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いじめの定義を科学的なものにするか、いじめと認定した効果に教育的観点からの働きかけを入れるかしてほしい。いじめの定義は広すぎて改めるべき理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




文科省のいじめの定義(いじめ防止対策推進法)をご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。定義は以下の通りです。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒との一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」となっています。

2018年1月18日日弁連は、この定義が広過ぎるという意見書を発表しています。
問題点として4点を挙げています。
① 定義が広く、本来あれもこれもいじめであると認定しなければならないのに、いじめと認定すると否定的な評価を伴うので、いじめと認定せず、いじめの認定を前提とする情報共有が行われないというもの
② いじめを認定すると当事者関係者に与える影響が大きく、第三者委員会でいじめを認定するといじめ行為が一人歩きしてしまい、マイナスの影響が大きくなり過ぎる懸念があること
③ 本来子ども相互の調整によって解決する問題もいじめに該当してしまうので、保護者から対処を求められるとやらなくてはならなくなる
④ 法律を厳守する立場の教員は、いじめに該当するとして杓子定規に懲戒などの厳しい対応をしてしまう。

日弁連の意見書のこの問題意識は全くその通りだと感じています。

いじめの定義を広げることで、学校に対して「いじめを見逃さないという意識」を持たせようとすることは分かるのです。問題は、いじめと認定すれば後は認定された行為をした子どもたちに対しては懲戒などの厳しい処分しか法律は用意されていないという点が問題なのです。
大体、同じ学校で近くにいるのですから、子ども同士でなんらかのやりとりはあるわけです。心身の苦痛を感じることも当然あるはずです。それが全部いじめになってしまい、懲戒という学校の処分しか用意されていないということは極めて不都合です。

例えば、最初にAさんがBさんにちょっかいを出したとしましょう。或いは乱暴な扱いをしていたとしましょう。Bさんは、Aさんに近づくとまた乱暴にされてしまうと思って、なるべくAさんと一緒に遊ばないようにするということはよくあることです。それでも、AさんがBさんに「遊ぼう」と言ってもBさんが乱暴にされることを嫌がって「遊ばない」という態度を続けたら、遊ばないBさんは、一定の人間関係のある他の児童生徒が遊ばない行為によって心理的な影響が与えられるのですから、Bさんの行為はいじめと認定されてしまいかねないのです。Aさんの親御さんが、いじめだからBさんを処分しろと言われると、どうしたら良いのでしょうか。Bさんは、乱暴されることを承知でAさんと遊ばなければならないのでしょうか。

また、例えば、Cさんは仲良しのDさんがいて、Dさんといつも一緒にいることが安心なので、休み時間もすぐにDさんのところに行ってしまうということがあるとします。Eさんは、誰も友達がいないので、一度親切にしてくれたCさんと遊びたいとします。Cさんは、そんなことを知らないので、Eさんを振り切っていつもDさんのもとに行ってしまいます。EさんはDさんが苦手なので、CさんがDさんのところに行ってしまうと近寄ることができません。Cさんが友達のDさんとばかり遊ぶことは、Eさんの心理的苦痛を伴うわけですが、いじめだとして法律が介入するべきなのでしょうか。Cさんは処分されないためにはEさんとも遊ばなければならないということになるのでしょうか。その結論はおかしいと思うのですが、いじめの定義に該当しない理由は見つかりません。
Eさんの親からすれば、一緒に遊んでくれないという部分しか耳に入ってこないので、いじめられていると感じることはありうることです。どうして自分の子をいじめるのかと思うのも自然な流れかもしれません。しかし、その全ての責任をたまたまEさんに気に入られてしまったCさんが一身に背負うということは極めて不合理です。

Fさんは、Gさんから物を隠されたり、机にいたずら書きをされたりして、いじめに遭っていました。HさんやIさんそれを見ていて、いつもFさんを助けていました。Fさん、Hさん、Iさんは、ある日、Gさんを取り囲んで、いじめをするのをやめろと言って、「やめる」というまで家に帰さないと言ったとします。GさんもFさんに対するいじめで処分を受けるとして、Fさん、Hさん、Iさんも処分されなければならないのでしょうか。3人は、Gさんのことを先生に言いつけることが可哀想だと思い、自分たちだけで解決したかったとしても、処分されるのでしょうか。そもそも必要なことは処分なのでしょうか。

今あげた3つのどのケースでも私が良識的だと思う学校の対応は処分をしないことです。でもどうすれば良いのでしょうか。いじめには該当するけれど、処分はしないということが正解でしょうが、真面目に法律を考えるとなかなか難しいでしょう。おそらく、現場ではなんとかして、「それはいじめではありません。」という対応をとるのだと思います。3つのケースはそれで良いのですが、そうやってイジメの定義がグダグダになりローカル定義が横行すると、自死につながるような重大ないじめも見逃したりする危険がでてきます。「あの時も、こういうケースはいじめではないと言ったよなあ」ということが積もり積もって、なんだかわからなくなるようです。
実際の事例でも、生徒がいじめアンケートでいじめられた経験があると回答すると、学校が内容を聞き出して、「それはいじめではない」といってアンケートを書き直させていることがあるそうです。こうなるともう、いじめかどうかは、いじめがあるという結果を学校が出したいか出したくないかということで決まってしまうということになってしまいます。結局、このような学校の自己保身を理由としていじめではなくなり、対応しなければならない生徒の行為が学校によって放置される結果重大な事態が起きてしまうということがあるように思われました。
こうなってしまうと、いじめ防止法があるからイジメが見逃されるという本末転倒な結果になってしまいます。
このあたりのことは日弁連でさえ言っているのですから、とっくに学校現場では分かっている問題のはずです。あまりいじめの定義の問題が学校現場から意見が出されているということを知りません。私が見逃しているのでしょうか。
いじめの解決方法が処分ということだけでなく、いじめは未熟な子どもたちの行動上のエラーだと捉えて、どうすれば良いかということとそのケースごとに大人と一緒に考えていくことが当たり前の方法だと思うのです。未熟な子どもの人格の向上を図るのが学校であるのに、未熟であることを理由に処分するということは学校のあるべき姿ではないと思うのです。
この点は早急に解決してほしいと思います。本気でいじめを減少させるという政策を取るのか、起きてしまったいじめをした児童生徒を全て処分するという政策を取るのか、随分前から判断を迫られていた事柄だと思います。
いじめの定義を変えるか、いじめと認定しても学校に柔軟な対応ができるような建付をするしかないのではないかと今のところは感じています。
「いじめ」という言葉に反応して、処罰を優先させるという世論ばかりを気にしていたのでは、子どもたちが正当な価値観を持てなくなってしまうと心配でたまりません。

追伸として、生徒の自死が起きると、第三者委員会を立ち上げて調査が行わることが増えてきました。私もある委員会に参加しているのですが、この場合も定義が広すぎると問題が起きてしまいます。いじめについて事実関係を把握した例があったとしても、程度が軽かったり、すぐに人間関係が回復したりして、自死とは関係の無いことが明らかになるいじめがたくさんあるのです。私はそんなものは報告しなくてよいと考えているのですが、いじめはすべて報告するべきだと考える人もいます。そうすると、例え、このいじめは自死とは関係ありませんと報告書に記載しても、マスコミが知りえて報道する際には、第三者委員会でこのようないじめを認定したと報道してしまい、それだけ読むとそのいじめで自死が起きたような印象を受けるということがありうるのです。誰がその行為をしたかということは報道されなくても、子どもたちどうしは、それは誰がやったことだとわかるわけです。心配なことは、その子の行為のせいで自死したのだ、あるいは、自分の行為のせいで自死したのだと思うことになることなのです。
早急にいじめの定義を改めるか、硬直な効果を改めていただきたいと切に願います。

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なぜ虚偽DV、おおげさDVの主張に逃げ込むのか、それは妻の苦しみを弁護士が理解していないことと、心情を表現することが成功していないから 離婚後の幸せを明確に意識した離婚手続きの勧め [家事]



25年以上前、弁護士になりたての頃
「弁護士は事件を解決するのではなく紛争を解決するのだ」
ということを先輩弁護士から叩き込まれました。

先ず人と人との間に紛争があり、
それを法律の枠でとらえ直して事件とする。
判決などで事件は解決するけれど
逆に紛争が長期化したり深刻化したりするならば
それは弁護士として二流だという意味です。

離婚事件などを担当する場合も、
当事者の言い分をだらだら清書するのではなく、
しっかりと解決の道筋を考えて
紛争を解決する視点で仕事をしなくてはならない
と未熟な私はご指導をいただいておりました。

