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心と環境のミスマッチ 複数のグループに所属することによる問題1 外部での仲間へのいじり ウケを狙うことに夢中になって大事な仲間を傷つけているかもしれないし、自分がその外部の人から致命的な低評価を受けている可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



なぜ現代人が苦しむのか、なぜ犯罪や戦争が起きるのかということの一つの答えとして、「心と環境のミスマッチ」の問題があると対人関係学では主張しています。

「心と環境のミスマッチ」とは、
人間の心はおよそ200万年前までに完成しており、その後さしたる変化はしていない。心は当時の環境である数十人から百数十人の単独の群れでだけ一生涯生活していて、その環境に心はとても都合よく作られた。ところが現代社会は膨大な人数とかかわりを持ち、家族、学校、会社、地域、社会、国家等々複数の群れに所属して生きなければならない。環境が激変したのに心が変わらないので、不安を感じ、苦しみ、悩み、不健全な行動をしてしまう原因になっている。
というものです。

今回のテーマは、「外部での仲間へのいじり」の弊害です。

例えばの①、他の会社とプロジェクトチームを組んでいて雑談しているとき、「おたくの新人女性なかなか頼もしいですね。」なんて言われて、「いやいやあれでそそっかしくて、この間も大口開けてハンバーグを食べて口の周りソースだらけになりまして」なんて言ってしまう場合です。

上司は、部下の女性のなごむエピソードを話して、親近感を持ってもらおうということで悪意なく話しているかもしれません。しかし、取引先からその情勢社員が「大口ソース」とか呼ばれたりして、体裁を気にしないずぼらな人間だなどの評価を受けて一線級だった新人が軽く扱われてしまう等という弊害があり得るところです。

少なくとも、言われたその女性新人は、そのように心配するかもしれません。「取引先とのなごみ」という目的があったとしても、そんなエピソードなんて言わなくてよいことです。謙遜するということが礼儀だとしても抽象的に「ありがとうございます。しかしまだまだです。ご指導よろしくお願いいたします。」程度に言えばよい話です。

例えばの②、夫が自分の妻をほめられた場合、嬉しくなって「いや実は家では・・・」なんてことも同様に言う必要がありません。「うちのは愚妻でして」と抽象的に言っておけばそれで十分です。しかし、最近はそのような文化も廃れてきていますので、礼を言って終わりでが良いかもしれません。

例えばの③、自分の仲良しグループの一人について、別のグループの人と話題になっていて、実はこういう面があるということで笑いを取ろうとする時も同じような場面が出てくるでしょう。グループをチームに置き換えたり、組織に置き換えたりすることも可能でしょう。

言われている本人は、そのことを後で聞いた場合、その場の雰囲気やノリがわかりません。文字情報だけで、「あの人があなたのことをこう言っていた。」という形で伝わってしまいます。単純に自分の悪口を言われたと思う危険があります。

言われている本人は、その人との関係に安心しているために、他人の前では見せない姿をしているという可能性があります。それなのに、そのことを他の事情が分からない人に言われたことに傷つくことがあります。大げさな話ではなく、信頼関係が危うくなることがあります。

さらに、言われている本人は、言った張本人との関係が打ち解けたものと思っていたのに、実はその人からの自分の評価が低いのではないかと心配になることもあります。さらには、そのエピソード話を言っていた時に言った張本人だけでなく、自分以外のグループの仲間も何人かいたということになると、自分はグループ内で浮いた存在ではないかと思うようになり、自然なふるまいも軽率な行動だったのではないかと落ち込むということも出てくることがあります。

こういうところから、人間関係が少しずつ壊れていくということをよく見ます。

そのエピソードの内容によっては、受けを狙ったはずの外部の人から、そのグループ全体に対しての評価が低くなることも考えた方が良いと思います。

外部から見たら、内部の人間が内部の人間を批判する場合は、よほどひどい人間なのだと受け止められる傾向があります。実際は大したこともないのに、ここで言うのだからよくよくのことだろうと思うわけです。大口ハンバーガーくらいならばよいでしょうが、部下の仕事上のミスなんかを言って笑いを取ろうとするとチーム全体のクオリティに疑問を持たれてしまいます。そんな人がスタッフでいるところに仕事を任せてもよいものだろうかという疑念が生まれることもあります。これは言っている本人はなかなか気が付きません。笑いで済む話だと思って言っているわけです。しかし、必ずしもそれは相手には伝わらないのです。

