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ソフトパワハラについて考える : 例えば「わたし定時で帰ります」のユースケ・サンタマリアが演じた上司の息苦しさの原因 [労務管理・労働環境]


吉高由里子さん主演の「わたし定時で帰ります」という番組がありました。
なかなか現代社会の断面を切り取った意欲的な番組だったと思います。
シリーズの後半は比較的よく観ていました。

異彩を放っていたのは、
ユースケ・サンタマリアさんが演じた主人公の上司
福永清次だったと思います。

彼は、暴力は振るいませんし、威圧的な言動もありません。
「もっと、残業もしてみようよ」とか
部下に意思があることを前提として、
自発的に仕事に取り組むようにアドバイスする
というような語り方をしますし、
具体的な残業命令をするわけではありません。

しかし、彼が登場し、発言をしようとするものなら、
緊張感が走り、
発言が終わって部屋を出ても
何とも言えない息苦しさが残ったと思います。

俳優は見事に演じきったと言え
怪演と言うべき演技だったと思います。

暴力もない、威圧的言動もない
具体的な残業命令もない
それでも息苦しい嫌な気持ちになるのはなぜでしょう。

パワハラだという声もあれば
パワハラとは言えないという声もあります。
威圧的な雰囲気がないけれどパワハラと同じということであれば
「ソフトパワハラ」とでも言ってみましょう。

視聴者は、
言われた部下に共鳴して嫌な気持ちになっているので、
部下の気持ちを考えてみましょう。

結論から言えば、
暴力や威圧を使ってパワハラをしたときと
結果としては同じことをしているのだと思います。
やはりソフトパワハラをしているということですね。

ソフトパワハラによって
部下は「自分で自分のことを決めることができない」
上司が勝手に自分の行動を決めてしまっている。
部下にとって裁量の余地が極めて少ない
という感覚を抱いています。

彼は暴力や威圧を手段としては使いません。
その代わりに使っているのは、
(企業)常識、企業の普通、
仲間の不利益の回避や
チームワークを乱さないという正義等です。

部下たちは
暴力や威圧によって上司に逆らえなくなるのと同じように
仲間の不利益回避やチームワークという正義や
企業の常識というルールに異を唱えることができないために
上司の無理な指示命令に逆らえないだけなのです。

その命令に逆らうことは
仲間としてふさわしくない行動だと評価されるだろうと思い、
無意識にやがて仲間から外されるのではないかという
不安を感じてしまっているわけです。

さらには、
無理な仕事の受注をしてきて、
部下は「自分の判断で」残業をせざるを得なくなります。
自分のプライベートを
直接制限する言葉を発しているわけではありませんが、
「仕事が終わらなかった会社に迷惑をかける」
という意識を利用して
仕事をさせるわけです。

彼は、暴力や威圧的な言動をせずに
彼なりに言葉を工夫していたようでした。
どこかで、稚拙な労務管理を教わってきた
という設定なのでしょう。

これに対して
現在、一つの完成された労務管理の手法があります。
企業の労働者の一人一人が職場の働き方をデザインして
するべきことを見つけて行動する
そうして、自発的に労働することによって
生産性をあげるという手法です。

全労働者が経営者感覚なので
確かに生産性が向上します。
適当にやればいいやと言う労働者は
労働者によって排除されるということもあります。
なるほど生産性は上がるようです。

長時間労働になりがちにもなるのですが
一人一人の労働者の幸福度も高いように見えます。

「わたし定時で帰ります」の職場はそうではなかったわけです。

この職場はクリエイティブな仕事をしているのですが、
ソフトパワハラによって
実際は、やることが決められ
機械的な作業を強いられるような
仕事の配点をされていたということになります。

上司は労働者の意思に働きかけているように見えて
実は意思を無視して、結果として強制していたわけです。
さらにはプライベートの時間まで
勝手に仕事に使われていたということになります。
そこに労働者の自発的意思はありませんでした。

自分の自由が奪われるという感覚が
生物としての本能であるところの
「自分で自分の身を守る」
と言うことがいざとなってもできないという予測が自動的に生じ
息苦しい気持ちを抱かせるのです。

結局目隠しをされたり耳をふさがれたり、
手や足を拘束されることと
結果として同じような感覚になってしまうようです。

受講料は高額だけれど
安っぽい労務管理セミナーにありがちな
心はこもらなくてもこういう言葉を先に言うとか
こういう言葉を言ってはいけないとか
定型的なアドバイスを受けて
それを実践していたような感じをうまく演技していました。

肝心なことはすっぽり抜けてしまっていたわけです。

つまり、自分がこういう言動をした場合
相手がどのように思うだろうかという
想像力に欠如しているということですし、
連続した残業によって
部下の家族関係などのプライベートが圧迫され
その結果どうなるということを
結果として無視しているということです。
思い至らなくても、
部下は現実に生きて生活している人間なのです。

ちょっとした気遣いで
職場の雰囲気はだいぶ変わって
生産性にも差が生じてきてしまいます。

もう一つ
ソフトパワハラの典型例として
部下の欠点や失敗ばかりが見えてしまい
それを指摘せずにはいられないという行動パターンがあります。

例えば取引相手とのプレゼンに成功しても
一応「よくやった」という言葉を発するのですが、
それはおざなりに済まし、
どこが良かったかと言うことを指摘せずに
「この次ここに気を付ければもっと良くなるよ」
と言うことばかりを指摘する上司です。

(中には、ここでこのような言い間違いをしましたと
取引先に謝って来いという上司までいます。)

その指摘が本当に部下の成長につながることもあります。

しかしソフトパワハラの場合は、
「言わなくても良いこと」をわざわざ指摘することが特徴です。
些細な言い間違い等のケアレスミスの指摘が典型例です。
プレゼンを成功させるという大前提を無視して
些細なミスもなく完璧に行うという
独立した目標を立ててしまうわけです。

間違わないようにやるということはツールであって
目標ではないわけです。
間違わないようにするに越したことはないけれど
相手に伝えることに神経を集中させるべき時に
些細なところに神経を回してしまい、
熱意がそがれてしまうというデメリットもあります。

なによりも、
自分で自分のことを決められないという意識も出てきます。
また、部下が、何が必要でそのためにどう行動するか
自分で考えて、意欲的に取り組み
それによって結果を出したのに
「よくやった」という言葉は形式的に発するものの
評価の大部分がダメだしということであれば、
カウンター攻撃を受けるようなものです。
喜びは失われて、落胆ばかりが残ってしまいます。

それでも、
どうしても相手のマイナスポイントだけが目につき、
それを口にしてしまう人間はいるようです。
けっこう多くの人がこの間違いをしているので、
それはあらかじめ警戒をしておく必要がありそうです。

「どうでも良いことをどうでもよいと評価の対象から外す」
ということをいつも意識しておく必要があるようです。
実害がない欠点や
利点の方が大きい欠点には目をつぶる
という選択肢を上司は用意しておく必要があるようです。

コーチングはメリットばかりではありません。
副作用が必ずあるという意識が必要なのかもしれません。

ソフトパワハラになってしまうと
結局部下のやる気がなくなり
生産性が低下していくことになるわけです。

ソフトパワハラとパワハラは
結局同じように企業と労働者の敵だということで
お互い気を付ける必要がありそうです。

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【広告宣伝】御社の「パワハラ規制強化への対策」は十分ですか?生産性アップにつなげるパ原防止策の企業研修を担当します。 [労務管理・労働環境]


いよいよ、国もパワハラ対策に力を入れ始めました。
パワハラ防止の企業努力が求められていて、
今後パワハラによるメンタル不調や自死が起きた場合の
企業に対する世論や責任はますます厳しくなるでしょう。

