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非難されている無罪の裁判官は実は正義漢 わかりやすいいじめのリアル構造 [事務所生活]

19歳の娘に同意なき性交を強要したとして
起訴された父親が無罪となり、
マスコミがこぞって無罪にした裁判官を非難しているようです。

SNSなんぞで裁判官批判をしている人たちもおおいようです。

一般の方々が疑問に思うのはもっともなのですが、
巨大マスコミも無条件で裁判官を批判し、
実名報道や直撃取材を面白おかしく行い、
識者としてそれに同調する人も出てきたということから、
この記事を書かざるを得ないと思いました。

先ず、無罪になったことについては、
致し方ないことです。
要するに子の父親を処罰する法律がなかった
ということです。

法律がなくても悪いから処罰しろ
というのが今のマスコミの論調になってしまいます。
しかし、特に刑事罰を科する時は
法律を厳格に考えなければなりません。

例えば、いわゆるDV法で保護命令という制度があります。
現在暴力を受けている配偶者が、
今後も身体生命に重大な危険を及ぼす暴力を受ける可能性がある場合は、
相手を自分に近づけさせない命令を出してもらう制度です。
この保護命令に反して近づいた場合は
6か月以下の懲役、100万円以下の罰金が課されます。

もし、悪いから罰せよということが裁判で通ったらどうなるでしょう。

典型的なケースとして、妻が会社の忘年会だからと自分の子が風邪をひいて寝込んでいるのに、夕方から出かけて行って、夫が会社を早退して子どもの看病をしていたのに、妻はなかなか帰ってこない。子どもの様子を知らせるラインを送っても返事もない。2時過ぎにようやく帰ってきて、玄関先でも誰かと電話をしている。夫は寝ないで看病していたので、怒り心頭に発して、玄関まで言って大声で怒鳴った。妻は、夫が邪魔で玄関に入れないので、夫を突き飛ばして中に入ったところ、酔っぱらってもいたのでよろけて床に膝をぶつけて、痣ができた。翌日夫が家に帰ってきたら妻は風邪の治りかけの子どもと一緒に身の回りのものをもって家を出て行って後だった。何日かして裁判所から、妻が保護命令を申し立てたと連絡が来た。それによると、妻は12月の寒空の中、夫から家から引きずり出されて、突き飛ばされて膝を打った。証拠の痣の写真と打撲の診断書がある。凍死の危険もあった。

これで、暴力を受けていて、命の重大な危険があるとして
保護命令が出され、
自宅近くを散歩することも禁止する。
そういうことが頻繁に起きることが許される事態に
なってしまいます。

色々論点がありますが、非道の父親の例では、
抗拒不能の要件が無いとという判決理由でした。
抗拒不能にした非道の父親の行為がなければならないと解することは
現在の法理論ではノーマルな法解釈なので、
無罪判決はありうる判断です。

ただ、この裁判官の真意はわかりませんが、
もしかしたら、法律がこの非道の父親を裁けないことに
憤りを感じてたと解釈できるのです。

では、ここからが本題です。

裁判官を批判する人たちは
どうして非道の父親の言語道断の行為を知っているのでしょう。
それは無罪判決に書いてあるからだと思います。
ここがポイントです。

無罪判決ならば、通常は、
抗拒不能だと認定したことを書けばよいのです。
ところが、
この判決では、父親の非道な行いが
赤裸々に詳細に記載されています。
確かに関連事実なので書いてはダメだというわけではないでしょうが、
書かなくてもよいことをあえて書いていた
というようにも感じられます。

刑事判決は公開の法廷で読み上げられますので
国民が判決の内容を知りうることになります。
裁判官の真意として考えられることの一つは、
この事件は無罪にするけれど
この男はここまでひどい男なのだということを
敢えて公にしようとした
と想像することができるのです。

実は、裁判官の怒りが感じられることなのです。

もう一つ、こんなに人倫に反する行為なのに
日本の法律ではこれを裁くことができない
ということを全国にアピールしたかったということも
考えられます。

裁判官を批判する人たちも
裁判官の書いた判決によって事態を把握したわけです。
裁判官の意図が私の言うようなものならば
裁判官の意図はある程度実現されたのではないでしょうか。

