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35度に達した日の部活動は中止することで、学校、教育委員会は保身を図るべき [事務所生活]

東北各県の県庁所在地も猛暑日が予想されています。

こういう日でも、部活動が行われ、
子どもたちは、熱中症の危険にさらされています。
ところが、子どもたちは、
「部活動に行かなければならない。」
という意識を植え付けられていますから、
自分のことを守ることまで思い至っていません。

そのくせ、なんで昔の大人たちは
戦争なんて愚かなことをやったの?
と問いかけてきます。

「まさにあなたが自分の健康を顧みずに
 部活動に出かけていくことと似ているんだよ」
とお話ししたいところです。

わりと室外で行われる部活動は
熱中症対策を意識しているようで、
水分補給や休憩を意識的に取り入れている
ところも多くなっています。

問題は、室内での部活動です。
室内ということで、科学的な対策を
行っていないことが多いようです。
しかし
熱中症は、多くは室内で起きている
のです。

室温が30度以上ということは
かなり危険な状況です。

こういう状況の中で
部活動を開催することは、
当然安全配慮義務に違反する可能性が
極めて高くなっており、
どんなに隠ぺいしても、
気温は気象庁が公表しているので、
逃げ場がなくなります。

生徒が熱中症になった場合
学校や教育委員会は、責任をとらなくてはなりません。
死亡でもしたら
莫大な損害賠償の対象となります。

これ程、連日ニュースで熱中症の報道がある中で、
性懲りもなく、危険な行為を続けることは、
大きな非難も巻き起こすでしょう。
テレビの取材もある上に、
業務上過失致死傷の
刑事事件にもなりかねません。

当然、管理者たる校長、教育委員会は、
重大な処分の対象にもなるでしょう。

外気温いかんによっては
部活動を停止するか
短時間とするのが、無難だと思います。

::::::::::::::

こういうトーンでお話しすることが現実的なのでしょうね。

昭和の先生なら、
教え子をわが子のように考える先生も多く、
自分の子どもだったら、
炎天下で遊ばせないように、
無理をさせることはなかったでしょう。

今の管理職をはじめ
信じられないくらい他人事だと
感じさせるエピソードには事欠きません。

震災の年、
少なくない割合の父兄が、
わが子に対する放射能の心配をしていたときに、
福島原発から3ヶ月程度で
半年間放置していた室外プールの掃除を
児童にさせた学校もありました。

危険性が証明されていないからやらせるのでなく、
安全性が証明されていないからやらせない
というのが、親身な大人の考え方でしょう。

夏休み前も部活動停止ということはありました。
外気温が高いためという理由でした。

それでも室内や大会が近い部活動は
敢行したわけです。
それもわからなくもないのですが、
健康は二の次になっています。
また、「室内であること」に対する
非科学的な過信も見受けられます。

夏休みの方が、さらに数度外気温が高いのに
このような措置もないようです。

また、いじめの問題でも
自分の子どもの年齢のような教師が
一人で悩んでいても
一緒に共同して対応するということが
どこまで、行われているのでしょう。

東芝の社長のように
「いじめを早く解決しろ」
という結論だけを押し付けている
という学校は少数派なのでしょうか。

全く他人事以上に、
他人は人間扱いしない、
という風潮を危惧してなりません。

自分の責任が追及されないように、
「被害者に我慢させて
 いじめや、対人関係を処理している」
ということは少数派でしょうか。

もし、これらの危惧の通りだとすれば
子どもたちも、それでよいんだということになるのではないでしょうか。

自分の不安を、
誰か弱いものにあたりちらし
反撃されないように徒党を組む
数の力で、少数者を排撃する
いじめが起きるのは当たり前だということになります。

そうだとすると、
道徳や正義や思いやりを解くのではなく、
保身の方法を提案するしかないということになり、
本日の第一部の記事の表現となりました。




反戦平和が人の心をつかまない理由 独善的ということの意味 [事務所生活]

安全保障法制の是非の問題ではありません。

私は、この法案は廃案とされるべきだと考えていますが、
「日本が戦争に巻き込まれるから」
という理由で反対しているわけではありません。
その危険があることは承認いたしますが、
それを理由とはしないということです。

あくまでも、憲法9条があるにもかかわらず
集団的自衛権を行使するならば、
立憲主義が崩壊してしまうからです。
これらについては、ここしばらく書いていましたので、
もし興味がある方はこれまでの記事をご参照ください。

話に入っていくのですが、
私が反戦平和を口にして法案に反対しない理由です。
これまで、先頭を切って安全保障法案に反対してきた人たちの中には、
実は、集団的自衛権自体は賛成する人たちも多くいるのです。

ただ、集団的自衛権は必要だが、
憲法9条があるから、日本では行使しえないのだ
ということで、
憲法9条を改正しないのに、集団的自衛権を法制化することに
反対しているのです(立憲主義の立場)。

反戦平和だけで反対している人と
立憲主義だけで反対している人は
理由が違うのですが、
安全保障法制を廃案にするということが
共通の目標のため共同して行動しているわけです。

だから、立憲主義だけで反対している人を
同じ会場に読んできて、
反戦平和、集団的自衛権反対だけを主張していたのでは、
立憲主義だけで反対している人は居心地が悪いのですが、
見ていると、極めて大人的対応をされており、
立憲主義だけで反対されている方々は立派だと感じ入りました。

自分たちが攻撃を受けたとしても、
立憲主義を守るために結果を出すという
深い考えの下で、行動をされているのでしょう。

私も、一般の方々が、
反戦平和の立場から法案反対を叫ぶことは
なんら否定される筋合いはないと思います。

問題は、司法にかかわる法曹関係者
法律を研究する法学者、
立法にかかわる政治家が、
立憲主義を大きく問題にしないで、
戦争法案だという反戦意識に訴えて
廃案を呼びかける手法です。

たしかに、反戦平和は、日本において
一定程度訴える力があります。
平和を訴えることは、票にもつながるでしょう。

しかし、それで多数が形成されるわけではないのです。
これまでの日本の歴史の中で、
反戦平和を訴えて、政府方針が転換されたということはあったでしょうか。
大事な局面で、善戦むなしく敗れ去ってばかりではないでしょうか。

