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児相による施設入所の手続きは問題が大きいのではないか 親の権利はどうなる。子どもの成長を本当に考えているのか [弁護士会 民主主義 人権]

例えば虐待などがあれば、児童福祉法で児相が一時保護するわけです。
親の元から児相の施設に連れていかれて、親とは面会もできないことが多いようです。

但し、一時保護は2か月が限度で、
それ以上子どもを返さない場合は
児童養護施設や里親に出す許可を家庭裁判所に申し立てる手続きをしなくてはなりません。

今回この手続きに最初から関与することになっていろいろなことがわかり驚いています。

まず、根本的問題としては、
親は子の手続きの当事者として認められていません。

あくまでも行政に、施設収容してよいよと言う裁判所のお墨付きを与える手続きのようです。
だから、児童相談所所長が申立人になるだけです。

つまり、親が子どもと暮らせないということの不利益について
親が裁判で防御するという制度は存在しないということになります。

これは良いのでしょうか?

親が子どもと暮らすことが権利とされていないという
馬鹿なことがあってよいのでしょうか。
でもこれが法律の建前ですし、
親どうしの子の引き離しにおいても裁判所の一貫した姿勢です。

それでも現在の運用は、この手続きの開始は、親に対して通知され
審判手続きに実質的には入れることになっています。
しかし、それは自分の権利を行使するのではなく、
保護手続きに対して意見を言うという立場にすぎません。

具体的には証拠が直ちに開示されません。

裁判の場合は証拠の謄本が送られてきます。

しかし、児童の施設入所の手続きでは
裁判所に見せてくださいとお願いをして
裁判官の許可が得られた場合のみ見ることやコピーをすることができるだけです。

そもそも、閲覧手続きを知らなければ見ることさえできないわけです。

証拠がわからなければ、何を反論してよいのかもわからないことが多いです。
親は、子どもを取り返す防御の手段を取れないまま
子どもと引き離されてしまう危険の大きい制度と言わざるを得ません。
それでも親は当事者とされていませんので良いのだという制度なのです。

お金を取り戻す場合は防御の方法が尽くされているのに
子どもを取り戻す場合は防御の方法がそれ以下の状態になっているのです。
お金も大事ですが
親にとって子どもはもっと大事です。
ところが日本という国の法律はお金は保障するが
子どもは我慢しろと言うのでしょうか。

また、夫婦間の保護命令手続きでも言ったことがあるのですが、
裁判始まるという告知から第1回裁判までの間に期間がとても短いです
10日もあればよい方です。
これはびっくりしました。

その中に当然土日がありますから、
例えば水曜日に告知の手紙が来て
木曜日に開封して金曜日どうしようかと思っていたら
もう月曜日になれば5日後に裁判が開かれてしまうということです。

それから弁護士を探して、弁護士に引き受けてもらって
弁護士が証拠をコピーしに行ったら
第1回裁判は、準備不足で終わってしまいます。

そうなることは当たり前です。

弁護士だって他に締め切りの仕事があるわけですから
なかなか充実した反論をすることなんてできません。


親が十分な防御ができないまま、イメージによって
施設収容の承認がなされるケースも相当するあってもおかしくない
というか、そういう稚拙を防ぐことができる制度にはなっていません。



ここまで読み進めた方にはいらっしゃらないと思いますが、
児相が手続きを取るというのだから
親にはそれ相応の理由があるのではないかと思われる方もいるでしょう。

ところが、どうやらそうでもないのです。

これまでの公にされた施設収容の審判例を見ると
かなりひどい親の虐待があって
生命の危険がある場合や
学校に通学させられずに社会的な立場を構築できない場合があって
なるほどそれが本当であれば子どもためだから仕方がないかと思うのですが、

どうも最近、そうでもない事案も増えているようです。

目をつけられて親子引き離しをされそうな要素は以下の通り

第1に、子育てで児相に相談をしてしまうケース
してしまうといったって、社会的に孤立している場合は
誰にも相談できませんから
本来は児相に相談することは正解のはずです。

どうしても体調が悪くて、でも子どもを預けるところが無いときに
児相に相談することも立派だと私は思います。
でも児相が関与して子どもを預かる場合は
一時保護という手続きが取られてしまいます。

何度も一時保護を繰り返したということは
本来、行政に必要な援助を頼むことで正しいと思いますが、
施設収容の理由とされる可能性があるようです。

気軽に児相に相談してはいけないと児相が主張している事案があるので注意が必要です。
子どものために何でも隠さないで相談してしまうと
それは親子引き離しの理由に使われるわけです。

つまり、虐待のケースを積極的に調査して歩くわけではなく
児相は、主に自分のところに相手から頼ってきた人を上方的に丸裸にして
子どもを引き離しているという言い方は意地が悪すぎるでしょうか。

第2に多いのは生活保護です。あるいは貧困です。

少し思い当たることがあるのですが、
子どもが手元にいると単身より生活保護手当てが増えますし、
子ども手当も支給しなくてはなりません。

保護をして子どもを返さなければ
生活保護を減額できるわ子ども手当は支給しないわということもできるのです。

政令指定都市は、都道府県とは別に児童相談所をもっていますが、
そういう場合、どうなんでしょうね。

第3に母子家庭です。
特に母子家庭だけど、子どもの父親ではない男性の陰がある場合

そして外国人、もちろん欧米の人は違います。

第4は精神疾患を抱えている親
精神疾患者は、身体疾患者と異質に見られます。
精神疾患と言っても色々程度が異なるのですが
どうも程度ではなく病名で判断されているのではないかとい心配があります。

たいていは生活保護を受けている母子家庭で、精神疾患を抱えている人です・

こう言う人から子どもを引き離すのですから
ますます親は精神的に深刻になるのです。

要するに、抵抗が起きないだろう弱い親、孤立している親が
ターゲットになりやすいです。


どうやって防ぐか
まず、掃除洗濯、調理をできる限り行うこと
特に通期に気を配ること。

貧困は、匂いで嗅ぎつけられます。
風呂も大事です。

次に子供がいたら保育所や学校にきちんと通わせること
これまでの審判例を見ると子どもが通学しない傾向が重視されています。

そうして、親こそが友達というか相談をできる人を身近に確保することです。
一人では太刀打ちできませんし、弁護士も探せません。

それから、何をあなたが一番大事にするか
もし、目を付けられる要素を持っている人が子どもと離れたくないというならば、
自分のことよりも子どものを第一に考えることが
子どもを連れ去られない最大のポイントになるかもしれません。

自分が嫌なことがあると子どもにあたるというのは論外ですが
家事をしなくなったり、不衛生にしたりというのでは
それは子どもにとってもよくありません。

誰か頼れる人を身近において子どもを一時的に預かってもらうことも
できればよいと思います。


さて、行政は無責任に離婚を進めて母子家庭を増やしています。
しかしそこで終わりです。
母子家庭に対して、特に子育てをすることの支援が圧倒的に貧弱です。

本来精神疾患を抱えた母親に対しても手厚い保護があって当たり前だと思います。

精神疾患は先天的なものではなく、元夫のDVの後遺症として残ることもかなり多いです。
別れさせれば済むという問題ではなく
その後に生活を支援しなくては、単なる家族破壊の策動にすぎません。

もし精神疾患があるならば、子どもを育てられなくて当たり前だというのは、
それは旧優生保護法の思想そのものだと私は思います。

日本という国は、言われなければ何も変えない国かもしれません。






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やはり、ゲームとSNSの弊害は区別して説明する必要がある。SNSは、結局孤立感を増大させるようにできてしまっているということ。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



昨日、ダンクリー博士の「子どものデジタル脳完全回復プログラム」(飛鳥新社)について、書いたのですが、よくよく考えると、やはりスマホなどのゲームとSNSの問題点についてはわけて論じられるべきだという考えが頭から離れなくなりましたので、連日記事を書いています。

物理的な、例えば光と視神経や、睡眠不足については共通項があることはダンクリー博士のお説の通りだと思います。
また、もう一つの共通項は、「仮想空間の出来事なのに、脳はそれが真実起きているとして無駄に反応してしまう」ということで、これは今日の話の出発点でもあります。

SNSの仮想空間が現実と異なるというのは、実際は人間関係が形成されているわけではないのに、あたかも自分の仲間とコミュニケーションをとっていると錯覚してしまうということです。

これが家族などのリアルにも顔を合わせて生活している場合に、「帰りにトイレットペーパー買ってきて」とかいう事務連絡ならばほとんど弊害はないし、多少の行き違いがあったとしても訂正は簡単でしょう。
ところが、毎日顔を合わせているとはいっても、会社の同僚や学校のクラスメイトになると、少し怪しくなっていきます。行き違いのわだかまりが蓄積する危険があると思いますし、集団の中で特定の人間を孤立させる道具に使われているという問題点を事件などで目にします。
ましてや、実際のSNSは、どこの誰だかもわかりませんし、プロフィールの内容も本当かどうかわかりません。

