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令和の夫(妻)のTIPS 3  (正しいことの主張)正義・合理性の追求は他者に緊張を強いる 燃えるゴミの日に妻が段ボールをいれた場合に夫は何をどうするべきか [家事]



男性に多く、けっこう「やっちまったなあ。」というエピソードの一つが、この、過剰な正義感、過剰な合理性を家族に求める言動です。正義からの逸脱が些細なことでも、その心の物差しに触れると、家族に厳しい指摘をしてしまうことがあります。離婚手続きで、妻の離婚理由の主張に、激しく叱責をされることが多いので、いつも夫の顔色を見て生活していた。夫が仕事から帰ってくると言え重が静まり返ったというものが結構あるのです。

なぜ、例えば燃えるゴミの日に分別すべきわずかな段ボールをいれたからってそれほど目くじら立ててしまうのでしょうか。

その時の夫は、法律や道徳の実現をしているという意識なので、正義を貫くことに何のためらいもなくなってしまっています。自分は良いことをやっていると信じて疑いません。使命感に夢中になっていると言っても良いでしょう。

どうやら人間は、複数のことを同時に考えることが苦手なようです。正義に夢中になってしまうと見落としてしまうことが出てくるわけです。相手の感情に対する配慮を見落としてしまうわけです。

仮に段ボール紙を燃えるごみの袋から取り出して分別したとしても、その時の妻の心理は、「夫の指摘が正しいから従わなくてはならない」という思考回路を取ることはありません。「それはそうかもしれないけれど、この人は、いざというときに私の味方にならずに、私を切り捨ててしまうだろう」ということを、イメージとして抱くようです。自分が家族というユニットの一員として夫から尊重されていないと感じています。そしてその結果、夫が自分の仲間ではなく、自分を攻撃する存在だと感じ始めるようです。

議論がかみ合っていないというよりも、その時のテーマ、問題設定自体が二人とも、全く別々なのです。

夫はその時正義が実現されたと留飲を下げても、些細なことですから忘れてしまいます。離婚手続きで言われても覚えていません。しかし妻は仲間として否定評価されたと感じるわけですから、この事実は忘れないで嫌な感覚が蓄積されてしまいます。

些細でも正義を実現しようとすることは否定されることではないかもしれません。もしかしたら単なる言い方なのかもしれません。でも、正義を遂行しようとする時は、不正義の行為に対して幾分怒りが混じるものです。
もし、究極の選択として、正義を実現するか、家族の感情、立場を優先するかどちらかを選ばなくてはならない時はどうするべきでしょう。

私は、家族の感情、立場を優先することが正しいと思うのです。詳しくは私の過去ブログをどうぞ 「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」

大事なことは、家族とは、単に同じ家に寝泊まりして、一緒にご飯を食べ、幼児や老人の世話をするだけではないということなのでしょう。太古から人類は、老若男女すべて家庭に安心感を求めていたと思います。

それでも仲間とのかかわりが濃く、純然たる他人とのかかわりがうすかったので問題は生じなかったのでしょう。

しかし、現在はご近所の目やSNSの友達をはじめとして、他者の視点で自分たちを見る癖が蔓延していると思います。自分の考え、感覚で自分の行動を決めることができにくくなり、自然に身につかないルールなども多く覚えていかなくてはならなくなってきているようにも思えます。

自分の感覚から自然な行動をすることで他者から非難されることが多くなったということは、ストレスの蓄積と直結すると思います。だからこそ、家族相互は許しあい、隠しあう関係でいることが健康に生きていくためには必要なことなのだと思います。大切なことは、家族でいることで安心できること、心強く感じられることかもしれません。そういう家族が現代社会ではますます存在意義を高めていると思います。

では、もし家族が許されないことをしていることを見た場合、家族を糾弾してやめさせるというのが間違いだとしたら、どうしたらよいのでしょうか。

違法性の軽重には寄りますが、些細なことであれば、まずは自分がその責任を取る覚悟を決めるということでしょうか。
次に、妻が別の選択肢を選ぶようになるように、環境を作るということでしょうか。プラ用ごみ袋を買うとか、段ボール捨てとドライブを組み合わせて段ボール捨てを楽しみにするとか。

