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奇妙な焦燥感体験と、社会的存在を実感しての解決方法と、コミュニティの役割と [事務所生活]

昨日宮城は大雨でした。

出勤直後に奇妙な体験をしました。

特にきっかけは覚えていないのですが、
しっかりとした焦燥感にかられ、
わーっとなってしまい(心の中で)、
どうしたらいいんだろうねと口走っていました。

何に焦っているか考えたのですが、
雨による、特に栗原地方の地盤の心配だったり、
避難所だったり、石巻の地盤沈下地帯だったり、
いやいや自分の事件の依頼者のことだったり、
はたまた、放射能のことだったり、
そのすべてであるような、
それもあるけれど、それではないような、
もっとつまらないことだったり・・・・

あれ、ちょっとまずいなと思うくらい
考えもまとまらなくなっていました。

確かに2日ほど、睡眠状態に問題もありました。

ただ、解決方法には、漠たる確信という妙な感覚がありました。
うまく説明できないので、どう解決したかということですが、

相談の電話が来たのです。
受話器を取った瞬間、仕事モードに変わっていました。
「それは大丈夫、心配しなくてもいいことです。」
相談に対して、回答をしていくうちに、
「しっかりした焦燥感」は、どんどん過去の体験に変わって行きました。

「誰かのために戦う者は強い」
イーグルスのホームゲーム開幕の日に、
嶋基宏選手会長がスピーチした言葉です。

これをもっと分析してみました。

確かに一人でいたら怖い、
自分だけの為になかなかできないことも、
家族の為ならできる。

虫が嫌いで触りたくもないということでも、
子どもの近くに来たら、手で払いのけるとか。
まあ、そういうクダラナイ話から、シリアスな話まで。
誰かの為にならできるということは、経験していると思います。

どんな仕事でも、
結局社会の誰かとつながっているので、
仕事をするということで、
社会の一員であると実感が持つことができれば、
結構強くなれるようなきがします。

もう一歩踏み込んでみると、
それは必ずしも、仕事である必要が無く、
社会(家族だったり、町内だったり、学校だったり)
の中で、一人の人間として尊重されるということが、
群れを作るヒトという生物は、
精神的に安定するシステムになっているのではないか、
遺伝子的にそうなっているのではないかと
思いつきというか、妄想をしてみました。

そうだとすると(論理は、飛び石を跳ねる)、
社会、コミュニティから尊重されないことによって、
焦燥感や不安が生じる場合があるのではないか
と思ったのです。

そして、それは、
結構高い確率で、
コミュニティの失敗によって
ボタンの掛け違いによって、生ずることがあるのではないか。

要するに勘違いから出発することがありそうな気がするのです。
善意が、空回りしたり・・・

その中で、結構重要な要素が、
その人のコンディションだったりするのではないか。

いつもと同じように接しても、
いつもと違う精神的コンディションだったため、
傷ついたり、むつけたり(少し攻撃的にではあるが、比較的静かにいじけるの宮城県弁)
したりするのではないか。

その発作と寛解を
大なり小なり繰り返しているのではないか

疾病ということになれば、
治療が必要ですが

日常そのような状態を、自分で気がつけば、
あるいは気がついてあげれば、
予防したり、軽くしたりすることができるはずです。

ただ、自分で気がつくきっかけが、
仕事をして社会的な存在であることを実感するというタイプの人もいれば、
家族や友人に、不安に寄り添ってもらい、
大事されているという実感を得ることだというタイプの人もいる。
ということのような気がします。

誰かが人を傷つけるコミュニティから、
誰かが不安に寄り添うコミュニティの構築が
求められる
様な妄想を抱いてみました。




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