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「正義バイアス」 取り返しのつかない残忍な行動の原因 特に弁護士は陥ってはならない思考ミス [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 正義バイアス

私は、正義感という言葉を警戒しています。(その意味と内容は過去記事を文末に貼りました。)仕事の中で出てくる正義感も社会病理の背景として登場する正義感も、正義の名のもとに他者を傷つけるということにつながっていることをよく見ているからです。あるいは自分をも苦しめる場合もあるかもしれません。

特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する職業です。犯罪をした人を理解して、その人の利益を図ろうとしなければならないわけです。それにもかかわらず、正義感を全開にして、「犯罪を行ったから悪い」とか「少なくともその犯罪行為は悪いのだから弁護のしようが無い」等と弁護士が考えてしまったら、仕事にならないし、弁護士の存在意味が無くなります。

正義感が起きてしまうとどのような不都合が起きるか、まとめてみました。

1 (心理的加担)正義だと言われると、詳しい事情が分からないにもかかわらず、利害関係にかかわらずその正義の側に心理的に加担してしまう。

2 (二項対立的思考)一度一方の人を正義だとして加担してしまうと、その人と対立している人は悪だと思ってしまい、事情がよくわからないのに憎しみの感情まで起きてしまい、しばしば制裁をしようとする、あるいは制裁をしてしまう。

3 (検証の回避)正義であると主張する方に疑問を持つことが許されないような気がしてくる。本当に正義なのか疑うことができなくなる。

4 (確証バイアス)確証バイアスと結びついて、最初に正義だと思った方の肯定的事情ばかりをかき集めてしまい不利な事情は評価しない又は無視をする。一方、対立する相手の肯定的事情については客観的に評価できないか、無視してしまう。

5 (容赦のない攻撃)正義であると信じる者同士が仲間意識をもって、相手方に対して対抗する意識を持ち、攻撃が容赦なくなる。

「正義」という言葉は前面に出ないことが多いため、これだけを言っても抽象的にピンとこない人もいるかもしれません。
実際に正義バイアスが発動される言葉は、「虐待」、「いじめ」、「DV」、「マイノリティの保護」、「差別」、「ハラスメント」、「侵略」、「戦争」等です。いずれも弁護士が業務としてかかわる可能性のある分野になります。

2 正義バイアスのもたらす不都合

正義で熱狂しているとき、本当は責められるべきではない人が責められたり、それほど強い制裁が科されるべきではないのに強い制裁が科され、その結果二度と立ち上がれないようなダメージを受けたりすることがあります。

その正義バイアスに弁護士が陥った結果、弁護士が冤罪のように回復不能な不利益を作り出すこともあります。

この正義バイアスは人間が本能的に持つものです。常時正義バイアスに支配されていないかという点検をしていないと、取り返しのつかないことを行ってしまう危険があります。

3 人間の本能と正義バイアスについて

よく考えないで、あたかも反射的に「正義」という言葉に飛びつく理由は、言葉のない時代の人間の意思決定を踏襲しているのだと思います。当時(200万年くらい前から1万年くらい前)、人類は厳しい自然条件の中で、瞬時の対応を迫られていました。こちらに近づいてくるのは飢えた肉食獣ではないかと瞬時に判断して逃げるとか、集団で戦う準備をするとかということが典型的だと思います。みんなで討論をして、熟考して多数決で決めようなどという発想はなかったのだと思います。言葉もありませんから話し合いもできません。誰かが瞬時に判断し、仲間はそれに盲目的に従ったはずです。それ以外の日常的なことについては、これまでの慣習通りに行うということでよかったはずです。つまり、考えるということは身の危険があることで、瞬時に結論を出さなければならないことが中心的だったと思われます。

そこにいる者が群れの仲間の人間なのか、危険な肉食獣なのか、味方か敵かという二者択一的な思考ができれば十分で、それ以上の思考はむしろ有害だったのでしょう。

それが敵だと結論付けられれば、逃げるか戦うかということでシンプルに行動をすればそれで事足りていたわけです。肉食獣を叩き殺すことに何ら躊躇をする必要が無かったということです。

現在では、その人に現実の危害を加える存在の多くは、肉食獣ではなく人間です。その人間にも言い分があることが多いと思います。全面的にどちらが正しくて、どちらが間違っているということはめったにありません。しかし、対立している人の一方をつい守ろうとしてしまうと、他方が敵ということで、反射的に仲間と敵を振り分けてしまい、仲間だと判断したものを守ろうとしてしまうということが起きているのでしょう。一瞬で理性的な考察ができなくなり、「一方が仲間であり人間である、他方は敵であるから人間ではない」という太古の感覚が頭の中をめぐってしまうのではないでしょうか。

例えば200万年前の生活なら、その思考方法にデメリットはなかったでしょう。むしろうまく生き延びることができるので、そういう思考をした人間たちが群れを作って生き延びてきたということです。その思考(脳の活動)が現代においても抜けきらないのは、進化の時間軸では200万年は「あっという間」の時間なのでしょう。ところが現代は、群れは無数にあるは関わる人間も膨大にいるわですから、環境は劇的に変化してしまいました。200万年以上前からの人間の思考パターンと、現代の複雑な人間社会のミスマッチが起きているわけです。

正義バイアスに支配された脳の活動は、相手は人間として扱えなくなっていますので、敵の良いところなんて考えることは無意味ですし、味方をどこまでも守ろうと当然にそういう発想になります。人間を狼から守るために手段を択んでいる場合ではなかったのでしょう。非論理的な主張、不合理な主張、ダブルスタンダード、論点ずらし等、相手に配慮する必要がありませんから、仲間を守るという意識がある以上は、何ら気にならないということになってしまいます。

もはや相手に勝つということだけがテーマになってしまっています。

これは実は人間にとって大切な思考パターンでもあります。仲間を疑わないで、仲間のきずなを強くすることが人間の生きる目的だとすれば、仲間が間違っているか正しいかということよりも、仲間が仲間であり続けるほうが価値が高いという考え方もありうると思います。正義は共存するための不完全極まりないツールにすぎないと考えても良いと思います。

対立する相手にも言い分があり、尊重されなければならない人間であると気が付くのは、相手が深刻なダメージを受けて取り返しのつかない状態になったときになってしまうわけです。

民主主義の根幹は、多数決ではなく、全体の利益がかなうための結論に向けた話し合いをするところにあります。ところが、対立する意見に正義などのバイアスが持ち込まれれば、瞬時に敵と味方と別れあってしまいます。双方の良いところを持ち寄ってさらに良い提案をするという発想にはなかなかなりません。これを野放しにしてしまえば、民主主義は全体主義の方法論に堕落してしまいます。

弁護士に限らず、夫婦でも、職場でも、学校でも、インターネットでもなんでも、相手に対して完全否定したいという欲望や、一瞬でも我を忘れる怒りや、いら立ちを感じた場合、そしてそれが正義や正義類似の概念に支えられている場合は、意識して立ち止まって考える必要があるのはこういう理由からです。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。
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