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むしろ苦しむために心があるという非哲学的説明 シリーズ2 [進化心理学、生理学、対人関係学]


私たち人間は、仲の良い人から裏切られたり、信頼していた人から冷たくされたりすると、心が苦しくなります。自分が攻撃されていても誰も助けてくれない状況があると絶望を感じる場合もあります。

これらは、すべて心の問題です。心が無ければ、苦しんだり不安になったりしないのかもしれません。
これから述べることは、もともと、例えば1000年前は人間には、そのような心は無かったのではないか。その後の進化の過程で心が生まれたのではないかというお話です。心が苦しかったり、不安になることは、人間が人間として生きていくためには必要なことだったので、進化の過程で獲得したということをお話しします。


人間の先祖とサルの先祖は共通の動物だと言います。大体6,7百万年前にチンパンジーと人間は枝分かれしたようです。チンパンジーだって、それからずいぶん進化したのでしょうから共通の祖先と今のチンパンジーと同じだということはできませんが、まあ、イメージとしてはそんなもんだということでよいと思います。

現代の人間が、寂しいとか悲しいとか、嬉しいとか怒りとか、そういう感情や気持ちが複雑に存在しているということに疑いを持つ人はいないでしょう。では現代のチンパンジーは我々人間と同じように複雑な感情を持っているのでしょうか。ある程度の感情はあるでしょうが、そう確かな話ではないのではないかというのが大方の感じ方だと思います。人間の先祖もそんなものだったと思います。

だから、前は持っていなかった感情や知能が、その後の進化の過程で人間には備わったのだということがイメージとしては持てることと思います。

そもそもは、感情や知能をもったのは、何らかの偶然、例えば突然変異だったのかもしれません。しかし、その感情を持つことが、生存競争を優位にすることができたので、種全体として感情や知能、心を持つようになったのだと思います。

心は人間が群れを作るために必要だったのだと対人関係学では考えるのです。

雑多なオリジナルの人間の中に
① 群れの中にいたいと感じる心を持った人間
② 群れから外されそうになると不安になる人間
③ 自分の所属する群れを維持していきたいと思う人間
   群れの仲間を守りたい(群れの頭数を減らしたくない)
   群れの中の弱い者を守りたい
   群れの中の権威に迎合して秩序を作りたい
という、こういう心を持った一群の人間たちが出現したのだと思います。

特に大事なものは②です。
まず例を挙げてみましょう。
A) ようやく獲物を取った。自分はとても腹がすいていた。仲間に分ける前に自分だけ先に食べようとした。しかし、食べようとしたら、みんなが冷たい目で自分を見ている。自分に攻撃をしようとするのではないかという厳しい目で見る人間もいる。弱い子どもが、自分を恨めしそうに見えている。
B) こういう状況を見たら、このまま自分が誰にも分けないで食べ始めてしまうということは大変まずいことが起きるような気がしてきた。不安になってきた。
C) だから、自分一人で食べるのをやめて、みんなで分け合って食べるように、食料を提供した。」
とまあ、こういう流れが、言葉が無い時代であっても、人間は群れの中で行ってきたのだと思います。そのような時代でも、教育というか、大人を見て育ちますので、どんなにおなかがすいていても、自分だけで食べようとすること自体がそもそもなかったものと思われますが。

Aの自分勝手な行動をしようとして、Bの群れから嫌われそうなことをしていると気が付くことによって心が苦しくなってしまう。だから、Cの心が苦しくならないように自分の行動を改める。心が苦しくなったら心を苦しくなくするために何らかの行動をしようとする。
こうやって群れを作ってきたのだと思います。

