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自死をした人に対する差別偏見、あるい誤解、(自死する人は特別な人だ)を無くすことが、自死予防の最大の対策ではないかと思う。みんな、幸せがあり苦しみがあり、当たり前の人生を送っている側面をもっているということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死者に対する誤解はいろいろあります。これまで私が主張していた誤解は、「自死者は精神的に弱いから、逃げるために自死したのだ。」という誤りです。
むしろ精神的に強すぎて、責任感が強すぎ、頑張りすぎるから、逃げ場のないところまで追い込まれたということを繰り返し述べてきました。

それは、私が、何十人という自死事件を、後追い的に調査、分析を行う仕事をして実感した事柄です。ですから、過労死の啓発活動をするときに、過労死しやすい人ということで、責任感が強すぎたり、頑張りすぎることは、仕事にとっては尊いことかもしれないけれど、家族との関係では別の観点も必要かもしれないと問いかけをしているわけです。遺族への慰めの理屈ではなく、実務的に自死を予防するための理論なのです。

最近、自死に対するまた違う誤解があることに気が付きました。

自死者の人生は、全く見るところもなく、苦しみだけのみじめなものだという誤解です。自分では、そういう誤解があることにすら気が付きませんでした。自分の周囲の自死者をみても、後追い的に自死の調査をしても、決してそんなことはないため、誤解をしている人がいるということに気が付かなかったわけです。

確かに、自死リスクが高まる要因があって、人間関係で追い込まれたり、精神疾患などで苦しまれていたり、そのことを知ること自体が第三者でも辛くて仕方がない時期が亡くなった方にあったことは間違いありません。

しかし、もちろん、そうではない時期があるのです。

自死者の多くは、家族を愛し、家族から愛されて生活をしています。友達がいて、何かと力になろうとしている人がいて、心配してくれる人がいて、多くの人間関係が円満に形成されていることが多いです。生きてきた喜びが感じられるエピソードや、充実した時間を送っていることがわかる様子を知ることができます。また、些細なことに悩んだり、克服したりと生き生きとした時間を生きています。

おそらくこれを読んでいる方は、「それはそうだろう。そんなことは当たり前だろう。」と思ってくださっていると思います。言葉にすれば、誰しもわかることです。

しかし、おそらく無意識の誤解、誤解をしていることに気が付かない誤解があるようです。それは、自死をするくらいの人だから、すべてにおいて逃げ道がない状態だったのだろうと考える人たちが実際は多いようです。
例えば、「会社でパワハラがあったということは聞いているけれど、家庭で十分フォローすればこういうことにならなかったはずだ。同僚や友達も庇ってくれなかったから逃げ道がなくなったのだ。誰も会社を辞めればよいと言ってくれなかったのではないか。」
というような思考方法です。

これらは、私の担当した事案に照らすと事実に反する推測ということになります。会社や学校での攻撃も、絶対的孤立が生まれるほど激しい事案も確かにありますが、多くは特定の人間関係に不具合が生じている事案でした。圧倒的多数は、家庭は円満で、家族仲の良い事案です。家族から追い込まれるという事案もありますが、やはり少数です。
以前も言いましたが、家族仲の良いことは、自死予防に必ずつながるというわけではありません。家族仲が良く、家族に心配をかけたくないからこそ、辛い気持ちを家族に隠すし、家族の前では無駄に明るくふるまって、ますますエネルギーを消耗するということが圧倒的多数でした。仲の良い家族は、最終的には危険因子にもなるということが真実です。このことは見過ごされています。

このため、自死者の身内ですら、自死者の家族に対しての不信感を抱くことがあります。実際私が担当した事件でも、自死者の親が、自死者の配偶者に対して、配偶者が自死の原因だという怒りを持ち続けて裁判になったケースもありました。裁判でも、弁護士が付いていながら、よく根拠もなく、こうも人を、子どもが愛した人を攻撃できるものかなあと不思議でした。自死者の親が、自分の子どもに対してというか、子どもの環境に対して誤解ないし偏見があったと考えると理解ができることかもしれません。

自死の調査をしていると、自死リスクが高まり、苦しんでいるときでさえ、ほっとするようなエピソードがあります。
壮絶な苦しみの中、自死するまで追い込まれて命が絶たれてしまったことは間違いないのでしょうけれども、当たり前に、普通に生きていたという側面も確かにあるし、幸せだった時間も確かにあります。

自死に対する偏見、誤解は、自死者が、なにかとてつもない四面楚歌のような絶対的孤立状態にあり、ただ一人で話す相手もなく生きてきたような、とても関わりたくないような状態だったとというものです。これでは、自死者がアンタッチャブルの忌み嫌うべき存在のように扱われてしまう要因になっているように感じてしまいます。
自死者も、他の人間も同じように当たり前の人生も送っており、自死をしない人と地続きでつながっている普通の人間だということが私の結論です。「当たり前のことを言うな」とおしかりになられるかもしれませんが、こういうことは何度でも言葉にして言うべきだと思っています。自死者という特別のカテゴリーの人間がいるわけではない。自死遺族という特別のカテゴリーがあるわけではない。類型的な自死の原因とか遺族の考え方の傾向があるわけではないと思います。私たちすべてに自死のリスクがあり、いつ高まるかわからないということが真実であり、私たちすべてに自死予防の知識が必要だと思っています。自死する人や、自死者の家族が、何か特別の人たちという意識で観られること、主張されることは、私たちやその大切な人たちの自死予防を妨げることだと私は強く心配しています。



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