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「子ども家庭庁」の名称に賛成する。安心して帰ることができる家庭を意識的に育んでいく政策を進めてほしい。子どもから家庭を奪わないでほしいと願う意味 [家事]



政府は、子ども家庭庁という機関を創設するそうです。とても素晴らしい政策になる可能性があると期待をしています。
子ども一人一人が健全な成長を遂げることは、国民一人一人の幸せに直結すると思われます。

名称については、インターネット上で議論があるところですが、私は「家庭」という文字をつけることに賛成です。
ここでいう「家庭」のあるべき姿としては、「その中にいることで、安心できる人間関係」、「どんなことがあっても、自分が見捨てられることがないと信じ切ることができる人間関係」ということになると思います。また、その意味で、ここでいう家庭とは必ずしも親子という限定的な意味ではないと考えています。

子どもという概念と家族という概念は、政策立案及び執行にあたっては、切り離すべきではないと考えています。子どもは単体で生きているわけではないからです。子どもであっても、「自分」を意識する場合、家族や、年齢によっては友人や学校の先生などの、「他者との人間関係の中にいる自分」ということを意識し、自分という概念を形作っていくわけです。
特に子どもという時期の人間にとって、家族はとても影響力が強いわけです。だから、家族の在り方が子どもにとってふさわしい在り方にすることが、その時の子どもの幸せに直結するし、成長するという子どもの特性を踏まえても必要なことであるということは間違いないと思います。

例えば、両親が離婚したり別居したりした子どもは、一緒に住んでいない方の親とも交流を持ちたいと思い、交流が持てないことに不満を持つという調査結果があります。一緒に住んでいない親と定期的に交流していない子どもは、そうでない子どもと比べて自己評価が低いという統計もあります。このために日本も民法を改正し、離婚をする際には面会交流の方法を親に決めさせることを原則としています。

この点、「子どもの独自の権利を認めるべきだから、家庭と切り離して子どもの在り方を考えるべきだ。」という立場から、家庭という文字を庁名に入れるべきではないという反対説の論拠があります。しかし、家庭という名前を入れたからと言って、子どもの独自の権利を否定するということにはなりません。心理学的にあるいは発達科学的に、子ども、子どもの成長と家族の関りを関連付けることは必要な考えだと思います。
子どもの独自の権利を考えるからこそ、親や社会に対して、子どものために家族の在り方を見直していこうという問題提起ができるのだと思います。

また、インターネット上で話題になっていることとして、家族から虐待を受けた経験がある方が、家庭という文字に心理的な抵抗があるということで、家庭という文字を削ることを提案し、一度は政権党のチームもこれを受け入れて子ども庁という名称にする動きがあったとのことです。
拝聴し、考慮し、検討の材料とするべき話ではありますが、およそ国の政策決定の際に決め手にするべき要因にはならないと思います。国家政策ですから、原則的に推進していく課題と、そこに不可避的に生じる個別の不具合への対応ということは当然あるわけです。政策決定にあたって必要なことは、現状の日本の状態がどのようなものであるかという分析と、それに基づいて何をどのように修正するかという政策方針の決定という科学ではないでしょうか。個人の体験に基づいて政策の原則論が左右されるということはあってはなりません。寄り添いとか優しさとかそういった感情は大切な感情です。しかし、政策を立案する場合は、感情を大切にしつつも、国家情勢という視点から政策を進める必要がどうしてもあると私は思います。