だから初めから、「勝訴判決をもらえば良いのだ」
という発想は持てませんでした。
自分の依頼者はもちろんのこと相手方も、
離婚事件後の再出発によって
ご自分の大切な人生を歩んでいただく
という壮大な目標が常に頭の中にはあったのは
こういう先輩方の厳しいご指導があったからだと今気が付きました。

この視点は、実務的に大変役に立ちました。

私の離婚事件の依頼者は25年を振り返るとどちらかという女性が多く、
中にはDVをにおわせるような離婚理由を述べられる事件もありました。
明白な暴力や暴言はなかったのですが、
あたかも暴力や暴力が日常にあったように
女性側は嫌悪感や恐怖感を持っていました。

ここで、暴力だ、暴言だと離婚理由を述べたら
おそらくそれは虚偽だ、ねつ造だと夫は主張するでしょうから
収拾がつかなくなったことと思います。

私は、依頼者の女性と丹念にご自分の心の経過を振り返りました。
そして、どのような夫の言葉やどのような態度が
どのように妻が不自由な思いをし、ストレスが生まれ
かつどのような怖さを与えていたか、
そしてそれが継続することによって
どのように苦しくなっていったか
どのように無力感が生まれ希望が無くなっていったか
ということを述べていきました。

この女性の気持ちを理解しようとしなければ
「どうせDVなんでしょ」と
安易な聴き取りで終わってしまい
相手方が反発するだけで、立証もできないような主張になるわけです。
無駄な精神的葛藤が大きくなってしまい、
裁判でも和解できず、判決が出てもなかなか終わらないわけです。
控訴審で引き継いだ離婚訴訟では
かなり危険な状態になっていることもあります。
これでは離婚判決が出ても、緊張が継続してしまいます。

大切なことは、本人も忘れていたような事実を正確に抽出し、
心理過程を丁寧に、できるだけリアルに再現することだと思います。

その上で大事なことは、
だからといって夫を非難するのではないということです。
夫にこちらを苦しめる目的や動機はなかった
考え方や何が当たり前かということがそれぞれ違い
おそらくそれは夫にとって当たり前の行動だったのだろう
妻はことさら夫を悪いとか、劣っているという評価をしているわけではない
夫のそのような行動も理解できる
しかし、だからといってこれ以上一緒にいることはつらすぎる
ということを丁寧に説明するという方法をとるようにしました。

相手を理解するともに、こちらも理解してもらう。
おそらく日常生活の中で少しずつこの作業を
夫婦はしていくべきものなのでしょう。
それができなかったために離婚になるのかもしれません。

離婚のときこそこの作業を丹念に行うことによって
心の摩擦がだいぶ軽減されるようです。

すべてがうまくゆくとは限りませんが
わずかな回数の調停期日で離婚が成立することが多くなります。

離婚事件の常として
離婚したい人間と、離婚には納得できない人間がいます。
離婚が成立しても、すべて納得できるものではありません。
それでも、このように離婚手続きがスムーズにいく場合は、
双方礼節を保って挨拶をして裁判所を後にすることができます。
この挨拶は当事者同士ではできないことが多いので、
代理人が変わって挨拶を受けるということも多いです。
無駄な争い、人格非難をしないで済むので
挨拶を受ける私も、相手に尊敬の念を込めて頭を下げることができました。

なかなかこのような調停が行われなくなってきています。
ベテラン弁護士も若手も、DVという言葉のオンパレードです。
DVという言葉を使うなとは言いませんが
具体的な中身が無い。
どこに妻のストレスのポイントがあるのか
何が苦しめていたのか
全く分かりません。
相互理解ではなく、
判決に逃げ切るための活動のように思えてなりません。

依頼者の苦悩を理解していないから
依頼者が打ち明ける事実以上のことがあったのだろうという
先入観が生まれるのでしょう。
ちょっとした不快なありふれた行動も
DVという言葉を当てはめていくのですから
それは大げさになっていくわけです。

しかし、そんなものが無くても、大げさにしなくても
心理的に圧迫され、緊張状態の継続を強いられ
日常生活のありとあらゆることがどうしたらよいかわからなくなる
という心理状態になってしまうことがあるのです。

ハラスメントなんて言う言葉を使わなくても
きちんと理解さえすれば、その心理経過は
きちんと説明することができるはずです。
それができていないのですから、依頼者は
なんか違うなと思いながら
離婚をするための裁判ゲームだと自分に言い聞かせ
あるいは弁護士が書面に書いている方が真実だと
無理やり思い込まされているのかもしれません。

それでも女性は、自分の目的である離婚に向けて
弁護士が頑張ってくれるので
それなりに心強いかもしれません。
しかし、そうやってコナンのつり橋のように逃げ切って
ありもしないDVがあったと自分で思い込んでも
なかなか離婚後の人生を安心して歩んでいけないのではないでしょうか。

誰かを攻撃していないと安心できないとか
他人が困ったり、苦しんだりしているときだけ笑えるとすれば
とても不幸なことだと思います。

相手が悪かった
という振り返りではなく
相手のこういうところに自分は苦しんだ
自分としてもこうすればまだよかったかもしれない
という人間関係の相互関係をしっかり考えることによって
離婚後の未来に向けて再出発がしやすくなるはずだ
と私は確信しています。

私も女性側で離婚事件を多く扱っています。
お引き受けする際には、
離婚に至る経緯や理由だけでなく
離婚後の生活をしっかり打ち合わせをします。
経済的な基盤の確立や子どもの養育のビジョン、
もう一人の親と子どもの安定した関係を
しっかりと打ち合わせてから事件に移ります。
離婚後の生活に必要な手続きや有益な手続きを
ご自分でしっかり調査していただきます。
きちんと生活の目処が立ってから離婚手続きに入ります。

離婚はしたけれど生活ができないという相談をよく受けるからです。
離婚した後のことを用意していない例が多すぎるのです。

離婚をすればそれでよいという事件のご依頼は受けません。
離婚をするという目の前の目標ではなく、
離婚した後幸せになるために依頼を受ける
そうである以上
離婚後の生活基盤を確保してからことを始めるということが
当然のことだと思っています。

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コロナ不安に便乗して自説を通そうとする人たちにはくれぐれも注意が必要 [事務所生活]

ある日に受けた相談です。同僚が咳をするというのです。
コロナかもしれないのに仕事を休まないということを非難しているようでした。
また、このご時世に東京に遊びに行ったということで非難をしたいようです。
どうしてただ咳をしただけで怒るのか。呑み込めません。
このご時世に仙台から東京にわざわざ遊びに行くことはないだろうと思うことは分かるのですが、
わざわざ外部に相談するまでのことではないだろうと思うので、もう少し話を聞き出してみたところ、

もともとその同僚は、他人に厳しい人というか、乱暴な人というか、
みんながその人からいじめられているという感覚を持ち続けていた人のようなのでした。
いつか反撃をするという機会を待っていたようです。
はじめはコロナの問題での相談だったということでしたが、
少なくともコロナ感染という環境衛生だけの相談ではなかったわけです。
相談している人は、その咳をした人に対して
なんからの制裁をするという正義を実践しようという意識をもっていたようです。
このためご自分が少し過剰な反応をしているということに思い当たらないみたいでした。

気をつけなければならない事は、コロナの問題だからということで聞き分けの良い態度をとって、
心配することは当たり前だということでなんとなく流してしまっては対応を間違うということです。
「そうですよね、咳をされると心配ですよね。」とか、
「みんな我慢しているのだから、今東京へ行くのはいかがなものかと思いますよね。」
なんて回答をしてしまったら、その人は職場で、
「私が相談したところ、咳をするのは時節柄よろしくない。東京へ行ったならば検査をするべきだと回答された。」
なんて言われかねないわけです。
相談者に寄り添えば良いという考えでいたら、
とんでもない間違いを犯すところだったかもしれません。

一見コロナの問題だと思っても、実はコロナの問題は口実に過ぎない
ということがありうることは注意が必要でしょう。
そして、コロナの問題は、不安をもとに周囲の共感を作ってしまう
ということをしっかり認識しておく必要があるでしょう。
コロナを口実にいじめということが起こる危険性があるということです。
一見コロナの諸注意をしているように見えて、
特定の人だけが厳しく注意される類型のいじめが生まれるということです。

また、今回の相談のケースは、特定の人が恨みを買っていたケースで、
対応関係がわかりやすかったということがあったのかもしれません。
不特定多数の人に恨みを抱いているという特殊事情のある人である場合、
誰でもいいから、コロナの問題で非難を誰かに集中させるケースも出てくることでしょう。
不特定多数の人に恨みを抱くということは、それほど多くなくてもありうるのもご時世です。
さらには、恨みとまでは言わないでも、
社会に対する不満を持っている人達の不満とコロナの不安が共有されれば、
誰か攻撃しやすい人を攻撃してしまうということも想定しておかなければなりません。
コロナだからしょうがない、コロナを蔓延させる危険があるから辞めさせなければという意識は、
とことん注意が必要なのかも知れません。

