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【面会交流事例報告】 10年ぶりの父子の再会と4年ぶりの祖母との再会 祖父母と孫の面会交流の有効性 [家事]



弁護士が立ち会って長期間会うことができなかった親子が面会するということがあります。弁護士としては余計なことを考えずに、淡々に段取りをすませて、後は親子の邪魔をしないということがコツです。

ただ、長期間会えなかったけれど、せっかく会えることになったのだから、これからも継続して交流を続けてほしいので、いくつか事前にアドバイスをすることが必要にはなります。
試行面会マニュアル 別居親がやるべきこととやってはいけないこと
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-08-11
この記事の第4章に書いています。第1から3は飛ばして構いません。

むしろ、弁護士が苦労するのは、面会を実現するまでの活動です。

<10年ぶりの親子の面会の事例>

これは、別居から1年くらいしてから代理人になり面会交流の調停をはじめました。全く進展が無かったこと、今後も進展が見込まれないこと、間に入ってくれる共通の知人が現れたことから、さっさと調停を取り下げました。その知人さんの計らいで夫の代理人である私は奥さんと知り合いになりました。もちろん夫の代理人であることは伝えてありますし、知っています。奥さん側の相談に乗るような形で、接触する機会を増やしていきました。やがてお子さんとイベントで一緒になる機会を知人さんと私で作り、信頼関係を作り、毎年のクリスマスプレゼントの仲介から始まり、誕生日プレゼントの仲介などをするようになりました。

色々あった事案ですが、同居していた母親は子どもに対して父親の悪口などは言わなかったようですし、父親は全部自分が悪いというように考えが変わっていきましたので、後は母親の負の記憶だけが問題だったのかもしれません。10年たった今でも二人が顔を合わせることは困難なのですが、子どもは父親に会うことができました。生まれたばかりの時に別離していたので、初めて会う人みたいなものですが、子どもは興味津々で、前日に質問事項をメモしてそれに沿って質問をしていました。父親は紛れもなく父親としてお子さんに対応していました。

お子さんにとっては、自分にも父親がいるという実感を持てたみたいで、その表情からは充実感を見て取れました。

淡々と報告することにとどめようと思いましたがひとこと言わせていただければと思います。子どもと会えなくなった親御さんに言いたいことです。

決してあきらめてはならないということです。

できるだけ早い段階から、子どもの利益を中心に考える協力者についてもらい、相手を責めることなく粘り強く機会を作るようにするということです。相手は責められなければ、つまり子どもを連れて離れたことを責めなければ、自分を攻撃する必要性が一つなくなるのです。そうして粘り強く会う機会を働きかけていくということが大切です。

親はあきらめればそれでよいかもしれませんが、子どもあきらめるわけにはゆきません。確かに、子どもが成長する姿に立ち会えなくなることは取り返しのつかない損害です。しかし、子どもの方は、「自分にはもうひとり親がいる。その親に自分は愛されているはずだ。親と会ってみたい。」という気持ちでいるようです。親があきらめてしまうと、子どもも自分についてあきらめてしまうようになることがあります。自分に自信が持てず、自分なんて価値のない存在だと思うようになることもあります。但し、それからでも面会を実行することによって、自信を取り戻し、継続的に交流することによって大きな世界に羽ばたいた実例もあります。子どもにとっては、同居していない親も、間違いなくかけがえのない存在だと実感します。

<4年ぶりに祖母と面会した事例>

結局夫婦は離婚することになりました。この問題が生じる前からお子さんと私は面識があった珍しいケースです。それだけに不可解な離婚事件でありました。離婚を突き付けられた当事者の方々が、理解不能状態になって激しく混乱することが多いのですが、私の何倍も理解不能であり、答えを求めているということになるのでしょう。その不可解さの一端を垣間見ることができた事例です。

どうしても母親は父親に子どもを面会させることに抵抗があり、父親との面会交流はいまだ実現していません。それほど元夫に対する妻の負の感情は継続しているのです。しかし、祖母と孫は、父母が同居中から一緒に生活していた時期もあり、良好な関係でした。母親と夫の母との関係は私は知りませんでした。

面会場所には子どもと母親がいて、そこに祖母が訪れるというパターンでした。ここで感心するのは女性というのは、人間関係を潤滑にすることを生まれながらにして会得しているのだなあということです。これが、夫が子どもを連れ去って、妻の父親が面会に来たとしましょう。表立ってバチバチになるか、無言でバチバチになるかはともかく、不穏な空気になるのは間違いないと思うのです。私がどちらかならばきっとそうなるでしょう。なんせ自分の子どもと離婚した上に孫を取り上げた人間ですからね。

しかし、祖母は孫の母親に声をかけ、無沙汰をわび、面会に関する感謝を自然と口にしていました。男の方だと、口を酸っぱくして行っても感謝なんて口にしないと言う人が多いように感じます。理屈はどうであれ、原因を作ったのは自分ではないとしても、はるばる面会地まで来ていただいたということに感謝してもおかしくないのですが、なかなか口にすることができないのが男性のようです。

母親の方も無沙汰をわび、様々なことに感謝を述べ子どもを祖母のそばに行かせようとします。二人とも如才ないふるまいが素晴らしいと感じました。当たり前のように気が利いたプレゼント交換なども行われ、女性ってとても素晴らしいです。口を酸っぱくしても・・いややめておきましょう。

最初緊張していた子どもも、すぐに打ち解けたようです。私は黒子に徹して、勝手に驚いたり、感動したり、涙ぐんだりしていました。気配を消すことに専念していました。何も関与しなくても極めて良好に面会が進んでいきました。

<祖父母と孫の交流の有効性と手段の創設の必要性>

実は、最初の事例でも、祖母との面会交流が父親との面会交流に先駆けて行われていました。

子どもの母親にとっても、元夫と子どもとの面会交流や元夫との接触というのは精神的にしんどいようです。父親との面会交流にこだわることは、まさに同居元妻に面会交流をするかしないか二者択一を迫り、高いハードルを与え続けることなのかもしれません。しかし、夫の母であれば、離婚や別居の原因に深く関与していない限り、数段も抵抗感は小さくなるようです。全く無いというわけではありません。

子どもが父親側と接触するという具合に大きく考えれば、比較的実現しやすいという利点が一つあります。父親ではなくても父親側の人間と接触することは子どもにとって安心感が生まれるようです。

一つには自分には母親(同居親)以外にも多くの人間から大事にされているということを実感できるという効果です。

一つには父親(別居親)側が自分たちが父親と同居していないことに絶対的な怒りを抱いておらず、父親側の人間を会うことを許してくれた、また母親側も許してくれたという安心感を抱くことです。子どもにとっては、自分に何ら責任が無いにもかかわらず、一方の親と同居していないことに罪悪感を抱いていることが多いです。

もちろん別居親と会うことがより効果的ですが、別居親側の人間と会うことも大きな効果がありそうです。

そして、同居親側からも元配偶者との距離の近い人と接触することによって、元配偶者に対して抱くストレスに馴れが生まれるという効果もあるようです。次は元配偶者と子ども合わせてみようかという気持ちの突破口にもなりうる様です。突破口が大げさだとすると、風穴をあけるというか。

別居親にとっても、自分がそこまで嫌われていないという少しの安心感と、自分も子どもと会えるようになるかもしれないという希望が生まれるわけです。

裁判所では、祖父母の孫に対する面会交流を認めようとしない傾向があります。そのような話し合い自体が消極的です。審判によって裁判所が面会を命じる手続き無いということも大きな原因のようです。祖父母は面会を請求する権利が無いなどと言われることもあります。

実は両親に事情があり、実質的に祖父母に育てられたようなものだという子どもたちはたくさんいます。人間としての最初の信頼関係が祖父母との間に作られたと言っても過言ではない場合もあるのです。それにもかかわらず、両親離婚や片親との死別を契機に、子どもがそれまで当たり前のように自分のそばにいた一方の祖父母とも会えなくなってしまうと、子どもの精神的安定のよりどころが奪われてしまうことにならないでしょうか。

実際に祖父母と面会することは、実例を見る限り、子どもにとって良い効果があるようです。監護権の問題にしないで、扶養の問題とすればもう少し方法が切り開かれるかもしれません。しかし、祖父母と子どもの面会についての効果についての知見が裁判所にはないので、一筋縄にはいかないでしょう。ぜひ祖父母に接触する子どもの心理的効果について調査をしてほしいと思っています。

無条件に愛されるという経験は、どうしても祖父母の方が親よりも子どもに与えられることではないかと私は思います。無責任なかわいがりということも時には必要なことなのだと思うのです。どちらが良いかということではなく両方経験することが有効だということです。

ぜひ子どもの健全な成長のために、孫が祖父母に面会できる手段を創設していただきたいと思います。

あるいは法律や家庭裁判所に期待してはならないのかもしれません。祖父母と孫との交流も強硬手段ではなく、相手を誘導していく形で粘り強く働き替える必要があるのでしょうか。しかし、私たち中高年には時間があまり残されていません。


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夫婦の仲を安定させるためのポイント ふたりが真面目過ぎることがけんかのタネだったという話 [家事]



<真面目さと夫婦喧嘩の流れ>

昨今、マッチング系アプリによっての結婚が増えているようです。母数が増えれば、一定割合離婚問題が増えるのも仕方がないことかもしれません。だから、今回お話しすることは、マッチングアプリ特有の問題ではないのかもしれません。ここはだれか考えてください。なんにせよ、予めつまずくポイントを押さえておいていただき、末長い幸せなご家庭を築かれることを願っているわけです。

そのような現場の事情を踏まえて言うと、昨今の夫婦喧嘩の特徴は、
・ お互いが真面目過ぎるということ
・ 自分の真面目さを相手にも求めてしまうこと
・ 自分の真面目さが受け入れられないと自分が拒否されているのではないかという被害意識を持ちやすいこと
・ 一度被害意識を持つと、安心できなくなり、相手の些細な言動を気にしてしまうこと
・ 気にしてどうしようもないとすぐにあきらめて、キレてしまうこと
・ キレた自分を見せたことによってますます不安になること

そして思い込みDVになって、子どもを連れて別居、第三者から見れば病的な拒否が起きるという構造をよく目にするようになりました。

<まじめすぎる実例>
・ 箸の上げ下ろし
これ冗談ではなくて、箸置きに箸をおくとか、おかわりをよそったしゃもじの置く場所とか、押し入れに入れた布団の端をそろえるとか、本人の年齢に不相応なことにこだわる人(主として妻)がいます。妻が家事を努力してこなしていることは夫も認めています。ただ、あまりにまじめすぎると、他人に対しても合格のハードルが高くなるようで、相手が努力してそこまでしていてもなかなか合格とされないようです。相手の努力に感謝の気持ちが持てなくなるという弊害があります。結局、全部自分でやらなければならなくなるおそれもあります。また、相手の悪意のない失敗を見過ごすこともできなくなるようです。

・ 夫婦のルール、あるべき姿、格言等
私の担当した中では、一般論を守ろうとする姿勢が強すぎるのは男性の方ですが、女性も第三者に理解できないこだわりがある方もいます。いずれにしても、それはお互いが長く共同生活をやっていくための「方法論」にすぎません。目的ではないのです。それなのに、その方法論を実践しなければすぐに夫婦の仲が崩壊するかのように、自分の方法論を厳格に守るように要求して、うるさがられるということが結構あります。例えば、家に一緒にいる時間は近くで同じことをするべきだとか、そういうことを頑固に言ってけんかになることがあるようです。言い出しにくいことも言葉にしないことを責めるのは男性が多いような気がします。その日その日で体調が違うし、昼間にあったストレスフルの出来事を落ち着かせるために一人で過ごしたいということもあります。放っておいてほしいときは放っておくことがむしろ長く共同生活をするコツのようなものかもしれません。

何か不具合があったら冷静に話しあおうなんてことを取り決めするのですが、いざエキサイトしている場合にはなかなかそんな悠長な約束は覚えていないものです。それでもどんな時でも冷静であれと要求するのは男性の方が多いかもしれません。

・ 論理性、公正性、正義みたいなもの
これは男性側が気にするところですが、妻が前に言ったことと違うことを言った場合に強く問題にすることからけんかが始まることもあります。まじめな人は、特に若い男性は、相手の一言を大切に受け止めすぎてしまい、それを自分が忠実に実行しているものですから、別のことを言われるとはしごを外されたような気になるのかもしれません。だんだん話半分に聞くポイントみたいなものを覚えていくのですが、ここまでふてぶてしくなるまでには年月がかかるようです。若いうちは真っすぐであることが美徳だと思うのですが、まじめすぎると相手は苦しくなるようです。

<真面目さから二人の仲を大切にしすぎる弊害>

これ等の真面目さの弊害は、二人の夫婦生活をいつまでも続くものにしようという気持ちから生まれるようです。その方法論にすぎないものを過度にこだわって本末転倒になるところから生まれるようです。その真面目さからくるのか、真面目さに行き着いた結果なのか、方法論にこだわる理由には二人の仲が壊れることについての不安があります。

真面目過ぎて、それを相手にも求めてしまい、相手がその水準に達しないと、二人の仲が終わるのではないかという不安が生まれてしまいます。この不安に取りつかれてしまうと、第三者からすれば気にするほどではないいろいろなものが、崩壊の前触れのような気がしてくるようです。

うっかり出張の日を伝達忘れていたり、うっかり先に食事をしてしまったりということが、自分が軽んじられているような深刻な受け止めをすることがあります。また、プレゼントを渡されるのですが、ケチられていると思って不安になるのは、女性が多いようです。夫としては一緒に食べようとして買ってきたのに、妻はプレゼントだからそれを自分だけがもらえるものと思っていて、夫も一緒に食べだすと幻滅するとかという些細な食い違いもよく見られます。小学校の道徳の時間のテレビで、プレゼントはケチってはだめだと言われたことを思い出します。男性の不満で観られるのは、食事の内容に配慮されていないとか、妻が一人で出かけてしまうということなどがあります。自分が入院とかして大変な時に面会時間外とはいえパチンコに行って悠長に遊んでいることを怒るのは妻の方です。

夫が仕事の関係で「うつ」っぽくなってふさぎ込んでいると、そういう事情で無口っぽくなっているということを十分に説明されないと妻は自分に不満があるから話さないのではないかと心配が大きくなっていったということも実際にありました。

一方が信じている「夫婦関係の在り方」に、他方が協力してくれないということでも、不安が大きくなるという事例が、これは男女あまり差が無くあるように感じます。一方が一人になりたいときは、他方は一人にされるということもあり、心細さが大きくなってしまうのでしょう。その流れはわかるような気がします。

干渉しすぎても煩わしくなり、かかわらな過ぎても不安になるということです。また、その感じ方は人それぞれです。その時の調子によっても違うようです。単純に決めつけることをせず、よく観察をし、一つ一つ修正や説明をすればよいのだと思います。

