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「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」 夫との楽しかった記憶が恐怖と嫌悪に変貌する仕組み = 配偶者暴力相談の増加と面会交流調停申し立て件数の増加が連動する理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]

離婚事例を担当していると、特に夫側の代理人として担当すると
妻から離婚調停を申し立てられた場合、
離婚意思が固く、夫に対する嫌悪や恐怖ははっきりと伝わるのですが、
その理由が曖昧でよくわからないということが多くあります。
(最近の記事ではその分析をしています。)

今回の記事は、ただ理由が曖昧なだけでなく
客観的にその存在の裏付けが取れる同居期間中の楽しかった思い出や安心感が
記憶から抜け落ちているとしか思われないケースも多くみられるのです。
この記憶の喪失や変容について考えてみました。

妻の離婚調停や訴訟における主張には
楽しかった時の出来事が無かったことにされて
辛く苦しいことしかなかったという主張がなされているのです。

こうお話しすると、「離婚調停や訴訟を有利にするために嘘をついているだけなんじゃないの」と思われるかもしれませんが、わざわざ嘘をついてもあまり有利にならないような場面で出てくるとか、客観的に裏付けのある事実を否定してしまっているとか、その他の事情からわかるのですが、

どうやら本当に楽しかった記憶が失われているようなのです。

例えば、妻は、離婚調停や裁判で、「家族で遠出なんてしたことはなかった」と主張します。これが離婚理由の一つだというのです。
これに対して夫は、家族で遠出をして妻と子が花火を楽しんでいる写真を提出して、みんなにこにこと楽しんでいたよねと言うのです。写真が出されておそらく調停委員等から、「ここに写っている人はあなたではないのですか?」とか尋ねられて言葉に詰まるのでしょう、それでも妻は、「この時は、子どもと私だけで楽しんでいたのであり、夫は一人だけどこかに行ってしまって、子どもたちは寂しい思いをした。」とかいうのです。
なるほど、その写真に夫は写っていません。だって夫が写したのですから写らないのは当たり前です。夫が撮影したからこそ夫のスマホに写真は入っているのです。また、夫が一瞬いなくなったのは事実ですが、それは花火が始まる前のことで、数時間も一人で自動車を運転して疲れ果てて車の中で仮眠をとっていたからです。その後自力で起きて会場に駆けつけました。だから夫のスマホで家族の記念撮影ができたのです。みんな安心しきった笑顔で写真に納まっていました。

このような記憶の改変はほとんどの子どもを連れて別居して離婚調停申し立てという事例に見られます。もう少しだけ例を示しましょう。

・ 職場の人間関係で悩んでいて、夫に相談をしていたのに、相談した記憶が無くなっている。「一生懸命話したのに夫は聞いてもくれなかった」と変わっているのです。夫はもちろん親身になって聞いていましたので、その時妻がどんなことを悩んでいたか言うことができました。
・ 一方的に夫婦けんかを仕掛けてきたかと思うと、夫が突然のことで呆然としていると「どうせあなたは私が情緒不安定だと思っているんでしょう。」とか言っていながら、裁判では夫からあの時に「情緒不安定だとののしられた」というのです。これは偶然録音されていました。「言われるかもしれない」という不安が、「言われた」という記憶に変わっているのです。
・ 大きな声を出していないのに、耳元で叫ばれたなんてことを言ったりします。

・ 職場から帰宅したら、突然夫から詰め寄られて鬼の形相で大声でののしられたなんてことを妻が主張するのですが、どうやら本当に、午前2時の帰宅で遅くなるとも連絡を入れず、小さな子どもたちの夕飯も用意していなかったことを忘れているようなのです。

そうしていつの間にか、夫は、自分に対していつも怒鳴りちらしていて、気に入らないとものに当たり散らして自分を怖がらせて、何かにつけてダメ出しをして自分を否定しようとしている。夫が視界に入るだけでこれから自分が攻撃されるのだと身構えてしまう。とても安心できない。そうやって私は恐怖によって支配されていて、心休まる暇もなかった。夫との生活では人間の尊厳などとなかったなどというのです。

また、生活費をこれくらいしか渡さないことは経済的DVだとかいうのです。
生活費の問題の多くは、低賃金にあります。「それしか渡されないのですか。」と相談を受けた正規職員の公務員などはいうのですが、家計の実態を見ると「それは仕方がありませんね。」というくらい目一杯渡していることが少なくありません。また、電気、ガス、水道代やもろもろのものは銀行引き落としになっているし、食費は夫が払っているという事情があるときもありました。妻に渡したお金さえもなるべく使わせないように実家から支援を受けたりしているほどでした。渡されるお金に文句を言う妻は、この現代日本で、自分で働きに出ようとしないケースが多いのです。そのくせ、夫がもっと賃金の高いところに転職をしたら、自分の許可なく転職したなんてことが離婚理由として主張されるのです。家族が生活できる賃金が支払われないことが、夫の収入も確認しない相談員の手にかかると経済的DVだということになってしまうことが多くありました。