もう一つ多いのが、
最近8月ころから、若年女子の自死が増えてきたという報道がされるのですが、
その理由でコロナをあげている報道があります。
7月までは自死の数が例年に比べて減少していたのが
8月ころから増加に転じたということを無視して
コロナが原因だと決めつけたところが考察が始まっていることが目につきます。
どうしてコロナと自死が結び付くかというと、
「コロナでステイホームになると、家庭内の葛藤が高まる。」
という検証されていないドグマが存在することが前提となってしまい、
家庭の問題で若い女性が自死を選ぶなどという
乱暴な議論が起きているようです。

だいたいは特定の意図を持った人が記事を書いており、
ステイホームはDVの温床だというようなことを
かなり早い時期から喧伝していたのです。

特定の意図を持った人が統計上の根拠もない憶測だけで
家庭の中への警察などの介入などの持論を
コロナを口実に持ち込むことが目につきます。

そもそも家庭が原因で若年女子(特に中高生)が増えている裏付けは
何もないのが今日現在の現状です。

コロナ、コロナ禍、コロナ不安は
様々なところで利用されているようですから、
しっかりと裏付けの有無を吟味する必要があると思います。

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他人を応援しようとして犯罪に巻き込まれる人 そのメカニズム 何に注意すればよいか [刑事事件]



支援者の「支援」の在り方については、これまでもお話ししています。
基本的原理は同じなのですが、一般の方々や専門家と呼ばれる人の中にも
他人の紛争に入り込んで、
自分も犯罪に手を染めてしまう方々がいらっしゃるので、
注意喚起しようと思いました。

一人でも犯罪者となる人が少なくなるための記事です。

例えば同族会社でもめていて
父親が社長で、息子が取締役だったのですが、
息子は代表社印なども使って契約をしていたようです。
ところが、息子が不始末をしでかしてしまったので、
会社を辞めさせられて、別会社に行くことになってしまいました。

ンで取引先の奥さんと息子は趣味のサークルが一緒で
あれやこれや父親が自分を一人前と認めてくれない
等と愚痴をしょっちゅう言っていて、
奥さんは、仲間の一人として
「それはひどいですね。」等と普通に相づちをうっていたようです。

そして、決定的に解雇されたということを愚痴ったところ、
奥さんは相変わらず、「そこまですることないと思います。」
とか言い出したものだから、
息子は
奥さんのところの取引の契約書をつくっていないので、
本当は商品を50個の代金を一括して支払うのだけれど、
今回1個分ずつの50回払いにしたことにする
というのです。
まだ自分は会社には出入りできるからハンコも自由に使えるし、
最初の契約書が無いのでばれることはありません。
また、振込先も自分が通帳と印鑑を持っている
××信用金庫に振り込んでください。
と告げたところ、

奥さんは、「ぜひ協力させてください」
とその話を受けてしまったようです。
しかし、会社からは既に、50個を一括で支払う様式の
請求書が届けられており、
振込先も○○銀行にと指定されていました。

息子は、既に契約書を作成する権限がありませんので、
有印私文書偽造罪が成立します。

問題は奥さんです。
その偽造した契約書を会社に提示して
支払拒んだら
偽造有印私文書行使罪と詐欺罪が成立する可能性が高いのです。
10年以下の懲役が法定刑になる重い罪です。

また、これはどうなるかはっきりはわかりませんが
すべての事情を知って、請求書と異なる口座に振り込んだら
有効な弁済とはならないで二重に払う危険も出てきます。

本当はこの奥さん、人情味があって、
困った人を放っておけないという
人間的に素晴らしい人なんだと思います。

それでも、やっていることは犯罪なので
刑事処分を受けることになる恐れが高いのです。

そして、息子の不始末というのは
息子がひいきにしている水商売の女の人にせがまれたものを買うために
会社の会計をごまかしたことだったようなのです。
父親は、従業員に示しがつかないために息子を解雇し、
修行のために別会社に修行にやるということだったらしいのです。
息子は、水商売の女の人に
自分が社長だから金を自由に動かせるというようなことを言っていて
女の人の要求に断れなくなっていたようでした。

奥さんは、それにもかかわらず
息子の不良行為に加担してしまったのです。
罪がない父親を追い詰めてしまったということになります。

一番大事な基本は、
他人が紛争を起こしているときに
一方に加担することは
他方を攻撃することになる
ということを忘れないことです。

だから相づちをうったり、慰めているだけなら
まだ罪が軽いのですが、
紛争に参加する形で
相手に不利益を与えることになることには
注意が必要だということになります。

「この人が悪いことをするはずがない
悪いのは父親だ。」
ということに疑いを持つことができないのも人間です。

先ず、息子の方はサークルで長い付き合いですから
どうしても見方をしたくなるものです(単純接触効果)
そして、息子から父親の悪口を聞かされていますので
初めから父親は頑固で融通が利かなく
若い芽をつぶす老害だと思い込んでしまっているのです(プライマリー効果)
息子が会社の切り盛りをしている次世代のエースだと思えば
息子が言うことはさらに信用してしまうでしょう(プライマリー効果)

この結果、間違いを信じてしまったわけです。

そして人間は、自分の仲間だと感じた相手を
自分を犠牲にしても助けたいと思う時があります。
典型的には親の子に対する愛情ですが、
義憤に駆られて手をさしのべるということは
通常は美談です。

しかし、だまされて、やりすぎをしていると
犯罪になってしまうわけです。
罪もない他人に損害を与えていることと
社会秩序を乱す方法だったからです。
仲間を助けたいという人間の本能が
冷静な判断を奪ってしまい、
被害者である仲間を無条件に信じて
犯罪さえもやってしまう流れができてしまうのです。

この父親も関係者一同も
当初の約束通りお支払いいただければ
事を荒立てようと思っていません。
悪いのは息子ですから。
ただ父親だけが困るならまだよかったのです。
会社が不当な扱いをされてしまうと
公私のけじめをつけなければならなくなります。

奥さんはどうすればよかったのでしょう。
答えはそれほど難しくありません。
父親に事情を聴きに行けばよかったのです。
これはそれほど難しいことではありません。

義憤に駆られれば通常行うべきことはそれなのです。

他人の紛争に、一方の味方としてかかわることは
他方からすればただの攻撃者になってしまう
これは、弁護士だけでなく誰かを支援しようとする人は
頭に入れておく必要があるのだろうなと考える次第です。

それにしてもこの息子
多くの人を巻き込んでいます。
専門家と呼ばれる人たちも違法な行為をさせられています。
専門家としてきっちりと謝罪をするなりすればよいのですが、
みんなごまかそうとしているのです。
定められた定型的なサンクションが課せられることになることでしょう。

この息子、こうやって人を動かす才にたけているわけですから
もったいないなあと思っています。

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虐待加害者からの相談や依頼を受ける弁護士として、虐待問題は特別な問題でないことが多いと思っていること [家事]



私の事務所には、「自分が虐待している」と他人から言われているという人からの相談がきます。警察に通報するとか児相に通報して子どもを保護してもらうとか言われるそうです。どうやらそういう世の中になってきているようです。「虐待」という言葉が使われてしまうと、あとは権力や行政に通報するという対応方法しか世の中出てこないようです。そしてその後は、親から子どもを引き離すか引き離さないかという選択肢しかでてこないようなのです。

どうして、その親御さんにアドバイスをする人がいないのでしょうかね。理由は3点思いつきます。
一つは、官が主導する児童虐待対策の方法が、児相や警察通報という手段しか提示しておらず、後はその専門家に委ねるべきだという政策になっているというところに理由があるでしょう。
もう一つは、例えば幼稚園などで児童虐待が話題になる場合、児童虐待だと感じる大人と児童虐待をしていると評価される大人が、人間的なつながりが無いために、アドバイスだったり、注意だったり、普通の人間関係ならば行われるはずのことができないという対人関係的な問題が理由となっていると私は思います。虐待をするような人は、初めから自分とは別種の人間だと思いたいのだと思います。
さらにもう一つ、「虐待」という言葉に過剰に反応してしまうことも理由だと思います。「虐待」という言葉が出てしまうと、それを行なっている人は悪虐非道の、罪もない幼児を傷つけて平気でいる鬼のような人物であって、うっかり何か関わってしまうと自分が攻撃されてしまうというような意識を持ってしまうわけです。だから、できるだけ自分は直接関わらないで専門の人に任せようという意識が出るのではないでしょうか。

