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自分の運命を裁判官に委ねるのですか。対立司法から関係調整手続きへ。 [事務所生活]

以前離婚など家庭の事件について、
調停や裁判で決めるよりも、
じっくり話し合って考えて決める
そういう場を作りたいというお話をしました。

家事調整センター企画書
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

そのようなことを考えながら仕事をしているうちに、
離婚事件や面会交流事件だけでなく、

労働事件だったり、

学校のいじめ問題だったり

介護の問題だったり、

はたまた、お寺さんの檀家の問題だったり、

いろいろな場面で
調整型の仕事をするようになってきました。


離婚を例にとれば、

通常の離婚は離婚したい方と離婚したくない方に分かれて、
離婚したい方が調停を申し立てます。

離婚したい方は、最終的に裁判によって離婚することも考えていますから
どうしても不利なことは隠して、
相手を攻撃する傾向にあるように思われます。

離婚したくない方は、
相手のそのような言い分に対して不公平だと怒るわけですが、
離婚しないで解決したいとすると
訴訟等で不利になることになっても
攻撃の手を緩めるしかありません。

ただ、そのようなことをしているうちに
離婚したくない方も
新たな怒りや恨みがこみあげてきて
相手を攻撃し始めて
脱抑制的に攻撃表現が展開されていく
という修羅場、鉄火場が出来上がるように思われます。

そうして、判決では、
通常納得行かない事実関係を裁判官が認定して
離婚したくない方は、
この世の中に正義はないのかという気持ちになるわけです。

その後、面会交流や養育費の支払いがうまくゆくはずがありません。

これに対して人間関係調整型解決手続きは、
時間をかけてじっくり考えてもらいます。
離婚という結論は少し脇に置いておいていただいて、

どこからボタンの掛け違いが始まったのか
その点をさかのぼって考え始めます。
これは、丁寧に時間を負っていくと
案外双方が思い当たる明確なエピソードがあることが多いです。

または、勝手に劣等感を感じているポイントがあり、
無自覚な防衛行動、防衛意識が必要以上に高まっている
という場合に気が付くことが多くあります。

簡単に子どもでもわかる表現をすれば、
いつまでも仲良くしたいのだけれど
自分に自信のない部分があり、
そのことで嫌われるのではないだろうか、
きっとそのことで自分のことを嫌に思っている
という、本当にかわいらしい心配が
毒々しい非難の言葉に置き換わってしまっている
ということが多くあります。

ボタンの掛け違いのところがわかったとしても
すぐに修復できる場合だけではなく、
ことはそう簡単ではありません。

しかし、最終的に離婚ということになったとしても、
必要以上に相手を攻撃したり、
必要以上に相手を憎むことが
最小限度に抑えられるということはありうることです。

実際には、一度離婚した後に再婚したという事例もあるくらいです。

また、このように、お互いを理解したうえで
お互いを尊重したうえでの方が
離婚自体も進みます。

離婚したくない方は、
離婚をつきつけられると
自分の全人格を否定されたと感じるものです。

離婚をしないことに意地になっているという場面もあります。
否定された部分が限定的であり、
自分の大事にしている部分は否定されていないということから
離婚に踏み切る心の余裕ができることもあるようです。

それから、
離婚調停や弁護士相談というと
本当に離婚目前という
夫婦の関係がどうしようもなくなってから
行動を起こすということになるわけですが、

調整型解決手続きの場合は、
対立が深刻になる前に
アドバイスを受けることができます。

この場合は、夫婦そろってアドバイスを受けることができます。
何よりも、やり直したい、あるいは
もっと楽しく生活したいということが
お互いの気持ちだということを確認することができるわけです。

調整型解決手続きは、このように利点が多いのですが、
判決のような強制力はありません。
ですから、両当事者が、
理性的に、傷を最小限度にしたいという気持ちを持たなければ
始めることができません。

人間関係の調整も、今後の協力もいらないから
相手を叩きのめしたいと考える場合は
向いていないことになります。
負けてもいいから戦うということですね。

そうでなくて、人生上の大きな出来事の
悪い影響を最小限度にして
子どもの健全な成長を考えたいという場合は
調整型解決手続きにするべきなのです。

家事調整センターを実現させる力は
私にはありません。
しかし、調整センターなど作らなくても
弁護士の立場から調整手続きで事件を解決することは
可能な場合が多いということに気が付きました。

そのうち、人間関係調整手続きの事務所ホームページを立ち上げる予定です。

その際、家事事件だけでなく、
様々な人間関係のすれ違いを
疑心暗鬼を解きながら調整していく方法と実績について
ご紹介できることでしょう。

できれば、司法のユーザーである国民も弁護士も
自分たちの運命を裁判所だけが解決方法だという
固定観念を捨てて、
あるべき解決方法の議論を始めるべきだと思います。

その観点から司法を変えてゆくという発想を持ってもらいたいのです。
司法改革は、
国民が、本当に望む紛争解決を考えていく中で、
司法メリットデメリットを検討して初めて
方向が見えるものだと考えています。






尾木ママ久しぶりにカストリマスコミにカウンター なぜ逃げられないか フリーズと絶望 [事務所生活]

先日無事保護された誘拐事件の件で、
尾木直樹氏が、マスコミにゲスの勘繰りはやめるように
苦言を呈したとのことで、
尾木ママが男を上げた(いいんだよね。)ようです。

ネットでは、ぶーぶー文句が言われているようですが、
論点がかみ合っていないようです。

マスコミの問題は、
被害者が逃げることができたはずだ
という前提を勝手に立てていることです。

物理的に体を動かせたから
逃げられたはずだという
素人考えです。

対人関係学的に言えば
生きる意欲を失っているのであれば
逃げようともしないで
ただ、あきらめている
という状態がありうることは初歩の初歩のお話です。

人間は危険に直面すると
危険から逃げることを基本としますが、
危険に挑んで戦うということも選択します。
勝てるという意識が生まれたときは戦うという選択肢をとるようです。