ずいぶんわき道にそれてしまいましたが、今回のテーマは、どうして<記憶が改変するのか>、それは可能なのかということです。

記憶の改変で思い出されるのは、Wikipediaでは「虚偽記憶」として概説が乗っているアメリカの10年余り続いた嵐のような出来事です。

不安を理由にカウンセリングを受けに来た女性たちに対して、一部のカウンセラーが
「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは幼少期に性的虐待を受けていたのではありませんか。」
と話し、催眠療法を行って、父親や兄などの性的虐待の「記憶」を「よみがえらせ」、父や兄の性的虐待を母親などの家族が追認していたなどという主張を行い、幼児のころの出来事の記憶に基づいて、多数の民事裁判、刑事裁判が行われました。多くの裁判所で遠い過去の出来事の記憶が真実であると認定し、多くの人たちが、莫大な損害賠償を命じられたり、刑事裁判で有罪とされて刑務所に収監されたりしました。裁判所においてこういう嵐が10年余り続きました。自分の娘と争うことができなかったり、そんな荒唐無稽なことを裁判所が信じるわけがないと高をくくって、真剣に争わないことも原因の一つのようです。

これは遠い昔の出来事ではなく、つい最近である1980年代から1995年にかけての出来事なのです。自称被害者は、20年前の幼児のころの記憶を細部にわたり生き生きと語り、迫真性の持った出来事の再現をします。このような発言は、「それを体験した者でなければ言えない発言であるから真実である」という認定手法によって、多くの裁判所によって記憶が真実だとされてしまいました。

この大きな流れを止めた一人が認知心理学者エリザベス・ロフタスです。人間の記憶というものは不確かであるということを解明して、「20年前の幼児のころの記憶がビデオテープのように正確に再現されるということはありえない」ということが裁判所でも理解されるようになったのです。そんな過去の記憶が鮮明で、詳細で、迫真性があることこそがむしろ疑わしいということを示す事情になることをようやく裁判所が認めたということになります。1995年ころになってからのことです。

また、この記憶が「よみがえるとき」に行われていた「催眠療法」の中でも「回復記憶セラピー」という療法については問題が大きいということで行われなくなったこともあり(予後が悪く、多くの相談者が精神科病棟からであれれなくなるほど精神状態が悪化した)、21世紀には、アメリカではこのような「よみがえる記憶」の論争自体も下火になったようです。エリザベス・ロフタスの「抑圧された記憶の神話」(誠信書房)もおすすめです。翻訳が秀逸で、途中で読むことをやめられなくなります。

なぜこのような虚偽記憶のはなしをしたかというと、実は、このころのアメリカのカウンセラーの言いぶりと、現代日本の、「DV相談」の相談員の言いぶりというかマニュアルが、とても酷似していることを説明するためです。決してこれは偶然ではないと思っています。

現代日本では、生きづらさを抱えた女性が相談に行くと
「あなたが悪いわけではありません。あなたは悪くありません」とはじまり、
「あなたのお話を聞くと、あなたにはありあらゆる兆候が確認できます。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」
と尋ねられるのです。
そして、夫との生活の不満を語るように促されて、どこの家庭にもある程度はある事例を挙げて「例えばこういうことはありませんか。例えばこういうことは・・・」と尋ねられていくうちに、
どんどん「夫のそういう態度は許されない態度なのだ。」
そのような扱いを受けていた「自分は夫から精神的虐待を受けていたのだ。」
と思い込むようになっていくようです。

妻が本当はDVだと思っていない夫の行動を相談員に言い出すのも理由があります。
相談員は妻が何かそれらしいことをいうまで、
あきらめずに尋ね続けるからです。

この相談を受けた結果、
「もう我慢をしなくてよいのだ。」
「自分が楽しく生きていないと子どもも健全に成長しない。」
「このまま夫と一緒に生活していくと自分は殺される。殺されないまでも精神的にダメになっていく。人間として生まれてきた甲斐がない。」
と思い込んでゆき、
「別居をすれば、夫と同居しなくても婚姻費用を裁判所が命じてくれる。離婚をすれば、慰謝料や財産分与で今お金がもらえる。保護命令が出されると離婚に有利になる。自治体からも援助金が出るから生活は何とかなる。」というような空手形を信じてしまうようです。
子どもを連れて夫から身を隠して、
保護命令を申し立てたり、離婚調停を申し立てたりするようになり、
ついには離婚ということになるという一連の流れがあります。