私は、虐待と言われているような事象は、それほど特別な出来事ではないことが多いと感じています。虐待といわれる行為をしてしまうことは、子育てをしているときには多かれ少なかれあることだと思うのです。私自身や身近にもあるにはあったと思います。
例えば、キツくしかり過ぎてしまう人がいます。
多くは、その親御さんも何か必要なしつけをしようとしているのです。しかし、子どもがなかなか理解しない。子どもに叱らないで理解させる技術が親にはない。その結果、勢いきつく何度も繰り返し結論を押し付けてしまう。それでも子どもの反応が今一つはっきりしない。するとなんとか教え込もうとさらに厳しくなってしまう。このあたりまで来ると周りから見るとそれは紛れもなく虐待が行われていると感じる行為になってしまっている。「あんなちっちゃな子どもに、鬼のような形相で親が怒鳴っている。」「手も出そうな勢いだ。」「子どもはすでに泣きじゃくっているじゃないか。」そんなことが何度か続いていれば虐待親だと認定されてしまうわけです。その上、子どもが転んで顔を怪我でもしていたら、夫婦で虐待しているという疑いを簡単に持ってしまうようです。

子育てが終わることになると誰しも気がつくのですが、そんなに一つ一つのことを完璧にしつけようとすることにあまり意味が無いようなのですよ。どうしてもそれができなくても、あまり子どもの人生に変わりはないのですね。例えば靴の紐が結べなくても、友達と一緒にやっているうちに覚えたり、どうしても覚えられない場合は紐のない靴を履かせれば良いわけです。忘れ物をしたとしても、幼稚園時代の忘れ物なんて、後は先生がなんとかしてくれる事がほとんどです。失敗したらまず謝る。親が笑われるかもしれませんが、笑われたら一緒に照れて笑えば良いのです。そういう関係はとても楽ですよ。失敗しないことよりも、失敗の後のリカバリーの方がよほど人生にとって有意義です。

それに言葉で教えるのではなく、子どもに何かを慣れさせていくうちに少しずつできるようにすることが上策でしょう。一番は親のやっていることを真似させていくことが人間教育の本質だと思うのですね。おそらく、他人から見たら虐待だと見られるようなしつけって、親ができないことを子どもにはやらせようとしているときに起きるのではないでしょうか。初めから無理があるわけです。もちろん、自分ができなかったことを子どもにやらせようとか、自分が苦労した道を子どもに歩ませたくないということはよくわかります。自分にも覚えがありますからね。

だから、虐待に見える行動を取る親御さんが、悪逆非道の人格破綻者だという見方は、リアルな見方ではないように思います。むしろ普通の人で、多くは責任感が強く、子どもでも努力をするべきだという真面目過ぎる人ですよね。だから、少し年配の親御さんがお話をしたりをしたり、子どもを預かる側にも年配の、つまり子育てを一通り経験した人を用意して、そういう人からアドバイスするという方法が一番有効なはずなんですよね。「あなた、そういうことをすると虐待だと思われるよ。」、「あなた、それではお子さんかわいそうだよ。」とはっきり言ってあげられれば良いと思うのです。言われれば気がつく人の方が多いと思うのです。

言われたことで殻に閉じこもる人もいるでしょうが、自分もそういうところがあったからといって同じ目線で話せば、親御さんの方もどうしてそんなに厳しくするのか、悩みがあるなら悩みを打ち明けて、そんなこと悩むことじゃないことがわかり、子どもをかわいがる方が早道だと気が付けばみんなが幸せになるはずなのです。悩みが解決しなくても、とりあえず虐待に見えることはやめておこうということになるはずなのです。大切なことは、虐待しているように見える親も別種の人間ではなく、同じ地平に立っている先輩と後輩みたいな関係で仲間だという視点だと思うのです。

ところが、現状の虐待防止政策の選択肢は通報と引き離しなんですよね。それでは親は、他人から見えるところでは厳しいしつけをしないように隠すだけなのです。虐待とはいえなくても、子どもは苦しい毎日を送ることにはそれほど変わらないということになってしまいます。子育てなんて、そんなに頑張らなくても良いのだということに親が気がつくチャンスがなくなるからです。


児相に子どもを引き離されてしまったら、一体誰が親にアドバイスをするのでしょう。引き離しは対立構造を不可避的に生みますので、児相が親に適切な教育を指導してそれを受け入れるということはとても期待できません。こんな当たり前のことがないがしろにされているわけです。子どもは緊張しないで親から愛情を受けて育つチャンスを、人生で一度だけのチャンスを失ってしまうわけです。これは大変恐ろしいことです。しかし、子育て経験が乏しい児相の職員の方や児童養護施設の方々は、その恐ろしさをあまり理解されていないようにいつも感じています。

どうも政策を立案する方々というのは、特に数字に興味があるのではないかと感じています。虐待通報数を増加させたいとか、一時保護の数字とか、そういうことです。おそらくそれが増加すれば、虐待死の件数が自動的に減るのだろうと信じているように感じます。あるいは数字をあげることによって、成果を主張し、予算の獲得を図ろうとしているのでしょうか。そうではなく、子どもたちが楽しく人生を歩むとか、親に育てられて安心して育つとか、そういう数字にならない事に興味を持っていただきたいと思っています。極端なことを言えば、数字に現れなければ考えないというならば。子どもが死ななければ良いというように感じてしまいます。これではみんなが不幸になっていくだけだと思うのです。

人間の子育ては、親だけが行うものではなく、200万年前から群れが行うということになっています。他人の子どもであっても、縁あって同じ群れになった仲間がどんどん口を出さなければならないのでしょう。どうやって口を出すのか。どうやってそれを受け入れていくのか。そういうことこそ議論をして実践していくことが必要だと思います。

縁あって相談を受けた弁護士は、やみくもに虐待親に対する過剰反応をすることなく、逆に過剰防衛意識を持つことなく、子どもの利益の視点で、親御さんにアドバイスできれば良いと思います。行動を修正することは、子どもを引き離されないための有効な手段となりますし、何より子どもが楽しい子ども時代を送れる方法にもなります。
また、悩みを抱えていて、子どもに厳しく接することを自分で抑制できない親御さんもいます。そういう場合は悩みを解決する方法を一緒に考えるべきでしょう。心理面に問題を抱えておられるのならば、信頼できる臨床心理士を紹介するという方法も選択肢に入れるべきだと思います。
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日弁連のDV法の保護拡大の意見書に反対する3法律的議論の枠組みがなく人権感覚に乏しいということ [弁護士会 民主主義 人権]

日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。
この外、
警察の支援措置を身体的暴力に限定している現行法を改め、精神的暴力の場合にも拡大しろという意見
保護命令ももっと認められやすくするべきで、精神的暴力の事案も保護命令の対象としろという意見が出されています。

私は、この記事の前々回、そもそもDVは性差別に由来するということ自体が非科学的であり、同時に実務感覚にも反しているということを述べました。前回の記事では、現状のジェンダーバイアスがかかった法運用の弊害が益々増大するということも述べました。

 今回は、このような主張が、実は法律家に求められる理性を用いておらず、弁護士に求められる人権感覚も不十分に過ぎる主張であることについて述べたいと思います。

1 法律の要求されるバランスを無視した極端に偏った主張であること

法律は、抽象的な文言で全国民に対して規範を示すものです。そのためなかなか行き届かないことが出てくることは当然です。誰かを保護するために法律を制定しようとすると、別の誰かの権利を制限するかもしれないという効果がつきもののように出てきてしまいます。わかりやすい例で言えば、電車内の痴漢の防止法の検討をするとします。痴漢の真犯人がわからなくても、被害女性が自分の近くにあった手をつかんで、「この人に痴漢をされました。」と訴えれば、必ずその人を強制わいせつ罪で懲役刑に処さなければならないという極端な法律を制定しようとしたとします。一方で必ず刑務所に収監されるということになれば、電車内での痴漢行為は減るかもしれません。しかし、女性の勘違いや、女性の悪意で何もしていない人が刑務所に送られたとしたら、極めて深刻な被害が生まれてしまいます。このために、女性保護と冤罪被害の防止のバランスをとる必要がでてきます。特に犯罪の認定をして罰を与えるためには厳格な手続きを経なければなりません。無実の人が犯人として処罰されないようにするということは、法律の出発点でもあります。法律は女性保護を実現しようとする一方で、同時にその弊害を回避するための方策をとってバランスをとるのが法律だということになります。
法律家の人権感覚としては、無実の人に不利益を与えないようにすることが第一に考えられなければならないことがらなのです。

