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なぜ、家族の存在によって、自死を思いとどまらないのか [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死される方の遺書を読むと
自分が遺してしまう家族一人一人に対して
思いやり、気遣いがあふれていることが多いです。

なぜ、それなのに命を絶つのか
そういう疑問を起こしてしまいます。

家族がいるのにどうして死ねるのか
これは多面的に考える必要があります。

まず、追い詰められた人の心理ですが、
簡単に言うと、
野良犬に襲われて逃げる場合、
余計なことを考えないで、
ひたすら安全な場所にたどり着こうとしますよね
要するに
「まだ危険なのか、安全なのか」
という二つのうちのどちらなのか
ということしか考えられなくなるわけです。

逃げること以外のこと
例えば、花壇を通って逃げる場合、花や根を痛めないかとか
人の家に入るとき、住居侵入になるのではないか
等ということを考えていたのでは
逃げられなくなります。

交感神経が活性化している状態では
こういう複雑なことや派生的な結果を考える
大脳の前頭前野腹内側部の機能が低下ないし停止すると考えています。

希死念慮とは
なんとなく死にたいというロマンチックなものではなく
自分は死ななければならない人間なのだという
強固な思い込みのことのようです。

そうすると、
自分を追いつめているものから逃れたいという状態が蔓延すると
交感神経が過度に活性化されて、
「逃れないで苦しみ続けるか、逃れるために死ぬか」
という二者択一的な考え方になり、
死なないでも逃れられる方法があるかもしれない
という希望的観測がない、絶望という状態になるようです。

家族の顔が浮かんでも
死ぬことをやめることができず、
死ぬことは前提、既定の決定事項ということになり
ただただ、自ら死を選択することの
お詫びの気持ちだけが起きる
ということが多くの場合で感じられます。

このような「自由意思の喪失」が
家族が自死の防波堤にならない一つの理由です。

また、仲の良い家族は自死を防止するどころか
局面によっては、加速させることがあります。

負担感です。

自死をしようとしている人は何に絶望するかというと
一つは身体生命の危険を避けられないという絶望もありますが、
対人的に、自分が追放されることにつながることを感じ
尊重されて、調和して共存することができない
という絶望感を感じているようです。
これは、客観的事実ではなく、主観的な問題です。

ある人は、攻撃されなければそれで満足するでしょう。
しかし、責任感の強い人は
群れの中で、自分が与えられた役割を果たさないと
追放につながるということを無意識に反応してしまうのです。
役割感の喪失等といわれます。

そうすると、
収入が充分得られないとか
社会的に体面が悪いとか、
肉体的な問題とか
そういうことで、
自分が役割を果たせないと
感じやすくなるわけです。

役割を果たさなければいけない
という責任感が強い人ほど
自分に過大な役割を課する人ほど
ささいなことで喪失感をもってしまうわけです。

家族を愛する人ほど
自分の役割を高く設定しようとしますから、
その役割を果たせないことが
自分の気持ちの中で
大きな絶望感を起こすような
「負担感」を持ってしまいます。

こうなると、自死の願望が高まってしまいます。

また、家族のために役割を果たそうとすることは
時として自己犠牲をいとわない場合があります。
子どもに犬が襲ってきたら、
自分が犬が嫌いでも、身を挺して子どもをかばいますよね。
群れのために役に立つことによって
群れと協調しているという安心感を持つ人は
群れのために自分の身を捧げることに
なじむ傾向にあるのかもしれません。

こうなってくると
「死に対する抵抗」が小さくなります。
自死が可能になっていくということになります。


ここで疑問が起きるでしょう。
追い込まれた後であれば仕方がないかもしれないが、

例え、会社できつく当たられたり、
学校でいじめられたりしても、
家に戻って安心できないのか。

会社は、転職すればいいし
学校は、転校したり、
死ぬくらいならばやめたってよいのではないか
という考えは正当だと思います。

しかし、こう割り切れない理由があるのです。

会社とか、学校とか、場合によっては趣味のサークル、部活動でさえ
一つの対人関係での追放の危険であるのに、
全対人関係から追放されるような
強力な心理的圧迫を受けてしまうからです。