これに対して、
訴える力が弱かったとか
国民の理解力が低いということで、
科学的な分析をしないで、
さあ、展望はある、ガンバローということが
繰り返されていたのではないでしょうか。

反戦、平和だといった段階で思考が停止し、
さらなる分析や多数を形成する方法を考えず、
いかに声を大きく訴えるかだけを考え、
後はついてこないほうが悪いということではなかったでしょうか。

現在の政権は、40%の支持を得ているのです。
これらの人たちは、
反戦平和に反対しているのでしょうか。

もちろんそんなことはないのです。
戦争に賛成しているわけではありません。

自分たちが選んだ内閣が、
戦争をしないといっているのだから、
他国の脅威の抑止力として家族を守るのだから
ということで、
内閣を信じているというか、信じて安心したいのです。

だから、安全保障法案は戦争法案だということを
左翼政党が言っても、
「ああ、あんたたちは、またそうやって、
 頑張っている安倍さんたちを侮辱するのか。」
とそういう反応をしています。

頭に来るばかりです。

ところが、同じ集団的自衛権に賛成し
憲法9条を改正しようとしていた人たちが、
安全保障法案に反対しているのを見ると
「あれあれやっぱり駄目な法案なのか」
と聞く耳を持とうとする人たちも幾分出てくるのです。

だから、
安全保障法案に反対する人=反戦平和、9条堅持
安全保障法案に賛成する人=戦争推進勢力
というレッテル貼りをしていくことは
大変愚かしいことだと思います。

安全保障法案に反対する人 = 反戦平和、9条堅持 
              + 立憲主義ですし、
安全保障法案に賛成する人 が 反戦平和に反対 
               ではないのです。

安全保障法制の賛否においては、
戦争反対、平和が大事ということは
争点にはなっていないのです。

どこの争点化ということも問題にしないといけないかもしれません。

確かに、内閣等法案提出者に対しては、
この論点もかみ合っているのかもしれません。

しかしこのような確信を持った人たちではなく、
普通の内閣支持者たちとの関係で問題を設定するべきです。
この方たちとの間では争点になっていない
ということを言いたいわけです。

しかし、しかし、
この方たちが反対に回れば、
法案廃案の芽が出てくるわけですが、
現状、あるいはこれまでの歴史、
こういう方々を敵に回すような
そういう副作用があったのではないかと
思うわけです。

独善的という嫌な言葉があります。
これが比較的多くから受け入れられる理由はここにあるわけです。
国家権力という大きなものを相手に論戦するときに、
独善的だという非難はむしろ誇りに思うべきだと思うのですが、

一般の方々に支持を求める場合、
このように、争点ではないことを争点にし、
「反対者はみんな戦争賛成者だ」
みたいな論戦を行うことは
やはり独善というそしりを
まぬかれないでしょう。

どうして、立憲主義を中心に主張しないのでしょうか。
これは不思議でなりません。
あるいは、立憲主義といっても
国民は愚かだから理解できないのではないか
と思っているのかもしれません。

しかし、そんなことはないと思います。
要は、立憲主義は難しいという先入観、
わからないだろうという思い込み、
それからわかりやすく伝える方法を
考えださないだけの話だと思います。

それより深刻に考えなければならないのは、
立憲主義をあまり理解していないということなのだろうと思います。

戦争の残酷さとか悲しみを訴えるほうが、
通りが良いということなのかもしれません。

まさか、反戦平和だと票になるけれど
立憲主義だと票にならないとか
そういうことを考えているのではないとは思いますけど。

安全保障法案が成立してしまうと、立憲主義が崩れ、日本が二流国になるということ [事務所生活]

私は安全保障法案は憲法違反であり、
成立させてはならないという弁護士会の立場に賛成しています。

法案反対の理由は人によってさまざまでしょうが、
このブログにおいては、
立憲主義を崩すからだということで一貫しています。

ときは1889年2月11日、
明治天皇は、大日本帝国憲法を発布しました。
その時の日本の状況はどうだったでしょう、
江戸時代のアメリカなどとの条約で、

日本でアメリカ人が犯罪を行っても
日本の法律で裁くことはできませんでした(治外法権)

日本に輸入される商品にも
日本が税率を定めることはできませんでした(関税の自主権がない)。

大変屈辱的な国際的立場でした。
大変苦しい状況を強いられていました。

その中で明治政府を中心として、
日本を一流国にしようと
様々な努力が積み重ねられていったのです。

その内大事なことが
議会開設の詔(1881年)
内閣制度の勅諭(1885年)
そして、大日帝国憲法の発布でした。

その後1902年に治外法権が撤廃され、
1911年に関税の自主権が回復されます。

欧米列強と曲がりなりにも肩を並べる
国家として迎え入れられることができました。

きわめて短期間で、近代国家を作り上げていったことがわかります。
大変優秀で、柔軟な人たちが大勢いたのでしょう。

もし、日本が憲法を作らないで、
誰か強いものがトップを掌握するということだったら
日本はいつまでも二流国のまま
一段低い立場におかれ続けていたでしょう。

国際社会の中で、一人前と認められ、信頼されるためには、
憲法を定め、
国の在り方を定めていることが必要だったのです。

文部科学省の定める学習指導要領の解説でも
このようなことを学ばせるように述べられています。
前の前の記事に載せてありますので、
時間があるときお読みください。

憲法9条では、集団的自衛権が禁じられています。
これは、現在のほとんどの憲法学者が言うだけでなく、
現政権以前の内閣は、すべてこのような見解を取っていました。
高村氏も外務大臣としてそのように答弁していました。

日本の考え方なのです。

問題は、そのことがいい悪いではなくて、
憲法で禁止している集団的自衛権を行使するということは、
憲法の定めを無視して、
国家の行為を行うということになってしまうことです。

立憲主義は、19世紀のことで、
21世紀では気にしなくてよいのでしょうか。
そうではありません。

世界の多くの人たちが、
約束を守ることを大事にします。
聖書とは、
神様が行った約束だとも言われています。
だから、旧約聖書、新約聖書であり、
旧訳とか新訳ではないのです。

