべきか」という議論から出発しなくてはなりません。

そしてこのような子どもの利益のためになる制度を作った結果、他の観点からの不具合が生じることもあるでしょう。法律というのは、このように一方向の利益だけで定めることはできず、それによる不具合をどのように修正するかということを考えて決められる定めにあります。

離婚後の共同親権反対論は、この出発点が欠落していると言わざるを得ません。共同親権反対論の論拠は、共同親権になるとDV被害女性の保護が不十分となるということが核心になっています。つまり、子どもの権利についての議論を欠落させて、女性の利益を元に論を立てているのです。これでは、世界に顔向けできない議論をしているということになります。

また、実務経験からすると、家裁の離婚手続きで、未成年者がいるケースのほとんどがDVの存在しない事案です。DVによる慰謝料が認められないケースは少なくありません。裁判所を通さない協議離婚の場合は、もっとDVが存在しないケースが多いと推測されます。協議離婚が成立しているということは、夫婦で離婚届けを作成しているということですから、妻が子どもを連れて夫から所在を隠しているというケースよりも、離婚届の受け渡しが行われているケースが圧倒的多数であり、つまり、DVからの逃亡が不要なケースが多いからです。

いったい、未成年者がいる離婚のケースのどの程度の割合がDVがあった案件だというのでしょう。また、DVがあったからという理由で一方の親か子どもの所在を隠す必要がある案件なのでしょう。DVの定義が曖昧であることも相まって、有効な統計資料はないはずです。離婚総数の内、DVがあるために離婚後も父親と母親の協議ができない割合はごくわずかであると思います。それにもかかわらず一律に共同親権が排除されるならば、大多数の両親が離婚した子どもたちは、自分の状況と異なる状況のために、一方の親から愛情を注がれる利益ないし権利を考慮されないという事態になりかねません。どうして子どもたちは我慢しなければならないのでしょうか。

また、共同親権反対論の論拠が、母親の権利を第一に考えて立論されているということは、子どもの権利よりも母親の利益を優先する価値観によって議論がなされているということになります。何よりも子どもの権利について議論が行われないのですから、母親の利益を優先という表現よりも、子どもの権利ないし利益を欠落させて親権の在り方が議論されていることになります。つまり、これでは、母親の利益さえ図られれば子どもの利益を考慮しなくてよいという態度に外なりません。つまり、子どもは一人の人格主体として保護されるのではなく、母親の利益に従って行動するべき母親の付属物という扱いがなされていることになります。子の連れ去りとはまさにこのような現象なのです。

封建制度のイデオロギーの残存的思考であるとともに、子どもは女性が育てるべきという看過しがたいジェンダーバイアスにとらわれた議論だというほかはありません。そこに統計や発達心理学などの科学的考察はなされていません。

議論のあるべき道筋とは、
先ずDVを脇において、夫婦の離婚後に子どもはどのように育てられるべきか、同居親と別居親がそれぞれどのようにかかわるかべきかということから離婚後の親権の在り方を議論するべきです。

次に、それで制度の骨格を定め、それにより生じる不都合をどのように最小限度にするかという議論に進むことになります。その際、DVとは何か、被害実態とはどのようなものが統計的には見られるのか、件数、割合はどの程度のものなのかという統計資料に基づいてどのような制度修正をするべきかを議論することになります。

私は、民法上の共同親権制度には、DVの問題をいれることは不可能だと思います。民法の文言にDV問題を配慮した文言をもうける立法事実が認められることは無いと思っています。特別法によってDV被害対策を、統計上の必要性が認められた時に必要に応じた立法をするべきだと考えています。

また、別居親のかかわりを「認めるか認めないか」という清算的議論ではなく、DVの被害が現実化しないようなかかわり方を検討し、物的施設や親子交流支援員を設置するなどの建設的な制度創設の提案がなされるべきであると考えています。あくまでも子どもの利益を中心に考えるべきだからです。

2 離婚後にも両親から愛情を注がれる子どもの利益

離婚を経験した子どもたちの発達上の問題は、統計上確立されています。即ち、自己評価が低くなり、アイデンティティの確立に問題が生じるということです。この統計結果を世界が認めたために、国際的にわずかの例外を除いて離婚後の共同親権制度が次々と生まれて行ったのです。