どうやってこのような強引な「相談活動」の内容を私が知ったのかというと、私のルートは概ね、相談を受けた「被害者」とされた女性からの情報なのです。

一つのルートは国の関連の電話相談でした。どこにも相談するところがなくった人たちのための国の関与する電話相談です。
「いろいろと離婚後のバラ色の生活を言われて言われた通り離婚しました。しかし、離婚するのも時間がかかりましたし、言われたようにお金がもらえるということもありませんでした。生活は離婚する前より苦しくなりました。離婚のアドバイスを受けた機関に『話が違う』ということで電話したのですが、『離婚はあなたが決めたことですよ。』と言われて相手にされなかった。」という相談が少なからず数寄せられているのです。「離婚はあなたが決めたことです。」という回答もマニュアルに用意されていて、マニュアル作成者はこういう事態が起きることは初めから想定しているようです。
私も直接相談を受けましたし、同じ機関の相談員たちも何回か同じような相談を受けているということを教えてくれました。

もう一つのルートは、調停や裁判手続きで妻が主張し、証拠提出をするので、これも確かなことです。
離婚を申し立てた妻から、「自分が望んで別居したわけではない。警察から強引に別居しろと言われたからだ。自分は別居に抵抗を示した」ことの証拠として、自分が情報開示請求をした行政の報告書(警察署でのやり取りの報告書)が提出されることがあります(それでも離婚請求を維持するのですから、わけがわかりません。)。それを読むと、確かに、妻は「クリスマスを家族全員で過ごしたい」、「正月を夫と迎えたい」などと言っているのですが、警察官は「2時間以上にわたり、『命の危険があるから逃げろ。DVは一生治らない』と説得し、妻にようやく逃げることに同意してもらった」と誇らしく記載していました。もちろん、この家庭では、妻以外の暴力がない事例でした。これはのちの裁判でも認定されています。当然慰謝料は認められず、別居の際に夫名義のクレジットカードで高額の借金をしていたことと、給料とボーナスを引き下ろして持って行ったため婚姻費用も支払い済みとしてほとんど認められませんでした。

このように1980年代にアメリカで起きていたことが現代の日本で起きているのです。しかもアメリカでは多くは民間のカウンセラーだったようですが、日本では、警察、自治体、NPO法人という公的団体で行われています。自治体職員の話として相談マニュアルは内閣府で作られているという情報もあります。

それにしても、アメリカの事例と違うのは、
・ 相談員たちは、催眠療法、記憶回復療法を行っているわけではないということ
・ 遠い過去の記憶ではなくて、現在進行形の夫婦の関係についての評価がくっきりと否定評価になること
・ それでも命の危険も含めて夫に対する切迫した危機意識までもつようになること
というところにあります。
妻が、これまでも何年も一緒に住んでいた夫に対して、第三者が口を出したということだけで、どうして離婚を決意するほど、嫌悪感や恐怖感を抱くようになったりするのか。ここが問題です。これが説明されなければ、「なるほどそんなことありえない。やはり、精神的DVは実際に存在したと考えるしかない。」ということが普通の考え方だと思います。

記憶が失われたり変容したりする理由を二つ考えてみました。

1 楽しかった記憶、安心の記憶が失われる事情が先行している
  
 まず、女性のいくつかの事情で夫に対する安心の記憶が失われるということが起きるようなのです。
 1番は、出産です。数年前にバルセロナ自治大学と福井大学の研究チームがそれぞれ異なる手法を使って発見し、相前後して発表した理論によると、「赤ん坊を産んだことによって女性の脳の活動が変化をする。その結果、赤ん坊の状態に対する共鳴力・共感力が強くなるのに対して、大人に対しての共鳴力・共感力は弱くなる。(失われる)」ということになるようです。

どうやらこの時、夫との楽しかった思い出、守られているという安心感が、弱くなったり消えてしまったりするということのようなのです。福井大学の研究者は、「これが産後うつの仕組みではないか」と語っていました。もちろん個性による違いはあるのですが、多かれ少なかれ2年間は出産によってこういう傾向になるということが報告されています。

確かに人間の赤ん坊ほど無防備な生物はいないかもしれません。そのくせ人間は魚や昆虫のように大量に子どもを作るということはしません。一人一人の赤ん坊を大事にするように遺伝子に組み込まれていなければ、人間は簡単に絶滅したでしょう。この母親の脳の活動の変化は進化によって勝ち取られたわけです。もっとも他の哺乳類例えばクマなどと異なり、人間は出産後も男性と同居を続けているわけですから、出産後の共同養育をさらに進化の過程で獲得したということになるのでしょう。クマと違って母親だけで子育てをする仕組みには人間はなっていないようです。

そうすると、出産直後は、脳の活動の変化によって、夫に対する感覚が極端に変わるわけです。子どもが乳児のうちは、妻は夫に対してはあまり本能的には期待していない、夫によって楽しくなりたいとはあまり思わない。夫が何かしてくれても、本能的にはうれしくもないわけです。理性によって、夫に協力させた方が自分も赤ん坊も有利だと考えるだけかもしれません。夫の気持ちより赤ん坊がくしゃみしたことの方が大問題ですし、赤ん坊が自分を見て笑ってくれると本能的に充実した喜びを感じるわけです。哺乳類である以上母親がそのような脳の構造になることは仕方がないことだと割り切るしかないようです。