しかし、
逃げることも不可能だ
戦っても勝てないという認識を持ってしまうと
即ち絶望ですね。
生きる意欲を失ってゆきます。

極限的には
高い崖などから転落した場合、
絶望を感じた場合は
気絶してしまいます。

これが緩やかに抵抗力を奪われていくと
あきらめが徐々に蔓延してゆきます。

絶望を感じる理由は
いくらでも想定できます。

内鍵がかかってあかなかった。
逃げようとしたところ、ひどい目に遭った。
逃げたら殺すといわれた。
親に危害を加えるといわれた。

こうして、逃げようとする気持ちさえ奪われていく
というこは簡単に想像することができます。

そして、すべての行動を規制されてしまうと
徐々に、加害者がどのようなことを求めているか
という加害者の意思を探るようになってしまい、
自分の感覚で行動することができなくなってしまいます。
支配と服従です。

服従し、社会とのつながりを絶たれていけば
絶望しか残らないことは
ジュディスハーマンを引用するまでもないことでしょう。

被害者は、あくまでも被害者です。
子どもということもあり、
大人の責任として、
少しでも、人生を取り戻して楽しく生きていってほしいと
少なくとも、それがマスコミの立場でなければなりません。

今の、エログロナンセンスで視聴率を上げるしか能のない
カストリ雑誌のようなマスコミでは
被害者であろうと、15歳であろうと容赦はないようです。

わからないなら黙っていることが一番です。
あるいは、拘禁反応や絶望などということは
心理学の初歩の初歩ですから
心理学者に語らせればよい話です。

それは、逃げられたはずだと
勝手な前提を置いて議論を進めるということは
カストリマスコミの本領発揮、
目的はエログロナンセンスの話題を提供して
視聴率を獲得する
という目的にそって行動しているとしか
考えようがないからです。

公共の電波を使って
被害者を傷つけるだけの下衆の勘繰りはやめて
まさにその通りです。

尾木先輩
見直しました。

産経新聞の中学の卒業式の対面式に関する記事は、日の丸を国民から遠ざけるという負の側面がある。 [事務所生活]

平成28年3月20日付で産経新聞が
ある記事を配信しました。

大阪の中学校の卒業式で、
卒業生が、在校生と向かい合う形で式が行われた結果、
卒業生が日の丸に背を向け続けることとなり
不敬ではないかと抗議があったというのです。

蔭山某のコメントも載せてあり、
違和感があるといわせているのです。

このような記事を書くから、
国民が日の丸を敬遠するようになるということが
わからないのでしょうか。
また、国民を冒涜しかねない
不愉快であり、危険な記事であると思うので、
そのことについて説明します。

私は、君が代の心を伝え、
日の丸を生活に根付かせる立場ですから、
君が代、日の丸に反対の方は
もしかすると、読む意味がないかもしれません。

産経記事の一番の問題点は、
日本国民が日の丸に背を向けることは
何らかの問題があるというところにあります。

全く問題はありません。

日の丸を低い位置におくことは抵抗がありますが、
頭上高く掲げていれば、背負おうが、対面しようが
全く問題ありません。

確かに、人間に対して、あえて背を向けていれば失礼に当たりますが、
旗に背を向けて、旗に対して失礼だということは
滑稽な話なのです。旗は布切れですから。

但し、ある国の国旗に対して、
他国民が、対面するべき時に背を向けたり、侮辱することは、
旗ではなく、その国家、国民に対する
侮辱になったり、失礼にあたることはあります。

外国の旗を燃やすこと等は
その国に対する威嚇になりますよね。

それから、
ある民族が、他民族を支配して一つの国を作る場合、
支配されている方は、
支配している民族に抗議をする場合があります。
その時、国旗に対して侮辱をするのですが、
それは、国旗に対する抗議意思ではなく
支配民族に対する抗議の意思表示ということになります。

ウイリアムテルは
支配民族の提督の帽子に敬意を表しなかったために
子どもの頭の上のリンゴに矢を放つこととなりました。

日本国民が、仮に日の丸を侮辱したとしても
それは日本国民に対する抗議の意味ではなく、
政府など国家機関に対する抗議の意味です。
不愉快な気持ちにはなりますが
不敬という言葉は当たりません。

日本においての日の丸は、
戦時下の教育において特別の意味がありました。

敗戦が濃厚となった際、
一億総火の玉というスローガンを掲げて
非戦闘員も軍事力に組み込まれていました。
学校も軍隊予備群であったり、
実質的に軍隊の規律下におかれているようなこともありました。

この時、日の丸に敬意を払うことで
統制を図る道具にされていたことがありました。
日の丸にとっても不幸な時代です。

また、日の丸などが、天皇陛下から学校に
下賜されるなどということがあり、
いつしか
日の丸が天皇陛下の代わりに擬人化されていた節があります。
ウイリアムテルの帽子ですね。

その論理が正しいなら
マラソンの時に沿道で日の丸の小旗を振ることは
大変恐れ多いこととなります。

今は、どこの学校でも、国旗は
経費で、旗屋や通信販売で購入するのですから
特に、頭を下げることに意味はありません。

産経新聞や、計算高い子どもを養成することで有名な人物は
このような、
日の丸に敬意を表しなければならないという感覚があるというのですから、
国民は支配されるべきだという意識だったり、
戦争体制に入る準備をしようとする気持ちがあるのだったり、
日の丸が天皇陛下の身代わりだ
というような意図があるか
なんらかの誤解があるか、
それらについて、知識がないということになるでしょう。