憲法は、国家が国民や世界に向けた約束です。
政府は、国家の行為を行うことです。
その政府が、国家が行った約束を破るのでは、
もはや信用に値する国家ではないということになります。

その時々の政府が、憲法を無視して活動するならば、
外国は、日本を信じて約束事をしなくなるでしょう。

日本は、二流国の烙印が押されてしまうことになるのです。
このような立憲主義崩壊を放置した国民もまた二流になるのです。

興味深いことに、
このように日本を貶める行為を推進している人たちは、
「今の日本国憲法は、アメリカに押し付けられたものだから、
自主憲法を制定しなければならない」
といっていることです。

憲法とは、国の必要に応じて作られるということは、
大日本国憲法の成り立ちを見てもわかります。
大なり小なり外国の影響があるわけです。

それはいいとして、
もし憲法の文言にあからさまに反しても、
字面にこだわる必要がないというなら
自主憲法を制定する意味はないでしょう。

また、今回の集団的自衛権をあからさまに歓迎しているのは
アメリカの支配層だとのことです。

日本を二流国にしてまで、
アメリカを喜ばせることをする必要性が
どこにあるのでしょうか。
アメリカに押し付けられた憲法だといって批判している人たちの一部が、
アメリカの要請で立憲主義を崩して日本を二流国にするということが
私には理解できないところです。

では、どうして
安全保障法案を急いで成立させる必要があるかについては、
前回の記事で述べましたので、時間があるとき読んでください。

そういえば、関税の自主権も放棄するような国際情勢を
アメリカが主導しているように感じてくるのですが、
それは偶々でしょうか。

私は、憲法9条を改正せよという主張は行いませんが、
以下の文芸春秋5月号の
舛添要一氏、小林節氏、三浦瑠璃氏の
「安倍首相よ、正々堂々と憲法9条を改正せよ。」
という対談は大変勉強になりました。
機会があれば、読んでみることをお勧めします。

安全保障法案(なんぼなんでもだめだろう法案)の論戦に学ぶ、多数を形成する主張の仕方 [事務所生活]

安全保障法案(なんぼなんでもだめだろう法案 
略して「なんなん」法案といいます。)について、
私は中立ではなく、反対の立場です。
公正を期するために初めに断わっておきます。

反対の理由は、
憲法9条がありながら集団的自衛権を行使するということは、
立憲主義に反するからです。
個人的な政治、思想、信条からではなく
法律家の立場から、なんぼなんでもだめだろうと
反対しているわけです。

立憲主義に反するのはなぜだめかというと
日本を二流国に転落させることになるからだという
愛国者的観点からということになります。

そうして
なんなん法案を成立させてしまって
自衛隊を人殺しの助けをするような活動をさせず、
これまでどおり、これからもずうっと
自衛隊が、人間の命を救助する組織でありつづけてほしいのです。

このなんなん法案ですが、
推進している勢力が、自民党、公明党、その他
それから、表立って推進していないけれど、
審議を進めて、事実上成立に力を貸すかもしれない
そういう政党も出てきており、
国会では、圧倒的多数が推進していることになっています。

しかしながら
憲法学者200名以上の反対
憲法審査会における3学者すべての違憲であるとの表明
及ばずながら弁護士会の反対活動
各種デモの報道などがあって、
「潮目がかわった」とも言われています。

フェイスブックなどでのSNSでも反対が表明されています。

ただ、このままでいけば、
善戦むなしく法案成立という
いつかみた事態が繰り返されることが心配されるところです。

というのも、これまで反対している人たちが記事をアップして、
これまでもその人に賛同している人たちが記事をシェアして、
いつもと同じ光景が見られているように感じるのです。

(野党間の協力も、
 どうも、立憲主義の危機という危機感が感じられない。
 消費税値上げ反対と同程度のような扱いのように
 感じられてなりません。)

要するに、これまでも反対していた人と
これまでも反対していた人にシンパシーを持っている人だけが
反対しているのではないかという感覚があるわけです。

何といっても、この期に及んで、
安倍内閣の指示は45%もあるのです。
このままで、法案が撤回される要素は逆にないのです。

なんで立憲主義が踏みにじられているのに、
安倍内閣の支持率は高いのでしょう。
ここを早急に考えなければなりません。
自民党が強かったとか
マスコミが偏向していたとか、
誰が裏切ったとか
そういう負け犬の遠吠えを準備していてはいけない深刻な問題なのです。

これまでの反省をする場合は、
自分たちに何が足りなかったか、
それをどう克服するかという視点で行わなければなりません。

自民党は強いままでしょうし、
安倍首相の飲み仲間が率いるマスコミの偏向は止まらないでしょう。

立憲主義の危機に
こんな203高地の突撃を繰り返していてはだめだと思います。

推進する政府与党はどういっているのでしょう。

中谷防衛大臣が、
「憲法を法律に適合させている」と言ったのは、
おそらく言い間違いでしょう。
これはだめな例です。

菅官房長官が
「著名な憲法学者は一杯いる」といいながら
一杯の点を突っ込まれると
「数の問題ではないと思う」というのも
ダメな例です。

この二人は、推進勢力の足を引っ張りました。

高村氏や谷垣氏が、
砂川基地訴訟を持ち出して、
「最高裁判所も合憲だと言っている」といっていますが、
これは大変わかりやすい説明です。
判決文を引用していますが、
具体的にどこがどう合憲といっているかわからなくていいんです。
ほらこの通りといえればいいんです。
そうすると、
政府を支持したい人々は、安心するのです。

高村氏や谷垣氏は、弁護士で、その意味で私の先輩です。
自分の言っていることが、
法律的に見て成り立たないことは百も承知です。
また、
こんなことを言ったら、法律家からは呆れられる
弁護士のバッチを外せといわれることも
百も承知です。
なりふり構わずに、恥を感じずに言い切る
という姿勢は、あっぱれとすら思います。
多数を形成するための行動ということになります。