自己評価やアイデンティティの問題を少し説明します。

私が直接会った、他方の親と交流のない子どもたちは、この極端な形で苦しんでいました。中学や高校のあたり、自我が確立していく頃から、不登校、自傷行為、拒食過食を繰り返し、精神科病棟での入退院を繰り返すようになり、同居親に攻撃的になり、子どもとは言えない年齢になっても社会に出て行くこともできないような状態となりました。病院での様子を見ると、特に何か健康になるためのアプローチは見られず、ただ社会から隔離されているような印象も受けました。せいぜい興奮状態を薬によって鎮めているだけでした。

そういった状態の中、荒れる子どもを心配のあまり、別居親が同居親の助けを求めようとして、同居親の代理人を通じて離婚調停が申し立てられました。別居親と代理人の私は、離婚申立てが真意ではなく、子どものことで助けを求めているということを見抜き、面会交流を復活させました。その直後から子どもの精神症状は沈静化していき、社会に出る準備を始めていきました。自分の夢を自覚して、夢に向かって進むという意欲を持ち、現在夢を実現しつつあるという状態です。

別の例では、両親の別居後、荒れて徘徊を繰り返して児童相談所に保護されることが頻回にあった小学生がいました。別居親との交流を通じてそのような行為は無くなり落ち着きを取り戻しました。親子が久しぶりに対面した場面に立ち会いました。面会が終わるまで、子どもが満面の笑みを浮かべ嬉しそうに時間を過ごしていたことが印象的でした。

私が見た実例は、子どもの自己評価が低下した様をまざまざと見せつけられました。自己評価が低下している状態とは、自分は尊重されるべきだという観念を持てず、夢や意欲を持つこともできない状態になるようです。

また、近年では、離婚それ自体というよりも、離婚後も親が離婚相手に対して精神的葛藤を抱いていることが子どもにとって悪影響を与えるという整理の仕方もされているようです。子どもは同居親の承諾の元で別居親と交流できることで、この点も安心するのだと思います。別居親の面会にあたっては、私が同居親の葛藤を下げるチャンスとして子どもとの交流を活かすことが子どもの利益になるというアドバイスを常に別居親にしているのはこういう理由があるからです。

日本を除く諸外国は、このような科学的根拠があるということで、子どもを一人の人格者であり、親の付属物ではないとして、離婚後も共同親権制度にしたのです。日本で共同親権制度になっていないのは、日本の立法府だけが統計的に科学的に見出された子どもの権利を真正面から取り上げようとしていないからと思われても仕方がない状況なのです。アジアの隣国である韓国も中国もはるか昔に共同親権制度を整備しています。

ちなみに「選択的共同親権」ということもこのような共同親権制度が世界中に広まった今となっては恥ずかしい限りです。子どもが両方の親の愛情を確認できて健全に育つか、一方の親の愛情だけで甘んじなければならないのかを親が勝手に決めて良いという制度ですから、子どもは親の付属物として扱われて仕方が無いという制度です。政治的妥協の産物ででてきた概念ですが、制度趣旨を理解できない恥ずかしい提案になります。子どもの切実な利益を政治的駆け引きで決めてはだめだと私は声を大にして言いたいのです。

3 離婚後の共同親権制度を法律で決める必要性

現状での不合理として、離婚後親権者ではない親は、親権者でない以上に無権利になっています。例えば、子どもの養育状況が心配になったり、登校の様子を知りたくて学校に問い合わせても、「親権者ではないから個人情報の観点から教えられない。」あるいは、「親権者の同意が無いから教えられない。」という回答がなされることが少なくありません。

子どもが児童相談所に一時保護されても、親であるにもかかわらず親権が無いから一時保護の様子を教えられないとの回答がなされました。

経験上言えることは、教育機関、児相、役所と警察などの公的機関では、親権を持たない親は親であっても子どもの情報を教えないという扱いがなされているようです。実際は同居親と子どもの折り合いが悪く、中には同居親がヒステリックに子どもに対して行動を制限している場合でも、もう一人の親は情報を知らされないため子どもに対する有益な対応をとることが妨げられています。