企業は、パワハラ対策を強化しなければならなくなっています。

ところが、経営者がいかに「パワハラを無くそう」と焦っても
なかなかパワハラは根絶できず、
現場からは嫌な報告が上がってくる
ということがあるようです。

企業の労務担当の方は、
国のガイドラインを読んだり
講師を招いたり、セミナーに参加したりして
防止策を研究しているわけですが、
いまひとつピンときません。
「わが社にパワハラの芽がないか
どうやって早期発見することができるのか。」
確信が持てないうちに時間ばかりが過ぎていきます。

なぜ研修がピンとこないのかについては理由があります。

1 特殊な事例ばかり紹介される。

パワーハラスメントと縁のない人たちも
パワハラ講師をしています。
生の実態が分からない人たちが無理やり講師をするときは、
過労死の裁判例を説明するようです。

こういう人たちは、判決しか見ていません。
判決だけを見てパワハラを語ろうとしますから、
結論だけしかわかりません。

確かに何をやって、労働者がどうなると
企業はいくらの金額を払うということはわかりますが、
それがどういう経過の中から起きたことなのか
そのことを見ていた同僚の目はどう映ったか
その他の生の事実については何も書いていません。

このため、そういう話を聞かされても、
「特殊な会社の特殊な人格の上司が
 とてつもなく酷いことをやった。
 うちの会社は普通の会社だし、
そんな変な人はいない。
うちの会社には関係ないだろう。」
ということになってしまいがちです。

2 結局何がパワハラかわからない

あるいは、
こういうこともパワハラになります
こういうこともパワハラになります。
ということが繰り返されて、
「これでは実務が回らない。」
と思ってしまうと、
結局運を天に任せて
今まで通りの日常を繰り返してしまう
ということになってしまいます。

何がパワハラなのかが結局よくわからない
どうしてそれをしてはダメなのか
ではどうしたら良いのか
ということも分かりません。

これは、事例をただ集めるだけで、
パワハラが起きる要因、
パワハラによって生じる労働者の影響
それによって二次的に起きる家族への影響
という実態の分析がなされていない事に原因があります。

私はいろいろな人と分析チームを作り、
厚生労働省の過労死防止啓発シンポジウムなどで
研究の成果を発表しています。

私の周りには、法律家や遺族だけでなく、
心理学の学者さん、カウンセラーさん
社会保険労務士さんや
なによりも、現にパワハラで苦しんでいる
多くの労働者と身近に接していて
分析チームに入ってもらっています。

このため、自信をもって分析結果を発表できるのです。

3 警鐘は鳴らされるが、ではどうしたら良いかわからない。

中には、いくつかのパワハラの実態はわかっているけれど
正義感が強すぎて伝わらないということもあります。
過労自死が起きれば、本人だけでなく
家族が一番苦しい思いをしますし、
同僚にも深刻な影響が生じています。

このため、
「パワハラは悪であり、追放しなければならない」
という声高の主張で終わる場合があります。
それはそうなのですが、
そこで思考を停止してしまうと
具体的な防止策が出てきません。
「防止しろ」と言われて終わりです。
善悪二分論は防止の力になりにくいです。

具体的職場において
危険な要素がどこにあり、
どう改善していくかという
「思考」ができなければなりません。

変な表現ですが、
パワハラ上司に対する理解(賛成や支持ではない)
をすることが
普通の企業で普通の上司によるパワハラを無くすためには
どうしても必要なことだと私は思います。

4 「パワハラを無くす」という発想が逆に難しくしている

「パワハラを無くす」ということが目標とされています。
これは実態を考える上でとても邪魔になります。
今あるパワハラの原因を温存して
具体的なパワハラ行為だけを止めるように努力する。
と考える傾向がどうしても生まれますから
どうしても無理が生まれます。

あたかも、怒りを抑えるためには
怒りそうになってから
色々と手立てをする
というようなもので、
頭でわかっていても
実践することはとても難しい
結局、絵に描いた餅ということになります。

それだけならばよいけれど、
「自分はダメな人間だ」
というような罪悪感や無力感に
無駄にさいなまれることもあるようです。

パワハラを無くす、いじめを無くす、自死を無くす
それだけでは、目標としては足りません。

もちろん企業ですから
利潤の追求はしなければなりません。
しかし、パワハラを起こさない職場は、
一人一人の従業員のモチベーションが高まり
逆に生産性をあげている実績もあるのです。

つまり、
パワハラ、過労死を無くすという
マイナスからゼロを目指すのではなく、
その先にあるプラスを目指さないと
本当の改革にはならないと思っています。

このようなことをお話ししながら、
従業員が尊重されるという意味をお話しし
それが生産性のアップにつながるという道筋を
お話しする予定です。

お話しする内容は、
基本的にはこのブログにアップしています。
労働、労災のカテゴリーに主に入っています。

実績
過労死訴訟、労災認定、示談交渉、職場の人間関係改善、相談等実務豊富

最近の講演実績
港湾労災防止協会 平成27年度東北地区安全衛生セミナー
「メンタルヘルスと安全配慮義務」
法務局幹部研修 「ハラスメントの起きない職場づくり」
厚生労働省過労死防止啓発シンポジウム
 30年福島会場「過労死が起きる働かせ方を知る
~26件の精神疾患事例の分析から~」
 28年岩手会場「過労死・過労自死のない社会を目指して」
他仙台会場、山形会場
医療関係者主宰 「過重労働が家族に与える影響」」
社会保険労務士研究会
        「労働災害による損害賠償について」外
熊本県弁護士会 「復興過労死の防止 東日本大震災の教訓を生かして」
厚生労働省 過労死防止啓発教室 
宮城、岩手、青森等の大学、高校、専門学校での授業講師
その他、人権、いじめ、クレーマー、家族力の育み方、離婚、自死等をテーマに、学校、PTA,自治体(教育委員会、保健所等)、弁護士会、心理士会、企業、医療関係者等での講演多数
現職 人権擁護委員 調停委員 精神医療審査会委員等 自殺対策連絡協議会
元職 東北学院大学法科大学院講師(労働法)

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IT化が若者のコミュニケーション能力を低下させる? もしそうだとしたらどういうことか。 [労務管理・労働環境]



コミュニケーション能力とは何かということになると
余り本格的な議論をする能力がないのですが、
会社の経営者や管理職の話では、

10年前と比べても
社会人として当然あるはずの能力がない
具体的に言えば
言われたことしかできない
応用力がない
機転が利かない
無断欠勤する
ということで、コミュニケーション能力がない
と言っているようです。

コミュニケーション能力なので、
一方だけが能力が低下したと言えず
大人の方も低下したのではないかと
まぜっかえすこともできるのでしょうが、
もしかしてということで
考えてみようと思いました。

引っかかるのが
「10年前に比べて」というところです。

この言葉を発した社長さんは結構年配の方なので、
新人類と言われた私の世代が社会人になったのも
迎え撃つ立場だったはずです。
もしかした、真剣に考えるべきではないかと
思ったということはこういうことです。

ところで、今の20歳前後の特徴は何かということにあたって
スマートフォンや携帯電話、タブレットなどの
メールやラインによるコミュニケーションを
いつ始めたか、どの程度はじめたか
というところにあるのではないでしょうか。

今の20歳くらいの若者は、
おそらく中学生の時点では
既にラインやメールでの会話が
結構な割合を占めるようになっていたのではないでしょうか。

私はこれまで、中学生や高校生に対して
ラインの使い方を注意するお話をしてきました。

ラインやメールという非対面式ツールの問題点は、
文字(絵文字を含む)だけで情報伝達をするので、
それを読んだ相手の感情を受け取ることが難しい
また、事前に相手の文字以外の情報に接していれば、
そんなことを言わなかったのにとか
そんな言い方をしなかったのにということが
文字伝達ツールではしてしまうところにある
ということを述べていました。