ノリを合わせて返信していますが、例えばこういうひどい目にあったという投稿をして、いいねとかひどいねとかリアクションをしている人も、トイレに座っているときの暇つぶしに読んで、リアクションをしているかもしれないのです。
私はリアクションやコメントの数というのは、ほとんど気にしません。一般的な話を書き込んでいないという自覚があるからかもしれません。しかし、多くの人は「いいね(NICE)」の数を気にしているそうです。もしかしたらいいねの数を増やしたいという目的から、受けの良いリアクションをしていたり、共感をしたようなコメントをしている可能性もあるわけです。少なくとも、どのSNSもそれを禁じてはいません。

また、同じ趣味を持っているということで交流していたら、その人の所属する政党の選挙のためにSNSを活用していたなんて話もありました。必要な情報が隠されて交流をさせられているということもありうる話です。

例外はもちろんあるのですが、大方の「友達」は、本当に困っているときに助けてくれることはありません。客観的にあなたに対して必要なアドバイスをするよりも、あなたから受け入れられやすいコメントを記入することを優先させるはずです。

紛争に関与するものとして実感することが多いのは、その人自身にも原因があって紛争に至ることがほとんどで、通常は良い悪いという二者択一的考えにはなじまずに、双方が修正をすればよくなるということがほとんどです。それにもかかわらず、SNSでは、「あなたは悪くない。相手はひどいよね。謝る必要はないよ。」等と紛争を大きくするだけのアドバイスが多く見られます。

もっとも書き込むほうも自分に都合が悪いところは、意図的ではなく必要性を感じないので、情報を開示しません。あたかも相手が一方的に悪いようにSNSの情報の受け手が感じてしまうことも理由があることです。

SNSに限らずこういう相談は公的にも実施されており、こういう耳に心地よいアドバイスだけを聞いていたら、誰もが不幸になり、孤立していくだろうなと大変心配になります。そして、別の目的を持っている人(選挙、宗教、販売、思想等々)ほど、相手の表面的な感情を肯定することにたけています。
話が少々脱線しました。

要は、SNSの「友達」は、実際は友達でも家族でもない場合が山ほどあるということです。これは、こうやって改めて問題提起をすれば、自分は頭ではよく理解しているから大丈夫だと思うでしょう。

しかし、脳はそうはいきません。継続的に情報交流をしている人、自分の感情の痒い所に手が届くコメントをしてくれる人、自分と同じ境遇と言っている人、そう言う人を仲間として見るようになってしまいます。

頭ではわかっていても、つい、仲間には期待をするようになってしまいます。
自分を攻撃しないでほしい
自分が誰かから攻撃されていたら助けてほしい(その誰かに反撃してほしい)
自分に共感共鳴してほしい、
自分のしたいこと、されたくないことを言わなくてもわかってほしい
自分が不愉快になるアクションをしないでほしい
すぐに期待通りの反応をしてほしい。
例えばこんなところでしょうか。

そうして厄介なことに、これらの「~してほしい」が
「~するべきだ。」にいつしか変わってしまうのです。

こう改めて書きだすと、そんなことは考えていないと思われるかもしれませんが、よくよく分析するとこういう感じに私には映ってしまいます。

そうして、自分の期待に反するアクションをすると、腹を立ててブロックする人もいれば、寂しい思いをして思い悩む人、人それぞれネガティブな反応を示すようです。

また、他人がそれぞれ円満に称賛されたり、幸せになったりしている記事を見ると、自分だけが仲間の輪に加わっていないとか、自分だけが不幸だとか、余計な傷つき方をするわけです。賞賛と言っても歯が浮くような言葉が羅列してあるだけだとか、幸せな箇所だけを紹介しているということを十分知っていてもつい心は仲間に対する期待を発動してしまうようです。もちろん、常に最大限の期待をするわけではありません。また人によって期待の程度や期待を裏切られた反応に違いがあることはもちろんです。でも多かれ少なかれということであればやはり期待をしてしまうし、リアルの人間関係で苦しんでいる場合などは期待が大きくなってしまうということがあるようです。

SNSで投稿したら、全く関係のないコメントされたとか、自分の意見を否定されたとして悩むことほどばかばかしいことはありません。脳が勝手に相手に期待をしてしまい、それが裏切られたということで脳が勝手に無駄に傷ついてしまっているのです。

それから、文字情報は、コミュニケーション手段としては極めて不完全な手段です。高校時代の現国のテストで小林秀雄の文章が難解で正解にたどり着けなかったとかいうご経験がおありだと思いますが、SNSの文章はもっと文法的にいい加減なでたらめだらけの文章です。そもそも感情などという複雑な情報が正確に伝達されるわけがありません。

そういう事情を知ったうえで、相手を限定してやり取りをしている人もたくさんいます。しかし、中には、過剰な正義感、過剰なまじめさゆえに、相手の文章を客観的に判読して無駄に傷つく人も出てくるようです。

また、文章なんて、突っ込もうと思えばいくらでも上げ足を取ることが可能です。(徳川家康の国家安康みたいな例もありますね。)契約書のように厳密に言葉を選んでいるわけではありませんから。だから、悪意のある人物は、上げ足を取ろうと思うとどんな文章でも上げ足を取ってきます。但し、悪意があると言っても、あなたに対する悪意があるわけではなく、八つ当たりの方が多いと思いますけれど、自分自身が嫌われていると感じてしまって傷つくことも無駄なことです。

インターネットデバイスの向こうの人は、あなたが無意識に期待してしまっているほど、あなたを尊重することに神経を集中しているわけではありません。食事をしながらとか、トイレに行きがてらとか、既に酔っぱらっているとか、精神的にてんぱっていてで自分を守るために他の人間に迷惑をかけても気にしない状態とか様々で自由です。

こちらの投稿を、その人と異質な人間関係も見て、立場を無くしてしまうかもしれないなんてことを気にしないで、勝手なコメントをしてくるなんて日常茶飯事のことです。

人間が他人を個体識別できるのは、大体150人くらいが限界だと言われています。これらの日とは顔を合わせて、交流をしている人たちのことです。SNSのアイコンくらいしか情報のない相手をいちいち個体識別できるなんてことは、人間の脳に期待する方がおかしいのかもしれません。相手を大切に思おうとさえしないことが通常だし、しようとしてできないことも仕方がないことです。

少なくとも、私にはSNSはまだ早いようです。


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勝手に書評 「子どものデジタル脳完全回復プログラム」飛鳥新社 スマホが脳の発達を阻害し、キレやすくなったり、引きこもるようになる生理学的構造 それでも動画に子守をさせますか?低学年の学級崩壊と発達障害と誤診される行動傾向の正体。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

今一緒にお仕事をしている心理学の学者さんから紹介された本です。簡単に言うと、スマホを使うと切れやすい子どもができてしまうということなのですが、その意味を知るとかなり恐ろしいです。

この本を買った同じ日に、依頼者の娘さんが通う小学校低学年の教室が荒れていて、ランドセルの中身を教室でぶちまける子、机を振り回す子、授業中うろうろ歩き回る子どもたちがいるカオスな状態だということを聞いたばかりでした。
その時は、食品添加物が原因かねえなんて言っていたのです。その後、外での仕事だったので、本屋で購入し、この本を読んでみたら、ぴたりと符合することばかり書いてありました。影響されやすい私は、デジタルスクリーンが原因だと、硬く信じ込んでしまいました。

まず、カオスな学級崩壊の原因としては、ADHDのような発達障害が指摘されがちです。しかし、どうしてこんなに発達障害を持つ子どもたちが急激に増えたのかということの説明が付きません。
食品添加物が最近急激に増えたということも聞きません。
他方、すぐに学校の責任にしたがる人たちもいるわけですが、この学級崩壊の多発は、担任が原因ということでは、やはり説明がつかないと思います。

デジタルスクリーンシンドロームということであれば、発達障害やその他の小児精神病の急激な増加の原因として、スマホやインターネットの急激な普及ということはつじつまが合うような気がするのです。

具体的には本書をお読みいただくとして、ポイントとなりそうで、あまり詳しく書いていない問題について勝手に解説します。
本書は認知科学の基礎をお持ちの方はよりよく理解できると思うのですが、逆に認知科学の入門書としても適切な内容になっています。

① 無意識・無自覚の反応、②過覚醒(戦うか逃げるか)状態、③脳(前頭葉)の発達、④依存の構造について説明します。

<無意識・無自覚の反応>
大人だって、SNSをやっていますし、インターネットでのロールプレイングゲームをやっているわけです。「これらのデジタルスクリーンを利用しても、特に影響が感じられない、弊害なんて宗教的な話だ。」とぼんやり思っている人も多いと思うのです。私もそうでしたもの。

しかし、この本を読んで自分を振り返ってみると、のめりこんでやっていた時には、なんとなくいつもイライラしていたし、自分を守ろうと過剰な反応をしていたというように思えてきました。「のんびりと鷹揚に、そして寛容に」という人生とは真逆な状態です。

脳の影響というのは少しずつしか出てこないし、自分としてはその場では自分の行動は正しいと思っているわけですから、なかなかその弊害を自覚できないということが特徴だと思います。

怖いのは今の子どもたちは、生まれたときからデジタルスクリーンがあるため、無いときと比較しようがないということです。生まれながらにデジタルスクリーンを使っていて、その影響があるならば、その影響として出てきた症状は、生まれつきの症状だと思われてしまうということが起きていると述べられています。