<不安をぶつけてしまう>

夫婦の仲が終わりになるかもしれないと思ったときにとる態度は二つです。一つは落胆してしまうパターンで、もう一つが攻撃するパターンです。しかし、いつまでも家庭の中で引きこもることは難しいので、最終的には相手を攻撃してしまって紛争になるということですから、最終的には相手を攻撃するというもう一つのパターンに流れ着くことが多いかもしれません。相手からするとどうして怒っているか、どうして攻撃するのかわかりませんから、逆切れだと感じてしまうようです。

最初に落胆するパターンだと、徐々に不信感が強くなっていって、それまで楽しくて仕方がなかった二人の時間が、全て噓だったと記憶が塗り替えられていく様子が、離婚訴訟で証拠として出された日記からありありと浮かび上がることもありました。最初に相手を好きすぎて、二人の仲を大切にしようと思いすぎて、自分の思いを受け入れられない場合のパターンですね。思い込みDVのパターンに強くなじむように思われました。

小出しに怒りをぶつけてくるパターンとしては、自分が相手に対して求めていることを相手が完璧に実践するという結果が確認できるまで、女性はヒステリックに、男性は暴力的に、逆切れして相手に求めてしまうということもあります。この場合は、相手の精神的ダメージが大きくなります。相手からすると何を怒っているのかわからずにとにかく自分が攻撃されてしまい、話し合いもできず、取り付く島もないという状態で、絶望を抱きやすくなるようです。

強硬に自分の希望を相手に実現させて安心感を獲得しようとしているようにも感じます。しかし相手がそれを実現したとしても、相手が自分から自発的に行ったものではないので、満足感は一瞬のもので、かえって自分が低評価されることにつながると感じますので、むしろ不安を強めてしまい、相手に対する強制をいつも行ってしまうような悪循環に陥るようです。

また、男性も女性も、自分の行為が相手にどのくらいダメージを与えているか正しく認識できないようです。自分の行為は当然のことで、正義だという意識から、徹底的に主張することを抑制することができなくなるのかもしれません。自分が攻撃されていると思っていますから、自分の反撃で相手がかわいそうだとは自然には思えなくなっている状態になるようです。

<先ず、夫婦、家族の目的の一つをはっきりさせること>

幸せの形は人それぞれです。こうでなければならないというのはないかもしれません。ただ、人間である以上、その性質から逃れられないことがあります。叩かれたら痛いし、熱したフライパンに触れば熱いと感じるようなものがあるわけです。それは、家に帰ったならば、安心してリラックスしたいということです。

人間の生理的な構造から、昼間に活動をして夜に休息することが想定されています。活動をするために、精神は研ぎ澄まされて緊張をしやすい状態になっているのです。夕方頃からこの状態は逆転して、緊張をほどいて穏やかな感情になることが最も自然な活動形態です。そしてぐっすり眠って昼間の緊張で傷ついた血管などを自然にメンテナンスするようにうまくできています(概日《サーカディアン》リズム)。

人間が他の動物に比べて長寿である理由は、このサーカディアンリズムが発動しやすい環境を構築したからだと私は思います。つまり、群れを作り、主として男たちは昼間に緊張を高めて食料を探しに出かけ、外敵から身を守って、その間女性たちも子どもや老人を守りながら植物採取をした。そして夕方になって二つの部隊が合流してより安全な体制となって安心をして夜を過ごした。これによって、昼間はより緊張しやすい状態で身を守り、夜はリラックスができる状態で緊張によってミクロ的に傷ついた血管や神経を修復していったことで、長生きができたのだと思います。これができないで緊張しっぱなしの状態ですと、今でいう過労死が起きやすい状態になり、長生きができなかったでしょう。そうすると、繁殖をしても子どもが成長する前に親が死んでしまい、人間は自然消滅していたはずです。

わたしたちは生き残ることができた祖先から遺伝子を受け継いでいるため、生理的にも心理的にもこのスタイルで生活できることが、自然に快い状態を感じるようになっているのだと思います。

つまり、家族、夫婦の役割は、一緒にいるときに、安心してリラックスできる状態を、「お互いが意識して作る」ということなのだと思います。一緒にいれば緊張を緩和させることができるという人間関係を作るということですね。

人間ができる相手に対する安心感を与えるときの安心感とは、人間関係が終わりになるかもしれないという緊張を感じなくさせること、つまり安心させることになるでしょう。このような緊張や不安は、人間は特に理由もなく感じてしまうもののようです。だから、終わりになるようなそぶりをしないというような「マイナスになることをしない」ということではなく、積極的に安心させるという「プラスになることをする」ことこそ大人の二人は行うべき行動だということになると思います。

安心させるためには、
二人の仲が終わることを自然に予感させることをしないことが前提なるでしょう。つまり自分は相手から低評価されていない、大事にされていると感じさせることです。低評価されているとか大事にされていないと感じると、二人の関係が終わりになるかもしれないと心配になることは自然なことだと思います。

相手が失敗しても責めない、相手に不十分な点があっても批判しない、欠点はできる限り目をつぶる。自分が代わってやれるところは代わって行うということをすればよいことになります。お互いがお互いの負担を軽くするような行動はプラスの行動ですね。

大事なことは、こういうことはお互いに行うことです。常日頃こういう態度でいることで、不安が少なくなり愛されているという自信が生まれます。相手が多少イレギュラーな行動をしても、自分が責められていると感じないで、相手を気遣うことができるようになります。

このように人間が自然に不安を感じてしまう動物であるため、それから複雑な社会構造からさらに不安を感じやすくなっていることから、人間関係は壊れやすいものだということを離婚事件を多く担当して思います。

それにもかかわらず、マニュアルのように結婚生活を長続きされるノウハウ本などを読んでしまい、何でも話し合うことが必要だとか、食事の後は必ずそばにいなければならないとか、秘密を持っては絶対だめだとかということになると、あるいは箸の上げ下ろしが完璧でないとかや非論理的な話はしてはならないとか、形式的な方法論にこだわってしまうと、肝心な相手を安心させるということができなくなり、無駄な緊張感ばかり与えてしまうことになってしまいます。朝から晩まで家族だけで生活できるならまだよいかもしれませんが、家族以外の職場や友人関係があるのですから、切り替えのための一人の時間ということも尊重するべきです。そして、なにか感情的になっていたとしても、暴力などに及ばない限り、そういうときもあるという余裕が持てる人間関係を構築できれば一つの幸せの形は続くと考えています。

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思い込みDVなのに、なぜ夫に対して攻撃的感情が生まれて、持続するのか 怒りの原理と確証バイアスの構造 [家事]

 

<思い込みDVと連れ去り別居>

実際はDVというほどの身体的暴力や精神的暴力が無かったのにDVがあったと主張して、警察や役所の支援の下で、妻が子どもを連れて住んでいる場所からいなくなり、父親は子どもと会えないどころか、連絡を取ることもできなくなり、やがて妻は保護命令や離婚手続きに進むという事例が多く見られます。

妻は、多くは自治体や国の配偶者暴力センターで、「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」という決まり文句を聞かされて、「私はDVを受けていたのだ」と思い込むようになるようです。配偶者暴力センターの相談件数に50をかけた数字がほぼ面会交流の申立件数と同期しているということは先日お話ししています。理不尽な親子断絶を感じて、法的手段に出る夫が増加するという構造です。
私の担当事案に現れた男女参画事業の配偶者暴力相談(DV相談)が統一教会時代の信者獲得の技法に酷似していることと家族破壊という共通の問題点
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-12-22

<DVの具体的記憶がないにもかかわらず怒りを持つ妻たち>

実際はないのにDVがあると思い込む妻たちも、どうやら夫に対して本気で怒っているようなのです。ただ、通常、裁判上の書類にはどういう心理過程で怒りが出てくるかということは詳細には書かれていません。訴えられた夫でさえも妻が何を怒っているのか十分に理解することができません。

裁判の書類には、「DVがあった」とか、「暴言を受けた」、「人格を否定された」、「長年の積み重ね」とか抽象的な表現だけが書かれて具体性のある出来事が記載されていなかったり、どこかの事例を借用してきたような実際には存在していないことが書かれていたりします。かなり怪しい主張です。「怪しい」というのは、人間の記憶は、自分が体験して怒りの感情や恐怖の感情を持った出来事はリアリティーをもって覚えているようにできているので、離婚の成否を決めるかもしれない大切な主張書面に怒りの根拠となった出来事について何ら具体性のない記載しかないということはあり得ないからです。具体性のない主張は、そのような事実はなかったと考えるほうが合理的である場合が多いと思います。

それでも記憶のメカニズムについて素人である裁判所は、DVがあったという抽象的な妻の言葉によって、勝手に自分がイメージするDV像があったと想像してしまうようです(プロトタイプ理論、ステロタイプ)。裁判官が抱く一般的なDVのイメージの平均的な出来事があったと考えてしまい、①妻がやり直しを強固に拒んでいて、かつ、②同居をしていないという二つのことだけを理由に離婚を認める傾向にあります。

但し、慰謝料を認めるか、認めるにしてもその金額については、リアリティーの有無はとても大きく影響するようです。リアリティーのある主張や客観的事実と整合しない主張しかできない場合は、この点決定的に不利になります。しかし、DVがあると思い込んでいる妻は、もっと早く離婚が成立し、もっと多くの金銭が支払われると思っています。そのように説明されていたのに、そうはならないことでヒステリックになる人もいます。実際は、ことは慎重に進めなければならかったのです。支援者の根拠のない楽観論に振り回されている妻はずいぶん多くいらっしゃるようです。

それにしても、具体的事実の記憶もないのに、どうして夫をそんなに攻撃することができるのでしょうか。考えてみたら不思議なことなのです。
原因を探ってみましょう。

<思い込みDVの原因についてのおさらい>

先ず、これまでのおさらいなのですが、怒りを持つということは、「自分を守らなければならない」と感じているということです。自分が危険な状態にあると思った時の反応としては、「逃げる」、「立ちすくむ」、「怒って攻撃する」の三パターンがあります。いずれにしても危険を感じているときの反応です。

危険を感じれば危険が実現してしまうのではないかと心配になります。これが「不安」です。不安を持つと不安を解消したくなり、あれこれ行動を起こして危険を除去して不安を解消するのが人間をはじめとして動物の生きるためのメカニズムです。(遠くに熊が見えたら襲われるのが怖いからさっさと立ち去るとか、高い場所は落ちるかもしれないと怖くなり安全な場所に戻るとか。)

しかし、不安の原因がわからないのであれば原因を除去することができなくなりますから、いつまでも不安を感じ続けます。そうするとますます不安を除去したいという要求が増大していって、大きなストレスになります。

不安は、「何か悪いことが起きるかもしれない」という抽象的な心配だけで起きてしまいます。

自覚できない不安の原因として、これまで
体調(産後うつ等)、病気(精神疾患だけでなく、精神症状が出る内科疾患、婦人科疾患)、頭部打撲などの外傷、薬の副作用
などを挙げていました。理由はないのに体調の問題を不安感じてしまうということがあるのです。実際の離婚手続きで、具体性のない主張している妻の多くが、これ等の既往があることを自ら主張しています。しかし、本人も支援者も本当の不安の原因である可能性の諸症状についての知識は無いようです。

先に述べたように、不安を感じれば不安を解消したいという気持ちは強くなります。しかし、原因がわかりません。対処の方法が出てきません。不安と不安解消要求はどんどん大きくなってゆきます。

自分では不安を解決できないと自覚すると、人間は自分の一番身近な、一番頼りにしている人に無意識に解決してもらおうとするようです。妻の場合は通常は夫です。連れ去り別居のわずか数か月前には、妻は夫にいろいろな相談をしていることが多く、夫も親身に話を聞いているというエピソードが結構あります。それでも原因がわかりませんので、解決しません。夫が解決するべきだという感情も不安とともに増大していくことになるようです。

自分も夫も不安を解決できないとなると、さらに解決要求が高まりますので、妻は、普段ならばしないであろう行政の相談所に相談に行くわけです。配偶者暴力相談センターや女性の人権相談などは、男女参画事業として潤沢な予算が付きますので、お金をかけてポスターなどを制作し、宣伝をしているので、アクセスしやすくなっています。また、自治体や国の施設ということで、安心して相談に行きます。

<配偶者暴力相談による思い込みDVの完成と怒りの端緒>

相談所では、実は漠然とした不安があるだけだということも、あるいは体調や疾病由来の不安かもしれないという見当は一切行われません。
男女参画事業の不思議な共通性があるところです。事業評価においては、「働きかけによって家族関係を改善して」不安を解消したという評価項目はありません。男女参画局のホームページを見ていただければわかりますが、何件連れ去りをさせた、何件離婚を申立させた、何件保護命令を申立させたということだけが評価対象となっています。つまり家族再生によって女性の不安や生きづらさを取り除くという解決方法は初めから勘定に入っておらず、離婚させてなんぼということが国のホームページからは印象付けられます。

もちろん相談員の意識もそうなってしまいます。「女性の不安の背景には夫のDVがあるのではないか(あるはずだ)」と待ち構えて、夫のDVは見逃さないぞという態度で話を聞きます。だから、本来特に意味のない出来事も夫の虐待だと、相談員が自然に思ってしまうわけです。心理学的に言えば、相談を受ける前から「確証バイアス」に支配されており、DVと言えそうな事象だけを掘り出すように妻に言わせるわけです。DVではないという事情は無意識に捨象されて聞き流されます。相談担当者はいたって真面目で責任感の強い人たちです。初めから家庭を壊して女性を家庭から引っ張り出そうと思っているわけではないと信じたいです。こういう人たちが自ら確証バイアスに陥るようにうまく制度設計がなされているということがリアルだと思います。

妻の側は、役所の人たちにいろいろ尋ねられるので、自分のことを理解しようとしてくれていると感じます。それは妻も嬉しくなり、信頼も厚くなるでしょう。不安の本当の原因は置き去りにされたまま、「あなたは悪くない。夫のDVだ。」と自信たっぷりに断定されます。

<夫への怒りが発生する怒りの原理>

そこまで相談が進み、自分の不安の原因が夫にあると言われたとしても、いかに自治体の関係の相談だとか肩書のある相談担当者から言われたとしても、好きで結婚した夫に対して直ちに怒りが生まれ、離婚調停を行うほどの持続力があるのはどういうことだろうかということを考えなければなりません。

こう考えると、実際は夫のDVと呼べるような虐待があったということかと考えたくなってしまいます。しかし、ある仮説を立てることでこの流れが理解できると思います。この仮説を理解するためには補助線となる知識が必要です。以下説明していきます。