ところが現在の配偶者暴力防止法や関連法では、DVがない事案においても女性を保護する実務運用がなされてしまうことに歯止めをかけにくい構造になっています。この結果、DVがない事案においても男性が子どもに会えないとか、警察や行政から不当な扱いを受ける等の被害が多発しています。確信犯の女性が制度を目的外使用したということについても判決で指摘されることがありました。配偶者暴力防止法についてどのような問題があるかについては前回述べました。ここでは繰り返しません。問題は配偶者暴力防止法に弱点があることについて、弁護士の集まりである日本弁護士連合会が知らないということはあり得ません。家事事件を担当すればありふれて目にする問題だからです。
それにも関わらず、日弁連の今回の意見書は、女性保護という一方の問題の所在を強調してさらにその傾向を拡大しようとして、そのデメリット、不可分一帯の落ち度のない男性の保護を一切考慮しないという態度をとっていることになります。意見あるいは思想の違いの問題ではなく、一方の利益だけを追求して他方の不利益を考慮して、問題点に対する手当をしないということは、法律論の枠の中に入らないということを申し上げたいわけです。どこかの政治団体や思想集団が述べるならともかく、法律家である弁護士の団体がこのような法律の枠外の意見を出すということに落胆しているということなのです。

2 国家権力の私生活に対する介入に無防備であること

古典的な人権論というのは、国家による人権侵害を防止するということと同じ意味でした。現代社会では国家に比肩する大企業が現れたり、インターネットの問題が生じたりして、人権の問題が複雑化しています。しかし、人権問題の基本は、国家からの自由を確保するということには変わりありません。
ところが、日弁連の意見書は、女性保護を強調するあまり、この点の人権意識を無防備に欠如させています。身体的暴力だけでなく、精神的暴力についても警察の私生活への介入を要求しているのです。
現状の配偶者暴力防止法が、警察の介入を身体的暴力があった場合に限定した理由は、当の警察庁の平成25年12月20日付通達で自ら明らかにしています。それは、警察は犯罪に対する専門家であるが、夫婦の問題は必ずしもよくわからないので、警察が介入することが必ずしも適切な結果を保証するものではないこと、及び、あまりに広範囲に警察が私生活に介入すると過度の干渉になるということです。警察は、きちんと人権感覚を持っているようです。
警察が、現状の配偶者暴力防止法のもとでも、女性保護のバイアスがかかって、男性に対する不当な扱いをしているということはこれまで述べました。これまで、不当な不利益を与えないための訴訟や調停制度で身分関係やその状態を決めていたのに、警察権力が介入することで取り返しのつかない問題がこれからさらに拡大する危険があるわけです。
また、現在の香港の例を見てもわかりますが、これは日本国家ではないので全く同列には論じられませんが、いろいろな口実を持ち出して、民主派の人間たちを拘束し、拉致しています。仮に現在の内閣が自由を重んじていたとしても、政権交代がおこり組織優先の政治が行われてしまったら、反対派が配偶者暴力防止法容疑で拘束されてしまうということを考えなければなりません。民主主義国家はどんな政党のもとでも法律が国民の自由を守る武器にならなければなりません。過度な介入は、多くの人権侵害の温床になります。
おそらく「そうはいっても現実の女性の権利の侵害を守らなければならない。そのために警察権力が必要だ」という論調なのでしょう。もしそうならば、一方の利益だけを考慮する偏った議論であり、およそ法律の議論ではありません。
とても情けないことは、権利擁護を権力に依存しているということです。何度も繰り返しますが、これがNPOだとか、思想団体だとかの主張ならばそれも否定する話ではないと思います。問題は、人権課題に取り組むことが職業上の氏名である弁護士会がこのような感情的な議論をするところにあるわけです。人間関係の解決の引き出しが少なすぎるということです。弁護士会であれば、もっと世論形成を行うこと、どうしてDVが起きるのか、防止のためにはどうすればよいのかということを幅広い専門機関の連携の中で解決するという発想を持たなければならないはずです。それらの過程を全く踏まないで権力に依存するということは発想が貧しすぎるし、真の解決を考えていないと私は思います。

3 保護命令の件数を増やすことを自己目的化する主張

現状の保護命令は身体的暴力が存在し、将来的に生命身体に重大な危険があると認められるときに発動されます。命令を受けた者は、申立人やその家族に近づくことさえ許されません。一定の場合は自宅を長期間退去しなければなりません。実際に存在する命令では、自宅周囲を散歩することも禁じる命令まで出されています。著しく行動の自由が制約されますし、自宅からの退去を命令されれば財産権も制約されますので、重大な不利益を伴う命令です。これを精神的暴力の場合も行えという乱暴な議論をしているのが日弁連意見書です。
精神的虐待からの保護は確かに必要です。しかし、実務的に言って、どこまでが精神的虐待か市井の夫婦のいさかいかかなり曖昧なのです。特に精神的虐待を主張するこれまでの例からすると、私などからするとそれは国家が介入するほどの精神的虐待とは言えないのではないかという事例や、妻側の夫に対する精神的攻撃の方が精神的影響は大きいという事例でも主張されています。これまで実務経験からすると精神的暴力の内容はどこまでも拡大解釈される危険が払しょくできません。
どうして日弁連はこのような主張をするのでしょうか。その理由の一つとして、日弁連意見書は日本の保護命令の件数が特定の外国と比較して少なすぎるということをあげています。単純に数の問題を理由としているのです。しかし、保護命令の多い国と日本では、風土も違いますし、国民の意識も違います。DVの実態も違うはずです。それらの違いを考えずに単純に数の問題で論じることはできないはずです。その数の意味を論じずに、数だけで決めるということは、あたかも国の予算措置のようです。とにかく相談件数だけ増やして、相談件数が多いから予算をつけろという主張と重なります。
実際のこれまでの保護命令事件を見ると、身体生命の重大な危険がないばかりか暴力自体がないケースでも保護命令を申し立て、保護命令が出されたりしています。なぜ、裁判所が出した保護命令が事実にもとづかないと言えるかというと、それが抗告で取り消されたり、再度の保護命令を裁判所が申立人に申立てを取り下げさせたりしているからです。極めて弛緩した運用がなされているのです。
一つつけたしをしますと、保護命令が少ないということも権力に対する依存の弊害なのです。DVが危険であるのは、夫婦の一人が孤立化している場合が顕著です。誰にも相談できず、また、行動を改めるべき人間が相手ではなくて自分だと思い込まされている場合です。つまり、警察にも行政にもNPOにも相談できないケースが最も深刻なケースなのです。ところが、権力に依存する思想の前提が、被害を受けている場合は自分で援助を求めるべきだというところにあるわけです。だから、声なき声の掘り起こしをするという発想がなく、上げた声を全部救えという乱暴な議論に終始するわけです。これでは本当に保護、救済が必要な人が保護、救済されにくい制度になってしまいます。大事なことは裁判所や行政の権力行使を拡大することではなく、身近な虐待を虐待と感じて話し合いやめさせるという風土が先行させることです。そういうきちんとした前提事実を積み上げる努力をせず、要件を緩和していくばかりだから、目的外使用をもくろむ人間が使いやすくなるばかりだというわけです。国家に法律を変えろということは簡単ですが、法律が真に被害を受けている人を救済するためには前提事実を積み上げることが必要だということなのです。
私は、本当に微々たる力ですが、その前提事実を構築することを目標に、このブログを作成しています。

4 弁護士として求められる人権感覚に反する

それにしても、なぜ、男性が不当な不利益を受けることを何ら考慮することなく、女性保護の表面的な拡大ばかりを主張できるのでしょう。これまでの議論をまとめると、日弁連意見書は、「保護すべき女性がいる。この保護すべき女性を救済するために、多少の目的外使用や無実の男性が不利益を受けてもやむを得ない。だから法律のデメリットは手当てしない。」と考えているように思えてなりません。無実の男性の人権や子どもの健全な成長という人権を「多少」侵害しても、救えるべき女性が救えるならそれでよしとしているように感じるのです。
これは私の憶測なので真意はわかりませんが、もしそうならば大変恐ろしいことです。何かの正義のために犠牲をいとわない。これこそ戦争の理論だと思います。
また、そこで犠牲になる少数者の人権を擁護することこそ、本来弁護士こそがおこなうことなのです。そもそも弁護士は、刑事弁護をする職業だから弁護士と呼ばれるわけです。民事は代理人で、刑事が弁護人と呼ばれます。刑事事件の本質は冤罪を防ぐことだという考え方の人もいますが、私は罪を犯した人の人権、つまり人間として扱われることを実現することこそが刑事弁護の本質だと思っています。つまり、世界中の中で誰もが非難する犯人を、その犯人の弁護人だけは味方になり人間性を守るということが仕事のはずだと思っています。悪い人を悪いと非難することは誰にでもできます。通常の感覚通り行動すればよいだけです。そこで、理性を働かせ、どんな人であっても人間として扱われるべきだという姿勢をつらぬことが弁護士に求められていることだと思うのです。
初めから犠牲を容認した法律を制定するなんてことは、その少数者の人権擁護のための職業である弁護士の求められている要請を全く理解していない意見だと私は思います。