これは、現代社会を想定していては理解できません。
人類は20万年、サルから分かれて数百万年といわれています。

協調することのできる人間が、適者生存として生き残り
現代に子孫を残しているわけです。

その時の人の群れは、
生れてから死ぬまでずうっと単一の群れだったはずです。
(あるいは、繁殖の際に群れを変わることもあったかもしれませんが
 ただ、日本の婚姻史をみても、必ずしも女性が嫁ぐわけではないようです)

だから、群れから外される、追放される
こういうことにつながるのではないかという危険は
自分が生きていくための群れから外されるという危険としてしか
受け止められない、反応できない
ということになるのは、当然のことだと思います。

遺伝子レベルでは、たかだか100年、200年くらいだけ
複合の群れに(例えば、家の他に地域、学校、職場
所属するようになったからといって
対応できるわけがないことは自然のことでしょう。

人は、群れに共存しようとする遺伝子を持っています。
これは、通常自覚はしていないでしょう。
群れから追放される危険といっても
そのように不安を整理して受け止める人もいないでしょう。

ただ、もやもやと不安になっているだけです。
イライラして人にあたっていても、
自分が不安を抱えているからだと自覚できる人は少なく
誰かのせいにしてい八つ当たりしているわけです。
これは、言葉を使って、考える結果ではなく
感覚で感じ、反応していることだからです。

「危険反応は、群れの複合に対応していない」
ということが、
家族がいても会社や職場の危機感を
大きく受け止めてしまい、心理的に圧迫を受ける原因として
考えられるのだと思います。

もっとも現代日本は
一つの職場を退職する、学校を退学するということは
将来的な収入に悪影響を与えますので、
その群れでの追放の危険は
家族のための役割を果たせなくなるという危機感に
直結するかもしれません。

また、情緒的には
家族に失敗を隠したい
危機にあることを隠したい
という心理が働くことが多くあります。

大切な家族だから
いつまでも一緒にいたいからこそ
家族から失望されたくないという気持ちが起きてしまうようです。
家族を安心させていたい、心配かけたくないという気持ちは
子どもでも強く持っているようです。
会社で馬鹿にされているなんてことを知られたくない
いじめられて、馬鹿にされているなんてことを
大好きな家族だからこそ知られたくないのです。

(家族が、失敗を許さないという風潮の場合も
 中にはあります。
 いじめられていることで叱責される
 という感じですね。
 家族が不安を感じやすい場合、
 このような厳しい対応が起きるようです。)

だから、
追い詰められた人は
自分から孤立していくのです。


では、どうしたらよいのでしょうか。
家族はおよそ自死予防にはつながらないのでしょうか。

そうではないと思います。
家族の在り方を意識して作っていくことです。

群れが、
自分が尊重されていやされるということはどういうことでしょうか。

それは、自分の弱さを受け入れてくれるということです。
どんなに失敗しても、過ちを犯しても
根本的には見捨てない仲間の一人とし続ける
ということを把握できる状態にするということです。

これは、なかなか意識しても難しいことです。

このように、負の状態を許容する態度であれば
自分が受けている辱めを家族に話すことができます。

許す、受け止めるということは
一度傷ついた、主観的絆を復活させる
クリエイティブな行為なのではないでしょうか。

このためには、
受け止める側まで、過度に危機意識を持ってしまっては
元も子もなくなります。

どんなことがあっても
家族は一つ、誰も見放さない
それが幸せなんだというところから出発することです。
それが最低限あれば死ぬことはないからです。

その上で、
信頼できる者に、具体的な対処を相談するということになります。
要するに、家族の問題は
家族でだけ抱えることはないのです。

ただ、家族が一つになっていないと
なかなか前進しない
家族が雪山の一時避難所になるというイメージでしょうか。

身体生命の危険があればお医者様ですし、
対人関係の危険があれば弁護士というように
弁護士の質が高まるように切に希望する次第です。

宮城県では「みやぎの萩ネットワーク」でも
弁護士、司法書士、社会保険労務士、税理士という法律家だけではなく、
社会福祉士、心理士、カウンセラー、そして
僧侶、牧師
というあらゆるスペシャリストがネットワークを組んで
対処をしようとしています。

市町村の中では、
この活動を高く評価して
チラシを全戸配布してくださるところもいくつか出てきました。
日本に広まっていくようになることを願っています。




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