もう一人の親に情報を与えて意見を出せるようにすると、親権者の親権が妨害されるとでもいうようです。ここでも子どもの権利よりも、親の権利が優先しているように思われます。

親権を持たない親が子どもと話すことで子どもが落ち着いていくこともよくあることなのですが、一切のかかわりを禁じているのが現在の児童相談所をはじめとする公的機関です。あたかも、親権を持たないもう一人の親は、子どもと敵対しているかのようです。これはかなり失礼な話だと感じています。

これは親権者が一人に定められなければならないため、現状の親権者の問題点をもう一人の親に知らせると、親権の変更などの手続きをするのではないかという恐れも背景にあるのかもしれません。

しかし、そもそも共同親権制度を作り、もう一人の親も親として子どもにかかわれるということになれば、親権はく奪に相当するような虐待が無いのであれば、多少の失敗があっても親権の移動はありません。だからお互いが、現状のシステムよりより冷静に子どもの成長について話し合う条件が生まれるのだと思います。

いずれにしても、両親が離婚しても親子は親子だということを行政は看過しています。親権という法的地位はともかく、親であることが公権力によって否定されているということは是正されるべきです。共同親権制度は子どものために必要な制度だと思います。

名称こそ共同「親権」ですが、実態は共同「責任」制度です。子どもへの関与が増えることの一番の効果は、両親の子どもへの愛情行使が期待できることです。

現在養育費が支払われないということで、公権力は養育費の強制徴収を検討しているようです。しかし、養育費が支払われない事情は千差万別です。養育費を支払いたくても支払えない事情がある親は少なくありません。それにもかかわらず、ある自治体は支払ない親の氏名を公示するというパワハラのような方法で養育費の強制徴収を検討したようです。これは子どもの利益ではなく、生活保護などの公的援助金の支出を抑制することしか考えていないことを示す事情です。養育費を払わなくても子どもにとっては親です。どこの子どもが自分の親の不十分点を名前をさらされて公にされたいと思うでしょうか。自分の親が養育費を払わない親として自治体から名前を公表されていたたまれない気持ちになることを想像できないのでしょうか。普通に考えれば、子どものための制度設計ではないことがすぐにわかると思います。

親は、子どもにかかわることで本能的に無理をする生き物です。十分な収入は無いけれど、自分にかけるお金を削って子どもにお金を使うということは、同居、別居にかかわりなく同じだと思います。親は子どもとかかわって子どもに親にしてもらうということが私の経験からも正しいと思います。逆に言うと、子どもから引き離された親が、子ども優先にお金だけ支払おうというモチベーションを高く維持できるわけはありません。私が最初に親子問題にかかわったのは養育費の打ち切りの相談でした。支払わなくなったり、予定した期間を支払い終えたけれど養育費が継続されないと困る事案の相談でした。新たに扶養調停を申し立てるしか法的手続きは用意されておらず、しかし時間も待ったなしという事案(大学の授業料の納付期間が迫っている等)がほとんどでした。案外簡単に解決しました。子どもがもう一人の親と交流を開始するという方法でした。同居親としても背に腹は代えられない事情があるので、実行していったところ、私の知る限りの事例で経済的問題が解決したものでした。

もし共同親権制度であれば、もっと親は子どもにかかわることができるの、子どものための行動をすることでしょう。初めから交流を続けて行けば、もっと子供は楽に自分の夢を追うことができるなど、人生の可能性が広がったことでしょう。

まだまだ、法律で共同親権制度にする必要性はあるのですが、長くなりましたので、そろそろ終わります。

いずれにしても、離婚した夫婦が、現状何も働きかけをせずに子育てを協力するということは現実的ではないと思います。しかし、法律で共同親権制度を定めることによって、当初は仕方なく協力関係を形成し、時間が立つことによって、離婚をしても子どものためには協力するものだという意識が形成されてゆき、子どもの利益につながってゆくはずです。

国家が子どもの利益のための制度をだいぶ遅くなりましたが、真面目に作っていくことが求められ、世界からも注目されていると思う次第です。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。