この日弁連意見書は、法律家としての議論の枠組みが踏まえられておらず、弁護士としての人権感覚も欠如しているという観点から、私は弁護士の一人として反対いたします。

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DV法の保護拡大の日弁連意見書に反対する2 現状のDV法のデメリットが増大すること  [弁護士会 民主主義 人権]


日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。

 今回は、この主張のとおりに法律が改正された場合の弊害について述べたいと思います。

第1に、法律の内容を改変してしまうことです。
現行の配偶者暴力防止法は、法文上は、性差に関わらず、要件があれば法が適用される体裁になっています。つまり、形式的には女性の暴力があった場合に男性を保護することができる仕組みになっています。ところが、意見書では、「DVとは性差別に由来する」と決めつけており、それは女性差別だとしています。それを法文上に明記しろというのです。そうなってしまうと、この法律が保護するのは、性差別を受けている女性が被害者の場合だけだという宣言をすることになります。つまり女性の男性に対する暴力はこの法律の保護の対象ではなくなってしまいます。
これでは、この法律は、法の下の平等に反する違憲立法ということになるでしょう。なぜこのような主張を日弁連が行うのか理解ができません。

第2に、男性が保護されなくなることの合理性はない
意見書は、身体的な暴力だけではなく、精神的暴力に対する保護をもっと拡大するべきだと主張しています。精神的暴力について、もっぱら女性だけを保護する必要性が立法事実(法律を制定する必要性を支える現実にある事実)が存在しなければなりません。しかし、そのようなものはないと思われます。精神的な圧迫を相手に与えるのは女性から男性にも行われています。精神的な攻撃によって、精神を破綻したり自死に至ったりするケースで、被害者が男性の方が多いということが私の個人的な実感です。少なくとも女性の方が精神的暴力の被害者が多いという裏付けさえもないと思います。
ヒステリックに収入をあげろ、家計にもっと金を入れろと夫を追い詰めて精神を破綻させるケースや、男性を犯罪に追い込むケースがあります。あるいは夫がやめてくれと懇願しても水商売をやめないケース、不貞を行うケース、これによって男性が精神破綻をしたケースの代理人になったり相談を受けたりします。女性が心理的に過敏になってしまい、些細なことにヒステリックな対応をして、男性が怖くて家に帰れないというケース等様々なケースがあります。およそ弁護士であり、家事事件を担当しているならば、そのような例を全く知らないということはあり得ないと思います。ちくちく嫌味を繰り返したり、家庭の中で夫だけを孤立させるケースも精神的DVとなるはずです。職場の同僚がいるというだけで浮気を疑って、小遣いを減らしたり、始終ラインなどを送信して返信することを強要する等、様々な精神的DVが実際はあるのです。夫の言動が気に入らないと、見せしめのように夫の目の前で子どもを虐待する例も多くあります。
女性の精神的DV被害を保護するのに、これらの男性の被害を保護をしないでも良いという取り扱いの違いの理由が私にはわかりません。

第3に、この宣言によりますますジェンダーバイアスがかかるということです。
現在は、法文上こそ性差別がありませんが、実際はこの法律によって男性が保護されるケースは極めて少ないということが実情です。
男性には保護の必要がないということで、保護を拒否しているのが行政や警察などの多くの実務運用です。これも豊富な事例があります。統合失調症の疑いのある妻が包丁を持ち出して、自傷あるいは夫を傷つける危険があり、夫が110番したにもかかわらず、警察は妻を保護してしまい、一緒に子どもまで妻と一緒に保護し、夫に居所を隠してしまったのです。子どもは母親に拉致されてしまい、数か月後着の身着のままで交番に助けを求めてようやく父親の元に帰れたという事例がありました。子ども大人になった今もPTSDに苦しんでいるようです。また、妻が夫を威嚇するために車をたたいて傷つけて収拾がつかなくなったケースで夫が警察官出動を要請したら、逆に夫がDV「加害者」と認定され、妻子の居所を隠されてしまったという事案もあります。
現状でさえ、夫婦間で紛争があり、妻の精神状態が不安定であれば、夫が妻に加害をしており、妻は被害者であり、保護が必要なのだという扱いがなされているわけです。条文にDVは性差別に由来するみたいなことが書かれてしまえば、
女性保護を強調しすぎるということは、多くのケースで男性が敵視され、子どもの利益が顧みられないということが起きるものです。
肝心なことは、行政は、警察も含めて、男性を加害者認定する場合にも男性からは事情を聴かないという運用がなされていることです。女性が警察などに相談に行きさえすれば、直ちに男性は「加害者」と公文書に記載されます(総務省平成25年10月18日「DV等被害者支援における『加害者』の考え方について」)。
妻に連れ去られた子どもが父親である夫のもとに帰ってきた事例では、健康保険証を母親が持っていき連絡が取れないため、区役所に保険証がないことの相談をしたところ、区役所の職員は、夫に向かって「あなたとは話すことは何もない。」と怒鳴って、子どもが病院に行けないという事例もありました。ちなみにこの区役所の職員は、夫が何をやったのか全く分かっていません。DV加害者というレッテルだけで、暴力夫で、自己制御できずに暴れまわる怖い存在だと思ったのでしょう。「加害者」とされ続けることはこういう扱いを受けるということです。

4 虚偽DVがますます増加するということ
現状においても、DVの事実が調査されないまま相談をしただけでDVの認定がなされ、男性が「加害者」とされています。この結果、実際はDVが存在しないにもかかわらず、男性はDV加害者とされ、警察や行政が妻子を「保護」し、居所を隠し、夫は妻と子どもたちと連絡も取れなくなることが横行しています。夫は、わけのわからないうちに孤立化させられて、警察からは加害者として扱われるので社会からも孤立している感覚にさせられてしまいます。子どもにまったく会えないということは、在監者以上の苦しみを受けることになります。人間性を否定される感覚は極めて強いものがあり、精神的に追い詰められてしまいます。ほとんどすべての事例で、
そのような制度を悪用して、妻の側が自己の不貞を成就させるケースもあります。警察が妻の不貞を保護しているようなものです。確信犯的な悪用もあるのですが、妻の精神状態が不安定となり、夫とのコミュニケーションが様々な理由でうまくゆかなくなり、自分は夫との関係で安心できないという心理状態になり、DVを受けているのではないかという思い込みをしてしまう、いわゆる思い込みDVの事案も多くあります。現状の警察や行政実務あるいはNPO法人の相談活動においても、些細なよくある夫婦のすれ違いをもって「それは夫のDVだ。あなたは殺される。命を大切に考えて、子どもを連れて逃げなさい。」と言われて、それを真に受けて、子どもを連れて居所を隠したという事例があります。この経過は説得した公務員が作成した公文書の記録もあり、後の離婚訴訟で証拠として出されました。妻によると、自分は別居したくなかったのだけど公務員から強く説得されたので、別居したのだとのことで、その証拠でした。しかし、その妻は別居日に限度額いっぱいのキャッシングを夫名義の通帳で行いました。妻は保護命令も申立てましたが、この手続きはずいぶん時間がかかりました。ようやく、妻の言い分は全て妄想の産物だとして、保護命令は裁判所によって否定されました。妄想化、意図的な虚偽か判断が難しい事案ではありました。いずれにしても夫のDVはないのです。妻が統合失調症の診断名で、精神病院を内緒で掛け持ちしていたことも発覚しました。子どもは母親に隠されて、父親には面会できず、今どうして生活しているかわからない状態です。子どもは一時児童相談所に保護されたのですが、事情を説明して父親に引き渡すよう要請したにもかかわらず、統合失調症で被害妄想の強い母親に、何の連絡もなく引き渡されてしまったからです。
もう一つだけ例をあげます。女性は身体疾患を持病としてもち、その疾患は、精神状態にも影響を与え、焦燥感や抑うつ状態を伴う疾患でした。突如、夫が怖くなり、子どもを連れて別居しました。夫は長期にわたり養育費はもちろん、誕生月には妻や子どもにお祝いも送金する等、送金を続けました。ところが、子どもたちが学校を卒業した時も、証明書添付の写真が送られてきただけでした。この男性が、それまで家族で住んでいた家を出て新居に移るとき、元妻に居所を教えるための転居届を出しました。「お近くにお寄りの際は、お立ち寄りください。」と定型的な文章を添えたところ、元妻は動転してしまい、警察に被害届を出しました。警察署長はストーカー規制法上の付きまといと認定して、ストーカー警告を出しました。お立ち寄りくださいという言葉が、義務無き事を強要したというのです。現状でもこのような無茶苦茶なジェンダーバイアスがかかった運用がなされています。私が弁護士としてかかわったケースだけでもまだまだ事例が豊富にあるのです。
DVは性差別に由来する等ということを法文に掲げたら、どんな受難が待つことでしょう。落ち度のない人たちが塗炭の苦しみを味わうことが今より増大することは間違いないと思います。