第1に妻の不安が病的であり、不安解消要求も病的なまでに強いということを理解しなくてはなりません。不安の原因に妻も夫も心当たりがありませんので、「とにかく不安が解消されればそれでよい」と、優先度が異常に高くなっているということです。常時、不安が発生していて落ち着かない状態になっているわけです。これは相当苦しい状態です。

第2に、「怒り」という感情の状態のときは「不安」が感じにくくなります。一種の「側部抑制」みたいなものかもしれません。これは、ヒポクラテスのいう「痛みが2つある時は、強い方の痛みしか感じない。」ということで説明できると考えています。妻は怒りを表明しているときは不安から一時的に解放されていることを体験します。

第3に、怒りは基本的には、戦えば自分が勝って相手を倒すことによって危険を解消することができると判断した時にしか起こりません。ここで役所の人たちや警察、さらには弁護士や裁判所まで自分の味方だと思うことによって、「勝てる」という意識になるのでしょう。怒りに向かいやすくなっているわけです。

第4、さらに、自分が悪いわけではなく夫のふるまいは自分に対する虐待だというアイデアは、夫に反撃をするべきだという意識を作り出してしまいます。

そして、自分は悪くなくて夫が悪い、自分の不安の原因は夫だ、自分には味方がいるから勝てるとなると、怒りが沸き上がり夫を攻撃しようという気持ちになるわけです。自治体の相談会では夫はいませんから、夫を攻撃するということで盛り上がることができるわけです。本当は怒りを持てたから苦しさが減っただけなのに、夫に対して攻撃したから自分を取り戻したという錯覚が起こるようです。

そうすると妻は奇妙な学習をしてしまいます。自分が夫に対する怒りを表明すると、自分の不安が感じられなくなり、解放されたような気持になるという体験です。気持ちが楽になり、不安や焦りを感じなくて済むということを覚えてしまいます。「やっぱり夫婦だし協力し合って頑張らなくてはならないかもしれない。」と考えることもあるでしょうが、そう考えるとまた不安に襲われて苦しくなってしまいます。(それほど強い不安に苦しんでいるということなのだとは理解する必要があると思います。)

この点、妻が意識して「自分の不安を感じなくするために夫を攻撃する」と考えるには無理があると思います。むしろ、夫を攻撃することが楽な感覚を得ることができるということで、「攻撃しないことができなくなる。」という感覚に近いのだろうと思います。攻撃依存に陥っているという感じなのでしょう。

<怒りの持続と確証バイアス>

さらにこの怒りが、離婚調停や訴訟などの手続きの間中持続するメカニズムがあるはずです。それが「確証バイアス」から説明できるのではないかと思います。

先ほども確証バイアスという言い方をしましたが、厳密に言えば先入観でしたでしょうか。「確証バイアス」というのは、例えばAを選ぶかBを選ぶかという選択を迫られて、どちらかを選択した場合に、選択後に、自分が選択したことが正しいことを裏付けるような都合の良い事情ばかりを集めてしまい、都合の悪い事情を無視したり、過小評価をしたりするというバイアスです。人間はこのような思考ミスをする傾向にあると言われています。

妻は、別居や離婚、あるいは子どもに会わせないことを「選択」し続ける状態になっています。そして確証バイアスによって自分の選択が正しいということを示す事情をたくさん集めたがるわけです。もともと思い込みDVの場合は不安がありますから、自分の選択が正しいということを常に思える事情を見て安心したいということになるでしょう。そうすると、なんていうこともない事情を虐待だとか、自分を苦しめた事情だと考えるようになります。本当は自分のわがままを夫に注意されたという出来事も一方的に説教された出来事という風な出来事として再構成してしまいます。また、夫婦で子どもに対して注意した出来事も、夫が一人で子どもを虐待したという出来事の記憶になり、子どもはそれを聞いて納得したのに、夫が子どもを力でねじ伏せたというエピソードに変わるわけです。

妻も、自分は間違っていたのではないか、離婚は早計だったのではないかと考えることがあります。あるいはそう考えそうになることがあります。その都度このような確証バイアスによって、自分の選択は間違っていなかったと思い返し、あるいはその思いを改めて強化していると考えると説明ができそうな気がします。

確証バイアスはこのような不安が多い人の思考ミスではなく、人間全般に見られる思考ミスです。もしかすると、確証バイアスというのは、人間は病気や体調にかかわらず、不安を抱きやすい、しょっちゅう不安を抱いている生き物であることがその由来なのかもしれません。選択をするということはもう一つの選択肢を切り捨ててしまうことです。自分の選択が正しかったのか、人間は不安になるのでしょう。そしてその不安を解消しようと、つまり安心するために自分の選択が正しいことを示す事情を強引に集めようとするということが確証バイアスの構造ではないでしょうか。

人間が理由もなく不安を抱く動物だとすれば、思い込みDVの端緒は、もしかすると体調や病気ではなく、通常の状態でも起きる可能性があり、その後の事情で思い込みが強くなるという順番もあるのかもしれません。

裁判所で観られる思い込みDVの事案は、妻に夫に対する持続的な強い怒りが見て取れます。それに見合うDVの具体的な主張はありません。そのギャップを理解するためには、もともと妻に病的な強い不安があり、原因がわからず対処の方法がなく苦しみ続けていた日常であったということを理解する必要があると思います。

単に攻撃をして正義を主張するという方法では解決する方法がないということはこういうことだからだと思います。攻撃をしないということを一歩進めて、積極的に不安を除去していくという手段が最も有効なのだと改めて感じました。


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思い込みDVによる子連れ別居から妻のこころを奪還する方法 実務上よくみられる夫の逆効果になっている行動 [家事]



1 初めに夫が何をすると妻は遠ざかるのかを理解すること

  先ず、夫婦だけでなく、子どもも含めた家族再生を行う主体は誰かということを考える必要があります。それは残された夫しかいません。妻に「再生について協力しろ」と言っても効果は期待できません。妻は思い込みによって夫から離れようとしているからです。再生が困難な事例では、夫が客観的に見て再生に向かう行動をとることができず、むしろ別居後の夫の行為により断絶を促進してしまっていることがしばしばあります。

 家族再生の担い手は夫しかいないこと、夫が一人で家族再生のイニシアチブをとらなくてはならないこと、家族再生の方向に逆方向に動かないこと、これらを理解することがなかなか難しいということです。だから、自分が家族を立て直すということを決意することが初めの一歩なのでしょう。ただ、第三者から見ると、家族再生を目指すことが無謀にみえ、かえって傷つくばかりではないだろうかという心配する事案もあります。決意するかどうかは一人一人の人生観によるのかもしれません。

 まず理解するべきことは、そもそもなぜ妻は、夫から逃げたのかということです。再生に向けての対策を立てるにあたって重視するべきは客観的な事実ではなく、妻の主観です。妻の行動が不合理だということが論証されても妻は戻ってこないし、むしろ反発を強めるということがこれまでの教訓でした。妻の主観にうまく働きかけることが対策となります。
  思い込みDVの場合について説明します。
  
  思い込みDVについて説明します。

 妻には年齢変化などによって、これまでとは比較にならない不安や焦燥感を感じる事情が生まれてくることが少なからずあります。産後うつ、全般性不安障害、精神症状を伴う内科疾患、精神症状を伴う婦人科疾患、精神症状の副作用を伴う薬の服用、頭部外傷、脳卒中などの事情です。結構多いのは職場のストレスがこれに関与しているというケースです。

初めから妻には不安や焦燥感が生まれていて、その苦痛から何とか解放されたいという思いが強くなっているわけです。病院に行ってもなかなか解消されないのに、病気があることに気が付かないで検査さえしない場合も多いのではないでしょうか。病院に行って治療が始まっても、その不安や焦燥感の原因がこの病気や怪我にあるという説明は医師からは通常なされませんので、不安と不安解消要求ばかりがますます大きくなるのです。そんな時に女性の相談機関があると言われれば相談に行ってしまうことは無理のない流れだと思います。そこで、裏付けもなくマニュアル通り「あなたは悪くない。夫のDVのためにあなたは生きづらいのだ。」と言われれば、不安を解消したいという要求が高まっていますので、たまらず夫から逃れれば不安が解消するという希望にとびついてしまうということです。ここを前回詳しく説明したつもりです。

理由はどうあれ、妻の一番の願いは、安心したいということです。何かにおびえないで、責められないで、安心して暮らしたいという願いです。

あえて妻の視点(主観)だけから妻が離婚手続きをするに至る過程を見てみましょう。

妻は自分の精神的苦しみの原因が夫にあると思い込んでいます。だから苦しみから解放されるために逃亡するわけです。それにもかかわらず、夫は逃げた妻に対して働きかけてしまいます。一番嫌な「元に戻って来い」という要求が夫からなされるわけです。妻からすれば、「せっかく平穏に暮らし始めたのにそれを妨害するのか」という気持ちにしかなりません。それだけならまだよいのですが、夫から、逃亡自体が身勝手だとか、背信行為だとか、子どもに損害を与える行為だと批判されると、妻としては一番言われたくないことだけにその点に過敏になっていますから、文字通り神経を逆なでされるような気持になるわけです。まじめな妻ほど嫌になるわけです。

夫から話し合おうと言われると、妻にしてみれば夫に原因があるのだから自分の行動を改めるべきで、それを言わないで話し合おうということは、夫はまだ妻が悪いと思っていることをくどくどと言い連ねようとしているか、自分に対して責任を押し付けるのかという気持ちになります。妻がとても煩わしい気持ちになることは間違いありません。

夫からすれば正しい主張を妻にぶつければぶつけるほど、妻は夫から遠ざかりたいという関係になるようです。

 ここで大切な方針を確認しなくてはなりません。正しいことを指摘して、正しい行為をするように結果の実現を妻に求めるのか、妻が戻ってきやすい状況を作るなど家族再生に誘導するのか、どちらを選ぶのかという腹を決めるということです。

 ただ、こう書けばわかりやすいのですが、何が正しいことを指摘して結論を押し付けて逆効果となる行為なのか、実際これを意識して自己抑制することはなかなか難しいことです。

2 夫が現状をリアルに認識すること

 第三者から感じていることを言えば、現実を夫は受け止め切れていないという印象を持ちます。自分が妻から嫌悪されるはずがない、怖がられるはずがないというものが代表的なものです。あれは嘘を言っているのだと思っている人がとても多いです。この気持ちは実はよくわかります。しかし、妻は実際は夫を嫌悪しているし、怖がっています。ある時、ふと、夫は怖い存在だ、いやな存在だと感じてしまうようになるようです。

 子どもを連れて逃げた段階では、何事もなく同居していた時のように打ち解けたような心持ではいないということから出発しなければならないのです。簡単なたとえをすれば、統一教会時代に洗脳されて入信した妻が、夫がサタン側の人間だと信じている場合、本気で夫を嫌悪して怖がっているようなものです。

 だからメールを受けたり、電話をかけられたり、ましてや夫から自分が住んでいる場所を訪問されることは妻にとってたまらない苦痛です。思わず警察を呼ぶということは予めそう指導されているとはいえ、妻にとっては自然な行為です。

 思い込まされたということを甘く考えない方が良いです。事態は自分が考えているよりもっと不合理、不条理なものだとして取り掛かる必要があると思います。統一教会の洗脳から家族を奪還することと同じエネルギーと技術が必要だと構える必要があると思います。

3 夫側の問題点が必然的に生まれる構造

 今度は、子どもを連れて妻が出て行って家に残された夫の主観を見ていきましょう。自分のことがどういう風に見られているのかを知ることはなかなか難しいことです。

 夫からすれば、突然妻と子どもが家からいなくなったわけです。妻は相談機関から、家を出るそぶりを見せないように指導されています。このため、ことさら家を出る直前には、妻によって和やかな家庭が演じられています。問題なく日常生活を送っていたはずだという気持ちになっています。

問題点を認識できない事情は、実際はさほど問題がなかった場合と、問題点を妻が同居中に提示しないために夫からすれば問題があったことに気が付かない場合と二種類あると思います。
この種の事案の離婚訴訟などにおいてよく見られる特徴は、妻は同居中に自分の夫に対する不満などを述べることが無く、改善の提案もしていないということです。訴訟においてさえも妻は言葉にして夫に伝えることが苦手なようです。思い込みDVの場合は、言葉にならないことは当然のことです。存在しなかった事実を主張しなくてはならないからです。なんだか同居中の記憶は嫌な記憶になっているなと感じるのがせいぜいの文章が思い込みDVを疑うべき主張ということになります。はっきりしたDVであれば、弁護士の記述をもって丁寧に聞けばはっきりしたエピソードがいくつも主張できるものです。もっともはっきりしたDVがなくとも離婚を決意する事例は存在します。もしかしたらそれまでをDVだと主張するから無理が生まれるのかもしれません。

 いずれにしても夫は、このような事情から、妻が自分に対して不満があるのか何をどのように不満に感じているのか同居中に知る機会がほとんどない場合が多いようです。連れ去り別居は不意打ちであり、精神的ダメージがカウンターパンチのように大きくなることは当然です。

次に、夫とすれば自分が一人取り残されたということ自体が精神的打撃を受けることです。その上、徐々に、夫はわかってきます。妻が自分を嫌悪したり恐怖を感じたたことを理由として、自分から逃げたのだということを知ることになります。警察から告げられることもあれば、裁判所から申立書が届くことで知ることになる場合もあります。

これは人間にとって精神的な大打撃です。それまで仲間だと思っていた相手から突如敵対されるわけです。夫として、人間として、男性として、父親として、家族として、強烈な否定評価を受けたことになります。暴力を伴わないいじめの究極の形かもしれません。

このような目に遭った人は、消えない強烈な危機意識を持ちます。これが群れを作る人間の自然な心だと私は思います。

危機的意識を持った人間の行動パターンは、大きく二通りあります。このような理不尽な行為のためにうつになりすべてにおいて逃避行動になるパターンと、逆上してしまうパターンです。これが当たり前の人間の反応だと私は思います。

しかし、この当たり前の反応こそが、夫が解決に向けた行動に向かえない最大の原因です。

特に妻の行動に怒りを覚える人が、逆方向に向かわせてしまいます。安心したい妻に対して、理屈や正当性や合理性で否定評価をぶつけてしまい、妻の危機感を募らせてしまっているからです。

本当は行政などの提示した夫と断絶する生活という秩序と元に戻って夫と生活する秩序の間で妻のこころが揺れているにもかかわらず、夫の行動によって妻のこころを行政の提示した方向に強硬に追いやってしまっているということです。

