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ロサンゼルス暴動を対人関係学の立場から分析してみる Los angels rlot 1992 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

ロサンゼルス暴動を対人関係学の立場から分析してみる

先日、テレビでロサンゼルス暴動の特集を観ました。
つい28年前の出来事であり、記憶にも残っていたのですが、
そのテレビ番組で新しい事実を知ったことで
群集心理というか、人間の感情、秩序等について、
対人関係学の考えを説明するための
ちょうどよい教材であることに気が付きました。
知識はペディアで補充しています。

目次
1 ロサンゼルス暴動とは何か。関係する事件を含めて
2 暴徒化の原因と暴徒化する条件
3 罪のない人への攻撃はどうして起きたのか
4 テレビで事件を知った人はどうして被害男性を助けようと思えたのか。
5 事件はどうして終息したのか

1 ロサンゼルス暴動とはなにか。背景となる事件を含めて
 1)ロサンゼルス事件
1992年4月29日、のちに述べるLA市警の警官への無罪評決をきっかけにアフリカ系アメリカ人たちが暴徒と化し、ロサンゼルス市街地で暴動を起こして白人や韓国系アメリカ人が経営する商店を襲い、放火や略奪をおこない、 これがロサンゼルスだけでなく広範囲に広がった。
映像も残っているが、たまたまLA市内をトラック輸送仕事で走行していた白人トラック運転手、レジナルド・デニーが交差点で信号待ちをしていた際、暴徒化したアフリカ系アメリカ人にトラックから引きずり出されて、コンクリート塊でこめかみを強打したり、頭部に数十キロの鉄の塊(エンジンブロック)を投げ落とされたりした。この暴行をTVのライブ中継を見ていた地域住民のアフリカ系アメリカ人によって、彼は助け出されて病院で開頭手術などを受け一命を取り留めている。
主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることをしなかった。
暴動による被害は死者53人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。被害総額は8億ドルとも10億ドルともいわれる。この事件での逮捕者は約1万人にものぼり、そのうち42%がアフリカ系アメリカ人、44%がヒスパニック系、そして9%の白人と2%のその他の人種が含まれていた。
 2)ロドニー・キング事件
1991年3月3日、アフリカ系アメリカ人男性ロドニー・キングがスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道されアフリカ系アメリカ人たちの怒りを膨らませた。 白人警察官に対する裁判の結果、警官達の“キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった”との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した92年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。これについては、白人住民の多かったシミ・バレーで法廷が開かれ、陪審員にアフリカ系アメリカ人含まれていなかった事も原因の一つであるといわれる。 この裁判の報道の1時間後にロサンゼルス暴動は始まった。

 3)ラターシャ・ハーリンズ射殺事件
1991年3月16日、アフリカ系アメリカ人の少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズが韓国系アメリカ人の女性店主、斗順子(トウ・スンジャ、Soon Ja Du、当時49歳)によって射殺された。店主は少女がジュースを万引きしたのだと勘違いして少女を咎め、もみ合いとなった末に少女がオレンジジュースを店において出ていこうとした。その時は店主によって背後から銃撃頭部を撃ち抜かれて少女は殺された。事件の判決は同年11月15日に出されたが、殺人罪としては異例に軽いものであった。この判決はアフリカ系アメリカ人社会の怒りを再び煽ることとなり、無実のアフリカ系アメリカ人少女を射殺するというこの事件により、アフリカ系アメリカ人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。

2 暴徒化の原因と暴徒化する条件

 1)原因
暴徒化の要因として、ロドニー・キング事件とラターシャ・ハーリンズ射殺事件がきっかけになったことは間違いない。二つの事件は、それぞれの被害者だけの問題ではなく、アフリカ系アメリカ人全体が当時の社会の中で置かれた状況を象徴的に表していた。二つの事件の被害ほど深刻ではなくても、ロサンゼルスのアフリカ系アメリカ人であれば、誰もが差別的取り扱いを経験したことであったと思われる。二つの事件は。氷山の一角だったはずだ。
問題はその社会の状況が暴動につながる、そのメカニズムである。不合理に対する怒りということが言われる。もちろん、それも間違ってはいない。しかし、怒りが暴動に発展するメカニズムをもう少し分析的に理解する必要があると思う。不合理な扱いがなされれば必ず暴動が起きるわけでもない。
まず、理解していただきたいことは、怒りとは危険を感じた場合に出現するということである。自分か自分の仲間の危険である。人間も哺乳類の多くも、危険を感じ取るとまず不安を覚えて、この不安を解消したいという要求が生じる。この要求に基づいて、逃げるとか戦うという行動に移ることができる。不安を解消する行動とは、危険から逃れようとすることが動物の原則であるが、相手を攻撃して危険を消滅しようすることもある。逃れようとする場合の感情が恐怖であり、攻撃して解消しようとする場合の感情が怒りである。まとめると、怒りには、自分か仲間に対する危険の覚知が先行する。
ロサンゼルス暴動においては、ロドニー・キング事件とラターシャ・ハーリンズ射殺事件が先行する。そこから推測できる危険とは何かを考えてみよう。
二つの事件から導かれる社会的状況からは、当然、身体生命の危険を感じたであろう。些細なことで、自分を守るべき警察官によって、逆に瀕死の重傷を負わせられたロドニー・キング事件、また勘違いで攻撃されて無防備な状態で射殺されるという事件。アフリカ系アメリカ人というだけの理由で被害者になったのだと感じれば、アフリカ系アメリカ人にとっては、日常的に深刻な生命身体の危険にさらされていたことになる。
しかし、もう一つの危険が存在する。それが対人関係的危険である。アフリカ系アメリカ人は、ロサンゼルス、あるいはアメリカという社会において、自分が仲間として認められていないという危険意識、疎外感を強く抱くようになったはずだ。その後の裁判においても、加害者が優遇されれば、自分たちは守られていない、尊重されていないという認識が深まるだろう。事件が起きた時に感じていた対人関係的危険は、裁判によって強固なものになった。白人の支配層からは人間として尊重されていないという不気味な危険意識があった。韓国系商人からは、自分たちの存在がやがて韓国系商人にとって代わられるという将来に対する大きな不安があったが、これが裁判によって州ぐるみに行われているという絶望感を抱いたのだと思う。誰かに差別されているのではなく、社会ぐるみで差別されているという感覚になったと思われる。
つまり、ロサンゼルス暴動という大きな怒りは、大きな危険の意識、危険解消の要求に支えられていたのだ。ロサンゼルス暴動においても、その直前に身体生命の危険と、対人関係の危険の深刻な状態をいやというほど感じさせられ、この二つの危険からの開放要求がとてつもなく強くなっていた。
しかし、この危険と危険解消の要求だけでは、それは不気味な恐怖が主たる感情だったはずだ。これが、具体的な怒りの集団行動に至るためには、次に述べる条件が必要だったと考えられる。
2)条件
暴動化の条件は、危険と危険解消要求を共有する仲間の存在が強烈に意識されたことである。
まず、危険を感じる側のカテゴリーが、きわめてわかりやすかったことである。アフリカ系アメリカ人に対する差別であるから、外見からわかりやすい。差別されている「自分たち」が見てわかるというわかりやすさがポイントだった。
ロドニー・キング事件の警察官に対する無罪評決が起きたとき、怒りのポイントもわかりやすかった。この裁判のニュースの後に、街で歩いているアフリカ系アメリカ人が見知らぬ人間だったとしても、彼らが怒りを表明していれば、それはロドニー・キング事件の無罪評決への怒りであることが「自分たち」の間で簡単に確認しあえたのだ。
街を歩いている見ず知らずのアフリカ系アメリカ人たちの間で、説明を抜きにしても一つのことで怒りを共有している仲間であるという連帯感が生まれた。コミュニティが即席に成立してしまったのだ。ロドニー・キング事件評決の怒りであり、アフリカ系アメリカ人への差別に対する憎しみというテーマにおいては。即席の仲間の利害は完全に一致していた。
仲間ができてしまうと、仲間の秩序が形成されていった。ロサンゼルス暴動においては、支配層である白人社会が、社会秩序維持の装置である裁判によって、アフリカ系アメリカ人に危険の意識を与えていたという背景が重大な問題である。このために、「既存の社会秩序」は自分たちを守るものではないという感覚を持たされてしまっていた。秩序のうちの差別の部分だけに反対するという理性的な分析と行動はもはや期待できない状態になっていた。このため、既成秩序であれば、すべてが攻撃の対象ということになってしまっていた。
具体的に差別をした白人系企業や韓国系企業だけでなく、差別をしなった企業も含めてあらゆる白人系企業や韓国系企業が放火や略奪の対象となった。自分たちが迫害されているという不安を解消する表現になるならそれでよかったわけである。自分たちに不安を与えるものは存在自体を否定することが不安解消のためには有効だった。専門的かつ正確な表現を使えば、既存の秩序や正義は、自分たちを苦しめるものだ、「くそくらえ」ということであった。

ここで、怒りの特徴の説明を付け加えたい。
まず前提となる不安解消要求が解消行動にスムーズに移行しないと、解消要求は大きくなっていく。その後も合理的な解消行動が見つからず不安が持続してしまうと、不安解消要求もますます肥大化してしまう。そうすると、脳の活動に変化が生じてしまう。複雑な思考をする能力が極端に低下してしまうのだ。思考は二者択一的になり、将来のことまで考えが回らなくなり刹那的な行動をするようになる。「それをすれどうなるか」ということも考えられなくなる。他人の感情という複雑なことも考えなくなる。
次に、仲間の存在を認識すると、不安解消行動としては恐怖ではなく怒りが選択されやすくなる。仲間がいれば勝てるという気持ちが強くなるという事情もあるが、ロサンゼルス暴動の場合は仲間を守るために勝たなくてはならないという使命感が怒りを選択させたようだ。
怒りの行動が始まれば思考の単純化がますます進んでいく。仲間のすることは、否定することができなくなる。人間は仲間だと思う他者を批判することをためらうようになる。だから、放火や略奪が始まっても、それを批判する力が失われる。心の中で、無意識の言い訳をあれこれ行っても、仲間を擁護しようとするのである。その最たるものは、仲間の逸脱行為に参加することである。逸脱行為をしている人間は、自分の逸脱行為をだれにも注意されない、否定されないために、許された行為だという意識が生まれてくる。こうやって暴動の秩序が形成されていく。暴動は、無秩序が生まれるのではなく、暴動をする即席コミュニティの新たな秩序が形成されるのだ。
怒りを抱いているときは、恐怖は感じにくくなる。恐怖を感じない相手を力で屈服させることは簡単ではない。こうしてロサンゼルス市警は暴動を鎮圧することを放棄してしまうのである。

3 罪のない人への攻撃はどうして起きたのか

 たまたまロサンゼルスを通りがかっただけの、罪のない人であるレジナルド・デニーは、自らの行動の罰を受けたわけではない。彼を攻撃した人たちは、彼が誰なのかもわからなかったはずだ。攻撃した人たちが知っていたことは。「彼は自分たちの一人ではない。」ということだけだった。アフリカ系アメリカ人という外見からわかる特徴が「自分たち」をわかりやすくさせた。これは同時に「自分たち以外」の人間もわかりやすくさせてしまった。
 暴徒はすでに二者択一的思考に陥っていた。自分たちは仲間であると同時に自分たち以外の人間であれば敵であり、自分たちを攻撃している者であり、自分たちを苦しめる存在になってしまっていた。強烈な利害関係の一致で形成されたコミュニティからすると、コミュニティの外の者は、同じ人間だという感覚が失われてしまう。敵であり、純粋に怒りをぶつける対象になってしまう。相手に対する共感が排除されてしまい、容赦のない攻撃が可能となってしまった。それが、レジナルド・デニー事件である。

4 テレビで事件を知った人はどうして被害男性を助けようと思えたのか。

 テレビでレジナルド・デニー事件を見ていた複数のアフリカ系アメリカ人は、直ちに現場に駆けつけて彼を救出した。救出した人間相互には面識がなかったという。彼らは暴徒化に加わらなかった。彼らも、ロドニー・キング事件とラターシャ・ハーリンズ射殺事件やその他の出来事から、二つの不安を感じていて、不安解消要求を抱いていたことは間違いないと思う。しかし、暴徒とはならなかった。この点をテレビで見たことと次に述べる暴動の鎮静化のことが、私に本稿への着手を思い立たせた。まず彼らはなぜ暴徒化しなかったのか。
 救出メンバーは暴徒というコミュニティ形成の段階に参加しなかった。暴徒という結果をテレビで見せられただけであった。暴徒コミュニティが、その場の「自分たち」の感情の共有を、相互作用によって作っていくということがよくわかるエピソードである。まず、大声で怒鳴るという少しの逸脱行動を許容し、共有し、こぶしを振り上げるアクションが投石というアクションに発達し、投石が窓ガラスにあたると、自然に破壊活動に育っていき、放火や暴行という行動に発展していくのである。その発展の過程における一つ一つの段階において、「自分たち」の行動に対する許容が起きる。許容さることでもっと大胆な行動に出る。それも許容していく。秩序とは、このように、仲間の行為に対する迎合によって形作られる。一度できてしまった秩序は秩序自体がメンバーの迎合の対象となり、秩序が強いものになっていくのである。強い秩序は、服従ではなく迎合によって作られる。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある
doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05
 救出メンバーは、このような秩序形成過程に参加しなかった。即席コミュニティの住人にはならなかったのである。すでにできた秩序は救出メンバーが是認する秩序に反していた。だから、罪のない被害者に同情することができ、救出しようとすることができた。もともとそのメンバーの「人となり」ということもあったかもしれない。しかし、彼らがうっかり、初めからその場にいたら、攻撃に加わらないということがあったとしても、攻撃を止めるということができたであろうか。疑問を留保しておく。

