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思い込みDVにおける「よりそい」が女性を不幸にする構図を乳腺外科医の無罪判決に学ぶ [刑事事件]

平成28年8月、40歳の乳腺外科医師が逮捕された
5月10日に乳腺腫瘍除去手術をした女性が
術後に、6人部屋の病室で、担当医師から胸をなめられるなどの
わいせつ行為をされたと警察に訴えたからだ。

医師は12月まで約100日間警察署に勾留されたままになり
何度かの請求でようやく保釈された。
事件の概要は江川紹子さんの記事で私も学んだ。

乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190119-00111366/

平成31年2月20日、東京地裁は無罪判決を出した。
その内容も江川さんでどうぞ。

乳腺外科医への無罪判決が意味するもの
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190220-00115538/

つまり、判決によれば、女性がわいせつな行為をされたというのは、
手術の後の「せん妄」状態による幻覚であり、
実際は存在しなかったというのである。

「せん妄」とはその時の状態を示すものであり。この場合は病気ではない。
麻酔の影響と痛みの自覚によって起きてしまう一過性のものである。
つまり誰であっても起こりうる。
それはかなりリアルな「体験」であるので、
現実に起きたと思い込むことは全くやむを得ない。

通常はかなり突拍子もない幻覚をみるため、
せん妄状態が薄れれば、
現実ではないと頭で納得して忘れるようである。

今回のものも年老いた私からすれば突拍子もないものだと思うが
被害を訴えた若い女性にとっては、
ありうる出来事だという認識なのかもしれない。

もちろん最大の被害者は、
無実の罪で100日以上も拘束され、
今までの人生とこれからの人生に暗い影を差された
外科医と家族など関係者であることは間違いない。
もう一人の被害者は、
被害を訴えた女性であると思う。

もし判決の通り妄想による幻覚であれば、
警察が、きちんと証拠収集をして、適切な処理をして
被害の実態がないということを示していれば
女性も納得したはずなのだ。
せん妄状態の幻覚から覚めた多くの人たち同じように
幻覚の不思議さ、怖さを感じた記憶に収まったはずだった。

私がこのように言うのは、
女性がまだ、せん妄とは何かということを理解していない
ということがはっきりしたからだ。
それはこの記事に表れている
乳腺外科医のわいせつ裁判で無罪判決、被害女性が涙の反論
https://www.jprime.jp/articles/-/14933

「私をせん妄状態だと決めつけて嘘つき呼ばわりしました。」
「せん妄の頭のおかしい女性として扱われ、」
という発言に注目する。

被害を訴えた女性は、せん妄状態について正しく理解していない。
判決が、せん妄状態だと言っている以上
彼女の「感覚」初期の「記憶」は真実だと言っているのだ。
つまり彼女が嘘をついていないということを言っている。
ただ、それが客観的には存在しなかっただけ。
それがせん妄状態というものだ。

ところが、被害を訴えた女性は、
せん妄は頭がおかしくなったということ
自分はうそをついている、つまり本当はなかったと知っているのに
虚偽の事実をあえて主張した
と言われていると、いまだに思っている。
これがこの女性の最大の不幸だと私は思う。

もちろん、それには無責任なインターネットでの誹謗中傷が
彼女を苦しめたし、
その誹謗中傷に対する反論が、彼女が訴える内容だったからなのだろう。

しかし、ここまで彼女がせん妄を理解していないのは、
彼女を取り巻く人たちが
相手の言い分を正しく彼女に理解させようとしなかったことが
大きな原因ではないかと懸念している。

弁護士の中には
「よりそい」とは、本人の言動を一切疑わないこと、否定しないこと
という、支援者としては、はなはだ勉強不足の神話がある。
これが女性を絶望の中にとどめてしまう不適切な「支援」であることは、
ハーマンの「心的外傷と回復」引用しながら述べてきた。
「あなたは悪くない」という絶望の押し付けからの面会交流を通じての子連れ離婚母の回復とは
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2016-12-21

もしかしたら、今回も
女性の主張を100パーセント信じるか否かが
支援者の態度の試金石だという考えから、
周囲が、「女性の主張は確かに現実に存在したのだ」
という態度に終始してしまっていたのではないか
という心配がある。

これが女性の友人や家族なら致し方ない。
せん妄と妄想を区別できないのはそれほど珍しくはない。
しかし、医師や心理職、弁護士などは、
その知識を正しく持っているし、持っていなければならないのだから
それに賛成するかどうかはともかく
一つの選択肢として説明しなければならない。

もし女性に対して支持的にせん妄だった可能性を示していたならば、
そうして事件の見通しを示すことができたならば、
彼女は、訴える被害が実際にはない可能性があると理解して、
訴えを取り下げるという選択があったかもしれない。

支援者がなすべきことは、当事者にすべての選択肢を提示することだと思う。
各選択肢のメリットデメリットを説明することだ。
これができて、初めて当事者は適切な自己決定ができる。
これがなければ、当事者は選択肢が提示されない形で
狭い考えでの行動を余儀なくされてしまう。
こうなってしまうと、
当事者のもしかしたら選択したかもしれない方向を
支援者を自称する人たちが妨害したことと同じになる。

今回は、せん妄を状態像ではなく、
頭がおかしくなったという病気か障害のように考えていることがわかる。
せん妄状態の幻覚は、確かに本人が感じ取って、濃くした内容であり
嘘をついているわけではない。
これを本人が理解していないことが、前述の記事で明らかになっている。

今回の判決は、警察が証拠収集の過程や分析の過程の記録がなく
刑事裁判の記録とは考えられないずさんなものだと厳しく断じた。
プロの仕事ではなかったということだ。
無責任なよりそいが警察にもあった可能性を示唆している。

こうやって、初期の段階から無責任なよりそいが重なり、
被害記憶が肥大化し、固定化していった可能性はなかったのか。
そういう心配がある。
性被害においても、仲間は被害者を救済しようとする思いが強くなりすぎ、
被害者が、周囲に押されて行動せざるを得なくなるケースもある。
途中で引き返す選択肢とその方法を提示することも
支援者の立派な活動である。

今回被害を訴えた女性が
引き返す選択肢を与えられず、
無罪判決の見通しを正しく伝えられず、
被害女性の主張する被害があったのか
それとも嘘をついているかという
二者択一的な選択肢しか与えられなかったとすれば、
その女性は、まったくの被害者だということになる。

このような構造は、私たちの日常にも周到に用意されている。
配偶者暴力相談の相談機関に相談すると
本人が暴力や、夫の危険性を否定しても
「夫は、本当の暴力を振るうようになり、
妻は殺される可能性がある、
直ちに逃げ出さなければならない」
と、個別事情にかかわりなくアドバイスされることがある。

私が、実際の公文書でこのような相談があったことが
記録されていたのが、警察の生活安全課だ。

特に出産後の女性は
産後うつだけでなく、
出産後の脳機能の変化や、内科疾患、婦人科疾患
あるいは、元々あった精神疾患の傾向が
妊娠、出産で増悪してしまうなど
様々な理由で、一時的に漠然とした不安が生まれたり、
自分だけが損をしていると感じたりすることがあるようだ。
なんでもなければ、二年くらいで収まっていく。

ところが、その不安を相談されることを待ち構えて
妻が不安を口にしたら、
夫の暴力があったことに誘導し、決めつけ、逃げることを勧める。
私が見た公文書では、妻が否定して家に帰りたいと言っているにもかかわらず
二時間も説得して、家族再生を断念させたのである。
夫の暴力の証拠は何もなく
後に民事裁判で妻の主張は妄想であるとして否定された。
それでも、マニュアルどおり、警察官は説得したのだ。

言われた女性は、日常的に抱えている不安を解消したい
という要求が肥大化しているために
そのような具体的なアドバイスを受け入れて
不安を解消しようとしてしまう。
ありもしないDVがあったと思い込む構造である。

夫と協力して出産後の不安定な時期を乗り越えるという選択肢は
「支援者」によって妨害されているのである。
子どもが両親そろって育つ環境を大切にしようということも
「支援者」によって切り捨てられるのである。

適切な事実確認をせず、証拠も分析もずさんで、
つまり科学的根拠は何もなく
夫のDVがあるということを断定して「支援」する
そうするといわれた妻は、
最初は抵抗しているが、
徐々にそのように記憶が形成されていく。
断片的な記憶が、暴力被害の記憶に変容する。
しかし、作られた記憶は、客観的事実と齟齬がある。
裁判ではその主張は認められない。

どうだろうか。
私は、乳腺外科無罪判決における女性の被害の構造と
思い込みDVで結局苦しい生活を余儀なくされる女性の構造が
全く同じ構造であると感じる。

弱者になりやすい女性が
「支援者」によって特定の選択肢を奪われて
結局は不幸な被害者になるということが
繰り返されてはならない。

そのためには、科学的な証拠収集と分析が必要だという
本件判決の示した方向も
共通の方向である。

また、もしこういう構造であれば、
行動をした女性を責めてはいけないのだと思う。
再び仲間に迎え入れるという意識が必要だということが
科学的結論になるべきである。








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「死ね」と言葉にしてしまったら、「そんなつもりはなかった」という言い訳は通らない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