産経新聞の大変問題なところは、
日の丸を背にしてなぜだめなのかということを
全く説明していないことにあります。

日の丸を背負うということは
日本を代表するということですから、
卒業生が日本を代表するような
傑出した人物になれという願いを込めた形であり
とても素晴らしいと思います。
身が引き締まる思いをするでしょう。

はれの門出にふさわしい演出だと思います。

これがなぜだめなのでしょう。

それよりも違和感とか言って
理由を明確にしないことが問題です。

これは、空気を読めということで、
芸人の楽屋話を一般人に強制するような愚かなことです。
暗い、押し付けられた雰囲気を演出しています。
理由をあえて述べないのですから議論になりません。
従うか従わないかだけの話になってしまいます。

閑話休題
日の丸は、皇室と関係がありません。
日章旗が国旗となったのは1954年7月9日
国家機関としての幕府の意思決定で定められました。

だから、明治維新前に咸臨丸がアメリカに入港した時、
アメリカ国民は、星条旗と日章旗で
日本人を歓迎しました。
当時の絵も残っています。

また、日章旗が国旗となった一番の理由は、
当時の貿易船の関係です。

国旗は、船に掲げ、その船が海賊船ではない
という証明手段でした。
当時日本は鎖国をしていましたから、
外国で目にする日本船は薩摩藩の船で、
薩摩藩の旗(丸に十字)が掲げられていました。

だから、外国になじみのある丸の旗を
基本にすることが合理的でした。
ただ、他国の国旗がカラーなので、
歴史的な背景を踏まえて
日章旗としたようです。

だから天皇陛下とは関係ありません。
そのような意味づけをした者がいるとすれば明治政府でしょう。

さらに閑話休題。
沖縄返還の前あたりまで、
街の角々に、祝日ともなれば日の丸が掲揚されていました。

子ども心に、
祝日のお祝いムードが高められ、
華やいだ気持ちになりました。

いつしか、それも消えてゆきました。
自国の国旗を敬遠するようになったわけです。

その一番の原因は、
今回の産経新聞の記事のような
誤った情報の提供だと思います。

日の丸が、
何か堅苦しく、
扱いを間違えると非難されるような
誰しもが敬遠したくなるような
そんな存在に変えていったのだと思います。

日の丸に意味のない権威を持たせることに断固反対し、
生活に身近な国旗を取り戻したく
願っているところであります。


愛国心とは何か 自然派愛国者宣言 愛国心の勧め [事務所生活]

国を愛するということと何かを誇りたいという気持ちと

私は愛国者である。
いろいろと理由がないわけではないと思うが、
一番の理由は、自分が生まれて育った国だからである。
国を愛する理由は、それで十分だと思う。

だから
国を愛するということを
毛嫌いする人とは話しが合わないのかもしれない。

ただ、
愛国者を自称する人たちの中には、
それ以上の理由や条件が必要だと考える人が
多いように感じられる。

例えば、他の民族よりも優秀な民族でなければならないとか、
戦争で負けてはならないとか
どこどこの国に、経済力で勝たないといけないとか
過去に誤りを犯さなかったこととか

何かのセールスポイントが必要だと考えているようだ。

しかし、愛するということに
そのような功利的な理由が必要だろうか
どんなに欠点や弱い部分があっても
尊重して慈しむのが愛ではないだろうか。

自分の子どもや配偶者が
完璧な人はいないだろうけれど
愛しているわけだ。

ひいきのスポーツチームだって
必ず優勝するわけではないけれど
応援し続ける。

国家が
誤りを犯さないこと
一番ではないこと
等はむしろ当たり前の話だと思う。

それでも自分の国だから
愛するのであって、
弱点があれば、
それを改善しようとするのではないだろうか。
それが自然な愛の形だと思う。

他の国より優れているから愛する
というのは、もはや愛ではないだろう。
自国の誤りや弱点を見つめなければ
国の前進もありえない。

愛する国家である以上
間違いを犯さず、他国より優秀であるはずだ
という考えは、
あまりにも幼稚である。

ただ、
先祖が築いた
我が国の良いところが
失われつつあるのであれば
それを守り育てることは
愛国者であれば当然しなければならないところだろう。

日本民族の良いところはどこだろう。
たくさんあるだろうが、私が重要だと考えるところがある。
何が重要かは人それぞれ違いがあってよいと思う。

一つには、子どもを大切にするということを
上げてよいと思う。
江戸時代に訪れた外国人は
おしなべて、子どもを大切にする日本人に驚嘆している。
しろがねもくがねもたまもなにせんや
ということである。

これは弱い者を弱さゆえに迫害しない
という価値観にあるのではないだろうか。

また、誤りを許容するということも
最高のインテリジェンスのように思われる。
日本の神話は、誤りを許容する
ヒューマニズムに貫かれている。

日本の神は過ちを犯すのである。
そもそも日本の国土自体
過ちを改善した結果生まれたと記されている

日本の良さは、
弱者を受け入れ
誤りを許容する
そんなおおらかさや

他人に無条件で親切にすることや
親身になって心配すること
なのではないだろうか。

人間だけが行う利他行為を
積極的に行い、
それで損をしたように見えても
賞賛する民族性が日本の誇りなのではないかと思う。

自分だけが得しようとすることは
何も人間だけができることではない。
餓えた動物だってできることだ。

それをむしろいやしい
と評価するのが日本の古来の民族性だと思う。

人間であることにおごり高ぶらず
自然に敬意を表し
自然から多くを学ぶことも
私が日本人であることを誇りに思うところである。

そう思うと、日本人が自らの良さを否定し始めたのは、
梅原猛先生がご指摘された
廃仏毀釈や近代社格制度という
恐れ多い業を国家が行い始めたころからだということを
改めて学ぼうと思う次第である。