特に夫の再生行動を妨げるものは権利意識です。極端な言い方をすれば権利意識が強すぎて、自分のために周囲が自分の望む結果を実現しなければならないという考えで、自分は言いたいことを言っても良いのだという振る舞いがみられることがあります。例えば、長年の断絶からようやく子どもとの面会にこぎつけようとしているときに、感謝のポーズさえできない理由はこの権利意識ですし、例えば別居親の方から面会をする代わりに子どもとの自由に電話をさせろなどという自分の立場を考えない駆け引きをしようとしてしまいます。客観的には、つまり評価をいれないで事態を見た場合は、妻が子どものために手を差し伸べようとしたところを、子どもが父親に会う利益よりも自分の権利意識の満足を優先して、妻にその手を引っ込めさせるというようなイメージです。

 妻の意識も自由意志が貫かれる合理的なものでは無い状態で連れ去り別居からの離婚手続きをしている可能性がありますが、事件後の夫の意識も出来事に大きく引きずられていて、元の人格とは大きく異なった意思決定をしている可能性があります。自分でもそれは自覚をすることはむずかしいことです。

連れ去り事案は、このように、自然な感覚に任せてしまうと、どんどん妻や子どもが離れていくようになっているものだと決めてかかる必要があります。もしかしたら、こういう制度を作った人たちの狙いもそこになるのかもしれません。

ここで同業者の方々に警鐘を鳴らしたいのですが、夫は自分に何も覚えがない、正当な理由がないのに、行政や裁判所からDV夫と認定されたという気持ちになるわけです。そして、自分が攻め込まれている理不尽さを感じるのですが、そこから自分とともに家族を救う方法が見つかりません。連れ去り別居直前の妻のような、不安や焦燥感を抱いています。精神的には大打撃を受けています。こうなると人間の性格も変わるのです。悪い部分が拡大していくという感じです。ところが弁護士が夫とかかわるのは、事件後です。性格が変わった後だという意識を常に持つ必要があります。

だから夫から言葉で言われていたことに弁護士が従ってばかりいると、弁護士は責任は問われないかもしれませんが、本末転倒な結果になることがあります。子どもとの面会ができないという事実が固まってしまうということです。どこに夫の一番の目的があるかをよく話し合い、それが子どもとの交流や家族再生にあるというのであれば、依頼者の要求が逆効果になるということをしっかり告げるべきです。

また多少のしつこさは大目に見てほしいと思います。あなたが責められていると感じる必要もないことです。但し、あまりに理不尽な事態になったならば、元々はそういう人ではないとしても、弁護士の方がつぶれてしまうので、その時は関係を解消するという選択肢も残しておくことはむしろ必要だと思います。

4 成功事例にみる奪回方法

妻の奪回の方法は、宗教的洗脳の場合でも配偶者暴力相談の冤罪事例でも、原理は全く一緒です。

妻は迷いの程度は、放っておくと夫の元には戻らないという方向にだんだん固まっていくかもしれませんが、自覚をしていないとしても、基本的には配偶者暴力相談センターの言うことと夫との二つの秩序の間で揺れ動いているようです。夫から逃れたとしても、まだ、「夫にすべてを解決してほしい」という気持ちがみられることが多くあります。解決方法はともかく、「自分の苦しみを解決するのは、夫の責任だ」という意識に思えることが少なくありません。

それにもかかわらず、夫は自分が理不尽な攻撃を受け、精神的に大打撃を与えられたという意識がどうしても先行します。自分を守ることを優先してしまうのは生き物としては仕方がないことです。ここで夫が子どもを見ることができ、子どもとの時間が共有できたならば、子どものために頑張ろうという意識を持てるのでしょうけれど、子どもとは一切会えません。どうしても自分を守ろうという意識が優先してしまうことは無理のない自然な流れです。落とし穴がここにあるわけです。

さて、では、どうやって妻を奪回すればよいでしょうか。

最近少しずつ実績が上がってきました。家族再生が成功して妻子と同居を開始した人、妻との復縁は途上だけれど妻との合意の元で子どもとの同居がかなった事例、また、とても面会交流どころか近づけば警察を呼ばれて会話さえ不能だったけれど、調停の合意を拡張変更して子どもを宿泊付きで預かるようになった事例などのご報告をいただくようになってきています。

これ等の変化は、私が調停や裁判という代理人としての活動を終了した後の出来事も多くあります。それにもかかわらず、丁寧にメールや手紙で経過報告をいただくことがあり、大変感激しています。このような極めて善良で礼儀正しく生真面目な夫が、警察や配偶者暴力相談センターから妻を殺す危険があると言われていたのですから、私からすれば噴飯ものだという気持ちはご理解いただけると思います。

成功の秘訣を尋ねると、これまで私が家族再生支援のために書いたことを何度も読まれて自分をコントロールしたということに尽きるのですが、その中でもいくつかピックアップしてまとめをしてみようと思います。何年もかけて書いてきたことなので、どこにどのようなことが書いてあるのかわかりにくいと思いますし。

1)心構え1 相手を誘導することを第一方針とする
総論的心構えというレベルでは、「北風と太陽」と「捨身飢虎(棄身飢虎)」です。

北風と太陽の初出は北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-18ですから7年近く前の記事ですね。要は、相手は意思を持った人間であるから、自分の結論を押し付けて実現しようとするのではなく、相手に自分の意思でその結論を出そうとするように誘導することが上策だということです。

危機感があり、焦りがある人は、正しいことだと思う結論を、相手の意思を無視して押し付けようとする傾向になるものです。これでは相手にとっては自分を支配しようとしていると感じてしまいます。相談所で言われたとおりだと感じるという罠にかかるわけです。この自分の気持ちを理性の力で押しとどめるということが頑張りどころです。そして自分が望む結論を相手も相手自身の結論だと思い込んで動くように誘導するよう策を練るわけです。結論に直線的な最短距離は無いと考えた方が良いです。もちろん難しいことです。家族再生を果たした人たちはそのような行動を、私が想定している以上にうまくやったということでしょう。
どんなにそれが正しくても合理的でも、他人に結論を押し付けるということは逆行になりやすいのです。

2)自分を守ろうとする本能を押しとどめる

「捨身飢虎(棄身飢虎)」とは、お釈迦様や聖徳太子(厩戸王)の言葉とされるもので、自分を守ることを止めるということです。守るのをやめるどころか、自らを飢えた虎の餌として差し出すような思い切った気持ちになって行動することによって、難しい局面を脱するという方法論です。これも生き物としての本能と矛盾することですから大変難しいことです。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という題でも書いています。
家族再生を目指すならば、調停でやっていけないこと、心構え(暫定版) 共感チャンネル2:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-09-28

要するに自分が不利益になったとしても、妻の利益、妻の気持ちを考え、これを「尊重し倒す」というようなニュアンスです。夫婦問題に限らずどうも局面を打開できない場合は、局面を打開するために行うべきことと違うことを大事にしてしまっているということが人間にはあるようです。このために解決不能だと考えてしまいます。思い切って、それまで大切にしてしまったことを放り投げると活路が見いだせるという経験は、年配者ならば多くの方が体験していることだと思います。但し、自分を捨てるということを何度も自分に言い聞かせないといけません。つい自分を守るという本能に従ってしまうという難しさがあるからです。

調停などで弁護士が付いていれば、どのようにポージングすればよいかアドバイスをすることができます。その時は心にもない行為だとしても、それから墓場までその姿勢を貫いて家族が円満に同じ時間を送れるならばそれでよいのだろうと思います。そうやって学んでいくということでしょうか。心は後からついてくるものだと私は思います。

ところが、調停が終了した後の面会交流の実施とか、弁護士が入れない事情がある時に困難が増します。本当はここからが勝負だということなのですね。この点で成功した方々の特徴としては

第1に、夫側に被害者感情を持たない事情があったということです。
ある自分の行動と妻の逃亡の関係が理解できた場合です。夫に本当に多少問題行動があった方が、その後はうまくいくというのは皮肉です。
また、あまりにも妻の言動がおかしいため、妻の精神状態が尋常ではないと感じたこと。そして、まともに取り上げることをせずに、子どものためにじっくり、焦らずに結果に向けて誘導したという場合です。極端な例を言えば、妻が幼子を抱えて幼子の首にナイフを突きつけているとしましょう。子どもにナイフを突きつけることは間違ったことだし、不合理なことだ。だからやめるべきだと飛び込んでいって、それがきっかけとなり妻が子どもを刺したならば、全く本末転倒の状態となってしまうということと同じではないでしょうか。妻をなだめて安心させて、子どもからナイフを離させるという行動をとったということになるでしょう。

思い込みDVの場合は後者の心構えが理にかなっていて良いのだと思うのですが、自分の妻の行動が健全な自由意思によって行われていないと考えることもなかなか難しいことです。妻の精神状態のふり幅が大きい方がうまくいくというのも皮肉な話です。

第2に、自分の自然の感情がどういう風に動くかということを予め意識するということです。このために、そのような文章を何度も何度も繰り返し読んで自分を落ち着かせようと努力されたということは押しなべて報告をいただいています。自分の感情を否定するというよりも、人間はそのようなものだという理解をしようと繰り返し努力されているような印象があります。もしかしたらこの辺がコツかもしれません。

第3に、理不尽な現実を直視すること、合理性や正しさに基づいては、自分たちは誰からも手続きをしてもらえないということをきちんと理解しなくてはなりません。どうも、特に男性は「自分が正しければ誰かが自分を助けてくれるはずだ」という幻想を抱きたくなる生き物のようです。少なくとも裁判所は助けてくれないということを先輩方から学ぶべきです。つまり、自分が一人でやらなければならないことだということを意識されていたように感じます。

3)徹底した「大目に見る」という作戦で安心感を持ってもらう

子どもを連れ去る妻は、正義感、責任感が強く、道徳心が旺盛な人が多いようです。だから、面会交流調停が成立したら、決められたことはきちんと守ると言う人がほとんどでした(私の担当事例でも少数の例外あり。但し、間接面会交流というものは守られたためしなし。)。

要するに不安が強いために、秩序や権威を求める気持ちの強い人です。

これが災いして、何か妻が約束違反をすると、妻自身が自己の行為が正当であったという主張しなければないという気持ちになるようです。逆切れ状態というわけです。そこをすかさず(つまり逆切れをする前に)大目に見るメッセージを送るという行動をおっとがしたということが、家族再生に成功している人たちからは共通で報告を受けています。

その日の面会交流を怪しげな理由をつけて(おそらく嘘だと思うような言い訳で)断っても、「そういうこともあるよ。気にしなくてよいよ。この次お願いね。」というメッセージを出せた人は、どんどん面会交流の自由度が上がっていきました。

別の事例では、妻の洗脳が解け始めて、頭では家に戻るべきだと分かったけれど、気持ちが付いていけなくてまだ同居できない、ということに理解を示して、時が来るのを待つことができた人も家族再生に大きく舵を取っています。

それぞれ一生懸命理性を働かせて行動をされています。どうしても被害意識が強くなると、人は疑い深くなり悲観的になり、目の前のことしか考えられなくなるようです。一度面会の約束を破られると、夫としては、妻はもう二度と会わせたくないという強い気持ちがあるに違いないとか、敵意を感じるとか、自分がないがしろにされているという感情で一杯になってしまい、ここで大目に見れば将来的な被害拡大があると感じてしまい、「約束したことだから今日面会させろ、今日でなければ来週面会させろ」と強硬に出てしまうようです。これも人情だと思います。

しかし、子どもだって、月一回2時間の面会よりも、もっと自由に父親と会いたいに決まっています。今日のキャンセルをプラスにして、子どもと父親の共通の希望に向かいましょう。今ダメでも将来的に失地を回復してそれを恒常化させるという大きな目標を立てて、今回の不履行がそのためのステップだと考えられるかどうかが成功のカギということになります。人間ですから、母親もなんとなくおっくうになることはあります。それは、再生に向かっているあかしでもあるようです。本当はここが得難いチャンスなのです。「損して得取れ」ということは家族再生においても真理だと思います。

自分の約束違反を肯定されることによって妻は自分の弱さが肯定されたときちんと理解します。自分の弱さや失敗をカバーしてくれる存在は紛れもない仲間だという意識を持ちやすくなります。夫は実は安心できる存在だという新たな記憶が蓄積していくという効果を狙っているわけです。その反対に失敗が許されないという体験は、面会交流のたびごとに、数日前から緊張を高めてしまい、妻の精神状態がますます悪化することはよく理解しておいてください。合理性や正義を相手に追及しすぎると、相手の精神がおかしくなってしまうということは実際にあることなのです。

大事な考え方は、家族再生と「夫婦という秩序」を新たに二人で形成していくということだと思います。こういう相手の失敗を大目に見て、相手がフォローされる経験を重ねるうちに、夫(元夫)との人間関係が自分が安心できる人間関係で、その人間関係の秩序に貢献するべきかかということを少しずつ納得してもらうことになるはずです。これ「安心の記憶を蓄積させていく」と言います。

4)その他の安心の記憶づくり、感謝と謝罪

妻にとって自分の失敗、欠点、不十分点を嫌がらずにフォローしてくれることは大変ありがたいことです。風邪をひいて動けないときに、さっぱりしたイチゴなどを買ってきて食べさせてくれたり、熱さまシートを取り換えてくれたりしてもらうようなありがたさがあります。

さらに安心感づくりというのは、プラスの行動をしたときにプラスの評価をするということです。主要には感謝の気持ちをこまめに表すということです。これは多少形式的で構いません。男性は言葉に出すということを優先して考えるべきことです。

この場合の感謝というのはありがたいという気持ちを言葉にするのではありません。相手の行動を肯定して、繰り返しやすく誘導するという戦略です。夫には正直な人が多いものだから、感謝もしていないのに感謝の言葉を発することはできないと言う人がいます。子どもと会えないのは妻の勝手な行動ですから面会をするたびにありがとうと言うことは、間違っているというのです。

気持ちはわかるのですが、問題は新しい秩序を作るための行動だということを意識できるかどうかということです。感謝を示すということは相手の行動を肯定するということです。感謝されることによって、相手はどういう場合に自分の行動が肯定されるか学習していくのです。なんとなく敷居が低くなり、低くなった方向へ行動が流れやすくなるということは考えらえないでしょうか。これは自分を捨てるということができれば自然にできるようになることなのです。

夫婦という人間関係においても秩序はあります。人間関係の秩序はもちろん夫または妻が権威を持つということを意味します。しかし、どちらか一方だけが権威を持つということは逆に人間の群れの意識に反することです。ある時は妻が権威を持ち、ある時は夫が権威を持つという風に入れ替わることの方が自然な人間の営みだと考えています。そして、相手の権威を認める分野を広げていき、相手の権威を認めた場合は、相手の行動に文句を言わずにまず従う。その後に反省をするということがあっても良いとは思います。おそらくこれをどちらかが意識的に行うことによって、その夫婦はそういう秩序が形成されていくのだと思います。

謝罪というのは、日常的には、あまり重苦しくしない方が良いです。自分の行動の間違いを認めてそれを表明するということで考えて良いと思います。謝罪の目的をもう一つ付け加えるとした思いやりでしょうか。相手の感情を気遣っているよと言う表明と考えればよいのかもしれません。これも安心の材料としては有効です。