死ねという言葉が何度も出てきるくため
書いていて気が滅入りましたことを冒頭申し上げておきます。

中学生以下の子どもたちの間で
日常的に強烈な言葉が交わされているようです。
「死ね。」「死ねばいい。」「消えてなくなれ。」「生きている価値無し。」等々

そういう言葉に大人である親、教師も容認してしまう風潮があります。
しかしこれは深刻な事態をもたらすこともありますし、
確実に子どもたちの心がすさんでいきます。
言われる方も言う方の心もそれを聞く者の心もすさむのです。
そしてそれは将来、自分や自分の周囲を傷つけることがあります。
私はやめさせなければならないと思います。

どのように危険で、どのように深刻な事態なのか
説明したいと思いました。

1 なぜ「死ね」と言うかの分析
2 死ねと言われることの危険性、深刻さ
3 死ねと言う人の責任
4 死ねと言う人の心がすさむということ
5 死ねということはやめさせなければならない

1 なぜ「死ね」と言うかの分析

 1)特に大人に向かって言う場合
子どもたちが親や教師に対して死ねという場合は、
自分が理不尽な扱いをされているという意識を持っていて
そのことを説明して反撃したいのだけど
うまく言葉にできないためにイライラが募り
死ねと口走るように言葉にするということが多いように思います。

この現象は怒りというものの特徴をよく表しています。
人は怒ると、
複雑なことを考えられなくなりますので、
話を整理して言葉で伝える作業ができなくなります。
また複雑なことの代表的なものが他人の感情でして、
他人の感情を考えなくなるから強烈なダメージを与えようとするのです。
怒りは無意識に相手を最後まで叩き潰そうとさせる感情ですから
死ねという最終的な攻撃の言葉を発することでひと段落させようとします。
また、怒りは自分を守るための感情ですから
自分が何らかの攻撃を受けているという意識があることになります。
もう一つ、「相手と戦ったら勝てる」
という意識があるようです。
これは親との関係を考えると
実は相手は自分に致命的な報復をしないだろう
という甘えを持っていることを示します。

もしかすると子どもたちが大人に向かって死ねというのは、
それだけ子どもたちが現代社会の中で苦しまされているという
被害意識を持っているからなのかもしれません。
理不尽を日常的に感じているのかもしれません。

 2)子どもどうしできつく言う場合

学校などで、子どもどうしが死ねと言い合う場合も
同じような怒りの文脈で語られていることがあるようです。

どちらかというと
相手の攻撃、理不尽さが
自分に対して深刻な影響を与えるからというより、
合理的に説明して解決することができないイライラのようなものが
強まったときに口に出ることが多いようです。

こちらが相手に親切な対応をしているのに、
相手がこちらの努力に感謝もしないとか、
こちらが何かを尋ねているのに
関係の無いことばかり言い続けるとか、
話していてもらちが明かない場合などが多いようです。

中には、自分が考える正義に反する行動をして
最初は助言などをしていたのに、
相手がそれを無視して不道徳な行動を継続する場合
ということもあるようです。
死ねということが自分なりの正義感にもとづくという言い訳の場合もあります。

大人が、子どもの発言を見た場合は、
相手が自分の思い通りにならないから死ねという
としか説明できない場合が多いかもしれません。

 3)冗談として言う場合

子どもたちの間で案外多いのは
ふざけてというか、ノリというか
口癖みたいになっているような場合です。

漫才の突っ込みのような感覚で
死ねと言う場合も少なくないように感じられます。

ボケというか、いわゆる空気を読まない相手に対して
向かって発せられることが多いような気がします。

この場合も、実は結果を求めたいけれど
言葉でその望ましいと思う結果に相手を誘導できない場合
ということが言えるかもしれませんし、
それが案外共通項なのかもしれません。

  4)死ねということの小まとめ

このように整理すると死ねという言葉は
言葉で説明できないから手が出る
という時と同じパターンなので
言論というよりは暴力に近いということがわかりやすいと思います。

少なくとも
相手の命がなくなればよい
あるいは自殺しろ
というような文字通りの意味ではないということが
ほとんどだと思います。

怒りのために我を忘れて
最も強烈な言葉で相手にダメージを与えようとしているだけ
ということです。
イライラの解消方法が見つからないために
イライラが大きくなって、手に余るようになっている
そこから解放されたいために益々きつい表現になるのでしょう。

対人関係学的には不安解消要求の高まりは
不安解消行動が見つからない場合にはさらに肥大化して
短絡的な行動をとらせる原因になると説明しますが、
これを良く証明する事象だということになります。

2 死ねと言われることの危険性、深刻さ

「死ね」という言葉は、文字にすると
命を無くせ、自殺しろという意味の言葉です。

文字通り受け止めれば
生物的に存在を否定されるのですから
身体生命の危険を強く感じる言葉です。

それだけでなく、
あなたを私の仲間としては扱わないよ
という強烈なメッセージになります。
仲間なら、健康を気遣われ、身体生命を助け合う
そういう関係です。
それを否定されたという感覚は
自覚はできないのですが、強烈で後々残るダメージを受けてしまいます。

人間は仲間を作って厳しい環境を生き延びてきました。
仲間を求める心、仲間の中にいると安心する心
仲間から外されそうになるととてつもなく不安になる心
そういう心を持った人間だけが仲間を作ることができ、
仲間を作ることによって生き延びてきました。
だから、仲間として扱われないことは
人間としてとてつもなく苦しい気持ちになるのです。

もっとも、
軽く死ねと言い合うことが頻繁な友人関係の中では、
死ねという発言も言葉どおりには受け止めないで、
「ああ、イライラしているんだな。」と
正確に発言者の気持ちを理解しているようです。
自分に自殺しろということを言っているのではないし
言葉以外の態度から
自分と絶交したいというわけでもないのだなと
感じ取ることができます。

言葉以外の事情
これまでの経験や暗黙のルール
表情や身振り手振り、そして距離感という事情から
相手の真意を受け止めることができます。

しかし、言葉だけが独り歩きをしてしまうと
言葉通りのメッセージとして受け止められ
命の危険を感じてしまったり
仲間として認められないという意味での恐怖を感じて
強烈なダメージを受けることが起きてしまいます。

「そういう意味でないことは分かっているはず」
と思ったとしても、
相手は自分が想像する以上に感じてしまいます。

そもそも言葉を発する方は本当に死ねと思っていないので、
それ程強烈なダメージを相手に与えないだろうと
勝手に思い込んでしまうものだそうです。
人間の脳の限界がここにあるようです。
だから、相手の気持ちを考えないで発言することで
思わぬダメージを相手が受けるわけです。

相手が言葉通りに受け止める事情として考えられる事情は

・メール、ライン等、ほぼ言葉だけで情報が伝わる場合
特にこちら側が、自分の部屋の雰囲気やノリで送信した場合
そういう文字以外の情報は相手に伝わりません。
話の流れがあったとしても、真意が伝わっているとは限りません。

・相手との関係があまり親密ではないとき
そもそも相手とあなたがであって日が浅く
あなたと友達が日常行っていることに相手が馴れていない場合
どうして強烈なことをいうのだろうか
私だけがこのようなことを言われるのだろうか
という恐怖感情が出てきます。

・相手の体調
特に思春期の場合、普通に生活しているように見えて
実は大変悩み苦しんでいる場合があります。
相手がうつ状態の場合は、その傾向が強くなります。
いつもの体調ならばあなたの気持ちを翻訳して
正しい理解をすることができても
体調が悪い、特に精神的な調子が不安定な場合、
こういう場合は、物事を悲観的に考える傾向にあります。
発言者の気持ちは、自分に対する敵意だと
自然に考えてしまうのです。

健康な人でも、抑うつ的な状態になることはあります。
成績が落ちたときとか、別の友人とケンカしたときとか
腹痛や頭痛が続くときとか
それでも、無理して明るくふるまうのが人間ですから
悩んでいたとは知らなかったということになるわけです。
でも、死ねといったことは事実として残ります。

・相手があなたに依存している場合
何かの拍子で、相手があなたを信頼しきってしまい、
他の誰もが自分を攻撃しても
あなただけは自分を守ってくれる
と思う関係になることがあります。

厳しい友人関係で悩み
あなたに助けられて癒されてしまう場合等がそうでしょう。
あなたを信頼しきっている相手は
あなたの攻撃に対しては無防備な状態です。

あなたの言葉の裏の意味を探る余裕がないことが多いようです。
あなたが起きぬけに前触れなくあなたの親から死ねと言われたような
そんな衝撃を受ける可能性があります。

あなたの「死ね」という言葉は、
相手に言葉の通りに受け止められることは
日常ありふれてあるわけです。

大変怖いことです。

3 死ねと言う人の責任

もし、あなたが死ねと言った人が
本当に死んでしまったらということを考えてみてください。
そんなことがあるはずないと思うかもしれませんが、
実際に死ねと言われた人が自死することが多くあります。
先ほども言ったように、元々精神的に不安定なので、
本当は自死の危険が高い人があなたの言葉に衝撃を受けるのですから
極めて危険場合が現実にあるのです。

