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怒りは誤作動を起こす。安全な場所から支援する者が陥りやすい誤りとその要因について [自死(自殺)・不明死、葛藤]

対人関係学的に言えば、
(対人関係学については左上にわかりにくいリンクがあります)
「怒り」は、「危険に対する反応」ということになります。

「危険といっても」
けがをするなどの動物一般の感じる危険のほか、
人間には対人関係(群れ、コミュニティ等)の中で、
自分の立場がなくなる(悪くなる)危険にも同じ反応をします。

誰かに足を踏まれて怒るのと同じように
悪口を言われて怒るわけです。

自分に絶対の自信があり、
変な噂を言われたりしても怒らない人がいるし、
些細なことで怒らない人もいます。

「金持ち喧嘩せず」とは
昔の金持は、庄屋とか、
同時に絶対的権力者なので、
悪口を言われたくらいでは、その地位が揺らぐことがないので、
怒る必要がないということを意味しています。
怒らないから喧嘩にもならないのです。

もっとも、怒れなくて、怖がる人、逃げる人
固まってしまう人もいるわけですが、
これらも「危険に対する反応」だということになります。

怒るときは、
相手との力の差を意識することが多いのですが、
性格によっては、無謀に怒りをぶつける人もいます。
これは個性だと思います。
個性といっても、三つ子の魂百までというより、
その人のその時の群れの中の役割、ポジションを反映している
のではないかと思っています。

現代人は、いろいろな危険にさらされています。
街を歩けば、うっかりつまづくなどして、
自動車に惹かれることもあるでしょうし、
超現代的な、対人不信や化学物質の脅威もあるでしょう。
動物的にも「危険」を感じやすくなっていると思います。

対人関係的にも
職場でのリストラ、いじめ、
精神的暴力などがあり、
誰かの足を引っ張るなんてことを
意図しないで行う人もいます。

その都度、職場での立場が悪くなることがあったり、
家庭での立場が悪くなることがあったり、
学校で、友達関係で、
立場が悪くなることがあります。

道を歩いていたり、
電車に乗っていたりしても、
攻撃されているのではないかと
危険を感じることもあり、
怒りを感じることがあると思います。

多くある個性の中では、
四六時中怒っている人もいるのも、それはそうかなと
思われてしまうような世の中かもしれません。

(四六時中、怖がってばかりの個性や精神状態もあるわけです。)

怒りの特徴は、
「同時に、複数に怒りを向けることが難しい」
というものがあります。

怒りは、危機回避の反応ですが、
危険の対象に全力で対応するという仕組みになっています。
虫にせよ、小動物にせよ、
相手に配慮しないで、倒すことに集中するわけです。
あとからかわいそうなことをしたかもしれないなと
思ったことはないでしょうか。

そして、それを倒すことによって、
怒りが解消されてしまうという特徴もあります。
なんか納得してしまうというか。

怒りの誤作動が起きる原因はここにあります。

怒りを向けるべき対象が複数ある現代社会、
とりあえず、自分が勝てそうな相手に怒りが集中します。

すると、自分の一番肝心な危険に対して対応せずに、
一番弱い者に対して怒りが向けられ、
客観的には、何も解決しない場合が、実は多いのではないでしょうか。

児童虐待等家庭内暴力が典型的だと思います。

ただ、怒りとは暴力とは限りません。
動物としての攻撃ではなく、
対人関係の中で窮地に陥れるという攻撃もあるわけです。

すべては、自分の危機感から出発します。

例えば夫婦において、
夫から、いつもさげすまれて、否定される。
夫としては、家庭をよくしようと
指導しているつもりかもしれませんが、
妻からすると、自分を否定されているように、
自分の無意識の行動や能力を否定されているように感じ、
結局、自分の家族の中の立場が悪くなるというように
感じてしまう場合があるわけです。

本当は、収入が不安定であったり、
精神的に危険を感じやすい状態であったり、
あるいは環境問題で恐怖を感じていたりして、
危険を感じやすくなっている状態で、
夫に対しては、怒りを感じてしまうことはありうるし、
夫に怒りが集中するというのもこういうわけです。

どうやって、おそれではなく怒りになるか
どうして、「勝てそうだ」と思うのか、
それは、外部の応援が期待できるからという場合もあります。

別のパターンでは、
逆に本来夫に対して怒りを持つことが合理的なのに、
支援者の誤作動誘導によって、
自分の母親や兄弟に怒りが転化することもありうることです。

支援者は、支援を要請した人に肩入れする性質があります。
要支援者を支援するという大義名分があります。
ここで、対人関係をきちんと把握し、
怒りの根源、合理的な要因を分析するべきなのですが、

「危険の複合」と
「怒りの対象の特定の要因(勝てそうな相手に集中)」
を理解していないために、
要支援者の言葉に振り回され、
本来傷つけてはいけないひとを
一緒になって攻撃したり、
その結果、子どもなど責任のない第三者に
苦しい思いをさせる危険があるわけです。

「誰かを守らなければならない」
「誰かが傷ついている場合、加害者がいる」
「加害者は、被害者が指名した人だ」
という驚くべき単純なドンキホーテ的な支援者が
実に多い世の中だと思います。

酸いも甘いもかみ分けた、
長屋のおかみさんの方がよっぽど人を幸せにするわけです。

人間関係を対立的考える弁護士も、
複雑に物事を考えない人たちということになるでしょう。

心理士や、精神科医も、
全体を把握しない場合、
同じような過ち、人を不幸にするアドバイスをしていることがあります。

クライアントは嘘をついているわけではないのです。
聞かれないことを応えないだけです。
自分をよく見せようとしているだけなのです。

このような過ちを犯さないためには、
その人が自ら語らない事実を知らなければなりません。
真実を語らせる能力がなければ、
複数の情報源から事実を聞きださなければなりません。

また、それもできないならば、
その人のかかわる対人関係の中で、
一番弱い人を守らるという発想にならなければなりません。

それは、子どもであったり、老人であったり
様々です。

自分が安全な場所にいて、
クライアントに「加害者」に対抗するアドバイスをすることを考える場合、
相談者の方が「加害者」の脅威を膨らませてしまいがちになります。
誤作動の誘導を起こしやすい原因もここにあります。

長屋のおかみさんの、加害者に対しての
「ちょっとちょっとぉ」という語り口は
今は落語の中だけになったかもしれません。


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