5 事件はどうして終息したのか

 暴動の終息のきっかけも最近見たテレビ番組で初めて知った。なんと暴動の終息を呼びかけたのは、そもそもの暴動のきっかけとなったロドニー・キングその人のテレビを通じた鎮静の呼びかけであった。
 暴徒化のきっかけは、ロドニー・キング事件の無罪評決であった。暴動化した理由が自分たちアフリカ系アメリカ人に対する差別による不安解消であったが、きっかけは、ロドニー・キングに対する同情であった。暴動の大義名分がロドニー・キングの無念を晴らすということであり、ロドニー・キングこそ、自分たちの象徴的な人物だった。
そのロドニー・キングが怒りを抑えて仲良くしようとスピーチしたとあれば、秩序を統一させていた的がなくなってしまう。怒りが一気にエネルギーを失ってしまったということだったと思う。もともと、怒りという感情も一時的なものであり長続きしない。略奪や放火という生まれながらにして悪いことだと思い続けてきたことを、評価はともかく事実として自分たちが行っていたこともわかってはいた。一気に怒りは冷めてしまい、暴徒化秩序は消滅し、一時的なコミュニティは崩壊した。ロサンゼルス暴動の幕を閉じたのも、暴動が始まった理由を裏付けるエピソードだった。

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現代社会が生きづらいことの意味と、家族強化が有効である理由と、その方法について 家族を大切にして幸せになるとはどういうことか [進化心理学、生理学、対人関係学]

<なぜ生きることは苦しいのだろう>
<楽しく生きるためには家族が有効だ>
<現代型家族の作り方>

<なぜ生きることは苦しいのだろう>

この世の中が快適で楽しくて仕方がない
と感じ続けている人はいないでしょう。

テレビ、インターネット、街の話題では
いじめ、虐待、不登校、パワハラ、セクハラ、リストラ、過労死、離婚、配偶者虐待、虚偽DV 。親子断絶、貧困、借金、倒産、性犯罪、ヘイト、無差別殺人、戦争、テロと
「社会病理」の話題が途切れることはありません。

こういった「社会病理」の原因は難しいことではなく
人間の心が満たされないために精神的に不安定になっている
ということから起きています。

では、心が満たされないということはどういうことでしょうか。
これは、現代社会が、人間の心が適応できない環境になっているということです。
人間は水の中には住めません。
水の中では呼吸ができないことなどが原因で、
水の中には人間の体は適応していないからです。

これと同じように、心も
現代社会に適応していないから、苦しいのです。

では
心とは何でしょうか。
現代社会とは何でしょうか。

心というものに、いろいろな意味を込めるのは自由です。
それを否定することはしませんが、
苦しさを感じる心は、それほど難しいものではありません。

心が成立したのは今からおよそ200万年前のことだとされています。
そのころの環境に都合がよいように心が作られたのです。
それは、当時、文明はもちろん、火も言葉もなかった時期に
無防備な人間が群れを作って生き延びるために必要なシステムが
心だったのです。

つまり、人間の心の本質は誰かと一緒にいたいという人間の性質です。
その裏返しで、誰かと一緒にいないときに不安になり、
一緒にいる仲間から一緒にいられなくなると感じると
やはり不安になるというシステムです。
逆に、ずうっと同じ仲間で仲良く一緒にいられると
安心感や喜びを感じるというわけです。

群れから離れなくてはならないと感じるきっかけは
自分が群れに迷惑をかけるといった主に自分の行動が原因の場合と
自分が悪くなくても群れの自分以外のメンバーが
自分を仲間として認めていないと感じることです。
(これを対人関係的危険を感じると私は表現します。)

200万年前の人間は
生まれてから死ぬまで原則として同じ群れで生きたので、
仲間の個性を尊重し、弱点も欠点も失敗さえも
許しあって、補い合っていたのだと思います。
対等平等で、弱いものを保護して仲間と守ってきたのです。
そう確信できるのは、
そうしないと弱く無防備な人間が、
厳しい自然環境の中で生き延びることができなかったと思うからです。
仲間と自分と全く同じに大切にしていたので、
利害が対立することもなかったと思われます。

人間の心は、そのような環境の中で作られたので
その時の仲間相互の関係がなければ
自然に苦しくなってしまうのだと思います。

ところが現代社会の人間は多種多様な群れに同時に所属しています。
家族、職場、学校、地域、趣味のサークル、友人関係
あるいは、通行人や販売店での一時的な人間関係もあります。
自分の利益を他人に譲れば
感謝されるどころかどんどんつけあげられることだってありますし、
とんだとばっちりを受けて傷つくことも多くあります。

利害が対立している様々な群れに同時に帰属する社会
これが現代社会です。

一時的な人間関係も含めて
つい反射的に、この人間関係から外されるなんて感じていたら
きりがなくて、それこそ心がいくつあっても足りない状態です。

実際、私たちは、慢性的に、持続的に
対人関係的危険を感じ続けて、緊張し続け、
心が消耗しかかっている状態だと思います。

この緊張がストレスです。

このストレスのゆくつく先は、
まともな思考ができなくなり、
危険から脱出することだけが最優先課題となってしまい、
死ぬことによって危険を感じなくしたい
つまり自死につながるわけです。

自死に至らなくても
あるいは社会病理的な行動をしなくても
私たちの心は現代社会の中で苦しんでいます。
自死や社会病理は、氷山の一角で
水面下では多くの人たちが苦しんで、
心を消耗させています。
自死や社会病理の予備軍が蔓延している状態ではないでしょうか。
そうでなければ、未来を問うに諦めてしまった人たちが
蔓延してきているのかもしれません。

この心と環境のミスマッチについては
対人関係学のホームページで詳しく説明しています。
心と環境のミスマッチ 詳論
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html

現代社会は、心が苦しくなる理由があったわけです。
しかし、私たちはこの社会で生きていかなければなりません
もっと快適に、つまり幸せに生きるための方法はあるのでしょうか。

<楽しく生きるためには家族が有効だ>

現代社会で幸せに生きるためには
家族の力をつけることが現実的な解決方法です。

行きずりの人間関係を含めて全部の人間関係で心が満たされるということは
すぐにできることではありません。
どこか一つに人間関係を核にするべきです。

家族は、寝食を共にする最も基本的な人間関係です。
傷ついた人間が帰る場所であり、
特に夜間という人間の体の修復のための時間を共有する関係です。
もっとも200万年前の群れに近い関係です。

父、母、子どもという関係を単位に家族が形成されたのは
それほど古いことではありません。
しかし、人間の子どもは、父と母がいて、
二人から愛情を注がれて生きていく自信とノウハウを得ています。
現代社会でもこれは変わりません。

無責任に家族を解体するなんてことを言っている人たちは
それに代わる心を満たす人間関係を提起しておらず、
生身の人間の生きるということをまじめに考えているとは思えません。
特に子どもが健全に成長するということの大切さ
最も弱い者を守るという人間らしい考えに至っていません。

さて、様々な対人関係の中で傷つき、苦しんでも
帰るべき家族があるならば、
極端な話、家族以外の人間関係を取り換えればよい
という実感を持つことができます。

家に帰れば自分を守ってくれる家族がいる
個人として欠点を含めて尊重してくれる家族がいることが実感できれば
自分はずっと家族に迎え入れられる存在なのだと
心が安心することができます。

これが望ましい心が強くなるということです。
巷で言うところの心が強くなるとは
危険を感じにくくするということであり
デメリットが大きすぎるので注意が必要です。

こういうと、
すべてなれ合いの関係を作るのかという
浅はかな批判がくることがあります。
こういう批判をする人は人間を成長させるのは
誰かが無理をさせることだと信じているようです。

しかし、人間が成長するときは、誰かに強制される時ではなく
自分で目標をもって、自分から向かっていくときです。
帰るべき家があって
自分が尊重されている存在だと感じていれば
自分の将来に対しても希望が生まれてきます。
夢を持つことができ、夢を成し遂げるために困難を克服するという
力が生まれてくるのです。

自分が家族に支えられていることの喜びと感謝があれば
他人にも優しくする方法を知っているということにもなります。

では、家族をどのようにすれば、幸せな人生が送れるのでしょうか。

<現代型家族の作り方>

私は、弁護士としての職業柄
家族が壊れた場面に多く立ち会っています。
その多くは、何か問題行動があるというよりは、
普通の家族であり、
タイミングが悪かったり、横やりが入ったり、
そういう普通の出来事の中で家族が壊れていっています。

どうやら現代社会では
普通の家族の状態では壊れてしまう危険性が高いために
家族を強くすることを意識的に行わなければならないようです。

心が不安にならない関係を作ればよいという結論は見えています。

心が不安にならないというのは、
どんなことがあっても、自分は家族から追放されない
という安心感です。

家族がお互いに、
相手の弱点、欠点、不十分点を
責めない、笑わない、批判しない
ということが基本です。

しかし、これは、なかなか難しいことです。

弱点、欠点、不十分点は
もちろん誰しも持っているものなので、
理性的に考えると、責めない、笑わない、批判しないということは
それほど努力しないでできそうなのですが、

自分の心が弱っているときは、
相手の弱点、欠点、不十分点は
自分が尊重されていないために、相手がわざとそうしているのではないか
というように悪く考えてしまって
不快を示したり、怒りを持って対応したり
してしまうようなのです。

自分を守ることが
相手を責めることと同じことになることが
人間関係の難しさです。

相手を尊重するためには
暴力を振るわないということも当然のことです。
暴力は、肉体が傷つく以上に
自分が仲間として尊重されていないという強烈なメッセージになるので、
心がより深く傷ついてしまうのです。
この当たり前のことがわからない人が多すぎるように常々感じます。

それから大事なことは、
家族間のトラブルの多い原因が
他の人間関係である職場や、学校などの
人間関係のトラブルをひきずってきて
家族に八つ当たりをするというものです。

むしろ外であった嫌なことは
本当は、客観的な事実として報告したほうが良いようです。
そうして、共感を示してもらう。
それだけ得だいぶ救われるようです。
男性はこれが苦手な人が多いようですが。

打ち明けられたほうは、ともかく聞く
そうして、「ひどいね」とか「たいへんだったね」とか
共感を形で示す。
これが大切です。

イライラのまま家族に持ち込むと、
家族の何気ないことが
自分を攻撃しているようにとらえてしまい
言わなくてもよい言葉を言って
相手を傷つけたり、怒らせたりすることが出てくるようです。

家族は仲間なのだということは
苦しみを共有することで
それは事実を報告して、感情を共有すること
その形を作るということかもしれません。

中々難しいことは、
誰がこういうことを始めるかということです。
自分だけ一方的に相手を尊重して
自分が尊重されなければ損をしている
と感じることが次のハードルのようです。

夫ないし妻という大人の構成員は
この自分だけ損をしているという感覚を捨てましょう。
捨てるしかないです。
まず自分がやって見せて
そして真似をさせなければどうしても出発はしないものです。
結局は自分が幸せに生きるための手段ですから
先行投資とでも考えましょう。
人間と家族を信じましょう。

このテーマはこれからも繰り返し検討して述べていきますが
あと二つだけ。

一つは、完璧を目指さないことです。
10割譲っていたら頭がおかしくなるらしいです。
3割くらいを目指しましょう。
3割意識して行えば
家族はこちらの変化に気が付きます。
あなたの提案自体はアッピールしたことになるでしょう。

もう一つは、家族の外にサポート機関をつくることです。
こんなブログでは全く影響力が足りないです。
誰でも気軽にアクセスできる方法で
実行できるノウハウを蓄積して研究ができればよいと思います。

さて、「幸せになりましょう」とか優雅な問題提起の表現になっていますが、
事態は、本当はひっ迫していると感じています。

家族解体思想の過激派が、私たちの家庭を虎視眈々と狙っています。
家族を強化するどころか
家族こそ解体して女性を解放しようとしている人たちが画策していて
その人たちの活動と
家族に会えなくなって苦しんでいる人たちの数が
見事な形で比例しています。

複雑で、個人が尊重されない社会の中で
人々の心が消耗して
もの後を感じなくなり、あきらめてしまう人たちが増えているようです。

死に物狂いで、歯を食いしばって生きるために
家族を自然の状態に放置しないで
私たちの生きやすいように改善していく
それこそが必要なのだと思います。

無責任な家族解体論者は
どうやら机上の空論ないし自己満足の主張ということで
現実に生きている人間の心には無関心なようです。
特に、子どもの健全な成長ということに関しては
何も考えがないようです。

それはつまり、
現代社会の社会病理についても関心がないようです。

家族の解体ではなく
現代社会とその中の人間の心に適合するように
家族を改善していくことこそ
まじめな、人間味のあるあるべき議論なのだと思います。


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家族解体思想になぜ保守政権が追随するのか 子どもに会えない親の苦悩は日本という国の客観的状態を反映しているということ [家事]

前回の記事で、
産後直後などの女性が不安になると
その原因は夫にあるとして
離婚に強引に誘導する政策を推進している人間の一定割合に
家族制度を解体しようとする極端な思想集団がいる
ということをお話ししました。

このような過激な思想ならば
美しい日本を取り戻すということを約束する
現在の保守政権が何とかしてくれるのではないか
と考える人たちがいるのはもっともです。

実際に、政権党内では
家族制度の解体に反対する勉強会も開かれていたようです。
日本会議という団体では、
団体の機関誌で連れ去り問題を何度か取り上げていただいており、
危機感を強く持たれているようです。

それにもかかわらず、相変わらず、
母親たちに対して、
あなたが不安を抱いているのは夫のDVが原因だと
個別事情を全く聴きもしないでそう吹き込んで
離婚件数を増やそうという行政やNPOの活動が定着し
ますます活発にさえなっているようです。

最近の子連れ別居離婚申立事件で述べられている離婚の理由は
見るに堪えないねつ造のオンパレードです。
たまたま知っているご夫婦の事例を見ると
針小棒大ではなく
火のないところに煙を立てているという状態です。
なかなか家族再生の糸口が見つからない事件が増えています。