そんなつもりではなかった。
いつも言っていることで、自分も言われたこともあるし
その人だって言っていたことがある。
そういう風に言葉で言い訳を考えつくまでには
実はずいぶん時間がかかります。

あなたが死ねと言った人が
1か月もたたないうちに死んだと聞かされた時、
あなたは、その人が死んだのは自分が原因ではないかと
思うようになるかもしれません。
自分が言わなければ友達は命を失わなかったと
思い込んでしまう場合もあるのです。
そういう衝撃を受けることになる人を多く見ています。

他の人間に対して「死ね」という気持がなかったのなら
言わなければそれで何事もなく済むのです。
死ねと言う必要は初めからありません。

「死ね」という言葉は客観的には危険な言葉です。
危険な言葉を投げかけて、結果が出てしまった以上
あなたは責任を取らなくてはならないかもしれません。

そのつもりがなくても、そういう行為をすれば責任が発生します。
例えば、嫌なことをさんざん言われて
反論することができずに追い込まれて
黙らせようとして近くにあった包丁を相手の腹に刺した場合、
殺すつもりがなくても
腹に包丁を刺すという命の危険のある行為をした以上
殺人罪が成立します。

言葉軽はずみに口から出て、画面に入力されてしまいます。
何の気なしに相手を簡単に傷つけることがあります。
とても怖いことです。
でもそんな言葉を言わなければ、それで済むのです。
それをしないであえて言葉にしたあなたは
何らかの責任を取らなければならない場面が出てくるかもしれません。

4 死ねと言う人の心がすさむということ

死ねという言葉は、言われた相手が傷つくだけでなく
言った自分、聞いていて止めなかった周囲の人間の心を
乱暴なものにしていきます。

これは無意識の作用なので、自分で止めることはできません。
死ねという相手の人格、命を否定する言葉ですから、
初めて聞いた時は怖かったはずです。
言われた人がかわいそうだと思ったはずです。

でも、そういうことがいつもいつも聞こえてくれば
心が苦しくなります。
この苦しみを何とか緩和させようと無意識のメカニズムがはたらき、
だんだんと心の苦しさを感じないように心が馴れていってしまいます。

それはつまり、他人に配慮しようという心が削られていくことです。
誰かの気持ちを穏やかにしたいとか、
一緒にいて安心な気持ちにさせたいという気持も
薄れていきます。
相手の心を感じないように心をきたえてしまうわけです。

自分の大切な人の気持ちを考えられなくなったり
大事にしないで乱暴なことを言うことが
だんだんと気にならなくなってしまいます。
大切な人があなたから離れていくことも多くあります。
離れる相手を責める人も多いですが、
離れる方の心も深刻なダメージを追っています。
自分の大切な人も大切にできないということは、
結局自分を大切にしないことと同じことです。

人間や人間のこころ、人間の命を大切にしなくなっていくこと、
これが「心がすさむ」ということです。

5 死ねということはやめさせなければならない

何度も言いましたが
死ねということを言わなければすむことなのです。

死ねということをやめましょうよ。
死ねだけでなく、
「死ねばいい。」「消えてなくなれ。」「生きている価値無し。」等といった
「相手の存在を否定する言葉」は言葉に出さないということです。
そうすることがみんなにとって有益です。
それを言うことで利益を受ける人はいません。

言われる本人が傷つくし
言っている人間や聞いている人間のこころもすさみます。
その人たちの仲間たちも傷ついたり、辛い思いをします。

ただ、そういうことを言わないということを決めるだけでは
言葉はなくならないでしょう。
本当になくすためには
その手段を検討しなければなりません。

言葉にする人は怒りモードの状態です。
真正面から話をしても
自分を守ることだけが頭にありますので、
反発だけが強くなります。

その人の本当に言いたいことを言い当てる人
それはわかるけれど言わない方がいいよとなだめる人
私のためにやめてという人
たくさんの人で
その人の失敗を厳しく問い詰めるのではなく
言った人と言われた人を
自分たちの仲間関係に連れ戻すという方向が
有効だと思います。

それは子どもたちだから、友達だから
大人が言って聞かせるよりも有効なのです。

そうして、冷静なときに
死ねとか、存在を否定する言葉は言わないこと
言ってしまったら謝ること
言ってしまったら、他の人の注意をおとなしく聞くこと
というルールを定めておくことが大切ですね。
それを繰り返し確認してほしいと思います。

しかし、子どもにだけ甘えているわけにはいきません。
肝心なことは大人たちです。
子どもが相手の人格を否定する発言をした場合は
面倒だと思わないで、最優先で、
発言によって乱れた秩序を回復する必要があります。
これが命を大事にするということなのです。
共同生活のルールということで腹に落として
曖昧に見過ごすということは絶対にいけません。
但し、ルールを守らないからと言って直ちに懲罰を考えるのではなく、
秩序の回復という観点から
行動を是正することに力点を置いて指導をする必要があるでしょう。

そして社会の大人たちは
子どもの目に触れ、耳に聞こえるところで
死ねという言葉を冗談でも発しないように注意しましょう。

特にテレビですね。
そんなことで笑いを取らなければならない番組は
止めさせるべきです。

人格を否定して、それを笑うということに
絶対に公共の電波を利用させないでください。
曖昧にしてはダメなのです。

そういう表現を承認して受け入れる人たちだけが
その表現を享受すればよいのです。
テレビは、電源を入れると見えて、聞こえてしまいます。
それで心がすさんでいくならば
それは暴力です。

芝居小屋みたいなところで
それを承認する人たちだけが楽しめばよいのです。
表現の自由の観点からもそれで十分だと思います。

大人は子どもを守らなければなりません。
悪い空気ならば、それを拒否することが
本当の大人なのだと思います。

*********

もう少ししたら、公的にこのような内容の主張をする機会がありそうなので、
そのための草稿として書きました。

大人がもっと本気で考えなければならないことだと思います。
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令和2年1月5日のSモーニングの加藤諦三氏の問題提起のその先こそ考えるべきではないのか、社会の幼児化の原因としての不安とは何か、不安と幼児化はどうしてつながるのか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


別のことをしていて、気が付いたらテレビがついていたという感じなので、
そこだけ聞きかじったようなものですが

心理学者の加藤諦三氏のインタビューが流れ、
(おそらく世界中の社会病理の説明は)
幼児化・退行化の広がりだとして、
その原因は不安だということをおっしゃっていました。

幼児化、退行化という言葉が出されたときは
そういう側面もあるけれど、少し違うのではないかと思いましたが、
その原因が不安だと聞いたことから、幼児化、退行化という表現も
ありうる表現かなと思い直しました。

そして私は、さあ、本題に入るのだろうと期待したのです。
幼児化、退行化の広がりの原因になる不安は
どうして世界中に広まってきたのか
という話になるのだろうと思ってしまいました。

しかし、その後はコメンテーターが勝手に話しだし
主に自分の領域に話を持っていき、
現政権批判などでお茶を濁されてしまいました。

もしかすると、このコーナーの前あたりに
グローバリズムとか新自由主義とか本質的な話があって、
後ろから前につなげて全体で理解してもらう
という狙いだったとしたら申し訳ありませんが、
途中から見た私には肩透かしの感がありました。

ただ、その幼児化、退行化が
フロイトの理論やその流れのフロムの説を紹介していたので、
肩透かしでよかったのかもしれません。
それからコメンテーターから出てきた学者がマズローでした。

いかんせん一言で言って古い。
その人たちを大切にするグループの人以外は
根拠のないものとして批判されているような理論を
金科玉条のように掲げての説明なので、
その先の議論には結びつかないのかもしれません。

ただ、せっかく不安までたどり着いたのなら
せめてその先の議論の問題提起までしてほしかったです。
そうではないと、意味を取り違える人たちが
続出することもやむを得ないでしょう。

少なくとも、コメンテーターたちは発言を聞く限り
あまりこの議論を理解しているようには思えませんでした。

その先の問題提起とは
1 幼児化を広げた「不安」とは何か。
2 その「不安」がなぜ増大したか。
3 不安がどのように人間を幼児化、退行化するか
です。

これはまさに対人関係学の独壇場かもしれません。

そう思い、ちゃっかり関口さんの番組に便乗して
対人関係学の基本的なポイントをおさらいさせていただくことにしました。

1 不安とは何か

不安は、
危険が迫ってきていることを知覚した場合に、
意識に危険が迫ってきたとことを伝えるシグナルです。

ちょうど痛みが、
体の部分に不具合が発生したことを意識に伝えるシグナルと
同じ仕組みだということになります。

そして、不安が意識に上ると
不安を解消したいという要求が起き、
戦うか逃げるかという不安解消行動を起こそうとするわけです。

この不安を感じさせる危険というのは2種類あって
一つは、生命身体の危険ということです。
生命身体の危険を知覚すると
交感神経が活発になり、心臓が激しく動き
血液を筋肉に大量に流して逃げたり戦ったりすることを容易にするなどの
生理的反応が起きます。
この一連の体の変化をストレスというわけです。

