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【仮説】致命的ストレス回避のための「人権」という概念ないしシステム [自死(自殺)・不明死、葛藤]

「人権」というのはきれいごとではなく、
現代社会において人間という動物種が生きるための
必要最低限度のシステムであり、
人権が侵害されないと言って
直ちに幸福になるわけではない
ではどうすればよいのか
というお話です。


人権の定義というのは、
固有の権利とか
普遍的な権利とか
その性質をいうものが多く、
なるほど、そうするとこれも人権か
というような、概念が明確になるような
そういう定義はないように思われます。

なので、誤解されたり、
人権として認められるべきものが
明文で認められなかったりしています。

例えば、
他人から、殺されない権利
傷害を負わされない権利
という権利は、
憲法では、規定されていません。

どうして規定されていないかというと
当たり前だからです。
古今東西、殺すなかれ、傷つけるなかれ
という規律はあります。

殺されない権利、傷害を負わされない権利も
人権なのです。

それでは、例えば表現の自由、
例えば職業選択の理由、
例えば、選挙権。
どうして人権なのかということです。

実は、殺されない権利、傷害を負わされない権利
という、明文化されない権利を抜きに考えてきたことが
わかりにくくなっている要因だと思っています。

では、殺されない権利、傷害を負わされない権利とは何か。
これは、人間が生きていくために必要なことです。
力の強い者が弱い者を傷つけ殺したり、
多数が、少数を傷つけ殺したりすることが
誰からも咎められないならば、
殺される人、傷つけられる人は
そうされると考えるだけで生きていけません。
気が狂うということも自然にあるでしょう。

二つの致命的ストレスの回避ということになります。
一つは、物理的に、身体生命の危険から守るということ
一つは、身体生命の危険の予期による致命的な心理的ストレスを回避する
ということです。

さあ、そうすると、
他の表現の自由や、職業選択の自由、選挙権
等も案外簡単に説明できるということになります。

これらの自由が保障されることによって、
致命的な心理的ストレスを回避する
そのためのシステムが人権だと仮定してみましょう。

しかし、これらの自由が侵害されても、
殺されません、身体が傷つくということもありません。
何の危険を感じるというのでしょう。

ここでストレスについてのおさらいです。
ストレスは、100年以上前に
キャノンやセリエによって発見されています。

身体生命の危険を感じたときに
交感神経が活性化され、
体温上昇、血圧上昇、脈拍増加
等の体の反応が起きるということです。
発汗や、瞳孔の拡大等もあげられるでしょう。
意識的な活動ではなく、
無意識に、不随意的に
体の生理的変化が起きるのです。

これは、危険を感じたときに
逃げたり、危険と戦って
危険を回避するシステムです。
そのために、筋肉を動きやすくする
体温を上昇させ、血圧、脈拍を増加させて
筋肉に血液が流れるようになるわけです。

現象面で言えば、これがストレスです。

ところが、表現の自由、職業選択の自由、選挙権は
逃げたり戦ったりする必要はありません。

ここで対人関係学の出番です。
人間が危険を感じるのは大きく2つある。
一つは、身体生命の危険ですが、
もう一つが群れから追放される危険です。

残念なことに、
この危険に対する反応がそれぞれ独特のものであればよかったのですが、
群れから追放される危険の場合も
身体生命の危険に対する反応と同じ
交感神経の活性化という形で表れてしまいます。

なんか失敗して、仲間に迷惑をかけてしまう
ということを感じた場合、ドキドキしたりしませんか、
仲間から侮辱された場合に
屈辱で、カーッと熱くなったりしないでしょうか。
人前に出て話をしなければならないとき
手に汗をかいたりしないでしょうか。

交感神経が活性化してしまったご経験は
誰にでもあるでしょう。
テストでわからなくても
逃げたり戦うということありえないのです。
無駄な反応のようにも思われます。

大体においては、
こういう反応は、家族の中で起きるべきかもしれません。
一番大事で、心のよりどころになるのは家族ですから、
家族から追放されるということは
大きなストレスになるわけです。

子どものころ、親から本気で怒られて、
このうちの子どもではないということを言われたりしたら
絶望的な気持ちになりますよね。
(まああまりそこまで怒られた人はいないかもしれませんが。)

でも憲法は、国家が国民に対して守るべき宣言ですから
私的な群れの中のことについてはあまり言及しないのが通常です。

国家との関係で
群れから追放される危険を感じる場面というのがあるのでしょうか。
そもそも群れからつ方される危険を感じる時はどういう時でしょうか。

それは、自分が群れから尊重されていない
群れの仲間として認められていない
という時だと思います。

これは、直ちに尊重されないということだけではなく、
論理的に、これが認められなければ、
そのうち認められなくなる可能性が高い
という予期不安も含まれているわけです。