どうして、美しい日本を取り戻すと約束した保守政権が
このような活動の継続を許しているのでしょうか。

それには理由がありそうです。

日常の夫婦のいさかいを
「DV」という、曖昧な言葉にすりかえて
強引に離婚にもっていくのは、前回述べた通り
家族解体思想に基づくある種の洗脳ですが、
他にも家族解体思想に基づく主張が
ネット世界に蔓延していることに気が付きました。

「三歳児神話否定論」と「母性神話否定論」、
それから、「賃金労働こそ人間の最高の価値論」です。

三歳児神話とは
本来の意味は、「三つ子の魂百まで」ということで
子どもは小さい時でも大切に育てるべきで、
ぞんざいに扱って性格がひねくれてしまうと
一生直らないということだったはずです。

世俗的な使い方としては、
小さい時からひねくれていたから
大人になってもひねくれているのは当然だという
揶揄(やゆ:悪意でからかう)する使い方が多いと思います。x

教訓的な意味としては
子だくさんの昭和の時代に
新生児に手間がかかるからといっても
上のおにいちゃん、おねえちゃんをぞんざいに扱うな
ということのだったはずです。

現在の三歳児神話は、別の意味に改変されています。

三歳児神話否定論者による三歳児神話とは
「三歳までは母親が働かないで家にいて
子どもの面倒を見なくてはいけない」
という極端に狭い意味の新説にすり替えられているのです。

これだけで誰かが都合のよいように作りだしたものだとわかります。

子だくさんの昭和の時代には
労働者の家庭の母親は専業主婦ですから
そもそも仕事を持っていた女性は少なかったのですし、
農家では、女性も働いていたので
働くなという意味を持たせようにも
それを受け入れる余地はありませんでした。
だから働くなという意味ではなかったのです。

子どもを大切に育てるべきだという言葉の意味が
母親は働かないで一緒にいるべきだ
という限定的な意味になったところが
新説の特徴です。

これと同じように
母性神話とは、元々は
母親は、自分の身を犠牲にしてまでも
子どもの命を守るものだ
ということがオリジナルの意味だったはずです。
母性というものは崇高なものだというものです。

ところが現在の母性神話否定論者のいう母性神話は
「子どもは父親ではなく母親が育てるものだ」
という内容にすり替えられています。

新説を作り、神話と名付けることによって
根拠のないものというイメージを作り
内容にすり替えて誰しも否定するようにしむける
論者の「ねらい」は共通しています。
それは、
「女性は子育てに時間を取らず、子どもを預けて仕事に出ろ」
というものです。
注意深く三歳児神話否定、母性神話否定の文章を読んでください。

そしてその多くは根拠がトンチンカンなものです。

ばかばかしい根拠の筆頭は
皇室も母親が子育てしないから日本の伝統だというものです。
皇室が母親が子育てしないのは帝王学にもとづくもので、
親子の情愛が生まれると政治に支障が出る(人質に差し出せない)という、
支配層の必要性にもとづいているものです。

少なくとも庶民には全く関係がなく
日本の伝統でもありません。

ちなみにこのような皇室の伝統に対抗するために
女官らの抵抗をはねのけて自ら子育てを行われたのが
上皇后様だったわけです。
こんなことはほとんどの日本国民は知っています。
論者は、女官たちとともに上皇后様の子育てを否定したいのでしょうか。

別の論者は
海外では保育機関で集団的に子育てした場合と
家庭内で育てた場合とあまり違いはない
というトンデモ説を根拠にします。

海外では産休、育休が充実しており
2歳ころまでは家庭で育てることができます。
その後に集団的な保育を実施しているのです。
このことを隠して誤導しているのです。

海外では、子育ての大事な時期ということをよく知っています。
これは、かつてイスラエルのキブツという仕組みの中で
生後すぐに親から話して集団で子育てしたことによって
子どもたちに否定的な結果がでたことを教訓化して反映していたり、

ボウルビーやエインズワースという科学的な愛着の理論に基づいて
親による子育てこそを励行しているわけです。
そしてそれが子どもの人権だとしているのです。

やみくもに親が子育てをしなくても大丈夫等と言う
データなど存在しません。

このような無茶なことを言ってまで
母親を子どもから切り離して賃労働に駆り立てようと
必死になっていることがわかります。

三歳児神話の否定や母性神話の否定は
私が目くじら立てて否定しなくても
子どもを産んだ母親ならば
簡単にそれを信じようとはしないでしょう。

ところが、
「もう一つの神話」によって
母親たちは賃労働に駆り立てられているのです。

それが「賃金労働こそ人間の最高の価値論」です。
(この名前は、さっき私が思いついて作ったものです。)

子育てよりも外で働いて賃金を得ることこそが
人間として最も価値のある行為だという考えです。

この考えに取りつかれている母親は多いのですが
なかなかそれを自覚することができません。
多くの子どもを産んだ女性の意識の中に
そのような考えが刷り込まれているのです。

母親たちは、焦りながら以下のように考えています。

「夫は働いていて、自分だけ子どもの世話をするのは不平等ではないか」
「自分だけ損をしているのではないか」
「自分は子どもの召使ではない」
あえて言葉にすればそういうもののようです。

そうして、外に出て働きたい
子どもの世話ばかりしたくない
という気持ちに駆り立てられます

それでも子どもに対する愛情もありますから
育児をしないで仕事に出ることに罪悪感を抱きます。

だからこそ、罪悪感を軽くするために
「三歳児神話の否定」
「母性神話の否定」に飛びつくわけです。

特にこの神話の否定に飛びつく女性は、
学歴の高い女性
社会的地位の高い仕事や他人のためにする仕事といった
やりがいのある仕事をしていた女性が多いのが特徴です。

こういう人たちが、実務的に見て
子どもを連れて別居することの多い職業の人たちなのです。

ただ、その賃労働こそが最高の価値だという考えは
自然発生的に生まれる考えではなく
誰かが少しずつ刷り込んでいるのかもしれません。

子どものためにより良い妊娠時の生活方法や子育ての方法を
インターネット等で検索しているうちに
少しずつ混ぜ込まれて刷り込まれているのかもしれません。

もっとも、女性においても賃労働が最も高い価値がある
という考えは
政府もあからさまに刷り込んでいます。
「女性が輝く」と政府が言う場合の意味は、
どうやら「女性も賃労働」をするという意味と同じようです。

家族解体論者たちも
このことを積極的に推進しています。
昔の男性が高い価値だと考えていた
働くこと、働いて収入を得るという価値観を
最優先の価値観だということを前提に
女性を家庭から賃労働に移行させることを主張しているのです。

不思議なことは
女性の賃金を男性並みに高くすれば
勝手に女性も働くようになるのですが、
男女賃金格差については
あまり積極的な行動が見られないことです。

政府が女性の中でも出産をした女性を
いち早く賃労働に復帰させたい理由は
労働経済政策にあります。
低賃金で生産性の高い女性労働者を
企業に流入させたいという政策です。

「輝き」という言葉で
いち早い母親たちの社会復帰を誘導しているわけです。

子どもが2歳になる前から働かそうとしているのです。
インターネットの神話否定論者も
政権与党とつながりのある人たちですから
学者等の肩書で「仕事」をしているということなのでしょう。

このことの賛否は今回の議論の対象ではありません。

私が言いたいことは、
家族解体論者の、夫婦を中心とした家庭から「女性を解放」することと
大企業の出産直後の母親を労働力として迎え入れたいという思惑が
結果としては同じ方向を向いてしまっているということなのです。
ここに保守的な政治家が天敵であるはずの家族解体論者と
結果として手を組んでいる理由があるのだということです。

三歳児神話否定や、母性神話否定に洗脳されることなく
子育てをしている母親を強引に働かせるための
最も効果的な方法とは何でしょう。

それは離婚をさせて母子家庭にすることなのです。

離婚をすれば養育費が多少入ったところで
それだけで生活はできません。
母親も働かなければならないのです。
仕事を選んでいるわけにはゆきませんから
放っておいてもどんどん企業に就職してゆきます。
2,3歳の誕生日を待たないで無認可保育所などに子どもを預けて
働かなければならないわけです。

下手に子どもを父親に合わせて
「子はかすがい」なんてことでよりを戻してはいけませんから
子どもを会わせないようにしている
なんてことは、考えすぎとばかり言えないような気がします。

そのためには、「それは夫のDVだ。」ということで
妻に夫に対する恐怖心や嫌悪感を定着することが有効なのです。

この考えは私の考えすぎの暴走理論かもしれません。
しかし、家族解体論者と労働経済政策は
ぴったりと目標が一致するのです。

離婚した女性に、厚い手が差し伸べられないのも
離婚して働けという目標が達成した後のことなので
「釣った魚に餌をやらない」ということでも
両者の思惑はぴったりと重なります。

このように子供を産んだ後の精神的不安定な時期に
夫から離れて片親となり
その片親も仕事で子どもと一緒にいる時間が少なくなると

当然愛着障害の危険が出てくるわけで
情緒不安定な子どもが量産されていく危険が生まれてきます。
あなたの子どもが不健全な育ち方をしても
いい加減な論拠を持ち出した神話否定論者たちは責任を取りません。

片親の収入ということになるうえ、
女性の低賃金、賃金格差が子どもの貧困を巻きます。
ますます健全な成長に対するハードルが上がってゆきます。

さらに、そういう経済状態の上
男性に対する恐怖心が消えませんので
少子化がさらに進んでいくわけです。

これらの心配が単なる杞憂に終わるならば
極論ということで歴史の検証によって排斥されるなら
それは喜ばしいことです。

しかし、良識で考えれば
家族解体、母親の早期の賃労働従事は
このような危険のあることで、
最も悲観的な結論は
日本のさらなる衰退です。

まさに亡国の政策です。

保守政治家たちは
このような危険についての勉強会をしているようなので
知らないでやっているという言い訳はできません。

家族が円満に生活を送り
子どもたちが笑って過ごすという
美しい日本という価値観は、

女性の企業への早期従事という政策によって
後景に押いやられているのではないかと
心配することは必要なことだと思うのです。

私はこれまで
理不尽な子連れ別居、虚偽DVとの戦いは、
子どもを守る戦いだと考えていました。

しかし、どうやら一人一人の子どもの健全な成長を守ることで
日本を守る戦いになっているようです。

家族再生を目指しつつ、
女性の夫への無駄な恐怖心や嫌悪感を解消することを目指しつつも
虚偽の部分や評価のすり替えの部分は
毅然とそれを正すべきです。

理不尽に子どもに会えない別居親の苦悩は
潜在的には子どもたちの未来の生きづらさ、未来の苦悩であり
日本という国の客観的な状態に対する国の苦悩なのではないでしょうか。

家族を守る行動が
日本を救うことにつながるということが
決して大げさではないと考える次第です。

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養育費の算定基準改定への疑問、特に養育費を支払う方の女性には地獄となる。家族解体という思想を隠して離婚後のバラ色の生活の誤解による離婚への誘導から、あなたと家族を守らなくてはならないということ。 [家事]



最高裁は、令和元年12月23日、
養育費の算定基準を見直した。

多くのケースで養育費が増額されるらしい。

その目的は、新聞報道によると
「最新の家庭の支出動向を反映させた結果、全体的に月額で数万円程度、増額される傾向となった。子どもの貧困対策の必要性が指摘される中、ひとり親家庭を支援する見直しになりそうだ。」
とされている。

ちなみに、離婚前は、婚姻費用(婚費)分担と言い、
子どもの費用と相手方の費用も含まれて金額が決まるが
離婚後は、相手方の生活に対する費用分担は原則なく
文字通り、子どもを養育する費用ということになる。

このような基準を変えることは、
常にメリットデメリットがある。
今回の養育費等の増額についても、それによって
なるほど一方で、シングルマザーの生活が
幾分向上するかもしれないが
当然のことながら支払者の負担も増額する。

最高裁は、税制の変更などを理由に挙げるが
どの税制の変更が、どのように考量されたのかの説明がない。
給与所得者などの税制が軽減されたということはないだろう。
説明になっていない。

また、スマートフォン使用の低年齢化等
子どもの費用が高額になったということが挙げられているが、
それは、別居親だけが負担することなのだろうか。
それではまるで、携帯電話会社の収益を上げるために
支払額を増やそうとしているだけではないかと
疑いをもってしまう。

私は様々な理由から中学生までは
原則としてスマートフォンは与えるべきではないと考えている。
これは別の論点なので詳述はしない。

そして、極めつけなのは
最高裁は認めていないと思うが、
今回の基準改定が子どもの貧困対策だと報道しているが、
そのことについては疑問も大きい。

実務的観点からいくつかの疑問を述べたい。

1 離婚、別居は、必然的に貧困に向かう

人権相談には、離婚後に子どもを抱えた母親から相談が入る。
「役所に言われた通り離婚をしたが、
生活は楽にならず、とても苦しい
話が違う。
離婚しなければ良かったと役所に問い合わせたら、
『離婚はあなたが決めたことです。』と言われて
電話を切られてしまった。」
ということが典型的な相談である。

確かに見通しが甘く離婚に踏み切ってしまった本人にも落ち度はあるだろう。
しかし、どうやら、
「離婚調停を申し立てれば
慰謝料はもらえるし、養育費ももらえる。
今夫から渡されている生活費で生活するより
よっぽど経済的にも楽な、もちろん精神的にも楽な
生活ができるようになる。」
という未来を示されて離婚に踏み切った人が多い
ようなのだ。

何人かの「こんなはずはなかった」
ということから逆算して考えると
浮かび上がってくるのはそういうことだ。

そしてその支援者たちが間違ったことを言う原因も
少しずつ分かってきている。

第1に、個別事情を無視した画一的なマニュアルアドバイスだ。

妻が悩んでいると
本当は、自分の精神的な問題、体調の問題なのに、
「それはあなたは悪くない。夫のDVだ。」
と決めつけてアドバイスがなされることが多すぎる。

言われた通り、保護命令を申し立て、離婚調停を申し立てても、
保護命令事由がないとして却下され、
離婚理由がないということで離婚が認められなかったり
慰謝料が認められないことが多い。
妻に嘘をつかれて窮地に追い込まれた夫は妻を許さないし
精神的に破たんして就労不能になる場合もある。

