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女性のヒステリーについて 極端なジェンダーレス思想が少なくない女性を苦しめる。 発達障害、パーソナリティ障害への分類という弊害 [家事]



ジェンダーフリーとか、ジェンダーレスという主張があります。女性だから、男性だからという、個人を捨象して性という大雑把な違いに基づく取り扱いの違いは、概ね社会的、文化的に押し付けられた不合理な扱いであり、かつ、個人の特性を無視した評価であり、本当は個体差があり違うのに不当に個人の能力を否定評価することにつながりやめるべきだという主張のように思われます。その意味では、正しい側面もあると思います。

ただ、生物学的違いが厳然と存在していることも事実です。端的に言えば女性は子どもを産む性です。この子どもを産むということは、妊娠してから出産するまでに限った話ではなく、それ以前から綿々と続く生体内システムの問題であり、その後においても影響が生じていることも間違いありません。

例えば今から約200万年前から数万年前まで続く狩猟採集時代においても、小動物を狩るのは原則として男の仕事であり、留守を守り育児をしたり、植物を採集したのは女性の仕事だったと進化生物学では考えています。これは、群れの頭数を確保するために、流産を避けるために成人女性は走り回ることを回避したというものだと考えられます。そうだとすれば、これは社会的、文化的な性的役割ではなく、生物学的な性差から派生した人類の生き残り戦略だったと考えられます。

どこからが、生物学的違いに基づいた取り扱いの違いなのか、どこからが社会的文化的な不合理な差別なのかについては、なかなか難しいことなのではないでしょうか。

また、200万年当時は合理的な違いがあったとしても、その後の機械技術の発展とか、人間の考え方の変化、つまり時代の変化によって、合理性が失われた差異的取り扱いも多くあることも間違いないと思います。

ただ、私の感想ですが、あまりにも急進的なボーダレスの主張は、合理的な評価を逆に阻害してしまい、人間的な扱いを阻害することがあると思うのです。女性だから、男性だからという言い訳がきかないことは、本当にあるべき社会なのかというところに疑問が生まれます。

例えば女性のヒステリーの問題があります。これはだいぶ前にブログで記事にしました。
配偶者のヒステリーは抑え込まない方がよい。賢い対処法
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-31
その後もちょくちょくこの話題は触れています。

このヒステリー問題ですが、ここでは、理由もなく怒りの感情が沸き上がり、道徳的な観点からの自制ができなくなり、周囲を気にしないで罵詈雑言を叫びだすようなことを言うことにします。

離婚事例を多く担当していて気が付いたのですが、少なくない女性がヒステリー状態に陥ります。例えば夫の対応が悪いことに対する報復だというような、対人関係的な問題とは別に突然起こり、脱抑制的な言動になると考えることが正しいと私は思います。あえて言えば、女性に周産期があること、あるいはあったことと関連した生理的な問題だと思っています。

確かに人によって程度や頻度が違うのですが、通常は、対処方法さえ間違わず、それも家庭生活だと思えば、ヒステリーがあるからと言って女性が劣っているとか、合理性が無いということにはならないと思うのです。ある特定の時期(人や年齢によって異なるので、時期を特定することは困難です。)の例外的な特質だととらえることができればお互いに不幸にはならないようです。

しかし、ヒステリーに性差があるということを承認しないで、個人の問題だとしてしまうと、とても過酷な評価を本人に与えてしまうことになります。

本人の精神が不安定であり、穏やかな人間関係を形成できない劣った人間と評価されてしまいます。最近だと、「発達障害」、「人格障害」等と決めつけられたり、感情障害や「統合失調症」、「躁うつ病」(最近多い)だと診断されて、ひどい場合は病院に入院させられたりしてしまうこともあります。

確かに中には病的なケースや頻度が高いケースもありますが、多くのケースでは、一時的なヒステリー症状だとして、適切な対処方法を習得することが必要十分で適切な対処だと私から見れば思われるケースも多いです。

男女に性差が無いという主張が過激になれば、このような少数派(実際は程度の差はあれ多かれ少なかれこのような症状は出現するようで、必ずしも少数派とは言えないと思われる)の女性は、女性であることを言い訳にすることができなくなり、「男性が同じようなふるまいをした場合のように」、正常ではないという評価が下されてしまう危険があると思うのです。

「男女に性差はない」という主張は、しばしば「女性も男性並みに働くし、働くべきだ」という結果を産み出していると思います。男性並みに働きたい女性もいるし、子育てや家事をしながら、収入を得ることを目的としない趣味やボランティアに傾注したいという女性、あるいは男性もいると思います。

また、就労という組織的な行為、他者との目的的な行動は苦手だけど、家事や子育ては得意だという人たちも多いように感じます。しかし、他者との組織的な行動が苦手で、目的的行動に必要なコミュニケーションも苦手だという人たちは、何らかの障害があるという否定的評価をされる傾向にもあるようです。

大雑把な人の評価を否定して個人に着目して個人として評価するべきだというものの考え方は正しい側面もありますが、逆にその社会的評価のものさしが特定の価値観に基づくものであれば、その価値観で恩恵を受ける人たちの利益にしかならず、個人を無駄に否定評価することにもつながりかねないのです。

そして、その特定の価値観は、社会の価値観だと認識されやすいために、普遍的価値観であることを疑わない危険が常に付きまとっています。そして、無駄に苦しむ人たちを作り出していると私は思うわけです。



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