もしそれでも口で言ってやめさせたい場合は、遠慮がちに、控えめに選択肢を提示するということになると思います。

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令和の夫(妻)のTIPS 2  妻子の聴覚の保護 「なぜ怒る?」思わず大声「怒ってない!」 [家事]



妻が子どもを連れて出て行って離婚調停を申し立てるケースで離婚理由の一つとして案外多く主張されることが、家族に向かって大声で叱責するということです。

多くの男性は、確かに比較的大きな声を出すことがあります。この時、妻から「何を怒っているの」と抗議されることがあります。
このようなケースの多くで、夫からすれば、妻が自分(夫)が怒っていないことを知っていながら、わざと妻から夫が「怒った」と言われていると感じています。そう言って自分をイライラさせているのだと受け止めている人も多いです。そんな時に夫は、「怒っていない!」と比較的大きな声を出し、妻から「やっぱり怒っている」と言われてしまうわけです。

男性、女性双方の代理人活動をしている私はその秘密をよくわかっています。

夫は真実「怒っていない」ですし、
妻は本気で「怒っている」と感じているということのようなのです。

さて、その食い違いの理由ですが、意外なところにあるようです。

女性側は、大きな声は、それだけで本当に怖く感じるということのようです。話の内容ではなく、声が大きいという「音量の問題」で、自分が攻撃されていると感じるようです。だから「怖い」とも思いますし、ぞんざいに扱われている、自分が大切にされていないと感じるので「悲しい」という感情も伴うこともあるようです。

実際は女性も話に夢中になっていつしか大きな声を出すこともありますが、その時でも男性はあまり怖いと思うことはありません。

個人差はもちろんあるのですが、大雑把に行って男性と女性の間には、「声の大きさと聴覚の敏感さについて感じ方に差がある」と理解していた方が無駄に悩む必要が無くなるようです。

男性の大き目の声は、男性の自覚しないうちに無駄に威嚇的な響きを伴って女性に聞こえてしまうのでしょう。女性にとっては、男性には全く不快に思われない音量でも、異常事態を感じてしまい、緊張してしまうのかもしれません。

声の大きさを意識的に小さくすると、同じ言葉を発していてもそれだけでエレガントな話しになるようです。音量を気にしてお話しする方が、感じが良いことは間違いないようです。

また、声が少しでも大きくなると、顔の筋肉を使うために顔の表情も連動して険しくなるようです。典型的な表情の変化は「眉間にしわが寄る」ことです。これは注意が必要です。実に多くの男性が、この「眉間にしわが寄る」だけで妻子を不快にしています。何か相手に意見を言ったり、相手の意見を変えさせようとしたり、提案をする時も、ニコニコして話すことを心がければ解決できます。

声が大きくなってしまうと、妻は文字情報をあまり吟味しなくなるようです。何事が起きたのだろうという緊張状態となり、文字情報以外の表情(声の大きさ、眉間のしわなど)から夫の感情を読み取ろうとしてしまうようです。そこで眉間にしわが寄っていたら、「夫が自分に対して不快に思っていて、自分の言動を否定しようとしている」と感じやすくなるのは、考えてみれば当たり前のことのような気もしてきます。

さらに加えて、乱暴な言葉遣いをしてしまうと、妻からすると夫が自分を攻撃していると確定してしまうのでしょう。怖い気持ち、悲しい気持ちになるようです。

これらの音量、表情、言葉遣いは、出産前はそこまで敏感にはなっていないようです。出産後になると、突然恐怖や嫌悪の感情が起きやすくなっててしまうといった変化が起きることが多いようです。夫としては「同じように言っていただけなのに。」と思うのですが、出産後、特に直後は「同じように言ってはいけない」ということなのでしょう。

これを読んで窮屈に思われる方もいらっしゃると思いますが、大きな声をどうしても出したいという方は多くはないと思います。要は習慣づけということなのだと思います。

また、失敗してつい声が大きくなることはあります。その時の自分のフォローは「怒っていない!」と熱くなっては絶対にしてはなりません。心配そうな顔をするとか、ニコニコするとかして、先ずは謝るべきなのでしょう。こちらが悪いという自己認識を示すことが謝罪ではなく、相手を心配させない、怖がらせないための行為が謝罪だと、ここは考えを変えた方が良いと思います。