理由のない離婚請求なので
当然夫は抵抗する。
おそらく妻は2,3月で離婚後の明るい生活が始まると思っているようで、
調停がそれ以上続くことで、疑問がわき、焦りがでてくる。

暴行などの事実がないので
離婚原因を立証できないし、主張もできない。
無理に暴力をでっちあげるから嘘がばれる
裁判所の心象も悪くなる。

画一的なアドバイスをした支援者は、
離婚が成立して、わずかな養育費での生活となっても、
責任をとることはない。

第2に、経済的問題で言えば、例えば
「夫から月3万円しか生活費が渡されていない。」と聞くと
それは経済的DVだとアドバイスをする支援者が多いようだ。

よくよく話を聞いてみると、
光熱費、子どもの学費等の必要経費は夫の通帳から引き落とされており、
食料もほとんどが夫の実家から送られてくる。
その他の食材や生活に必要な物は
週末夫と買い出しに行って夫が支払う。
3万円は妻の小遣いみたいなものだった。

そして、夫の収入が手取りで20万円にも満たないで、
夫は毎日500円くらいを持たされて昼食を食べている
ということが明らかになっていく。

見通しが甘いのは妻ではなく
妻に対するアドバイスをした者のことが実に多い。

このような経済状態で別居してしまうと
夫も妻子も生活が成り立たなくなってしまう。
そういうケースが実に多い。

ちなみに、このような見通しの甘い妻は
家計簿をつけていない。

こういうケースは少なくない。
少ない夫の収入の中から
どんなに割合を大きくしても
養育費が必要な額に達することはない。

本質的な問題は
労働者の低賃金の蔓延化なのである。
あるいは離婚後の女性の不平等な低賃金なのである。
そのことを離婚のセールスマンたちは絶対に言わない。
全てを夫の責任にしようとする。

いずれにしても、少ない収入の中で、
別居して経費が二倍になれば
当然貧困に向かっていく。

それでも妻を誤解させて離婚に向かわせているのが
国や自治体ならば、
労働者の低賃金、女性の低賃金の不具合は
国や自治体が補填することが筋であろうと思われる。

調停も一回で終了して裁判に進められて離婚させられる
わけがわかならないまま離婚となり、
子どもにも会えないのに養育費だけを払わなければならない
そんな中でメンタルをやられてしまっている
そんな夫だけに責任を負わせることは、
あまりにも過酷で不合理だ。

離婚は必然的に貧困に向かうのだから、
離婚を進めておいて養育費の割合を増やしても
解決はしない。

2 一方的な離婚を後押しする婚費の制度

婚費の決め方は
税込みの年収額だけの突合せだけで決まる。

住宅ローンがあって夫が支払っていても
それは月々の金額に考慮されない。
妻が使用する自動車のローンを夫が支払っていても
妻がその自動車を使用しなくなるのであれば
やはり考慮はされない。

その他、今後も共同生活を続けるという前提で
様々な月払いが行われているのが現実の夫婦だ。
しかし、それらは考慮されない。
現実の生活が無視されて婚費や養育費は定められる。

そういうことをここで持ち出すには理由がある。
子連れ別居から離婚に向かう事案の少なくない割合で
新居を建築し、住宅ローンが発生した直後という事情があるからだ。

子連れ別居のケースでよくあるのは、
第1に妻の体調からの精神状態、
第2に子どもに障害がある場合、
第3に住宅ローンである。

新居移転を目前にして、あるいは引っ越しのさなか
子連れ別居は起きている。

別居して離婚することが確定なら
住宅は手放すことも合理的かもしれない。
しかし、突然理由も告げず子どもを連れて家から去り、
わけがわからないうちに裁判所に呼び出されて、
住宅ローンの支払いなど関係なく月額の支払いが定められる
もう離婚しか選択肢がないように思わされる。

現実問題として住宅を手放さなければならなくなる。

子どもたちの生活も待ったなしだが
住宅ローンも待ったなしである。

しかし、住宅を手放しても住宅ローンはなくならない。
中には、住宅ローンを支払いながら
思い出の詰まった家に住み続けるしかない夫たちもいる。
住宅ローンと家賃の二重払いこそ無理だからである。
極めて精神状態に悪い。

これが婚姻費用分担や養育費の支払いが
住宅ローンの存在を無視して行われる結果である。

この住宅ローンの支払いは
本当に無視されてよいのだろうか。
夫が一方的に住宅の新築をしたというならともかく、
多くの事例では妻が新築を希望して
無理して住宅ローンを組んで家が建てられているのである。

住宅ローンはマイナス財産として財産分与では考慮されるが、
実際には住宅ローンを支払わなければならないから
養育費などのねん出が難しいということなのである。

第三者から見ると
婚姻費用や養育費の算定方法は
こういう事情で無理を強いる場合が多い。

今回の基準の見直しで
さらに金額が上がってしまうと
さらに無理が大きくなることは間違いない。

婚姻費用の分担は特に住宅ローンがある場合はこのように、
今後同居しないということが前提となっているように感じられる。

離婚をするかしないか、やり直すとしたらどうすればよいか
やり直さないとしてもどのように子どもの共同養育をしていくか
そういうことを話し合うために、
離婚は訴訟から行うことができず、
話し合いの手続きである調停から行わなければならないとしている。
現行の婚姻費用の決め方は
一部その制度と矛盾し、
一方が離婚を求めていることを後押しをする制度になっている
と感じる。

3 養育費を支払っている女性を無視している。

今回の基準改定で一番影響があるのは
養育費を支払っている女性の負担が大きくなるということである。

女性は、婚家から追い出される形で
子どもと会えなくなる。
私から言わせればそれが普通の人間だと思う範囲の
ヒステリーだったり、ワガママだったり、
要領の悪さだったりということで
主として姑から嫌われて追い出されてしまう。

夫から受けた暴力が影響して
あるいは出産後のホルモンバランスの変化によって
うつ病やパニック障害等になった結果の場合もある。

多くの事例で子どもとの面会を拒否されている。
自分が命を懸けて産んだ我が子と会えないという
不合理が実際に起きているのである。

まさに女性の権利の侵害である。

それにも関わらず、子どもに会えない母親たちに
養育費の支払い義務を課せられる。

子どもに会えない母親たちの多くは非正規労働者であり
介護職だったり、事務職だったりの低賃金という事情に加えて、
いつ労働契約が終了するかもわからない。
今年の源泉徴収票が
原則5年後は通用しない社会なのである。
それでも養育費の金額は放っておけば継続される。

元妻が元夫に養育費を支払うケースは
元妻が追い出されて子どもと一緒に住めなくなったが
夫が妻よりも収入が少ない場合である。

極端な話、夫が精神疾患などで就労できず、
収入がないという場合もある。
このようなケースでは福祉の手続きもとらないから、
裁判所では源泉徴収票の額面で元妻の元夫に対して支払う
養育費の額が決定されてしまう。

子どもに会えない母親は
今でも子どものためにと言い聞かせて
少ない賃金の中から自分の生活費を削って
養育費を支払っている。
その上、今回の改定で、さらに大きな金額の支払いを余儀なくされてしまうと
裁判所由来の絶対的貧困が生まれてしまう恐れが出てくる。
それだけ、母親は、子どもに会えなくても、
自分が食べられなくても子どもには食べさせたいと
行動してしまうのである。

シングルマザー保護の活動家などが
今回の基準では生ぬるいから
別居親にもっと大きな支出をさせろと声高に叫んでいる場合、
実際に元夫に対して養育費を払っている女性は

活動家の仲間である「女性」の中から排除されているのだ。
活動家が憐みを授ける対象となる女性の中から排除されているのだ。

私は、女性の権利擁護の立場から
今回の養育費改正には反対するが、
男女平等を叫ぶ活動かなんて
自分たちの都合の良い現実しか相手にしないという印象がある。
目をつぶれば世界が無くなると言わんばかりである。

その人たちの一定部分の活動の目的は家族制度の解体なのだそうだ。
家族制度とは、父親と母親と子どもと生活する家族のことである。
家族制度こそが、女性を不当に拘束する元凶だというのだ。
「あなたは悪くない。」
という言葉も、このような思想によって言われていることが多いかもしれない。
「あなたは悪くない
 家族制度とそれにあぐらをかく夫が悪いのだ」
という意味だとすれば極めて単純明快ではある。

そういう人たちから見れば
離婚後あなたがどのように経済的に、精神的に追い詰められようと気にならない。
離婚を一件成立させることができれば、
自分たちの理想である「家族のない世の中」に近づくのである。

活動家の中には一定割合の人間が
こういうことを本気で考えている。
しかし自分の本音を真正面から主張することは
少ないのでわからないだけである。

子どもの貧困の多くは、
そもそも労働者の低賃金が原因であり、
離婚後は女性の低賃金が原因である。
その上、無理やり需要を掘り起こされている。
社会から取り残されるという脅迫観念の植え付けが原因である。

子どもや家族が豊かに生きていくための費用である賃金を支払う
そういう職場が絶対的に足りないのである。
離婚や別居は子どもの貧困を確実に助長する。

このような社会、特に大企業の問題は不問に付して
全てを夫の責任として、負担を夫だけに押し付けるという
現代のフェミニズムの姿が浮かび上がってくるコメントだった。

低賃金の企業に対して一切文句を言わず
その上、スマホ代金などを男性から搾り取って
大企業に差し出させようとするのである。

家族制度解体の活動家が
既に離婚を成立させて、養育費を支払っている女性を無視できる
ということもわかりやすい。
既に離婚をして家族解体を進めているのだから
これ以上保護を与える意味がないというのであれば実にわかりやすい。

子どもの利益よりも家族解体の促進に価値をおくのであれば
離婚の影響で子どもの健全な成長が阻害されること等
必要経費のようなものだから、無視できる。
そもそも離婚が子どもに悪影響を与えないと頑張っているのかもしれない。

対人関係学は
家族という最小の単位を充実させることによって
複雑化して、利害対立が多発する現代社会の仲間でも
幸せを感じて生きていくことを目指す学問なので、
家族解体思想という非科学的な思い付きとは
全く相いれないということが今日の考察でつくづく分かった。


4 これから離婚をしようと考えている女性の皆さんへ

以上、今回の養育費の改定のニュースに関する疑問を述べた。
これから離婚を考えている女性たちには特に知識を増やしてほしい。

養育費の算定基準が改定されて養育費が上がったところで、
そもそもない所からは取れない。
女性の賃金の改定の方は一向に着手される気配はない。
同一労働、同一賃金に過度の期待をするわけにはいかない。
別居や離婚をすれば、確実に経済力は低下する。

バラ色の離婚後の人生はないと思うべきだ。
この文章を書いているまさにその時、事務所の電話が鳴り、
養育費地獄にあえぐ元夫の悲鳴を聞かされている。
「これ以上養育費が上がれば生きていくことができない」
という悲鳴だ。
現実に支払えないので、賃金の差し押さえをされてしまうだろう
差し押さえがなされたら会社から解雇されるだろう
というのだ。
極めて深刻なメンタル状態であり、
自死の危険も否定できない。
しかし、解雇されたり、自死されたりすれば養育費は入らないのだ。

都合の良い話ほど真に受けてはならない。
あなたにとって都合の良いことを言っている人たちの一定割合は
家族制度を解体しようという思想が何よりも優先されている。
その思想を実現するためにあなたが離婚させようとしているのだ。

自分や家族の利益を第一に考えて行動するべきだと思う。

できることなら、現状に不満があっても、
第三者機関を利用する等して
夫をコントロールすることを考えるべきだ。
現状を前提として
少しでも快適な生活に進んで行こうとすることが
最善の策かもしれないという選択肢を
頭の片隅に必ず入れてほしい。

「離婚したけれど、こんなはずではなかった。」
という電話は本当に悲しすぎる。



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セクハラは群れを作る人間の本能によって握りつぶされるされる。伊藤詩織氏とH議員の被害者との扱いの違いに学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

伊藤詩織氏がジャーナリストから性暴行を受けたと主張し
損害賠償を請求した裁判で
東京地裁は、伊藤氏の主張を認めた判決を出した。

伊藤氏に関しては
顔と名前を出して性被害を訴えたということで、
一方では称賛と励ましの声が上がったが、
もう一方では、
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪いという
性犯罪につきものの被害者の落ち度論が
第三者から挙げられていた。

極端な挑発がなければ
落ち度があったところで同意なき行為は道義上許されない。
それなのに被害者が責められてしまうと
被害者にとってみれば
自分こそが道義に反する行動をしていたと言われているようなもので、
精神的に大きな打撃を受けることは簡単に想像できることである。

もちろん、このような被害者の落ち度という論調に対しては
女性の権利の立場から大いに批判が上がった。

奇妙なことは、
今回伊藤氏を擁護、支援したのがリベラル系で、
伊藤氏を中傷したのが自称保守系という傾向がみられたことだ。
加害者のジャーナリストが、首相寄りで
首相礼賛の新書を出版するような
傾向を持った人物であることが関係しているのかもしれない。

伊藤氏を非難した人たちは
ジャーナリストや首相を擁護しようという
心情にもとづいて非難したのかもしれない。

お身内はともかく、男女関係については
首相は定評のある方なので、
このジャーナリストの事件に関連付けられることは迷惑だろう。
ここでもなにがしかの忖度が働いて
その結果首相の足を引っ張る皮肉が生まれていたのかもしれない。

さて、数年前に
野党第1党のベテラン議員H氏が
タクシーという密室で性犯罪を行ったということで
伊藤氏の判決の直後に
書類送検をされるという事態になり
そのH議員が離党したというニュースが飛び込んだ。