もう一つの危険が、対人関係的危険です。
人間は群れに帰属していたいという本能があり、
この要求が満たされない場合は心身の不具合を発症させます。
群とは、家族、社会、学校、職場というあらゆる人間関係です。

要求が満たされない場合で一番問題になるのが
今自分が所属している群れから追放されてしまうのではないか
ということを思い起こさせる事象があった場合です。
自分が何かを失敗した場合もありますが、
他人の自分に対する評価をみて、
対人関係的危険を感じることが問題です。

対人関係的な危険を感じると
身体生命の危険と同じように
生理的変化、ストレス反応が起きます。

これは逃げたり戦ったりすることには役に立ちますが、
対人関係的な危険に対しては役に立たないどころか
後で述べる弊害が生じてしまう困った生理現象です。

2 不安の増大の要因

ここで、不安という本質は同じでも
アメリカ大統領等の国家元首と
私たち庶民の不安は別に考えて論じるべきだと思います。

これを区別しないということは
原理論理の議論と
社会の出来事の議論を混同してしまっていることになります。

私は、庶民の不安についてまず説明したいと思います。

現代社会では、リストラ、パワハラ、いじめ等々があり
理不尽に自分が群れから追放されてしまうことが多くなりました。
とにかく帰属の見通しが不安定なことが多いようです。

低賃金は、働いても自活できない場合さえあり
社会的貧困を招いていて、
これは社会という群れからの追放を予感させてしまうことです。

特に職場の身分の不安定化は、
将来の生活にも大きな影響が出てきますから
大変ストレスが高くなるでしょう。
子どもたちへの早期教育や競争意識も
いやがうえに高くなるわけです。

さらに、弱者に冷たい社会構造ともなれば
少しでも有利な就職を感がえて
無理を承知で頑張らせようとすることは
むしろ当然だと思います。

優しさや、寛容、穏やかな暮らしが
否定的な価値を与えられてしまうこともしばしばです。

社会全体がいじめや、過労死、過労自死へと
向かって言っているような気さえします。

対人関係学的には、幸せは、
自分所属する群れの中で、自分が尊重されて帰属し続けていること
というように定義付けます。
これ以外の幸せを認めないのではなく
政策などで目標とするべき幸せの方向を
一つ定めたということです。

マズローの承認要求に似ていますが、
対人関係学は、これを群を作る人間の本能として
その発生と内容を説明しています。

おそらく、大統領とはいえ、
その支持者の支持を失った場合は
権力の座から滑り落ちるのでしょうから、
その意味での不安はあるのでしょう。

テロリズムなどは、
その背景において社会的に尊重されていないという体験から
人間関係というものをそれほど重要なものとは思わなくなってしまうために
他者の命ということに興味、関心を失ってしまっているのかもしれません。

現代社会の病理の背景に不安がある
という点に対しては大いに賛同するのです。

3 不安と幼児化、退行

しかしながら、不安による影響を
フロイトやフロムを使って説明してしまうと
またわけがわからなくなってしまいます。

対人関係学的には
危険の知覚と不安がもたらす脳機能の変化
という説明をします。

不安を抱いていると、それが強く、持続してしまうと特に、
脳の機能が著しく低下してしまいます。
複雑な思考ができなくなってしまうのです。
これは、前頭前野の機能ということになります。

分析的な思考が苦手になり直感的にインスタントに結論を出したくなる
こうすればこうなるだろうという将来予測ができなくなる
二者択一的思考になる
折衷的な思考ができなくなる
建設的な思考ができなくなる
自己防衛を第一に考えてしまう
(悲観的な思考になる。攻撃的な思考になる)
他者の感情を理解しにくくなる
共感、共鳴が少なくなる。
あたらしいことに頭が柔軟に対応できなくなる。
等です。

これを幼児化と呼べないこともないのですが、
幼児化と言ってしまうと、
このような特徴が見えなくなってしまうと思いますし、
なろうとして幼児化の思考になっているのではなく、
環境が人間の思考力を奪っている
という本質が見えなくなると思うのです。

左上の対人関係学のリンクから対人関係学のホームページに行って
参考していただければ幸いです。


蛇足を付け加えます。
このような不安は、その時々の政権の濃淡によって
ある程度大きくなったり小さくなったりすると思うのですが、
そういう小手先の問題ではないと思います。

むしろその時々の政権に原因を求めてしまうと
政権交代さえ起きれば問題は解消するというような
錯覚を起こさせてしまう危険すらあるのです。

根本的な不安を招く社会構造とは何か
対人関係的危険の観点と
人間が尊重されるとは何かという観点から
根本的な解決を考えていかなければならないと思います。

また、社会構造が変革されることには時間がかかることが予想されますので、
あわせて、今の社会の中においても
幸せを獲得する作業を意識的に行っていくことも必要となると思います。

対人関係学はどちらかというと
後者に照準を当てて研究を行っている学問です。

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【半ば宣伝】一人で悩んでいるときこそ言葉に出すことで誰かと相談した時の効果があるということが私が講演を断らない理由とこのブログが私にとって存在価値がある意味 [閑話休題]

半年以上前に書いたブログで、
言葉には二つの源流があることを述べた。
一つは、危険を教えあうことと
もう一つは、相手を安心させるための言葉
そして言葉というよりも強さとイントネーションが大切だということだ。
今思うと言葉というより、会話の始まりというほうが正確かもしれない。
それから、どうして語彙が増えたのかについて
人間が仲間と認識できる人数を超えた人間とかかわりあいを持つため
言葉が必要になり、言葉増えたということをのべた。


言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう!現代に生きる我々が意識して行うべきこと。 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-05-24

だから私たちが悩んでいるとき、
考えているふりをしているとき
意外と言葉は使っていない。
ただ悩み、ただ不安になっているだけということが多い。

言葉も会話も、元々他人と関わるために生まれたのだから
他人の存在を前提としている。
だから、自分の悩みを正確に言い当てることは
言葉の目的ではなかったということになりそうだ。

自分の考えや着想を言葉に出し切ることはできない。
そもそも、相手が理解できる範囲で伝わるだけのことでもある。

それで十分であり、それで役割を果たしてきたし
文明を発展させてきた。

そしてここにもう一つの言葉の機能が生まれていた。

考えを言葉にしてみることで
これまで考えていたことと別の着想が生まれるということだ。
自分の考えと、あるいは感情と、言葉との間には必ずずれがある。
すると
本当は自分が考えていたことではないことが
自分の言葉の中に発見できることがある。
自分で言ったにもかかわらず、
それを耳で聞いて、目で読んで
「ああそうか。」と思う。

そうやって、考えるための武器が増えて、
知識が増えるときもある。

一人で考えているときこそ
言葉にしてみることが必要だ。
言葉にしないと、考えているようで本当はただ困っているだけの時も多い。
文字や音声にしてみることで
誰かと相談しながら考えている効果が生まれてくる。

でも、本当は誰かにその言葉を聞いてもらえる状態が
一番良いように思う。
誰かに伝えたいことを伝えようとしているとき
自分の発する言葉に刺激を受けることが多いように思える。

だから、私は、講演のお誘いはなるべく断らない
学校でも、職場でも、PTAでも、研究会でも
官庁でも、自治体でも、経営者の集まりでも
積極的にお話に行く。

人権や、自死や、過労死予防や、いじめ予防、
家族や夫婦の育て方、労働法、
私の興味関心のあることならば喜んで話に行く。

必ず新しい発見があり、新しい武器を獲得する。

しゃべっているうちに、ペロッと台本にないことを思いついて話して
聞いてくださる方々の表情や反応に驚き、
ああこういうことだったのかと気が付くことが多い。
自分が話しているのに、自分が一番勉強している。
これがとても楽しい。
だからやめられない。
どんどん呼んでほしい。

結局このブログもそういうことなのだろう。
お話の原稿をアップするのもそういう理由なのだろう。

検索しているうちに、うっかりこのブログを開いてみて
お読みになられてしまった方には申し訳ないけれど。

読んでいただけるかもしれない誰かを思いながら
今も書いている。



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人間関係があるところ秩序があり、秩序への迎合がある 迎合三部作完結編 [進化心理学、生理学、対人関係学]

前々回に少し無理してロサンゼルス暴動の分析をまとめたことは
有意義な結果となりました。
これを前回の記事で、いじめの問題に応用する試みをしましたが、
私なりには成功したと思っています。

「人間関係があるところに、
秩序に向けた個人個人の迎合がある」という
一般理論の構築を意識していたもので、
他の問題もこの迎合の理論で説明することを
射程に入れながら記事を書いていました。