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令和の夫(妻)のTIPS 1  家族を意識して作る必要性 妻子の保護と意識 二人目の子どもの写真が少ない理由から必要性と可能性を考える。 [家事]



家庭円満は、神様に頼むのでもなく、放っておいてなんとかなるものでもなく、家庭の中の大人の誰かが「意識して作る」もののようです。そうでなければ、現代日本の家族は、気が付くと分解されていて、憎しみ合っているということが普通に起きてしまいます。

離婚手続きに入り、お互いに攻撃しあう事例のほとんどが、双方の言い分を聞いてもどちらが悪いわけではないと私には感じられます。ただ、知識が無く、また意見をする第三者の存在が無く、意識して幸せを作るという発想がないことが原因だとしか言いようのない事例がほとんどなのです。

悪意が無くても、家族にさみしい思いをさせるケースはよくあります。わかりやすいのが子どもの写真だと思います。今は動画でしょうか。一人目の子どものときは写真が膨大にあるのに、二人目以降はそれほどは無いというご家庭が多いのではないでしょうか。

この理由は、親になってしまえば考えなくてもわかることです。
それは、一人目の子どもは子ども自体が珍しくて視線がくぎ付けになっていることと、赤ん坊という格好の被写体ができたので、カメラでの撮影も新鮮でついつい写真撮影をしてしまうわけです。さんざん観察と撮影をしているので、二番目の子どもが生まれたころには、赤んぼ自体が初めてではなく意外性や発見が少ないこと、撮影行為自体に飽きてしまうこと、この二つが二番目以降の子の写真が少ない理由です。

(だから、一番目の子育てが大変で写真や動画を撮る余裕がない場合は、二番目の方が写真や動画が多くなるだけのことです。これは割と一番目の子どもにはわかってもらいやすいことです。また、一番目の子も二番目の子育てプロジェクトに参加している意識を持たせることでも解決できますし、一番目の子どもを二番目の子どもに隠れて持ち上げることも大切かもしれません。)

それだけのことなのに、例えば二番目の子どもは、自分が写った写真が兄や姉よりも少ないという客観的事実から、自分は兄や姉に比べて歓迎されない子どもだったのではないかと暗い気持ちになっていることがあります。子どもとは頓珍漢なところがあるし、それももっともなほど知識の量が少なすぎるし、自己中心的にしかものを考えられません。「あなたに愛情が無いわけではなく、二番目だから、もうめんどくさかっただけ。」という真実を語ることは子どもの心を解決しないどころか、もっと傷ついてしまうかもしれません。

これを回避するためには、一番目と同じように二番目もせっせと写真を撮る、特に一人で写る写真を意識して撮ることで解決できます。

さて、二番目の子どもの写真を撮らないことは「悪い」ことでしょうか。「悪い」ことではないでしょうが、写真が少ないと寂しがることを知っていれば「意識して二番目も多く撮ること」で回避できることです。これが「修正するべき」ことの内容となるわけです。

意識すれば、家族がもっと楽しく家庭生活を送ることができます。このシリーズは、何かをしてはいけないというよりも、そこに気を付けて意識すれば、もっと楽しい家庭になるということを考えていくシリーズです。

家族が仲良ければ家庭が楽しいですし、家庭が楽しければ人生豊かな気持ちになります。自分の「意識をすること」によってそれに貢献できれば充実感も得られるわけです。

さあ、後はあなたの選択です。


末尾* 現代日本はとんでもなく難しい時代だと、弁護士をしていてつくづく思います。私は昭和生まれなので、昭和、平成、令和と3時代を経験しています。その間に価値観や「社会の当たり前」の内容が、目まぐるしく変わっているように感じます。まじめな人ほど、新しい価値観を頭で理解してその通りにしようとしているようです。

これから10回弱くらいのシリーズを企画したのは、そんなまじめな人たちの家族が、社会から翻弄されて壊されないように、弁護士の仕事をしながら感じたことを紹介する必要性を感じたからです。


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