このように、夫に興味関心がありませんから、夫が自分に何かをしてくれことや、夫といることで安心感を抱くということは自然には起きません。そうすると、過去の事実は「事実としては記憶していて」も、楽しかったとか、安らかな気持ちになったとかいう感覚がよみがえりにくくなります。

現在夫に対して肯定的感情をもてないということは
肯定的な事実があったことを思い出す材料がなくなっているから思い出せない
ということなのだろうと思います。

この点、少し詳しく説明をこころみましたが、本論の横道になるだけで、科学的基礎があると自信を持つ理由もほとんどないので、記載部分を後ろに回します。ほとんど妄想の世界なので、興味と時間がある方だけお読みください。

楽しい夫、安心できる夫という追体験をする材料がなくなる事情として
第2は、うつ病、パニック障害などの精神障害、うつ状態という症状を合併するような内科、婦人科疾患、頭部外傷、薬の副作用などがあると思います。

記憶が失われる原理は、結果的には産後うつと一緒でよいと思います。現在夫といることで安心できるという感覚がなくなってしまっているので、過去の楽しさを追体験できる材料がなくなっているということです。
違うのは、一緒に住んでいる夫に安心できなくなる事情が、出産に伴う脳の変化ではないということでしょう。場合によっては、夫だけでなく、人間全般に対して安心感が持てなくなるという場合もあるようです。

第3は、夫以外の対人関係による心理的圧迫です。家族以外の第三者の場合と妻自身に原因がある場合があります。
第三者との関係では、職場でいじめを受けているとか、子どもの親同士の人間関係がうまくいかないとかということが多くありました。どうやら、他人との継続的関係がうまく作れないことには妻本人の事情も少なからずあるようです。第2の事情とも関係がありそうです。
妻本人の問題とは、家族に内緒で借金をしたとか、家のお金を使い込んだとか、自分が不貞をしたとかという実際の事例がすぐに思い出されます。実家に問題が生じていたということもいくつかありました。特に自分の行動に起因する場合は、夫から馬鹿にされるのではないか、愛想をつかされるのではないかという危機感を抱くようになります。やったことはともかくとして、まじめで責任感が強いのです。しかし、自分の危機感を何とかしたいという気持ちが強くありながら現実ではどうしようもないものですから、この不自由な思いをしている原因は夫に寛容性がないからだ、夫がいるからだという意識に徐々に変容していくというケースがよく見られます。まあ、最近の私の分析では、自分の不安を夫に解決してほしいという妻の夫に対する期待の強さの表れだとは思いますが、夫にとっては何の救いにもならないようです。

第4は、夫の妻に対する「否定行動」と「肯定行動がない事実」の継続的な状態を上げておきます。
通常の記憶の変容と喪失は、第1、第2、第3と第4の組み合わせで起きるようです。妻は現在の夫に対して安心感を獲得できない状態となってしまうことから、楽しかった出来事を思い出せないという流れになるようです。
第1、第2、第3の事情が無くても、第4の事情だけで独立して起きる事情として典型的な事例は夫の虐待、暴力の継続です。こういう場合では、そもそも楽しかった事情が存在しない場合もあるので初めから安心できる材料がないということもあるでしょう。途中から虐待などが始まるケースでは、不貞行為や使い込みなど妻の行為に不信感を持つような事情があり、それに対する対抗行為を夫が継続した場合も想定できるところです。あるいは、仕事上の人間関係が家庭に影響及ぼしていることもありうることです。
この第4の事情については前々回の記事で詳しく述べました。

2 解消できない不安解消要求の高まり

妻の記憶が変容したり喪失したりする第2の理由は、「不安解消要求」にあると思います。

すぐ上の第3の事情の妻自身に原因がある場合のところでも少しふれました。1の記憶の喪失過程と同じことを別の角度で説明するという意味合いにもなるかもしれません。

人間は、その発生原因にかかわらず、
「不安を抱くと、早くその不安を解消したい」
という根源的要求を持つようです。

これは人間に限らず動物一般に言えることだと思いますが、説明の便宜のために人間を主語として話を進めます。

(この不安解消要求のメカニズムも、書いちゃったのですが、話が長くなりますから、これも後に回します。)

特に第1、第2の事情という生理的変化や病的な事情から不安を感じている場合は、それを解消する方法がなかなか見つかりません。職場のパワハラや対人関係の不具合の中にも、自分の力では危険を回避する方法がなかなか見つからない場合もありますね。