人間は対面コミュニケーションの場合は、
文字だけでなく、
表情やしぐさ、
声の質、大きさ、速さ
身振り手振り
等から
言葉以上の情報を受け取る。

そうして相手が楽しんでいるならば
多少羽目を外したり、冗談を言ったりする。
相手が脅えているのであれば
言い方を控えたり、別のことを言ったりする。
そういう相手の反応、
つまり相手の感情を受け取って
相手とのコミュニケーションを修正する
ということを行うことが容易にできたわけです。

それがITコミュニケーションではできない。

ちなみに手紙の場合は、
即時的な反応ができません。
封筒に入れて、ポストに入れて、相手に届くという仮定があります。
先ず、書く時も相手の状態を思い浮かべながら書くでしょうし、
気に入らなければ書き直しをしたり
出さないということもあるでしょう。

ところがメールやラインは、書いて送信してしまえば、
相手に届いてしまいます。
また、ラインなどでは
返事が急がされていますので、
ゆっくり書くということができませんので、
手紙とはだいぶ事情が違うようです。

対面で話をしている場合、
相手の表情を見ているから
言い方を変えるか言わない言葉でも
相手の表情を考える前に
キーボードで入力して送信してしまう可能性がある

相手も文字情報だけしか見ていないから
ストレートに言葉に反応して苦しんでしまうことがある
とても危険な事態となる可能性のあるツールであることが
本当なのです。

そんなことを高校生にお話ししながら
ラインのノリによって
あっという間にいじめが成立してしまうなんてことを
お話していたのでした。

しかし、もしかしたら
ITコミュニケーションの問題点は
もっと深刻なところにあるのかもしれないと感じます。

要するに
ITコミュニケーションツールの依存によって
対面コミュニケーションが苦手になっているのかもしれない
ということなのです。

どういうことかというと
一つに、文字以外の情報を瞬時に理解すること
が苦手になっている可能性があるということです。
文字と表情と口調を総合して
何を言いたいかということを理解する
ということが苦手だということですね。

これが進んでしまうと
文字以外の情報を無意識に拒否するようになる、
例えば、対面で話をしているのに
相手を見ない。
逆に、相手の表情やしぐさに集中して
言葉による文字情報が頭に入らない。

例えばこういうことです。
そうすると、ニコニコとした表情で
少しきついことを言って、
普通ならジョークだとわかってくれるだろう
と思っていたら、
言葉に反応して深刻に受け止めてしまうとか

ニコニコという表情にばかり気をとられてしまい
「そんなに熱心にやらなくても流していいから」
という印象的な言葉ばかり耳に残り
結局その仕事をやらないとか

そういうことが起きているのではないかと心配になります。

それから報告書などで
文字情報が漏れなく記載はされているけれど
字が小さすぎて読めないとか
いう現象が起きてはいないでしょうか。

文字情報が多くなってしまい、
自動的に出力文字が小さくなってしまうのに
相手が読むことを考えないでそのまま提出してしまう。

つまり、相手のことを考えて自分の行動を修正する
ということが苦手になって行かないかという心配です。

これは、例えば接客業でも起こりえると思います。

例えば洋服を売る場合、
お客さんが「どうかしらね」
という場合、表情から見て気に入ったか
それはどうかねえ(だめだよね)
という表情の区別がつかないとか

ダメだという場合に相手の気持ちを考えての
(次につなげるという意識の)
行動をとれないとか。

考えて行けばキリがありません。

もう一つ、
ラインに依存しているような場合の問題点ですが
ラインの特徴は、、
前の書き込みを受けて話が続いていく
というところにあります。
頻繁に書き込みをしている場合は
前提の言葉が省略されるので
その書き込みだけを見ても
何が何やらわかないということがあります。

もしかしたら若者は
こういう話の流れの中でコミュニケーションをとることになれていて、
自分で前提を構築して話を始めることが
訓練されていない可能性があります。


高校や中学でも
IT化に対応した授業も行われているようです。
単に入力やツールの使い方だけを教えるのではなく、
弊害を予想して弊害が生まれないようにする訓練も
この先必要になっているのかもしれません。


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なぜ、普通の企業なのに、中間管理職のあなたはパワーハラスメントをしてしまうのか [労務管理・労働環境]

例によって、講演の草稿をここでつくるわけです。
誰かに読んでいただけると考えるだけで、
実力以上の力を発揮できるような気もするからです。

今回のお題は、決してブラック企業ではないはずなのに、
どうして中間管理職が部下にパワハラをするのか
どうやって防止するかにあります。

そもそもパワハラとは何かということですが、
後で理由は述べるとして、
とりあえず、
1 身体的暴力又は人格的攻撃を含む言動
2 部下を孤立させる言動(顔をつぶされる、立場を無くす)
3 その上司の言動に対して部下が解決不能に陥るもの

要約すると
攻撃、孤立、絶望を与える上司の言動です。
指導の要素が含まれていても、
上記3要素がある場合は、パワハラだと考えましょう。

パワハラの定義は目的によって異なりますが、
ここでは、部下特に新卒の健康を守るための目的とします。
加えて
上司が不意な損害賠償や懲戒を受けないために
ということも加えておきましょう。

もう少し具体的に新卒者に対するパワハラをみてみますと、
客観的に、あるいは新卒者の主観として、
仕事を教えないくせに、
できないことを叱責し、制裁が課されるということがあります。
具体的な言葉として
「社会人のくせにそんなことも分からないのか」
「1度きいたら覚えろ、俺は2度は言わない」
「なんでも人に聞こうとしないで自分で調べろ」
ということがよく言われているようです。

少なくとも新卒者は、これでは
どうすればよいかわからない。
どうやったらわかるようになるかもわからない。
「不可能を強いられている」と感じています。

こういうことが同僚の前でいわれてしまうと
強烈な孤立を感じます。

また、当然、これは自分が攻撃されていると思うわけです。
3要素そろった完全なパワハラ言動というべきだと思います。

このような言葉を出してしまう新卒者側の要素もあるようです。
中間管理職だけでなく、経営者も
今どきの若い者は、社会常識がない
10年前と比べても気転が効かなくなった
コミュニケーション能力がない
等と嘆く傾向にあるようです。

こういう傾向は実際あるかもしれませんが、
とりあえず、「若者は変わらない。変わったのは環境だ」
という仮定をたててみます。

ピラミッドに刻まれた世界最古の落書きを解読したら
「今どきの若い者は・・・」という内容だったということで、
若者とコミュニケーションをとることは
そもそも人類は苦手なようです。

また、採用試験を潜り抜けて採用されているのだから
それほどコミュニケーションに問題があるとは思えません。
さらには、若者同士はコミュニケーションをとっているようです。
実際の事例では、
部署が変わったら急にパワハラが始まったということもあるようです。

若者が変わったのではないとすれば
何がパワハラの引き金なのでしょうか。

一つは、上司に余裕がなくなったということがあるようです。
やるべきノルマが多く、期限が迫っていると、
結果を出すことだけを考えるようになります。
仕事ですから結果を出すのは常に求められているのですが、
常に、短期間に結果を出さなければならない。

本来即戦力ではない新卒採用なのに
長期的に育てるという観点を持つことができない。
そのため、自分が管轄するセクションにとって
頭数として計算できるほど成長していない場合、
ノルマを達成するためには、邪魔な存在
妨害者のように感じてしまうということがあるようです。