<官僚の不祥事と組織の秩序への迎合>

例えば、官僚の不祥事にもきれいにあてはまると思います。
公文書を廃棄したり、権力者に忖度したりというのも
これまでは官僚の保身にその原因があるということで
それなりの批判がなされていました。

しかし、これは自分の上司やその頂点にいる首相に対して
こびへつらっているということでは
説明しきれないように感じています。

官僚たちは、自分の保身を主たる目的にして行動していたのではなく、
主観的には、「行政という秩序を維持している」という意識、目的があり、
義務感、正義感を抱いて行動していた
と考えるとわかりやすいように思われます。

省庁や地方自治体の幹部役員は
とてつもなく高学歴で、相応のキャリアを積んだ方々です。
それなのに、普段接していると、腰が低く、物腰も柔らかい
立派な方々が多くいらっしゃるという印象を持ちます。
ところが、自分の属するトップに対しては
「どうしてそれほど」というほど高く持ち上げます。
その人がそこにいないのに、
そこにいるのは私のような部外者だけなのに
心底尊敬しているような口ぶりをするのです。

どうもお役人というのは
役所の秩序を最優先する人が多いようです。
そして秩序を形成するために、
トップを高く奉ろうとするものみたいです。
迎合の的はトップのように見えますが、
実際は秩序を維持しようとしているように思われます。

だから官僚の不祥事の多くは
主として自分の利益を守ろうとして行うものではなく、
秩序を維持するために、自分が犠牲になるという
そのような妙な正義感から行動しているようなのです。

ただ、もちろんそれが正しいことではありません。
正しいことかどうかということよりも
秩序を守ることを優先してしまう性質を
人間が持っていることの現れです。
それが、教養があり、人間的にも強靭な人でさえも
抵抗できない誘惑だということの象徴が
官僚の不祥事だと私は見ています。

<群れの秩序に迎合する人間の源流>

善悪よりも秩序を優先することがはっきりする場合は、
自分たちに危機が訪れていることを
共同体がみんなで感じている場合です。

これは人間の心の性質のことですから
心の発生当時の約200万年前のことを思い浮かべると
簡単に理解できます。

当時は、道具も大したものはなく、火も使わず、
言葉もない時代でした。
人間はたいそう無防備で頼りない生き物でした。
このために、群れを作ってお互いを守りあって生きてきたわけです。

言葉もない時代にどうやって群れを作って守りあったかというと
群れを作ることに都合の良い本能をもっていたからだと考えます。
群れの中にいたいという本能
群れから外されそうになると感じると不安になる本能
弱いものを守ろうとする本能
共感する脳の力
そして弱い者を守ろうとするときの勇気でしょうか。

こういった本能や生物的能力は現代に引き継がれていますが、
当時は生まれてから死ぬまで原則として一つの群れで生活したので
このような本能や能力がとてもよく環境と適合していたのですが、
現代社会はさまざまな群れに同時に帰属しなくてはならないという
環境の変化があったために様々な不具合が生じているわけです。
(対人関係学のHP[心と環境のミスマッチ詳論]
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
に詳しく書いています。

さてそのような時代に感じる危険のポピュラーなものは、
肉食獣に襲われそうになっているという場合でしょう。
進化の説明をするCGなどでは、
人類の祖先が、簡単に肉食獣に襲われて
群れの仲間は簡単にあきらめている姿が描かれています。
私は、この解釈に反対しています。

おそらく、群れが一丸になって
襲ってきた肉食獣に対して
襲い返していたと思います(袋叩き反撃仮設)。
「ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-06-19

肉食獣に対抗するためには、
むしろ襲われにくくすることが肝心で、
そのためには群れが結束していることが必要になります。
一体として、一個の生き物のようにふるまうことが
襲われにくくなるための唯一の方法だったはずです。

言葉もない時代に群れが一体化するためには、
群れの誰かが行動を提起したら
それに無条件に従うことが必要です。

手巻きをして仲間を密集させる「最初の行動者」
「最初の行動者」の行動に反応して
他の仲間を促して密集ポイントに誘う「最初の行動者に準ずる者」
そして、それらの誘導に従う「一般」
それぞれが、自分の役割を瞬時に悟って
率先してその役割を果たそうとする
こうやって群れが一体の動物として動くことができるわけです。

善悪なんて余計なことを考えていたら
肉食獣の犠牲になってしまいます。
群れが完全崩壊する危険さえあります。
だから必死になって迎合しているわけです。

現代の組織論などを参考にすると
「最初の行動者」と「最初の行動者に準ずる者」を合わせて
群れの2割から3割くらいの人数に過ぎず
7割から8割はい「一般」の人だったのかもしれません。

一般の人は自分の意見を殺して
2~3割の人間の行動に積極的に従った
いやいや従ったのではなく
生き残ろうとして従うわけですから
服従ではなく迎合という言葉が近いと思うのです。

「最初の行動者」や「最初の行動者に準ずる者」は、
生まれながらにそういう性質を持った人間でしょうが、
群れ全体の中の役割を敏感に察して行動する場合もありそうです。

誰が威張っているという時代ではなく
食料などは完全な平等を貫かれていたということなので、
従うということに何らへりくだる要素を感じる必要もなかったのだと思います。
全員が自分の役割を積極的に果たして
群れの犠牲者を出さないようにしたはずです。

これが群れに協調するということです。
どうやってそのような技を人間が身に着けたかというと
初めからそういう能力を持っていたという偶然なのだと思います。
たまたまそういう能力を持っていたから生き残ったのであり、
そういう能力を持たなかった自由人たる個体は
厳しい自然環境に適合しないでほろんだということになると思います。

私たちはそういう適合した人間の子孫ですから
どうしても秩序に迎合してしまう特性を持っているわけです。
しかしその中にも、もともと「最初の行動者」の
血を濃く引き継いだ人たちも生まれるわけで、
秩序に迎合しようとしない人たちということになるでしょう。

現代社会は、様々な群れにおいて
「一般」の人たちの割合が多くなってしまっていて
「最初の行動者」が排除されてしまう傾向があるように感じられます。
しかし、「最初の行動者」が尊重されている群れは
とても強い群れになり、
尊重されていない群れはとてももろい側面を持っていると
いうことになると思います。

<その他の秩序への迎合例>

これまでこのブログで迎合例をいくつか書いています。
両親による児童虐待の例は、
この迎合の理論がよくあてはまると思います。
年齢の割に強すぎる言動でのかかわりを
どちらかが夫婦の間の秩序に迎合して容認する
結果として虐待行為がエスカレートしてしまう。

私が少しかかわった事例でも
離婚後の母親が、娘の性的虐待を
事実としては認識しているのです。
でも、それが新しいパートナーの行為だということを
どうしても認めようとしなかった例があります。
頭ではわかっているのに、気持ちでは否定しようとする
そういう現象だと解釈しました。

そもそも配偶者からの虐待を
第三者に助けを求めることができないことも
迎合の理論で解釈できるのかもしれません。
夫婦という共同体に第三者から介入されることを
無意識に避けているのかもしれません。

パワーハラスメントなんて言うのも
迎合の理論で考えるとわかりやすいですね。
会社本部の設定したノルマの達成を最優先し
つまり会社の秩序に迎合して
従業員に対して罵倒してでもノルマを達成させようとする
そういう場合にパワハラが生まれることがあります。

パワハラを受けている同僚を見て見ぬふりをするのも
こちらが攻撃されることを恐れてというよりも
できてしまっている秩序を壊せないという
心理的プレッシャーがあるというほうが近いようです。

フェイスブックなどで
誰か政治的なリーダーみたいな人が記事を上げると
反対派に対して罵倒するコメントが並びます。
これなんかも典型的な迎合行為ですね。
アンチ権力という共同体ができていて
その共同体の趣旨に反しなければ
安心してコメントを出して、
賛同が得られることに喜びを感じているのでしょう。

最初に記事をアップした人と比べて
コメントは気が利かない極端なものが多いのも
積極的に迎合した結果なのでしょう。
共同体の秩序に沿ったものになっていますが、
通常は共同体の外にいる人が
そのコメントに賛同することはほとんどないようです。

多くの政治的な思想の共同体の構成員ができれば
有力な野党ができるのだろうと思います。

与党になるためには、それだけでは足りないようですが、
共同体が形成され、迎合の理論が通用していることには
変わりがないように感じます。

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いじめによる被害は想像するより深刻である一つの理由。「深刻ないじめ」とは「いじめ共同体」という秩序を形成することが本質であること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

普通の子どもの行動がいじめになり、普通の子どもがいじめを傍観して、いじめのターゲットが自死に至るような「深刻ないじめ」が起きてしまうメカニズムを説明します。
目次
1 からかいが「深刻ないじめ」に育ってゆく流れ
2 いじめ共同体という秩序
3 いじめの被害の本質、深刻な被害はどのように起こされるのか
4 なぜ、その人は、いじめのターゲットになるのか
5 いじめを深刻にしない方法