これに対して、
砂川判決の見方が間違っているとか
いろいろ理屈で対抗していては、
法律的知識のない人たちは途中下車をするわけです。
法律家内部での打ち合わせを
国民一般にすることはどだい無理があります。
どこかでは言っておいてもいいけれど
それは「後でゆっくり読んでください」の程度にとどめるべきです。

では、どうすればよいのか。

その前に、どうして、このような理のない政権の主張に
圧倒的国民は反対しないのでしょうか。
どうして安倍首相を半分くらいの人が支持しているのでしょうか。
このことを考えない野党は、万年野党でしょう。

こういうことを考えない野党の人たちは、
「自分たちは正しいことを言っている、
明らかに政権は間違っている。
それなのに政権党に投票する人たちは
どうしようもない。」
等と考えているのかもしれません。

正しいことを言えば、
それに国民は賛成するべきだというのです。
精神的DVをしている夫のような論理です。
国民を見ていないのです。

国民は、自分の国の、自分たちの総理大臣の
悪口を言われること自体に反感を持つものです。
批判をしている方に面識があるならば、
聞く耳を持とうとするかもしれませんが、
どこの誰だかわからない野党議員が、
自分たちの首相を批判していたら、
まずは、反感を持つのだとということを覚えましょう。

次に、国民の大多数は、
ケンカが嫌いです。
政府与党を追及している人たちが、
すごい剣幕でいきり立っているのを見ると、
つい、責められている政府に肩入れして、
何とか反論するとよしと思い。
黙っちゃうと、かわいそうに思うわけです。

せっかく頑張っているのに
どうして足を引っ張ることをしようとしているのだ
という気持ちになるわけです。

圧倒的多数の国民は、
その法案の是非善悪を考える前に、
自分たちの国の政府を信じたい
日本人であることを誇りたいのです。

また、批判するのはいいけれど、
では、政府を打倒してどうするのと、
誰も知らない人ばかりが政権を取ったら
日本はどうなるの
という不安が起きるわけです。

前にも書きましたが、
自民党の議員さんは、チーム力を生かして、
その議員さんのことはわからないけれど
議院さんの秘書さんや自治体の議員さんはよくわかっている
自分たちの代表として国会に送っているという
という意識を、有権者に持ってもらっています。
正しいか間違っているかということよりも、
自分たちの感情や願いを大事にしてくれる
という信頼感があるわけです。

そして、野党を批判するよりも
自分たちの実績を誇らしげに宣伝する。
それでいいのですから、
元々支持している人たちは反発しませんよね。
国民の感情を大事にして
投票に結びつけ、支持に結びつけているわけです。

どこかの知らない人ではなくて
お世話になっている人の関係者ということですね。

そして、人数が多く、大きな政党ということで
安心を持つわけです。

こういうアドバンテージのある政権与党の提出した法案を
ひっくり返すのは並大抵のことではありません。
正さという理屈を並べる以前の話でもあります。
正しいかどうか意見を聞いてもらうことから
努力するべきなのです。

元々味方の人が
味方であることで安心していたのではだめなのです。

まずは、安心感を持つ的がほしいです。
立憲主義を守るということは、
ギリギリの救国戦線の理由になります。
大原則で共同できないのでは、
やはり野党も立憲主義を理解していないのでしょう。

なんなん法案を廃案にするということで
統一候補者名簿を作ることも辞さない姿勢を示すことが必要です。
(実際に作るかどうかは別問題)

政権与党を責める、非難するような国会質問は
実は逆効果かもしれません。
もともと、反対の人にはうれしい限りですが、
政府を信頼している人については逆効果の可能性があります。

そうではなく、日本の共通の利益のためには
なんなん法案はだめだよね
ということを穏やかに教えさとす
という戦略が有効かもしれません。

今の状態は、間違いを暴くことに精いっぱいで、
味方を増やすところまで行っていないかもしれません。
一段高い場所から主張しなければ始まらないと思います。

正さ比べをして、後は国民が悪いではどうしようもないのです。

後は、なぜ反対なのかわかりやすいキャッチフレーズですね。
これも、政府を信頼している国民の大多数を振り向かせるキャッチが必要です。


大多数の国民は、
なんなん法案を成立させても、戦争をしようとは思っていないだろうと
そう考えています。

私もそれは実は同感です。
一足飛びに戦争をしようとしているなら、
政府の説明は矛盾することが多いからです。

リアルに見た場合は、
昨年の閣議決定後に首相が行ったことから照らすと
即ち、閣議決定直後安倍首相は
オーストラリアに原子力潜水艦の日豪共同開発の
セールスにオーストラリアまでいったこと、
中東各国を訪問し、戦闘機のセールスに行ったことからすると
武器輸出をしたいとみないとならないでしょう。
武器輸出をする国が、
戦争放棄をしていたのでは、セールスに差しさわります。

これは憲法改正を待っていられない事情なのでしょう。

それから、なぜ法案を通したいのか、
ここについて、もっと論議が必要です。
法律が成立するとどうなるのでしょう。
一番は、予算が付けられることです。

現在の防衛費も巨大なものですが、
必要最小限度のものだとされています。
我が国を守るので精いっぱいということです。

これをアメリカやらオーストラリアやらイスラエルやらの
軍隊を守るとなると、
これまでの武器(軍艦、戦闘機、弾薬等々)ではなく、
集団的自衛権専用の武器が必要となりますから、
一気に予算を付けなくてはならなくなります。

今の軍備の中で、自国本土の防衛と
外国での作戦とをやりくりすることはできないはずです。

要するに消費税がまた上がるわけです。

また、自衛隊は現在でも定員割れだとされています。
本土を守るのも人員不足だとすると
リアルに戦争が起きている地域での人員配置は
さらに隊員を増やさなければなりません。
それで本土防衛を手薄にするわけにはいきませんから
新たに隊員を増やさなければなりません。
どうやって?
具体的方法はバリエーションがあると思いますが、
大きく言えば徴兵で対応することが現実的ということになるわけです。