<過覚醒 戦うか逃げるか>

この言葉が何回も本には出てきます。拙著「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)も、この過覚醒をテーマとして書いています。

人間に限らず、動物全般は、危険に備える体の仕組みがあるわけです。目、耳、鼻などで、何らかの外部の事情をキャッチし、脳の中でそれの意味を瞬時に評価して、危険だという結論になれば、前頭葉から信号が副腎等に送られ、心臓の動きなどを変化させて身体を動かしやすいように生理的変化を起こします。そしてその生理的変化に少し遅れて、意識は危険を感じるようです。

この生理的変化が起きると、筋肉を動かしやすくなります。走って逃げる場合も、戦って相手を倒して危険を逃れる場合も、どちらにも共通して必要な生理的変化です。

この変化の仕組みは危険をまぬかれるためには合理的です。

問題は、生理的な変化が起きるだけでなく、意識の上の変化も起きるわけです。逃げる場合には恐怖を感じますし、戦う場合には怒りを感じています。また、こうなると、思考は停滞し、二者択一的な考え方、悲観的な考え方に変わってしまいます。

これも確実に危険をまぬかれるための合理的な変化です。

ンで問題は、
生命身体の危険に対してこれでよいのです。
ところが対人関係的な危険も人間は感じてしまい、その時もこの過覚醒の症状が出てしまうということが厄介なことなのです。

対人関係の不具合があっても、例えば会社で上司から叱責されるときも、この過覚醒の症状が出てしまい、逃げるか戦うかという反応を示してしまいます。しかし、対人関係の危険では筋肉を使って危険を回避するということはありません。また、意識の変容によって思考力が低下してしまうと、良いことは何もありません。かえって人間関係を悪くするような発言をすることはよくあることでしょう。対人関係的危険を感じたときの仕組みが、結局は過覚醒になってしまうというのは実際は不合理なのですが仕方がありません。

さて、デジタルスクリーンは、特にゲームでは恐怖やスリルを疑似体験します。体験は疑似体験ですが、脳は危険があったときに準じた反応をしてしまい、過覚醒状態は実際に起きてしまっているわけです。扁桃体は副腎などに信号を送りっぱなしになってしまいます。この状態は、危険が終わればすぐに元に戻るかというそうではありません。危険が去った後でしばらくドキドキが続くことは体験していることと思われます。デジタルスクリーンでもしばらくは過覚醒状態が続くわけです。

だから、今デジタルスクリーンを利用していなくても影響が残っているということがあるようです。

SNSでは恐怖やスリルをあまり感じることはないのですが、対人関係的な危機感は良く感じることだと思います。返信をしなければならないという強迫観念も対人関係的危機感の関係で過覚醒になっていると言えるでしょう。やはり過覚醒になるようです。また、情報の内容だけでなく、光が目を通して脳に入ってくるということも過覚醒を引き起こす原因になるようです。

デジタルスクリーンを見ていると、自己防衛意識が高くなり、ささいなことで自分が攻撃されているように感じてしまい、人によっては他者にかかわりたくなくなり引きこもり状態になり、人によっては他者をしょっちゅう攻撃するようになってしまうようです。常に自分を守ろうという意識を持たされてしまうという危険があるようです。

<脳(前頭葉)の発達>

この本を読んでいて面白いなあと思うことはたくさんあるのですが、特に驚いたのは、今述べた、過覚醒の場合の意識の変容について説明がなされていたことです。

脳は、古い脳(つまり動物として生きるために必要な脳)と新しい脳(人間として生きるために必要な脳、群れを作る脳)と二種類に分けることができるそうです。古い脳は脳の奥の方にあり、新しい脳は脳の表面の方にあります。通常時は、新しい方も古い方もバランスを取って活動をしているのですが、危険を認知し、過覚醒の段階では、新しい脳の近くを流れていて栄養分を送っていた血液が、古い脳の方に多く流れるようになり、この結果新しい脳の活動が低下してしまうというのです。

人間がまだ人間として成立していない時代、危険と言えば生命身体の危険だけですから古い脳は、逃げるか戦うかということだけ考えればうまくいったわけです。ところが人間となり群れを作るようになれば、新しい脳によって、感情を制御して群れとして仲間を尊重して生きていかなければ生きていけません。

ところが、危険を感じると古い脳の部分だけが活動しやすくなるということですから、高度な複雑な思考ができなくなってしまうということだから、私の「危険を感じると思考力が低下する」という考えが大脳生理学的に裏付けられたということになるわけです。

デジタルスクリーンを利用して危険を感じて生理的変化が起きているため、実際は危険がないのに、危険があるときの意識の変容、脳内の変化が起きてしまっており、様々な問題行動が起きると説明できると思いました。

本書は、対人関係的危険という概念を補助線にひけば、かなり理解しやすくなります。

また、脳の成長の観点について、少し説明します。
人間の脳の成長は、一斉に行われるのではなく、まず古い脳から成長が始まります。危険を感じる仕組みが完成する古い脳の成長は10代の思春期ころにピークとなるようです。一方仲間の中で協調するための仕組みの新しい脳の完成は20代後半と言われているようです。

まず危険を感じて、ああ、大丈夫なんだと感じるという時間的、発達的な流れなのでしょう。その方が生存には有利なのだと思います。反抗期があることや、中学生や高校生がむやみにキレているのも、危険は感じやすいのだけれど、新しい脳が完成していないので、実際は危険ではないのだと理解しずらい時期があるということです。

デジタルスクリーンは、協調をする脳の発達を阻害するわけですから、やたら危険を感じやすく、相手にキレやすくなったり、むやみにひこもったりするようになる行動傾向が、本来ある程度新しい脳が発達してくるべき時期でも収まらないということなのだろうと思います。授業中にうろうろ歩き回ったら、他人から変な目で見られるからやめようというのも新しい脳の力ですから、その脳の動きを封じられれば学級崩壊が起こるのは当然だということになるのではないでしょうか。

但し、このようなデジタルスクリーンの影響は、デトックスをすることで改善され、正常な発達を再開するようです。発達障害だけでなく、双極性障害その他の精神科診断を受けた子どもたちが、デトックス(デジタルスクリーン利用を完全にやめること)によって問題行動が消失した、元の優秀な成績に戻ったという事例が多数報告されています。

<依存性の話>

依存症と言えば、薬物依存が典型的だと思います。薬物依存がどうやって起こるのかということの説明を試みてみます。
まず、薬物を体内に摂取すると、血管を通ってその薬物が脳に到達します。そうすると脳のある部分をその薬物が刺激し、多幸感を抱いてしまいます。これ何のためにこういう仕組みがあるかというと、例えば200万年前の狩猟採集時代に、外敵から身を守りながらようやく食料を獲得できたとなると、脳の報酬系が刺激され多幸感を抱くので、脳はまたこの感覚を感じたいということで、また同じことをしようとする、そうすると、食料を取ることに喜びをえて、その過程に苦難があっても食料を獲得しようと努力するようになるわけです。腹減って探して食べて腹を満たすというだけではなく、見つけることで喜びを得たいということで死ななくて済むという仕組みだと思うのです。

だから、報酬系を刺激される事情を覚えてしまい、同じことを繰り返すためのシステムだということができるのではないでしょうか。

すると、麻薬を体内に入れると報酬系が刺激されるとわかれば、また麻薬を摂取しようとすることは体の仕組みから当然行われることです。これは脳の報酬系を直接刺激してしまうので、その多幸感を味わうというアイデアを制御することはなかなかできることではないようです。これが外敵から身を守ってという面倒なことがあれば、断念するということもあるのでしょうが、麻薬を使えば多幸感を味わえるということであれば、断念しようという気も起きにくくなるのだと思います。

あとは麻薬を手に入れられるかどうかですが、麻薬さえ手に入れれば多幸感を味わえるということであれば、どんなことをしても麻薬を手に入れようとしてしまうわけです。

麻薬には副作用があり、体力がなくなるとか、思考力が無くなるとか、あるいは覚醒時体に苦痛を感じたり、不快感を感じたりするようになります。そうすると、いつまでも多幸感に浸っていたいということで、麻薬が切れないように麻薬を使用し続けてしまうということが起きるわけです。また、身体が薬に馴れてきてしまいますから、より強い薬をより大量に服用してしまう傾向にあるの理由があるということです。

デジタルスクリーンも、光の作用その他によって報酬系を直接刺激して、脳に多幸感を感じさせるようです。報酬系は繰り返し行うための脳の仕組みですから、デジタルスクリーンの使用がやめられなくなるということです。そうして、使用をやめられなくなる。だから、麻薬と同じ依存の原理なのだという説明がなされています。

使えば使うほど、過覚醒の症状が大きくなっていき、他者との協調という感覚が薄れていくという副作用も大きくなっていくのでしょう。

デジタルスクリーンは大変便利な道具です。言葉がわからない年齢の子どもであっても、興味を引いて見入ってしまうからです。子どもにデジタルスクリーンを見せているうちに、大人の用事をしたいということはよくわかります。よくわかるのですが、その弊害についても知らないと後で大変なことになるということがこの本に書いてあります。