負ける事件を引き受けることが、弁護士としての誇り。究極のマイノリティーを守ることが社会を守ること [事務所生活]

不合理な事件というものはあるものです。

国家機関もご多分に漏れず、
周囲から支持されない者、厳しく接しても非難されない場合
むちゃくちゃ厳しくなるようです。

過去においては、過激派や暴力団
ちょっと前ならオウム真理教でしょうか。

確かに、住居侵入といえば住居侵入でしょうが、
一般的な尾行に気が付いた信者が身を隠すために
近くにあったマンションの敷地に入った
それで住居侵入罪で逮捕です。

オウム真理教信者とはいえ、その人の危険性はわかりませんが、
確か実刑になったと思います。
住居侵入だけでです。

前科もなく住居侵入罪が適用されれば
しかもそれが報道されて国民が注目しているのであれば
弁護士はこぞって批判するべきだったんです。
今ならそう思います。

10年以上前、暴力団の組長が
理由にならない理由で逮捕勾留され
20日以上も警察に留置されました。
結局起訴もされないで釈放されました。
私は弁護士ました。
まだ、弁護料の未払いがあります。
この時は組事務所の関係で
身柄を拘束する必要性があったようです。

いずれにしても法律が目的外使用されているのです。
法律が緩められればそれが新しい法律のスタンダードになります。
結局はユーザーである一般国民が
緩い基準で捕まってしまうわけです。

気が付いたときには、法律は、そのように実務上
改ざんされているわけです。

はじめから法律を変えたり
運用を変えたりするわけではなく、
誰からも支持されない類型の人たちに対して
適用して、実績を作っているわけです。

「あれ?法律と違うよ。」といっても
ずうっとこうやって運用しているよと
言われてしまうわけです。

だから弁護士はそうならないように
刑事手続きを厳格に守ることによって
自分の依頼者を守るだけでなく、
法律を、社会全体を、明日の一般国民を守っている
という気持ちなのです。

誰からも支持されない者を冷遇する、過酷な取り扱いをする
これはいじめの構造と一緒です。
子どもたちからいじめがなくならないのは
人間の本質ではなく、
上からの指図に、抗議しない大人たちの影響です。

いま、このような社会的いじめの対象は、
虐待男です。
妻を暴力で虐待した
子どもを虐待した
ということで非難されることです。

先日、箸でつつこうとして耳の裏にあたって
かすり傷を負わせたということで
公務員の男性が逮捕され
実名報道されました。

これです。

弱いものを叩く。

この報道は多くの人たちが
どうしてこれを報道するのかなと
どうしてこんな事件で逮捕するのかなという疑問を持っていただきました。
心に違和感があったそうです。

報道機関も違和感はあったようです。
私が実際のやり取りをしたところ
何にも反論ができなくなりました。
それでも実名報道したわけです。

要するに、警察の逮捕報道は
警察の言いなりに報道しなければならない扱いになっているとのことでした。
世論操作です。
報道の独立なんて、はじめっから重視していません。

その結果、被害者児童の特定につながってしまったのです。
当たり前です。実名で報道した上、詳細な住所まで掲載したのです。
被害児童は、これまでの友達との関係を絶たざるを得なくなったのです。
報道は、子どもの人権をどのように配慮したというのでしょうか。

配偶者暴力は、実際に暴力がなされ
深刻な被害が起きている場合もあり、
私も担当したことがありますが、
自治体やボランティアや大勢の人たちで
被害者を支援しながら進めます。

被害者の処罰感情に任せて
加害者とされるものを制裁する
という方向や発想は
これまでありませんでした。

ところが、昨今のDV対策は様相がかなり違います。
妻が(夫の場合はない)暴力があったといえば
精神的暴力であろうと微細な暴力であろうと
妻を隠し、夫に保護命令などを出して
場合によっては刑事事件とし
離婚させてワンセットということが多くなりました。

要するに、人間関係を解決しようとか
被害を救済しようという実質的な目的ではないのです。
被害に対して、刑事処分なり、保護命令なり
離婚なりの実績を作るという
お役所的な統計が優先的に目的とされているのです。

保護命令事件や離婚事件でも

どんなに父親がそれは事実と違うと言い
友人や上司、家族が事実と違うと証言しても
母親の陳述を優先させてしまう実態があるようです。
無いことの陳述ですから詳細なことは決して言えません。
アリバイがあっても認められないことも報告されています。

私は今回の事件を引き受けました。
状況としてはかなり不利です。
しかし、勝ち負けじゃないのです。
ここで何もしないで追認してしまうことになると
若い裁判官たちが
そういうものだという
人の一生にかかわることが
ルーチンになってしまうという危惧があるからです。

もちろん勝とうとしてやっていますが、
それ以上に大切なことがあるということです。

虐待というと、被害者がなくなるようなひどい事例が念頭におかれます。
しかし、実態からすると虐待の事実すらないことが圧倒的です。
それでもどこからか情報を入手し虐待を語り
子どもに対する暴力を語り、
親に会いたい子どもをしかりつけ、
親の悪口を言わせて
子どもを無間地獄に引きずり込んでいる親も
枚挙にいとまがありません。

子どもたちは自己肯定感を持つことができなくなり、
引きこもり、拒食過食、
リストカット、精神病院の入退院、ということを多く見てきています。

家族の中に勝ち負けを持ち込む
国家的な正義を持ち込んだ結果
傷ついているのは、最も責任のない子どもたちなのです。

勝ち負けではなく、
何とかその問題の所在をアッピールしたい
現代の最大のマイノリティーである
虐待のレッテルを張られた人たちに寄り添うことが
社会を、一般国民を守ることだと
考えて頑張っています。

今回は、理不尽な思いをしている父親を念頭においてしまったので
冷静さを欠いております。
乱分をお詫び申し上げます。


ヒューマンエラーの原因としてのストレス(交感神経の慢性亢進) エラーの出方と理由 [事務所生活]


