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正義。正義感にあふれる人の他人への批判が怒りにまみれているため聞くに堪えない理由 ネット炎上から学んだ結果報告 [進化心理学、生理学、対人関係学]



解題 ネット炎上の際や、そもそもの投稿で他人に対して容赦のない批判を目にします。あんなに立派なことをしている人がどうしてそんな聞くに堪えない言葉を使うのか不思議になります。どうもそれぞれの攻撃者は、自分の攻撃が正義であると考えているようです。いじめやパワハラも、この正義感情が被害者特定の人を攻撃して容赦が無くなって起きることにも気が付きます。この怒りを伴う正義感情がどこから来る、どうして人は正義の活動をすると怒りや攻撃感情が伴うのかについて考えてみました。

1 正義という作られた概念と元々あった「義」という価値観
  「正義」という言葉は、幕末から明治にかけて明治政府側によって作られた言葉で、日本語にはもともとは無かった言葉です。JUSTICEの訳語ということになります。私はこの言葉をわざわざ作った目的は、富国強兵という国家戦略、すなわち軍備増強におけるソフト面の整備だとにらんでいますが、今回はこのことをわきにおいてお話を進めます。

  正義という言葉ができる前も、日本語には「義」という言葉がありました。道義、忠義、義理、義務と言った単語があるように、「人として従わなければならない」事項を意味しているようです。そして義が実践されることにより秩序を形成し、維持することになる効果がある場合に使われるようです。そして何らかの義に反する行為が行われれば、義憤を感じ、義の修復のために義士が立ち上がり義挙をなすという仕組みになるようです。

  この従わなければならない何かというのは、法律のようにある日誰かが決めたことではなく、人間の本能的な価値観というか、暗黙の了解によるもののように感じられます。具体的な内容としてはあまり説明されていないように思われます。言葉に置き換わる内容としてのコンセンサスがあったわけではないということです。それでも、その行為があったときに、義に反する行為だということは、多くの人に共通の理解を得られた内容になっていたわけです。どうして多くの人が共通の価値観を言葉によらずして共有していたのでしょう。
 
 ちなみに論語では義の対義語は利であると述べられています。利に走る行為は平穏な社会秩序を乱すものであるから、利に走る行為に対して否定評価をして、抑制することが義の役割だったようです。

2 義であらわされる人間の本能的価値観を考える手法
  それでは具体的に概念規定されてこなかった「義」というもの、人間ならばなんとなく共通理解が得られた人間の本能に基づく秩序、価値観とは何だったのかということを考えていきたいと思います。「義」が「利」の対義語として使われていたということもヒントになると思います。

  現在以上に、過去の一時点までは義という概念が人間の中で広く意識されていたようです。単純に現代に近づくにつれて廃れていったかどうかはわからないというしかないのですが、仮にそうだとしたらということで考えを進めていきます。この前提に立つとすると、歴史をどんどん遡っていけばいくほど、義という概念が人間の行動原理としてポピュラーな概念であったということになると思います。少なくとも論語が書かれた今から2000年以上前ではかなりポピュラーなものでした。しかし、解説が必要なほど、概念が不明確だったようです。当時の言葉というものはあまり厳密に突き詰めて使われていたものではなったのかもしれません。説明の言葉が無くても、なんとなく共通の価値観というか、感情があったということなのだと思います。

  このブログをよく読んでいらっしゃる少数の方はピンと来られたと思います。言葉で定義されないにもかかわらず、その概念を共有しているということは、人間の本能に根差した感情なのだろうと考えているわけです。人間の本能的な感情は、進化の過程で獲得した感情なのだろうと考えているわけです。つまり「その」感情をたまたま持っていた人類の祖先だけが厳しい環境の中で生き残ったため、その感情が後世まで受け継がれていったというわけです。

  その進化の過程とは、文明が起こり、言葉が発生する以前の話ですから、今から200万年前から1,2万年前の狩猟採集時代ということになるわけです。人間の脳進化は、頭蓋骨からすると約200万年前からあまり進化をしていないとされています。環境はめまぐるしく変化しましたが、心は200万年前と大差がないというわけです。
  そうであれば、人間が言葉無くても共通の感情が生まれる「義」という言葉に表現される感情も、狩猟採集時代の人間の様子、当時の環境にどのように人間の先祖がどのように適合したのかということを考えれば見えてくると思うのです。