5)味方を増やす 敵を作らない
 
被害感情が強いと、悲観的になる、被害意識を持ちやすくなる、焦燥感が強まる、目の前のことしか考えられなくなるという特徴があると言いました。そうなっていても自分ではなかなかわからないものです。

基本的には今まで述べてきたことを、実践すれば何とか対処ができることも多くなるのですが、どうしても一人では気が付かないことが出てきます。自分を守ろうとどうしてもしてしまうのは人間である意味仕方がありません。自分がしている行動が家族再生の方向とは違う行動だということを指摘してもらう第三者が必要だということです。
そういう場合は自分に対して厳しい意見を言ってくれる味方を作ることが必要です。理想を言えば、調停に臨むときには、自分と代理人だけでなく、調停委員も自分の味方になってもらい、みんなで妻と妻の代理人を説得するという形が有利な陣形なのです。

中には初めから理由もなく夫に敵対的な調停委員もいます(特に男性が多い。)ので、その時は毅然とした対応をしなければなりませんが、それは代理人の弁護士に任せておけばよいと思います。

味方を増やすためには、攻撃的な感情を一切気取られないということが肝心です。人間は戦闘的な場を遠慮したい生き物のようです。無駄に相手を攻撃することは味方を減らすことにしかなりません。また、こちら側が有利に進んでいるのに、言わなくてもいいことを言って味方意識が減退するような行動はしてはなりません。全体的な流れは第三者である弁護士の判断に従うべきです。

さらに、思い通りに進みませんので、本能的な行動に出てしまうことがどうしても出てきてしまいます。誰に憤っているかわからない言動は、聞く側からすれば自分が攻撃されていると感じるものです。味方を増やしている延長線上に相手(妻)との相互理解があると考えた方がよいと思います。

自分の気持ちに寄り添って、自分のお願いをすべてかなえてくれるという人は逆に警戒した方が良いです。本当はそれをすることが、当初の目的に反することであっても依頼者に反対意見を言う面倒を行わないだけだという例が実に多いです。言いたいことを言うことが目的なのか、子どもとの共通の時間を過ごすこと、その延長線上の家族再生を目的にするのか、常に考えて行動する必要があります。

5 残念な注意事項

さて、ここまで長々と、話を進めてきました。その上で申し訳ないのですが、お断りをしなくてはなりません。
上記の方法が実践されれば家族再生に向かうということは、実例が増えてきたことは確かです。なかなかこれが実践できないためにせっかくのチャンスを自分で潰すという事例もあります。しかし、一方で、ある程度戦略通りに事を進めているにもかかわらず、病的に妻の気持ちが変わらないという事例も間違いなくあります(それでも時間の経過に伴って少しずつ改善されている例は多い)。その時々の間に入る人たち、調停委員、裁判官、こちら側代理人、相手方代理人、妻の家族等に影響されるということは残念ながら存在します。私から言わせてもらえば、関係者の意識が子の福祉が最優先になっていないということが最大の問題だと感じています。逆にこれらの人たちが味方になれば、案外あっけなく面会交流は軌道に乗るということが多いのです。こればかりは運が大きく左右するというべきかもしれません。

苦しい言い訳に聞こえると思いますが、それでも、妻の不安を解消する行動は、子どもとの面会交流に確実に良い影響を与えていることは間違いないと私は感じています。これまでの成功例、失敗例を見ていると、妻の不安を解消しようとする行動、妻を攻撃しない行動は子どもたちからは歓迎されているという実感があります。そもそも妻の、不安や焦燥感を抱く病気が発症したり、けがを負うこと自体が不運なことです。これまでの家族の生活の条件が全く変わってしまうこともありうることです。既に発生してしまった家族の問題を無かったことにしようとするより、その問題をできる限り小さくしていこうとする活動は、家族全体にとって利益がある活動であることは間違いないと思います。

それまで一緒に暮らしてお子さんとの毎日を共有していたにもかかわらず、突然それが当たり前ではなくなってしまうということは大変お辛いことです。それでもお子さんにとって、お父さんでなければできないことが必ずあります。案外子どもは、父親の悪口を聞かされ続けても、やがて父親と自由に時間を共有する日を楽しみにしている場合も多いことが事実です。被害感情を抑えて、悲観的な考え、被害的な考え、攻撃的な行動を控えることによって、父親は家族再生を目指し続けた、母親を安心させるように努力したという形を作ることは子どもにとってはとても貴重なことのようです。必ず家族を再生できると言えないことは、私もとてもつらいことです。それでも必ずしもうまくいくわけではないということははっきりとお話しするべきことだと思いますので、最後になりましたが、お話をしておかなければならないと思いました。


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出て行った妻に対して「話し合いを求めること」が逆効果になることについての注意喚起 [家事]



ふと気が付くと、大抵の同種事案では繰り返されていることでした。代理人の仕事をしていてなかなか意識に上らなかったのですが、何件か立て続けにありましたので注意喚起をします。


その準備をしていることも気が付かないうちに妻が子どもを連れて別居することがなかなか減少しません。いろいろな原因があるのですが、ここでは夫の行動が知らないうちに妻の行動を助長していたようなケースです。原発的原因が別のところ、主に妻の体調と妻の相談相手(実家、似非女性の権利の主張者である行政とNPO、警察、病院等)にあるのだけれど、夫が意識して自分の行動を修正することをしなかったため、いつしか妻は夫に敵対心や恐怖を感じてしまい、その感情が固定してしまった場合、つまり典型的な連れ去り(思い込みDV)のケースを念頭に置いています。

夫は、何が何だかわからないことが通常です。多くの場合、妻が自ら出て行ったという痕跡があるものの、それを認識できることはあまりありません。何か事件に巻き込まれたのではないかと探す人がほとんどです。警察に届け出る人も少なくありません。しかし、いくつかのやり取りを経て、妻が自分から逃げ出したのだということが伝わります。警察官から、「奥さんは無事だから心配するな。しかし居場所は教えられない。」と告げられる人も少なくありません。この時警察官から自分が犯罪者のような扱いを受けていると感じる人もいます。大体は奥さんは配偶者暴力相談を受けていて、「あなたの夫は危険なDV夫だ。一緒にいると危険で命を落とす場合もあるので逃げなくてはならない。」と言われています。その相談をした段階で、行政から奥さんは「被害者」、夫は「加害者」というカテゴリーでひとくくりにされているということは頭に入れておいてください。もちろんそのような危険など現実的には無いということが正しいのです。「なんだろうね、この日本の非科学的な家族破壊の行動は。」ととても歯がゆい気持ちになります。そんなに行政や警察官は理解のある夫なのでしょか。ただ、我が身をかえりみないだけだと思います。

さて、怒りが止まらなくなる前に本題に移行します。

夫はどうして妻が家を出て行ったのか理解できていません。これは当たり前だと思います。私が相談を受けたこういうケースはほとんどのケースが夫が自分では原因などがわからなくて当然のケースでした。特にご自分では身に覚えがないことはよくわかります。

妻の居場所が、妻の実家だとか様々な事情で分かる場合がありますし、昨今であるとラインやメールがつながっている場合もあります。つまり夫は妻に対して連絡が取れる場合です。(居場所が全く分からない場合も少なくありません。)こういう相手と連絡が取れる場合に、夫がついやってしまうことは、メールなどで、「話し合おう」という呼びかけをすることです。

わたしでも予備知識が無ければ、当然話し合いを求めると思うのです。何が何だかわからなければ、情報を得たいということも人情です。しかし、この本能的な行為こそが、別居した妻の感情をさらにこじらせていることが通常です。話し合いを求めることは逆効果になることがほとんどなのです。

これを解説します。なぜ話し合いを求めてはならないか。

1)話し合うことが嫌だ。
話し合いをしたくないから逃げ出した。それなのに話し合いを求められることは、嫌なことを強要されることになる。詳細はともかく総論としてはこういうことになります。

2)なぜ話し合いが嫌なのか。
  話し合いということは、双方が改善する必要があるという認識を持っていることを示してしまいますが、逃げ出す方は、一方的に夫が悪いと思い込んでいます。客観的にどうなのかについてはわかりませんが、主観的にはこういう状態です。だから話し合いを申し入れることは「夫はまだ反省していない。」と妻を失望させるようです。
 また、夫との話し合いは(これまでの学習から)、妻は自分が夫から言いくるめられて終わるという嫌な思い出を持っていることが多いようです。逃げ出すに至った経緯で夫の落ち度をうまく言えない妻は話し合いをして自分に勝ち目がないことをよく知っています。だから話し合いを求められることはまた自分がうまいように言いくるめようとしていると受け止めるようです。
 この結果、話し合いを求めれば求めるほど相手はこちらを嫌悪するようになっていくということが一般的です。
どうやら警察や配偶者暴力相談センターでも話し合いには応じるなというアドバイスをしているようです。

3)ではどうするのか、情報の収集
 メールやラインがブロックされない場合、何らかの返信が来ることが多いです。昔の誘拐犯からの警察の逆探知ではないですけれど、なるべく相手からの情報が来やすくなるように心がけるべきです。そうして、わずかな情報量ですが、おぼろげながらに出て行った理由が垣間見られる文章があります。しかし、その情報が出て行った理由だと夫が認識できることはあまりありません。専門家に相談した方が良いと思います。これも夫であるあなたに支持的に相談に乗るタイプでは役に立たないでしょう。「あなたは悪くない。」という専門がいたから妻は出て行ったわけですから、永遠に溝は埋まらないでしょう。本来はわずかでも情報を獲得し、その情報に基づいて、反省の弁を述べることが必要なのです。

4)どうやって情報を勝ち取るか
 これ、メールなどで直接情報を獲得できない場合は厳しいです。共通の知人、相手の親(たいていは一番の敵対者)から情報を獲得するか、代理人を依頼して双方の代理人が別居の理由を共通理解にする作業が行われることを待つしかできません。
 もし幸いにして直接メールなどで連絡が取れる場合どうするか。
先ず、相手を責めない。批判しない。「家族の不具合は夫の結果責任だ」くらい鷹揚に構えるとよいようです。なかなか難しいですが。そうして、事務連絡を要点だけこまめに連絡を入れることみたいです。例えば郵便物の連絡などです。安否確認も最小限にするべきです。効果的な文言を厳選しましょう。とにかく相手が焦ることのないように細心の注意を払いましょう。
ギャンブルになりますが、離婚原因にはならない程度で謝罪の言葉を送信することも検討するべきかもしれません。ただ、あまり大作にはしないほうが経験上は良いです。長すぎる文章は頭に入らないという精神状態のようです。

5)そして一方的に謝罪する
夫であるあなたが、何とか家族を再生させようとする場合は、話し合いをするのではなく、一方的にこちらの非を認めることが出発点です。本心をぶつけるということは絶対にせずに、結果を誘導するためにはどうするかという戦略をもってあたることが鉄則です。双方が感情に任せてやり取りをしたのでは何もうまくいかないでしょう。

また、謝罪に終始しても、読んでいる者が負担に感じることも効果がなく、逆効果になることもあるようです。難しいです。

妻の不満を簡潔に言い当てることが必要です。その場合、少ない情報でもそのことを基軸に謝罪を構成するべきだと思います。つまり客観的に正しい謝罪というものはありません。妻の気持ちが少しでも落ち着くことが正しい謝罪だということを心掛けましょう・

謝罪の内容は、御免なさいということではありません。
A) 自分のどういう行為によってどのように妻が心理的に圧迫を受けていたり、仲間として尊重されていないと感じていたかを言い当てる。
B) どうして自分がそのような行為をしたのか、あるいは思いとどまらなかったのかを説明する。
C) 今後どういうふうに修正していくか
こういうことを述べることが謝罪です。

とにかく長くならないことが一番のようです。
A)とC)については、できる限り具体的に述べる必要があります。
B)は言い訳なのですが、仲間として尊重しなかったからではないということを告げることは大切なことです。もちろん妻に原因があるなんてことは絶対にダメです。
C)については、明るく気分を上げてもらうことを意識すると良いのではないかと考えています。

メール、手紙、調停の陳述書など、それぞれの機会に応じた内容にするべきです。読んでいて苦しくなるような文章は絶対にNGです。誰かに読んでもらって感想を聞くという作業ができたらとても良いと思います。但し、あなたの母親など、あなたに支持的な意見しか言わない人では意味がありません。

いずれいつか以下のこともテーマにしなくてはならないと思うのですが、今回は頭出しだけしておきます。
どうしても許してもらえない、つまり相手が離婚に固執しているような態度をとっている場合は、本心は別としても離婚という相手の意思決定を尊重するという態度が最後の手段ということになります。通常は誰しも、離婚をしてしまったら再生はあり得ないと考えるのが当然です。しかし、離婚だけは応じないということを前面に掲げて頑張ってしまうと、相手は頑固に結論を押し付け来る、何も変わっていないと感じ、自分を否定し続けていると感じて事態を悪化させるだけの場合がほとんどです。
籍にこだわるのか、実質的な家族再生の可能性を追及するのか二者択一の局面があるのです。もちろんどちらを選ぶのもその人の生き方の問題です。但し、現代日本の家庭裁判所は、離婚理由がない離婚を、別居期間の継続と離婚意思だけで認めてしまうという不合理なところです。結局何もかも失う可能性も低いわけではないということには留意されるべきだと感じられる事案が少なくありません。

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いわゆるツイフェミ現象に学ぶ、家族に嫌われない夫、父親の在り方 [家事]


男性の中には、家族のためにと思って、自分の人生をささげていると言う人が本当に多くいます。そして良かれと思って家族に対してあれやこれや口を出すのです。あくまでも良かれと思って発言しているわけです。
それなのに、何が悪いのかわからないまま、妻や娘、時には息子からも毛嫌いされていると感じるという悲哀を味わう男性も少なくないようです。自分が何かを話したばっかりに家族に無用な緊張感が走ったり、雰囲気が悪くなったりするという経験のある男性も多いことでしょう。極端なケースでは、わけのわからないうちに、妻が子どもを連れて家を出て行くなんてことも起こるわけです。

どうして家族から否定評価されるのかをあらかじめ知っておれば、孤立した老後を過ごさないで済むし、不意打ちで孤立するということもないと思うのです。何か格好の説明方法がないかと探していたところ、ツイフェミにまつわる議論が使えるなと目にとまりました。

ツイフェミという言葉があるということを先週末初めて知りました。ツイートをするフェミニストという意味らしいのですが、必ずしもフェミニストという体系的な考えを持った人のことではないらしいです。もちろん男性も女性もいらっしゃるようです。

論文での意見発表ではなく、時々の出来事をツイートされるのですが、女性の社会的地位の向上の観点から、不適当な他者の表現活動などを指摘されている方々がツイフェミさんと言われているようです。

