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なぜ女性への攻撃だけを大手新聞が問題にするのか。そのデメリットと真意についての考察 毎日新聞の署名記事に対する違和感 SNSのルールに関する議論こそ必要ではないのか [弁護士会 民主主義 人権]

2023年1月16日 記者の署名記事が毎日新聞に掲載されました。
「SNSでジェンダー問題発信 声上げる女性へやまぬ攻撃 ゆがむ日本」
という表題です。
尾辻かな子氏や吉野家専務発言の告発者の例を挙げて、「ジェンダーに関して女性が声を上げる時、過剰なバッシングを受ける事例も相次いでいる。」とまとめています。

SNSやそのまとめを見ている人にはすぐに違和感に気が付く記事です。しかし、多くの中高年以上の国民はSNSを使っている人は必ずしも多くはないでしょう。だから毎日新聞が書いているのだから正確な情報だろうと勘違いすると思います。

この記事が正確な情報か否か簡単に検証してみましょう。
先ず、この記事が何に対して憤っているのかを考えてみます。なぜなら二通りの解釈が可能だからです。

先ず、「誰かがSNSの投稿をして、それに対して脅迫罪や名誉棄損罪になるような違法な攻撃をすること」に対して憤っていると読んでみましょう。この主張はもっともな主張です。そうであるとしても、どうして女性に攻撃するときだけを女性以外を自認している人に対する攻撃と区別して憤らなければならないのかがわかりません。記事にもその理由は書いてありません。犯罪に該当するような攻撃は男性に対しても女性に対してもいさめるべきだと私は思います。

次に「女性がジェンダーに関して発信する時には、過激な攻撃が多い」という主張を述べているという解釈も可能だと思います。しかし、そうであれば、女性がジェンダーに対して発言した時の、他の発信と比較しての、攻撃を受けた事例の量や質を何らかの形で紹介するべきだと思います。必ずしも統計的な根拠を示せというわけではありません。しかし、事例2点だけを紹介しておよそ女性がジェンダーに関して発言すると過剰なバッシングを受けると結論付けることは明らかに過剰な主張です。

もっともこの記事が新聞記事ではなく、SNSの投稿であれば、そういう考えのある人もいるだろうなということでわざわざ取り上げることもありません。社会の実態を正確に伝える使命がある新聞で、名前の通った毎日新聞の記事であるから問題にするべきだと思うのです。

実際に男性が発信するジェンダーに関係のない話にも炎上はありますし、男性が発信するジェンダーに対する意見にも炎上があります。ジェンダーにかかわりなく、男女の性別にかかわりなく、犯罪やそれに準ずるような人格を否定する攻撃は行うべきではありません。本来あるべき主張はこういう主張だと私は思います。

この記事の違和感はまだあります。

尾辻さんの発信に対して「殺す」という攻撃に問題があるということは誰しも賛同されるでしょうし、発信した人間の多くも自分の表現に問題があったと自認していると思います。しかし、このような極端な犯罪的な攻撃に対しだけ批判しているのではなく、尾辻さんの意見に異を唱えた書き込みに対しても、どうやら記事は非難しているようなのです。尾辻さんの批判された元投稿は、「駅に女性のイラストのポスターが多数掲示されたことに対して、公共の場にもかかわらず女性を性的に扱うものだ」というご自分の感覚を発信したものです。これに対してそうは思わない人が「そうは思わない」ということを発信したことは、批判されることではないはずです。特に尾辻さんは国政政党の肩書を出して発信されています。この発言形式は重いですし、批判の対象となることを特に覚悟しなければなりません。国政政党の幹部としての発言に対して、その発言に対する意見や感覚の違いを発信することや、政治的な意味合いで批判をすることは私は表現の自由の根幹であると認識しています。

どうもこの記者とは表現活動についての意見が異なるようです。

また、「女性の発信したジェンダーに関する記事一般にネットは過剰に反応する」という表現も、それこそが過剰な表現です。このような表題をつけてしまい、かつ犯罪に該当する行為や人格を否定するような攻撃と、そこまではいかない批判を一緒くたにして「止まぬ攻撃」だとすると、日本のSNSでは、他者を批判する場合は、およそ犯罪まがいの攻撃や人格攻撃を行うという具合に読めてしまします。もちろん記事はそこまでは断定的に述べてはいませんが、「攻撃」という言葉を受け止める読者としては、その人それぞれの「攻撃」という言葉の平均的な攻撃が行われているという印象を持つ傾向が人間にはあるからです。これがまさに差別の温床になっているわけです。

以前に私がネット言論を研究して分析した結果としては、炎上の初期の先行する批判の書き込みは真摯であり的を射た批判がほとんどで、その後に過激な、人格を貶める批判が続くという傾向があるということでした。但し、「殺す」などの書き込みは一部であると思います。SNS全体が殺伐としたものであるかのような印象をこの記事は植え付ける危険があると思います。

この記事の全体的な問題は論理学でいうところの「早まった結論」が多投されているということです。インターネット上は「主語が大きすぎる」という決まり文句で分かりやすく批判されているところです。

