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自死予防、自殺対策を政策として行うべき理由  対人関係学の立場から [自死(自殺)・不明死、葛藤]

 何のために国や自治体、社会が自死予防対策をするのかという、その理由、目的が論じられていないと思います。自死予防対策の広がりが見られない要因があるように思われます。なんとなく、「ヒューマニズム」とか、「人権」だとか、あるいは「正義・公正」、「命や人格の尊厳」などという言葉が思い浮かぶかもしれません。しかし、なんにせよ、これらの議論がなされている場面を見たことはありません。だから、その立場立場に応じて自死対策への温度差が異なってしまうようです。極端な話、自分から命を落とすということに他人が関与することはできないという考えが生まれたり、自己責任とかいう言葉が使われる余地もでてくる理由があるのだと思います。個人個人の価値観にゆだねられて行われている政策が、安定して維持されることはないでしょう。

 自死予防対策の社会的目的、意味について考える必要があると思います。

 このことを考えるヒントとして、もし、国家、自治体、あるいは社会が、自死予防を何も行わない場合はどうなるかということを考えてみます。自死が放置される状態です。積極的に自死をすすめるわけではないにしろ消極的に容認されていくことになります。消極的にでも自死を容認することになってしまうことは、その弊害が大きく、社会全体、国全体に負の効果が起きる、これを防ぐために政策として自死予防対策を行う必要があるのだと思います。では、詳しく説明します。

 あなたが誰かが自死をしたという事実を知ったときに、自分がどのように感じたのかを思い出して下さい。今ではもはや何の感情も起こさない人でも、最初は、大きく分けて二つのうちの一つの反応をしたのではないでしょうか。一つは、生理的な嫌悪感でしょう。これを言葉にすることは難しいのですが、善悪を超えて起きてはならないことが起きたとでもいうような衝撃を伴った感情だと思います。私の記憶で一番古い自死は三島由紀夫の割腹自殺ですが、子ども心にではありますが、まさにこのような感情でした。もう一つの感情として、強い攻撃的あるいは逃避的感情をともなう、無惨感、残酷感があると思います。取り返しのつかないことが起きということでは共通するのですが、冷静に考えてみると、後者はどちらかというと自死者に対する共感が少し入ってしまっているようなそんな感覚です。

 それぞれの感覚がどうして起きるのかについて、対人関係学的に考えてみます。対人関係学は、考察する対象の人間の感情は、人間のつながりの中での反応として生まれるということから考察を始めるという考え方をします。

生理的嫌悪
 これは、自死が起きたこと自体を否定したいという感情です。自死に至った原因、環境的原因、自死者の思考過程、思考能力などの、具体的な経緯を考えません。それらから切り離して、自分で自分の命を絶つ行為があったと飲み把握する場合です。ここでは、「自死」という行為を、あくまでも自死者の自分に向けられた侵襲行為として把握していることになります。自分が自分を攻撃するのですから、自分を守るものが何もなくなってしまいます。無防備な形で命が奪われるということに対する恐怖、絶望を感じてしまうことになります。
 ところで、自分が死ぬわけでもないのに、どうして、他人の死にこのような反応をするのでしょうか。これは、人間特有の反応です。人間は、自分以外のヒトの状況を共感、共鳴をもって感じ取る能力に長けています。これは群れを作らなければ種を保存できなかった弱いヒトという種が種を存続させるための仕組みでした。即ち、他のヒトが失敗して苦しんでいる場合は、その失敗を繰り返さないで回避する。他のヒトが食料を見つけた場合はまねをして自分も利益にあずかる。共感、共鳴はこのような利点があります。危険なのか危険では無いかという大ざっぱな問題であれば、なんとなく共感共鳴ができれば良いのですが、弱いヒトという種はそのような大雑把な共有だけでは生きていくためには不十分です。直ちに危険が発生しなくても、将来的に危険が発生するならばそれをできるだけ早い段階、小さい段階で避けなければなりません。逆に何らかの危険があってもそこから利益を得なければなりません。例えば火を使うということですね。そのためには、多くの情報に接する必要があります。親子間だけの情報共有ではなく、群れの他者との共有が行われることが必要だったわけです。もう一つの理由として、ヒトが弱い動物であるがために、群れの頭数を確保する必要があったわけです。群れの構成員が少なくなれば、途端に弱い群れになって絶滅してしまいます。このためには弱い者ほど守らなければなりません。その方法として、群れの構成員の負の感情を敏感に察して援助をして、特に弱い個体を守り、群れの頭数を減らさない努力をすることが客観的に有利だったといえます。特に苦しんでいる者に対する共鳴力、共感力、援助行動が、ヒトを種として永らえてきた仕組みだと考えます。
 だから、他人の死であっても、共鳴力、共感力が発動してしまい、恐怖感や絶望感を抱いてしまうわけです。しかし、その絶望を感じるきってしまうことは回避したいのです。精神的破綻の共倒れになってしまうからです。ところが自死という自らに対する侵襲を防御する手段がイメージできません。このため、絶望の共鳴を回避するために、自死が起きたという事実自体を否定したいという要求が生じてしまうことになります。
 結果として他者の不幸を自分の将来的な不幸と置き換えてとらえてしまうという、ヒト独特の反応だということになります。自死による他人の死が自分にも起きるのではないかという予期不安を感じ、その恐怖を持て余している状態だということになります。