表現の自由で言えば、
お前は何も言うな、お前は黙ってろ
ということからの自由ということになります。

大きく言えば、
そういう意見を表明することによって
自分たちの社会を形成しているのですから、
そういう社会形成に参加することを
否定されるということです。

お前の意見は社会形成の参考にならん
黙ってろということになります。

こういうことがまかり通ると
一部の者(権力者)が、
黙らせられた人たちを迫害していくということが起こり、
身体生命の危険も危うくなります。

一部の少数派が、危険な作業(戦争とか)ばかりやらせられて、
一部の者は、そのギャンブルで金儲けしていくとかですね。
1000年も2000年もそういうことを
人類が繰り返してきたので、
いい加減、歯止めをかけるというのが
表現の自由ということになります。

そもそも、差別とか不平等は
群れからの追放の危険を感じさせる最たるものです。
人権として認められてきたことには理由があります。

職業選択の自由ですが、
封建時代は、そんなものなかったわけです。
農奴は農奴、王様は王様だったからです。
これは、資本主義が起こり、
職業選択の自由が認められないと
労働者を雇用できませんし、
資本家も、営業をやめろと言われてしまうと
安定した活動ができません。

これは経済の側面から説明することが本来正当でしょう。

ただ、封建制度が終わった現代社会において
自己実現のチャンス、
例えば、勉強をしたいとか、運転手になりたいとか
弁護士になりたいとか、専業主婦になりたいとか
そいうことを自分で決めることができる
ということに着目すると、

そういうことを自分で決められない
「お前は、走る遺伝子があるからスポーツ選手になれ」とか
「あなたは、おおざっぱな遺伝子があるから弁護士はだめ」
とか言われて、挑戦もさせられないとなると
自分が尊重されていない
という気持ちになりますね。

国が自分を押し殺すような気持ちになり、
国に対して、ストレスが高まっていくことになります。

職業選択の自由は、
人類の普遍的な権利ではないでしょう。
あくまでも、現代社会の中で認められる権利だと思います。

ところで選挙権ですが、
対人関係学的に言えば
それが認められなければ、
国家から国民として尊重されないという気持ちが高まり
ストレスが高じるものであるから
表現の自由と同じ側面を持つ
人権ということになります。

ところが選挙権は人権とは認めない学説も少なくありません。
人権というものを、人類普遍の原理とする場合は、
選挙権は、国家という概念を前提とする権利だから
国家成立以前は存在しない権利だ
だから人権ではないというのです。

くっだらない。

これは、人権の概念が曖昧で
とにかく、侵害を許さないためのシステムということで、
侵害を許さないのはどういう場合かということで
普遍的に大事にされてきたものは
やはり許してはいけないのではないか
という理論が前提となっていると思います。

それでは職業選択の自由も人権ではなく、
侵害を許さないと言えないということになってしまいます。
選挙権もしかりです。

しかし、人類普遍ということは良いとしても、
実際の人間は、それぞれの社会の中で
現実に生きているわけです。
普遍的な権利でなくとも
侵害を許さないことが必要なこともあるでしょう。

そもそも権利は、国家があって認められる概念です。

対人関係学は、
この点を説明しています。

人類普遍の真理とは、
人間が生きることを肯定するということ
生きるための妨害をしないということです。

人間がより幸せに生きるために国家があり、
その国家が、人間を不幸にするのは背理であり許されない
その通則が人権規定なのだということです。

そうして、人間を不幸にする
致命的なストレスを与えないということが
国家に求められていて
人間が国家から尊重されていないと感じ
致命的ストレスが発生するというものが
人権カタログということです。

どういうことが尊重されないと感じるかについては
時代によって異なることもあれば、
平等などのように普遍的なものもあるわけです。
但し、平等の中身も、
時代によって異なるでしょう。

また、時代の流れによって権利の内容も代わっていくのですが、
新しい権利が生まれる時は、
尊重されていないと感じる人たちが
尊重されていないという声を上げることが必須ということになります。

そして、人々が幸せになるためには
人権侵害が無いというだけでは
致命的な心理的ストレスが無いだけの話です。
それだけでは足りません。

積極的に尊重しあう仲間の在り方が必要になるということになるでしょう。

補足しますと、
人権は国家と個人の関係において、
個人が致命的ストレスを受けないための技術ですが、
これが個人間の致命的ストレスを受けないための技術が
道徳だろうと考えております。



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