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家族を壊してまで同情を感じたいメカニズムに学ぶ、黄金律が夫婦を壊すことと女性という類型で考えることが補助線として有効なこと [進化心理学、生理学、対人関係学]

私はそのことを知っていた。
しかし、正しくその意味を評価できなかった。



前々回、前回と、「つらいね。苦しいね。大変だね。」と言われたいために
子どもを病気に仕立て上げたり、
ありもしないことや著しい誇張で夫をDV夫に仕立て上げたりする
という現象を見てきました。

確かに、私が念頭に置いてお話しした実際の女性は
メンタルに問題がある女性でした。
・複数の病院に内緒で精神科を掛け持ちした女性
・うつ病で長期入院の経験のある女性
・家の自室に引きこもって長期間外出できなかった女性
・亡くなった祖父のお告げ台所に布団を持ち込んで生活していた女性
・内科疾患、婦人科疾患のため精神症状が出ている女性
実際に精神科に入通院していたり、社会生活ができなくなった女性たちでした。

しかし、このようなメンタル問題は異常と正常の区別はなかなか難しく、
女性の場合、出産によって一時的に精神が不安定になったり、
女性に多い、あるいは特有の疾患が原因で精神が不安定になったり
することがあるようです。

今回、極端というべきかもしれない事例を検討することは
実は、多かれ少なかれ、夫婦問題として、程度の違いはあれ
どこにでもある、ありうる問題だと考えています。

子どもを病気に仕立て上げる代理ミュンヒハウゼン症候群は、
単に、同情を集めたいという側面だけではなく
母親としての役割を果たしている実感を持ちたいという
自己効力感要求という側面もあるような気がするので
本当は複雑であると思っていますが、
他者から同情されたいという側面も確実にあると思いますので、
併せて考えてみたいと思います。
DV仕立て上げも同様に複雑な側面がありそうですが、
他者から同情されたいという側面に絞って考えます。

通常は一過性の傾向として
出産直後の女性は、夫の果たす役割を正当に評価できなくなります。
傍目では、新米父が、睡眠時間も削って
育児や家事に奮闘しているにもかかわらず、
新米母は、満足することはなく、
「自分は、家事育児はほぼワンぺだ。」と感じているということを
よく聞きます。

産後うつが脳活動の変化だということは決着済みだと思うのですが、
その解消方法として、夫の家事、育児の拡大だという人が多いのですが、
どんなに夫が頑張っても、妻は評価できないのですから
特効薬にはならないと思います。

そうして夫が睡眠時間を削って頑張り、
妻から低評価の言葉を浴びせられても負けないで頑張っているのに、
唖然とすることに、
妻が、子どもを連れて行った先の保健師さんとか、保育士さんといった
年配の女性から
「あなたのお子さんは大変手がかかるね。頑張っているね。」
と言われただけで
涙を流して、「初めて自分の努力が評価された。」
等と夫に平然と言うのです。
別に夫を攻撃する意図はないのですが、
これだけ頑張って妻の負担を軽減しようとしている自分は全く評価されないのに、
口先だけの言葉をかけた方が上なのか
と理不尽を感じた男性は少なくないようです。

私は、この現象を知っていました。
しかし、見過ごしていたのです。
単に理不尽に共感していただけで、
どうしてこのような理不尽が起きるかということを考えませんでした。

これは大きなヒントになったはずです。

つまり、産後直後(2年くらいは)の母親にとって
家事育児を夫が分担することは
体力的にとても負担が軽減されることですが、
現代の母親は、そこに喜びとか感謝の感情
肯定的評価というものが起こりにくいようです。

やらなければ否定評価されますが(まあ、それはそうでしょう。)
やったからといって肯定評価されないわけです。

しかし、「大変だね、辛いね。頑張っているね。」
という言葉を掛けられることは
とても心の支えになる、報われた気持ちになる
というかなりの肯定的な感情が沸き上がるようです。

つまり「言葉」が大切ということだったようです。

もっとも、夫がこのような言葉をかけることは難しいと思います。
「大変だね。辛いね。頑張っているね。」と夫が言えば
「何を他人事のように言っているのだ。お前がもっと頑張れよ。」
と妻に言われることは目に見えています。

家族と社会の役割分担だと割り切ることが王道だと思います。
ただ、共感の言葉を夫が言わな過ぎれば、妻は他者に共感を求めてゆき、
その「他者」が夫が悪いというようになれば、
その気になって家庭が崩壊する場合があるので注意は必要です。
一緒に頑張っている。私たちが頑張っている。
というチームとしての発言という意味合いを強くすることである程度解決されると思います。

理不尽を感じてないで
「そうやって言ってもらってよかったね」と
共感の言葉を放り投げると幸せが長続きするというわけです。

ここで真面目な夫の意識はとても分かりやすい。
黄金律にもとづいて行動しているわけです。
即ち
「あなたのしてほしいことを、相手にもしてあげなさい。」
というものです。