私は、現代の日本の社会病理は、人間が、自分が安心して帰属できる人間関係が存在しないという対人関係の現状が大きく影響としていると考えています。学校でもいじめを受けないように親も心配し、子どもも気を使い、仕事を始めてもいつまでこの職場で働くことができるか不透明な非正規雇用があり、正規雇用労働者であっても、偶然に左右され、上司の主観に左右される業績評価によって、自分が不当に低い評価を受けたり、解雇におびえたりしているわけです。家庭においても、子どもに良かれと思いながらも、厳しい就職状況を背景にして、高い学歴を身につけるという方法論によって、子どもに高いハードルを押し付けているような状況もあるのではないでしょうか。子どもに限らず、人間の多くが、自分のよって立つ場所、自分のありのままに過ごしてよい場所が無い、四六時中緊張していなければならないという有様ではないでしょうか。多くの人間に、自分がいつか、この仲間から切り捨てられるのではないか、自分の能力が高いことを見せつけなくてはならないのではないか、仲間が自分よりも優秀であることに不安を感じてしまう、そういう焦りや不安が蔓延しているというのが今の日本だと思います。私は、この不安や焦りが社会病理の温床だと思っています。

人間が、安心して過ごす場所を求めているというのが現代社会だと思います。安心して過ごすことができる場所の第一の候補は、消去法で言えば、やはり家庭なのだと思います。

こういう考えに対しては、「家庭にはいろいろな形がある。虐待をする家庭もあることだから、家庭を改善することは効果が期待できない。」という反論が考えられます。すべての家庭で子どもにとって居心地が良い家庭にすることは確かに難しいでしょう。
しかし、だからといって、「子どもが安心して生活する家庭を育てる」という政策が重要であることを否定することはできないと思います。
そのことについて説明をします。

たとえば、児童虐待という言葉を一つとっても、私は、国民が「虐待」という言葉によって、少なくとも二つの誤解をしていると感じています。あたかも、「虐待」と「しつけ」には、完全な仕切りがあるという誤解が一つです。もう一つの誤解は、子どもを虐待する人は、特別な思考をする人、特別の性格、人格を持っている人であり、自分とは別の種類の人間であるという誤解です。いくつかの児童虐待事件に接して思うのですが、例えば児童相談所に、児童虐待があって子どもを引き離される人の例を見ると、そうではないという思いが強くなります。
例えば、危険なので子どもが近づいてはいけない沼があり、母親からそこにはゆくなと再三言われているような場合に、友達と遊んでいる流れで沼の近くで遊んでいて、ついつい時間を忘れて遊んでいて遊んでいたとします。母親は、感情的ではなく、二度と沼に近づいてほしくないために、子どもに手を出させて手を叩くということをしたとします。体罰だから虐待だとする人もいれば、その程度の痛みは母親の心配を伝えて、命を守るためには許されると考える人もいると思います。私は、子どもの年齢や性格、母親の育児補助がいない等の事情があれば、子どもの命を守るためには、子どもが危険に近づかないために許される懲戒だと考えます。懲戒の後のフォローは考えなくてはなりません。
例えば。何かの罰として子どもに食事を与えないことは虐待であると思いますが、例えば約束を守るということの大切さを教えるために、約束を果たしてから食事をするということは、その約束を果たすことの難易度や所要時間に照らした場合は、認められることもありうると思っています。もちろん、その場合は、兄弟には食事をさせて、せめて親の一人は一緒に食事を遅らせる等の対応は必要だと思います。
例えば、子どもが不道徳な遊びをしているときに、こんなことをやっていたらダメな人間になってしまうとか、夜遅くまで寝ないと成長に影響が出てしまうということを親が子どもに言う場合でも、子どもがひどく恐怖を感じてしまう場合もあるわけです。言い方によっては精神的虐待になるかもしれませんが、子どもにとって必要な説教だという場合もあるわけです。

とかく児童虐待事件というと、極端なケースばかりが報道されます。しかし、児童相談所が介入する場合は、そのようなわかりやすいケースばかりではありません。私から見ると、虐待としつけ、体罰としつけというものは、それほど完全に区別のつくものではなく、連続しているのではないかと考えています。そして、例えば親が会社で理不尽な叱責を受けていたとか、子どもが友人と喧嘩したとか、色々なタイミングが影響して、子どものこころに影響が残る場合とポジティブに受け止めることができる場合と、偶然に左右されることがあると感じています。
つまり、私も虐待をしてしまうこともあれば、あなたも虐待をしてしまうタイミングがあるかもしれないということなのです。虐待というのは他人事では決してありません。完ぺきという御家庭がないのであれば、みんなで家族という人間関係を安心できるものに育てていくという国家政策が必要だと思うのです。

