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言葉の魔力、「DV」という言葉が思考を停止させる理由を考える [家事]


このようなブログを書いているからか、
月に一度か二度は、
妻が子どもを連れて別居して帰ってこない
という相談の電話が来ます。

とてつもなく大きな衝撃を受けていて、
本当はとても心配なので、
忙しくてもつい、時間が許す限り
話を聞いてしまいます。

多くは、
「自分は暴力をふるったことは一度もない」
ということですし、
中には、
「妻に対して暴言を吐いたこともない」
という人もいます。

それなのに、警察や弁護士から連絡があり、
自分がDV加害者だとされているというのです。

あるとても誠実な方がいて、
やはり妻子には、暴力も暴言もないと言い切って、
「もしかしたら他の人に対して感情的になり、
感情的な言葉を吐いたことがあるが、
それはDVとなるのか」
と尋ねられました。

私は、DVかどうかということは
行政や裁判という他人が気にすることであって、
夫婦という二人の関係では、
相手が嫌な思いをしたか
相手が怖い思いをしたか
そういうことがあれば
自分の行動を修正することが大切なのではないか
というお話をしました。

大変素直にご理解されました。
本当に家族を愛していて
何とかやり直したいというお気持ちを感じました。

DVかDVではないのか
そんなことばかりが注目されてしまう世の中に
なっているようです。


特に外野は、DVという言葉に過剰に反応しますし、
画一的に反応します。

一口にDVといっても、
本当に洗脳をしているかのような
暴力や脅迫が日常的に行われているものから

単に感情的なやり取りのことを指す場合もあり、
先ほど述べた相談者の例の様に、
例えば自動車を運転していて
急に割り込み運転されたときに毒づくことさえも
DVだと言われることもあります。

廃人同様になりかけているものから
快適ではないという程度のものまで
すべてが「DV」の一言で扱われているようです。

極めて曖昧な概念で使われています。
日本独特の言葉の使われ方のようです。

なぜ独特かというと
DVの行為を限定していないからです。
もっと厳密にいうと
DV加害とは何かということです。

この点例えば、
ランディ・バンクロフト(Lundy Bancroft)
ジェイ・G?シルバーマン(Jay・G・Silverman)の共著の
「DVにさらされる子どもたち
―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)
「配偶者加害」という言葉で研究対象を表しているのですが、
著者は、16頁で、
「DV加害者とは、
パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、
時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、
あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちの
ひとつ以上の行為を行う者のことである。」
と明確に定義を述べているのです。

17頁でも、
「威嚇的ではない、威圧のパターンを伴わない暴力は、
ここでは考慮しない。」とも述べています。

行政や裁判所という法律が他人の家庭に介入するのですから、
このような限定は必要ですし、
夫婦間暴力の本質を良く表していると思います。

さて、このような広範囲の行為を指すDVという言葉ですが、
これを聞いた第三者は思考を停止させます。

「DV」という言葉が出たとたん、
その夫婦について、加害者と被害者という
入れ替え不可のキャラクターが設定されます。

無条件で「被害者」を擁護し、
「被害者」の行動はすべて許され、
「加害者」に対する憎悪をあおりだします。

「被害者」の精神的不安定さも
人間関係のまずさも
貧困や時に「被害者」の不道徳な行為までも
その原因を「加害者」に求めるようになります。

「なんであなたがそこまで」というような憎悪を
「加害者」に対して無遠慮にぶつけてくるのです。

そしてそれをDV支援だと言ってはばかりません。

「被害者」に対する哀れみがあり、
自分では自分の運命を切り開けない
「要保護者」という意識が見え隠れしている場合も
少なくありません。

ある、小学校入学前後のお子さんがいるケースでは、
医師と教師が
父親に子どもを会わせることには絶対反対だ
という意見を出した例があります。

父親に会わせると子どもが精神的に不安定になる
というのです。
既に世界的にエビデンスが無いとして葬られている
エレナ・ウォーカーのDV神話を
教条的に引用した意見でした。

驚いていただきたいことは、
この医師も教師も
父親とは一切会っていないのです。
すべて、母親の言っていることを鵜呑みにして
子どもを実の父親から遠ざけようとしていたのでした。