上司も焦っているので、
懇切丁寧な説明はくどくどしくてできない。
部下は言われた言葉はわかるけれど、
経験がないので、それに着手するまで自分が何が分からないかが分からない。
この段階で聞き返そうとすると
上司は別のことを必死にやっているので答える余裕がない。

本来こういう時は、経験者やせめて同年代と相談できれば良いのですが、
最近の職場は、同僚間の打ち合わせを禁じるようなところも出てきています。
また、上司の「あたり」が強く、
その者がターゲットになっているとおもうと
下手に助けると自分に叱責が飛んでくると思って
助けられないということが多く、
その結果、新卒者は命じられた仕事ができていない
最初の質問の前の段階で止まっているということになるようです。

あるいは、やるにはやったが、
使い物にならない代物を提出する。
言葉は埋められているが読んでも理解できない。
音声は録音されているが、良く聞こえない。

AパターンとBパターンのやり方があるのに、
Aパターンばかりをやってできないという。

これらは上司の指導が十分できていないことから
部下がセクションの妨害者となり
怒りが募ってパワハラとなるパターンです。

会社が一つのチームになれば良いのですが、
実際の人間関係は一つにチームになりにくいようです。

経営者と中間管理職のラインがあり、
そのライン上の人間は仲間関係が成立しているのですが、
そのラインからは一般従業員は外れてしまう。
そうすると、中間管理職は、
一般従業員に対して過酷な対応をしてしまう。
言われた方の立場にたって考えることができなくなるのです。

新卒社員が別ラインになってしまうのは、
中間管理職自身が身分が安定しておらず、
自分が管轄するセクションの結果次第で
有利になったり不利になったりする
そうなると自己防衛という意識が強くなり、
なんとか中間管理職自身が
経営者とのラインに乗るように強く求めてしまう。

また、部下を含めてセクションで仲間意識が強くても、
つまりセクションがラインとして成立していても
お荷物的な労働者がいると
セクション全体の足を引っ張るものということで、
その者だけがセクションの仲間から外されてしまう
その結果、その者だけが「いけにえ」になってしまう。

自分を守るため、セクションの仲間を守るため
という無意識の防衛意識が、
新卒者に対して過酷な対応をとらせてしまうわけです。

中間管理職は、
部下、特に新卒の部下について
・仲間だと思えなくなった(弱点をかばう気がない)、
・攻撃するし、感情的になる、
・不可能を強いている(新卒者の主観的に)
・新卒者が他の同僚から冷たい対応をとられることに
 喜びを感じてしまったら

自分は既にパワハラをしているかもしれないと思うべきでしょう。

そしてこの三要素がないかどうか
何が自分を焦らせているか
じっくり振り返る必要があると思います。

例えば、経営者から無理なノルマ、無理な業務指示があれば
無理だと洞察することも中間管理職の仕事です。
もちろん無理だからやらないのではなく、
やってもメリットが少ないということであれば
長期的な戦略を一部導入することです。

プロ野球で9月になって最下位に沈んで
3位に10ゲーム以上離されているのに
優勝しようと思っても仕方がないので、
新人にチャンスを与えてチームの若返りを図る
こういうことですね。

一つの方法としては、
新卒労働者に自分がつきっきりになり
懇切丁寧に仕事を教えていく。
基本はまねをさせるということ、
一つ一つのアクションの意味、狙い、目標を繰り返し刷り込む。

弱点、不十分点を徹底的に補うということです。
分からない時にはどんどん質問させる。
くだらない質問でも質問したことに肯定評価をしていく。

やる気を出させる方法は、
お金をかけないで手間をかける、心を砕く
という方法で可能ですが、
これは、また改めて。

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日大アメフト事件を監督コーチの処分で終わりにするなら事件は繰り返される [労務管理・労働環境]



日大アメフト事件は、監督、コーチらが除名を含む処分をされました。
もし、監督やコーチ、特に監督の人格上の問題で本事件が起きたならば、
それで終わりにしても再発はしないでしょう。

しかし、もし、今回の事件を起こした監督自身が
このような行為に出るように追い込まれていたとしたら
今回の監督ではなくても起こり得た事件だったと考えなければなりません。

現在の経済学は、人間は誤りを起こすものだという前提から出発します。
誤りを犯すものだから仕方がないというのではなく
どういうメカニズムで誤りが生まれるかいうことを研究し、
先回りして誤りを防止するという努力が積み重なれています。

対人関係においても誤りの仕組みを研究し、
誤りを防止することをするべきでしょう。

今回の事件の背景的問題として、
日大アメフト部が低迷していたという事情があり、
それは大学の評価が下がるという意識があったようです。
このため、アメフト部の成績を上げることが至上命題とされ、
そのために前監督が招へいされたという事情があるようです。

勝ちたいという自然なモチベーションではなく、
勝たなければならないという外圧がかけられていたということになります。

これは企業においてもありうることです。
売り上げが低迷しているために
外部からコンサルタントを招聘したり
ヘッドハンティングをしたりということがあるようです。

おそらく良い条件で抜擢されたのでしょう。
また、組織が困っている時に頼りにされることは
やりがいのあることです。

そうなると、信頼を裏切ることはできません。
一番いやな言葉は
「期待外れ」
です。

無理をしてでも成績をあげなければなりません。
無理をしてでも売り上げをあげるパワハラ上司と同じです。

この時、独自の方法論をもって
部下のモチベーションを高め、
モチベーションを合理的な方向への努力につなげることができれば
成績は上がっていくでしょう。

しかし、各大学、ライバル企業もしのぎを削っていますので、
そんな魔法の人間管理は対人関係学的労務管理を学ばない限り
到底できません。

そういうノウハウがない人たちはどうするのでしょう。
ここに奇妙な共通点があります。
成績の良い個人に依存するのです。

能力のあるものを叩いて
能力を絞り出そうとしてしまうようです。
指導能力のない人たちは底上げということを考えられません。

能力のある個人に徹底的につらく当たり、
無駄に活性化させ、
さらには、アンフェアな行動に出ることまでを期待します。
鬼に金棒作戦とでもいうようなものです。

今回は全日本大学選抜の選手にこれをやりました。
パワハラ過労死の犠牲者も、能力の高い人ばかりです。

能力のある人はフェアに活動していますので、
そこに軋轢が生じるものです。
この軋轢は、やる気と能力のある個人の
やる気を奪っていきます。
この延長線上に自死があります。

それでも、監督や上司は厳しく当たるしかありません。
合理的に伸ばす指導のノウハウがないからです。

軋轢は標的になった個人だけでなく
周囲にも広がっていきます。
人間の習性でこのような不合理に対しては
集団的怒りが形成されます。
この集団的怒りを抑え込むためには、
さらに強い力で先行攻撃をして、
個別に分断して抑え込むという方法がとられます。

そうすると、怖いものですから、
個人から発案することが無くなります。
言われたことをやるしかなくなるということです。
無力感に陥っていきます。

いつしか業績を上げることをまじめに追及することよりも
上司から気に入られるようにすることが
現実の目標になっていきます。

イエスマンばかりになり、
顧客や取引相手よりも
上司の期限が優先されていきます。
その延長線上に
法律や道徳よりも上司の命令を優先する
そういう仕組みができてしまいます。