1 からかいが「深刻ないじめ」に育ってゆく流れ

 どんな深刻ないじめも、初めから強烈な攻撃が始まるわけではありません。もし初めから理由なく強烈ないじめが起きたならば、あからさまに悪い加害者が悪いことをしているのですから、さすがに大人が適切な対処をするでしょう。どんな「深刻ないじめ」も、最初は、いじり、からかい、ちょっとした悪口などがから始まります。いじめの第一歩は、どこの学校でも、習い事でも、スポーツ少年団の中にもあるありふれたこととして、日々起こっています。そして、多くは「深刻ないじめ」に発展しません。
「深刻ないじめ」につながる「最初の行動」を行った「最初の行動者」は、からかったことに対する周囲の反応を気にしています。例えば、「なんだお前、ズボンからシャツが出ているぞ。」ということを言ったことで、周囲から自分が否定的な評価を受けるのではないかと思っているはずです。例えば「こっそり言えばいいじゃないか。」、「そんなこと言わなくてもよいじゃないか。」、「俺は言わなかったよ。」、「自分だってだらしなく服を着ているだろう。」、「お前は先生か。」等々です。実際こういうツッコミがあって「深刻ないじめ」に発展しないで終わることが多いでしょう。
「深刻ないじめ」に発展する場合は、ここのポイントであいまいな容認が行われているようです。積極的に同調することがなくても、あるいは言葉では「そんなことを言うなよ」と言ったとしていても、目が笑っていたり、うなずいていたり、「最初の行動者」からすれば、自分の「最初の行動」が、容認された、ウケたなどと肯定的な評価を得た感覚を持つ事情があるようです。
この容認の後で、ターゲットが再びからかわれるすきを見せると、一度容認されたという経験を持つ「最初の行動者」は、第1回目のからかいよりもターゲットに対する強い行動をします。言葉や身体的接触は強くなり、行動時間は長くなります。
ここでも、誰かが、「最初の行動者」に否定的な評価を加えることをすれば、例えば「もうやめろよ」とか「それはしらけるよ」とか言ってしまえば、「深刻ないじめ」にはつながらないのです。それをしなければ、この段階でも自分の行動が容認されたという体験が重ねられてしまい、だんだん自信が積み重ねられていくわけです。そのうち、自分が、ターゲットをからかう集団の中での役割を与えられたという意識が芽生えてくるようです。周囲から行動を期待されているという感覚です。そうなると、ターゲットが落ち度を見せなくても、無理やり理由をつけて、攻撃を繰り返していくようになるのです。
それにしても、どうして罪もない他者であるターゲットを攻撃するのでしょう。一般に他者を攻撃する場合は、「自分を守る必要性」を感じていることが背景にあります。自分が何らかの危険にさらされている場合、不安を感じるわけです。動物は、不安を感じると不安を解消したいという要求が起きます。この不安解消要求に基づいて逃げる行動と戦う行動のどちらかを選択します。原則は逃げる行動ですが、相手と戦った場合は勝てると思ったり、仲間を守るために戦わなくてはならないという意識を持ったりしたときは、逃げないで戦うことを選択します。いずれにしても、戦う行動をする場合は、まず不安を感じているわけです。自分が攻撃されている、安心できない状況だという不安の意識です。この不安を解消するために他者を攻撃するのです。それにしても、これだけいじめの問題がありふれた問題になっているということは、現代日本の子どもたちの多くが何らかの不安を感じているということになります。国際機関は、日本における過度の受験競争を指摘しています。いつの時代にも大学受験はあるのですが、受験競争の意味合いが、激しさが、例えば昭和の年代とはかなり異なっているようです。ある大学の医学部の偏差値が、30年前よりも10以上も上がっています。有利な職業に就くための競争が激しくなっているのです。30年前には、大都市圏にしかなった中学受験が一般的になりました。中高一貫教育は、子どもたちにゆとりを与えているのではなく、受験対策を小学生やそれよりの下の世代まで早期化しているだけのようです。ブラック企業、リストラ、派遣、有期雇用、無保険者などのキーワードがマスコミや漫画などを通じて直接、あるいは、親の焦燥感を通じて間接的に、子どもたちに伝わっているようです。子どもたちは、危機意識をもたされ、緊張感が持続しているようです。
子どもたちは、持続する緊張から逃れたいという不安解消要求を持ちますが、子どもたちにとっては、不安を解消する手段は見つかりません。そうすると、ますます不安解消要求が大きくなってゆくのです。
このような状態のときに、誰かをからかったり、攻撃することで、緊張が一時的に和らいだり、忘れたりするという体験をしてしまうとどうなるでしょうか。誰かを攻撃することによって、一次的に、解放されたような快い気持ち感じているのかもしれません。ターゲットに対する怒りは、不安を解消するために選択した攻撃の感情なのです。攻撃をすることによって怒りの感情を持ち、怒りの感情を持つことによって、自分の不安を解消するのです。これがいじめの「八つ当たりの構造」です。
この「八つ当たりの構造」が、「最初の行動者」、「最初の行動者の取り巻き」、「一般傍観者」で共有されることによって、深刻ないじめが完成されます。彼らは、すべて同じような不安を共有しているのです。