1 大規模な工作物の爆発等の事故が起きると、その原因として、機械やシステムの問題ではなく、それを運用する人間のミスが指摘されることがある。チェルノブイリやスリーマイルの原発事故や、航空事故等においてヒューマンエラーという単語はよく耳にすることと思う。

  しかし、ヒューマンエラーは、確かにシステム不具合の原因であるが、ヒューマンエラーは不可避的に起きるものではなく、何らかの人的な対応の不備などの理由によって起きる結果だという考え方がある。
  人間工学において、ヒューマンエラーの原因を解明し、システムやシステム作動上の運用における対応を研究する分野があるという。昨今注目を浴びているとのことである。

2 ヒューマンエラーが結果だということは、わが対人関係学の主張と同じである。対人関係学は、人間関係をシステムとみるのであれば、ヒューマンエラーを招いた人間関係の不具合を研究し、予防に活かす学問だからだ。

  対人関係学におけるヒューマンエラーは、自死を頂点とし、離婚、職場の在り方、犯罪等社会病理である。これに、多重債務や、いじめ、DV、過労死等が含まれる。

  このうち、自殺者数、失業者数、犯罪認知件数、離婚数、破産申立件数が連動することは統計学的に裏付けられている。これらをヒューマンエラーだとするとその共通項こそ、ヒューマンエラーの原因である可能性が強い。少なくとも対人関係におけるヒューマンエラーにおいては関連付けられる可能性がある。

3 私は、これらの社会病理に共通するものとして、交感神経の持続的亢進、即ちストレスを考えている。

  ストレスは、キャノンやセリエといったストレスを発見した研究者によれば、身体、生命の危険に対する生理的反応だということになる。体温、血圧の上昇、脈拍の増加、血流の内臓から筋肉への移行等である。逃げるため、あるいは戦うための合理的な反応である。

  しかし、対人関係学は、交感神経の亢進の効果として、さらに、アントニオダマシオの言う前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止があると考えている。

  即ち効果的に逃げたり戦ったりするために、複雑な思考を停止し、全力で逃げる、全力で戦うという思考パターンに入る反応である。

  まず、思考のテーマが、危険が維持されているか、脱却し安全な状態に達したかということだけになる。そうなると、択一的思考に自然に陥る。状態に関する、程度とか、割合とか、そういう中間的評価ができにくくなる。メリットデメリットを上げて検討するということはしにくくなる。視野狭窄も同じ仕組みであると思う。

  付随して、将来的なことについて思いめぐらすということができず、今の状態を知覚することが、知情意の中心テーマだということになる。その続きを考えることをしなくなる。

  極度に危険を感じやすくなるために、自己防衛的発想が強くなる。タイミングや条件によって、攻撃的傾向、逃避的傾向が現れる。共鳴力、共感力は排除される。自分を守ることだけがテーマになるので、不要なものとなる。

  早く安全という結論がほしくなる。焦りが生じ、段取りを立てることが苦手になる。多少の難点があっても、結論を求めてしまう。

4 交感神経が亢進している結果、具体的には、以下のような真実発見や、冷静な職務遂行を妨げる事情が出てくる。

  事実をありのままに近くすることが困難になる。結論の先取りや自分に都合の良い部分だけの近くに安心してしまうことになる。不利な部分を見なかったことにする。

  自分の責任について過剰に神経をとがらせるが、自分の責任以外の部分については十分な検討をしない傾向になる。

  事実を把握したとしても、自己保身的な発想から、自分に都合よく解釈したり、不利な部分、判断を複雑にする部分を過小評価したりする危険が生まれる。

  いくつかある作業に、無意識に優先順位を付けてしまう。具体的なもの、結果が現れるもの、自己評価につながるものが優先されてしまう。抽象的なもの、結果に直ちに結びつかないものは見過ごされてしまったり、後回しにされてしまったりすることによってずさんな対応をされてしまう。

  記憶力、記銘力が低下するということがある。

  目的を忘れて手段の遂行を機械的に行う。

5 交感神経が亢進する理由を検討する。

  セリエやキャノンが発見したように、身体生命の危険がある場合、交感神経が亢進する。しかし、通常、機械のシステム作動や対人関係に身体生命の危険は必ずしも伴わない。

  しかし、身体生命の危険が伴わないにもかかわらず、身体生命の危険が存在するかのように誤作動を起こすことがある。

  1は、時間がないという意識である。時間に終われるということは、無意識に、逃げ出すなどの対応をしなければ死の危険があるという反応を起こしている。即ち、脈拍の増加や体温、血圧の上昇である。当然、前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止が起きる。これらは、通常の人間であれば実感したことがあるであろう。

  2は、睡眠障害である。睡眠障害によって、血圧、体温、脈拍が直ちに変化するかは疑問だが、前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止がおきることも、実感できると思う。
  
  3は、複数の作業を同時並行で行うことである。これは人間の脳の弱点のように思われる。それぞれを行うことは容易であるのに、物理的には可能な同時並行作業でも、それぞれが気になってしまい、前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止がおきることは実感されていることだろう。
  
  4は、裁量性の欠如である。自己の判断で行動することを禁じられると、慣れていくにしたがって、ストレスが加わる。拘束される内容としては、空間の異動、身体の動作、思考、長時間拘束等である。有意にコルチゾールが上昇するという研究結果がある。対人関係上の対応もこれに含まれると思われる。これは、動物一般に、自分の身を自分で守りたいという本能、根源的要求があり、拘束されることによって自分の身を守れなくなるのではないかという無意識の焦燥感、不安が生じるものと考えている。
  