この問題は数年前に明らかになりニュースにもなった
しかし、当時は、
離党や辞職の話は出ず、
党内の役職を解かれただけで終わっていた。
当時の党首は女性である。

被害の重大さに違いがあるのかもしれないが
伊藤氏の場合は一介の民間人が加害者であるのに対して、
H議員は国会議員という公的な立場の人間である。

もしこの政党が女性の権利を擁護することも
政策の一つに入れているならば
微罪としての処分をすることは理解に苦しむところである。

さらに不可解なことは、
この政党の党員たちが
微罪処分に対して批判をしなかったのかということだ。

この政党からは
女性の権利の政策を極端とも思われるほど重点課題に掲げて
立候補し、有権者に宣言していた人たちもいて
何人かは国会議員になっている。

この女性の権利の活動家は
微罪処分に対して反対を表明しなかったのだから
身内の性犯罪に対して著しく寛容だった
と言わざるを得ない。

今回の書類送検を受けても
その政党からは、H氏に対して
離党処分や辞職勧告の動きの情報はない。

H議員の性犯罪を不問に付した人たちのほとんどは
伊藤詩織氏を擁護、支援していたはずだ。
なぜ、伊藤氏を被害者として擁護、支援するのに
同じ性的暴行の被害を受けた
H議員の行為の被害者に寄り添って
性暴行をただそうとする
女性の権利の活動家がいなかったのか
そこが問題なのである。

政党外の女性の権利の活動家も
なぜ、H議員やこの政党の
女性の権利侵害の軽視を批判しなかったのか
そこが問題なのである。

私は、影響力は少ないながら
女性の権利の観点から批判をし続けてきて
同調者が現れないということから
よく記憶しているし、
現在の状況も変わりがない。

そしてもしかすると
伊藤氏を擁護した人たちの中には、
H議員の被害者は
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪い
タクシーに乗った方が悪い
性犯罪につきものの被害者の落ち度論によって
精神的バランスをとっている人も
いるのではないかという疑念がある。
そうでないと批判がないことが整合できない。

特に政治的な問題から
権力に仕掛けられた等と考えている人もいるかもしれない。

いずれにしても被害者女性の心情を思いやるという感覚は
初めから排除しているのではないかと疑りたくなる。
そうだとすると、結局、伊藤氏を中傷した人たちと
同じ発想だということになる。

ここで、誤解を受けないように説明をしておく。

私は政治的議論をしたいのではなく、
左翼やリベラルを批判したいのでもない。

あくまでも、性暴力加害者をかばい
女性の権利侵害が無視される現象が起きる
そのメカニズムを検討したいだけである。

人間は、仲間をかばうという本能がある
ということをいいたいのだ。

認知心理学では
単純接触効果
プライマリー効果(これは二つの意味があるので注意)
等として説明されているようだ。

対人関係学では、
人間は本能として仲間を無条件に守ろうとする
そういう性質のある個体だけが群れを形成して
生き延びてきたのだというし
単純明快な主張をする。

この観点から見ると、
ジャーナリストを擁護した人たちは
・元々知り合いだった
・政治的な立場が共通で仲間だと意識しやすかった
・あるいは単純に政治的理由
等という理由で
ジャーナリストをかばおうという気持になりやすかった。

もうひとつ注意していただきたいことがある。

対人関係の対立が起きている場合は
一方の味方をするということが
同時に他方を敵として攻撃することを意味する
ということになりがちだということだ。

加害者のジャーナリストを仲間として守るための行動として
伊藤氏を非難していたのである。

これは、仲間という一つの秩序を維持しようという形の意思である。
仲間だと認識した以上
仲間を守り、自分たちの群れの秩序を守ろうとしてしまう。
このために、客観的真実がどこにあるか
という探索ははそれほど重要でははなくなる。
客観的真実、一般的な価値観よりもよりも
仲間の利益が優先事項となるのである。

そうであるから、
例えば会社内で性犯罪があったとしても
会社の大部分の人間にとって
加害者の方がより仲間だと意識されているのであれば
性犯罪は大ごとにはならず
握りつぶされてしまう危険がある。
典型的な例は、加害者がベテラン社員で
被害者が派遣社員等で一時的に社内にいるような場合である。

そのような場合には、
多数派にとっては
権利侵害がなされているにもかかわらず
女性が悪いということで
権利侵害を救済しない後ろめたさにに
落ち着きが欲しくなる。
自分達という仲間が卑劣な集団ではない
という落ち着きである
これは人間の本能なのだ。

こうなると、加害者は仲間で人間であるが
被害者は仲間ではなく
人間扱いする必要がない
という無意識の区別が生まれてくる
大変恐ろしいことだ。

今回伊藤氏を擁護、支援した人が
広範囲に広がった一番の理由は、
伊藤氏が名前と顔を出して被害を訴えたからである。
具体的な人間の、具体的な苦しみが
映像として、音声として直接感じ取ることができたので
しかも繰り返し報道されたということもあり、
伊藤氏に対する仲間意識が生まれたという効果があったはずだ。

野党のH議員が苛烈な批判を浴びなかった理由も
全く同じことの裏返しだ。
H議員は顔も名前も知っている
仲間という意識が持ちやすい。

その反対で被害女性は顔も名前も分からない
だから心情を理解しようとする的がなかったようなものである。

だから、特に政党という結束が求められる組織は
容易に政党内の秩序を守り、H議員を守ろうとする
空気が形成されて
あえてその空気に逆らおうとすることができない状態に
なっていたのだろうと思う。

私が言いたいのは
このようにセクハラによる権利侵害の問題は
難しいということだ。
難しくしているのは人間の本能である
仲間を無意識にかばおうとしてしまう本能
群の秩序を無意識に守ろうとしてしまう本能
それが被害者の方を攻撃する理由である。

顔も名前も分からない女性の心情は
なかなか思いやることができない。
人間の能力なんてそんなものだと自覚しなくてはならない。

だから常日頃女性の権利を主張する人たちでさえも
伊藤氏を擁護、支援することはできても
H議員の被害者を擁護、支援することをしなかったのだ。
仲間であるH議員を攻撃することがためらわれたのである。

セクハラに対して戦いを挑もうとするならば
感覚的な議論ばかりをするのではなく
人間の本能を見据えて取り掛からなければならない。

世論に大きな影響を与えたのが伊藤氏の行動だということも間違いがないが
被害者が顔や名前を出さなくても
権利侵害が回付されなければならないことに異論はないだろう。

そういうことがクリアになった
伊藤氏の判決とH議員の書類送検
という二つのニュースであった。


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パワハラが労務管理の問題ではないケース かんぽ生命事件に学ぶ 経営問題から生まれるパワハラ、現代の殿様商売とは [労務管理・労働環境]


これまで、パワハラ対策は、
労務管理の問題だと位置づけられていました。
しかし、今回のかんぽ生命事件の
第三者委員会の報告と経営者の記者会見を見ると
実は労務管理の問題は対症療法に過ぎず
根本的には経営問題の場合もあるということを学びました。

調査報告をみると
問題が一部ではなく全国的に広がっているようであり、
不正取引も売り上げを上げるために全社的に黙認されており
パワハラも、広く行われていたようです。

プロの「商売」という観点からこの意味を考えてみましょう。

例えば釣り好きの人とプロの漁師のどこが違うか

釣り好きの人はとにかく水さえあれば釣糸をたらしたくなるけれど
プロの漁師は魚群のところまで行って漁をするということです。
そのためには、経験やレーダーなどの科学的方法をとるわけです。
さらに、どこの港に水揚げをするかということも考えるわけです。

商品を売る商売の場合も同じで、
どのような商品ならニーズがあるか
お買い上げになる人はどのような人たちか
どこにどのように営業を展開すれば
その人たちが商品を知って、手を伸ばそうとするか
売り上げにつながるかを
先ず徹底的にリサーチするわけです。

その上で商品開発をします。
開発者と営業との連携がここで必要になり、
その商品のウリは何か、
メリットともにデメリットがどこにあるか
どういう人たちにどういう風にアプローチするか
そういう戦略を立てるわけです。

それでも必ずしも売り上げにつながらないことが
商売の難しさです。

そのような戦略がしっかり立てられ
営業担当者全体に浸透していれば
不正取引は起こりようがありません。
今回のような無理な営業を続けるよりも
別のニーズのある家庭に営業をかけた方が早いからですし、
自社商品を購入したことによって
顧客が不幸になることは
人間として大きな抵抗があるからです。
自社商品を誇りたい、自社を誇りたい
というモチベーションがあるべきなのです。

パワハラが起きる理由はここにあります。

ノルマは苛烈である。
しかし、保険契約を取り付ける戦略がない
上司もコーチング技術がない
それでもノルマを達成しなければならない
商品のメリットが分からない
商品のニーズが分からない
とりあえず使えない一般的なことしか書いていないマニュアルを握って
とりあえず人のいる家を訪問するしかない。
高齢者の一人暮らしの方しか家にいない。

高齢者の元にちょくちょく言って話をしていると
親身になってくれる
こちらを信じて
あるいは、だまされても良いと思って
保険契約をしてくれる。
こういうことが起きていたのでしょう。

このあたりは以前このブログで書いています。
一人暮らしの高齢者のかんぽ生命被害の実例から考える高齢者問題 身近な将来の自分たちの問題
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-07-17

それでも、保険契約をとることが
相手にメリットがないし、
保険料は払わなければならないとなると
まともな担当者はやりたくないですよね。

営業職というか会社をやめたくなるわけです。
しかし、同じ条件の賃金の出る仕事がなかなかない。
仕事を続けるしかない
しかし上司は鬼のように売り上げを上げろという

つまり、上司がパワハラをするのは、
上司自身が、この商品が売れないことを知っているからです。
それでも売るためには強制するしかないと知っているからです。

パワハラの原因がここにある可能性があるということです。
何年か前から苦情が出ていたのですから
かなり上のレベルまで不正がわかっていたはずです。
それをクレーム対応のように処理してしまっていたようです。
調査委員会は、この点についても調査報告をするべきです。

だとすると、かなり上の人たち、おそらく経営者に近い人たちも
売れる商品ではないことを十分理解した上で
根拠のないノルマを設定していたことになります。
おそらく、「それだけ売れればいいな」的なノルマ設定でしょう。

郵便局は、国の財産でした。
郵便局の利益は様々な形で国民に還元されていました。

小泉内閣によって民営化されてしまい、
現在は国民の利益に反映されず、
消費者としての国民を不幸に陥れている
ということになりそうです。

それにしても、経営者の記者会見はひどいものでした。
どうして、専門家からレクチャーを受けないで
会見を開いてしまったのでしょうか。
荒れるべくして荒れたわけです。

どこまでも素人なのか
売れる商品を作ることもできず
売り方もコーチングできない商品を作り
それでも従業員に売れと言い放つ
現代の殿様商売がこれなのでしょう。
民間企業なんてこんなものだという気持が透けて見えます。
商売をなめているとしか思えません。
経営者が何も努力せず
従業員の頑張り頼みということではないでしょうか。

そして改善策としては
勧誘の可視化等ということが取り上げられているようです。
本末転倒、枝葉末節ということです。

売れる商品を作り、販売戦略を立てる
それこそするべきなのです。

不正を行った営業担当者は
顧客の不利益を働きかけ
顧客が苦しんでいても何も対応しない人たちです。
経営者の犠牲者ではありますが、
そういう「強いメンタル」を持ってしまった人たちです。

その人たちが、にこやかな笑顔を振りまいて
あなたの親、あなたの祖父母、
あるいは高齢になったあなたの一人暮らしの家を訪問するのです。

かんぽ生命の不正疑惑ということは
そういうことだとしっかり認識していただきたいと思います。


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令和元年わが子に会いたい親子の会忘年会やりました。女神の降臨。 [家事]


予告通り、令和元年親子の会の忘年会が開催されました。
大人6人とわりとこじんまりの会でしたが、
お子さんが二名出席するという
初めての出来事もありました。

お子さんのうちのお一人は、
母親に連れられて父親の家から離れされました。
当時幼稚園の年長さんでした。
しかし、次の日けんかして父親の家に帰ってきた英雄です。
残念ながら兄弟は幼かったため母親のもとに残ったので、
今は別々に暮らしています。

もう一人は初めて登場の幼稚園の年中さんです。
事情はよく分からないのですが
何年か前からお母さんとだけ一緒に暮らしていて
お父さんとは時々会うという状態のようです。

母親の都合で父親が預かることになって
急遽泊りになったので
じゃあ連れて行こうかということになったようです。

初めての大人の会合で、しかも今回は男性ばかりだったので
最初はおとなしくしていたのですが、
なにせ幼稚園の年中さんですからかわいらしくて
何を言ってもすべて受け入れ、だれかれとなく世話を焼いたものですから
すぐに安心していろいろお話してくれるようになりました。

突如立ち上がって
「今日はお父さんのところに泊まるんだよ!」
と満面の笑みで誇らしく宣言してくれました。

おじさんたちは、自分が子どもに全く会えない人もみんな
目に涙をためて心の底から喜んでいました。
もうそこからは、女神降臨という感じで
女神を中心として会が盛り上がりました。

不思議なことなのですが、
子どもに会えない父親、母親は、
みんな子どもが大好きで子煩悩なのです。
子どもに優しくしたくて仕方がない人たちばかりなのです。

誰の子どもでも元気で笑っていてほしいと思っていると思います。
でももちろん、一番は自分の子どもの笑顔に
自分の力が貢献できたらと思っているのでしょう。
そう考えると、胸が苦しくなります。

しかし、この時ほど
二人のお子さんを見ながら
子どもが存在すること自体が「希望」なんだなと感じたことはありません。

申し訳ないのですが
子どもを連れて行ったもう一人の親のことなどは
どうでもよいのです。
恨んでも憎んでも、もはやいない。
ただ、子どもを大切にしたいだけなのです。