「ジェンダー発言」に対して攻撃が来るとか
「物言う女性」に対して攻撃がなされるとか
そもそも攻撃が許されない攻撃であるとか
歪んでいるのが「日本」であるとか

娯楽メディアの記事やSNSの投稿であれば等閑視される範囲のことかもしれませんが、毎日新聞の署名記事としてはいかがなものかと思われます。

このような論調を行うことのデメリットを指摘しておきます。

例えば、元発信者が感覚的な発言をして、その人間が国政政党の幹部の政治家である場合でも、「それはあなただけの感覚です。」とか「だから落選するのです。」程度の発言が許されないとするというのであれば、およそ杉田水脈議員の作成した記事に対して批判ができなくなってしまうのではないでしょうか。杉田議員に対する人格攻撃などもあったわけですが、毎日新聞は杉田議員と意見の違いがあるとはいえ、インターネットなどの過激な批判について何らかの批判をしたのでしょうか。もし杉田議員に対する批判については言及が無くて、尾辻氏に対する批判だけを論難したとしたら、その場その場で意見を変える恣意的な論調の新聞だということにはならないでしょうか。また、毎日新聞は杉田議員に対するネット上の過激な形式での批判の誘因になるようなことは一切しなかったというのでしょうか。つまり読み手の感情に訴える批判はしなかったというのでしょうか。

意見の内容にかかわらず、言論に対しては同じルールで評価しなければ、結局は権力側の都合の良いようなルールが設定されてしまう危険があると思っています。自分と同じ意見だけを守って相手全体を攻撃するのでは、結局ご自分の守りたい意見を守れないことになると私は思います。

ネット炎上の先行議論には、意見が違っても学ぶべき点が多くありました。炎上になるようなジェンダー発言には共通の特徴があり、多くの人を否定する表現が使われています。ここを持って主語が大きいと批判されるところです。批判されるべき人でない人も批判されますし、発信内容も身もふたもない表現が使われ、多くの人が不快に感じる内容になっていることが多く、先行する批判はそこを批判しているということが、私の追っていた炎上事例ではほとんどでした。つまり批判の対象はジェンダー思想ではなく、発信者の表現の品位の問題だったということが私の感想的な結論です。

炎上の元発信者は、まるで自分が何らかの被害を受けてトラウマが生じている被害者のように、防衛意識が過敏な状態のような発言表現をしていて、批判をするべき対象を的確に限定せずに、おおざっぱに世の男性や社会全般が自分を攻撃しているかのような自分の感覚を読み手に与えていることと、本来他者の自由にゆだねられている領域(例えばオタク趣味)に対して感情的な否定的介入をしているような表現の発信がなされ、誰にも迷惑をかけずに平穏に生活している人を攻撃する発信がなされているという共通項があるように感じられました。特に他者に対して迷惑をかけていない人に対して、自分が気に入らないということでキモイというような人格否定のような子どもじみた発信をすることには適切な批判がなされるべきだと感じています。

今回の毎日新聞の記事は、あまりにも大雑把で偏った論調であると思う次第です。その他のこの記事のデメリットは以下の通りです。

・ 害ある行為をしていない他者に対して、自分がその行為に対して寛容になれない場合に、その他者の人格を貶める感情論を発信することが守られるべきジェンダー思想に基づく発言ないしフェミニズム思想に基づく発言だということになってしまう。
・ 毎日新聞は女性に対する批判を「攻撃」として歪んだ行為だと考えており、当初に発信した発信表現を問題にしないで批判は許されないという態度を示している
・ 紛争の一方に対する大雑把な支援をすることによって、対立当事者の感情を高めて紛争をあおる形になっている。
・ なによりも、炎上の元になった最初の発信についての吟味をしないで批判者ばかりを批判するということでは、SNSの発信についてのルール作りの冷静な議論をすることができないということが深刻なデメリットになると思います。

記事の着眼点として、気軽に発信できるSNSでの発信によって思わぬ攻撃を受けることができるという点は大いに共感できます。この視点は大切です。しかし、批判する者が悪いという姿勢ではSNSの使用についての成熟ははかられないと思います。SNSは行為としては気軽に発信できるのですが、公開設定をしている場合は、見ず知らずの膨大な人数に対して発信することになります。それによって他者を傷つけることも大いにあるわけです。公開のSNSの場合は、発信行為が気軽にできるからと言って、発信を気軽にしても良いわけではないということに気が付くべきです。

他者の害のない行為に対して、自分の感情をさも多数意見や公的に正しいと結論付けられた命題であるかのように発信して、その相手の人格的批判をする場合は、それを受け入れる人間に限定して発信するべきです。わざわざ批判対象の相手に発信するべきではありません。攻撃を傍観する人は攻撃者だと非難する人がいます。例えば自分がキモイ等と非難を受けた人間ではなくても、そういう理不尽な攻撃を見過ごさないということは人間の自然な感情です。そういう正義感を持った人たちにも発信しているということを自覚して発信するべきだと思います。

またそのような理不尽な攻撃が見られた場合であっても、批判する側は整然と批判をするべきであり、正義感を露わにして相手を人格攻撃してしまうことの無いようにくれぐれも注意しなければならないということをルールにするべきです。

誰が発信者であっても同じです。女性であろうと男性であろうと、ジェンダー思想があろうとなかろうとルールは共通のもの一つが設定されるべきであると考えます。

確かにSNSの使い方や発信やそれに対する批判に対しては、成熟しているとはいいがたい状況にあるように思われます。だからこそ、特定の立場だけを擁護して、基準をいくつか作るのではなく、世論で基準を合意形成していくということが必要だと思います。特定の批判を問題視することは、現代日本では国によって制裁を背景とした法律のルールを定めるという議論になる傾向にあると思います。そうではなくて、多くのユーザーによって議論をして、自主的なルールを構築することが成熟した言論活動につながると考えています。


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