ツイフェミという言葉は、肯定的なニュアンスというよりも、否定的ニュアンスで語られることが多いようです。それは理解できるような気もします。新しい秩序を形成しようという場合は、古い秩序との軋轢が必然的に生じますので、反発の反応が起きることも必然であると思います。

ツイードなどのSNSは鮮度ということがとても大切で、その時間を共有している相手に対して、その共有を前提として文字発信をするという特徴がありそうです。このため、事後的に見れば、難解な主張だったり、反発が大きくなることも、メディアの限界も手伝ってありそうです。そのような表現メディアの限界もおそらくあるのでしょう、一部のツイフェミさんのツイートが、色々批判を受けているようです。批判者から見れば以下のように批判されているということになるのではないでしょうか。

1)主語が大きい。「私は」と言うべきところを「女性は」と言ってみたり、「あの男性は」と特定するべきところを「男性は」と普遍化する言葉を送信してしまう。(批判として主語が大きいというのは気が利いていておかしい。感心する。)
2)相手の真意を確認しないで、自分なりに解釈して批判する。このため、批判される方は、何が何だかわからないけれど自分を否定してきていると感じる。
3)自分もできていないにもかかわらず、相手ができないと批判する。これを最近の方々はブーメラン現象と呼ぶらしいです。
4)批判の表現など態様が苛烈であり、容赦がない。
5)これを言うことで相手がどう思うかという配慮をせずに目的に合致すれば発言してしまう。

このような批判がなされているようです。

これは、主として中年以降の男性が家庭の中で批判されてきた内容と極めて酷似しているのです。

さらに、ツイフェミさんと呼ばれる方々(女性)の主張を見ると、ああなるほどなと理解できる部分があります。ツイフェミさんは男性を毛嫌いしている発言をする方が多く、また、え?こんなことでというくらい、性的表現に極めて敏感でそれに対して攻撃をされているようです。つまり、男性一般に対して安心感を持てないということが一つの特徴です。そして、性的だと感じることができる部分に関して過剰に性的であると感じてしまい、嫌悪や恐怖の対象になってしまう、つまり過敏になってしまう。そうして自分を守らなければならないという意識が強くなりすぎ、不安から解放されるために他者を攻撃するという方が多いのだろうと思われます。

中年以上の男性は、家族の女性や若年者に対して、このようなむやみな嫌悪感や恐怖感を抱かせやすくなるようです。皮肉なことに、その原因について検討するには、一部のツイフェミさんに対する批判がとても参考になるようです。

おそらくこれだけでは、中年男性はピンとくることもないと思われますので、少し解説します。

1)主語が大きい
中高年男性の主語は、「世間は」とか「常識では」とか、なになにすることが「当たり前だろう」等です。妻や子どもが、自分と意見が合わないような行動をすることに過敏に反応をしてしまい、それを修正してもらったり、やめてもらったりしたい場合に、「私はこう思う」という言い方をしないで、「そんなことをしていたら世間で通用しない」とか「社会から脱落してしまう。」という言い方をしてしまうようです。
言っていることには間違いがないとしても、価値観の違いがあれば、受け手は単に反発するだけです。また、「社会的に認められない」という言い方は、受け手からすると全否定をされているように感じるものです。また、このようなことは何等裏付けがなく、裏付けがないことをごまかすように全否定する表現ということで、受けるほうは不満ばかりが募っていくようです。

当然中高年男性としては、自分が社会の中でそのような経験をして苦しい思いをしてきたから、家族にはそのような辛い思いをさせたくないということが出発点なのです。それでも表現の仕方によって、相手を否定することがルーチンのように、親切心や配慮を捨象した形で伝わってしまうようです。

2)一方的な意見表明
中高年男性は、良かれと思って、しかもそれに自信を持っていますから、家族の相手のために、何としてもその行動をやめるとか、修正をしてほしいと思うわけです。しかし、そういう行動をするのも、通常はそれなりに理由があってのことなのです。自分の知らない事情でそういうことをやっているかもしれないのに、悪だと決めつけて否定しているように、相手からは感じられているということになかなか気が付きません。

だから、仮に中高年男性が言っていることが正しいとしても、事情を尋ねるという余裕なく結論を求めてしまうと、相手方は自分を否定されていると感じ、結果として自分が中高年男性から攻撃されていると受け止めてしまうことになるようです。

3)ブーメラン現象
まあ、その家族に意見を言っている段階では、既に自分ではそういうことはしていないとしても、過去においてそういうことをしていた場合には、言われた方からすれば、「自分だって同じことをしていたではないか。どうしてこちらにばっかり否定してくるのだ。」という気持ちになるでしょうね。理不尽な気持ちになるということです。
実際は中高年男性は良かれと思って言っているのだし、自分が失敗してきたからこそ家族には失敗してほしくないと思うのです。でもそうならば、そういうふうに言えば反発も少なく、説得力も増加するのですから、言い方を気にするということが大切です。
いずれにしても、どうやら中高年男性は、自分は批判を受けないということを前提として相手家族を批判しているところがあるのかもしれません。しかし、それでは、現代社会の家族の人間関係としては不適当なのでしょう。家族は、父親や夫が聖域であるとは考えていません。

4)批判が苛烈
  先ほど述べた「世間では通用しない」という言葉の表現の外に、大きな声を出す、眉間にしわを寄せて話す、言葉が乱暴になる等の場合は、家族としては付き合いにくい相手だという評価が下されるようです。中高年男性としては良かれと思って言うわけですから、熱を込めて言うため、そのよう相手からすれば恐怖を感じたり、自分を強く否定していると受け止めるようです。
  ツイフェミの方々はわかりませんが、中高年男性の家族に対する批判の場合、このような声だったり表情だったり、態度だったりが、相手に不快感、恐怖感を与えているということに思い至らない場合がとても多いようです。この結果、家族仲が比較的良好な段階までは、「どうしてお父さん怒っているの?」と言われて困惑することが多くなるわけです。「え?自分がいつ怒った?」と困惑し、「怒ってない!」とムキになって反論するときにははっきり怒ってしまっていますから、なんとも対処の方法がないということになります。いつしかそういうことも言われなくなり、単にいつも怒っている人間と諦められるようです。

相手家族からすれば、「どうしてそんなことで私に対して怒るのだ。」と感じて、自分と中高年男性は敵対関係にあるという意識に染まっていくようになるようです。

5)言われる方に配慮しない
正義を主張する場合、それはどうしても守られなければならないと考えてしまうので、自分の主張は当然であり、最優先して従わなければならないと考えてしまうものです。
「正しいことをいうときは、少しひかえめにするほうがいい」
というのは吉野弘の「祝婚歌」という詩の一節です。全くその通りなのでしょう。披露宴でスピーチを頼まれたら余計なことを言わずにこの詩を読んで、詩集をプレゼントするというのが一番良いと私は思います。

結局、家族も意思がある人間ですから、強制されることは本能的に嫌うわけです。本当にそれをしてほしい、それをしてほしくないという場合は、家族であるからこそ、あるいは切実に結果を実現したいからこそ、結果を押し付けるのではなく結果に誘導するという方法をとらなければならないようです。誘導する方法が思付かないときは、あきらめるか、控えめに言うことを心掛けた方が結局はうまくいくのだと思います。

自分が正しいと感じてしまうと、言えばわかるはずだという態度になってしまうようです。しかしそれは家族に対する甘えになってしまうようです。赤ん坊が要求を通そうとすると、それだけで赤ん坊の要求を実現しようと誘導されてしまいますが、中高年男性ではそうはいきません。単に、家族を支配しようとする独裁者に見られてしまうと考えていた方が無難なようです。

但し、嫌われようと、孤立しようと、言わなくてはならないときはあります。その時は、自分を犠牲にしても、それをするべきです。その結果自分が孤立したり、嫌悪されたりしても、自分が役割を放棄しなかったことに満足するべきなのでしょう。

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フキハラ 不機嫌ハラスメントに学んでみた  [家事]



フキハラという言葉を小耳にはさみました。不機嫌ハラスメントの略なんだそうです。不機嫌な様子をあからさまに示して、周囲の人を戦々恐々という気分にさせて圧迫することを言うのだそうです。

真っ先に思い浮かべたのは、職場でのパワーハラスメントの際に、言葉で部下を叱責するだけでなく、不機嫌な様子を見せて部下を威嚇している様子でした。

ただ、この言葉が一番使われる場面は、夫が妻に対してはっきりと自分の意見を言葉にしないで、不機嫌をアッピールして自分の要望を察するように圧迫をかけるような場面とのことでした。

私のように離婚実務に携わっていると、どちらかというとこの不機嫌ハラスメントは女性が行う場合が多いように感じます。言葉で不満を言わないで、夫が察するべきだとして、これだけ自分がアッピールしているのに夫が気が付いてくれないことが離婚の理由だなんてことを結果としては主張することが多くあります。

ただ、いずれにしても、人間ですから感情が出てしまうのは避けられないし、家族のように四六時中一緒にいると、家族の自分に対する対応で不機嫌になってしまうことはあることだろうと思うのです。だいたいそういう「いじましい」対応をするときはつまらないことが原因の場合が多く、例えば夕食に自分にだけが肉が少なく盛られているとか、自分だけ留守番をさせて母と娘が買い物に行くとか、どうでもよいと言えばどうでもよいような場面です。言うのも恥ずかしいからわざわざ口にするような場面ではないと自覚していることが多いわけです。

それをフキハラとか言われて、フキハラはDVだ、フキハラは離婚理由だなんてことになってしまったら、あまりにも窮屈ではないでしょうか。男も女も日常的に離婚の危険にさらされて、四六時中意識を集中させてフキハラをしないように緊張していなければいけないことになるのかと考えると気が遠くなるわけです。

そもそも、自分では不機嫌を顔に出さないように平静を装っていても、家族から「なんで怒っているの?」とか言われてしまうと、フキハラなんて防ぎようもないという絶望的な気持ちにもなります。感情のないロボットと暮らしたいのかという非肉の一つも出したくなるわけです。

だから初めは、フキハラなんて言い回しでとやかく言うものではないと、不機嫌をあらわにフキハラという言葉を批判をしようかなどとも考えたわけです。ただ、少しずつ冷静になると、こちらが無意識であっても、やはり家族が不機嫌を感じ取って、不愉快な気持ちになることは間違いないので、これは無い方が良いということまで考えが進みました。

ちょうどその時、別のとある理由で、家庭の中でちょっと低姿勢というか、あえて異を唱えなくてもよい事項については、少し大げさに同意の意をあらわにしていたという事情がありました。少し積極的に肯定をしようということをとある理由で実行してみていました。

なるべく表情を険しくせず、なるべく大きな声を出さずに、しかし、できるだけ明瞭に肯定の言葉を出すということをしてみていたわけです。先ほどの例で言えば、肉が少ないと感じたら、「もう少しお肉ちょうだい」と冷静ににこやかに言うみたいな感じですね。

なかなかうまくいくようです。先ほどの例で言えば肉の追加をもらえたし、言わなくても、もらえるようになるような感じになったし、文句を言われることも格段に減ったし、家の中がだいぶ快適になったのです。おやおや。

なるほどなと思いました。

フキハラをしないようにしようとすることは、なかなか難しいです。緊張感が顔に出れば、何不機嫌にしているのだと思われてしまいかねません。「不機嫌にしないようにしよう。」ということではなく、

少し姿勢を低くして、にこやかに、明瞭に肯定や賛同の言葉を述べ、思っていることは感情を込めないでさらっと言ってみる。

こういう積極的な行動を心掛ける中で、自然とフキハラを結果として行わないということが前向きで建設的な対応なのかもしれないと思いました。

そして結果は自分にとってもとてもよいものが現れるということですから、やらない手はないでしょう。
その程度の緊張感はもしかすると、集団生活をする人間としては当たり前のことなのかもしれません。私たちは、日常生活に手を抜くことを覚えすぎてしまっているだけなのかもしれません。努力すること自体が喜びや充実感となるということを思い出すと同時に、家庭では努力することが極度に疲弊する、おっくうになる原因を探すという方向で考えた方が良いのかもしれません。

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離婚理由に見るジェンダーバイアスがかかった女性側の主張  [家事]



1 子育ては女性がするもの
2 家に収入をいれるのは男性の役割
3 夫婦仲を安定、改善させるのは男性の役割。女性は男性が作った人間関係を享受する立場である。
4 DVを行うのは男性であり、女性は被害者である


ジェンダーとは「歴史的・文化的・社会的に形成される男女の差異」を言うのだそうです。数十年前からジェンダーという言葉が弁護士の業界の中でも、こなれない形で使われ始めたのを覚えています。詳細は省略しますが、その時の使われ方の印象が悪かったため、ジェンダーという言葉に良い印象を持てないままなのかもしれません。

さて、弁護士実務としては、離婚の際に、ジェンダーバイアスがかかった主張が妻側の女性弁護士から多く出され、あまりにも自分たち以外の女性を馬鹿にしていると常々思っているので、ここで女性の側から出されるジェンダーバイアスがかかった主張を提示して問題提起をしてみたいと思います。

第1は、子育ては女性がするものだという主張です。
 女性という姓は子育てをする性であることを、別居にあたって子どもを連れて出て行くということを正当化する根拠にしているように感じられます。ただ、さすがにあからさまにそのような主張するのではなく、工夫離されています。裁判所は、子どもが意識を持ち始めてからいつもそばにいた親に親権を与える「継続性の原則」をとっていますので、弁護士としては、子育ては女性がするものという主張はせずに、継続性の原則を主張しているような言い方をします。通常妊娠、出産の直後の乳児期は、母体を休ませるという意味合いもあり、母親は仕事を休んで子育てにつきっきりになりますので、継続性の原則を主張しやすいという事情はあります。
しかし最近は、継続性の原則に照らしても一義的に親権者を選択できないケース(父母ともに子どもに同程度《あるいは父親の方が多く》関与している場合が実際には結構ある。)が増える傾向にあります。こういう場合、継続性の原則がいつの間にか子育ては女性がするものという主張が顕在化してきます。
さらに継続性の原則で親権者を決めることについてももう少しち密に見直す必要があるように思われます。継続性の原則は、乳児期やその直後の時期の場合等妥当する場合もあると思います。しかし、例えばゼロ歳児から保育園に預けていて、その後は比較的同じような時間父母が子どもに接していて、子どもが就学時期に達していたりその直前の場合は、継続性の原則の妥当性はだいぶ薄弱になるように思われます。しかし、裁判所は、父母のどちらが親権者としてより妥当かという判断をしたがらないため、継続性の原則という逃げ道にすがっているという印象があります。

もっともこの問題は主たる監護者をどちらに決めようと、どちらの親とも子どもが比較的自由に交流できるようにすることで解決することが本則であるとは思っています。子どもが他方の親と同じ時間を過ごすための法制度が整備されていないところが問題の所在だと考えています。