この非難されている裁判官は、
正義を実現しようとしていた可能性が高いと
私は思います。
裁判官として無罪判決を書き
人間として男を糾弾したのです。

一部では、性犯罪に甘い司法だという批判の一群の事件の中に
この判決を位置づける人たちもいますが、
明確に暴行や脅迫、地位を利用して薬物を飲ませて乱暴した
明確な行為者が不起訴になる事案とは全く異なるのです。

ここで、すべてを一緒くたにするマスコミや
マスコミに乗じてわれわれの正義感をあおるSNSが
何かを目的にわれわれの正義感を利用しているのではないかと
警戒することの必要性をわれわれに教えていると
思わなければなりません。

少なくとも裁判官を批判しているうちは
正当にこの人を裁く法律を作るか作らないか
という議論を妨げてしまうということはあるでしょう。

もう一つは、
法律を緩めて裁判所が
国民感情に依拠して
裁判所が自分勝手に国民を刑務所に送る道を開くことに
手を貸してしまうことにつながりかねないということです。

私たちの正義感が悪用されようとしている
ということに注意が必要だと思うのです。

そして、これは、いじめの構造そのものなのです。

誰かが、とてもかわいそうだという事情があります。
今回のケースでは娘さんです。
人間は、弱い者を守ろうとする本能があるとします。
また、その人の苦痛をそれぞれの人がそれぞれの人なりに
共感し、自分の苦痛として追体験をしています。

そうすると、娘を守ろうとする強い感情が起こります。
この強い感情は、一種の危機感です。
自分が安全な場所にいる場合は、
この危機感を解消しようとする行動は
怒りによる攻撃です。

本来怒りの先は、非道な父親か
非道な父親を裁く法律を作ってい無い国家に向けられるべきでしょう。

しかし、非道な父親は名前も分かりませんし、
無罪とされてしまった。
国家に問題があるとは気がついていない。
そうすると勢い、名前をさらされた裁判官に怒りが向かう。

こういう仕組みなのです。

本当は勇気をもって国民に対して告発した人に対して
ちょうどよい怒りの的になってしまい、
それをあおるマスコミやオピニオンリーダーがいるために
簡単に国民の正義感は
裁判官に対して怒りとなってしまうのです。

怒りはこのように、
本来向かうべきでない相手に向かわされるということが
よくあります。
戦争はこれを利用しなければ起こすことはできません。

憲法9条を守れとかいうならば信じられるとか
そういう単純な発想では理不尽な戦争が近づくばかりです。

この裁判官に対するいじめは誰がしているのでしょう。
この裁判官を叩いているマスコミやSNSをみた
法律関係者が沈黙を守ることもいじめだ
ということを言いたいのです。

法律関係者ならば誰しも
私が考えたことを考えているはずです。
そういう刑法解釈の訓練を受けているからです。

それでも沈黙を守っている。
敢えて裁判官をかばうことで
自分に攻撃を向けられることを嫌がっているのではないでしょうか。
それはよくわかります。

しかし、これほどの怒りの大合唱が
特定の一人に向かうことは
しかも理不尽に向かうことは
まぎれもないいじめですから、
誤解を解くべき人たちは誤解を解かなければならないと思います。

そうでなければいじめを見ている子どもたちと一緒だと思います。

発言を躊躇している自分の姿は
いじめを完成させる子どもたちの姿なのです。

私はいじめを無くしたいと考えているので、
自分にできることをしてみました。


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仙台のH

いつも先生のブログを読んで勇気を貰っている者です。

先生の別の角度からの鋭い視点。全くその通りだと思いました。

今後も先生のブログを読みながら仕事に面会交流に頑張っていきたいと思います。いつもありがとうございます。
by 仙台のH (2019-04-21 10:30) 

ドイホー

仙台のH様 感激です。本当にうれしいです。私も、もっと頑張って世の中に伝えていきたいと思いました。
by ドイホー (2019-04-24 17:06) 

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