結局、この法改正で、一番苦しむのは子どもたちです。妻が被害者になれば、夫は加害者になってしまいます。誰かに対する支援は、誰かに対するいわれなき攻撃であることがよくあります。子どもからすれば、母親が全面的に保護するべき存在だとすれば、父親と対峙しなければならなくなります。自分はそのような父親の血を受け継いだ人間であるということを突き付けられて育つわけです。自分は父親から愛情を注がれない存在だということで、苦しんでいる子どもたちの中には、拒食症やリストカットで精神科病棟の入退院を繰り返している子もいます。突然父親と会えなくなったというだけで、精神的に不安定になる子どもたちも大勢います。そういう子どもたちのことは何ら考慮されていない意見書だと思います。もちろん先ほど頼言っている夫の精神破綻の問題があります。家事事件と自死問題に取り組む弁護士の中では、離婚に起因する自死事例があることは常識的な話になっています。そればかりではありません。結局精神病院を2件掛け持ちしていた女性も、実際は別居したくなかったと自分が申し立てた離婚調停で主張しました。ストーカー警告が出された事例では、きちんと被害妄想の原因を治療していなかったばかりに離婚後も10年間も夫の影におびえ続けてきたわけです。子どもたちは、おびえる母親をかばう気持ちが強いですから、自分の父親に母親の精神状態の原因を求め、父親を憎むようになっていました。しかし、原因は、母親の身体疾患によく付随する症状なのです。人権擁護委員の人権相談では、行政やNPO法人からのアドバイスのとおり離婚したのに、生活が苦しくて、言われたとおりの慰謝料も財産分与ももらえない。どうしてくれるんだと抗議したら、「離婚はあなたが決めたことですよ。」と冷たく言われて相談にも乗ってくれなかった。という相談が寄せられています。
結局配偶者暴力防止法の支援では、だれも幸せにならないどころか、みんなが不幸になることが、異常なまでに多いのです。これが日本の政策として行われているわけです。
その上さらに、ジェンダーバイアスがかかった特殊なDVに関する見解が法文に掲げられたらどうなることでしょうか。とても恐ろしいと思います。
しかしながら日弁連はそのような意見書を出しているのです。

法律家の出す意見書の体をなしていないということについては次回お話をします。


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日弁連のDV法拡大の意見書に反対する1 カルト的なDVの本質が性差別だという決めつけは弁護士実務の感覚では受け入れらず、日弁連の意見として正当性が無い [弁護士会 民主主義 人権]


日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。

この一文を読んだだけでは、何を言っているのか把握できませんので、その理由として書かれている文章を見てみます。

「DV防止法には,DVという問題が社会の性差別構造に由来する力の格差の下で生じる構造的な問題であるとの認識が明示されていない。」と批判した上で、「現代社会には,性別役割分担,就業・昇進・賃金差別など,根強い性差別が存在し,それが婚姻など親密な関係に反射して夫婦間に力の格差を生み,力を用いた支配を引き起こす。これがDVである。そして,家族関係において,多くの女性がDVによって支配され,無力化されることが,社会における性差別を下支えするという連鎖を起こしているのである。」と述べています。

これを読むとますますわからないことが増えていきます。
性別役割分担が根強い性差別の類型とされていますが、それは社会の、あるいは弁護士会のコンセンサスがあるのでしょうか。一部の人たちの意見なのではないでしょうか。もちろん不合理な性差別、特に雇用環境における性差別は確かに性差別であり、人権の問題だけでなく経済的問題からも早急に克服しなければならない課題であると思いますし、これまで繰り返しこのブログで述べているところです。しかし、この文書を読むとあらゆる性的役割分担が性差別とされているように読め、これはさすがに弁護士会のコンセンサスではないと思います。
そもそもそのような性差別が、婚姻など親密な関係に反射してということも、文学的な表現ですが、具体的に何を言っているのかがわかりません。これまでの日弁連の意見書では見られない文章となっています。
そして差別由来の夫婦間の力の格差という意味も分かりづらいのですが、この力の格差が力を用いた支配を引き起こすということについても、たとえ字数制限があったとしてもわかりやすく説明するべきだと思います。
性差別に由来する力の格差による、力による支配がDVだというのは、多様な夫婦の在り方の多様な問題点を、一面的、教条的に決めつけているものであり、少なくとも家事事件に携わる弁護士の実務的な感覚とは相いれないものだと私は思います。
さらに、多くの女性がDVによって支配されているという意味も分かりません。絶対数を言っているのか割合を言っているのか極めて曖昧な表現です。どのような裏付けがあるのか是非聞きたいところです。多い少ないという抽象的な表現を使い、実質的な議論、検証を回避するような表現は、これまで日弁連名義の文書では見られなかったと思います。
日弁連という弁護士全員強制加入の団体が、国などに向けて、立法に関する意見を述べる文章としては、あまりにも情緒的に過ぎ、検証可能性という科学的な考察でもなければ、実務感覚にもとづいた考察でもない、唐突な決めつけという印象がぬぐいされません。
これが何か特殊な思想団体の意見書であれば、それでとやかく言うつもりはありません。「そういう考え方もあるでしょう。」と知識を学べばよいのです。しかし、この意見書の主体は日本弁護士連合会です。読む人からすれば、弁護士の多くがこのような考えでいること、このような考え方の下で弁護士業務をしていると考えるでしょう。少なくとも、弁護士会にはこのような共通理解があると勘違いされることだと思います。これは大変困ったことです。

このような意見を出すことの弊害については、また後の機会で述べるとします。今回は、どのようにこの理由部分が実務感覚に反するということを述べます。つまり、弁護士がDVは性差別に由来すると決めつけて良いのかという問題です。
ここで注意が必要なことがあります。差別は、差別を受けている方はすぐに差別されていることに気が付きますが、差別をしている側は自分が差別をしていることに気が付かないことも多くあるということです。男女差別がないということを男性の私が軽々と断定することには、危険が伴うということです。私も注意しますが、お読みいただいている方もこのことを頭に入れてお読みいただければと思います。その上で検討してみましょう。

先に断りを入れておきます。「DV」という言葉は、世界的には通常は家庭内暴力のことを言います。ところが日本では、主として夫から妻に対する、身体的暴力及び精神的圧迫のことを広く言うようです。アメリカなど世界の多くの国々ではこのようなことは「配偶者加害」という言い方をするようです。但し、アメリカの研究者の間では、相手を支配することを目的とする行為を対象として考えられており、偶発的な行為は考慮から外すようです(ランディ・バンクラフトら「DVにさらされる子どもたち」の訳者の説明は参考になります。)。日弁連の意見書では、DVを「夫から妻に対する一切の身体的暴力及び精神的圧迫で、目的を問わない」という意味でつかわれているようなので、この記事でもこの意味でDVという言葉を使います。「配偶者加害」という言葉を使う場合は、「夫婦間の相手を支配することを目的とした身体的暴力及び精神虐待」という意味で使います。

さて、DVが性差別に由来するか否かということを統計的に明らかにすることは不可能でしょう。DVの形態も違えば、きっかけや原因も違います。ただ、配偶者加害の研究の嚆矢ともなっている二つの文献、「モラルハラスメント」マリー=フランス・イルゴイエンヌ、「バタードウーマン」レノア・E・ウォーカーも、配偶者加害の原因として、男性側のパーソナリティー障害を示唆しています。つまり、DVをする男性の特殊性に着目しているのです。またウォーカーは、広くDVを検討しているのではなく、主として配偶者加害の虐待事例を検討しています。配偶者加害による複雑性PTSDの提唱者であるフェミニストの医師ジュディス・L・ハーマンの「心的外傷と回復」においても、差別に由来する配偶者加害があるという指摘はあまりされていません。もっともこの文献は、そもそも女性が夫等から系統的な加害を受けていて、深刻な被害が生じているということを紹介することが主眼ですから、夫の加害に至る心理分析を主としてなされているわけではありません。差別由来の加害であることを否定しているとは断定はできないかもしれません。(但し、被害を受けた女性の救済に関して、女性に対する誤った先入観によって、十分な救済を受けられないという実態があるという指摘はなされています。)
少なくともDVが社会構造的な性差別に由来するという指摘はあまりありません。女性差別一般が社会構造に由来するという主張があることは承知しています。