日本企業低迷の大きな要因だと思います。

日大事件においてもコーチや監督の
行動のメカニズムを検討する必要があり、
これをしなければ、また同じことが繰り返されます。

これは日大に限ったことではありません。
他の大学、他のスポーツ環境や
経済環境に等しく当てはまることなのです。


一番の出発点は、
スポーツの目的のはき違えです。

その教義をすることが楽しく、
純粋に強くなる、あるいは楽しむということでなく、
母校の名誉や受験者数の増大、就職、金銭という
不純な目的が
人間を大切にする、人間に対する敬意をもつ
という当たり前の感覚を奪っていくということを
私たちは繰り返しニュース動画で見せられました。

部活動での活躍が
就職や進学に優位になる
こういうことを遅くとも中学生から叩き込まれてきたことが、
人間性や弱さを否定され続けてきたことが
今回の事件の背景として見過ごすことはできません。

これが日本経済の発展を妨げていると思います。

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高度プロフェッショナル制度制定を他国から見たらどのように見えるのだろう+一般保守政治家の心理 [労務管理・労働環境]

高度プロフェッショナル制度は、日本法制史に残る
あからさまな悪法です。

その理由は、法律自体に大矛盾があり、
およそ法律の体をなしていないという所にあります。

日本の労働基準法は、戦後直後に制定されましたが、
戦前の労働者が長時間労働で早死にしていたことをふまえて
早死にをさせないように
1日8時間、1週間当たり48時間(現在は40時間)しか
働かせてはいけないということを罰則をもって定めました。
さらに、例外的に働かせてもよい場合でも
時間外労働の場合は割増賃金を支払うこと、
10時から5時の労働の場合も割増賃金を払うこと
として、できるだけ時間外労働をさせない
という工夫をしました。これも罰則付きです。

ところが、今回、年収1075万円以上の労働者は
このような時間制限を無くするというのが
高度プロフェッショナル制度です。

どうして1075万円以上の労働者の場合は
早死にさせる工夫が不要となるのでしょうか。
全く根拠はありません。
早死にしてもかまわないということにしかなりません。

時間外割増賃金も
深夜勤務の割増賃金の制度も無くなります。
これが働かせ放題法案と言われる理由です。

おそらく、このような法律ができたとしても
評判を気にするきちんとした企業や
労働者のモチベーションを大切にして生産性向上を考える企業は
最初は高度プロフェッショナル制度を適用しないでしょう。

こんな制度を適用したら、自分の従業員のモチベーションが上がらないだけでなく、
労働者を100時間近く、下旬と上旬で150時間も
時間外労働をさせる企業だという評判は
企業の信用を低めるからです。

また、時間外割増賃金を払わないならば
労働者を増員する必要がなくなるでしょう。
二人分を一人に働かせればよいわけですから、

しかし、そんなことをしたら、
払うべき賃金も払わない企業
というレッテルが張られるでしょう。

だから、怖くてこんな制度を採用しないと思われます。

しかし、内閣がこんなに話し合わないで強行採決するのだから
一部の企業では、採用するでしょう。
そうすると、経費(人件費)が下がる制度をどうして採用しないのだ
という素人的圧力に屈する企業も増えていくのだと思います。

一番気にしなくてはならないのは
日本の企業の中ではそのようなルールとなっていても
海外ではそのようなルールとなっていないのですから、
外圧がかかってくることは気にしなくてはなりません。
歓迎しているのが、時差を気にするグローバル企業だけかもしれません。

なんにせよ、一部の会社でそのような要求があるからと言って、
理屈に合わない高度プロフェッショナル制度を
強引に推し進めていることを、外国の企業はどのように思うでしょうか。

あたかも、高度プロフェッショナル制度は、
日本企業の総意で制定するというように感じるでしょう。

日本企業は、労働者を休ませないで働かせなければ
採算の合わない経営体質の瀕死の企業ばかりだと感じるでしょう。
それだけ無茶苦茶な制度だからです。

エコノミックアニマルという言葉が昔ありましたが、
この時代ではエコノミックロボットという言葉になるでしょう。

日本労働者の権利意識の低さに驚嘆することでしょう。
そうして、この法律を提案しているのが、
国土交通省や経済省ではなく、
厚生労働省ということを知ったらさらに驚くでしょう。

労働者の福祉、健康を増進するはずの省庁が
過労死を蔓延させる矛盾した法律を提案しているということは
世界の非常識だと思われることでしょう。

これでは日本には、
「我が国の労働者の権利を守る省庁」に当たる省庁は
存在しないのかと納得してしまうことでしょう。

日本は、官僚制度が機能していない
と感じることでしょう。

また、日本の国会議員、特に保守派の議員は
なぜこのような無茶苦茶な法律の提案に
反対派とも区画としても議論をしないのだろうと
不思議に思うでしょう。

この点については少し考えなければなりません。

しかし、高度プロフェッショナル制度に賛成する国会議員のブログにヒントがありました。

第1に、先ず、保守政治家自身が、この法案を知らないのです。
労働基準法の何をどう変えるということも、
それがどのような意味があるのかということも
また、どのような法律に変わるのかさえも
まるで分っていないのです。

驚きました。

これでは反対するあるいは議論をするきっかけが生まれません。

第2に、そうなると次に、彼らは何を考えて賛成しているか
それは、保守党というコミュニティーを大切にする
それがモチベーションだということになります。

分からないけれど、自分たちの代表が推進しているのだから
とにかく推進しなければならない
という意識なのだと思います。

そうするとマスコミや野党が騒げば騒ぐほど、
自分たちを守ろうとしてしまうわけです。

なりふり構わずに
まるで、過労死遺族をあざ笑うような行動は
そのような条件で生まれるようです。

日本をどうしようという発想がないのでしょう。
日本人の幸せではなく、
自分たちに利益を与えてくれる人の幸せを優先に考えている
そういう結果なのだと思います。

ある意味優しい人たちなのでしょう。
しかし、その優しさは
天下国家を動かす立場からすると
致命的な資質の欠損というほかはないと思います。

高度プロフェッショナル制度
とにかく恥ずかしいのです。こんな制度。
国の評価を下げるどこかの司会者みたいな法律だと私は思います。


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【緊急】高度プロフェッショナル制度が有史以来の悪法であることについての説明。官僚や財界が反対しないことが不思議な理由。 [労務管理・労働環境]

働き方改革の中に高度プロフェッショナル制度があります。
これは、年収1075万円以上の労働者には
労働基準法の労働時間制限が適用されなくなるという制度です。

労働時間制限と言ってもピンと来ないかもしれません。
以下、説明します。

1 日本においては、労働者の労働時間は
  1日8時間、週40時間の上限があるということ
2 上記上限を超えて働かせると原則として
  刑事罰の対象となること(自然人なら前科がつくということです)
3 例外がいくつかあり、
  職場の3分の2以上の労働者を組織する労働組合などが
  使用者と労働協約を締結することによって
  刑事罰を免れる制度があること(いわゆる36協定)

  但し、36協定が有効であるためにはハードルがあり
  例えば、時間外で働かせる内容が
  日常労働ではなくイレギュラーな作業である必要がある
  ということが通達で定められている。
  従って、36協定があるからと言っても
  日常的に一日8時間以上、週40時間以上働かせることは
  通達違反ということになること。
  この点があまり知られていないので、
  日常的な時間外労働が蔓延している。

4 法は、時間外労働をさせないために周到な準備をしていて
  時間外労働が許される場合でも
  ただ時給を払えばよいのではなく、
  時間外ということで割増賃金を払わなければならないとし、
  この割増賃金を払わない場合にも刑罰の適用がある

こういう制度が労働基準法の労働時間制限です。

では、どうして労働基準法に労働時間制限があるのでしょう。
労働基準法が制定されたのは昭和27年です。
まだ「過労死」という言葉はありません。

しかしながら、労働時間制限が設けられた理由は、
「早死にを防ぐため」ということだったのです。
繊維工業や土木作業において、
長時間労働が行われていて、
肺結核などの呼吸器疾患等で
若者が次々死んでいったという立法事実がありました。
戦争という24時間労働もあったでしょう。