こういう現実的であり、不可避な派生問題を
もっと議論しなければなりません。

法律案一つとってもメリットとデメリットがあることが普通です。
実際の戦争がなくても
集団的自衛権行使に備えての制度整備が行われるのです。

とても長くなりましたので、
日本が二流国になってしまうということは、
また別の機会にします。





スマホを紛失しました。各社の対応に学ぶ困りごとへの対応。各位への感謝を込めて。 [事務所生活]

サブタイトル
人の振り見て我が振り直せ

家族の休日が重なり、こんなことはもうないかもしれない
ということで、新幹線に乗って外出しました。
まあ、順調といえば順調だったのですが、
最後の最後でスマホを落としたことに気が付きました。

血相を変えてその場で、まずオオモトの紛失届出コーナーに行きました。

担当は男性職員。

「どこで失くされました」
わからないんです。
「色は何色ですか。」
あれ、水色だったような緑だったのような。
「自分のですか?」
買って、その場でケースに入れたので・・・
「会社はどこですか」
SONYです。
「そうじゃなくて、ドコモとか、AUとか、」
あっAUです。
「ソフトバンクとか、・・・とか」
(言いながら、ボールペンで机をたたきだす)

「ケースの色は何色ですか」
スチール製で、はがね色です。
「シルバーですか。」
シルバーというような光沢はないですが
普通の鉄の色ですね。

ここで延々とシルバーではないのか
鉄なら磁石にくっつくのかとか聞きだされる。

また、「待ち受け画面はどうなっています」
抽象的な画像です。
「何色ですか」
その時によって変わります
「何色ですか。」
青だったり、黄土色だったり、赤だったり
「青、黄土色、赤、ほかにはないんですね。」
いやちょっとわかりません。
エクスペリアの初期の待ち受け画面の色を全部覚えている人はいるのだろうか。

まあ、出てきた場合の私のものだとする特定のためなのですが、
そんなことを聞いても仕方がないのではないかと思いました。
そのあとも延々といろいろ聞かれたのですが省略します。

いつもは困っている人の相談を受ける方なのですが、
相談している方は、
なかなか開き直れないもので、
このやろうと思っても、我慢している
ということがわかりました。

こちらは、どこで落としたかわからないので、
いろいろなところに届け出を出すのですが、
それすらダメなような受け止めをしてしまいました。

早々に切り上げて次にゆくことにしました。
駅の近くのショッピングモールのレストランにいたので、
各お店をまわりました。

バル・リカ・セルヴェッサ(スペインバル)
2階のお店ですが、
何時間か前にいた私の顔を覚えていて下さり、
その場所をわざわざ探していただきました。
気の毒そうな顔をしてもらい、
前が前だけに、それだけで救われました。
共感を示してもらうことのありがたさを
教えていただきました。

スペインのお店で、お酒の種類が豊富です。
アモンティリャードを久し振りにいただきました。
家族の飲んだノンアルコールカクテルの
シャーリーテンプルは、
今まで飲んだうちで一番おいしいと言っていました。
イベリコ豚のソテーみたいなのも
大変おいしかったです。

よい仕事ということは、
紛失の対応にも通じるんだなと
要は、仕事とは対人関係なのですね。
しみじみ自省しました。

次は、4階のオールド・オウル(パブ)
両店に共通していることは、
紛失物の届け出がカウンターになくても
客の席をもう一度探してくれるということ
客の座っていた場所を覚えている
ということです。

相談者の心に寄り添うということは
その人がしてほしいことをしてあげること
その人の困った感情を肯定してくれる
ということかもしれません。

このお店、地ビールが売りのようなのですが、
生ビールも1PINT 500円はリーズナブル。
オリーブのピクルスがソルティで、
つまみにはぴったり。
さあっと飲みたいときには最高です。
地元にぜひほしいところ。

ないので、ショッピングモールの係に
この場所も丁寧に教えていただきました。

ここでもなかったのですが、
対応は文句なし。
マニュアルがきちんとできているという感じですが
親身な対応はお人柄でしょうか。

ふと横を見たら、
オオモトと経営者は同じようですが、
鉄道会社の改札口がありました。

思い切って尋ねてみました。
いろいろと特徴を言ったら、
なんとあったようです。
最終的には、そのスマホの電話番号を聞かれました。
数字を言っていくうちに、
職員の方も笑顔になっていくんです。
期待感が伝わってくるのです。
全部符合して、間違いない旨伝えられたとき、
思わず手をたたいてしまいました。

スマホは別の駅に届けられていたのですが、
なんと運賃の心配までしていただきました。
本当にありがとうございました。

何よりもスマホを拾って届けていただいた方
ありがとうございました。

オオモトで無駄な時間を食ったのですが、
結局予定してた帰りの新幹線にも乗ることができ、
いろいろと勉強させていただき、
疲れましたけど
貴重な体験をさせていただきました。

特別付録、スマホを落とす前に留意すること

まず、スマホの電話番号をメモしておくこと。
普段使いする人は良いのでしょうが、
オヤジは自分のスマホの番号を覚えていないので注意。

スマホの色を覚えておくこと
(これ、自分の戻ってきてみてもあまりよくわからない)
シールなどを張っておくのもよいかもしれません。

ケースの特徴を覚えておくこと
(戻ってきて初めて分かったのですが、
黒とメタリック浅葱色のグラデーションでした。)

待ち受け画面を特徴的なものに変えておく
とよいかもしれない。

あとは、
紛失に備えて保険に入る、
紛失位置情報の手段を確保する
(これ両方入っていたのですが、
遠方で紛失すると厄介です。)

バックアップをこまめにとっておく。

一番は
無くさないこと



最近SNSで拡散されている「感動話」で、自分が加害者に足して容赦ない報復感情を抱いたことに驚いた話。やっぱりちょっとおかしいんじゃない? [事務所生活]

フェイスブックなどで、ちょっといい話みたいな形で
拡散されている話があります。
フェイスブックをやっている方なら、
「ああ、あの話か」と思い当られると思います。

私がおぼえているのは、
一つは、バスの中で赤ん坊と一緒に乗った母親に対して、
周囲の女性がつらく当たったところ、
バスの運転手が、つらく当たった女性に対して
バスから降りるように言った話、