  5がまさに、対人関係的危険である。アントニオダマシオが「デカルトの誤り」の中で主張している「二次の情動」である。対人関係学的には、排除の危険と考えている。人間は排除の危険を感じると、交感神経の亢進がおきる。ドキドキしたり、カーッとなったり、不安になったりして、複雑なことや自分の行為の結果を推論することが苦手になっていく。
  
 対人関係的なヒューマンエラーは、この対人関係的危険を感じての交感神経の亢進が中心になり、人間工学的なヒューマンエラーは1から4が中心になるのかもしれない。しかし、対人関係学的な危険の意識はヒューマンエラーに持とう善関係してくる。
 
 失敗が許されないという意識が、成功を待ち望む意識を凌駕してしまうと、交感神経の亢進が優位になってしまう。パワーハラスメントや、ストレッチなどの非人間的な労務管理、個人責任主義なども同様である。過度のノルマや、失敗に対する解雇などの重大な責任が用意されている場合、あるいは一般的に解雇の可能性がある中での作業は、交感神経の亢進が起きていると思われる。
 
  ヒューマンエラーという視点から対人関係学を俯瞰してみたが、対人関係学は、汎用性のある学問であることが感じられた。


法科大学院の講師としての最後の授業を終えて。研究職を夢想して [事務所生活]

先日、7年前からやっていた
法科大学院の講師の最終講義をしてきました。
本当は試験監督と採点講評があるのですが、
授業は最後でした。

今年度で学校そのものがなくなるので
私も失職する運びとなったわけです。

司法試験の受験を控えての
労働法(前期;労働契約法、労働基準法、後期;労働組合法)
の講義です。
実務家として、受験の先輩として
教科書と判例百選を中心とした授業でした。

終わり良ければ総て良しというような感じで
最後の生徒さんはとても良く勉強し、
授業中も質問が多く出て
講師としては、やりがいがある時間でした。


それだけに、ちょっと寂しく感じています。

時々、弁護士という実務を離れて
研究、教育職に就いて
朝から晩まで、研究をしたいという
夢想を抱くことがあります。

研究講座の話がこないかなと
ぼんやり考えることもあるわけです。

労働法は受験指導くらいで
研究という領域ではないと思いますが、
例えばこういう講座はどうでしょうか。

<紛争学の実務>
紛争学といえば、心の師匠レビン小林先生が有名ですが、
私は、むしろ実務的な研究となりそうです。

簡単に言えば、調停やADR、和解の理論です。
テーマを上げてみます。
  家族、職場、地域、学校などの人間関係のどのような不具合が紛争となるのか。
  紛争を解決するとは何か。
  何が紛争の解決を妨げているのか。
  調停委員、代理人の果たす役割とは何か。
  紛争学の歴史と射程範囲
  紛争解決の実務
    家族、職場、地域、学校などの
   調停、ADR、訴訟上の和解の実例

刑事弁護(情状弁護論)
  対人関係学の出発点の一つが
  実は刑事弁護にあります。
 なかなか、出版社を探すことができず日の目を見ないでいますが、
 情状弁護論という形で体系立てています。
  犯罪とは何か
  なぜ、規範に直面しても犯罪を実行してしまうのか
  人間の本質と犯罪
  犯罪環境
  更生とは何か
  犯罪に向かう対人関係の状態
  情状弁護とは何か
  犯罪ごとの各論
    万引き
    性犯罪
    放火、業務妨害
    暴行傷害
    飲酒の上での犯罪のメカニズム
    覚せい剤など薬物犯罪
    人格形成責任、なぜ形成がとわれるのか。
  刑事事件における「反省」とは

実務的に、今一番考えていること
あるいはライフワークにしているテーマは夫婦ないし家族です。

家族学(夫婦学)
  夫婦の危機とは何か
  夫婦の危機の原因
  夫婦の危機の対処方法
  夫婦の危機と家庭裁判所という制度
  夫婦の危機と第三者の支援の功罪
  夫婦の帰属意識と安心感
  現実の離婚事例と円満調停事例

もちろん過労死のメカニズムと防止方法は
研究課題ですね。

それから対人関係学そのものの研究ができれば良いですね。
  身体生命の危険を感じたときの動物の反応
  対人関係の危険を感じたときの人間の反応との比較
  対人関係の危険を感じる出来事の類型と疎外
  裁量と自己防衛の余地
  対人関係の危険の特徴
  対人関係の危険を感じたときの反応のバリエーション
  慢性的な危険の認識の脳の機能に与える影響
  人間が尊重されていると感じる仕組み

それから、啓発としての人権の概念と啓発の手法
啓発とは何をすることなのか
等というちょっとマニアックな研究講座も
本当は面白いのですが、
オファーはなかなか考えにくいですね。

なんてことを仕事に疲れると
ぼんやり夢見ているわけです。



怒りの器は予め用意されている フェイスブックのフランス国旗 [事務所生活]

所用で忙しくしていて
日曜日の夕方、ようやく久しぶりにフェイスブックを除いたら
プロフィール写真をトリコロールをかぶせた形に変えた
多くの友人たちがいた。

みんながみんな協調性が高く温厚で
自分はこうはなれないという意味で尊敬しており、
大好きな人たちだった

だから、不快になったわけでも、違和感を抱いたわけでもなく
ただ、ただ考え込んでしまった。

この人たちは、
西アジア人たちが
フランスを含めた空爆で
子どもを含む戦闘員が虐殺されたとき
必ずしも抗議の意思表示をしなかったはずだ。
どうしてヨーロッパ人が虐殺されたときにだけ
抗議なり、共鳴の意思表示をするのだろうと。

言葉が通じないことはおんなじだ。
宗教が違うこともおんなじだし
私は特にどうでもよい。生粋の日本人らしい。

確かにフランスは、私自身心のふるさとで
小学校時代にポプラ社のルパンシリーズを読破し、
ランボー、ボードレールの詩集を読み、
ああ無情や、赤と黒を夢中に読み漁った
サルトルやボーボワールの活字を追った。
イラクやシリアは
地球儀で指を指すのも困難かもしれない。