2 いじめ共同体という秩序

この「深刻ないじめ」の完成を秩序の観点からみていくことは、いじめとは何かについての理解を深めます。
「最初の行動」が起きたときは、秩序は一般の社会秩序、学校の秩序の中にあったはずです。ところが、最初の行動の後で、いじめが繰り返されて攻撃性を高られてしまい、それが名誉を侵害する言動、暴力、物を壊す行動、物を隠す行動という行為が現れた段階では、犯罪ですから、一般の社会秩序に反する行動をしているわけです。しかし、それが大勢からとがめられることがないという段階に入ると、「いじめ共同体の秩序」が生まれていることを意味します。子どもたちの行為は無秩序に、ゲリラ的に行われているように見えますが、そうではありません。行動する人、積極的に加担する人、容認する人という役割分担が生まれてきます。それぞれが自分の役割感をもち、その役割を遂行することで「いじめ共同体」の秩序が形作られているのです。いじめの「ターゲット」以外のその場にいる人間たちの共同作業が行われていると言って良いと思います。人間は、何らかの共同体に帰属してしまうと、その共同体から離れまいとする無意識の行動をしてしまいます。群れを作る動物である人間の性質です。その行為が良い事か悪い事かなどの判断より前に、共同体の秩序に従おうとしてしまうのです。秩序に迎合しようとしてしまう動物のようです。
「最初の行動者」のターゲットをいじめる役割感というものも、この秩序を維持しようとするという人間の本能から生まれるものだと思います。
「最初の行動者のとりまき」の役割に基づく行動は、「最初の行動者」のエスカレートした行為を強く否定しないことから始まります。なぜ、強く否定できないのでしょう。意外なことにそれは仲間に対する優しさなのです。一般社会秩序から見れば、「最初の行動者」が悪いことをしていることは明らかです。しかし、悪いことを悪いと評価して、否定的な言動をすることは、「最初の行動者」と「最初の行動者のとりまき」との元々あった秩序を壊すことになります。これを恐れて否定的な言動をできないようです。ある意味、仲間をむやみに責めない、否定しないという健全な感覚がゆがんだ形で表れていると言えると思います。「最初の行動者のとりまき」の承認行動は、「最初の行動者」に対する優しさ、寛容なのです。それは「ターゲットに対する冷酷な仕打ち」ということを同時に意味します。これを読んで眉をひそめる大人も多いことと思います。しかし、仲間に対する優しさが、同時に仲間以外に対する不利益になるということは、現代社会に一般的にみられる現象です。現代社会の複雑さということはそういうことなのです。人間は、一方に肩入れしてしまうと、他方の利益を同時に考える能力は乏しいようです。そのために、自分の肩入れをしない方の落ち度を探し出すということを無意識に行い、精神的なバランスをとっているようです。
さて、一度、大事な出来事でいじめの端緒行為を追認してしまうと、「最初の行動者のとりまき」たちも、秩序を維持する方向で行動するようになります。単に「最初の行動者」のからかい行為を笑っているだけでなく、自分も攻撃に参加するようになることも多く見られます。それは、「最初の行動者」に対する優しさ、同調であることが多いと思います。「ターゲット」をいじめたいからいじめるのではなく、いじめることが面白いからでもなく、そういう秩序に沿った行為をしなくてはならないという義務感すら感じて行動しているようです。
「最初の行為者」と「最初の行為者のとりまき」のあいだで、「いじめ共同体の中核的秩序」が生まれたことになります。そうやって複数人の間で秩序が形成されてしまうと、その雰囲気、秩序を守ろうとする雰囲気はその他の傍観者たちにも広がっていきます。よく、なぜ傍観するのかということの答えとして、「注意すると攻撃が自分に向かうことを恐れて傍観する」という表現が使われます。しかし、実際傍観していた人に話を聞くと、それを認めようとしない人が多いのです。傍観者たちにも「ターゲット」がかわいそうだという気持ちがあるし、攻撃者に対する怒りもありながら、介入して「ターゲット」を守ることしません。自分への攻撃がいやなことは間違いないのですが、それだけで傍観しているわけではないようなのです。それではどういうことなのでしょう。傍観者たちの話を総合すると、「最初の行動者」と「最初の行動者のとりまき」が、その「場」の秩序を作っているため、自分が介入することによって、自分がその秩序に反する行動をしてしまうということで、介入ができなかったようなのです。秩序に消極的にでも迎合してしまった結果、介入をしないばかりか、事後的なフォローとしてのターゲットに対する声掛けもできなかったようです。すでにでき始めた秩序、ターゲットを攻撃するという秩序に消極的に迎合することが傍観なのです。
しかし、どうしても疑問が生まれます。学校という閉鎖空間にいるとしても、もちろん殺人や窃盗が悪いことだという知識はありますし、実際にそれを行えば警察に捕まるということは知っているはずです。大きく言えば一般社会秩序の中にいることも間違いがありません。それなのにどうして、簡単に一般社会秩序違反を気にしないで、「いじめ共同体」の秩序に従ってしまうのでしょうか。
一番に考えなければいけないことが、子どもたちが一般的社会秩序に恩恵を感じていないという可能性があることです。社会は、自分たちを安心させないで、緊張を強いる、恐怖を感じさせる、不利益を与え続けるという意識があるということです。一般的社会秩序を守るより「いじめ共同体」の秩序を守ったほうが、自分は守られると感じていることになってしまえば、その子どもたちにとっては一般的社会秩序は存在する力を失うでしょう。ちょうど、学校をドロップアウトして行き場のない若者たちが、徒党を組んで非行行為をする場合があり、つまらないことで対抗グループとの死闘が行われることがあります。一般社会秩序を守ろうという意識はとても低いのですが、仲間の一大事から自分だけ逃げることによって非行グループの秩序から逸脱することのほうが怖いようなのです。同じような心理状態なのかもしれません。
このような社会による心理的圧迫、生きづらさ、あるいは緊張とその解放要求という心情を共有することで、一般社会秩序を逸脱した行動の仲間である「いじめ共同体」の形成を容易にしているのだと私は思います。自分に緊張と不安を強いる社会の中で、いじめ共同体の中にいるということで、つかの間の休息を得ているような印象を受けます。
このように、いじめを傍観するのは、すでに形成された秩序に迎合するという理由と、傍観者が自分自身の不安を解消しようという自分の心理的事情があることになります。誰かが攻撃されていると、攻撃されている子どもよりも、自分は優越的地位に立っているという意識をもつことによって、不安が一時的に緩和されるという効果もあるかもしれません。
悪いことなのに、悪いと言わないでいじめを放置するもう一つの理由は、慢性的不安による思考能力の低下という問題もあります。
先ほども述べましたが、怒りは自分の何らかの不安、危険意識を解放させるための行動である「攻撃」に伴う感情です。先行して、不安感、緊張感の持続があったわけです。不安感、緊張感、怒りという生理的現象がおきると、複雑な思考をする能力が著しく減退します。分析的な思考ができなくなります。二者択一的な思考になったり、これをすれば将来どう言うことが起きるということを考えなくなったりします。他人が自分の行為によってどのような感情になるか、今彼はどのような気持なのかということについては脳が動かなくなるのです。ターゲットの感情は気にならなくなるので可哀そうだという気持ちは強く感じられません。このままいじめが続くことによって自死や不登校などの事態になるなんてことは頭の片隅をかすめることができれば優秀な脳ということになるでしょう。二者択一的な思考は、いじめ共同体に自分も入るか、いじめられる方に味方するかという問題提起を自分に行うことで精一杯になってしまうようです。大人と相談していじめを穏便になくそうということは、はじめから選択肢に入っていないのです。
また、怒りは、自分に不安を与えるものを攻撃して存在を消去することによって不安を解消しようという性質を持ちます。怒りがこのようなシステムを持っているために、一度怒りの感情に火が付けば、ターゲットを完全に消去しようとする傾向があることになります。途中でやめることができないシステムです。怒りはいじめをエスカレートする性質をもっています。
「いじめ共同体」は、社会的な存在としての生きづらさという感情を共有しますが、さらにいじめが進行していくうちに、いじめをしたことの後味の悪さ、発覚したときの不安を共有していきます。これはいじめをやめる方向には向かわせず、「いじめ共同体」の結束こそを強くします。いじめはエスカレートするようにできているわけです。
なかには、いじめがエスカレートした段階でも、いじめに反対して抗議する子どももいます。「いじめ共同体」の秩序に入らない子どもということになります。こういう子どもは、もともと、一般的な子ども同士の共同体秩序にあまりなじめていなかった子どもたちであることが多いようです。人間の多くは、その秩序が一般的な秩序からみて正しかろうが間違っていようが、秩序に迎合していくものです。いじめを止めるか否かは、正義感の強さということもあるでしょうが、正義感よりも共同体秩序に迎合しない個人の性質というものが決め手になっているような印象を持ちます。今、学校では、こういう変わり者は冷遇されているようです。これがいじめがだれにも止められない原因になっているように感じます。そういう子どもが、教師から冷遇されているので、「いじめ共同体」を構成する子どもたちから、いじめに対する抗議というまっとうな意見なのに賛同を得にくいのです。

3 いじめの被害の本質、深刻な被害はどのように起こされるのか

 これまでみてきたとおり、「深刻ないじめ」は「いじめ共同体」による組織的な行為です。共同体による行為というよりも、「いじめ共同体」が作られることで完成します。いじめのターゲットは、いじめの初期段階では、いじめられているのに笑顔を見せていることがよく報告されます。この理由も簡単です。笑うことで、自分に対するいじめを容認して、自分も共同体の一員だということをアッピールしているのです。大変痛ましい現象だと思います。
 ターゲットにとって、「深刻ないじめ」によって深刻な影響を受ける理由は、悪口を言われた衝撃でも、暴力を受けた痛みでもありません。怖いから学校に行きたくないということでも、痛いから学校に行きたくないというわけでもないようです。心の痛みの一番の原因は、自分が「いじめ共同体」の外に置かれたことです。
 先ほど述べたように、「最初の行動者」のいじめ行為が、「最初の行動者のとりまき」によって承認されるのが、その仲間内のやさしさが原因であると言いました。それは同時に、自分という存在を否定されていることです。その場にいるターゲットは、そのことを肌で感じ取るわけです。悪いことをした「最初の行動者」が許され、やさしさの対象となるのに、悪いことをしていない自分が否定されることが容認されるということです。それは、精神的にパニックになってもおかしくないでしょう。いじめ行為によって傷つく以上に、いじめが容認されたことによって傷つくことは当然です。
自分以外の自分の周囲の人間が、自分を攻撃していることで結束していると感じることは、自分が人間扱いされていないという恐怖感情を与えます。自分が自分の周囲にいる人間から存在自体を否定されているということです。学校に来ると、自分は守られていない、仲間として認められていないということです。具体的ないじめエピソードが続かなくても、気が休まらないどころか、常に危険意識を持ち、高度な緊張感から解放されることはないでしょう。そうして、先ほど来説明しているように、そのような危険意識、不安を感じると、その不安を解消したいという要求が生まれますが、ことごとくその要求は否定されます。ますます、要求が大きくなっていき、慢性的な危険意識、不安感が、どこまでも持続していきます。これは人間の脳の限界を超える事情に簡単になってしまうようです。合理的な思考、解決のための分析的思考は著しく減退し、精神は破綻してしまうことがよくあります。それほど激しい暴力がなくても、それほど激しい罵倒がなくても、自分だけが仲間から外され、自分が攻撃されていても誰も助けてくれないという意識は、やがて自分で自分を否定する思考も起こされることがあります。自分という存在に全く自信を持てなくなり、家から出られなくなったり、これからもこうやって生きていくことを考えると自分の体を傷つけて心の痛みを忘れようとしたりするようです。子どもの頃のいじめが、統合失調症のような症状を出現させ、精神病院への入退院を繰り返させ、引きこもりや自死に向かわせることは、このように考えるともっともなことのように思えてくるのです。
いたましいことに、自分がそのように、学校では普通の存在ですらないということは、家族に知られたくありません。家族の中でも、そのような可哀そうな存在として扱われることは、家族という組織にいることも許されないのかと感じるようです。深刻な八方ふさがりの状態になります。いじめ被害の本質は、この絶対的孤立感にあると考えています。この絶対的孤立感こそ、人間が最も苦手な感覚なのです。
 いじめ相談を受けていると、私から見れば、勇気を出してターゲットを気遣い、フォローする子どもたちがほぼいるようです。ターゲットは、そのフォローである声掛けや情報提供の事実を認識しているのですが、自分が気遣われているというような評価をしないものです。おそらくこれは、フォローをする者は、まさにターゲットが攻撃を受けているときには、「いじめ共同体」の一員としてその秩序に迎合しているとターゲットは感じているのでしょう。どんなにフォローする者にとってその場にいることで苦しんでいたとしても、秩序の外に置かれたターゲットにとっては、あちら側の人間だと感じているのだと思います。いじめの解決の第一歩は、ターゲットが思っているほどターゲットは孤立していないというところをターゲットと家族にしてもらうことから始めます。