良く、昔の人は朝早く夜遅く働いても長生きした
とかいう人がいますが、
長生きした人だけを見ているからそうなのであって、
実際は、多くの若者が死んでいったのです。

「早死に防止」は、松岡三郎先生という
当時、労働基準法の立法作業に役人として携わった方が
労働基準法の教科書で記載されています。
この教科書も、「過労死」という言葉が生まれる前に著されています。

つまり、労働時間制限は
過労死防止だけの制度ではないということです。

さらに、私は労働分野だけでなく
夫婦問題親子問題も手掛けていますが、
長時間労働がもたらす家庭への影響を
もっと考えるべきです。

親子が一緒にいる時間が少なければ
家族は壊れやすくなるというのが私の実感です。
徳に夫婦はそうです。

さらに、疲労が蓄積していけば
イライラが高まっていきます。
夫がそのような状態だと
妻は必要以上に疎外感を感じ、
危機感に敏感になってしまいます。

長時間労働のある会社は
職場全体が殺伐として生き
無駄な決まり事も増えていきます。
そういう決まり事、社内常識を
家庭に持ち込んでしまうと
さらに家庭はぎくしゃくしていきます。

つまり、長時間労働は、
人間の生命、身体の健康をまもるということと
対人関係の悪化を防ぐということから
人間の安全を守るための制度だと私は考えます。

労働者の健康を守る制度は労働時間制だけではありません。

例えば高所作業の場合は、
ヘルメットを着用し、安全帯を設置すること等が定められています。
もちろん身体生命を守るためです。

もし、その高所作業員が年収1075万円以上だったら
ヘルメットを着用させなくてもよい、
安全帯を設置しなくてもよい
ということになったら、誰でもおかしな制限撤廃だとわかるでしょう。

どうして、労働時間法制だけ撤廃してもよいということになりましょう。

おそらく、高所作業の場合、
ヘルメットや安全帯を着用しないことの危険が
誰でもわかりやすいからなのでしょう。

しかし、時間外労働が多くなればなるほど
死ぬ確率も増えるということは、
ほかならぬ厚生労働省が啓発していることなのです。
厚生労働省は、月45時間以上の時間外労働があれば
過労死になる可能性が高まっていくとしています。

これが、月100時間以上働いても
違法にならないとすることとどう整合するのでしょうか、
年収が高いことと何か関連するのでしょうか。
何も関連しません。
年収が高いからと言って過労死にならないという理屈はありません。

過労死という言葉がなかった時代に
8時間、48時間労働時間制を作った
日本の官僚たちは、先見の明があり、
日本という国を、国民の幸せのための制度にする
という気概が感じられます。

それから、医学的にも進んで、
長時間労働の害悪がいよいよ明らかになってきた今日に
労働時間制度を一部廃止するということは
他の労働法制と全く整合しません。
法律の専門的見地からすれば「めちゃくちゃ」です。

現在進められている高度プロフェッショナル制度は
月あたり100時間を上限としていますが、
過労死認定基準で有害とされている
2週間以上の連続勤務を許しているということもあります。
また、暦の上の月ということですから、
5月と6月で2カ月なので、合計200時間までは良しとされてしまいます。
その結果、5月の後半と6月の前半に時間外労働を命じれば、
30日あたりで100時間を大きく超える労働を
命じることが違法とされなくなってしまいます。

むちゃくちゃの上をゆく悪法です。

このような法律の整合性もなく、
労働者やその家族を追いつめる制度を
国民の税金で生活している官僚たちが進めていることに
どうしても納得できません。

政府は財界の意向を受けてい行っているという報道もありますが
私は信じられません。
労働者に月100時間近く時間外労働をさせる会社で
即ちそういう無茶な労働をしなければならない会社で
長期的に見て反映する会社があるでしょうか。

時間外割増賃金も支払わない会社が多いということは
日本経済が破綻寸前だと考えなければなりません。
われわれが会社が危ないかどうかを見極める指標として、
賃金の不払いや遅延があります。
こういう会社は早期に見限るべきだということが常識です。

日本経済はそういう状態なのでしょうか。
これでは、世界経済の中で孤立していくでしょう。
財界は、自分たちの経済的信用をかなぐり捨てて
何を勝ち取ろうとしているのでしょう。

グローバルな取引をする企業こそ
日本企業の信用失墜を防ぐために
高度プロフェッショナル制度に反対するべきなのです。

このままでは、高度プロフェッショナル制度は成立するとのことです。
一部の動きとして、労働者に解約権を作るとか言っています。
ないよりましかもしれませんが、
そういう対等の立場で解約できないから
労働基準法があるということを理解しない
とても恥ずかしい議論だと思います。

私がこれに反対しないことは、
私がこれまで学んできた労働関連法規、
法律を守るという実務家のキャリアをすべて否定するものです。
だから私はこの法案に反対します。


  
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「高度プロフェッショナル」という名称にまつわる誤解が利用されている [労務管理・労働環境]


高度プロフェッショナル制度とは
対象者は年収1075万円以上で、
研究開発や金融商品のディーリングなど高度な専門業務
という労働者を対象に、

労働時間の上限を撤廃し、
時間外割増賃金制度の適用も外す
というものです。

「高度プロフェッショナル」という言葉は
誤解を生みやすい効果を狙っての名称でしょう。

あたかも、
自分で自由に働き方を決められる立場の人
という印象を持ちませんか。
こういう立場の強い人であれば、
保護はいらないのではないかと
うっかりすると考えてしまいます。

しかし、こういう人たちは
現在はあくまでも労働基準法の適用を受ける労働者なのです。

つまり、使用者の指揮命令に従って労働をしなければならないので、
自分で勝手に仕事を作って働いているわけではありません。
個人事業主ではないのです。

この労働者と言えるかどうかのメルクマールについては
1985年に労働省労働基準法研究会報告が提唱しているものがあります。
それには、
1 仕事の依頼を拒否できない
2 仕事をする際には、上司の指揮監督に服する
3 労働時間、就業場所は使用者に従う
4 他の人に変わってもらえない
5 報酬の算定方法は使用者が決める
となっています。

つまり、これから、
高度プロフェッショナルの名のもとに
労働時間規制がなくなり、
時間労働が支払われなくなる人たちは
概ね1から5の基準を満たす人たちなのです。

名称に惑わされてはいけません。

では、どうして、そういう労働者には
労働時間の制限があり、
時間外労働をさせる場合に割増賃金の
支払義務があるのでしょう。
これは、違反すると刑事罰の対象となります。
そこまで強く守らせようとしたのが
労働基準法の立場ということになります。

労働時間を厳しく定めた理由は、
労働者を早死にさせないためです。

なぜ、私がそう言い切れるかというと、
官僚として労働基準法を作った人から
私は労働基準法を教えてもらったからです。
松岡三郎先生と言って、
私が教えていただいた当時は明治大学の教授でしたが
私の大学にも教えに来ていただいていました。

その先生の著書に明確に記載されています。

その著書を表した当時は、
まだ過労死という言葉はありませんでした。
労働基準法制定当時も(1947年)
過重労働による脳・心疾患という概念はありませんでした。

但し、戦前も、過酷な労働状況の中で、
結核や肺炎、栄養失調、消耗等で
若い命が失われていきました。
これは常識でした。

だから、当時、
1日8時間まで、1週間48時間まで(現在40時間)と定め、
違法な長時間労働を罰則付きで禁止したのでした。

そうして、時間外労働の場合、
なぜ割増賃金を義務付けたのか
(時給1000円の人は1250円とか)
というと、
コストを高くすることによって
時間外労働を抑制するためでした。