たとえば、蚊に刺されるかもしれないというような危険の場合は、危険と言っても大したことがなく、蚊をたたいて血を吸われることを防ぐこともできますし、吸われたところで大したことがないので、不安解消要求はなかなか大きくなることはありません。すぐに解消されてしまいます。

ところが、原因がない病的な不安や、立場的に解消できないような対人関係上の不安があると、不安は解消しません。不安が解消しないと、ますます不安解消要求は強くなります。先ほどの蚊の例が日本であれば、大した問題にはならないでしょう。ところが、外国で、危険な病気を感染させる蚊がいる場合は、見つけ出して殺してしまおう、あるいは蚊のいないところに避難しようとする気持ちがどんどん強くなることはイメージできると思います。

蚊の問題であれば、「逃げるか戦うか」するしかないので、比較的短期間で解決するか刺されてしまうか結論が出てしまいます。
しかし病的な不安や、会社や学校あるいは家族という継続的な人間関係における不安は、危険が避けられるか現実化するか結果が出るまでに、相当長い期間継続してしまいます。いっそのこと、退職したり転校したり離婚できて危険が現実になるなら不安がなくなります。精神的ダメージは残るかもしれません。しかし、それまでの「いつ危険が現実になるか」とイライラしが持続することで、不安も高まっていくわけです。不安が高まればそれを失くしたい不安解消要求もさらに高まるわけで、悪循環が起きてしまいます。

不安解消要求の持続が危機意識を肥大化させ、不安解消要求も肥大化させる
ということが大事なポイントです。

不安が継続し、不安解消要求が持続化し、不安と不安解消要求が肥大化すると、
「どんな方法でも良いから、とにかくこの不安を早く解消したい」
というように意識が変容していきます。

他人からみれば人間が刹那的な行動に出るのはそういう場合です。つまり、不安や不安解消要求が肥大化すると、物事を冷静に考えることができなくなります。足して二で割る折衷的なものの考え方や良いところもあれば悪いところもあるというリアルなものの見方は複雑すぎてできなくなり、「善か悪か」とか、「とどまるか逃げるか」とか、「敵か味方か」というように「二者択一的なものの見方、考え方」になってしまいます。太古の時代に人間が出会う危険なんて、例えば野獣に襲われそうになるという身体生命の危険だけですから、二者択一的にひたすら逃げるという体制になることがとても有利だったのでそうなっているのでしょう。現代社会は、危険から逃げられないことと危険発生の予感だけでなかなか危険が現実化しないことが多すぎるという人間の心にとって過酷な時代なのかもしれません。

また、確実に逃げ切るために、「悲観的なもの見方」になります。自分は被害を受けるだろう、もっと確実に逃げないといけないという発想ですから、やはり太古の危険回避には都合の良い発想だということになります。脳の発達段階と環境のミスマッチが起きているわけです。

そうすると、不安を抱えた妻は、悲観的なものの見方しかできなくなりますから、自分は夫から被害を受けるかもしれないという非現実的な見通しも受け入れやすくなっているわけです。夫から殺されるという警察官の説得も「そうかもしれない」と思いやすいわけです。その前提として、夫は敵なのか味方なのかという二者択一的判断をしやすい状態になっているということがあります。ここで、偶然にも夫は敵だという判断をしてしまえば、夫とのかかわりがすべて否定的な思い出ということになります。例えて言うと、結婚詐欺師に騙されて、楽しい思いをして幸せに思っていたのに、実は騙されていたということに気が付いたとたん、楽しい思い出は自分がまんまと騙されていたという思い出に塗り替えられるようなものかもしれません。楽しかったはずの出来事が、すべて別の意味になるわけです。

また、記憶力も減退していくのでしょう。楽しかったことをそもそも思い出せないのです。これも逃げなくてはならないという不安の継続と不安解消要求の持続によって引き起こされた脳の変化の側面があります。

論理的につじつまが合わなくてもあまり気にならなくなります。二者択一的に、「一緒にいることが嫌だ」ということから先に進むこともありません。それでも気になりません。もちろん自分の感情に基づいて行動しているだけですから、子どものこと、特に考えなければ思いつかない子どもの将来のことなんて考えることはできません。今、食べさせることで精いっぱいということは当然なのでしょう。

つまり不安解消要求が肥大化してしまったら、
考えるということができなくなるし、考えるという面倒な作業はしたくなくなるのです。
二者択一的思考で悪に塗り固められた夫を見直すという発想はどこにもありません。

<離婚のセールスマンたちに言いたいこと>

こうして、妻の不安は最大限に高まり、不安解消の方法として不退転の決意で離婚に固執するわけです。夫婦は離婚となり、子どもは一方の親との同居となります。子どもと離れた親は一緒に住んでいる親の解消されない不安と悲観的な意識から子どもと会うことができなくなり、少なくない事例で精神的な要治療状態となったり、自死に至っています。