子どもたちがこんなにも
残されたもう一人の親といることが楽しくてしょうがないのに、
どうして連れて行った親のほうは
子どもを実の親に会わせようとしないのでしょう。

「今日お父さんの家に泊まるんだよ!」と
高らかに宣言したお嬢さんの笑顔をみると
もっと面会交流を充実させなければならないと
切実に思います。それほど説得力があります。

ただ、ここで「待てよ」と考えなければなりません。

この子のお母さんなのですが、
最近、子どもを父親に預けることが多くなったのだそうです。
ここに注目です。
どうしてそうなったのかわからないのが残念です。
でもとても合理的なことです。
子どもは一人で育てることができない。
いろいろと分担して、自由な時間を多く作ることが
まさに女性解放じゃあないですか。

少しずつ合理的な共同養育に向かっているわけです。

一つには、子どもがお父さんと会うことでこんなに喜ぶなら
会わせようと思うという声はよく聞きます。
もう一つは関係の変化によって
母親が父親と接触することに心配を抱かなくなった
そういう事情があるはずです。

多くのケースでは、
漠然とした不安が子どもを連れて別居することの
理由になっているのですが
その不安の正体は自分ではわかりません。
ところがその不安を言語化する過程で
具体的な対象物として夫が標的とされ、
かつ、自分の自由を奪う存在としての意識づけがなされ、
嫌悪感、恐怖感が固定化されて別居に至るわけです。

少しずつ、反復継続して
安心の記憶を一緒に作っていくことで
会わせることの不安が消えて行っていると思います。
別居している親御さんはここを大事にしてもらいたいです。
些細な子どものことで注意することなく
嘘でよいですから、形だけ感謝の気持ちを伝えるべきです。
そうして、さらに安心させていくわけです。

もう一つ
写真でも面会でも
男親と女親に違いがあります。

女親が子どもと同居しているとき、
子どもの写真を送るとき
とってもよく撮れた写真をよりによっているということが
第三者の私からはよくわかります。
絶対に会わせたくないと憎悪をむき出しにしている場合もです。

あるいは子どもを男親に会わせるとき、
良い服を着せて、髪の毛もきれいに編み込んで
おしゃれさせることが多いようです。

人間の気持ちとはかなり複雑なようです。
第三者がこうだと決めることなんてできないと思います。

相手の勇気を引き出す受け入れ力の強化
これが一番大切なんだなと思いました。
今回の会でも徹底して女神を受け入れ
英雄に気を使いながら会が盛り上がっていきました。
子どもたちは、いっぱいいっぱいお話してくれました。

土曜日とはいえ5時から初めて7時過ぎには終わりました。
子どもにとっても優しい時間だったと思います。
令和元年の締めくくりは最高でした。

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「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論

DVサイクルという言葉は、現代日本が作った造語です。
DVサイクルを発見したとされるレノア・ウォーカーは、
DVという言葉を使っていません。
レノア・ウォーカーは、「バタードウーマン」という本を出しています。
バタードとは、虐待された人間であり、
虐待者はバタラーと表現します。
本書では、「暴力のサイクル理論」という訳語になっています。

ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」
とされています。

「DV」という言葉は、とらえどころがなく曖昧で、
かなり広い意味で使われています。
レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論は
このような広い意味でのDVに当てはまるものではなく
上記のかなり限定された事案に対する分析です。

バタラーとバタードウーマンの関係は
時期的に3つの相に分けられ、
それが繰り返し起きている、
これが暴力のサイクル理論です。

第1の相は、緊張の高まりの時期です。
この時期も些細なものながら暴力事件が起きています。
女性の関心事は、正しさや人権ではなく
暴力をエスカレートされないことだけです。
このため、進んで自分が悪いとアッピールしたり、
怒りや痛みがあるにもかかわらず無いと思い込むようになります。

しかし、このような緊張の持続に耐えられなくなり、
不用意な刺激的言動を行なってしまい
緊張が高まっていくとしています。

第2の相は、激しい虐待です。
虐待者はコントロールが全く効かなくなります。
第2の相に移るきっかけは女性にはなく
男性の体験した外的な出来事や内面的状態の変化です。
虐待者はコントロールが効かなくなり
女性がひどいけがをしても暴力を止めることができなくなります。
だから虐待者の方が
虐待の内容を詳細に記憶していないこれが特徴のようです。
逆に虐待を受けた方はこれを詳細に記憶している。
レノア・ウォーカーは、このように報告しています。

ここが現代日本の現実に保護されている女性とその夫と正反対のところです。

日本においてもレノア・ウォーカーのいうような夫婦間虐待はあるので、
そういう場合は筆者の言う通りなのかもしれません。
確かに、そのような場合、虐待の事実について、
虐待者は事実を否認しますが、その言い分で考えると
つじつまの合わないことで相手がけがをしている
ということになってしまうのでわかります。

女性側のいわゆるヒステリーの場合も
(男性に対する虐待とは言えない場合が多いかもしれませんが)
自分ではあまり詳細には覚えてはいないようです。
攻撃者の方が覚えていないということは
興味深い指摘だと思います。

要するに怒りに我を忘れているということなのでしょうが、
どちらかというと、後で述べる
自己防衛意識が強烈になりすぎて
解離や短期記憶障害が起きているような感じなのでしょう。

女性は、救急車の出動を要請するような怪我をしない限り
手当てを受けないそうです。
第1相の否認の心理が働いているわけです。
実際の私が担当した事件でもそうでした。
「なんで診断書取らなかったの」と
後で悔しがることが多いのです。

かすり傷や転んだだけで、他覚症状のない診断書をとる
という場合とは事情が違うことがはっきりわかります。

第2相では被害を受けているはずの女性側も
男性に対して怒りを放出しているような記述があるのですが、
第2相は複雑で、
虐待者が怒り続けていても
虐待を受けた女性は第1相と同様な精神状態になる
という記載もあり、少しわかりづらいです。

バタードウーマンは、大方の予想に反して
結構夫に対して反撃しているようです。
やられっぱなしではないという記述があちこちにあります。
手が出る数も負けてはいないようで、
前回お話ししたように、夫を殺すのも女性の方が多いとされています。

確かに筆者はバタードウーマンには、
強さがあるということも指摘していました(42)。
気弱でボロボロの服を着て髪の毛はぼさぼさで
というイメージの修正を繰り返し求めています。

第2相は1番時間的には短く、
第3相、第1相の順に長くなるようです。

第3相は、やさしさと悔恨、そして愛情の時間です。
虐待者は、自分の虐待を恥じて償いをして
二度と同じことはしないと誓約し、許しを請うようです。
虐待を受けた女性は、この時期の男性が
真実の男性の姿だと思うそうです。

この第3相の時期があることが重要で、
サイクル論の根幹になっているだけでなく
配偶者加害の理論の根幹になっています。

つまり、どうしてこれだけ虐待されるにもかかわらず
虐待を受けた女性は、
虐待者の元から去らないのかということです。

この第3相の時期が幸せで
いずれ、この時期だけになるのではないかという
幻想を抱くのだというのが、
その問いの回答になるからです。

なお、虐待された女性が家を出て行った場合、
約10%の男性が自死をすると書いてありました。
家を出ることは大変危険のある行為であることは
レノア・ウォーカーによって示されていることになります。

また、虐待を受けた女性が虐待者を殺すのは
第3相から第1相に移行した時だとしています。


2 虐待行為の理由、虐待者の心理(私見)

レノア・ウォーカーは、何度も何度も
自分は虐待者とはめったに話さないと注意しています。
情報源を明確にしていることは極めて良心的な学者だと思います。

だから、虐待者の心理というものを分析はしていません。
虐待の背景としては
女性は自分の所有物であるから教育のために暴力を使う
という差別感、大家族主義を述べるくらいです。

しかし、本書で上げている具体例のほとんどが
私の分析を指示する事情を述べています。
おそらく筆者がそれに気が付かないということはあり得ない
そう感じるのですが、
筆者はそれを明示していません。

私が夫婦間虐待の事例などを分析した結果は、
「虐待者は、自分の立場を守ろうとして
女性に対して虐待をしている。」
というものです。

根本は防衛意識です。
但し正当防衛ではないので、
正当化できない防衛意識と明示しておきましょう。

何を守るのかということについては
時代により変遷が見られるようです。

確かに過去、例えば昭和の年代においては、
妻に対して夫の優位さを確保することが念頭に置かれており、
優位さが失われそうなときに
暴力が出るということがあったようです。

しかし、現代に時間が進むにつれて
優位さではなく、
虐待者の方が関係性を失う危険を感じたときに
暴力衝動が起きるという表現が適切になったようです。

この原理は男性も、女性もある程度共通のようです。

「関係性を失う」というのは、
例えば自分の立場がなくなると感じる時、
自分に対する相手の評価が低いと感じる出来事があった時、
自分が侮辱された、尊重されていないと感じたとき
等の対人関係的危険を感じたときということになります。

究極には、関係性からの排除を予感させる場合です。

昭和の時代に優位さを失うときに危険を感じた理由は
当時においては、男性は女性に対して
優位でなければ関係性を失うものだ
という社会的な固定観念があったからでしょう。

現在はなかなか優位性を保つという意識は持ちにくいので、
優位性を基準にすることにはならないようです。
但し、虐待を受けている方から見ると、
結局優位性を保ちたいのだとしか思えない
ということを実感として持つということも真実だと思います。

虐待者自身が、
本当はいつまでも一緒にいたいだけなんだ
ということに気が付かないことが多いように思われます。
いつまでも一緒にいるために、自分が尊重されなければならない
尊重されていなければ自分は見限られるのではないか
という意識に上らない感覚があるように感じられます。

だから何に怒っているか自分でもわからずに
尊重されていないと感じても言葉に出すことはできず、
イライラに気が付いてほしいけれどそれも言えない
何とかしたくて攻撃をしてしまう。
そんな感じなのかもしれません。

虐待を受ける側が、自分の度の行為が相手を激怒させたのか、
虎の尾を踏んだタイミングが分からないことも理由があります。

一つには、関係性が失われるというのは虐待者の主観的な反応であり、
客観的には別に顔がつぶされたと感じる必要はない場合だからです。
少なくとも虐待を受ける方は顔をつぶしたとは思っていません。

また、虐待を受けた女性が同じことを言ったとしても
その時の男性の内的状態が、外的出来事によって変化している
という事情があるからです。
この点の筆者の指摘(63)は正しいと感じます。

例えば会社で上司から理不尽な扱いを受けて
なんとも悔しくて仕方がないまま帰宅した場合とかですね。

但し、女性の発言は一般的に不用意です。
男同士なら絶対言わないということも
平気で言ってしまっていることが多くあります。
そう言えば大学の心理学で習ったことがあります。
女性は男性以上に男性に対して無防備なところがあるというものでした。
でも、だからといって暴力が正当化されるものではありません。

もう暴力のきっかけがひとつわかりにくい理由が
虐待者が女性の発言を勘違いした場合が
多いのではないかと思われることです。

裁判などで、虐待を受けた者の主張と虐待者の主張が違うのですが、
虐待者の主張は勘違いか幻聴がきっかけだと解釈し直すと
ああそうだったのかと納得がゆきます。

そういう意味で言ったのではないのに
つまり単なる事務連絡の発言をしただけなのに
悪くとらえて自分が馬鹿にされていると勘違いをして
怒りだすということが結構多く見られます。

また、どういう場合に自分の顔がつぶれたと感じるかについては
その人それぞれ違うようで、
またその時の精神状態によっても違うので
そういうことからも予想が難しいということがあるようです。

根本的な安心感、信頼感がないのですが
それはもっぱら自分に対する評価の低さ、劣等感によるもののようです。

虐待者は、無駄に自己評価が低いのです。
だから
女性の方が社会的地位の高い職業に就いている
自分が失業した、収入が減った
左遷された
暴漢に襲われて負けてしまった
あらゆることが自分を否定することになってしまいます。

虐待者は、けっこうあちこちにケンカを売っています。
よくあるのが、自動車を運転していて
余裕のない運転者が割り込み等をすると
聞くに堪えない悪態を吐くというものです。

だから、虚勢を張ることは自分を守るために
どうしても必要な行動です。
実力以上に見せようと絶えず表面的に努力しています。

嫉妬深いのもこういうことからきているわけで、
自分に自信がなく、自分と女性との関係性にも自信がないから
女性が自分を見限って
別の男に近寄っていくのではないかと考えるのです。
女性を浮気性とか淫乱とか攻撃しますが、
自信の無さの裏返しにすぎません。

だから、虐待者は女性を嫌っているのではなく
いつまでも自分を見捨てないでいてほしいという気持でいるようです。
虐待者からは離婚を言いださず、
虐待を受けた女性からの離婚の申し出を拒否するのは当然です。

また、第3相も当たり前です。
嫌いでも虐待したいわけでもないわけです。
別れるのは嫌なのです。
自分を大事に扱ってほしいということは
恥ずかしくて言えないために
暴力になるだけです。

この事情も男性も女性もあるようです。
わかってほしいけれど言葉に出すことが恥ずかしいということですね。
親に注意されて反論できなくて
「死ね」という中学生みたいなものです。
(親の方が余計なことを言っていることが多いかもしれません。)

暴力や暴言についても
心から相手に悪いことをしたなあと後悔するのです。
自分を見限るかもしれないと心配になるために
必死にフォローしているわけです。

そのときの二度としないという気持は間違いがありません。

しかし、怒りの情動にとらわれてしまい、
自分の冷静な感情が失われ、
相手を攻撃しきることだけが意識になってしまっているのです。
自分を守るという意識が
自分が相手と関係性を継続したいという意識が
逆に相手を攻撃してしまっているという
お互いにとっての悲劇があるのだと思います。