管理職は、時間外労働で割増賃金は尽きませんが
深夜労働(午後10時から午前5時)は
管理職であっても割増賃金がつきます。
深夜労働の危険性
早死にしやすいということから
制限をきつくしたわけです。

この考え方は法律制定当初の考え方だけではなく、
昨年の最高裁判決(平成29年7月7日判決)でも
「労働基準法37条が時間外労働等について
割増賃金を支払うべきことを使用者に義務付けているのは,
使用者に割増賃金を支払わせることによって,
時間外労働等を抑制し,もって
労働時間に関する同法の規定を遵守させるとともに,
労働者への補償を行おうとする趣旨によるものであると解される」
と明確に述べています。

さて、高度プロフェッショナル制度は
年収が1075万円を超える職種とされています。
これだけ年収があれば、
労働時間の規制が無くてもよいのでしょうか。

これだけ年収があれば早死にしてもよい
ということにはなりませんね。

これだけ年収があっても、
時間外労働を余儀なくされれば、
やはり、くも膜下出血や心筋梗塞、
あるいはうつ病による自死などの危険がでてきます。

これだけ年収があっても
使用者が仕事の内容、どこまでやるか
ということを一方的に決めますし、
賃金の額も一方的に決めます。

労働者は仕事をせざるを得なくなって、
過重労働をする可能性も
大いにあるわけです。

なぜ年収が高ければ
労働時間の規制を外すことができるのか
全く理由はありません。

政府は、裁量労働制の統計がでたらめだったことを受けて
高度プロフェッショナル制度以外の裁量労働制は引っ込めました。
しかし、財界の不満を受けて
高度プロフェッショナル制度は残すと報道がなされました。

結局、
労働時間の規制をする必要性はあるけれども、
財界の要請で規制を撤廃する
という報道だということになります。

財界の要請を受けて
早死にの危険に目をつぶるということです。

厚生労働省というお役所は
労働者の健康や福祉を促進する役所ではないのでしょうか。

ノルマの無い研究開発
労働に従事する時間帯が限定されている
金融ディーリング
そんなものはありません。

労働者の命の危険を分かっていながら要請する財界
労働者を使い捨てなければ企業が成り立たないとすれば
日本は何とも貧しい国になったと言わざるを得ません。
しかし、この制度は
タコが自分の足を食べるような
優秀な労働者を消耗し、
優秀な労働者をそのような業種から遠ざけることにつながりますから、
どんどん兵力が消耗していくだけです。

第二次世界大戦の末期の様相を呈していると思います。
効率よく儲かる仕事に
職種転換をすることを
気が利いたコンサルタントなら勧めるところでしょう。


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大人とは何か。国会議員のパワハラに学ぶ [労務管理・労働環境]


大人の反対は子どもで、究極には赤ん坊でしょう。
とりわけ人間の赤ん坊は、自分では何もできません。
おなかがすいても、おっぱいまで自力でたどり着けません。
移動がまず無理です。

暑くても、排せつでも、眠ることすら
自分で始末ができません。

大人に気づいてもらうために
泣くわけです。
大人も、ツバメが巣のひなが口を開けて待っているところへ
餌をやるように世話をします。

人間の赤ん坊の対人関係は
他の構成員に完全に依存をして
身体生命の安全と
対人関係的な安全を確保するという関係です。

「成長」とは、
自分の行動可能範囲が拡大していくことです。
それと同時に、
自分の行動を自分で決定して行動したい
という要求も生まれてきます。
これが本来あるべき動物の個体の特性ですから、
当然のことです。

ちなみに、この決定権が阻害されたときの反発が
「反抗」です。

大人になるということや「成長」が
身体の変化についてだけ語られることが多いのですが、
対人関係学的に言えば、
一つは、今述べた自己決定による行動の拡大が「成長」です。

もう一つの「成長」は、
対人関係における自己の在り方の変化です。
これが重要な指標ということになります。
つまり、
赤ちゃんの時は、すべて
例えば家族という対人関係では
親等が対人関係的な危険を除去してくれていました。
自分は、家族という対人関係に対して
何らかの行動で貢献をしていません。

完全に従属的な対人関係です。

少しずつお手伝いをしながら、
家族の一員として行動をするようになります。
同じ行動をしても、
例えば勉強をしていても、
自分のためだけに勉強をするのではなく、
将来の家族のためだったり、
家族の一員として頑張る
等の意識付けがなされることもあります。

家族に何かしてもらばかりではなく、
家族のために何かをするようになるということです。
これが対人関係学的な成長です。

こういう体験を通じて、将来、
親の家庭から独立して
自分の家庭を持つための準備になるわけです。

動物の場合、
本能的ないし生理的に
子別れの時期が来て子別れができるのですが、
人間の場合、
意識的に行わないと
親離れ、子離れができません。
こういうケースも多くなってきました。

一つのキーワードは、
家族の構成員として子どもを行動させることが、
逆に子離れ、親離れを自然にスムーズにするということです。

親がすべてをしてあげることは、
あるいは、親にすべてをしてもらおうという意識は、
子どもが大人に成長することを阻害することになります。

年齢が大人に達してなお、親に依存している生活を続けてしまうと、
なかなか対人関係学的な意味での大人になりません。
それでも、時が過ぎると、親に依存することができない年齢になってしまいます。
こうなると、ようやく対人関係学的に大人になったときにできることは
せいぜい親の介護だけだったということもあり得る話なのです。
その人の一生が老老介護で終わってしまうということです。
もしかしたら、それは親の責任かもしれません。

以上から見えてくる「大人」とは、
「他人に依存することなく、
 対人関係を、主体的に形成していく人間の成長の段階」
を言うのだと思います。

主体的に形成するといっても、
人間は群れを作る動物ですから、
他の構成員と共同作業をする
という特質があります。

共同作業と依存のどこが違うかということは、
共同作業は、相互に相手を尊重しながら、
それぞれが自己決定した行動を共有します。

依存は、決定過程に一方の意思しか反映しません。
他方が自分で何かを決めることは許されません。
一方が結論を求めて他方が従うという構造となります。

赤ちゃんがおなかがすいたからおっぱいをあげる
というのは、
赤ちゃんの決定、つまり、「自分のおなかを満たせ」という結論の求めに
親が対応しているということになります。

行動を決定する者、結論を求める者こそが、
実は依存者なのです。

最近実録音声が公開された国会議員のパワハラは、
パワハラ加害者の幼稚性を
実にわかりやすく示しています。

この場合、結論を求めている方が
国家議員でした。
国会議員が秘書に依存していたと評価されるべきです。

過去の誤りをなかったことにしろという
典型的な無理難題の結論を
秘書に押し付けていたわけです。

実現不可能な結論を求めて、
攻撃を繰り返すところに
パワハラの特徴があります。

厳密な意味では不可能ではないにしても、
実際それを遂行するのは著しく労力がかかる
ということも似たようなことですね。

被害者は、途方にくれますが、
対人関係的な危険を強く感じ続けるという状態で、
生理学的に言えば、
生命身体の危険を感じ続けるということと
同様の反応を人体は示しています。

人間にとって、
心身共に極めて有害な出来事なのです。

赤ん坊が親に泣きつくのは、
赤ん坊だから許されるし、
泣いている声も可愛いと思います。
(だからなぜ泣いているのかわからないと
 不安になったり怒りを覚えたりします。)