3 狩猟採集時代の生活から義の中身について考える
  狩猟採集時代は、人間の祖先は数十人から百数十人の群れを作り、生まれてから死ぬまで原則として一つの群れで生活していたとされています。群れを二つに分けて小動物を狩ってたんぱく質とカロリーを取る集団と、狩りが失敗した時に備えて食べられる植物を採取していた集団が協力して群れの生活を営んでいたようです。群れは完全平等で、食料は平等に分配されていたようです。

  どうやって完全平等を保っていたのでしょうか。これは二方面から考える必要がありそうです。

  一つは、自然な感情として群れ全体で平等に分け合いたいという気持ちがあったためだということです。生まれてから死ぬまで同じ仲間でいると、ただでさえ仲間に対して情がわくでしょう。また、個体識別ができるぎりぎりの人数で仲間を構成していましたので、仲間の心情はすぐに共感できたわけです。不平等な分け方をされると、仲間が悲しんだり、落ち込んだりすると、我がことに様に悲しんだり落ち込んだりしたわけですから、仲間に対してそんな淋しい思いをさせたくないという気持ちが元々あったと思われます。そしてそれが共通の感情だったわけです。だから、そのような不平等をしないで平等に分けることが一番ストレスが少なかったということなのでしょう。

  二つ目は、中には共感力が乏しかった個体もいたはずです。自分だけ多くとろうとする個体が表れることはあったこととでしょう。いわゆる利に走る行動をする人です。しかし、仲間の大勢が平等分配の意識があったために、そのような仲間の意識に反する行動は自然と反発されて強く否定されたと思います。

否定のされ方は穏当な否定、物騒な否定と二種類あったと思います。穏当な否定とはまだ成人に達する以前に自分を優先してしまう行為をすることが明らかになったときの否定です。個体が小さいときは、教育的な否定だったと思います。共感力がない個体も、平等分配が必要だということを学習していったはずです。共感力が育たたなかったとしても、自分だけ多くとろうとすると仲間から追放されてしまう危険があることを学習したわけです。自分だけ多くとろうとする行動をすることは大変怖いことだという形で学習していくわけです。

物騒な否定とは教育の効果が上がらなかった場合です。成人に達しても個人的利益を優先する個体もいたはずです。自分を優先すると分配にあずからない群れの仲間も出てきてしまいます。このような利に走る個体に対する大勢の意識は、利に走るものによって自分が損をさせられるという意識だけではなく、自分より弱い仲間が損をさせられるという意識になったことでしょう。ここで大切なことは、自分だけが損をさせられるという意識ではないというところが大切です。自分が大勢の側にいるという意識は、秩序違反を許さないという意識となります。仲間の中の弱い者を守ろうという意識です。逆に自分だけが損をする場合は、自分が仲間から外されるのではないかという不安が先行しますので、どちらかというと恐れの感情が発現するようです。自分の力ではどうすることもできないので、許しを請うという行動の流れになるしかないわけです。自分だけが損をする場合ではないとすると、仲間の弱い部分が損をさせられるという意識も強くなります。この場合は怒りの感情が発現するようです。その自分優先の個体以外の群れの仲間は自分と同じ考えであるはずだという確信は、許しを請うのではなく相手に許しを請わせるまで追い詰めようという意識になるのでしょう。勝てるし、勝たなくてはならないという意識のようです。この意識をイメージしやすいのは、母熊が、子熊が襲われていると思うと、逆上して相手を攻撃する場合です。人間の場合は熊と違って、母親だけが子育てをするのではなく群れで子育てをするので、群れの共通の弱い者を自分たちで守らなければならないという意識となり、微妙に違いはありそうです。

怒りという感情によって、仲間の弱い者を守るという意識と自分の損を回避するという意識は、自分だけを優先する者に対しては「仲間と自分を加害する存在だ」という評価を瞬時に下してしまうのだと思います。元々は仲間だったという意識は消えてしまいます。自分だけを優先するものは、仲間ではなく仲間に対する攻撃者だという意識に塗り替えられるのだと思います。つまり仲間を襲撃する肉食獣のような存在として意識づけられて、肉食獣に対するものと同じような攻撃感情と攻撃が向けられるわけです。躊躇する事情が無くなるわけですから、純粋に怒りの感情に任せて容赦のない攻撃がなされたことでしょう。