子どもたちも、一人の親と会えず、親からの愛情を受けられず、自分は実の親からも見放されるような価値のない存在だという無意識の自損行動を起こしてしまい、自己評価が低下してしまうようです。その上同居の親や家族から別居親の悪口を聞かせられることで、その否定的な影響が大きくなってしまいます。また、自分が安心して生活できる居場所がないという感覚に陥るようです。

では肝心の妻はどうでしょうか。妻は子どもを連れて離婚できて万々歳なのでしょうか。それも違うようです。冒頭申し上げたように、新たな生活苦という不安が継続していく場合が少なくありません。また、不安が固定化されていますので、今は目の前に夫がいないけれど、近い将来に夫が自分に近づいてくるかもしれないという恐怖もまた継続してしまうのです。相当長期間を経ても病的な不安は解消されないようです。

多くの事例で、関係者全員の不幸が作られているということを、多くの離婚調停や離婚訴訟の「その後」を見ていると感じざるを得ません。この世に生まれてきた意味を見出せなくなっている人たちがたくさん生まれています。その多くが人災だと感じています。

支援者は、マニュアルとその場の感情に従って、何も確たる事情も知らないくせに「あなたは悪くない。」というわけです。不安解消要求が病的に高まっていれば、そういわれた方は「自分は悪くない。では悪いのは誰だ。」と探し出すのは当然のことです。
そこですかさず、
「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」と言われれば
自分の不安の原因は夫なのだと信じて疑わないようになるわけです。
夫と別れることができれば何でもするというように追い詰められてしまうわけです。
妻の状態によっては、誘導なんて実に簡単なようです。

そして、どの家庭でもあるような事情や、その家庭では仕方がない事情を妻が告白して、これに対する不満は「自分が悪いのでしょうか?」なんて上目遣いに言ったとき、「あなたは悪くありません。夫の精神的虐待です。」と言われれば、とにかくこの肥大化した不安解消要求を満たしたい妻にとっては、たまらず飛びつかざるを得なくなります。不安が解消されればなんでもよいと思う状態になっているからです。

夫との楽しかった出来事、安心できた心持なんてものは、思い出せないし、思い出そうともしないわけです。事実としては記憶していても、楽しかった、安心できたという肯定的感情はよみがえりません。

支援員たちのマニュアルには、相談者が曖昧なことを言ったり、つじつまが合わないことを言っても、指摘しないよう厳命しています。相談者を疑うことは「寄り添っていない」ことだということが行政的立場らしいです。これはとても気持ちが良いことでしょう。相談者にとっては、自分が100パーセント善だとされて、夫こそが100パーセント悪で、その論理的な説明はどうでもよい、自分が自覚している弱点は不問に付されるわけです。文字通りストレスフリーになることは当たり前です。この人たちと一緒にいることで、自分は解放される、不安は解消されるとそれは思うでしょう。体をくすぐったらくすぐったくなるような理の必然です。昭和の芸人は芸ではなく客をくすぐる芸は最低の芸風だと戒めたようです。

私は、安易に相談者の発言を肯定しません。そこに不安の原因がないことが確信できたからです。真の原因を言い当てて、プラスもマイナスもありのままに受け止めて、それでも楽しく生きていく方法があるのではないかと一緒に考えるだけです。

そうではなくて根拠のない不安を肯定することによって、その人の不安を固定化してしまうということの弊害を考えるべきです。原因とはなっていない事実を肯定してしまうことによって、実は不安の解消はより困難になります。解消しようがないからです。目の前から夫が見えなくなって一時的に不安を忘れても、また不安がぶり返してくるようです。

根拠のない夫への非難、正当性のない非難を肯定することによって、憎悪感情が生まれ、記憶が改変され、子どもの利益を考えなくなり、子連れ別居、離婚、生活苦となり、そのあとは誰も助けてくれない本当の解決不能の状態に陥るわけです。夫に対する攻撃は、虚実織り交ぜてすべてが善だという意識が出来上がってしまうのです。離婚意思は支援者が作り上げているという場合もあるのです。

夫からすれば、そのような事情は一切わかりません。いつの間にか妻が自分を毛嫌いするようになり、話しかけても親身に答えず、家になかなか帰ってこなくなり、こちらを見ない。たまに見れば敵意のある視線をぶつけてくる。これでは夫も自分を守ろうという意識が無自覚に芽生え、子どものためにもという気持ちから妻に対して敵対的な感情を高めてしまうのは、人間だから当たり前のことです。