大人が、特に権力を持っているものが
赤ん坊の様に結論だけを求めて
喚き散らすことは
むしろ犯罪として取り締まりたいくらい危険なことなのです。

それでは、同意対応をすることが
大人の対応なのでしょうか。
理想的な上司の対応を検討します。

部下が、ミスをした場合。
不問に付すこともできないとしたら、
先ず、このミスから、どの程度の実害が生じるのか
冷静に分析をします。
そうして、その実害を克服する方法、
むしろ、ミスを活かす方法を検討するでしょう。

そして将来に向けて
どうしてそのようなミスが生じたかの原因を分析する必要があります。
気が緩んでいたとか、そういうことでは安定した仕事はできません。
具体的にミスの生じた構造を分析し、
将来ミスを繰り返さないために、
具体的な対策につなげなければなりません。

仕事とはそういうものです。
繰り返されるところに業務の特徴がありますから
繰り返さないこと
改善することを見つけて将来さらにプラスを目指すチャンスなのです。

日本の風土はもしかしたら
「ビジネスチャンスになるミスの活用」
という発想が無くなってしまったのかもしれません。
「損して得取れ」という日本古来の発想です。

叱責や懲戒が、
当人だけでなく、職場という対人関係全体の将来において
プラスになるのでなければ意味がありません。
デメリットしかないのです。

部下の有能さ、上出来の結果だけを求めるというのは、
無能な上司の言い訳にしかすぎません。

「部下に緊張感を持たせる仕事」
「重石、ないしプレッシャーを与える仕事」
ということで割り切る会社もあるようです。
早晩、会社は先細りになるでしょう。

緊張やプレッシャーは良い仕事をするための要素になります。
しかし、それが高度になったり持続することで
自己決定力が落ちていき、ケアレスミスも増え、
結局デメリットしかないからです。

人間の緊張の持続には限界がある
という当たり前のことに目をつぶり、
緊張によって成し遂げる結論だけを求めている
幼稚な労務管理ということになります。

幼稚な労務管理は、
自発的な活動や、自主的な考察、
独創的な発想を奪います。
要するにモチベーションが低下するわけです。

ボランティアの支援者たちだって、
人を支援する場合には人間とは何かを考えるというのです。

他人と交流して利益を上げようという企業が、
人間とは何かを考えずに、
結論だけを求めて泣き叫ぶ赤ん坊の状態では
業績が上がらないことは理の必然だと思います。

まして、
国の在り方を決める国会議員が赤ん坊状態で泣きわめいて
権力を振りかざしているとしたら、
その国の将来はどうなることでしょう。

【シリーズ最低】過労死予防を口実に解雇制限の緩和を主張する水鏡推理Ⅵ [労務管理・労働環境]

結構好きで読んでいたのです。
松岡圭祐の水鏡(みかがみ)推理シリーズ
東京出張とかの新幹線の往復で
ちょうど読み終わるような(途中昼寝して)
分量ですし、
ややむちゃくちゃな展開でも、
なんとなく応援したくなる主人公と
頭の体操的なパズルがはめ込まれていて、
癖になるような感覚でした。

シリーズ6作は、
過労死やブラック企業問題に取り組んだといううたい文句の宣伝が
5作を読んですぐ新聞に載ったので、
ちょうど東京出張もあったし、
買っておいたのでした。

途中まで読ませる文章はなかなか見事で、
過労死を取り上げた小説ということで
どこかに勝手に書評を挙げようかと思っていました。

ところが、今回は
オチの部分でがっかりしました。
あまりにもそれは無いだろうというオチ
トリックの解明ではなくオチ。

結局主として主人公だけが騙されていて、
主人公のためだけに仕掛けられたトリックを
主人公だけが引っかかって、

およそ、財務省主計局の官僚が
そのような行為をするわけがないという
しかも、医師や警察官の話を信じて
自分は何も考えずに自分の将来をふいにするような行為をした
というのですから、お笑いも良いところでしょう。

そして、およそありえない偶然でその場所に訪れ、
時間的にもその他の物理的条件も無視して、
その場で確保するという
あの夢中になって読んでいた何時間を
返してほしいと切なる願いを抱かせられます。

シリーズ最低のつまらなさです。
おそらく、別のテーマの作品で用意されたトリックを
無理やり、水鏡シリーズに突っ込んでしまった
のではないかと思うくらい不自然さと
これまでのシリーズとの違和感を感じます。

それだけなら、わざわざこのブログを書かないわけで、

過労死を扱ったと言いながら
過去の回想の事件以外
過労死案件が出てこないこともよいでしょう。
どうせ書けないでしょうから。

また、過労死の把握についても、
インターネット記事だけで構成しているのもよいでしょう。
あまり目くじらを立てると誰も過労死を取り上げなくなるでしょう。

過労死バイオマーカーなんてものが
今回の発明というシリーズのキモなのですが、
そんなもの作ったら、
マーカーの基準値に達しない者が過労死ではないという
排除として使われるということも
作中でも批判されていますから目をつぶります。
私は、

一番許せないのは、
ストーリーの進行の上でも、
登場人物の動機の上でも
何の関係のないとってつけた
過労死防止の方法が
開陳されていることです。

そのキモとして強調しているのが、
過労死を防止するために
解雇制限を緩和して解雇を認められやすくしようというものです。

要するに、
解雇が認められないために
あたらしい人を雇えないのだと、
景気が悪くなったら人件費がかさむからと、
だから、現状のスタッフで残業をさせて
その結果が過労死だというのです。

馬鹿も休み休み言えと。

現在正社員と非正規社員の格差が激しく、
正社員のテーマは解雇されないことです。
簡単に解雇が認められるようになれば、
解雇されないように、
パワハラ上司におもねるようになるし、
自分が解雇リストに入らないように
自主的に、残業代返上で
働くようになるでしょう。

そもそも、解雇制限が厳しくなった昭和と
派遣労働者や有期雇用労働者が多くなった平成と
どちらが過労死が多いか考えてみれば、
解雇制限と過労死は全く関係がないことが
一目瞭然だと思います。

また、国を挙げて、
3月を自殺予防月間と定めています。
派遣切りや有期雇用労働者の雇止めが3月に行われるので、
自殺と関連しているということをみんな認識しているからです。

雇用不安は自殺を招くのです。

過労死しなくても自死すれば同じことです。

今回の冒頭
劣悪な労働環境による過労死が根絶されることを強く願う
ととってつけたように記載されています。

そのくせ、過労死事案だとされたのが
狂言と統合失調症の厳格だというのがオチなのです。
狂言は、過去に過労死で同僚を亡くした人たちが
過労死予防のために荒唐無稽な犯罪に手を染めるというのですから、
過労死を亡くそうというすべての人たち、
厚生労働省をはじめとする省庁、
もろもろの人たちに対する冒涜だと感じました。

これは、特定の意図を持った人たちによって
急きょ作られたプロパガンダだというのであれば、
オチのつまらなさ、とってつけたような過労死
ありえない設定と解決
すべてがつながります。

結局推理小説自体の冒涜なのでしょう。
とても残念です。

ただ、明るい要素もあります。
どこかの特定の人間たちが、
過労死予防を口実に、
労働者をさらに追い込む制度を作ろうとしているということです。
その手口を前もって教えてくれたということかもしれません。

また、この提灯記事を書いて宣伝している人たちを
警戒すればよいということもよくわかりました。
作者の良心によって
オチの荒唐無稽さとその後の蛇足的な文書の中で
まともな人はがっかりしているところで
このプロパガンダをはめ込んで、
あまり影響力を持たないように周到に工夫されている
ということでしょうか。

次も買うとは思いますが
しっかりした構成の作品になることを願っています。

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