小さなお子さんをお持ちの方々は必読書だと思い、ご紹介した次第です。

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会社に行こうとすると吐きたくなる貴方へ。「退職する」という選択肢がきちんと頭に入っていますか。その上で考えるべきこと。 [労災事件]



仕事柄、これまで過重労働やパワハラが原因で亡くなった方々の、亡くなる直前の様子を何件も調査をしてきました。自死で亡くなった多くの方が、生前、通勤をしようとすると吐き気を催したり、実際に毎朝のようにコンビニのトイレで吐いていたりということがわかっています。

現在、結構多くの方が、このような朝を過ごしていると聞きました。これはかなり危険な兆候です。あなたが対策を立てないままだと、うつ病になったり、自死を決行したりする危険があります。大変心配をしています。

もしかするとあなたは「自分は大丈夫だ。」と思われているかもしれません。しかし、うつ病になることも自死することも、あなたが理性で考えて選択することではないのです。あなたの意思とかかわりなく病気になるわけですし、実は死ぬというはっきりした決断を持たないまま自死は実行されるものだと考えた方が実践的だと思います。
だから、今あなたが大丈夫と思っているそのあなたではなくなる、別のあなたがあなたの身体生命を危険に陥れるのだということを考えてみてください。

職場が原因でのうつ病の重症度を表す指標があります。それは、「いざとなったらこんな会社辞めてやる。」と思えているかどうかというものです。退職すると考えているうちは良いのですが、うつ病や適応障害などの精神障害が発症してしまった後は、「退職する。」という選択肢が無くなるようなのです。健全な精神状態のときは、「苦しいから、苦しみ続けるよりは会社を退職する。」という選択肢があるのです。しかし、一度病気になってしまうと、「苦しみ続けることから解放されるためには、死ぬしかない。」という精神状態になる場合があるようです。

だから、わたしは、「退職する」という選択肢をきちんと持ち続けていますかとあなたに問いかけているのです。

人間はどうやら、精神的に弱ってしまうと、継続的に顔を合わせている他人に対して助けを求めてしまうという習性があるようなのです(詳しくは前回の記事なので省略)。その人が自分を苦しめているのに、その人から見放されたくなくなるようです。これが不健全な精神状態の本質ということなのでしょう。

現実は退職するという選択肢を持ちにくい環境だということはよくわかります。

家族がいれば退職できないという考えは当然だと思います。お子さんがいれば、将来的な教育費まで考えることもあるでしょう。仕事をやめれば、収入がなくなる。転職と言ってもそう転職口もないし、あっても今よりも条件がさらに悪くなるかもしれません。

逆説的な話ですが、それでも退職するという選択肢が無くなったあなたは真剣に退職と転職をシミュレーションする時期なのだと思います。
但し、本当に退職をするかどうかはまた別の話でよいのです。退職するという逃げ道があると自覚することで、心に余裕を持っていただきたいのです。そうすると見えてくることもあるわけです。

退職という選択肢を奪うのは、一つにはあなた自身やあなたの周囲の正義感です。「被害者であるあなたが会社を辞めて加害者である上司が会社に居続けるのは不合理だ」という声を聴くこともあります。
この発想は間違いです。正義と心中するなんて愚かなことです。

最も大事なことはあなたが生きているということです。

親の義務、夫の義務なんてものは、本来最低ラインがあるわけではありません。何円を家庭に入れなければならないというのは、そのご家庭の状況によって全く違います。仕事柄厳密な物言いをして申し訳ないのですが、仮に養育費をいくら払うという審判を受けたからと言って、払えないなら金額を減額をする手続きがありますし、減額しなければなりません。

なぜならばあなたが無理をすると、死んでしまう危険があるからです。お子さん方に消えない罪悪感を植え付けることが、あなたが親として回避するべきことです。つまり、親の義務の最低ラインがあるとすれば、生き続けること、正確に言えば生きようとすること、死ぬ危険を可能な限り排除することです。

自死を決行するときは、既に理性が効かない段階になっています。自分は死ななければならないのだと強固に思い込んでしまっている状態であることがほとんどです。そうならないようにするということが、今理性がある段階で準備することです。

具体的には、退職するという選択肢を持ち続けることです。

退職という選択肢を持った後で考えるべきことがあります。

それは
・ 自分自身の行動も、自分を苦しめる原因になっているかもしれない。
・ 自分のふるまいも修正する余地があるのではないか。
という考えをめぐらすことです。

人間の精神を決定的に破壊するのは、
「自分が悪くないのに、助けのない状態で苦しまされている。」
という絶望のようです。

うつ病の近づくと、二者択一的思考、悲観的思考が猛威を振るうようになりますから、その嫌な上司は敵であり、自分には味方がいないと感じるようになります。そして何をやってもうまくいかないという気持ちになってしまいます。

そうなる前に、自分の何かが間違っていたのかもしれないと考えることはとても有益なことです。

貴方を周囲から暖かく扱われない原因があなたの正義感であり、責任感であり真面目さであるならば、あなたは「自分が正しいはずなのに」という迷路から抜け出せなくなります。せっかく退職という選択肢をポケットに入れたならば、あとは、あなたの責任感、正義感、まじめさを捨ててみましょう。

最初は、上から目線で仕方がないと思います。「上司や経営陣は、自分のレベルまで到達していないから自分が正当に評価されない。」と思うということです。その後は徐々に、「人間関係を良好に保つことにも一つの価値があるし、これによらなければ恒常的な生産性の向上は不可能だ。」という考え方に変わっていくはずです。

つまり、あなたが先ず行うべきことは、周囲を許すという作業を行うということになるのかもしれません。

いずれにしても大切なことは、あなたが家族というものを大切にするならば、会社というのは取り換えのきく人間関係であり、そんな人間関係のためにあなたの正常な思考が破壊されるのは一番つまらないことだということをしっかり意識することです。

そういう人間関係であることを意識することによって、あるいはいつでもおさらばできる人間関係だということを意識することによって、上司そのものを上から見られるようにするという戦略です。
人間は継続的に時間を共に過ごし、報酬を分け合う人間関係は、唯一絶対の最上の忠誠を誓う人間関係だと無意識に勘違いする生き物だということをしっかり自覚しましょう。あなたを苦しめる会社は、そんな価値のない人間関係なのだと思います。

自由になって、自分を失うことを阻止しましょう。

関連したことを述べた過去の記事を参考までにあげておきます。ご興味とお時間があるときご参照してみてください。

相手に合わせて自分の行動を変えられない人は、自分が深刻に傷つく結果になりやすい。「自分が悪くなくても行動を変える」という発想が人生を快適にできるということについて考えてみた。特に夫婦問題における大人の発想とは。♯対人関係的危険。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-05-27

あなたが組織・会社で浮いている理由は、まじめすぎる、責任感がありすぎるからかもしれないという、じゃあどうすればよいのという問題 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-07-08


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シリーズ3 人間は他人に自分をどのように扱ってほしいと期待をしてしまい、そして深く傷つくのか 現代社会が人間の心にマッチしていない構造であること 家族仲が良くても職場の人間関係が原因で自死が起こる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]

<問題の所在> 人間関係が原因で精神的に追い込まれてしまう実態の存在

過労自死の事例などを担当すると、例えばパワハラをする上司だったり、例えば不当な査定をする上司だったり、あるいは執拗に攻撃を続ける部下だったり、逃げ場がないほど追い詰められてしまうことがあります。その結果、精神障害を発症したり、自死に追い込まれたりしています。

逃げ出せばよかったのにとそういう声をよく聞きます。

しかし、うつ病になったり自死したりした本人だって、自分を追い込んだ相手がそういうつまらない奴だということが頭ではわかっています。叱責を受けても自分が悪いわけではなく、相手の性分によって苦しめられているということも知っているようなのです。でも、自分だけが攻撃を頻繁に受けてしまっているうちに、とても深く傷ついてしまい、なんともならないという絶望を感じるという無防備な状態で攻撃にさらされてしまっているような状態になるようです。


そうしているうちに、その人間関係から逃げ出すという選択肢が消えて行ってしまっているようです。
逃げ出せばよいことがわかっていて、逃げ出すことが物理的には可能だとしても、実際は逃げ出すことができなくなっているのです。

<問題提起>
これはどういうことでしょうか。
・ つまらない相手から攻撃を受けて精神的に追い込まれる理由
・ 攻撃する相手との人間関係を断ち切れなくなる理由

<解答の仮説> 1 精神的に追い込まれる絶望のメカニズム
どうやら人間は、一定条件の下が成立してしまうと、他人に対して自分を仲間として尊重してほしい、尊重して接してほしいという期待をしてしまう生き物のようです。

パワハラ上司や学校でいじめをしている同級生にさえ、自分を尊重してほしいと期待をしてしまうのです。そして当然のごとく、そんな相手に対する期待は裏切られてしまいます。このため絶望してしまい、自分の仲間の中での人間性が回復することが不可能だという意識を持ってしまう。そうしてその絶望に耐えられるようには人間は作られていないため、精神が破綻したり、それによって自死に追い込まれたりするようです。