実務の実情は、それまでの経緯をあまり吟味せずに母親に子どもをゆだねるべきだという主張があまりにも多いのが実情ではないでしょうか。実際は子育ては女性がやるべきだという考えに立っているという批判も可能だと思います。
この考えをさらに進めた考えが、子どもに関しては母親が決定権を持っているという子ども支配の論理です。子どもの独立した人格や感情などは一切考慮されていません。子どもが友達や父親、親戚、それだけでなく住み慣れた家や遊び道具からも突然切り離されることになっても、そんなこと重大なことではないとして子どもの利益をかえりみない主張も多くみられています。

ちなみに授乳期を過ぎた子育ては母親がするものだということは、人間に限っては生物学的にも誤りです。人間以外のほ乳類にはそのような育児がよく見られますし、ニホンザルやチンパンジーなども子育ては母親が行っていることはその通りです。しかし、ホモサピエンスに限らず人類は、妊娠出産、授乳を例外として、子育ては群れが行うという方式に進化しました。子どもは母親以外の大人たちからも子育てをされ、群れの大人たちの影響を受けて成長するのが人類の特徴です。
母親が主として子育てをするべきだという考えは、戦争遂行を主眼として明治期に国によって作り上げられたまぎれもないジェンダーバイアスです。

第2は、外で働いて収入を得る責任は父親にあるという考え方です。
私は専業主婦という考え方自体は、ありうる考え方であり、それ自体がジェンダーではないと思っています。専業主夫ということもあるわけです。子育ては、現代社会では極めて慎重に丁寧に行う必要があり、一人の大人がつきっきりで行うことにふさわしい一大事業だと思っているからです。
しかし、離婚訴訟などで主として女性弁護士から出される主張としては、子どもを連れ去って別居した場合に、その子どもが小学校以上になって、母親が十分就労できるにもかかわらず、母親の収入がないことを前提に婚姻費用の額を決めようとする主張です。男性だけが就労しなければならないという理屈はありません。女は家で子育てをするという考えも、実は明治期から戦争遂行のために作り上げられた意図的に作られたジェンダーの考えそのものです。明治期なども日本の圧倒的多数である農民は、男女の関係なく朝から晩まで働いていたわけです。男は外で働いて女は家を守るなんて言うことは、日本国民のコンセンサスにはなりようがなかったものです。

また、専業主婦の離婚理由として、十分な収入を家計に入れないから虐待だというものがあります。妻からは配偶者暴力センターに相談に行ったらそれは経済的DVだと言われたと主張があることも多いです。しかし、その場合に多い実態は、夫が低賃金だから、それしか家計に入れようがないということです。誰が見てもその収入からは精一杯のお金を家計に入れていると評価できることがほとんどです。また、お金はほとんど引き落としか夫が支払っており、妻に渡していた金額は妻の小遣いであったということもよくあります。何万円以下の場合は経済的DVだなどと家計に入れる絶対的金額を主張されても、それはあまりにも不合理で実態を見ていないケースがほとんどです。家計に多額のお金をいれられないことは、むしろ低賃金にあります。企業の責任を不問して夫だけを離婚理由として責めているのは、昨今の主張を象徴しているように感じられるところです。不思議なことにこのような主張をするのは、専業主婦の女性だという傾向がみられるように思われます。

第3が最も問題とされるべきです。妻が何も夫に働きかけないで、ずいぶん年月が経ってから、夫の嫌なところはこういうところだと抽象的に、おおざっぱな時期も特定せずに夫非難を展開し、だから婚姻は破綻している等という主張が、離婚訴訟の圧倒的多数のように感じます。

ずうっと不満だった。たまりにたまって爆発した等とよく表現される主張です。しかし同居期間中にその不満を夫に具体的に言ったことは無いようです。建設的に改善を促していたということも主張されることは少ないです。

妻は、夫の行為に不満を持ち、それを夫に告げず、夫はこれまで何も言われていないためにまさか妻が自分に不満を持っていたとは思わず理解すらできません。

結局、この種の女性の主張と言うのは、「夫は妻が何も言わなくても妻の不満を察するべきであり、その上で夫が改善するべきだ」というということを主張しているようにしか思えません。つまり、女性の機嫌は男性が作るという主張ではないでしょうか。この主張は、「女性は自分の置かれている環境を自らの働きかけで改善するのではなく、すべて夫に依存している存在なのだ」ということを言っているにほかならないのではないでしょうか。当事者の妻ご本人は、離婚手続き時は葛藤が高まっているから、このような主張になることについて気が付かないのですが、第三者であるべき弁護士がその姿勢を無批判に追随していることはなんとも情けないと思います。

ただ、なかには、実際はいろいろと妻側が関係修復の努力をしていたり、関係修復の努力ができない事情がある場合もあるのです。私は、弁護士は当事者から丹念に事情を聴取し、一度好きあって結婚して子どもまで設けたのに離婚を決意した事情というものがあるはずだという姿勢で、当事者の方の実情を、ご本人も自覚できないものも含めて言葉に編み上げるのが仕事だと思っています。このような丁寧な仕事をせずに離婚訴訟を出してしまうのは、弁護士こそが女性の幸せは男性に依存していると考えにとらわれて、それ以上の調査や考察をはじめから行わないところにあるのではないかとにらんでいます。

そのような理解をするためには、人間についての十分な勉強に基づいた考察と理解が必要です。それにもかかわらず、端的に言えば暴力についての効果について勉強していないとか、あるいは人を恐れる原理、嫌悪する理由などについての考察が全くなされていない等きめ細やかな人間の感情に興味を持っていないように感じられてなりません。単に「男性は支配欲求があり、支配のために暴力をふるうのだ」というようなあまりにも浅はかなステロタイプの志向に基づいた大雑把な主張をしているとしか感じられません。マニュアルのようなもので離婚事件を「処理」しようとしているように感じてしまいます。

フェミニズムを自称して離婚事件を担当する者が、ハーマンやウォーカー、あるいはイルゴイエンヌの原著(もちろん翻訳で構いませんが)も読んでいないのは私には信じられません。本来には認知心理学や発達心理学、及び最低限の医学的、生理学的知識が必要であると常々実感しているところです。

このような大雑把な「当たらずしも遠からず」みたいな主張が改まらないのは、裁判所がこの程度の主張でも離婚を認めるからに外なりません。つまり、離婚原因があって、離婚原因を作ったのは誰かということを丹念に検討するということをしません。あくまでも別居の事実が長く、一方当事者に復縁の意思がないということで離婚を認めてしまうところが問題です。

裁判に勝てばよいやと言う考えであれば、当事者の方々の苦しみに理解をせずにも裁判所に受け入れられるような主張を脚色すればそれでよいと考えれば、それ以上の努力を人間はしないようです。

第4は、いわゆるDVを行うのは男性であり、女性は常に被害者であるという考えです。

これは、行政などでは徹底しています。男性の被害者相談が設けられているのはまだ少数なのではないでしょうか。DVは、精神的虐待も含まれるということになりました。精神的虐待の案件は、男女差は無いはずです。また、配偶者からの攻撃によって自死に追い込まれるのは男性の方が断然多いと思います。それでも男性の被害救済はほとんど実現しません。

結局、苦しんでいる人を救おうという発想ではないのです。DV相談は、結局離婚を進めることが多いのではないでしょうか。しかも、十分な事実調査を行いもしないのに、「夫の妻に対する虐待があり、妻には命の危険がある。」という認定をするというのが、私の離婚事件の相談センターの例外のない活動です。つまり事実に基づいて苦しんでいる人の苦しみを取り除くというのではなく、相談に来たら離婚をさせるという出口しかないということです。税金を使って離婚をさせるための機関のような感覚さえ受けます。不満があれば離婚を勧め、快適でなければ離婚を勧める。

そこに女性が社会の中で自立して自己を実現していくということに対するエンパワーメントの視点も、女性一般の社会的地位の向上も考慮されていないのです。ただ、離婚先にありき、女性を夫婦という人間関係から切り離すという方針ありきという印象がどうしてもぬぐえないのです。

女性の社会的地位の恒常とか、女性の視点を社会の人間性回復に活かすとか、世界平和に影響与えるという視点はおそらく言い出したら笑われることなのでしょう。

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形を変えて生き続ける優生保護思想、精神的不安定な女性に対する差別 母子分離よりも支援こそが必要なのではないか。平成元年から令和2年で40倍に増加する親子分離(児童福祉法28条)申立 [家事]



現在、各地で旧優生保護法によって不妊手術をされた人たちが国を相手取って裁判を起こしています。

旧名称優生保護法は、現在は母体保護法と名称が変更されています。旧優生保護法には統合失調症や躁うつ病をはじめとして障害のある方に同意なしに不妊手術ができる制度が盛り込まれていました。この制度は1996年まで存続していました。

優生思想というのは、人間を優秀な人間とそうではない人間と区分して優秀だと評価した人間の遺伝子だけを残すようにしようとするものです。否定的に評価した人の遺伝子を有する人間については、子孫を作らせないということです。
優生思想は、優秀だと評価された人間は人間らしく生きることが許され、劣等だと評価された人間は人間らしく生きることを否定されることだという言い方もできると思います。

旧優生保護法の不同意不妊手術については、否定的価値評価が確定していると言ってもよいでしょう。人権侵害であることを疑う声は聞こえてきません。裁判で負ける場合は古い話だからいまさら権利を主張できないという時効制度のためであるようです。

しかし、命にはかかわらないけれども、精神疾患があるとか精神不安定な人が、人間らしく生きることを否定されるということは続いているのではないかということを、弁護士をしていると感じることがあります。しかも、その人間否定をしているのが地方公共団体や裁判所であり、それが急激に拡大されており、今後もさらに拡大していくのではないかということについてお話しさせてください。

実の親から子どもを分離して、養護施設や里親に委託して育てさせるということが、児童相談所所長の申し立てと家庭裁判所の承認によって可能となる、児童福祉法28条(1項)申立というものがあります。
子どもが18歳になるまで(高校卒業まで)親子の面会すらできない場合も多く、諸事情によって親子が二度と会えなくなる危険もあります。少なくとも何年も親子として一緒に暮らせない状態が生まれます。

もちろん、親にとって、我が子と一緒に暮らせないどころか、会いたくても会えないということになるのですから、生きながら地獄を見るようなものです。実際に精神に異常をきたす事例もあります。

子どもにとっても、悪い影響が生まれます。なぜならならば、自分の親が
子どもを育てる能力が無い人間だ
子どもがこの親といたらだめになる
と、公的機関によって評価されたということにいずれ気が付くことになるからです。

そのような評価をされた子どもも一時はそんな親は自分とは違う人間だと、親を否定して合理化をするかもしれません。しかし、時期が来て自分とは何だろうと考え出す思春期後半ころからは、自分はそのように否定評価をされた親の子どもだというふうに受け止めてしまい、また自分は実の親を否定し軽蔑したのだと思い、混乱してしまう可能性があります。親が面会すらもあきらめてしまえば、自分は親から見放された人間だと思うかもしれません。いずれにしても、自己評価の低下等の発達上の負の問題が生じかねないことは間違いありません。

もちろん、そのような負の事情を考慮してもなお、親から子どもを離さなければならない場合もあります。親から虐待やネグレクトで命を奪われる可能性の高い場合や一生消えない屈辱感や疎外を受け続けているような場合は、放っておけば命が無くなるし、取り返しのつかない人格形成がなされてしまいますから、親子分離に伴う自己評価が低下するどころの問題でもなくなるでしょう。

だから子どもを親から隔離する制度が必要な場面ももちろんあるわけです。

問題はどちらにしても子どもに深刻な問題が生じる可能性があるために、施設入所などの是非は、くれぐれも慎重に判断するべきだということです。

実際にこれまでの判例からは、非道ともいえるような恐ろしい虐待事例、人間扱いをしていないというような事例に対して施設入所を承認した例も多くある一方、多少の虐待が認められ、親から引き離して施設入所した方が快適(今よりはまし)かもしれないという事例でも、引き離すことによって生じる子どもへのマイナス影響を考慮して承認をしなかった裁判例も少なくありません。

これまでの判例は、引き離すメリットとデメリット双方をきちんと悩んで決断してきたということがうかがわれるのです。ところが、近年これらが疑われる事情が統計上からもみえてきています。

司法統計によると、施設入所などの児童相談所長の申し立ては、平成元年は1年間に14件でした。年々徐々に増加して平成29年には288件になっているのです。平成30年には目黒事件が、平成31年には野田事件が起きています。申立件数も平成30年は379件、令和元年493件、令和2年481件と、平成元年の40倍に達しています。

ちなみにこの申立は、昭和30年は6件、昭和40年は9件、昭和50年は22件、昭和60年は36件でした。

申立件数ではなく、裁判所が1年間に何らかの形で事件を終局(認容、棄却、取り下げ等)した件数は以下の通りです。前年に申し立てられて、翌年終局すると、翌年のカウントになりますので、申立件数を超えて認容することがあり得ます。
平成元年は、終局10件、うち認容3件 認容率30% つまり7件は棄却ないし取り下げなどで褶曲したということです。
平成7年は、終局43件、認容18件 認容率42%
平成8年から平成17年の10年間は認容率が概ね7割を維持し、
平成17年の終局195件、認容141件と事件数の増加傾向が見られます。

平成18年 終局205件認容170件で、認容率83%
認容率80%越えは平成24年まで続き
平成24年 終局295件、認容244件 認容率83%となります。

その後は認容率が概ね70%台となりますが件数が増加します。
平成30年 終局347件 認容266件 認容率77%
平成31年 終局434件 認容338件 認容率78%
令和2年  終局531件 認容398件 認容率75%

どうしてこんなに右肩上がりで、親子引き離しの28条1項申立が増加し、認容件数も増加していったのでしょう。これだけの数の親子が地方自治体と裁判所によって分離させられており、さらに増加の傾向がみられるのです。

あくまでも感覚的なことなのですが、わたしには虐待事例が増えたというわけではないような気がしているのです。明白な虐待例、攻撃的虐待例として、目黒事件や野田事件があるにしても、平成元年から比べても40倍に増える理由も思い当たらないのです。

ここから先は、統計的な資料が無く、私の担当事件、相談事例等、私が知りえた事情から考えたいわば主観的な分析ですので、ご注意願います。

それではどういう理由で、児童相談所による親子分離の申立件数が増え、認容件数も増えて行ったのでしょうか。
私は、一つには、法律上の文言が変わらないのに、親の子に対する扱いについての評価が、ここ30年くらいで急激に変わったのではないかとにらんでいます。
つまり、それまでは子どもの福祉を著しく害するとは思えなかったことが、著しく害すると評価するように変わったということです。