しかし、
問題は、現在の報道ではないだろうか。
連日ニュースのトップはパリの惨状だ
テロが起きたのを知っていたかのような
リアルな画像が長時間流される。
新聞の第一面も山上の写真がカラーで載っている。

これに対して中東の惨状は
高遠菜穂子さん、志葉怜さん、国境なき医師団の
わずかな静止画像でしかわからない。

これでは感情移入の格差が生じることは
当たり前だろう。

また、フェイスブックでは
フランスの国旗をかぶせることは
ボタン一つできる。
簡単に意思表示できるのに
しないことは罪悪感を覚える人もいるのだろう。

シリア国旗を載せるボタンはない。
シリア国旗すらどのようなものか調べないとわからないし
シリア国旗を載せることがどれだけ正しいかわからない。

要するに、
正義感、協調性のある素直な人ほど
フランスに共感を示すシステムになっているとは言えないだろうか。

予め怒りを抱きやすく、
フランスに共鳴しやすく
怒りをIS等に向けやすく用意されているのだ。

有志国の新たな殺りくに
違和感や抵抗を抱かないように
準備されている。
当たらな罪もない子どもたちが虐殺されたり
両親や友達の殺害されるところ目の当たりにすることになることに
気にも止めないシステムが親切にも用意されている。

しかし、今回は前回とは少し異なるようだ。
日本において、
フェイスブックやブログで
トリコロールの増殖に対する違和感が
かなり多く示されている。

それが、多くの人たちに共感を持って受け止められている。
14年前とは大きく違う。

私も、自分の怒りの感情を警戒するようになっている。

これは、集団的自衛権の閣議決定と
安全保障法制の議論によって
鍛えられたからだと実感している。

そして、
テロリストが、ジャーナリストを中心に虐殺しているのは
ジャーナリストが身近にいたからだけではなく
西側の報道が西側の非道な行いを報道することを
防止するためではないかと
勘繰るようになっている。

彼らの役割は
西側で辛酸をなめている人たちの
怒りの器を用意するとともに、
真実を報道して、戦争をやめようという世論に抵抗する
勘繰りをするようになってしまった。

怒りの器を用意したのは
いずれの人たちに対してのものも
共通の勢力なのではないかと
ふと漠然と感じてしまっている


やらなくてはならないことに限ってやりたくない理由 対人関係学的考察 [事務所生活]

そんなぐうたらなことを言っているのは
私だけかもしれませんが・・・

東北地方は、
夏休みももうそろそろ終わりに近づいていて
宿題を終わらせなければなりません。
やりたくなかったですよね。

でも、夏休み始まる前に、
よしやっちゃうかなんて思ってやっていると
するする進んだりしましたよね。

同じことでも、
やらなくちゃいけないという時と
面白いからやっちゃおうという時では、
ノリが違うということを
経験された方も多いと思います。

これは、やらなくちゃあいけないという心理が、
やりたくないという感情を起こさせるのです。
特に、制限時間がある場合はなおさらです。

どういうことかというと
制限時間以内にやらなくてはならないということは、
目や耳をふさがれたり、
手足を縛られているときと同じ
危機感を感じさせられるからなのです。

人間に限らず動物は、
自分のことは自分で守るという本能があります。

そのメカニズムは
五感(目、耳、鼻、口(味覚)、皮膚感覚)で危険情報を獲得し、
脳が、危険と判断して、体の状態を変化させます。

息を荒くして、脈拍を上げて、筋肉への酸素供給を増やし、
体温を上げ、筋肉を動かしやすくし
脈拍と血圧を上げて筋肉への血流を増加する等
走って逃げたり、戦ったりすることに便利な体にするわけです。

だから、
五感をふさがれると
いつ危険が来るかもしれないけれど
自分はそれに気が付かないという恐怖感が生まれ、

手足を縛られると
危険を認識しても逃げられない
という恐怖感が生まれるわけです。

危険がなくてもです。

時間がないということは
人類20万年の大部分は
クマやオオカミから襲われて逃げるときの心理でしかありませんでした。

そうすると
やらなくてはならないことがあって、
それに制限時間があるときは、

クマやオオカミから襲われて
命ながら得るために時間がないのに、
やらなくてはならないことがあるため、

クマやオオカミのいる危険な場所や
危険から逃げるべき場所を知ることができず、
また、危険を感じても、他にしなければならないことがあるから
逃げられないという感情を
無自覚のまま、起こしていることになるのです。

これが続くと
慢性的な交感神経活性化持続の状態になり、
さまざまな悪いことが起き、
生理的には、脳疾患、心臓疾患の条件となり、
心理的には、こうなったらこうなるという
理性的な思考ができなくなってしまい、
短絡的、刹那的な行動に走りやすくなるわけです。

まあ、そもそも
やらなくてはならないことをやらないということが
直面する問題だということになります

でもやらなくてはならない。
どうするか。

一つは、
一定の時間を、
そのことをやるための時間と割り切ることはどうでしょうか。
一定の時刻になったらやめる。
とにかく別のことをする。
その後、また考える。

根本的には、
それをやりたいと思って
衝動的にやってしまうということができれば良いのです。

しかし、これは奇妙なことに、
最初やりたくて始めたことでも
だんだんやらなくてはならないと思い始めると
格段にトーンダウンしてくるものです。

ラインとか、ソーシャルゲームとか、
最初は楽しくやっているのですが、
即レスとか、タイムチャージとか
やらなくてはならない、しかも制限時間付というと
徐々にやることが苦痛になるのですが、
やめることができません。