<解答の仮説> 2―1 他者に期待してしまう心の由来
どうして人間はつい他者に期待してしまうのでしょうか。期待さえしなければ裏切られたり絶望をしたりしないで済むはずです。

人間の心が生まれたとされる今から約200万年前の環境を理解すれば簡単に理解できます。

心ができたとされるおよそ200万年前から今から数万年前まで、つまり約200万年間、人は数十人から100人ちょいプラスの群れを作って暮らしており、原則として単一の群れの中で生まれて、そして死んでいったと言われています。小動物を狩猟して植物を採取して生活していたため、狩猟採集時代と言われます。
言葉のない時代に、どうやって群れを作ることができたかがポイントです。

私は以下に述べる、心(行動傾向)を持っていたことで群れを作っていたと考えています。
① 群れの中にいたいと思う心
② 群れから外されそうになると不安になる心
   仲間の表情や行動で自分に対してどう思っているか感じ取る能力があった。仲間の行動から、仲間の自分に対する感情を察することができた。
③ 自分が所属する群れを維持していきたいという心
  群れの弱い部分を手厚く守ろうとし、平等に分け合おうとし、結果として群れの頭数の減少を防いだ。群れで活動する場合、その活動のリーダーに従い、群れ全体が統一的に動こうとする心があった・
こういう「心」という強力なツールがあったから群れを形成できたと私は思うのです。

狩猟採取時代であっても、人は進化の過程で共感力(ミラーニューロン)を獲得しました。四六時中一緒にいるし、そのメンバーも高々100名ちょいのために一人一人の性格を把握していたので、誰がどんな気持ちでいるのか、言葉が無くてもよくわかったことでしょう。群れの誰かがひもじい思いをすれば自分もひもじい思いをして、わずかな食料だとしても分け合ったことと思います。誰かがけがをして動けなければ、自分が痛みを持ったように感じてその人の負担をなるべく減らしてあげようとしたとも思います。こういう意味で自分と群れの中の他者とがあまり区別できないような状態だったのでしょう。結果的には完全な運命共同体として仲間を形成していたのだと思います。自然にお互い助け合っていたのです。こういう心をもつこと、こういう行動様式が、厳しい自然環境の中で、攻撃力も防御力もそれほど高くない人間が生き残るためには不可欠だったはずだという考えです。

表現を変えれば、このような仲間をわがこととして大切にする行動様式、心を持っていた人の群れだけが厳しい環境を生き抜くことができて、子孫を作ることができたということになると思います。

それは狩猟採集時代の人間の環境の話なのですが、人間の頭蓋骨はその最初のころの200万年前とそれほど変化がないそうです。ここから考えると、人間の心(脳)は、その時のままだということになります。基本的には、現代の人間の心も狩猟採取時代のように仲間を我がことと区別しないで助け合うようにできているのだと思います。

そして、ある条件を満たすと、人間は他者を見ると、つい狩猟採取時代の仲間と同じように自分を扱ってほしいという期待をしてしまうことがあると考えています。

<解答の仮説>2-2 心は変わらないのに環境が変わった
これが現代人の悲劇の根本原因であると思います。

現代では、人間は自分の能力をはるかに超えた多数の人間とかかわりを持ち、家族だけでなく、職場、学校、あるいはインターネットのつながり、子どもを通じてのつながりなど、複数の人間関係に同時に帰属しているという環境の変化があります。狩猟採取時代の群れの仲間は自分と全く利害関係が一致していた運命共同体で、唯一の仲間たちですが、現代は家族でさえ利害対立が起きる可能性のあるような、取り換えの効くような希薄な人間関係になっています。複数の人間関係に同時に所属しているために、どこかの人間関係を大切にしようとして別のどこかの人間関係を犠牲にするということも避けられない場合も少なくありません。また、インターネットを通じて知り合ったつもりになっている人間が、実際はどこの誰だかわからない人間であることも珍しくありません。

そのすべての人間関係、出会う人間すべてにおいて、狩猟採取時代の群れの仲間のように自分を尊重してもらいたいと思ってしまったら、期待がいとも簡単にいつも裏切られてしまうことは目に見えています。そして、期待が裏切られることで、自分はその群れから追放されようとしているという不安だけを感じ、解決不能の絶望の感覚に簡単に陥ってしまうことでしょう。私たちの心は、現代社会においては極めて危険な状態にさらされているということになると思います。

ただ、常日頃は、人間も学習をしているので、無駄に傷つくような期待をするということは少ないと思います。仮になんとなく、だれかれ構わずに自分を特別扱いしてほしいと思うことがあっても、実際にはそれを要求することもありません。その要求が実現しなくてもそれほど苦しむことはありません。

<問題提起>つい狩猟採取の心が肥大化する条件を考える意味

どうやら一定の条件が生まれてしまうと、多くの人間が、相手に対して狩猟採取時代の仲間に対して思うように、どんなことがあっても自分を許してもらいたいと思ってしまうし、命を懸けても自分を助けてもらいたいと思ってしまう自分の心にストップをかけられなくなってしまうようです。

それならば私たちは、つい群れの一員として扱われたくなる条件を予め頭に入れておけば、無謀な要求をしてしまう前に自分をセーブすることができると思います。そうすれば必要のない絶望を感じなくて済むと思うわけです。これが現代人には必要な生きるための知恵ではないかと思うのです。

命の危険にさらされている場合ならともかく、そうでない人間関係の中で立場がなくなりそうな場合は、命の危険はありません。命について絶望的な事態になるならば、精神が破綻することによって苦しみを緩和させてくれるかもしれません。しかし、クールに見た場合、人間関係の中の絶望は、無駄な絶望、無駄な精神破綻だと言わなくてはならないと思うのです。

<問題提起> 狩猟採取の心が肥大化する条件とは

では、どういう場合、人間は、他人に対して狩猟採取時代の仲間として扱ってほしいと思うのでしょうか。

<解答の仮説>1 狩猟採取時代の仲間を連想させる関係

<近くにいる時間が長い相手>

一つは、相手と狩猟採取時代の群れと同じような感覚になる人間関係の場合です。つまりは、どうやら日ごろ接触する機会が多い相手ということになります。家族、学校や職場あるいは継続的なボランティアなどの人間関係です。
職場の取引相手は、一般的には利害が対立する相手だと警戒するでしょうからあまり要求が高くならないようですが、同じ目標に向かって共同行動をするようになると他者の人間に対しても要求度が高くなるようです。

<友人関係>
友人という関係では要求度が高くなるようです。学校でいじめがある場合でも、いじめの加害者に対しては、初めから敵対的な関係にあるから期待度は高まりにくいのですが、傍観している友人に対しては、自分をかばってほしいという要求度は高くなります。しばしば、いじめ被害者はかばおうとしている友人の行動を過小評価してしまう現象がみられます。おそらく要求度が高くなってしまっているので、自分の供給度に満たない友人の頑張りが評価できなくなるようです。

だから友人だと思っていた相手からいじめを受けると、かなりダメージは強くなるようです。

<解答の仮説>2 一人なのに群れ全体からの攻撃だと感じる場合

<その人間関係の権威者>
人間関係の中の権威者、会社の上司、学校の教師、ボランティア団体のトップなどからの攻撃も精神的なダメージが強くなるようです。権威者と言っても権威の裏付けのあるような人間でなくても、平等、公平な扱いをするべき立場の人間であれば、中間管理職であったとしても、つい要求度が高くなってしまうようです。このような相手からの攻撃は、その人間関係全体からの攻撃だというような感覚を持ってしまうようです。例えば会社の上司が課長だとするとその課全体から追放されているような感覚を受け、クラスの担任からの場合はクラス全体から白眼視されているような感覚を受けるようです。

<保護者・監理者>
権威者とは少し違うのかもしれませんが、自分を保護、管理するべき人物に対しても期待が大きくなるようです。例えば病気を診てもらっているときの医師、看護師、例えば法的紛争があって依頼をした弁護士というところでしょうか。

<解答仮説>3 自分が大切に思っている人間関係

また、自分が攻撃を受ける人間関係が、本来その人が大切に思っている人間関係であったときにも、その人間関係からの攻撃は強い精神的ダメージを受けます。宗教とかボランティアとか、その人が人生をかけて取り組んでいることを一緒に行う人間関係で、裏切りのような攻撃を受けることは精神的に強いダメージを受けるようです。将来に向かって絶望を感じやすくなるようです。

大切な人間関係だからこそ、その人間関係にいることがその人の自分自身を支えるよりどころになっているのでしょう。だからこそ、その人間関係にいつまでも所属していたいと思うわけです。特にその人間関係の中で自分を大切にしてほしいという期待も大きくなるのだと思います。

<解答の仮説>4 本人の状態によって期待が増加する

これらの期待は、その人の個性によって期待の強さが変わることはもちろんです。

その他に、その人が置かれた人間関係の状態によっても左右されるようです。
つまり、どこかの人間関係で、追放されんばかりに攻撃を受けているときは、その他の人間関係において、期待や要求が大きくなることは理解できると思います。さらに、自分を攻撃している人間関係に対しても期待が大きくなってしまうようなのです。