子どものこころや成長にとって必要なことは、虐待をしないことというよりも、なんやかんやあっても、安心できる家庭があることということになるはずです。絶対自分は家族からは見捨てられることはないという確信を持つことだと考えています。これさえあれば多少の親子関係のぎくしゃくがあっても、子どもは自尊感情を低下させることはないでしょう。また、学校や職場で理不尽な思いをして傷ついても、「自分には帰るべき家庭がある。」ということで精神的ダメージを軽減することができるはずだというのが私の考えです。

それから、親の虐待については、知識不足ということが大きく影響としているように感じます。偏った知識、ある状況には対応できる優れた対応方法でも、その人の家庭で行ってしまったら子どもの不安を招くだけだというような対応をした形の虐待も多く見受けられます。それから、親のその時の社会的立場だったり、職場での人間関係だったり、あるいは内科、外科、精神科的な健康状態ということも大きく影響をしていると感じています。
だから、親の健康状態を悪化させないこと、対処方法の選択肢を増やすこと、精神的安定なども、子どもの幸せに直結することになると思っています。何よりも親の育児を様々な側面から支援することも、子どもの幸せにダイレクトにつながっていくことだと思います。

日本の家庭の多くは、「伸びしろ」が期待できる。こういう状態だと思います。

もう1つ、無視してはならない問題があります。親と同居していない子どもが存在するという現実です。原則的政策を進めるにあたっては、必ず少数者が生まれるわけで、その少数を無視してよいということにはなりません。
しかし、子どもにとって家庭が大切であるという理解は、親と同居していない子どもにとっても有益になるはずです。子どもにとって何が大切か、家庭とは何かという問いに対して、「安心して暮らせる人間関係、絶対に見捨てられないと信頼しきることができる人間関係」であると考えることが必要です。そういう風に考えられるのであれば、親と一緒に暮らしていなくても、親ではなくとも、固定の人間関係の中で安心できる状態で生活できることを目指すべきだということになります。ヨーロッパでは、このような考え方が第2次世界大戦後には主流の考え方になっています。養護施設や病院などで、世話をする担当者がくるくる変わってしまう状態では子どもの精神状態が安定しないとして、抜本的な改善が進められました。日本でも、さまざまな困難なポイントがありながらも、もっと改善を進める契機になると思われます。
さらには、壊れない家庭を作るという選択肢を提起するということにもつながると思います。様々な国家政策の中で、これまで家族というものが軽視されて続けてきました。家族に問題があれば解体するという発想が優位になっていたような印象すらあります。子どもにとって家庭が大切であるならば、それにふさわしい家庭を作る方向で政策を進めることが期待されます。親に対しても、子どものために努力をしたり、我慢をすると言う選択肢を臆することなく提起するべきです。親だけでなく、社会全体が子どもから家庭を奪わないということを第一次的な目標にしてほしいと切実に感じています。

子どもから家庭を奪う最大の問題は過労死等の親の死です。私も過労死啓発シンポジウムなどで強調しているところですが、過労死を筆頭として、働き方が家庭に大きな影響を与えています。子ども家庭庁の事例や調査の蓄積をもって、親の働き方の問題について、他の省庁や社会に対して問題提起をすると言うことも素晴らしいと思います。学校や地域、受験制度等についても、子どもの利益という価値観から意見を述べてほしいと願っています。これまでこういう発想、立場の機関はなかったと思います。子どもの利益を図る横断的な国家機関ということは、こういうことをまさに求められているということになると思います。

子ども家庭庁という名称に、以上のことから私は大賛成です。色々な意味で、子どもから家庭を奪わないでほしいと思います。子どもの利益を基軸に、様々な国家政策が展開されていけば、日本という国はだいぶ住みやすい国になっていくと思います。

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