支援相談員の問題点は、
・ 妻の心理的状態を肯定しようとすることばかりを考えている
・ 客観的事実を知ろうとしないため、本当にDV等夫による一方的な行為が行われていて、家族による解決が不能な状態なのか判断しないで、一律に家族解体の方針を押し付けること(それでもマニュアルに従って「離婚を決めたのはあなた自身ですよ」という逃げ道は用意している。)
・ つじつまが合わないことやあやふやことを不問に付して、感情的な行動でも是認されると妻に思わせること
・ 不安の原因はすべて夫婦関係にあるという皮相な考えに立っていること、そのために内科治療、精神科治療など、真の原因の解消のアプローチをさせないで病状を悪化させる危険のあること、
・ 妻の心理状態をすべて肯定するため、妻の考える力を奪うこと
・ 現在置かれている妻の環境を自力で改善する方法を奪っていること

こうやって、妻の不安を解消することなく、夫を攻撃する紛争の心理状態にすり替え、事実上選択肢を奪って、DVのない事案であっても家族を解体しているということです。
相談員は、困っている人を見て「大丈夫あなたは悪くないよ。不安になる必要はないよ。」と自分が言ったことで、泣いていた相手が笑えば、それは楽しいでしょう。他人のために自分は役に立っていると思うでしょう。充実しているでしょう。しかし、それはその人の家族をみんな不幸にして、特に子どもたちに取り返しのつかない発達上の問題を与えてしまう危険があるのです。

また、それは、人を馬鹿にしていることにもなると思います。

「DVを受けるような女性は、事実関係を記憶しておらず、言っていることが曖昧で、自分が夫からDVを受けているかどうかもわからない人間なのだ、その家庭は夫が悪で妻が善というどうしようもない相手と結婚してできた家庭なのだと、主として夫は治療できない精神的、人格的に問題がある人間であり、妻はそんな夫に従属して生きるしか能がないから分離して一人で生きさせなければどうしようもない人間だ」と
善意ですから自覚はしていないでしょうけれど、そういう思想が背景にあることにはならないでしょうか。

一部の相談組織は、実際にそうやって夫から分離した妻に対して精神薬を投与するために、避難所入所の条件として精神科医の受診を義務付けていることがあるやの情報がありますが、こう考えればそういうこともするかもしれません。

そもそも真実がどうあれ「寄り添う」のだという態度ほど、人を馬鹿にした態度はないと私は思います。人間をダメにする態度だと思います。

つまり相談所の使っている意味での寄り添うことや「あなたは悪くありません。」ということは、一時の快楽を呼び起こして後々深刻な悪影響が起きる阿片なのです。


マニュアルに従って相談を受けている人たちは、おそらく善意であり、目の前の苦しんでいる女性の肩の力が緩む姿を見ているから、自分の行っていることが間違っているかもしれないとは決して思わないでしょう。
しかし、肝心なことは、いま語られていることが真実ではないのではないかという想像力と、このまま離婚してしまったらこの女性の将来がどうなるのだろうかということと、目の前にいない子どもたちの将来がどうなるかということをイメージできていないことでしょう。

善意かもしれないけれど、「あなたは悪くない。夫のDVがあるのではないですか。」というマニュアル行動によって、家族解体行動をしているのかもしれないということを少しだけでもよいので考えてみてほしいと思います。また、相談を受けた人がその後どのような人生を歩んでいるのか、そのことにも興味を持っていただきたいと思います。


後回しにした二つのお話し。(逆に本文の説得力が地に落ちるかもしれませんが)

<楽しい記憶が思い出せなくなる構造の試論>

「思い出すということは、その時の体験を追体験することだ」
ということを述べました。
過去の出来事、例えばテーマパークに遊びに行ったときのことを思い出しているとき、
テーマパークのキャラクターと握手をしたときに、とてもうれしくて興奮していたという体験をしたとします。
この時の映像が頭のどこかに蓄積されているわけではなく、その時に生じた体の中の神経やホルモンの変化などの状態変化を追体験して、その神経回路のつながり具合を再現することによって、その時の状況がイメージとして再現するということが近いと思っています。神経自体が回路を自発的に形成されているとは考えにくいため神経回路自体が記憶しているのではなく、その時々の神経回路を形成している司令塔(どちらかと言えばガイドライン)のようなものが過去の神経回路のつなぎ方、ガイドの仕方を記憶しているのではないかと思っています。その最有力候補はグリア細胞です。もうこれは言い切るしか私には脳はありません。

人間が出来事に反応する場合、実際は喜びとか恐怖とか一つの単純な感情が起きているわけではなく、様々な感情が複合しているため、それぞれの出来事には個性があり、他の出来事との区別が可能になるのだと思います。我々が思い出すということをするときには、この複雑な神経回路の形成を感じ取ることができることによって、立体的に把握することができ他と識別できる像が結ばれるようです。

後々、その時体験したテーマパークやキャラクターに対して、同じような感覚を持ち続けていれば、神経回路の再形成がスムーズに行われて記憶が比較的正確に再現されるわけです。いつまでも「楽しかったなあ」と思い出すことができるわけです。