ここがポイントだと思うのです。
理不尽な攻撃を受ければ受けるほど、人間は反射的には、あるいは本能的には、その攻撃を行う人に自分が群れの仲間であることを承認してほしいと強く期待してしまうということなのです。だから、精神的にダメージを受けた後になってしまうと、その群れから離脱しようとする選択肢が失われてしまうのだと思います。
おそらく狩猟採取時代の心に戻ってしまっていますから、およそ人間関係は、自分にとって生涯唯一の人間関係だという感覚になってしまうのだと思います。ここから外されたら天涯孤独になるという意識が根底に流れだしてしまっているようなのです。

<問題提起>期待とは具体的にどのような期待するのか

では、狩猟採取時代の仲間と同じように接してほしいというのはどういうことでしょうか。

<解答の仮説> 攻撃をしないでほしい、助けてほしい

端的に言うと、自分を攻撃しないでほしいということです。
理由のない攻撃だけでなく、自分が失敗しても、自分に不十分なところがあっても、自分に欠点があっても、責めないでほしい、批判しないでほしい、攻撃しないでほしいという気持ちになるようです。自分を許してほしいと願うようです。

攻撃しないでほしいということもそうなのですが、攻撃されている自分を助けてほしいと思うようです。これをしてくれないと、自分は見捨てられたと強く感じるようです。

おそらく狩猟採取時代、人間は群れの仲間が無ければ極めて自分が頼りない存在だったのでしょう。仲間の中にいて、初めて安心することができたのだと思います。仲間は自分を安心させてくれる存在ではなければだめだったのだと思います。

前にも書いたのですが、プロ野球でデッドボールを受けるなどのきっかけで乱闘になるときに、必ず両軍の選手たちが自分のチームメイトを助けようとグランドに出てくるのも、このような人間の特質に添った行動なのだと思います。
デッドボールで選手全員がグラウンドに出てこなくてはならない切実な理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-03-23

おそらく、狩猟採取時代に誰かが肉食獣に襲われたら、群れの仲間は自分の危険をかえりみずに肉食獣に襲い掛かったのだろうと思います。人間がそういう特質を持っていたために、仲間が総動員で肉食獣に反撃をしたのだと思います。そうすると、ちょうど肉食獣を袋叩きをするような感じになるので、肉食獣もたまらず逃げ出したと思います。
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-06-19

人間は、本能的に仲間の中で自分が尊重されることを望んでしまうし、仲間を大切にしようとしてしまう、また、自分を攻撃する相手に対してもつい自分を仲間として尊重してほしいと思ってしまうという特徴を持っているということを意識するべきだと思います。

<狩猟採集時代の心が現代社会でどのように傷つくのか>

ところが、現代社会は大量の人間とかかわりを持つようになっており、その一人一人を狩猟採取時代の群れの仲間として丁寧に尊重することはできません。人間は、極端に言えば自分を無きものにしようとする相手にすがってしまう性質があることになってしまいます。狩猟採取時代にはなくては生き残れなかった心というツール、合理的なツールが現代社会では人間を苦しめているし、致命的な精神打撃を与えていると言えるでしょう。まさに現代社会では心と環境がミスマッチしている状態だと思うのです。

<現代社会で傷つかない方法、傷ついても致命的な打撃を回避する方法があるとすれば>

対処方法として一つ考えがあります。それは、この人たちは信じて行こうという仲間を一つ作ることです。この人たちに裏切られたら仕方がないと思える人間関係を作るということです。そして、そのコアの仲間に対して全力で奉仕する。絶対あなたを見捨てないという気持ちをもって、その人の失敗、不十分点、欠点を責めない、笑わない、批判しない。この人間関係にいることで安心してもらう働きかけを行うことです。そして、他の人間関係で不具合があっても、その人間関係が円満ならばそれでよいと割り切るということです。その他の人間関係はいつでも辞めるという選択肢を持ち続けるということです。

コアな人間関係があることによって、コアな人間関係を大切にする習慣によって、他の人間関係で不具合があっても、ここで自分が崩れたらコアな人間関係に悪影響が及ぶということを常に考えるわけです。そして、コアな人間関係を守るために、その他の人間関係を切り捨てるという選択肢を持ち続けることができるのだと思います。

これは意識して習慣づけなければうまくいきません。自分を攻撃する人間関係にしがみついてしまうのは、本能的に起きてしまうことだからです。「理性的にいくつかの人間関係を取捨選択したうえで、一番大切な人間関係で不具合が生じたので回復しがたいほど悩む」というわけではないということです。つい、はずみで狩猟採取時代の心が発動してしまうだけなのです。複数の人間関係に所属しているということに人類は対応できていない、進化の途中だということです。

誰かが自死したからと言って、その関係者、遺族が、自分がいながら自死が起きたとショックを受けることがありますが、それは無理な話です。自死者は、既に自死の前には、狩猟採取時代の心に支配されていただけだという説明が、私は科学的だと思います。

そしてコアな人間関係とするべき最もふさわしいのは、現代社会においてはやはり家族なのだろうと思います。無条件、無私の奉仕が一般に行われているのも家族だと思います。家族の仲間は本来は取り換えの効かない存在であるべきでだと思います。この立場からは、不具合があれば家族を壊すのではなく修正するということが第1に行われなくてはならないと思います。

現代社会が複雑になればなるほど、家族の価値が浮き彫りになっていきます。

それだけに、家族を壊す、家族を分散させる大きな力が罪深いことなのだと常に感じているところです。法律はともかく倫理的には、何かの被害者は個人ではなく家族として把握するべきです。国家も社会も、そして家族の一員たちも、家族のかけがえのなさに、もっと注意を払い、関心を持つべきだと思っています。そして、現代人にとって家族がコアな人間関係にするためにはどうしたらよいかという研究を行い続けることが、現代人にとっての喫緊の課題であり、永続するべき課題なのだと思っています。

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あなたが組織・会社で浮いている理由は、まじめすぎる、責任感がありすぎるからかもしれないという、じゃあどうすればよいのという問題 [労務管理・労働環境]

*

労使紛争の事案で、労働者からの相談の中に、身に覚えのない理由で処分をされたとか懲戒解雇になりそうになっているというものが結構多いです。
労働者の話だけを聞く限り、不当処分、不当解雇だと裁判所でも判断される可能性の高い事案が多いです。つまり法律を当てはめる限りにおいては、どうも会社の違法行為が認定されそうなのです。

ただ、それは裁判をした場合の話です。あるいは労基署や労働基準局の厳しい指導がある場合ということです。専門的な知識のある弁護士を探してお金を出して依頼して裁判をするということはなかなか大変なことだと思います。解雇をされていれば、裁判に勝って賃金を後払いされるまでの生活をどうにかしなくてはなりません。必ずしも勝つとは限りませんので、借金をするのもほどほどにする必要もあるでしょう。
また、一度組織で本人が浮いてしまって、経営陣からも敵対されてしまうと、その後に裁判で処分が撤回されても、現実には会社はいづらい場所になることでしょう。査定評価や人事を巡って不安になったり、実際に理不尽な思いをするということもありそうです。

できれば、意味不明な理由で自分が処分を受けないように「予防」したいと考えることは自然なことだと思います。

ただ、この記事を読むべきである人は、「自分は組織に貢献しているから上司や経営陣から攻撃をされるはずがない」と確信している方がほとんどだと思います。大体の人は、寝耳に水で裏切られたという思いが強く、メンタル的にも大きな打撃を受けてしまいます。
こういう方々に、間接的にでも届くとよいと思って書くことにします。

組織の中で浮いてしまって上司などから攻撃されやすい人の典型的な特徴は、
・ 優秀な人
・ 無理をしてでも約束を守ろうとする責任感の強い人
・ 物事を合理的に進める人
・ 会社であれば、全員が利潤追求を最大の価値において仕事をすることが当然であり、何ら疑うことのない人です。
こんな理想的だと思われるまじめな従業員が攻撃の対象となっています。

まじめな従業員が浮く場合は、会社にも例えば以下のような問題がある場合が多いです。
・ 同族企業で経営陣の中核が固定されていて動きがない
・ あるいは田舎の自治体で議会でも行政がほとんど追及されない
・ 会社などの設立が古いため、これまでのやり方でやればやっていけるはずだと思っている
・ 利潤は目指すのだけど、それ以上に条件反射的に仲間内や長年の取引相手との人間関係の方に価値を置く
・ 現場の会議で合理性を優先して決めたことをトップが一言で覆す
・ 組織の中の有力者に忖度して、その有力者がやりづらいと感じている部下を排除するのが経営陣の仕事だと思っている
・ よく言えば上の人の立場を尊重することが何よりも優先される
こんな職場です。

だから、会社は、「まじめ従業員」から合理性や約束は守るべきだというモラルを真正面に掲げて言われるとまともに反論できません。モラルや合理性を言う従業員は、とても煙たい人間で、上司や経営者にとってその人は「自分たち」というくくりには入らない人になっていきます。以下のような場合に「まじめ従業員」と経営者の間に緊張が高まることは、はたから見ているとよくわかるのです。

