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笑う門には福来る は真実であること 和解の際の依頼者への説得の最終兵器 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



笑う門には福来るということわざがあります。わらうかどにはふくきたる。

赤い鳥の童話集にも同名(だったと思うのですが、記憶が曖昧です)の小説があり、赤い鳥の中でも一番かな、私の好きな作品です。

このことわざの意味ですが、一般的には、「家族がいがみ合って生活すると暗く不幸になる。努めて明るく振舞っていればおのずと幸せになる。」という教訓というか道徳というかそういうことになっていると思います。

先ず、「門」というのは、家族の住む家のことでしょうが、家族そのものでよいと思います。
次に、「笑う」ですが、これは文字通り笑うのではなく、朗らかに、明るく、前向きな気持ちでというような意味に解釈されています。
しかし、実は昨今の認知心理学の知見としては、文字通り笑うことでよいのだろうということになってきました。場合によっては心から笑う必要がなく、無理にでも笑顔を作るということでもよいのだということになりそうなのです。

どういうことかを説明します。これは聞いておいて損は無いと思いますよ。

先ず、人間は、嫌な感情、良い感情を問わず、感情が顔に出る生き物ですね。私たちは、自然に、悲しいから下を向くし、怖いから目を見開くし、安心するか微笑むというように、まず感情があって、その効果として表情が生まれると思うわけです。それはそれで正しいのです。表情と感情がこのように長年結びついて生きてきているわけです。

ところが、表情が固定してしまうことによって感情も続いてしまうということがあるそうなのです。あるいは、何かの拍子にうつむいて歩いていると、うつむくことと結びつく悲しい感情が自然と生まれてしまうこともあるそうなのです。逆もまた真なりというやつでしょうか。

もう少しリアルな例を考えてみますと、人間はふいに漠然とした不安感や焦燥感に襲われることがあります。特に理由がなくそういう感情になるという方が良いでしょうか。その場合、何かわからないけれど不安だということで不安な表情をしてしまうと、本当に不安になってしまい、何か不安の種を探してしまうようです。ポピュラーなことは、このままどんどん貧乏になっていくのではないかという不安です。あるいは、誰かとの人間関係がうまくいかなくなるのではないか。とかですね。確かにこれらの財政や人間関係は、いつどうなるかわかりません。それを不安だと思えば、いくらでも不安になってしまいます。でも人間はあまり悪い方に考えないで、なんとなくその日を暮らしているわけです。

例えばということでいえば、会社で上司から理不尽な叱責を受けた。自分が悪いわけではないのに責められた、なんてことがあるとずうっともやもやした気持ちになりますし、家に帰っても何となく過敏になって、家族の些細な言動によって立腹して八つ当たりなどをするということに、覚えのない方はいらっしゃらないのではないでしょうか。

福来るの反対の現象が家族の中で起きてしまいます。

理由のない不安やよそでの理不尽な思いを家庭に持ち込まなければ、つまり気持ちを切り替えれば、あなたを原因としては家族は嫌な思いをしません。あるいはかなり嫌な思いが減ることでしょう。

だけど、どうやって気持ちを切り替えるのか。これがなかなか難しいことだと思います。また、自分では自覚をしていないのに、家の外で不安を感じたり、悔しい気持ちを感じていたりしているとするとますます、気持ちの切り替えができていないことがありそうです。どうしたらよいでしょうか。

この難問を案外あっさり解決するのが、笑う門には福来るというやつらしいのです。

家に帰ったらニコニコする。「ああ自分は変えるべき家があることだよなあ」とニコニコの感情を無理やり作る必要はなく、口角を上げて頬の筋肉も挙げて瞼を下げ気味にすればよいのです。門をくぐるというか玄関の前で、必ずこのエクササイズを行うことを習慣にすればよいのではないでしょうか。やることはメンタルなことではなく、顔の筋肉を動かすことです。

この表情を維持しようと心がけると、些細なことはどうでもよくなります。また、些細なことに感謝をしたくなるようです。自分の感情も変わってしまうようです。人間というのは愛すべき生き物だという気がするのは私だけでしょうか。

そして、家族からしても、最初はにこにこしていて気持ち悪がられるかもしれませんが、こちらはにこにこしているから気持ち悪がられても平気です。そうすると、家族は、改めてあなたが家族に対して敵対的な気持ちがないということを実感するのだそうです。警戒して逆切れすることもなく、過敏になって悪くとらえるということもなくなれば穏やかな人間関係となります。家族も、こちらの飲みすぎなどもある程度これまで以上に寛容になってもらえるかもしれません。

そうやって自分も含めて家族全体が、家に帰ると安心できるという感情になることが、人間にとって「福」の意味なのだと思います。

先ず笑えということこそが真理なのです。

さらにそれが門、つまり家族の中で笑えということがどうしようもなく真理なのだと思います。一人で笑っていても顔の筋肉が付かれるだけです。

ここで言う家族とは、法律的な意味合いの家族ということではなく、おそらく人間関係全般において当てはまるのではないかとにらんでいます。

差しさわりのない範囲で行う必要はあると思います。法事の時ににこにこしているわけにはいきませんよね。

そういえば、例えば弁護士として依頼者と打ち合わせをしていて、和解案を承諾するかどうかなんて話をしていて、「いくら裁判所の書類で支払いが約束されても実際に払われなければ意味がありませんよ。」と言っても、当事者としてはそんな低い金額はあまりにも不合理ではないかと思うわけです。あまり真剣に弁護士が説得すると、そもそも和解という中途半端な解決には不満足な感情が必ず伴うものですが、その不満足の心持を弁護士に向けられてしまいますし、本人も納得できないまま法的手続きを終わらなければなりません。

最近、こういう場面でも意図的ににこにこしています。マスクをしているので、それほどあらわにならず目だけが笑っていてもわかられません。そうすると、弁護士側の感情も変わってくるのです。「そりゃあそうだよね。こんな不合理な目に遭って、これだけしか埋め合わせが無ければそれは不満だよね。」と先ず自然に共感することができます。この「そりゃあそうだよね」と言う一言をはさむことによって、依頼者も安心して合理的な(致命的な損をしない)解決をよりスムーズに選択されるようです。

大切なことは真実を力説することではなく、焦って結論を強引に持って行こうとする自分を自覚することだったんです。そのためには、冷静なメタ認知を可能としなければならないわけで、その方法が笑う門には福来る戦法だったということです。

もう少し早く気が付けばよかったなあと思っているわけです。

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