まとめますと、対人関係的な不具合を感じると不安になり、心が自分自身に警告を与えて、行動の修正をさせようとするという仕組みです。

これは体が痛みを感じる仕組みとよく似ています。

例えば足首をひねって捻挫をすると、足首が痛くなります。自分が足首を痛めた(捻挫=筋繊維や軟骨の部分的挫滅)をしたということがそれで分かります。痛くて歩きにくいため、歩くことをやめます。歩き続けてしまうと挫滅部分がさらに拡大していき、治癒までに時間がかかったり、捻挫以上の傷が生まれてしまう危険があります。痛い⇒けがをした⇒動かないという流れで、傷の悪化を防ぎ、傷を早期に治すことができるわけです。負傷部分が捻挫に至ったのかどうかということは、現代医学でも画像診断などでもわからないという意味では客観的には確定する方法がありません。しかし、そんなことができなくても痛みを感じて活動を控えれば重症化を防ぐことができるわけです。

「自分のこれからすることによって群れから追い出されるかもしれない」という将来的な因果関係を厳密に考えなくても、仲間の反応を見て不安になり、不安になって行動を修正して仲間の怒りを未然に防ぐことができれば、結果として追放をまぬかれるわけです。全く体の痛みと同じです。

脳科学者の中には、人類を作った自然は、対人関係の中の不具合の察知について、体の痛みのメカニズムを借用したのだという説明をする人もいます。

これは思考ではなくて心の役割なのです。このように群れを作るためには、心があることがとても有利だったのです。先ほどの例でいえば、仲間の冷たい目を感じることができる心を持った人間の群れは、食料を強い者だけが獲得することをしないで、弱い者にもまんべんなく行き渡らせることをするようになります。弱い者も栄養が行き届き、群れが強くなります。この反対に心のない人間ばかりですと、強い者が食料を食べてしまい、運がよくなければ弱い者には食料は回りません。そうすると、弱い者から栄養不足で病気にかかりやすく、死んでいくことになるでしょう。強い者だけが生き残っても頭数が減ってゆきます。群れは肉食動物の襲来にも弱くなりますし、獲物等の食料を獲得する確率も減っていってしまいます。心のある人間たちがの群れの方が、群れの力を発揮しやすくなるため、生存の可能性が飛躍的に高くなるわけです。

また、男性も、女性も、心を持って周囲と協調して生きる者を好ましく思えば、そのような心を持った人間を繁殖相手としたので、生まれてくる子どもたちは心を持った人間である確率がとても高くなったわけです。

これを裏から言うと、心が不十分な個体は子孫を作れないまま死滅していったということになります。

こうして人間は種として心を持つ動物となったのだと思います。

そうだとすると、人間は、心を使って、自分の行動を修正し、群れを維持させて種を生きながらえさせてきたのですから、相手の自分に対する「一定の反応」があると、人間であれば誰でも、多かれ少なかれ、心が苦しくなっていくものだということになります。心というものはそもそも苦しむためにあるものなのだというのはこういう意味です。

その一定の反応について、研究することによって、人を苦しめないで済む方法、特に苦しみすぎて起こる人間のさまざまな不合理な行動を回避することができるようになると思うのです。

但し、過去においては人間が心を持つことによって、自分の行動を修正し、群れ全体が幸せになる時代と、現代は条件が異なるということだけは理解しておく必要があります。心が生まれたころから今から数万年前までは、人間は数十人から100人余りの一つの群れで、原則として生まれてから死ぬまで生活を共にしていたということです。仲間と自分の区別もつかない状態ですから、基本的に仲間は、お互いが苦しむことに耐えられず、何とか助け合おうとしていたということが考えられます。これに対して現代は、家族、職場、地域等様々な群れに同時に所属するだけでなく、すれ違う人も含めて圧倒的多数の人間と何らかの接触をしてしまうという環境に激変しています。相手が人間だから、相手が顔見知りだからと言うだけでは、相手の利益を考えて自分の行動を修正するということをしないことも多いという重大な違いがあります。ひところで言えば、人間関係が極端に希薄になっているということです。心と環境はミスマッチの状態にあるということが大切な補助線となります。(シリーズ1をご参照ください)