ギャンブルなんかも
依存的にやっているのですが、
どこかやらなくてはならないという気持ちになり、
依存しているのですが、
それをやっていることが苦しくもなっているのです。

どこかで、場所を移して
何にもない高原なんかで寝転がって、

本当にやらなくてはならないのかな
と自問自答することが必要なのかもしれません。

逃げ道だけ用意して
例えば、ラインなんかは、
友達からはぶかれても
逃げる家族のきずなを確保しておいて、
思い切ってやめちまう。

スマホ壊れて、親に買ってもらえないからごめんとか

そういうしがらみのないことは
三日だけやめてみましょう。
何にもない高原にキャンプに行くとか。
おじいちゃんおばあちゃんの家に行くとか、
ボランティアに参加するとか、

案外一日目ですっきりやめることができることが
多かったりします。

問題は仕事ですよね。
取引先との関係がありますし、
やらない仕事の仕分けも
実際は難しいですよね。

時間割みたいに作るということを
何とかやってみますか。
これは、もう少し考えてみます。





堤美果さんの新書を読んでいます。勉強になります。 [事務所生活]

よくわからないのですが、
私は、相談者や相手方から
「これを読んでみてください」と
本を渡されることが多くあります。

これまでも
パーソナリティ障害の本とか
ギャンブル依存症の本とか
読むと大変勉強になり、
実務に役に立っていることも多くあります。

今回渡されたのは
堤美果さんの集英社新書
「沈みゆく大国アメリカ」
「同 逃げ切れ!日本の医療」
でした。

これまでも、書店で平積みになっていたので
気にはなっていたのですが、
なかなか手が伸びなかったということもあり、
大変ありがたく読ませていただきました。

衝撃でした。背筋が寒くなりました。

アメリカの国民が、
栄養状態も含めて貧困に陥っていく過程が
えぐりだされるように報告されています。

しかも、それが、日本の明日だというのです。
もう、既に始まっている部分もあるというのです。

ファイナンシャルプランナーが以下のように発言しています。

28P 次のターゲットは日本です。
公的医療については、1980年代から日米間で段階的に切り崩されてきているし、ガン保険なんかはアメリカ系保険会社がしっかり押さえましたよね?混合診療や、医療と介護を合わせた施設の大型チェーン化は、近いうちに特区で大きく解禁されるし、そこに2014年に上場したヘルスケアリート(大型医療施設の投資信託)が入っていく。

29P 韓国と同じパターンになるんじゃないかな、あそこも皆保険があったけど、特区のおかげでどんどん崩れたところに、アメリカ系の民間保険会社がしっかりはいれましたからね、

貧困対策は、巨大企業の商品を国の金で買わせるものだし、
そのハンバーガーなどによって、
肥満が増えていく。
医療は高額で、お金がないから病院に行けない。

一部の者だけに富が集中していく。

アメリカが一番の植民地だったということがわかりました。
そして、その触手が日本に伸びてきているというのです。
その手段がTPPだというのです。

この本を読んでいて、
日本人同士、あるいはアジア人同士
争っている場合ではないだろうという気持ちになっていきました。

そらされそうになる目を
きちんと見なければいけないものに照準を合わせなければなりません。

むしろ、アメリカ国民と、もっと情報を共有しなければならないはずです。
この点、私の認識が大きく変わりました。

戦争についても言及されています。
徴兵制云々が今盛んに議論されています。
しかし、言葉の正確な意味の徴兵制は
必要ないのかもしれません。

107P
イラク戦争の時に米軍リクルーターが使ったのと同じ手法だ。学費が出る、医療保険に入れる、などと、甘い言葉を並べて高校生を勧誘する軍のリクルーターたち、だがふたを開けてみると、彼ら自身も数年前に同じように騙されて入隊し、前線に行かされることを回避するため、毎月17人の新兵勧誘というノルマ達成に必死になっている。
 餌をぶら下げた競争原理を導入し、社会的弱者に、本来同じ立場にいるはずの別な弱者を襲わせる、あのシステムだ。

集団的自衛権の論戦も、アメリカから教わったのだなとさえ
思えてきます。

111P 
ただでさえ難解な法律用語の羅列なのに、採決直前に3000ページときたら、誰も読み切れないですよ。シンプルですが、実に効果的なやり方です。

121
連続ドラマやコメディは、視聴者を非日常の世界に連れてゆく力を持っている。テレビを見ながらその中の登場人物や状況に感情移入する時、人間の脳は<批判的思考能力>を失い、極めて無防備な状態になるという。
 政策の中身を理解できなくとも、若者たちはオバマケアの存在が脚本に盛り込まれた番組を見ているだけで、無意識にこの制度に親近感を持つようになるのだ。

159P
企業と政治が手を結び、この国を株式会社国家に変えてゆく中で、踏みつけられる大衆から怒りが吹き出すたびに、彼らは巧妙に国を二つの勢力に分断し、対立をあおってきました。
保守とリベラル。共和党と民主党。右翼左翼といった具合ですね。そして文化的・感情的対立、イデオロギー的な対立の下になるような材料を投げ込む。問題の本質から目をそらせるわけです。だがオバマケア一つ見てもわかるように、問題は二極間ではない、両方を支配している政・民・学の三者癒着、これを崩さなければならない。


堤さんの本は、たくさん売れているそうです。

岩波新書の (株)貧困大国アメリカも
購入して読んでいます。

こちらは、イラク戦争は、
起こしたい人が目的を持って起こし、
きちんとその目的を達成している
ということが説得力をもって描かれています。

集団的自衛権、TPPは、つながっていることがわかります。
「戦争法案」なんて表現で思考停止している場合ではないのです。
もっと、愚かで非人間的な大きな流れの中の一つに過ぎない
ということもはっきりすることができました。

勉強になります。