飲食店で行列して待っていた人が、
中年女性が割り込みをしたところ、
その前にいた男性が
その割り込みされた後ろの人たちを
前に呼び寄せて割り込みの意味をなくさせたという話、

カップルで電車に乗っていて
障碍者の人を女性がの法が「ヤバイ」といったところ、
男性が「そういうことをいうお前のほうこそヤバイ」
といって席を立って別の車両に行ってしまったという話。

そのほかにも、何か弱いものが攻撃されていて、
誰かが一喝して事態を収拾させたという一連の話です。

共通項は、ハリーポッターのように、
最初、弱いものがいじめられるのですが、
救世主が現れて、胸のすくような解決となり、
攻撃者が制裁なり報復をされるというところです。
そして、誰の体験なのかはわからないように
なっているというところも共通でしょうか。

最初は、私も感動して、いい話だなと思って読んでいました。
でも、だんだん、心に引っかかるものが出てきて、
最後の電車のカップルの話で、ようやく目が覚めました。

カップルの男性、あなたは恋人を評価する評価者なのか、
たった一言の誤りで自分とは違うということを
アッピールするのか疑問が大きくなりました。

そうして、これまでの「感動話」を振り返って考えてみました。

それぞれ、弱い者の立場にたって、寄り添っているようにみえます。
それに対して不快な感情を読み手は持ちます。
その弱者を守りたいということは人間の心理であり、
否定されることではないでしょう。

問題は、和解がないということです。
攻撃者を容赦なくたたき、反論できないところに
喝采を挙げてしまう読み手の心理です。

報復は本当に正しいことだったのでしょうか。

乗客に降りるように言ったバスの運転手は、
そこまでする権限があったのでしょうか。
注意して、和やかな車内にすればよかったのではないでしょうか。

割り込みは不道徳ですが、
そのことに正面から注意しないということも疑問です。

電車の彼氏に至っては全く共感できません。
そもそも「ヤバイ」という言葉は、
本当に差別を表していたのでしょうか。
彼女のの不安が表現されていたと感じることは
できなかったのでしょうか。
どうして優しくたしなめることができなかったのでしょう。

話は、面白ければよいのかもしれません。
ここで、改めて気が付いたのは、自分が、
子連れの主婦だったり、横入りされた人だったり、障碍者だったり、
弱者に対して肩入れをすればするほど、
攻撃者に対して容赦ない感情を抱いていたことです。
私の心は誘導されてしまっていたという事実に驚きました。

いずれの場合も、
教えてあげるという作業こそが必要だったはずです。
相手を叩きのめすことは必要ではなかった。
特に、SNSで読んでいるだけの私が、
怒りを持つ必要は何もなかったのです。

人を悪と決めつけることは愚かなことです。
行為を是正すれば済むことです。

対立する当事者の中で、一方に肩入れすることが、
他方に対して残虐な感情を抱いてしまうということ
を常々言っていたのにと思うと
良い体験だったように思います。

被害を受けた人がいる、被害者に寄り添う、
そのことが他方の人間を無条件に攻撃する
ということになってはならないと改めて自戒しました。

人は成長する。
意見は真正面から言おう。
同じ決めてかかるなら、
人間は成長するものだと決めてかかろうと思います。

一見感動、共感するものにも注意が必要かもしれない
と思えてきました。

宮崎の証拠ビデオと引き換えに告訴取下げを迫ったとされる件で、原因を共有して、弁護士は襟を正すべきではないか。 [事務所生活]

宮崎市のオイルマッサージでの事件で、
弁護士が証拠ビデオと引き換えに被害者に告訴取り下げを迫った
ということで
懲戒請求の運動が起きています。

元々の被害者の手記を報道した毎日新聞はこちら

http://mainichi.jp/select/news/20150122k0000m040068000c.html



キャンペーンのほうはこちら

(アドレスがうまく貼れませんでした。「宮崎強姦ビデオ加害者側弁護士懲戒請求、ならびに被害者に対する不当な圧力をなくす仕組みの構築」で検索してください。



今回、性犯罪裁判を起こした被害者が、加害者側の弁護士から「示談に応じれば性犯罪時のビデオを処分する」と持ちかけられました。
と極めて簡略した事案整理となっています。

一般の方が、弁護士批判をする分には、
弁護士は、冷静にそこから学ぶべきだと思うのですが、

このキャンペーンに弁護士が賛同しているというところが
引っかかるのです。

賛同している方々は、「自分はこのようなことをしていない」
というのでしょう。

しかし、本当に、我が身を省みて石を持つ資格があるのでしょうか。

本件をどう見るかという切り口の問題かもしれません。

私は、報道の通りの事実があったとしたならば、
この弁護士の行為は、
自分の仕事を被疑者、被告人の利益擁護一辺倒となってしまい、
それによって、誰かの人格の否定がなされることを
考慮しなかったという側面を重視します。

これは、一般民事でも起きることです。
たとえば、夫婦間トラブルでも、
妻側から相談を受けて精神的DVを受けたとなると、
夫の人格を全否定して、
子どもが父親に会う権利を否定し、
子どもに、お前は面会に値しない親の子だ
という意識を無批判に植えつける結果となっている事例や

労働トラブルで、
相互に悪逆非道な相手であるかのようなののしりあいを展開する事例

刑事事件では、
さも被害者がすべて悪いというような弁護をする事例

本来違法行為とは言えないのに
弁護士が10名くらい連名で
内容証明で農家の老人に金銭請求をする事例

私は、自分の仕事、依頼者の主張に埋没して
相手の人格を攻撃してしまっている弁護士の行為は
少なくないのではないかと思っています。

本件については、弁護士としては、
まず、事実調査を優先するべきでしょう。
そして、非違行為と認められるのであれば、
どうして、そのような行為に出たのか原因を究明するべきだと思います。