もしこの思考が正しければ、義という概念は、自分たち仲間の大勢がそれを守るべきものと認識していたもの守るべきだということを意味し、それを害することに対して否定しようとさせる概念であるといえるでしょう。ここでいう守るべきものの原始的対象は「仲間の中の弱い者」であったということになると思います。義を乱したものに対する感情は、怒り、攻撃、敵対心というものであり、攻撃は躊躇なく行われるという特質があったということになります。そして損をするのが弱い者ばかりではなく、当然自分もやがて損をすることになるという場合が、怒りのエネルギーを大きくなったのではないかと考えています。

4 義の感情の歴史的推移、弱者保護から秩序維持へ
  文明が生まれる以前、狩猟採集時代で貧富の差を作りようがなかった時代は、義という感情は、自分と弱い仲間を守ろうという感情とほぼ同義だったと思います。逆上する母熊の集団バージョンということになるでしょう。やがて文明が生まれ、群れが大きく複雑になっていくにつれて、そして言葉が生まれることによって、そのような素朴だった感情も複雑になっていったと思います。
  狩猟採集時代は、公平や弱者保護自体が秩序となり、おそらくそれがほとんどすべてだったと思います。しかし、群れが大きくなり、個体識別ができない相手が他者を支配するようになると、支配者を中心とした秩序を守ろうとする意識に、平等や公正がすり替わっていったというか利用されて行ったのだと思います。

狩猟採集時代においても、人間は弱者保護と公平公正の目的とは別の目的で、秩序の存在が必要だったと考えられます。例えば小動物を狩りする場合も、多数で追い込む狩りの手法であったため、それなりの計画的な統一行動が必要になります。言葉がないので細かい打ち合わせは不可能です。結局、群れの中の誰かが判断をして、その判断に従って行動していたのでしょう。それができなければ小動物でも捕まえられなかったはずです。自分勝手な行動は群れに迷惑がかかります。また、人間関係のトラブルも、些細なことであれば、誰かを追放するまでもなく、群れの権威のある人物に従って解決したことでしょう。これらの場合の権威者は、おそらく固定していた一人の人ではなく、場面や対象によって流動的に権威者が入れ替わったと想像しています。ともかくもその時その問題で権威者となり秩序形成の的として認知されれば、その人間に無条件に従っていたと思います。ミルグラムの服従実験は、人間が服従をすることを示したものではなく、瞬間的に権威者を見つけて秩序を維持しようという自発的行動をすることを証明したものと私は考えます。

  つまり人間は、それが秩序であると大勢が認知してしまうと、それが真に守るべき秩序か否か、あるいは自分に何らかの利益を与える秩序か否かをあまり考えないで、本能的に秩序に従うという性質があるのだと思います。古い秩序を覆して新しい秩序を形成するということは、とても難しいことだという理由がここにあります。革命などの新秩序形成行為について快い肯定的な感情がわきづらく、物騒な否定的な感情がわいてくることが自然なことだということも理解できることです。

  こうして必ずしも弱者保護や公正が、人数の増加と社会構造の複雑化によって、秩序維持の本能と融合していったという動きがあると私は考えています。

5 義から正義へ
 現代の人間は、多種多様な人間と複雑な関係を形成しています。関係する人数も多ければ、所属する群れも一つではなく、無意識に多数の群れを形成しています。無数の人間関係それぞれに、いちいち義があり、それが複雑に影響しあっていることになります。それぞれの人間関係ではそれぞれ異なった秩序が形成されていることになるはずです。守らなければならない秩序がそれだけ多くあるということになります。
幕末から明治にかけて、欧米列強に追いつけ追い越せという国家政策がすすめられ、それまでの江戸幕府のような国民の多様な価値観を肯定していたのでは、国家政策が効率よく推進できないという事情が生まれたわけです。「義」という多様な意味合いを持つ言葉は、結局それぞれの人間関係にあることを承認することが前提となっていたと思うのです。これでは国単位での戦争を遂行するためには妨げになりかねません。列藩という単位を排して、国という統一的な秩序に国民を統合することが他国と戦争を起こすためには有効だと考えたのでしょう。この考えのもとで廃藩置県を行い、廃仏毀釈をすすめ、天皇という単一の最高秩序を押し出して国家秩序の形成を進めたと考えると賛否はあるにしても合理的な行動だったと思います。
 そのためには、ローカル色が強い多様性のある概念の「義」という言葉では足りず、他の事情を差し置いても最も守らなければならないという強力な秩序があるという意味で「正義」と名付けられたのだと思います。ここで言う「正」は善悪の善という意味ではなく、正室とか正一位、あるいは正大関というような、正式のという意味での正なのだと思います。つまり、国家秩序だけが正式の義として守るべきものであり、他の義は後列に置かれるもの、あるいは偽物の義という位置づけにしたわけです。