また、聞いていた外部の人間からは、チームの人間関係がギスギスしているのではないかと思われてしまいます。たとえ本人からこのエピソードは営業トークでお話ししてよいですよと了解を得ていても、上司が部下に恥をかかせるような体質のチームなのだという評価をされる場合もあるわけです。

チーム力がウリの企業戦略ということは随所にあるわけです。特定の人がいなくてもチーム全体で案件を行ってくれるから安心するわけです。ところがチームの人間関係に問題があるという場合は、自分の担当に何か問題があると仕事が止まったり、クオリティが下がったりするのではないかとも思うわけです。

問題は取引先など他者から見た印象です。たとえ本人同士が許容していたとしても外部の者からすると、不穏当に聞こえるということが案外多いです。

さて常識的な人間であれば、自分のチームか否かを問わず、他者のマイナス評価になりかねないエピソードを話すことは無いでしょう。ではどういう人がどういう理由で、無神経に部下の知られたくない話を披露してしまうのでしょうか。

但し、チームの中のライバルに対して、そのライバルの評判を落として自分の評価を高めようというよこしまな考えのどす黒い話は除いて考えます。

先ほどの会社での取引先の話を例にしてお話します。この上司は、その場の取引先との関係に、自分なりに価値を置いて、話しをしていました。相手に受けるかどうかということが一番で、それ以外のことについてはほとんど考えない脳の活動状況だったと言えるでしょう。面白い話があったということを思い出し、その部下の気持ちを考慮せずに、取引先の顔色を見て話をしたということになります。

妻の家の中でのエピソードを言ってしまう夫や、グループ間の交流の時に自分のグループの子の失敗談を話す人も同様です。
つまり目の前の人との関係だけしか考えられず、自分が大切にするべき人間の感情を考慮することができない脳の活動状況なのです。

これは、人間が心を身に着けた当時はとても良い活動状況であり、かつ十分な活動でした。なぜならば、自分の目の前にいる人間はすべて自分の仲間だったからです。また、言葉が無く感情だけがあったのですから、いない時に悪口を言うということもしないで済んでいました。ただひたすら仲間を大切にしていればよかったし、そうしなければ群れ全体が生き残れないサバイバル状態でした。仲間をひたすら大切にするということで人間は生き残ってきました。

しかし、現代社会は、家族や職場や友人関係と、多くの組織に所属してしまっています。継続的人間関係もあれば、すれ違うだけだったり、インターネットで知っているだけ等の希薄な人間関係まで様々です。

そして、つい目の前の人間との関係で良い関係を結びたい、目の前の人に自分を受け入れてもらいたいという本能が過去の遺物としてはどうしても出てきてしまうようです。

そうしてつい、本当に大切にするべき人間関係を大切にしないということが起きてしまうようです。つまり人間は、一度に複数の人間関係を同時に大切にするということが苦手な生き物のようなのです

なお、こういうことを書くと、「そんなやわな心では仕事はやっていけない。常識を知らないな。今はまだ良くて昔なんて・・・」というご感想を持つ方もいらっしゃると思います。しかし、その場にいるいないにかかわらず、部下の悪口を言うという本末転倒な価値観を持っている人、部下の知られたくない話題を言いふらしてしまう人は、結局今何が大切かということを適切に判断できず、対応することもできず、その場の雰囲気や本能に任せて自己を抑制できない人、仕事の力を入れるべきバランスがわからない人、個人情報や内部情報コンプライアンスの管理がずさんな企業体という評価がなされていることに気が付いていないということになります。

また、学校等でのいじめ防止についても、ひどいいじめ、誰から見たっていじめだとわからないいじめは防止の対象と考えないという考えと同じだと私は思います。いじりはコミュニケーションなどと未だにおっしゃっておられるのでしょう。

自分と他者との人間関係を良好なものにするとか、他者と自分の関係を良好にして安心した生活を送るということを大切にするということはこういうことを一つ一つ考えていかなければならないことだと思っています。

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