職務熱心さなのか、
経済的問題なのか、
その他人間関係のしがらみ等の理由があるのか、
そうして原因を共有して、
わが身の職務に生かすべく襟を正すべきです。

一人一人の弁護士の
完璧でない職務遂行の延長線上に
本件があるかもしれないと考えるべきではないでしょうか。

そう考えることが
我々のユーザーである国民にとっても有益だろうと思います。

また、弁護士の職務遂行過程で
そのような行為が起きたのならば、
事前の相互批判ができていなかったという
我々弁護士全体の問題としてとらえるべきだと思います。

また、報道されるような刑事事件の弁護を担当している普通の弁護士であれば、
報道が事実を正確に知らせていないということは
経験していると思われます。

弁護士であるならば
まずは、刑事事件の行方を見守り、
単位会の判断を優先させるべきでしょう。

さらにこういう見方もあるようです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150120-00002574-bengocom-soci&pos=2

「テロに屈しない」、「自己責任論は非人道的」という「正しさ」の落とし穴。憲法9条の危機が進行している。 [事務所生活]

「テロに屈しない」これが大事だと言われれば
それはその通り、正しいと思います。
「自己責任論は非人道的だ」
と言われればそうでしょう。

感情的に反対できないところです。

しかし、なんか最近おかしい。
警戒しなければならない空気を読んでしまいます。

そもそも、戦争は、
「テロに屈しない」というところから始まるわけです。
満州事変も
張作霖が、鉄道爆破テロを行ったということをでっち上げ、
満州への武力侵攻が本格化したわけです。

第1次世界大戦も
セルビアの青年が、オーストリアの皇太子を暗殺した
というところから始まったわけです。

自己責任論の否定も
同胞の命を救出しようということや
死んでも構わないという論調を否定する
ということはよいのですが、

日本人は、日本人の命を守るために
あらゆる手段を尽くすべきだということになると
警戒が必要だと思うのです。

まず、アメリカなどは、他国に侵攻するとき
現地アメリカ人の救出ということを理由にしてきました。
自己責任論の否定が、
軍事侵攻だという場合も歴史的には多いのです。

同胞に対して冷酷になれるのは
近代国家以前の話だと主張し、
明治維新とその後の薩摩藩の
会津など東北の虐待の例を持ち出す論者もいます。

しかし、これは近代国家に必然的に起こるものではありません。
日本の歴史の中でも突出しているものです。
また、近代以降も、自由民権運動への弾圧として
政府の中で受け継がれていました。

この時、薩摩政府が否定していたのは
他の藩の住民ではなく
日本そのものです。
難しい条例を引用するまでもなく、
旧薩摩藩士、文部大臣の森有礼は
日本語の廃止を画策たことは有名です。

日本が欧米と違うということを恥じて
日本の良き伝統まで、
欧米と違うということで強制的に廃止しようとしていました。

薩摩藩が、イギリス式の軍事教練を受けていたことも
関係があると思っています。

さて、そもそも、これまで日本という国家は、
同胞が苦しんでいるとき、
苦しんでいる同胞に手を差し伸べてきたでしょうか。

日本人同士に差別がなかったどでもいうのでしょうか。

日本人の賃金が高いと言って、日本人を解雇して
中国に工場を建てるといった会社を
彼らは同胞を見殺しにするのかと非難したのでしょうか。
多くの論調は、だから企業税制を優遇しよう、
解雇の制限など労働者の権利が手厚く守られていることが悪い
という主張が横行していると思います。

どうしてこのタイミングで、国家や同胞が強調されるのでしょう。
他国人から日本人が攻撃されているからでしょうか。
そういう側面はあるのでしょう。

テロに屈しない。自己責任論は非人道的。
正しいのです。
しかし、戦争は、多くの人を不幸にする戦争は、
このような正しさの積み重ねで起きているのです。
それを歴史から学ぶべきです。

憲法9条は、このような事実を踏まえて、
国際間の紛争に武力行使をしないと定めたのです。

同胞が死の危険にさらされている、
とても、良心、感情が揺さぶられます。
正しいからです。
こういった正義感が戦争に利用されてきたわけです。

自国を守りたいという感情を利用され、
特別攻撃などという蛮行が否定されなかったわけです。

正しさこそ警戒するべきです。
同胞を無事に救出する手立てを尽くしながらも、

良心を刈り取られないようにしなければなりません。

過度な正しさには、うかつに賛同してはなりません。
いまこそ憲法9条を傍らに置いて考えましょう。

正しさの程度、射程範囲を見極めましょう。

加害者イスラム国ではなく、人質に対する憤りの正体 お亡くなりになった方に対するご冥福を祈る [事務所生活]

湯川さんらしき人が殺されている映像が流れたようです、
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。

その前日、私はフェイスブックに投稿しました。

人質二人の救出に尽力するのは良いとしても
身代金を支払うことには賛成できないというものです。

理由としては、

湯川さんは、戦争を利用して営利活動をするために渡航したこと
自分の妻が身重であるにもかかわらず高度の危険を熟知しながら
渡航した後藤さんにも共感できないこと

また
200億円の金があるならば
自分に責任がなく命を落としたり、
人生を不意にしてしまう子どもたちを
助けることができるから。

というものでした。

しかし、どこか、こういう感覚を持つ自分にも抵抗があったのでした。
誰かに論破されたいという願いもありました。

いろいろなコメントをいただきました。

浄土宗の和尚さまからもコメントをいただきました。
命がなくなることを肯定するのかと

そのようなつもりはなかったのですが、
結果としてそうなるのかもしれないと思い当りました。

また
人質の命に悲観的になっており、
悪い結果が出ることを見据えて
自分に言い聞かせているのではないか
ともご指摘いただきました。

わたしの愚にもつかないつぶやきに
ご説法いただき、
まことにもったいないやら、ありがたいやら
敬虔な気持ちになりました。

自分の心に対する言い訳ということは、私だけでなく、
人質に批判的な意見を表明するもの
計算抜きに自己責任論を主張するものに
共通の心理状態なのかもしれません。

人質の名前を知っている。
ある程度来歴もわかる。
言葉が通じる
ということで、
彼らの命がなくなること
恐怖のただなかにいることについて
自然と共鳴力が働いていたのでしょう。