6 現代日本における社会病理の推進力としての正義
 短期集中でインターネットの炎上についての実態を調べていたのですが、予想通り大変興味深い結果が出たように感じました。私の調べた範囲について報告します。
 ある投稿に対して、それを批判する投稿や否定評価をする投稿が次々と行われて収拾がつかなくなる状態である「炎上」という状態になります。炎上になる理由として正義の感情があるように思われました。炎上が大きくなるほど素朴な正義感というか、狩猟採取時代の義の感情が発動されるパターンが見られました。
 炎上が起きやすい投稿パターンは以下の通りです。

1)そもそも誰かを攻撃する内容、ないし、誰かに損害を与える内容の投稿
2)同時に反論投稿者をする人も、その投稿によって攻撃されているという意識を与える投稿 
3)その攻撃が、なんらかの理不尽だと感じられる要素のある攻撃
4)自分だけでなく、大勢が不快だと思うことが予想される投稿(内容又は表現、あるいは選択した投稿メディア等)
5)容赦のない攻撃をしていると感じる表現、下品な攻撃表現、人格を否定するような攻撃表現
6)誰かを攻撃することによって自分だけが得するという抜け駆け的な利益を目的にしているように感じる投稿 
7)自分を含めて多くの人たちが秩序に反する立場だろうと感じられる投稿、 反秩序(不道徳、違法、不合理)を擁護する投稿
8)一定の影響力があり、部分的にでも秩序を害する恐れを感じる投稿
9)投稿文言に大きな隙があり、主張内容その他に批判する部分が多い投稿

特に初回投稿者が、自分が攻撃を受けているわけでもないのに、他者に対して極めて不寛容であり、かつ表現の品位に疑問が持たれるような攻撃をしている場合でかつ一定程度以上の支持を受けている場合に、炎上が起きやすいようです。自分の主張ないし感情こそが正式な義であるという意味での正義だと主張して、自分の主張と異なる他人の日常や悪意のないふるまい、あるいは存在自体に対して、感情的な表現や、品位を欠く表現で、相手の人格を貶めるような攻撃が炎上しやすいようです。特に不特定多数人に対する言いがかりのような攻撃が目立ちました。白を黒に塗りつぶして黒だと批判しているようなものです(オリジナル表現は平野龍一「刑法総論」)。

中には攻撃されても仕方がない行為が実在している場合もあるのですが、その行為者に対する攻撃ではなく、一定の属性(男性、女性とか、国籍とか)全体が同じ行動傾向、同じ思考、思想、人となりだと決めつけて攻撃する差別的な表現は、当然のことながらその非行行為をしない、その属性の人間から大きな反発を受けるわけです。当然、別の属性の人たちからも言い過ぎであるという主張がなされるようです。

炎上を生む投稿は、正義の多様性、相対性を認めず、差別的な思考パターンの元、攻撃しなくてよい人を攻撃している結果となっているという特徴があります。自分が正しくて、自分以外が悪だと主張しているという印象を持たれているわけです。

自分の行為に対して批判があるのであれば仕方がありませんが、自分の属性に対して批判されることは、端的に差別をされるということですから、反発を受けることは当然のことであろうと思います。

それでも自分が差別や、罪なき人に対して攻撃しているということに思い至らず、あくまでも正義を主張しているという意識ですから、自分が守ろうとしている何かのために子連れの母熊のように逆上してしまっているわけです。炎上すればするほど、他者が自分を理由なく理不尽に攻撃しているとしか思えません。反論を試みるわけですが、同じような感情的な反論ですから、論旨も不明ですし、表現も的を射ていない表現となり、ますます反発を募らせるだけであるようです。