レノア・ウォーカーは、虐待をやめる方法として
怒らないで主張すること
威圧しない話をすること
という二つの条件を上げていますが
正しいと思います。

それをするためには、
相手がかわいそうだから、相手を守らなければならない
という情動を対立させることが有効だと思いますが、
これも訓練という作業が必要だと思います。

もう一つは、家族との関係では自分を守らない
家族に殺されたら本望だと
そういう気持の訓練でしょうね。

これ、案外、身体生命の危険の場合はできるのです。
我が身を犠牲にしても家族を守るということですね。
ところが、対人関係の危険、家族から追放されるという危険の場合は
家族を守らないで自分を守ってしまうようです。

同じ事を、離婚後の子どもの研究をした
J.S.Wallerstein も述べていました。
身体生命の危険は我が身をなげうっても子どもを守る
しかし、離婚となると子どもよりも自分の感情が優先となると。

3 日本におけるサイクル

レノア・ウォーカーのサイクル理論は、
欧米の社会を前提に話されています。
日本においては事情が違うようです。

ほとんどが第1相で
第2相もほんの一瞬
そして、明白な第3相はない。
こんな感じではないでしょうか。

割とはっきり3相に分かれているのは
結婚前のカップルかもしれません。

なぜならば、日本人は
自分が悪いといってもあやまることはあるでしょうが、
埋め合わせにはっきりとした優しさを示すとか
許しを懇願するとか
二度としないと誓約するという
オーバーアクションは起こしにくいからです。

行政の相談の記録を見ても
こじつけにこじつけを重ねて
DVサイクルを教え込もうとしている様子がうかがえます。
全くマニュアルから抜けられないし、
何でもかんでも保護の対象としようとしているからです。

そもそもDVサイクルで説明をするのは無理があるのです。
また、根本は、レノア・ウォーカーのいう
虐待とまでは言えない場合に無理に当てはめようとするからです。

日本家庭では
家庭内別居をすることが多く、
そうやって衝突を回避しようとしているようです。

そうして何年後かに
ようやく口では自分が悪かった仲よくしようと切り出しても
全く心が動かない状態になっているわけです。

あるいはそうなる前に
元に戻らないと思った方が逆切れして
相手を追い出すとか、自分が子どもを連れて出ていく
ということが起きるようです。

サイクルとしては回っていないようです。

第3相があるから結婚生活を維持するというのは
日本ではあまり説得力がないように感じます。

4 なぜ、虐待があっても自ら去らないのか(私見)

レノア・ウォーカーは、この理由として
一つに学習性無力感ということを指摘し、
もう一つとして暴力のサイクル理論を上げています。
暴力のサイクル理論が理由になるということは、
先に述べた第3相があるため、
希望を持ってしまう。離れられないというものです。

第3相があるから立ち去らないというのは
日本においてはあまり説得力はないのではないか
ということは今述べたとおりです。

学習性無力感というのは、
訳が分かりにくいのですが、
自分がどうして虐待を受けるかという
原因が分からず対策も立てられないと感じることが
何度か繰り返されることによって、
出来事に抵抗をすることができなくなっていくという
反応が起きてしまうという行動学的な説明です。

初めから改善をあきらめてしまうというものでしょうね。

レノア・ウォーカーは、うつ病との近似性についても言及しており
大変興味深く学ばせていただきました。

私見ですが、
ここでも対人関係的危険がキーワードになると思っています。

つまり、人間は本能的に群れを作ろうとする動物だということです。
もう少しだけ具体的に言えば
①群の中に自分を置きたくなる。
②この裏返しで、群から追放される予兆を感じると
身体生命と同様の危機感と生理的反応が生じる(対人関係的危険)。
③無条件に群れの存続維持を図ろうとして
群の秩序を維持しようとする。
④群れの弱い者を守ろうとする。

一つに、どんなに虐待を受けても
家族というユニットを感じていると
自分はそのユニットから離れることによって物事を解決しようとする
選択肢がなくなるということです。

これは、パワハラを受けている労働者も
退職するという選択肢は不思議となく
追い詰められても
「このまま苦しみ続けるか」それとも「死ぬか」
という二者択一的思考になってしまうことが
よく見られています。

群から離脱するという選択肢は
人間の場合持ちにくいようです。

二つ目には、虐待を受けて仲間として扱われない
という扱いをされると、逆に
何とか見放さないでほしい、
自分を承認して、仲間として認めてほしい
という気持を起こさせるようです。
これの極限的な表れが洗脳です。

三つ目は強い者の言動を中心に
秩序を組み立ててしまうようになります。
いじめの場合の傍観者はまさにこの作用が起きていると思われます。

いじめの場合、しばしば被害者までも
いじめ行為に同調しているかのような態度を示すことがあります。
からかいやいじりだということで
恐怖や屈辱を否認しますが、
これはこのように仲間でありたいとか
仲間の秩序を壊したくない
という要求の表れだと考えると理解できますし、
なおさら悲惨な状態なのだと思います。

レノア・ウォーカーは、
暴力のサイクル理論の中で、
第1相において、被害者が
これ以上被害を大きくしないために
自分の非を認めたり、相手の要求に逆らわないということを言いますが、
自分を守ると同時に
家庭を守ろうとしているのかもしれません。

人間が群れを作るのは一人では生きていけなかったからです。
群の外にいると不安になり
群の中に戻ると安心する
こうやって心身のバランスをとってきました。

ところが群れの中にいる方が緊張が高まるということになると
心身のバランスが取れなくなり、
心身の不具合が生じるということは
残念ながら理にかなったことになります。

以上のように、虐待を受けても
家族から離脱するという選択肢を持ちにくい
むしろ虐待している当人に対して
何とか自分を認めてほしいとしがみついてしまう
自分を犠牲にしても群れの秩序を守りたい
という人間の本能から
家庭から去ることをしないというのが実態だと思います。

このことを理解しないと
本当に保護が必要な人ほど保護を拒否する
ということが理解できないでしょう。

5 感想

長距離の出張と役所での缶詰が続いたことを良いことに
古典をじっくり読ませていただきました。
役所のDVサイクルというものに違和感があったのですが、
それは作者レノア・ウォーカーの責任はなかった
というのが感想です。

バタードウーマンという
かなり過酷な体験の中での出来事として書かれたものである
ということを理解できれば
色々な学びがあることが分かりました。

問題なのは、家庭内虐待ということがない事案に
DVサイクルを持ってきていることに
違和感の正体があったということのようです。

DVという言葉はとても便利ですが、
あまりにも広範囲になりすぎて
それにも関わらず対応が一律だというところに
夫婦の悲劇、そして何よりもお子さんの悲劇が生まれる原因がありそうです。

どうして、そんなに無理をしてまで
レノア・ウォーカーの理論や、
虐待対策を機械的に当てはめようとするのか
原典を読んで、ますますわからなくなりました。

是非復刻版の出版をお願いしたいと思いました。

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米国の配偶者虐待研究が、日本に「DV」として輸入されるにあたってどのようにゆがめられたのか The Battered Woman 2 各論の1 [家事]

1 理念

本書では、「女性対して暴力をふるう社会の姿勢を変えることは、新しい平等な社会秩序を作る基礎となるだろう。」ということから始まっている(27)。そして、その問題として男女間の賃金格差、就業構造の格差についても言及がなされている(30)。女性は自由意思で虐待環境にとどまっているのではないということも述べられている。これらの意見を文字だけで見れば大賛成である。
 しかし、筆者(レノア・ウォーカー)が、家庭内虐待を社会問題にしようと提案する理由は、アンケートの結果28%が暴力や暴力的対応を受けたことがあるという数の問題である(51)。社会的背景と言えば、男性が女性を暴力で教育する権利が認められてきたことと、伝統的な家族主義ということ以上の分析はない。これは男性側の分析をほとんどしていないからである。
 これは日本の政策、日本のリーダーたちの主張と重なる。その背景に社会構造や労使関係は、所与のものとして不動の前提とされている。ナンシー・フレイザーがフェミニズムがグローバル企業の召使に堕したと批判するポイントがここにある。
 筆者は、最後に、「家庭は外の世界から我々を守ってくれる避難所であり、休憩所であってほしいという期待は明らかに間違っている。今日の世界では、家庭はその役割をはたしていない。」(222)と述べている。
そのくせ、末尾では人間観の協調に価値をおくフェミニスト的な見方が普及しなければならない(227)とも述べている。
 筆者は、男性全体を否定的に見たと述べているが(11)、例外がある。それは自分の父と夫である(扉)。だから、「自分の家族以外の」男性全体が暴力的であると言っているのが本当である。
 ところが日本のリーダーたちは、この部分を削って、男性全体はと人間を類型的に見てかつ否定評価をするという言動をおこなっている。筆者の推定でも半分は暴力を振るわない。ふるったとしてもはずみのような暴力も含まれるのである。筆者の表現は、文字通りの意味ではなく、社会に対して警鐘をならしたものであれば、説得力をもって受け止められる。しかし、日本では、これを真に受けて政策がすすめられているように感じる。
 とあるリーダーが、新聞で、家族分離の方向で長年努力してきた。共同親権制度となったらこの努力が水の泡になるということを述べていた。当初何を言っているのかよくわからなかった。しかし、この本の特定部分の文言の文字面(もじづら)を真に受けていたということであれば、とても理解しやすい。家族制度を崩壊させようとしていたという意味で間違いないようだ。
なお、筆者は、大家族が崩壊し孤立化していることで虐待が起こると主張している(51など)。これには、私の立場からは大賛成である。ただ、伝統的な家族主義が虐待の背景だとしている点とどのように整合するかについては説明が必要だろう。この点、つまりDVと大家族の崩壊の関連を指摘した大学教授もいる。その文章を読んだときはどこから唐突にこのような話が出たのか理解できなかったが、この本の影響を受けていたということであれば、理解は容易である。かなり、日本の男女参画政策のリーダーたちに、影響を与えている本であることに改めて驚いた。

2 虐待は治らないという神話の否定

筆者は、家庭内虐待について、様々な俗説があり、社会は間違った認識をしていると警鐘を鳴らしている。虐待される妻はマゾヒストであるとか、主として貧困層だけの問題だとか、虐待する男性はすべての人間関係で乱暴者だとか
そういうことが間違っていることは私も同感だ。
 「虐待は止めることができない」ということも神話として挙げている(40)。攻撃ではなく主張すること、威圧しないで話し合いができるようになることができれば、虐待を止めることができると筆者は述べている。ただその実現可能性については積極的ではない。しかし、虐待をやめられないということは神話に過ぎないと言っているのだ。
 この筆者の意見に賛成する。私は、虐待は虐待者の自己防衛から始まると考えている。虐待者は、自分の感情を言葉にできない事情があって、感情が高まりすぎて手が出てしまうということが一般的である。言葉にできない事情とは、リテラシーが足りないということよりも、説明することが男として恥ずかしいという事情が多いように思われる。この点について、虐待者の考え方と行動を修正すれば、虐待は起きない。
 また、筆者は、夫は妻を鞭で叩く権利があるという背景事情(自己の虐待を正当化する文化的背景)を指摘しながら、虐待者は、自分の行動が間違っていて公にすることができないようだと虐待者に罪悪感があることも指摘している。正当化する習慣と罪悪感の関係は、どこかで折り合いを付ける説明をしなければ矛盾となってしまうように感じる。ただ、負の自己評価があり、できるならばやめたいと思っていることはその通りである。
 ところが、現代日本の男女参画の行政行動は、筆者の指摘した重要な条件付けを一切捨象して、「DVは治らない。逃げるしかない。」と言い続けているのである。いったい誰のどういう理論に基づいてこういうことを言うのか説明を求めたい。この結果、抵抗する妻や何の責任のない子どもは、夫や父親から引き離なされてしまうのである。
 DVは治らないということは、ウォーカー博士の理論ではない。そもそも博士は、これは神話だと言って否定しているのである。

3 虐待夫の元からは逃げるしかない

これは、筆者も言明している(41)。但し、筆者は男性自体の虐待の背景について調査研究をしているわけではないので、本来的にはこのような結論を言う立場にはないはずだ。ところが、なぜ暴力をやめないかという仕組みについては、「男性が女性との対等の立場を受け入れないからだ」と鋭い指摘をしている。感想レベルの話としては、その通りだなと思う。権力を渡す、もっと実務的に言えば、「相手の裁量を承認する」という行為が虐待や暴力をやめさせる特効薬だと私も思っている。
真実虐待を受けている妻の場合は、とりあえず逃げることしか方法がないのかもしれない。問題は、真実は虐待とは言えない場合であり、妻の裁量を認めており、役割分担をしている夫婦にはこの理論が適用できないはずだということである。
 ところが、現代日本の男女参画政策では、虐待の有無、程度に関わらず「逃げるしかない」と嫌がる妻を説得するのである。興奮している妻があることないこと言っているのは当然のことである。それにもかかわらず、それを全部額面通り受け止め、子どもがいるのに夫から事情を聴くこともなく、逃げ場所を提供して居場所を隠す手伝いをしてしまう。筆者は、バタードウーマンの場合にのみ妥当する理論として提案している。しかし、現代日本の政策では、バタードウーマンの定義に該当する事案か否かの吟味をすることなく、一律「逃げろ、隠れろ」という働きかけをする。

*バタードウーマンの定義「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」(9)