妻は、裁判所では、
夫の暴力については一切主張しておらず、
精神的暴力についても具体的なことは
主張できていませんでした。

それにもかかわらず、
子どもを父親と会わせなくしようとしていたのです。

ちなみにこのケースでは、
この医師と教師の意見は無視されました。
感動的な面会交流が実現しました。

どうして医師や教師は、
一度も面会もしたことの無い父親に対して
これほどまでに敵対的な感情を
むき出しにしたような意見を述べたのでしょう。

最初は私も、医師や教師を許せないと思い、
何らかの責任を取ってもらおう
ということを考えましたが、
この人たちだけがこのような態度をとるわけではなく、
警察や自治体も同じようなことなので
何とか分析をしなくてはならないと思い
今しているわけです。

(警察は、だいぶ事実を見るようになってきています)

妻が、あることないこと夫の悪口を吹き込んだ
ということもないわけではないでしょう。
しかし、それでは、調停や裁判の話との乖離が大きすぎます。

考えなくてはならないことは、
DVという言葉が出たとたんに、思考停止になる
ということではないかと思うのです。

事実に反応しているのではなく、
言葉に反応しているのです。

そして、本当は、「快適ではないレベル」のDVなのに
「洗脳支配されているレベル」のDVであるかのように
考えてしまうのです。

それは、DVという言葉の曖昧さから来ます。
それにもかかわらず、
例えばランディバンクラフトのような研究者が対象としている
配偶者加害の被害者の被害
PTSD等が発症している被害をイメージしてしまうのです。

そうして、ここにはいない極端な被害を受けている被害者に対して
頭の中で共鳴、共感し、
素朴な正義感を発揮して、「加害者」を攻撃するのです。

自分が被害を受けていると主張している人たちの中には
精神的に不安定な人たちがいます。
様々な精神的不安定を招く要因があります。
内科疾患、婦人科疾患、ホルモンバランスの変化
元々の精神疾患等要因があります。

しかし、自分が習ったDV講習では
妻の不安の原因は全て夫にあるとされていますから
その「正解」を疑わないで当てはめるわけです。

元々、人間というものが
完全ではなく、共同生活の中で修正していく
ということを理解していないのだろうと思います。

だから、リアルな人間像、
過ちも、思いやりも、その時々のコンディションに左右されるという
当たり前の人間像を持つことができないようです。

最後の審判よろしく、
正と悪の境界を引こうとしているのです。
どうして自分のことを振り返ってみないのでしょう。
それだけで、その考えのばかばかしさと貧しさが理解できるでしょう。

このような二者択一的思考に着目すると
判断者は何らかの精神的圧迫を受けていることがわかります。
おそらく、極端なDVのケースをイメージしているのでしょう。
アメリカのDV加害の研究では、
極めて深刻なケースが多数報告されています。
妻子の人生そのものを破壊するようなケースや
命の危険にさらし続けるケースが報告されています。

「DV」という言葉がそのようなおぞましいケースを
イメージづけてしまうようです。
そうして、目の前の女性ではなく、
そのようなケース報告の中の被害者の心情に共鳴して
危機感を感じているのでしょう。

その自分の勝手な危機感ですが、
何とか解消しようとするのが生物です。
人間も同様で、解消するための
恐怖か怒りを持とうとするわけです。

しかし、自分が攻撃されることは想定されにくいので
逃げる必要はなく、
目の前にいない相手に対して
怒りという感情で危機感を解消しようとする
これは大変わかりやすい心の動きです。

怒りも恐怖も思考を二者択一化させることには変わりありません。

だから、事実関係を精査することもなく、
DVという言葉だけで怒りを向けることができるわけです。

中には、イメージが強すぎて
「関わりたくない」という
恐怖のモードになる人もいます。

しかし、DV講習会では
いざとなれば、警察がバックにつく
被害者を保護しなければならない
ということだけは徹底していますから
怒りのモードになる確率は多くなるでしょう。

但し、「自分の名前は絶対に明かすな」
という注文はつくわけです。

さて、このようなヒューリスティックともいうべき
思考の短縮によって、何が起こるのでしょうか。

まず、「被害者」である妻は
自分の生きづらさの原因に「DV」があるという
言語化をしてしまいます。

実際に「洗脳支配型DV」の場合は
なかなか言葉だけでは自分の置かれている状態を理解できませんが、
そこまで行かないケースは
「自分は悪くない、悪いのは夫だ
自分の生きづらさは夫が原因だ」
という福音を与えられます。