例えば
・ 会議で決まったことを上司が守らない場合
・ 上司の負担を減らすために、部下の仕事を増やそうとする場合とか、
・ 納期が迫っているのに上司が前提としてやらなくてはならないことをしていないとか、
こういう場合、「まじめ従業員」は、相手が上司であろうと経営者であろうと、正々堂々と正論を述べて上司の行動を改めようとしてしまいます。それだけならばよいのですが、やや感情的な言葉を使ってしまうことも多いです。本人は当たり前のことが当たり前ではないと指摘することや、理不尽であるために行動を改めるべきだなどということは、やらなくてはならないことだと思って発言しています。しかし、言われた上司からすればかなり自分に対して厳しい態度をしていると感じてしまうようです。また、正義や論理、会社の利益を背負っていますから、声が大きくなり口調が厳しくなることを気にしなくなってしまっています。

その行動を改めろと詰め寄られた上司が、経営陣の一角(身内)だったり、あるいは経営陣が外部から招へいしてようやく来てもらった人だったりすると、経営陣はその上司が何も言わなくても(実際は愚痴をこぼしていることが多いようですけれど)、「まじめ従業員」の排除に動き出すようです。
いつしか、その「まじめ従業員」は一人リストラの対象となってしまうわけです。

こういう場合、公的な職場であっても、結局横車を押すわけですから、かなり強引に、かなりアンフェアな手口を使ってしまいます。また、着々と準備を進めて積み重ねていきます。大体はナンバー2あたりが主体となって動きます。

ナンバー2が動くと、とにかく組織に迎合して組織の秩序を保ちたいと思ってしまうことが人間の本能ですから、ある程度はまじめで公平な人であっても、ナンバー2の提案こそが正義だと思い込んでしまうようです。ここで勘違いされることが多いのは、そのナンバー2に協力してしまう人たちが、自己保身のためにナンバー2におもねるのではないということです。ナンバー2こそが組織の秩序を保とうとしていると思い、それならばそちらに従い、何としてでも「まじめ従業員」を排除しなければならないと素直に思ってしまっているようなのです。冷静に観察すると信じられないくらいのアンフェアな役割を果たしていくようです。ナンバー2が作ったシナリオを忠実に、あるいはそれ以上に実践していきます。真実ではないとわかっていながら、「まじめ従業員」の非行行為をでっちあげたりします。

いつの間にか「まじめ従業員」は、上司や部下や取引相手に対してもハラスメントをした人間だということにされてしまいます。伝達作業などの業務上必要な行為を懈怠した事実が作り上げられたり、会社のルールがあったことにされてルール違反の常習者になったりされてしまいます。正当であろうと言いがかりであろうと、上司の注意という形式的な記録が積み上げられて行きます。それが専門分野になっていくと、専門的な理由からの注意や否定評価が不当な言いがかりだということを証明することが困難になっていきます。

「まじめ従業員」はまさか自分が批判の対象、攻撃の対象になるはずがないと信じていますから、組織の動きに対して鈍感になっており、反対証拠を収集するなどの準備ができていないことがほとんどです。せめて日記だけでもつけておいてもらうと大変助かります。

紛争はかなりの労力を使います。特に外野が見過ごしがちなのは、ご本人のメンタルです。強い力の理不尽な出来事で苦しんだ時の感覚が、記録を見るたびによみがえってくるようです。裁判などが終わるまで、常に新たなストレスが加わり続けることと同じです。戦いのさなかでは、なかなかその苦しみに馴れるということは無いようです。
また、例えば不当解雇があって、裁判で勝訴したとしても、なかなか復職することは難しいです。勝ってもメンタルが回復しないケースもたくさんあります。
「まじめ従業員」がまじめなままだとすると、復職をしても同じことが繰り返される可能性が高くなることでしょう。

考えるべきだと思います。

1 まじめなあなたの職場が、誰しもが思うような普通の職場、つまり、利潤の追求を第一として、合理的な行動をすることに価値を置かれ、責任をもって取引先との約束を守り、社内の現場の合理的な意見を尊重する会社であれば、「まじめ従業員」は自然にふるまうことができるわけです。あとは過労死や家族に対するネグレクトに注意をして組織生活をしていけばよいということになるでしょう。

2 問題は「まじめ従業員」であるあなたの職場が、利潤の追求や合理的行動よりも、経営者や上司の体面を重んじ、従来の方法論にこだわって経営を行い、納期が遅れようと新しい分野に対応できないものはできない、年配の経営者には無理だからこの分野を若者にゆだねてみようという意識を持つ余地のない職場で、現場がどうしようと上司の人間関係で決定を平気で覆すような会社の場合どうするかということです。

2-1 一つは、こんな調子で利潤追求に背を向けて、保身を第一とする会社や組織は、沈みゆく船だと見切りをつけて転職をする。

2-2 もう一つは、会社の中で、自分がはみ出さないように仕事をするように切り替える。極端な「まじめ従業員」をやめるということでしょう。

どちらかでしょうね。

本来、「まじめ従業員」は、従来の労働運動の中では、「あなたは悪くない。断固戦いましょう。」と言われてきた人たちだと思います。しかし、このような「あなたは悪くない」は本当に本人のために良いことなのか、疑問がわいてきました。
もしかしたら、「まじめ従業員」は、さっさと転職をして、今度は「まじめ度」を下げる行動修正をすることによって、その後の人生においてもっと楽な会社生活を送れるかもしれないのです。トラブルを適正に教訓化できればそれはかなり実現可能性が高いようです。ところが、自分は悪くない。次の職場でも態度を改める必要がないと極端な身構えをすると、また同じ現実が待っている可能性が高いと思うのです。

どちらを選ぶかは生き方の問題ですから本人が決めることです。しかし、第三者は、適当な時期に選択肢、可能性を提案するのが親切なのではないでしょうか。

最大の問題は、「自分が組織の仲間に受け入れられない」という体験が積み重なることによって起きるメンタル不調の長期化と重篤化です。そのような危険があるのに「正しいのだから頑張れ」というのは、無責任であり、その人の人生を失望と怒りにまみれされる大変危険なことかもしれないということを考えるようになりました。

この場合も、善悪二元論、二項対立論でおおざっぱにどちらかが善で、どちらかが悪という単純な考えで人間を評価すると解決策は見えてきません。会社は確かにアンフェアな罠を張り巡らせて労働者を追い出そうとしていますから、正義感の強い人はどうしても会社に対する怒りだけが高まっていくようです。自分の正義感を満足させるために、当事者のデメリットを考えないということがあれば大変怖いことです。

最近わたしは、「あなたは正義感、責任感が強すぎたのではないか」と問題提起をすることが増えてきました。

正義感が強すぎるから、一度決めたことを勝手に覆すことはおかしいと思うでしょうし、自分が得するために部下に損をさせるような上司の行動は断固拒否することでしょう。責任感が強すぎるから納期に間に合わなくなる上司の怠慢を厳しく指摘するでしょう。しかも納期に間に合う間に合わないかのかぎりぎりの段階でもまだ動こうとしない上司に対してはいら立ちも生まれることでしょう。顔に出すなと言われても無理だと思います。大切にすべきことは、ルールであり、公平であり、目的遂行あり、合理的行動をするということなわけです。

しかし、「ちょっと待てよ。」
と、第三者は敢えて言うべきではないでしょうか。会社も極端で不合理だけれど、「まじめ従業員」も一方の極端な立場でものを考えていないかということです。

そもそも本当に、利潤追求のためには、合理性を追求し、正義や約束に従うことが絶対の方法論なのでしょうか。合理性や正義や約束を厳格に守れば、企業利益が永続的に確保されるのかということも疑ってかかる必要があるかもしれません。

高度成長期が終わるまでの労使紛争は、企業が利潤を追求するあまりに労働者の人権を侵害していたという理由からの労使紛争が主流だったと思います。むしろ、利潤追求や合理性の追求に異を唱えていたのは労働者だったわけです。

もしかしたら「まじめ従業員」は、このようなむしろオーソドックスな企業の論理に立って、逆に経営者や上司を追及してしまっているのではないかということも考えた方が良いかもしれません。もしかしたら、正義を優先して仲間の感情をかえりみない状態になっていたり、人の失敗を許せないという窮屈な感情に支配されたりしていないでしょうか。

上司や経営者の不合理な行動で労働者がイライラすることは、昔からあることです。しかし、だからと言って、そのイライラを未加工で上司や経営者にぶつけてしまえば、当然反発が来るものです。上司に限らず同僚、部下に対しては尊敬できるところを尊敬し、その人たちができないことを広い意味で許すということは、組織として動く以上どうしても必要なことなのではないかと思うのです。

<気を付けるべきこと>
まず、上司に対しても部下に対してもそうなのですが、
「怒りをぶつけない」
ということが一番大切だと思います。

次に、会社の仲間には
「弱点は必ずある
だから弱点をいかにうまくカバーするかを考えるのであって
弱点であることを責めない、怒らない」
ということも大切です。
会社員、社会人であるからできて当然だ
とは思わないことが大切でしょう。

「現実の仲間をどう動かしていけば目標に近づくか」
ということを考えるのが組織人の醍醐味です。

決定権のある人の決定をストレートにくつがえそうとしないこと
相手の意思に働きかけるときは、結論を押し付けてはだめで
「メリットデメリットを提示し
選択肢の可能性を説明すること」ということになります。
結論をストレートにごり押ししても何も結論は変わりません。