7 正義と娯楽
 インターネットの誹謗中傷に対して提訴をした方がいて弁護団を交えて記者会見が行われました。ところが会見自体が、上記の炎上を生む要素に多くあてはまる内容でした。裁判前の会見はアドバンテージを獲得することも大事な要素だと思います。会見によって味方を増やす結果にならないと意味がないと思います。しかしながら弁護団の会見は、話している内容もさることながら、表現や姿勢などを見ても、新たな味方を増やすという意識は感じられず、元々の仲間内の結束を強固にすることが目的だったのかなと感じました。

 いくつか気になった弁護士の発言がありましたが、「インターネットで人を攻撃するのが娯楽として行われている」という発言もその一つです。

 インターネットの炎上は、一口にインターネットと言っても、ツイッターなどのSNS、ユーチューブ、インターネットテレビなど実際には様々な媒体があります。今回短期集中的にそれらの発信を読んでみたのですが、とても発信に工夫がなされていることに感心しました。特にユーチューブのゆっくり解説は、たくさんの発信者が、手段を共有しているものらしく、様式美を感じました。動画の中で、アニメキャラクターの2人ないし3人が登場し、1人ないし2人が聞き手で1人が説明するという形をとります。聞き手が時折疑問を呈して、それに話し手が答えるという手法はとても理解が助けられます。字幕も整備されていますし、画像も効果的に引用されています。とても分かりやすいのです。さらにアニメキャラクターの絵も声もそれなりに工夫されて、感情自体を伝えています。年配の人が見ればふざけた娯楽のように見えるかもしれません。そのようなものではなく、主張を明確に他者に伝えるプレゼンの要素が詰め込まれている立派なものです。中立の人を味方にしようとする努力に感心するほかありません。

 また、そのような媒体の工夫がない発信でも、読み手、利き手を引き付ける工夫がなされている発信者も多いです。相手の批判の方法にもウイットを聞かせようと意識している人たちも多いです。そういう人たちは、能力をアッピールしようという意識があって、単純に真正面から批判するだけでなく、アイデアを競うというか、能力を見せつけようとする人たちも多くいらっしゃいます。それを娯楽というかどうか難しいところです。攻撃を受けている相手から見れば、面白がって攻撃していると映ることはその通りなのでしょう。

 但し、後発参戦者になればなるほど、そのような工夫の余地が出し尽くされている感もあるため、あえて斜めに切り込んだり、攻撃の表現を激烈化したりして参戦するということが見られました。これは残念ながら確かに見られました。娯楽というかどうかはともかく、後発になればなるほど、建設的姿勢が低くなる傾向にあるように感じられます。

 いずれにしても、義を実践することに人間は喜びを感じる動物です。自分が炎上もとになった投稿や投稿者に感じるもやもやを言語化してくれることにカタルシスを覚えるようです。
 それでも炎上もとになった投稿者は、自分の正義を疑いませんから正義の主張を続けるわけです。それも自然な流れでしょう。そうするとさらにそれにかみついてくる後発参戦者がでてきてしまいます。そのころになると大勢が決していて、炎上元はごく少数者になります。それでも正義の感情は怒りの感情ですから、相手が弱ってきて、相手は反秩序でこちらが正秩序派だという意識が強くなっていきますから、攻撃性がむしろ激化していくようです。徐々に攻撃のための攻撃をする後発参戦者(コメント書き込みなど短文投稿者)が出てきてしまいます。初発の参戦者ほど、表現に工夫は無く、また工夫するメディアでもなく、純粋な攻撃に近くなってしまいます。こうなると、正義を主張して反発を受けた炎上元投稿者に対して、別の正義を押し付けて事態が収拾付かなくなるようです。

 正義という概念は、元々あった人間の性質である義を大切にする感情を利用して、それを特定の方向に誘導するために作られた概念だと思います。本来、義は複数あり、正式の義である正義なんて言うものはフィクションにすぎません。それがあたかも絶対的な正義があるように他者を排斥する手法は、戦争遂行を至上命題とした明治政府と同じ行動を、無自覚に行っているわけです。

 正義という観念がインターネットの炎上の根本原因であると私は感じました。

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