ところが、そのキャラクターが例えば犬をモチーフにしたものだとして、そのテーマパークに行った後で犬にかまれるなどして、すっかり犬に対してイメージが悪くなってしまっていれば、「犬のキャラクターと楽しんだ」という追体験はなかなかできなくなるはずです。その人の記憶では、犬は警戒するべき対象だということが優先されるようになるはずです。そうすると、犬と握手をすることは現在ではとても怖いこととして警戒するべきことだという神経回路の形成が優先されますので、「握手ができて嬉しかった」という神経回路は再形成しにくくなるわけです。

こうして楽しい記憶が追体験できなくなる、つまり思い出せなくなるという具合に考えられないでしょうか。追体験する材料が失われてしまったわけです。

対象が同一でも、対象に対する評価が変わってしまうことによって、不完全にしか追体験できないし、場合によって思い出させなくなってしまうということはこういうことだと思うのです。

さらに余計な話ですが、
数字を記憶する場合も、われわれ普通の人は語呂合わせで覚えることが多いと思います。語呂合わせをすることで何らかの感情を込めることができるため、数字であっても記憶に定着するということなのだと思います。現在の教科書からは消えましたが、「1192年の鎌倉幕府成立」と教えられていた我々は、「いいくにつくろう鎌倉幕府」と語呂合わせで覚えました。その時に、なんとなく、「平家の人たちは悪い人たちだから、平家を滅ぼして源氏が晴れて幕府を開いていい国が作れる。おめでとう」という感情をもつので、この感情の微妙な神経回路の変化で記憶が定着しやすくなったのではないかと考えています。毒にも薬にもならない「数字」自体は、我々に感情的な体験をさせませんので、神経回路をそもそも形成しません。だから回路の再形成という形での思い出しということができにくいのではないかと思っています。この点、数字の一つ一つに何らかの感情を持つ人(1は正義感、2は柔軟性、3は神秘性、4は潔さとか)は、数字についてとんでもない記憶をもつことができるはずです。



<不安解消要求の必要性と危機回避のメカニズム> 後回しその2

不安とは危険が迫っているという認識です。不安を感じることで、危険を回避しようと行動するのですから、生きていくためには必要かつ基本となるシステムです。どうやら、①危険事実の覚知 ⇒ ②危険であるという評価 ⇒ ③不安に備えた生理的変化(交感神経の活性化など) ⇒ ④不安(危険)の自覚 ⇒ ⑤不安解消要求 ⇒ ⑥不安解消行動という流れがあるようです。

もしかしたら④と⑤は、一つの事象かもしれません。つまり、不安というのは現在している危険を解消したいという心理なのかもしれないと思っています。ここでは不安解消要求に焦点を当てるので、説明のために別の事象として扱います。

例えば、蚊がブーンと飛んでくる羽音をきいたら、「あ、刺される」と思うわけです。ブーンという音は①の危険の覚知です。脳の中で、この音は血を吸い、かゆくする蚊が近づいているという評価をするわけです。これが②です。それはまだ意識としては自覚していません。その前にすでに生理的変化が体内で起きていて、蚊をたたいて殺すことに有利に、体を動きやすい状態にしているようです。これが③。そして、それにわずかに遅れて、蚊に血を吸われるのは嫌だなという意識が生まれ(④)、蚊をたたいて殺そうと思い(⑤)、蚊をたたくわけです(⑥)。

せっかく体が蚊をたたくのに都合よい状態になっても、蚊を殺して血を吸われないようにしたいという要求がなければ、蚊に刺されてしまうことになります。

不安という嫌な気持ちになって、早くこの嫌な気持ちを失くしたいという要求があることによって、危機回避行動が確実なものになるという関係にあると思います。だから不安解消要求は人間が生きていくために、基本となる大切な要求であり、この要求があることで人間はより命をながらえることができるのだとかんがえています。

何度か本文に出てきましたが、これが太古の時代であれば、人間の危険は身体生命の危険だけなので、このシステムは生きるためにうまくゆく問題のないシステムです。しかし、人間と人間(仲間と別の仲間)の利害対立等、人間の生きる環境が複雑になったため、太古の昔にはなかった人間関係に起因するストレスが人間にとって解決困難な不安を抱かせる要素として出現してしまいました。太古の昔になかった不安の継続、不安解消要求の持続というストレスに対しては人間はそれを解決する方法が進化の過程では獲得できていません。つまり、人間は太古の環境になじむように脳が深化したけれど、現在の環境には対応していないという脳と環境のミスマッチが起きていると私は考えています。

しかしながら、「脳と環境のミスマッチ」なんてこと言う学者はいないこともあって、この⑤の不安解消要求についてはあまり考察されていないようです。私(対人関係学)は、このミスマッチによって生じる、解消できない不安解消要求の存在が、自死、離婚、犯罪、多重債務など社会病理の説明に重要な概念だと思っています。

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