さて問題は、アメリカやフランスではなく、日本の夫婦間における暴力や暴力に準じる精神的圧迫が、男性の女性に対する性差別に由来しているかということだと思います。

私も、すべてのDVが性差別に由来しないとは言いませんが、多くは上記の日弁連意見書に述べられているような性差別ではないところにDVの原因があると感じています。その根拠は家事事件の弁護士としての実務感覚です。

多くの弁護士は、離婚事件に関与しています。DVがあったと主張する事件類型である離婚事件や保護命令事件、面会交流事件なども多くの弁護士が代理人となって実務に従事しています。その中で、各事例について詳しく事実関係を拾い出し、分析し、相手方と事実関係の存否や程度を詰める作業を行っています。最終的には裁判官を説得して判決をえるとか、和解で事件の決着をつけるわけですが、そのためにもその事件のDVの実態について双方の当事者が納得できる分析をする必要性があるわけです。多くの弁護士はこのような経験を豊富にもっています。
多くの弁護士も共通ではないかと思うのですが、少なくとも私の実感としては、DV関連事件は、様々な形態があり、身体的暴力や精神的暴力の原因や対応もさまざまであるというものです。また、必ずしも男性から女性に対する加害だけではなく、身体的暴力も精神的暴力も女性から男性に対して行われることも少なくありません。精神的な圧迫という場合は、私の実感としては男女差が無いように感じます。
男性も女性も、相手が女性だから、男性だからという差別的意識から「暴力をふるってもよいのだ」、「暴力をふるうことは当然だ」という意識は感じられません。あくまでも暴力をふるうことは反規範的なことだという認識は概ね皆さんおもちです。暴力をふるう時の意識としては、「自分は他者に対して暴力をふるうことはしたくないが、相手が暴力をふるうことを余儀なくされるような言動をするから仕方なく暴力をふるうのだ。」という意識が一般的だと思います。
ただ、例外的に激しい虐待がある事案があることも事実です。ウォーカーやハーマンの事例に出てくる相手の人間性を無視した虐待です。この配偶者加害が進行中に関わった事案が少なく、事後的に被害者がPTSDや解離性障害の診断を受けて苦しみが継続して二次被害が生じた場合に関わることがいくつかあるだけです。このため加害者を十分に分析できた事案は少ないのですが、このような冷酷非情の事案の場合は、やはり素人ながら、自分の妻などに共感する力がない人格的な問題がある加害者であるという印象を受けます。
少なくとも、「女性は男性より劣っているから暴力で指導しなければならない。」という古典的な差別意識に基づいた配偶者加害は見聞したことはありません。そのような古典的な性差別にもとづいた配偶者加害は現代社会では、控えめに言っても相当数存在するとは言えないと思います。
性差別由来の暴力の正当性を意識した事案はないにしても、暴力や暴力に準ずる言動をする際に、「自分はその手段を使って相手を制圧することができる」という意識を持つことがほとんどでしょう。あるいは「こちらが暴力をふるっても相手は反撃的に暴力を振るわないだろう。」という安心感をもっているようです。男性から女性に対して暴力をふるう場合は、体力差がその安心感の理由になることがほとんどだと思います。あくまでも物理的な問題です。これに対して女性が男性に暴力をふるう場合は、「こちらがムキになって暴力をふるっても、相手は自分に対しては暴力を振るわないだろう。」という安心感が垣間見えます。奇妙なことに、相手に対する絶対的な信頼関係があるように感じます。
 それでは、やってはいけないはずの暴力をつい行ってしまう心理過程はどのようなものでしょうか。
 これは私の実務経験に基づく分析ですが、相手との関係維持の要求にもとづく反射的行動ということだと思います。関係を維持したいという強い要求が前提として存在するようです。そうして、相手の自分対する評価が下がるような言動があった場合や、相手の自分に対する低評価が起きそうな自分の行為や他人から自分に対する評価行為があった場合、無意識に相手と自分の関係が壊れる強烈な危機感を感じてしまい、その評価を無かったことにしようとするようです。合理的に説明することが不可能だと悟った場合に、できること、選択肢として浮かんだことを、自己抑制できない形で実行してしまう。これが多くのDV案件の共通の仕組みだと思います。これは男女に共通のメカニズムです。但し、体力差があることから、男性は暴力という手段に出やすいということです。精神的圧迫については男女差がないのも体格差がないからだということで説明が可能だと思います。
 もちろん圧倒的多数の男女は、いかに体格差があっても暴力は振るいません。本人の属性である、性格、育ってきた環境、それから相手方の行動という相互関係等様々な要素がかかわってくるわけで、性差別ということが少なくとも主たる要因ではないと感じています。

 さらに検討を進めると、なぜ暴力をふるってまで関係を維持しようとするのかということを考える必要があると思います。いくつか共通する原因があるようです。
 一つ目は、自分に対する自信がないということです。相手を夫婦という自分との関係につなぎとめておく自信がなく、方法も分からないということです。このため、相手の言動に過敏になってしまっているようです。本来聞き流せばよいことも聞き流すことができず、悪意のある言動ではないことを頭では理解しているのに些細な言葉に不安を掻き立てられるようです。そしてそれが不合理に思え、言い合いの中で感情が高ぶり、自己抑制が効かなくなり暴力に出てしまうということがあるようです。
 二つ目は、依存状態にあるということです。様々な事情から、今夫婦である相手から見捨てられれば自分は生きていけないという感覚を持っている状態、あるいは、相手と一緒にいることで過剰な安心感を持っているために相手から見放されることに過剰に敏感になっているという状態です。
 三つ目は、どうすれば円満に、穏便に、楽しい関係が維持されるかその方法がわからない。自分のどういう行動が相手を傷つけたり、圧迫したりするかわからないというパターンです。つい、相手を傷つけたり、精神的な圧力をかけたりしまい、相手から当然のごとく嫌悪の情を示される。そうすると、修復の方法がわからず、とにかく相手の自分に対する評価が間違っているという主張をしたいと思い、暴力を止めることができなくなってしまうというパターンです。
 一つ目の原因と二つ目の原因は表裏の関係にあり、これら三つの原因は入れ子(マトリューシカ)の関係にあり絡み合っているようです。

 結果として、関係を維持したいということは、自分から離れていくことを阻止したいからといいて過剰に相手に働きかけることです。だから、それをやられた方にすれば、まさか相手が自分に執着しているがために行っていることとは感じられるはずがなく、単に自分の自由や行動を制限しているという風にしか感じられませんから支配しようと感じているということも真実だと言わざるをえません。極端なケースでは、結局、DVをする方は、相手に自分にひれ伏してもらいたい、土下座をして謝ってもらいたいという意識が感じられることが多く、奴隷のような扱いをしようとしていると感じざるを得ないこともあります。
 しかし、客観的に見れば、そのような人格支配がそもそも出発点ではなく、あくまでも関係を維持したいということが出発点であり、その感情も依存的な切迫性のあるもので、例えてみれば赤ん坊が母親に執着するようなものだと考えるとわかりやすいと思います。赤ん坊は相手の感情を一切考えずに、自分の要求を泣きわめくということで通しても、かわいがられるだけです。しかし、大人になってしまうと、相手に対する殺傷能力を身に着けてしまいますので、このような駄々をこねて母親に対してするような要求を貫こうとすると、相手を心身共に傷つけてしまうということになるわけです。
 関係性に対する知識と安心感があれば、DVの多くは収まります。但し、相手の感情を理解できない特殊な精神構造の場合はなかなか困難なケースもあるようです。いずれにしてもDV解消の方法は、罪悪感を植え付けることをはじめとした本人の認知の改善ではなく、知識の習得と夫婦の行動パターンの学習という関係性の改善が必要だと思います。悪い方が変わるという狭い考え方ではなかなか改善しないのではないかと考えています。もっとも一方が改善を望まないという立場の場合も多く、この場合はなかなか改善されず、紛争が長期化するだけだと思います。
 
 もし妻は母親が赤ん坊を扱うように夫にも全人格的に奉仕しなければならないという考えがあるならば、性差別と言って言えないことはないでしょう。しかしそれは、どちらかと言えば男性の小児的な問題から発した依存心ととらえる方が、改善の方向も間違わないし、お互いが幸せになる確率が高くなるように思っています。また、これは女性がDVをふるう場合も同じであり、小児性のある女性が夫に対して母親のように自分を全面的に受け入れるべきだという観念からDVをふるうようです。やはり性差別ということは言えないと思います。
 少なくとも雇用形態などに由来する社会構造的な問題だとは言えないと思います。
 このような無理な決めつけは、対策の失敗にもつながりますし、国家行為の持つ弊害を軽減させることができず、人権侵害の可能性が高くなるという致命的な問題が生じます。この点については、あらためて述べたいと思います。

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