さて、人間を苦しませる仲間の「一定の反応」というものがどういうものかということは、人間が苦しむ人間関係の紛争の事例の蓄積からだいぶわかってきました。

一つの切り口は、自殺予防です。どういう場合に自死を起こすかという原因を探求して、その原因を作らないということが自死予防の鉄則です。自死の原因という視点で自死を見て行けば一定の方向が見えてきます。

二つ目は、労働災害補償の文脈です。過労自殺、過労による精神障害の発症に関して、(ダイレクトな自死予防とは微妙に方法論を異にして)研究が進みました。

その他にも、離婚事件、いじめ事件等、人間関係の不具合は、苦しむ心の発動の資料の宝庫と言えるでしょう。

このような人間の紛争による心の問題の蓄積によって、「ある方向性」が見えてきたように思っています。
そもそも心とは、進化の過程で人類が獲得した群れを作るためのツールでした。心は結果として群れを作ることに役立ったわけです。つまり、「自分の行為から将来的な因果関係を分析し、検討して群れから追放されることになると考えた上で不安になる」というのではなく、一定の状況になれば自然と不安になり心が苦しだのです。その結果、群れを維持してきたわけです。
理論的には、
「自分が他者から仲間として友好的に扱われていない。」と感じた場合に心が苦しくなると、自分の行動を修正して群れを維持することができるわけです。
そして事例の蓄積から表現を微妙に調整すると
「自分が仲間として尊重されていない。」と感じた場合に心が苦しくなる
という仮説を立てることができると思いました。

自分が仲間として尊重されていないとは
仲間として見られるのではなく敵視されていること
仲間ならばこういう扱いをするはずだという期待を裏切られる扱いをされること
の二種類があると思われます。

先ほどの例で、弱い者から食料を奪おうとして仲間から白い目で見られるというのは、仲間から敵視されるということでしょう。
白い目で見られるだけでなく、実際暴力を受けること、ぞんざいに扱われること、行動を制限されることなど、敵対的な扱いを受けることは強烈な不安、ストレスがかかることになるでしょう。

これに対して食料を奪われそうになる方は仲間としての価値を認められていないと感じることになるでしょう。このほかに、差別をされているとか、自分だけ分配を受けないとか、健康を気遣われないとか、困っているときに助けてもらえないとか、原因がわからないときに自分のせいにされるとか、自分の評価を適当に低くされるとか様々な場合が不安、ストレスがかかる場合のようです。

いずれにしても仲間として尊重されないときということでまとめることがふさわしいと感じています。

付録として、誰からそのような扱いを受けると不安やストレスが大きくなるかということをお話しします。

自分以外の群れ全体から仲間として尊重されなければ不安やストレスが増大することは容易に想像がつくことだと思います。また、直接手を出しているのが少数だとしても、他の仲間もそれを是正しない、注意しない、さらに自分に対して援助の手が無いと言えば、受けるほうからすれば仲間全体が自分を尊重していないと感じることでしょう。これも心が強く苦しい状態、ストレスが強い状態と言えるでしょう。

それは群れの権威者の行動です。人間の心の3番目に、人間は群れの権威者に迎合して群れの秩序を形成したいとする心を持っていると言いました。群れの人間がそれぞれ別々に行動提起をしたり、勝手に行動をするとすれば群れを形成するメリットは何もなくなります。群れを作るための心として権威者に迎合して秩序を作るという心があるととても便利です。これはミルグラムは「服従の心理」という言い方をしましたが、私は「迎合の心理」という表現の方がしっくりきます。

但し、人間は、それほど根拠もなく、誰かを権威者として定め、その権威者に迎合をしたい心を持っています。権威者が自分を守ってくれるはずだという期待をしているわけです。そのような権威者から自分が冷たくされることは、自分の存在が群れにとって有害な存在だと感じることになるのですから、人間にとっては他の人間から同じ扱いを受けるよりも不安やストレスが大きくなるということです。

また、自分が大切にしている相手から、やはり仲間として尊重されない扱いを受けるとストレスが強くなるという傾向にあるようです。

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