あなたは、自分が産後直後の妻だったらということで思いやって、
体力的な、精神的な負担をできる限り軽減してあげたいとして
明日も普通に仕事に行かなければならないのに
昼間妻が一人で子どもの面倒を見ていたので夜は眠らせたいということで
子どもの夜泣きにも一人で対応しようと頑張るわけです。

まあ、最近はどちらかと言えば、実際は
子どもの面倒は両親が行うことが当たり前だという意識で、
母性神話を葬ろうというモチベーションや
純粋に子どもの面倒を見ることがうれしいという
やや年齢が高い新米パパなんていうのも多いわけですが。

ところが、見返りや、感謝の言葉が欲しくてやっているわけではないのですが、
妻からの感謝の言葉も、肯定評価もなく
声掛けをしただけの年配女性の言葉に感謝されると
快い気持ちはしないですよね。

でもこれが間違いの出発点だったのでしょう。

女性の切実なリクエストは
別のところにあったのです。
これに男性はなかなか気が付きません。

それがなんと、
ねぎらいの言葉をかける
というそれだけのことだったのです。

そしてこれこそが、それだけのことなのに
男性が苦手とする行為なのだと思います。

女性同士や、
いわゆる色男は女性に対して
これを当たり前にやっています。

ところがわれらが夫群は、
口先だけのねぎらいの言葉よりも
黙って家事分担することを美徳としてしまっています。

夫群は、どうして自分は肯定されないだろうと思い。
妻群は、どうして夫は優しい言葉をかけてくれないだろうと思うわけです。

自分が良かれと思ったことだけやっていると
(相手がやって欲しいことをやらないで)
相手を知らず知らずのうちに傷つけて
不信感が高まっていっている
そういう現象が実際のご家庭で起きていて
多くのご家庭で知らないうちに危険信号がともっているのかもしれません。

どの程度、優しい言葉、ねぎらいの言葉、同情の言葉が欲しいかというと
その言葉を受けない状態が続いてしまうと
病気でもない自分の子どもを病気と仕立て上げて
必要もない治療を受けさせ、ある時は殺してしまい、

ありもしない夫のDVに苦しんでいると相談に行き
だんだん本当にあったと思い込んでしまい
子どもを連れて出ていき、離婚調停を申し立てるほどということです。

(もっとも何らかの理由で、不安を常時抱いている場合が多いですが)

それほど優しい言葉、ねぎらいの言葉、同情の言葉が欲しいのです。
女性が他人と生きていくためには必要だというべきかもしれません。

大きな声では言えませんが、
私は、女性と男性は、発想や価値観が
自然体でいた場合はずいぶん異なると思いますし、
この違いが人類を種として存続させてきたと思っています。

ところが、現代では
女性と男性は同じであり、
肉体的違い以外は、文化的、社会的に作られた違いであり
不当な差別だなんていう主張が影響力を持っています。

私は、進化学的に男女は役割分担をしてきたと考えています。

男女の歴史的、生物的な役割の違いに由来する違いに
優劣を持ち込むことこそが差別であり
やってはいけないことだと考えていて
ずいぶん考え方は違うようです。

でも、自分の妻に対して、
女性なのだから、もしかしてこうかもしれない
という発想は、絶対に必要なことだと思っているのです。

この発想がなく、男も女も変わらないと思って、
男は黙って結果を出すということを貫いてしまうと、
女性は日々落胆の体験を重ねているかもしれないのです。
男性以上に、それは不安を巻き起こしているかもしれません。

そうして男性はなぜ女性は自分から離れていくのだろう
そういう不思議な気持ちになっていって
理不尽を感じる出来事が増えていくのかもしれません。

自分と妻は違う。
こんな当たり前のことなのですが
一緒にいるうちにそれがわからなくなってしまう。

つい自分がやってほしいことは妻もやってほしいだろうと
よく考えないでやってしまうということもあるでしょう。
自分が良かれと思っていることが妻も良いと思っているはずだ
と自然に思い込んでいつかもしれません。

自分がやってほしいことをやれば間違ったことをしていない
という錯覚もよく見られます。

自分はやられてもそれほど気にしないことも
相手はずいぶん気にしてしまうということも
離婚調停などになって初めて分かることもあります。

基本は相手の様子を見て行動を修正するということですが、
まさかそれが嫌だったなんてわからなかった
ということはよくあります。
良かれと思ってやっていたという気持ちもよくわかります。

どうすればよいかということですが、
人はみな違うということでは
なかなか妻と自分が違うということに思い当たることは難しく
妻が嫌がっているのではないかという発想を持つことが
実は難しくなってしまうようです。

現代型の男女平等論者からはおしかりを受けるかもしれませんが、
男性と女性は違うということならば
発想として持ち続けることは少し簡単になるように思うのです。

そして必ず忘れない方が良いと思われることは、

女性は、優しい言葉、ねぎらいの言葉、同情の言葉
が一緒に生きる上で必要としている

という思考の補助線を頭に引くことが

早く家に帰りたいと思える毎日を作ることだと思っています。


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