無惨感
 これに対して、自死に至るには理由があるのだということを理解できるようになると、自死に至るまでに何らかの回避の方法があったのではないかという思考をするようになります。自死と自死に至る過程を結びつけて把握する場合です。自死は最終的には自分の行為だが、それに至る原因の存在を漠然とでもイメージできれば反応が変わります。ひたすら生理的嫌悪を感じるというよりも、予期不安を少しでも解消するために、「自死に至る原因があったはずだ。その原因を取り除けば自死は防ぐことができたはずだ。」ということを無意識に思考しているようです。
 自死者の親戚などが、家族を亡くして悲しんでいる遺族に対して、「どうしてここまで放っておいたんだ。」と罵声を浴びせる理由がここにあります。また、ワイドショーなどで、芸能人の自死の理由を詮索したくなる理由もここにあります。無意識の中でのことですが、自分も同じように死に至るのではないかという可能性を排除したいために、自分は違うと安心したいという要求や自死の回避の方法を知りたいという要求が生まれます。安心したいのです。
 ただ、これらの行動は、自分の本能的に生じる予期不安からの行動であるとはいえ、遺族を苦しめますし、死者を冒涜することにつながりがちです。また、このようなことをしても、何ら合理的な解決を見つけることはありません。せいぜい誰かを攻撃することによって一時的に安心しているにすぎません。自分の感情を抑えた行動が必要となるところです。

 生理的嫌悪にしても無惨感にしても、無自覚な自己防衛的な反応が起きてしまうということになります。

 このような自死に対する人の防衛反応は、出発点として自分の命を守ろうとする本能、生きようとする本能が健全に存在していることを示しています。ここから出発して、ヒトが種を存続させる仕組みであるところの、他者に対する共鳴力、共感力という能力によって、他人の命も大切に思ってしまうという性質が存在していることを物語っています。他人に起きた命の危険がやがて自分にも起こるかもしれないという予期不安を抱かせることによって、他人の命も大事であることと感じさせるわけです。こうして、結果的に、他人の命も尊重されなければならない、およそ人間の命を大切にしようとか、命はそれ自体に価値があるという考えが共有されていくことになります。
 人間の場合、他者の苦しみに苦しむこと、他人を苦しませることに抵抗感を抱くことが人間の生きる仕組みであるということになります。

 このような、自己防衛、予期不安を衝撃をもって感じさせる自死が繰り返して起きてしまうことによる効果はどんなことでしょう。他人の絶望の淵を除くことによる衝撃が繰り返されることは、精神的ダメージが蓄積されて、心の平衡を保つための処理能力を超えてしまいます。生きる意欲を失ってしまうこともあります。ところで、このダメージの繰り返しが、精神的なものではなく肉体的なものであればどうでしょう。例えば筋肉は繰り返される負荷に対応して発達することができます。ところが、神経や感情は発達する仕組みはありません。但し、徐々に耐えることができるようになっていきます。この現象は馴化(じゅんか)と呼ばれます。心を鍛えているのではなく、反応を鈍くしていくだけの話なのです。他人の自死によって受ける衝撃を避けるために、衝撃を感じにくくするわけです。そのメカニズムは、他人の命が失われたからといって、自分には何も悪いことは起きないということを学習していくことになります。そして、それを学習することによって、他人の自死が起きても自分の死の予期不安を感じにくくするわけです。
 他人の自死によって予期不安を生じさせることをしないことは一見合理的にも思われます。しかし残念なことに、他人の命は軽く見るけれど自分の命を重く見続けるという器用なことは、実際はできることではありません。他人の命が失われることを見て、自分の命や群れの仲間の命を守る行動を起こさせるというヒトの仕組みが機能しなくなるということなのです。だから結局は、自分の命を守る仕組みも弱くなるのです。総じて、ヒトの命を大切にできなくなり、命のあるかけがえのない存在だという意識を持てなくなってしまうことになります。
 その結果は、自分や他人、社会に対する態度に変化を生じさせます。