そうして「逃げなければならない」という呪文を与えられますから
怒りと恐怖の入り混じった感情を
より強く夫に抱くようになるわけです。

これまでのすべての出来事が
恐怖と失望、屈辱に塗り替えられるでしょう。

これは離婚が完成しても終わらなく妻を苦しめ続けます。
中には男性恐怖症が固定化する人たちも実際にいます。
逃げ続けているからこそ、
逃げる時の感情である恐怖を抱き続けるわけです。

事実はどうだったのか
自分の行動は修正するべきことはなかったのか
本当はもっとうまくやれたのではないか
という思考には決して向かいません。

むしろ、子どもを連れて別居された方が
このような発展的な思考になって、
苦しみが軽減されることも多くあります。

しかし、DVがあったかなかったか
ということにこだわり続けると
なかなか心の平穏を取り戻すことが難しく
自死に至るケースも多くあります。

一番の被害者は子どもです。

自分のルーツである親が
DV加害者であると烙印を押されるのです。
男性のちょっとした言動に対して
極端な拒否的感情が湧いてくるということもあるようです。

小学校のころまでは無邪気に父親を否定するわけですが、
自我が芽生え、母親から精神的に独立するころになって、
自分が悪の父親と正の母親の子どもであるという
とけない呪いに苦しむことになります。

事実をリアルに見て、
リアルに評価するということができなくなります。
リアルに見れば、人の弱さをリアルに見れば、
「賛成はできないけれど
そういうこともあり得るかな」
ということを感じ、咀嚼することができるはずです。

言葉は心を軽くすることも多いのですが、
固定化し、二者択一的な思考を強制し、
リアルなものの見方を阻害することも多くあるというお話でした。



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Toko

この記事に本当に救われました。ありがとうございます。
by Toko (2019-08-16 01:16) 

ドイホー

こちらこそコメントいただき、大変感謝しております。つたない文章ですが、これからも頑張ってまいります。
by ドイホー (2019-08-19 12:24) 

Toko

自分自身、先月出張から帰ると5年半同居したパートナーが置き手紙を残し、いなくなっているという経験をしました。置き手紙には、自分が言ってしまった言葉の数々で傷つき、それにより、信用できなくなったという旨が記載されておりました。そこから自分自身は鬱状態となり仕事を失い、約2ヶ月間他に誰も責めることのできない加害者である自分との内なる闘いが続いております。パートナーは、同居以前から不安症とHSPを持っており、それを支えきれなかっただけでなく、傷つけるという形になってしまったこと、何度思い返しても、自分が情けないのですが、逃げるという形で出て行ってしまった相手の中には、その辛かった記憶だけが増幅され残っている姿が容易に思い浮かび、悔やまれます。
言葉の暴力といわれた瞬間に、私の中で自分が加害者となり、相手が被害者になり、そしてパートナーが逃げるという行為で関係を終えた時、自分の中で全ての時間が止まりました。自分の思いをぶつける相手もなく、永遠の闘いが始まった感覚です。自分は一体何てことをしてしまったんだろうと思っても、面と向かって謝ること、相手の思いさえもう知ることはできません。
インターネットなどに答えを求めれば、加害者は100%の悪で、一生治らないし、孤独に追いやられて当たり前だなどと強い言葉が並び、自分が恐ろしくなる思いです。
そうした中、こちらのブログで、少し違った観点の記事をいくつか拝見し、本当に救われた気持ちだったのです。二者択一の考え方の恐ろしさ、そして、会話をもたせて解決することではなく、断絶を勧める世の中の悲しさ…本当に素晴らしいブログ記事をありがとうございます。長々と失礼致しました。

by Toko (2019-08-20 02:22) 

ドイホー

コメント読ませていただきました。大変勉強になりました。ここからは独り言です。書いているときは夢中になっているということもあり、言おうと思ったことを追求するような書き方をしています。こうやって、コメントをいただいて、改めてこれでよかったのだということを実感することができます。自分の身近にいる多くの人たちが、全とか悪で割り切られてしまうことに、どうしても納得行かないで、いろいろ勉強したり考えた結果を書かせていただいております。
by ドイホー (2019-08-20 16:35) 

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