4 なぜ、その人は、いじめのターゲットになるのか

 これまでの分析に一片の真実があるとすれば、いじめのターゲットになる人物像というものが見えてきます。それは、「子どもたちの秩序になじめない子ども」ということになります。傍観者となる人間からみても、いじめのターゲットになる子どもに対して共感を持ちにくく、むしろ加害者の方と日常的な心の交流があるということが多いようです。他者から共感を示されないということは、他者に対しても共感を示せなかったり、共感の示し方が弱かったりするようです。加害者、傍観者から見れば、なかなかなじめない存在のようです。そうすると、「いじめ共同体」ができたときも、ターゲットはそれ以前から共同体の外にいたという感覚を持ちやすくなってしまうようです。
 このようになじめない存在になってしまう一つの理由に、突出した行動をする子どもであるというケースもあります。突出してピアノがうまい、突出して成績が良い、突出して容姿が整っているなどの理由で、共同体秩序から外される場合もあるようです。「最初の行動者」たちの嫌がらせや、やっかみは、通常であれば、周囲から受け入れられません。しかし、ターゲットがクラスでなじみのない存在の場合は、嫌がらせが容認させる条件になってしまうようです。
 また別のケースは、多くの子どもたちが気にして、努力して、なんとかついていこうとする「こと」に対して、平然として、努力せず、ついていこうともしない場合です。進学について努力しない、校則についてあまり気にしない、身だしなみが人並外れてルーズだ、部活動も平気でさぼるという場合です。自分の努力して行っていることをターゲットが平然と踏みにじる場合、奇妙な正義感のような怒りが生まれるようです。そのような努力をしている子どもが圧倒的多数になれば、努力をしない子どもは、簡単に共同体から外されてしまいます。気に留めていただきたいことは、ターゲットにされる子どもが、自分の意思で努力をしないのではなく、何らかの事情で努力ができない場合が多いということです。子どもたちの正義感が、実は、学校など大人の子どもたちに対する統制行動を反映していることも多いような気もします。また、子どもたちにとっては、それをしないことが不安であるのに、ターゲットはそれをしないということに不公平感を感じている節もあります。いずれにしても、それがターゲットがいじめられることを正当化するものではありません。人間が周囲から追放されることが許される事情はないと思います。
  
5 いじめを深刻にしない方法

 子どもたちに不安、緊張を与えない社会にすることが根本的な対策だと思います。多少失敗しても、安心して生活できる社会であり、無理して頑張らなくても生活ができる社会になることが必要だと思います。しかし、その実現が難しいからと言って、いじめの問題を放置するわけにはいきません。いじめ被害の深刻さは、その人の一生を台無しにするからです。今すぐできることを考えてみました。
1) いじり、からかいをさせない
いじり、からかいをさせないように誘導することが一つの有効な方法になると思います。この場合、いじめやからかいを禁止するという発想ではうまくゆかないと思います。どうも教育機関には、禁止か容認かという二者択一的思考が蔓延しているように感じる時があります。いじめやからかいをしないコミュニケーションに誘導することが大切です。子どもたちに、そういう誘導係を設けて、自分たちで大きな秩序を作るように誘導することが有効だと思います。現在学級委員という制度が無くなったそうですが、いじめの発生との関係を調査してみるのも面白いと思っています。
このようにからかいやいじりをしないようにさせようと問題提起をすると、人間関係のための潤滑油だとか必要悪だとかとか言う人たちが出てきます。そうです、セクシャルハラスメント的言動を温存させようとする人たちと同じです。だから、いじりを温存する人たちに対しても同じ理屈で批判することができます。そのようなことがなければできないコミュニケーションならば無理してコミュニケーションをとらなくてよいということです。
私は、極論を持っています。学校では、「さん」とか「君」とか敬称をつけて姓で呼び合うべきだと思っています。その子どもが家族とつながっている存在だという意識を持たせることが有効だと思っています。学校は学びの場です。必要以上に近しい感覚を持つ必要はないと思います。教師も、子どもたちをファーストネームで呼び捨てにすることをしてはならないと思っています。人間は敬意を払いあう存在だということをこういうことから始めることが有効だと思っています。
2) 教師の役割
 教師、特にクラス担任の役割は、あるべき秩序を作ることです。学級内に個別のグループを作らないということは不可能だと思いますし、必要な場合もあります。それとは別にクラス全体の秩序作りということを意識するべきです。何かにクラス全体で取り組むことが有効だと思います。クラス全体で取り組むのは目標があった方がやりやすいのですが、そのためにクラス対抗にしがちです。そうすると、取り組みにうまく参加できない子どもがいる場合は、その子を攻撃することが起きてしまいます。これでは逆効果です。何とか、失敗する子、うまくゆかない子を助け合い、補い合う仕組みが生まれればよいのです。それができれば、クラス対抗でもよいかもしれません。
 このように秩序を誘導するのは、クラス担任であるべきだと私は思います。いつも一緒にその子どもたちといて、何らかの権威を持っている人でなければ秩序形成は難しいからです。逆に、クラス担任がいじめを容認してしまうと、「いじめ共同体」の秩序が簡単に形成され、強いものになってしまうので、注意が必要です。間違っても教師が、特定の子どもを秩序の外に置くような暴力や、排除をしてはならないということになります。
 但し、教師が、子どもたちと別の立場で秩序を形成することはなかなか難しいことです。先に述べたように、教師と子どもとの共同作業で秩序を形成することが望ましいのです。
 また、いじめを認めた場合、教師は「えこひいき」という批判を恐れずに、徹底的にターゲットをかばうべきです。「いじめ共同体」の秩序を否定して、一般的な社会秩序、弱者保護を実践して見せつけることが、「いじめ共同体」秩序への迎合を阻止する有効な方法になるでしょう。弱者保護の形を示して子どもたちにもまねをさせるということです。その場合も、「最初の行動者」や「最初の行動者のとりまき」を排除するのではなく、一般社会の秩序に復帰させることが肝心です。
3) 弱者の心理に対する推測、共鳴の訓練
いじめが深刻になる時、ターゲットの苦しみや寂しさ、怖さに共感ができないという現象が起きています。これは犯罪が起きる場合にも一般的に起きています。被害者の被害を考える余裕がなくなっているのです。再犯防止のためには、被害者の具体的な被害、もっと具体的には困っている顔、苦しんでいる顔、不安におののいている顔を想像してもらうところから始めます。これを事前に行うことによって、具体的ないじめ行為と人間の苦しみを結び付ける作業をするわけです。誰しも、仲間外れにされた時はこういう感情を抱くのだということを予め教えておくということです。これは、行動制御に有効なのです。
4) 人間の多様さに対する価値観を持たせる
これほどいじめや、10代の自死が減らないで増えているということを深刻に見るべきです。もしかしたら、現代の学校教育の何かがいじめを誘導している可能性はないかと顧みるべきでしょう。
学校主導でいじめが始まることもあるようです。落ち着きのない子が、教師から授業妨害をする者という評価が下され、他の子どもたちにあからさまに示されると、これが直接的に共同体から外されるという事態を招くことがあるようです。実務的には、理想論ばかり言うわけにはいかないので、難しい問題なのかもしれません。授業中に不規則行動をすることは改めるよう指導する必要があるのですが、他の子どもたちの共同の敵のような扱いをすることは厳禁です。
できるだけ、色々な子どもたちにそれぞれ価値があるということを実感として身に着けさせるべきです。そもそもいじめを止めてきたのは、子どもの秩序になじめない変わり者たちだったのです。変わり者の代表として私は、変わり者の価値を主張します。しかし、このような変わり者は、学校からすると煙たい存在として扱われることも多いようです。その他、行動のおそい子、人と違う感じ方をする子、少しルーズな子、几帳面な子、不安を感じやすい子、そういう様々な個性を持った子どもたちが、それぞれ価値があるということを、大人が示すべきです。実際、そういう様々な個性が尊重される社会、共同体が強い共同体なのです。同質の構成員ばかりの共同体はとてももろいところがあります。多様な個性を持つ子どもたちを、子どもたちの秩序の中から外さないということが、多様な価値観を尊重するということだと思います。これまでの学校教育が、画一的な人間像となることを目標としてしまっていたということはないでしょうか。
学校の中でも少なくとも公立の義務教育機関は、教育という意味を改めて考える必要があると思います。根本的な社会の問題が色濃く影を落としているということなのでしょうが、学校が児童生徒の人格の向上という目標を忘れ、予備校と化しているということはないでしょうか。保護者も含めて学校の在り方を話し合って、何を一番大切にするかを考えなければならないと思います。
大人が、自分たちを反省することからいじめ予防は始めなければならないのだと思います。




  


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