 自分に向けては、人間一般の死への不安や絶望が薄れていくことによって、自死の条件である死ぬことへの恐怖を低下させ、自死を可能とする能力が向上していってしまいます。(自傷行為等によるものとして“Acquired ability to overcome one’s natural fear of death”  By Thomas Joiner)
 また各種の社会病理があります。ギャンブル依存症、アルコールをはじめとする薬物依存症、無謀な買い物などがあります。その結果の失職や離婚、退学等の特定の群れからの追放があるでしょう。健康を顧みない過重労働等もそのバリエーションかもしれません。
 他者へ向けては、他人の苦しみを気にしない行動です。パワーハラスメントや家庭内のモラルハラスメント等も、他人が苦しんでいることをそれほど気にしない状態で起こしてしまう行動です。相手が苦しんでいることが、自分の行動を修正する、あるいはやめる動機にならないのです。他人の苦しみに共鳴することができない状態とも言えるでしょう。
 他者への攻撃は、実は、他者の中で存在する自分の立場を危うくすることでもあります。やはり、自分の立場を大事にしようという志向が弱くなります。他者の中の自分という関係も同時に感じにくくなってしまうのでしょう。その典型が犯罪です。弁護士として多くの犯罪を実行した方と話しているのですが、多くの犯罪者は本人が大事にされない経験をもっています。他人ばかりでなく自分を守ることも放棄して、表面的な利益を得ることを目的として犯罪が行われると感じるケースがほとんどです。

 身体的な病気と比較しましょう。身体的な病気によって苦しんでいる人を放置することについては、まだ抵抗がある人が多いと思います。ところが、自死という精神的な苦しみについては、身体的な病気の人にするように当事者以外の人が手を尽くすというようにはいかないようです。ところが、自死が起きるたびに、身体的な疾患で苦しんでいる人が放置されて死に至ったような、罪悪感だったり、生理的嫌悪だったり、無惨感が起きてしまいます。これを感じ続けることをヒトは負担し続けることができないために、感じることを放棄するようになり、その結果自分や他人、社会に向けて、人間の価値を承認しない行動ができるようになってしまうわけです。

 自死予防対策を行わず、自死を放置し続けることは、社会の構成員たるヒトの感受性を下げ、第2の自死や犯罪、人が人を苦しめることの温床となってゆくのです。このために、損害を被る社会が、社会とその構成員を守るために、自死予防対策をする必要があります。自死予防対策の目的がここにあるわけです。
 その方法としては、他者の精神的な健康に気遣い、気遣いあい、人間として尊重し、緩やかでもつながりを維持し続け、誰も孤立させないという政策を具体化することです。漠とした話でしょうか。壮大な話に過ぎるでしょうか。あまりにも、理想的すぎて、およそ実現は困難と思われるでしょうか。私はそうは思いません。このような社会は、つい最近まで日本に存在していたからです。
 一つその裏付けを紹介します。明治時代初期大森貝塚を発見したモースは、記録をつけており、「日本その日その日」(講談社学術文庫)の中で当時の日本人の生活の様子なども書き留めています。その中でモースは、日本は子どもの天国であると書いています。子どもが母親だけでなく父親からも愛情を受けて可愛がられて育っている。子どもたちは一日中ニコニコしていて、幸せに生きていることが良くわかると記載しています。この時期までに著明に見られた日本社会の良き特性は、弱くなっているかもしれませんが、今なお受け継がれていると思います。一番弱い子どもを大切にする日本人の様子については、モースだけでなく当時の日本を訪れた外国人たちが驚嘆しています。子どもを大事にする社会、子どもが幸せそうにしている社会は、子どもに見せたくない、他人を陥れたり、攻撃したり、他人の苦しみを放置したりすることをしない社会だったと思われます。自死を予防する社会は、どこにも存在しないユートピアを実現するのではなく、他ならぬ日本にかつて存在した社会を再現するだけのことだと思います。
 社会的な自死予防対策は、今生きているこの社会をどのようにデザインするかという問題なのです。そして、それは、自然環境や経済状況のどんな逆境の中でも、私たちが豊かに、力強く生きていくための絶対的な手段になることと思います。


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