4 逃げなければ命の危険がある

現代日本の政策は、妻の言っていることの信ぴょう性はさておいて、DVは治らない。話し合いは無駄だ。DVはエスカレートしていき、あなたは殺されるかもしれない。」と妻を脅かす。
確かに、自殺に追い込まれて死亡する場合もあるかもしれない。これは否定できないだろう。PTSDや酷い解離状態になり、アルコール依存症が合併していると、自死なのか事故なのかわからない自己ネグレクトが起き、人が死んでいく。
 しかし、筆者が指摘する死の危険性は、妻側ではなく夫のことを指摘している。筆者の経験では、虐待によって死亡した妻はいないとのことである(43)。これは生きて相談に来た女性を対象としているのだから、ある意味当然だと思う。しかし、300人中、4人の女性が夫を殺害している。殺害のメカニズムとして、「常に恐怖を感じて暮らしていると、暴力や死の深刻さに無感覚になる」(58)との指摘は全く正しいと思う。
 レノア・ウォーカーが虐待で死んだ女性はいないという指摘はとても重い。ところが、現代日本の政策では、この事実は無視されている。(もちろん、死ななければ良いというものではなく、精神的な破綻による生活不能ということはありうるとは思っている。特に、本当に深刻な虐待が継続してあった場合の予後は大変悪い。しかし、精神科を受診していたとしても、家庭内虐待の話を医師に打ち明けない場合も多いようだ。病前性格について調査しない場合、家庭内虐待の事実を見落として、病名がパーソナリティー障害になることが多いように感じる。) ところが、現代日本の政策は、まったく暴力がない場合においても「逃げろ、隠れろ。殺される。」という指示を出しているようだ。最近は、自治体の相談室では、暴力がないことを確認した場合は、そのような指示は出さなくなった。何らかの暴力があったように誘導されるようだ。しかし、誘導にのらないと何らの支援もされなくなってしまうようだ。「逃げろ、隠れろ、殺される。」以外の支援のバリエーションが貧困だからであろう。

5 男性から事情を聴かない

 男性から事情を聴いていないということは、筆者は何度も繰り返している。それは立場の問題だからだろう。筆者は心理カウンセラーとして仕事をしているのであるから、そもそも相手方から事情を聴くということがレアケースであることは致し方ない。また、職業的限界から、虐待を受けた妻に対しても決定的な行動を起こすこともできない。その意味で、バランスが取れている。
 しかし、現代日本の行政は、例えば妻を逃がし、かくまうだけでなく、子どもも学校や幼稚園から引き離す。子どもや両親にとって、将来的に重大な影響を与えるような行為を行っている。弁解を許さずにこれらの行為をすることは憲法上の問題があると考えている。
 筆者が男性から事情を聴かないのは理解できるが、このような影響力を実行する行政機関が男性から事情を聴く必要がないということは本書には何も書いていない。

6 現代支援を受けている女性と虐待を受けた女性の違い

虐待を受けた女性の共通項は以下の通りだと紹介されている。
1)自己評価が低い。それそうだが、これは、虐待された事後的な性格である可能性が高い。
2)虐待関係の神話を全部信じている。神話とは21項目あるが、虐待を受ける女性はマゾヒストだとか、気が変だとかそういうものも含まれており、そういうことを信じているような女性は現代日本にはいないだろう。
3)伝統的な家族主義者。これもそれほど多い割合を占めるわけではない。
4)虐待者の行為について責任をとる。これはある程度当てはまる女性もいる。
5)恐怖と怒りは否定する。これもあまりないように思われる。暴力もハラスメントも何もない場合は、恐怖と怒りがないことは当然である。
その他が挙げられている(42)。
このほかにも虐待の共通項が挙げられている(76)。
ひどい虐待が始まるときは予測不能、過剰な嫉妬、虐待者の異常性欲、激しい虐待の詳細な記憶、銃やナイフ、拷問などの怖い話がある、死の意識というようにこれらは、現代日本の政策で保護されている女性の多くに全く当てはまらない。
虐待の詳細な記憶はほとんど存在しない。厳密な裁判官は、重大な出来事なのに記憶が曖昧であるため、証言の信用性を低く評価する。いかに誘導によってつじつまが合わない話が語られているかを強く物がっている。
弁護士などの中には、事実はどうなのかということをさておいても保護をしろと言う主張にしか聞こえない主張される方々も多い。

7 精神的虐待

 日本の配偶者支援においては、身体的暴力などの刑事事件に該当する場合にのみ支援ができる機関がある。警察である。警察が夫婦間に過度に介入することは不適切だと警察庁自体が判断しているし、法もそのように定めている。
 ところが、現在警察は、身体的暴力がなく、脅迫罪なども成立しない場合でも法や通達の定めた支援措置を行う場合があり、国家賠償訴訟が起こされている。
 「身体的暴力がない場合でもDVというのだ。」という言い訳を聞かされるが、DVの定義の問題がどうあれ、法や通達は守らなければならない。現場の警察官は通達を学ぶ前に、何らかの講習を受けているそうだ。
 筆者も、心理的圧迫や言葉による緊張の高まりの重要性を指摘しているが、背景として身体的暴力のある事案であることを重視している。この姿勢は正しい。身体的暴力のある場合と無い場合では、言葉による影響も全く意味が違ってくるからである。一度、身体的暴力を受けると、言葉の一つ一つが重い意味を持ってきて、心理的圧迫が強大になる。その時は暴力がないにもかかわらず、服従や迎合が起きてしまう。虐待を受けていた女性は、自分の迎合や服従行動と、過去の暴力との関係を意識できない場合も少なくない。意識には上らないが、意識下で記憶は過去の暴力と結びついているのである。本書の事例を一つ一つ読むと、その過程が理解できる。
 身体的暴力のない精神的DVと身体的暴力のある虐待は別物ともいえる。それだけ身体的暴力のある虐待は深刻な影響を与えるのである。身体的暴力がない場合も同じDVだという主張は、この点を理解していないのである。マニュアルだけの政策の弊害がここにあらわになる。国家が積極的に介入する場合、デメリットも出てくる。結局は、強制と強制のぶつかりあいになり、何も解決はしないと思う。法律や通達は守られなければならない。

まとめ

以上のとおり、レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」は読むべき本である。復刻版を出版するべきであり、多くの実務家に読まれるべきである。家庭内暴力の現場の実感が文字で書いてある。筆者の言うとおり科学的ではないかもしれないが、優れて実務的である。実際に読んでみて良かったと思う。
しかし、その射程範囲を誤れば、大変恐ろしいこととなる。あたかも殺人罪には死刑があるが、それを暴行罪や脅迫罪に適用してしまうような問題が生じているのである。殺人罪も暴行、脅迫罪も、他人を攻撃する罪だとあまりにも大雑把にくくってしまうと、とにかく処罰すればよいという恐怖政治が生まれてしまう。アメリカの配偶者虐待の研究が、日本に輸入されDVという言葉でくくられることはそいうことなのかもしれないという恐ろしさを感じた。

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The Battered Womanノート 1 総論部分 日本の男女参画政策の原典を読む [家事]


1 絶版

男女参画政策の根幹であるDV対策の
その根幹の理論であるDVサイクルの基礎となった
レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」を
是非読んでみたいと思い探していた。
大きな書店や古書店に行って探したが見つからなかった。
それもそのはず既に絶版になっていた。
発行は、1997年1月である。

現在もこの本にもとづいて政策が行われていることを考えると
早すぎる絶版だと思う。

要するに、男女参画に携わる人が
この本を読もうとしていないということだ。

自分が行政やNPOとして、一般市民の家庭、特に子どもの一生に
多大な影響を与えている行動の
その原点を読もうとしている人が少ないというところに
この政策の特徴が表れている。

では、各機関は何にもとづいて
DVサイクル等ということを声高に主張し、
DVは治らないから逃げるしかないと
家族分離に抵抗する母親を説得するのだろう。

見えてくるものは
研修会のレジュメである。
ほとんどマニュアルみたいなレジュメが作られている。
その背景や具体的な考察がほとんど書かれていない
結論だけのレジュメである。
これに疑問を持たずに、言われたとおり行っているということのようだ。

おそらく当初は翻訳本がなく
原典に当たることは難しかったので
それも仕方がないと是認されたのであろう。
しかし、その後翻訳本ができてしまった。

実際の人間の家族の生活は千差万別で
本来マニュアル的な処理をするのは不向きである。
それにも関わらずに、
マニュアル的処理をしているのである。
不具合は生じるべくして生じたのである。

この本を読み進めていると
DV対策の理論的リーダーと呼ばれている人たちが、
この本の読みかじりのような主張をしていることがわかる。
こっそり引用しているのだ。
しかも、文書全体の意図とはべつに
例えば重要な条件付けの条件を外して
断定的に主張している。
(この点については、次回に説明する)

マニュアル型政策だとすれば
原典はむしろ政策推進の弊害になるだろう。
マニュアルと原作者の主張が違うということが
明らかになってしまうからだ。

この本が絶版になっていることこそ
現代日本のDV政策を象徴した出来事であると思う。
絶版だと知ったからには
なんとしても読みたいと思い入手して読んでみた。

2 欧米の家庭内暴力と日本の決定的な違い

この研究がはじめられたのは1975年だという。
おそらく、その当時の欧米の事情が語られているのだろうから
21世紀の日本の家庭事情を比較して
欧米を論じることは間違っているだろう。

この本によって、家庭内の虐待が問題視されるようになり、
その結果、人々の意識がだいぶ変わったと思われるし、
その効果は日本にも及んでいるのではないかと想像する。
私も影響を受けているのかもしれない。

そのことを踏まえたうえでお話しするのだが、
欧米の夫婦間虐待の背景として論じられていることは、
夫は妻に対して暴力をふるうことが許された法律があるというのだ。
親指より細い鞭であればそれで妻を叩いてもよいと
法律でそう規定されていたらしい。

これは日本では考えられないことだ。
特に江戸時代以前の日本では、
あるいはその後江戸時代までの価値観が続いていた庶民の間では
男が女に手を挙げるということはご法度であり、
無教養の極みとして軽蔑されていたはずだ。

明治維新後には、
特定の出身地の人間が権力を握るようになり、
酒乱で妻を殺した人間が総理大臣になる等ということはあったが、
江戸時代以前の文学を見ても
男女は比較的平等で、
女性に対する暴力が、称賛されたことはないと思う。
ただこの点については自信がない。
教えを請いたい。

ただ、少なくとも法律で男性の特権として
女性に対する暴力が是認された法律や、思想はないように思われる。
(江戸時代の「女大学」と言う文書はあるが、
これはその逆の行動が一般的であったことを物語るものであり、
当時の女性たちのおおらかさと
一部女性の賢さが透けて見えるというべきだろう。)

もう一つ、前提的な話として
欧米では、男性が女性を虐待する場合、
それは教育なのだから許されるということを
理由にしていることが多いということだ。

現代でも児童虐待がしつけの名によって行われる。
虐待の本質を見たような錯覚に襲われるが、
男性は女性を教育するために暴力をふるっているだろうか。
いくつかの日本のDV事例に関わってきたが
男性がそのような理由で自己の暴力を正当化することは
聞いたことはない。

もっともレノア・ウォーカーもほとんど男性の言い訳を聞いていないので、
暴力男性が、虐待された女性に対して言った
自己を正当化する言い訳を
虐待された女性から聞いたという経路は意識しなければならない。

日本において、
妻などを教育する手段として暴力をふるったと
主張する事例はない。

つまり欧米の男性は自分の妻を「もの」と見ていて
所有権の対象だと考えるようだ
そうして所有物である以上、
叩くことも、教育することも男性の権利だと考えているということになる。

もちろんすべての家庭でこういうことにはなっていないだろう。
逆に日本の家庭でもそのように考えている人が
全くいないというわけではないだろうとは思う。

しかし、この本、ウォーカーの学説が
この欧米人の意識を背景に見ているとしたら
これを日本に「直輸入」することには問題だということは
少なくとも受け入れていただけると思われる。

しかししかし、日本では直輸入どころか
大事な部分を削り取って不具合を拡大させて主張されている。
このことについては次回説明する。

3 科学的ではないこと

レノア・ウォーカー博士自体は科学者である。
だから、ご自分の学説が
十分な統計や調査に基づくものではないことを承知されており、
これは科学ではないということを繰り返し述べられている。
このこと自体は尊敬に値する態度である。

ただ、だからと言って博士の研究が色あせるものではなく、
むしろ、その時代を切り開く力があったことは間違いがない
本書は十分その役割を果たしたと思われる。

また、本書の基礎となった研究データは300例だという。
300例といっても、必ずしもいわゆる男女の関係ではない
例えば親子の間の問題も入っているような節があるので、
症例としては少ないかもしれない。
それでも、データを解析し、分類を進めることによって
十分な仮説として提示できる方法もあったかもしれない。

しかし、あえてそういう時間をかけず
フェミニストとして現実の女性を救済するという観点から
本書は作られたのであり、
それは、それでありうる手法であると思う。

問題は、それを現代日本という
時代も歴史も場所も異なるところで
機械的に当てはめようとすることが行われていることだ
ということも本書を読んで感じたところである。

博士は前書きで、事実認識の情報源は
虐待された女性から得たということもはっきり述べられていて
男性に反論の機会を与えていないとはっきり述べられている。

これは、私的研究の限界でありありうる話である。

だからと言って、現代日本においても
公的機関が同僚に一方の側からしか事情を聴かないで
聞いていない方に不利益を科すことが許されることとは
全く違うことである。

博士は、今回は女性を犠牲者、男性全体を否定的な目で見たと
これも科学者らしくはっきり述べられている。
しかし、将来的に研究が進んだら
男性もまた犠牲者だとみることが必要になるだろうと述べられている。

あくまでも、このような態度は
本書が書かれた時代には必要な態度だったのだと思う。
現代でこのような態度で権力的な政策を行うことは
何ら合理化できないことが本書においても示されていると思う。

定義が曖昧なことも本書譲りであるが、
現代日本では曖昧にする理由があるのかもしれない。
ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」としている。
定義がそれほど問題にならなかったのは、欧米の虐待は、明らかな暴力が存在したからであろう。
本書は、精神的暴力についても言及しているが、
明らかな身体的な暴力があることを前提として、
暴力以上に精神的暴力の影響が深刻だ
という主張として記載されているという印象がある。

この本自体は、予想通り勉強になるものであった。
特に学習性無力感が虐待を受けた妻が
虐待者である男性に対して服従以上の迎合をすることを
良く解説している。


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