・ 先ず、これまで以上に何らかの児童虐待対処政策をすることが必要であるという認識が確立し、それは親子分離であると直結して考えられている。またこれは行政サービスなので、多く行えば行うほど自治体が仕事をしている、児童虐待に取り組んでいるという評価を受けるようになっている。
・ このため、児童の福祉を害する危険があれば、法律の必要とする「著しく」害する危険が無いと判断されてきたケースであっても親子分離が可能であれば親子分離を行うべきだということになる。認容されない申立てをしても非難されるだけだから、認容されるようしなくてはならない。
・ その結果、子どもが親から分離されることのデメリットを考慮しなくなった。否定的側面ばかりをクローズアップしていく。
・ どんな事情でも、最悪の危険に結び付けて評価されるようになった。例えば、半日子育てを放棄してスマホを見ていても、数日間子どもに食事をさせないで餓死する危険があるネグレクトであると評価され、ネグレクトは命の危険があると短絡して評価する。

こういう大きな流れがあるように感じられるのです。
そして、最悪の危険に結び付けて考えられる典型が精神疾患であり、その精神疾患の危険な行動としてはネグレクトが使われるようです。

実際の相談例や担当例では、うつ病等による易疲労や意欲低下によって、部屋の片付けができない状態をとらえて、不衛生、栄養不足として、ネグレクトだから児童虐待だといわれたという事例が多いような気がしています。

これをお読みの方の中には、子どもが栄養面や衛生面でよくない状態にあるならば、施設などに預けた方が良いのではないかというご感想を持たれる方はいらっしゃると思います。

ただ、少し考えていただきたいのは、もしこれが精神疾患ではなく、難病や事故によって、身の回りのことが十分にできなくなったのだとすればどうでしょうか。それでも、子どもを親から分離して施設に預けるべきだという考えもありうるかもしれません。ただ一番重要な視点は、必ずしも施設に預けるか預けないかという二者択一ではないということです。例えば、親御さんの障害の程度によっては、介護サービスなどがあれば、親子分離までは必要が無いという場合もありうるのだと思うのです。子どもにとって親子分離は否定的影響が生じる可能性があるのにそれが考量されていないということは、子の福祉のための親子分離ではなく別の意図があることになってしまいます。

そもそも精神疾患というのは程度のある概念です。精神疾患の診断名が付けられても、会社に言って仕事をして家庭生活を営むことができる人から、放っておくと危険な状態になるからきちんと管理をしなければならない人等、その中間的な人々、実に様々です。また、本当の病気というよりは、出産後のホルモンバランスの変化によって、症状が一時的に講じている人もいます。
しかし、多少埃っぽい部屋だけどいるだけで病気になるほどではないという場合もネグレクト、精神障害として扱われるようです。

ひとたび精神疾患となれば、子どもを育てることができない
というわけでは決してありません。

 それにもかかわらず、立派な家事をしていない ⇒ ネグレクトがある。
⇒ ネグレクトは子どもの命が奪われる可能性がある。
⇒ ネグレクトをしている親は精神疾患の診断を受けたことがある。
⇒ 精神疾患者はネグレクトによって子どもの命を奪う危険がある。

こういう跳躍した発想をしているように思われるのです。

 もし同じことをしていても、同じ程度に家の片づけや掃除をしていなくても、その親に精神疾患の診断が無ければおよそ親子分離などが申し立てられる恐れはないでしょう。

 そうだとすると、親子分離をするべきだという理由の核心は、端的に「およそ精神疾患の人は、子育てができない。させるべきではない。」という差別があるのではないでしょうか。おそらくそういう流れの思考の人は、自分が障害者差別をしているという自覚は無いのだと思います。ただ、親子分離の件数を増やそうとしている人たちがいるとすれば、対象の親に精神障害との診断が下されたことがあると施設入所となりやすいとホッとしてしまう人も中に入るのではないでしょうか。

そして裁判所も、もっともらしい理由を挙げて施設入所を承認していながら、内実はその人に精神疾患があるということだけから、親に危険性があると無意識に判断しているということは無いでしょうか。

 もし、優生保護思想による不妊手術は人権侵害で違法だけれど、精神疾患がある人の子育てに不具合があるならば子どもは産んでもよいけれど、子育てはさせない、子どもとは会わせないというのであれば、それは端的に障害者差別だと思います。優生保護思想の否定とは一貫した考えではないと思います。産まないことも産んでから取り上げられることもどちらも生き地獄だと思うからです。また、子どもは親だけが育てるものではなく、社会が子育てに参加するものだという視点が欠落しています。どのような保護、援助をするかという議論より先に、子を取り上げてしまうということならば、それは人間らしく生きることよりも行政効率を優先しているに外なりません。

 最近お釈迦様のこの言葉を良く引用するのですが、倒れることは人間にはつきものであるから人間の評価を左右しない。倒れても起き上がることができるかどうかが人間の価値を示しているということです。
 差別をしてしまうことは、無知が原因で無意識の感覚であることが多いですからある程度は仕方がないことなのだと思います。しかし、差別だと指摘を受けたら、行為を修正するということができることが人間としての価値なのだと私は思います。

 施設入所の申し立ては、審判構造が複雑ということもあります。
・ また申し立てから審判開始までが短い期間であるために弁護士を探そうという発想すら持てなくて、準備もできないで自分ひとりで審判を受ける場合が多いようです。
・ このため、事案の問題よりも審判の仕方がわからなくて裁判所の承認が下りるケースも多いのではないでしょうか。
・ このように、申立がそのまま特に検討されもせずに認容されてしまう状態が続くと、裁判官や調査官にも申立は認容されるものだという発想を持ってしまう人たちも多くなるのかもしれません。
・ そうするといざ弁護士が正論を主張しようとしても、初めから申立ては認容するものだという意識となってしまい、論理性もなく調査結果と関連性もない事実を理由に認容される傾向が、弁護士が代理人になっても止めようがなくなるかもしれません。
それでも、認容率が70%代を推移しているということは、一種の行政裁判でありながら、極めて低い認容率だということになります。また、一時期80%だった認容率が下がったということは、無茶な申し立てに裁判所が気が付いたということで矛盾しないように思われます。

但し、一部の調査官が、自分の職務を全うするからこそ、低い認容率となっているのです。実態からすれば、まだまだ高すぎる認容率ではないかということが実務的感想です。

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思い込みDVによる子の連れ去りから子どもとの面会交流ができるようになる行動 [家事]



先日の法律相談会で、連れ去り事例の相談がありました。普通の相談会では、連れ去り事例が結構ポピュラーになっているということを知らない人が多いです。相談する人が誰もいなくて、自分だけでいろいろ考えていらっしゃったようです。

この事例は典型的な思い込みDV(夫からのDVは無いけれど、体調からくる理由のない不安、子に障害があるという等のストレスの継続、そして「あなたは悪くない。それ夫のDVだ。」の寄り添いを典型としたDV相談という洗脳により、自分の不安や苦しさは夫に原因があると思い込むパターン。離婚調停などを申し立てるが、具体的な離婚理由を述べることができず、これまでの積み重ねだなどと抽象的な理由しか述べられない。)のパターンでした。

初めは、夫もありもしないDVとか精神的虐待だとか言われて戸惑っていたのですが、もしかしたら自分にも原因があるのではないかと内省を深められていました。

私は「素晴らしい。」を連発するだけで、大体事足りていました。その他には、こういう事象は現在増えていること、
・ どちらが良い、どちらが悪いという問題提起は解決を導かない不毛な問題提起であること
・ どんな状況でも家族だから、家族全体が今より幸せになるためにはどうしたらよいかという視点で考えること
・ 原因のない不安、あるいは考えても仕方がないストレスを、一番頼りにしている人に解決してほしいと思っているから、解決できない不安を一番頼りにしているあなたを攻撃するという形で解消しようとしている
・ だから、妻の不安を解消するということを第一に考えること
等という一般論を述べて相談を終わりました。

おそらく、彼は、対立的な不毛な論議をしないで、家族全体の利益を言い続けることができ、離婚調停も暖簾に腕押し作戦で、案外うまくいくかもしれません。

思い込みDVの場合は、家族再生が可能であるはずなのですが、うまくいかないことも多いです。特に妻側の不安が病的な状態まで高まっていると、面会交流さえも困難になります。病的な状態とは、調停でも話し合いにならず、感情むき出しで泣き叫ぶような場合が典型ですが、調停委員も辟易してしまう場合が少数ながらあります。

それでも、最近は、別居親である夫にも多少問題があると思われる事例でも、面会交流自体は実施されることが多くなっています。
そして、少しずつ面会交流の時間と自由度が上がっていくことがむしろ多数派になっているようです。

面会交流ができる場合は、上述の4つの・を実践する場合ということになります。これができない場合でも、東北地方は、同居親の代理人も子の利益を考えて面会交流を積極的に本人に提案し、むしろ同居親の代理人が面会交流に立ち会って実施を実現するという場合も増えてきているようです。これは、ラッキーな場合、他力本願的な場合ですので、四角四面な代理人が同居親についている場合でも、代理人を飛ばして本人に働きかけていくことで面会交流を実現していただきたいものです。

さて、おそらく一番問題となるのは、どういう場合が4つの中黒と正反対の行動をしているということになるのかということがわかりにくいということになると思います。

これから説明することは面会交流が実現し、徐々に拡充していくための、これまでの実務上見られた傾向についてのお話です。私の道徳的価値観を示したものではなく、あくまでもこのような行動をするとうまくいくことが多いということを示している実務的な報告です。

うまくいかない典型的な場合は
正義感を全開にしている場合です。

連れ去った方が違法であり、誘拐だ。だから会わせるべきだ。
ということを相手方、裁判所、あるいは自分の代理人に強く主張する人です。

どうしてこれがだめかと言うと
正義感を主張するとどうしても攻撃的感情を伴います。被害感情も当然あるので、さらに攻撃的感情は募ってしまいます。そうすると
調停委員などは、このような感情的な人を子どもたちに会わせても良いものか、無事に終わるのだろうか、何か良からぬことが起きるのではないだろうか
と勝手に思ってしまいます。

だから面会交流を断念しろとは言わないでしょうが、例えばあと一歩のところの説得をしないとか、短い時間の面会交流で我慢するべきだとか、極めて実務的な問題が生じてしまいます。

また、少しの譲歩で多くのリターンが取れる場合なども、正義感が勝ってしまい駆け引きができないとか、一度決まった面会の条件を拡大していくというような融通が利く対応ができない、あるいは100%望み通りでないと合意しないために、結局面会が実現しないということが起きてしまう可能性が高いからです。

そして面会の調停と離婚の調停が並行している場合が多いと思うのですが、そのような硬直な態度、相手を許さない態度というものが、実は連れ去りという被害を受けたために起きた精神的変化であることが多いのですが、事情を知らない調停委員からは、同居中も同じような態度で妻を心理的に圧迫していたのだろうと思われてしまうという決定的な問題もあります。

自分は正義感や被害意識が前面に出ていないと思われる方も、人間はこのような理不尽な思いをしたときに、正義感や被害意識に基づく感情が優位になるものだと思い、くれぐれもそう思われない言動を心掛けるべきです。

中にはそれでも自分は間違っていないということを主張し、態度を改めない方もいらっしゃいます。おそらく裁判所は、法に基づいて自分に有利な判断をするはずだという根拠のない誤解と言いますか、あくまでそうあってほしいという希望を抱いているのだと思います。そうではないことは、これまでの同種事例でサンプルが山ほどあるので、幻想を捨てて結果を出す行動をするべきだと私は思います。

また、被害意識があると、自分を守ろうとしてしまいます。思い込みDVの連れ去り妻の方も基本は不安、被害感情があり、子どもの利益などを考えずに、自分だけを守ろうとしているわけです。
これが別居親の方も、似たような行動をする場合があります。「自分が子どもに会いたい」ということは当然ですが、裁判では「子どもを親である自分に会わせるべきだ」という言い方が説得力を持つわけです。被害意識があると、全く行動原理が連れ去り妻と同じになってしまいます。これでは、第三者機関はこちらの見方をしてくれません。現状維持を打破しようとする景気が生まれないのです。

子ども利益を考え、同居親の不利益を最小限にして、家族全体の利益を考えるという視点で提案をしていくことが最も効果的な提案です。

思い込みDVの場合は、法的には別居夫に違法性や責任が無い場合がほとんどと言ってよいでしょう。だから、同居妻が自分を攻撃してくることにはただ腹が立ったり、困惑をしたりするわけです。しかし、本当は自分の精神不安や焦燥感は一番頼りにしていた夫に解決してもらいたいと思っていることも圧倒的多数です。精神科医でもカウンセラーでもない夫が妻を安心させることは至難の技だと思うことが通常だと思います。

しかし、愛する人(当時)の不安を少しでも取り除こうとしなかったというところに、内省を深めて、それを相手に示すということができれば、連れ去り妻も少しは安心してくるわけです。生き方の問題なのでどうしろこうしろとは言えませんが、現実問題として、相手を責めてばかりいないで、相手の不安を理解しようとすることが面会交流を実現して、拡充していくポイントになっています。それを本人ができなくても、代理人がそれを示し、本人がその提案に後から納得するという形も当然ありです。

思い込みDVは、夫に原因があるよりも、妻の体調面などからの理由のない不安が根本原因となっています。しかし、家族である以上、家族の不安や苦しみは少しでも緩和させてあげたいと思うものではないでしょうか。「自分は悪くない。」というところで頑張っていないで、不安を少しでも解消してあげることが後々良い効果を生むわけです。
これまでくどくどとこのブログで言ってきましたが、まとめると
・ 尊敬、尊重を示す
・ 感謝を示す
・ 謝罪をこまめに示す
ということです。肝心なことは尊敬の気持ち、感謝の気持ち、謝罪の気持ちではなく、言葉であり動作だということです。少年の心に固執せずに、一歩上からふるまうということになろうかと思います。
わざとらしいとか空々しいなどということは気にすることではありません。

特に感謝ができない人が目につきます。
極端な事例としては、同居妻を説得してくれて面会を実現してくれる相手方代理人に感謝できない人は、面会交流が実現しても継続しないことが多いようです。調停や裁判の中で嫌なことを言われるとか、あなた以上に正義感の塊で頓珍漢なふるまいをしている場合も確かにあります。また、どちらかと言えば、あなたの利益のために面会交流を実現するというよりも、それは連れ去り妻の利益を考えていることは当然です。それより、子どもをもう一人の親の愛情を実感してもらうというために、つまりあなたのお子さんのために面会交流を実現させようとしている人に対して、親として感謝を示せないということは深刻な状態だと思って間違いがないです。

ただ、被害感情が高まりすぎると、自分のために他人が行動をすることが当たり前だという気持ちになることがあるようです。
くれぐれもご注意ください。



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