何か、理屈をつけなければ、
そのむごさに耐えられず、
防衛本能的に、
自業自得というレッテルを張りたかったのかもしれません。
助けられない自分に無意識の言い訳をしていたのかもしれません。

そうでなければ、
命がなくなるかもしれないというその時に、
あえて批判をする必要はないのです。

われわれは、
すべての人の死を悼んでよいのです。
ごまかす必要は何もありません。

他人の命に劣後する人命というものもないのでしょう。

ガザでピンポイントで空爆されて亡くなった子どもたちの
その死も悼むべきだし、
戦争で、多くの人を殺した人の死を悼むことも
許されることなのでしょう。

人間の命がなくなることを肯定する必要はない。

そこから出発しなければならないのでした。

彼らの活動は、否定されるべきであり、非難されるべきだと思います。
しかし、そのことと、
生き死にの微妙な問題を区別して論じる必要があるということになります。
その区別ができなければ、語るべきではないのかもしれません。

自業自得などという
命を粗末にしている表現を目にした人たちに
嫌な思いをさせる上に、
命を軽く見た発言をした自分も
命を大事にする心を削り取っているという側面があるはずです。

不幸にも彼らの命があやういことは、
多くの人が知るところになっています。
知った以上は、
無事を願う心を否定するようなことがあってはならないのでしょう。

こんなあからさまな命の危険に直面して
無事を祈らない心になってしまえば、
もっと緩やかな死の危険に対しても
鈍い反応しかできなくなることでしょう。

今回和尚様に正していただきました。
浄土宗は禅宗ではないので
こんな表現をしてよいものかわかりませんが、
座禅の際に警策をいただいたような
ありがたいという気持ちになっております。



専門家を称する人の投薬に対する批判が非科学的で、誤解を与える危険があること。他山の石。 [事務所生活]

最近、医師や薬剤師のブログを紹介され拝見するのですが、
専門家が専門分野の主張を
専門家以外の方に行う場合は、
くれぐれも誤解のないようにしないと危険なことになる
ということをつくづく感じました。

ある元薬剤師さんのブログですが、
大要
鼻水くらいでは病院に来る必要がなく
かえって病気を移される危険がある。

熱も39度くらいでは致命的にはならない。
熱は、菌やウイルスを殺すために出ている。
風邪を治す薬はなく体が治す。
普通の風邪は投薬がいらない

これが結構支持されているようなのです。
このご主張の射程範囲がどこまでかを
自分で適切に判断できるならいいのですが、
これを鵜呑みにして、
闇雲に真似をする人が出てきたならどうするのだろうと
心配になりました。

風邪そのものを治す薬はない
ということについては新規性がなく、
特に異論はないのでしょう。

体が治すということもその通りだと思います。

しかし、一体、小さいお子さんを持つ親御さんの中で、
普通の風邪と、マイコプラズマなどの肺炎と区別がつく
方はどの程度いらっしゃるでしょう。

熱が39度くらいに上がってきて、
もっと上がるか様子を見てみましょうなんて
言える方々はどの程度いらっしゃるのでしょう。

薬や医療は、むしろ自然治癒力を助けるのです。

わかりやすい現象は、捻挫や打撲です。
患部の筋肉などが壊れ、炎症を起こし
痛みを感じるわけです。

湿布を貼ったり、痛み止めを飲みますよね。
これ自体は、壊れた筋肉の復元をするわけではありません。

なぜ、炎症が起きたり、痛みを感じるかといえば、
筋肉が壊れた、自然治癒力を働かさなければならない
このために
痛みを感じやすくする物質が血液中に放出されるのです。
そうして、患部に修復物質を届けようとします。

ところが、修復物質が多くなりすぎると
逆に患部自体を攻撃し、
治りにくくなることがあるわけです。
そのため、痛みを感じやすくする物質を抑えて、
痛みを感じにくくします。
これが湿布であり、痛み止めです。

痛みを感じやすくするという
抵抗力を弱体化させることによって
自然治癒力が十分に発揮できるようにしているわけです。

咳止めもそうなんじゃないでしょうか。
菌が体内で増殖してしまい、
もはや咳をするだけでは排出できなくなってしまえば、
咳は、それ自体体力を奪うし
睡眠を妨げるなどの弊害が強くなります。
咳止めと抗生物質を服用することによって
自然治癒力が発揮する環境を作る必要があるわけです。

熱もそうですよ。
また、その人の平熱にもよります。
欧米人のように平熱が37度以上の場合と
35度くらいの平熱の人とでは、
39度の意味合いがまるっきり違うわけです。
日本人は平熱が低い
ということは意識しなければなりません。

熱に対する耐性も
人によってまるっきり違うわけです。

インフルエンザ脳症によって命を落としている
子どもたちもいるわけです。

お医者さんのブログは普通に読めばちゃんと書いてあります。
幼児、高齢者、別の病気との合併症の場合は、
薬を躊躇なく投与すると。

ただ、インフルエンザは感染症なので、
身近な人に感染させないためにも
検査を受ける必要もあります。

熱や咳は、あるいは痛みは
病気と戦う仕組みだから
抑制してはいけないという主張は、

「病気と戦う体の仕組みは過不足なく発揮されている」
という論理が前提となっています。
これが致命的に非科学的です。
人間の体なんて、そんなに精密ではありません。

大体は足りないか
過剰なわけです。
生きる仕組みが体を傷つけるということが多いのです。
大きく言えば、これが過労死です。

さらに、いろいろなコンディションがあります。
既往歴もそうですが、
一人で隔離されることができるかとか
安静にすることができるか
小さいお子さんならば、
親が一日中看病することができるか
様々違います。
投薬の役割が色々な意味を持ってくるわけです。

元とはいえ薬剤師や医師の肩書きは、
一般の方が鵜呑みにされる危険があります。
くれぐれも誤解の内容に作成される必要が強くあると思います。

大事なことは薬を使わないとかいう極端なことではなく、
薬を適切に使っていただける医療機関を
きちんと確保することです。

現在の症状、原因として考えられること
原因と対策(薬等)の結びつきを
きちんと説明していただけるというのも
ひとつの目安になると思われます。

私も、くれぐれも気をつけることにします。