決定に責任を負うのは決定権者なのであなたが責任を持つことではないのです。

会社だけでなく家族、趣味、友人関係など、あなたのまじめさ、責任感、正義感などは、仲間を精神的に追い込んでいる可能性があります。仲間を不幸にしている可能性があるのです。そしてそれは、自分自身を不幸にしている原因かもしれません。



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連れ去り直前の妻の心理 思い込みDVでもでっち上げDVでもつまりDVが無くても、妻は実際に精神恐慌一歩手前にいる場合があるので、肝心の夫の手当てが無ければ妻が子どもを連れて逃げ出すことは不思議ではないということ  [家事]

ホームページやこのブログを見て相談のご希望をいただく方は最近女性の方が多くなっています。

他のどこにも相談しないで、まず私のところに相談される女性は離婚を望んではいません。子どものためにも何とか離婚をしないで済ませたいというご希望の方がほとんどです。もちろん離婚を決意してから面会交流の方法についてご相談をされる方もいます。

それでも、自分の不安を抑えられずに、ご自分の不安を訴えたり、夫に対する不満を訴えたりされるわけです。事情を知らないと病的だと思ってしまうような切迫感もあります。最近はコロナの問題も加味して、不安や焦燥が大きくなっているような様相を見せてきました(令和4年夏の時点)。

お話を聞くと大体は、「思い込みDVになってしまう要素」があるケースです。そして、この要素が複数あるケースが多くなりました。

「思い込みDVの要素」とは、産後うつ、内分泌異常、頭部外傷、もちろん不安障害やうつ病などの精神障害、婦人科系の疾患、薬の副作用等のほか、お子さんに障害がある場合、住宅ローンを組み始めたという事情があります。

これらの要素があると、その他の具体的事情が無くても、どうしても不安や焦燥感が抑えられなくなってしまいます。一緒に住んでいる夫に対する不満は常にあるのですが、要素による不安や焦燥感があると、具体的な攻撃対象を求めてしまうようで、夫の行動や存在が自分を苦しめていると思い込んでしまうという現象が起きてしまいます。そして、不安や焦燥感のある妻に対して、あなたは悪くない、それは夫の精神的虐待だと、攻撃対象を夫に寄せようとするマニュアルを持った相談機関があることが、ありもしない夫のDVがあったと思い込ませる重要な役割を果たすことが多いです。

今回は女性についてのお話です。男女差というのは性差というよりも、出産や婦人科系の疾患のように女性固有の問題が原因になっていたり、内分泌異常のように比較的女性の方が多くり患する疾患が原因の一つになることが多いため、女性にこれらの傾向が多くなるのはいたしかた無いようです。

「思い込みDVの要素によって、自分の不安を理由もなくかき立てられている」
という知識が女性にはないことが通常です。病院に通院していても、体の変調が心に影響を与えて生活に影響が生じる場合があるという説明をされたことはないそうです。

現代の歪んだ男女平等は、結果的に女性も男性と同じように無理が効くという主張になっています。実際のハンデキャップが無かったことにされています。本来、思い込みDVの要素を持った女性は特別にいたわりなどの保護を受けて平等の機会が保証されるはずであり、むしろすべての女性に保護的な対応をすることの方が必要な保護を受けられるはずなのです。しかし、現代日本は、すべての女性から保護を切り捨ててしまうように感じられてなりません。ますます女性は一人で苦しまなければならないように追い込まれているようです。

相談される女性はご自分の感情を抑えることがなかなか難しくなっている方が多いです。それでも、聞く方がきちんと聞くと、つじつまが合わないようなお話はされません。ご自分の生活歴や病歴についてはほとんどの方が正確に認識し、記憶されています。但し、聞き方を間違えると、その人の状況は全く分からなくなる場合もあります。思い込みDVの要素の知識のない人からすると、夫のDVしか思い当たらず、夫のDVがあるはずだという思い込みから、普通の夫婦間のあつれきが夫のDVにされてしまう流れがあるようです。

思い込みDVの要素によって不安が高まっている妻は、とにかく不安でたまらない状態です。落ち着きません。解決方法が見えてきません。極端に言えば、古いロープで吊り上げられた重しが自分の体の上でぶら下がって揺れており、ロープが少しずつ擦り切れていっているけれど、自分の体を動かすことができず、重しが落ちてくることから体を守る方法がないというような感じです。

とにかくこの「不安を解消したいという要求」が高まっていることがよくわかります。

原因を一つ一つ解消していけばだいぶ落ち着いてくるとは思うのですが、通院も中途半端で中断していたり、メンタル上の影響はないと病院が言い切ったりして(もともとのあなたの性格の問題だと言われた人もいました)、明らかに精神症状が合併する疾患でありながら対応をされていないことがよくわかります。また、なかなか現代の医学では治しきれないのが頭部外傷とか髄液労の影響です。労災で担当したことがありますので、どういうあやふやな状態の苦しさがあるのか想像をすることができます。あらゆる事情が妻を追い込んでいるけれど、すべての事情が解決に至っていないのです。

看過できないのは、精神科医の態度でした。もっともそのお医者さんがそういう態度を本当にしたのか、本人がそう感じただけなのかわかりません。はっきりとは言われないけれど、夫がストレッサーなので、夫と離婚しなければ治らないと言われたとその妻は感じたそうです。
多かれ少なかれ夫にストレスを持たない妻はあまりいないでしょう。ただ、こういうふうに原因を自覚できないまま不安が生じている場合、特に理由が複数ある場合に、夫に対する不満がもともとあったのか、病気などの要因で特に夫に不満を感じるようになったのか、夫に敵対的になったのかについてはとても難しい問題です。何でもかんでも不安の要素になってしまう段階になると、実際は心配しなくてよいことで心配していることも結構多いことも間違いありません。

それでも夫の行為が妻に心配をかけて、それで妻が苦しんでいるという側面があることも事実なのです。

妻が、「子どももいるので離婚はしない」とその精神科医に対して強固な態度を示したそうです。医師からは「離婚をしないのでは不安は無くならない。だから離婚をしないならもうクリニックに来るな。」と面倒くさそうな態度をされたと「妻は感じて」、それ以来もうそのクリニックには行かなくなったというのです。
面識はありませんが高名な先生だったので、それを聞いて私は驚きました。ここで私なんぞが言う話ではありませんが、生活上に差しさわりがあるから精神障害であり、治療をする必要があるはずです。それにもかかわらず、治療の効果がないから生活の一部を切り捨ててしまえというのは極めて乱暴な話です。例えば職場での明確なストレスがある場合、選択肢として退職という選択肢を持ったり、選択権を行使したりするということはありうる話です。しかし、家族の問題であれば、離婚を望まない妻に対して離婚をしてしまえということは、本末転倒なのではないかと思うのです。

ただ、そのお医者さんが本当にそういうことを言ったとしても、その理由はわからなくもない事情もありました。そのケースでは、夫が妻の不安と向き合わずに、自分のやりたいように行動して妻の不安を解消する活動を何もしないと妻が感じている事情があり、診察室の中で妻と向き合っているだけでは、夫の行動を改善しようがないからです。ただ、その医師が妻のすべての不具合を解消しなくてはならないわけではなく、様々な立場の人たちと協力して解決することが本来だと思うのです。自分の力だけで解決できないから離婚をしろと言うことはやはり傲慢に過ぎると思います。

夫が妻の心配に向き合わないで、自分勝手なことをする具体例をひねくりだしてみます。
例えば、株式投資をする場合です。妻は、既に、思い込みDVの要素が複数あり、不安を感じやすくなっているうえに、悲観的な考え方に支配されていました。その上、育った環境から、株式投資をすることはギャンブルと一緒だと思い込んでいました。夫の投資がどういう仕組みかあまりわかりませんので、ギャンブル性の高い信用取引を夫がしているような感覚で心配していたようです。貧困妄想も入って、全財産を失ったうえに莫大な借金ばかりが残るのではないかという不安を「なんとなく」感じていたようです。

先物取引や信用取引をしているわけではなく、堅実な投資をしているだけだと夫が思っているならば、夫からすれば妻の不安は妄想であり迷惑だと思うことでしょう。そんなありもしない妄想によって、せっかくの利殖のチャンスをつぶされたらかなわないと思うかもしれません。また、自分は何も悪いことをやっているわけではないので、行動を改める必要もないし、言い訳する必要もないと思っていたのかもしれません。

でも言い訳くらいはしてあげましょうよ。

どうせ妻に話してもわかってもらえないという気持ちもあるのでしょう。また、あたかも法律違反の行動をしているように騒ぎ立てる妻に対する反発もあるのかもしれません。

でも、言い訳くらいはして、妻を安心させようとしてあげましょう。

誰しも、家族や仲間で行動する場合は、自分の行動で仲間に心配をかけているときは、「仲間を安心させようとする義務」があると考えるとよいかもしれません。

その理屈を妻がわからなくても、一生懸命説明しようとしてくれるということで落ち着く場合もあるのだと思うのです。もともと思い込みDVを感じやすい要素がある場合はなおさらです。

奥さんは、本当に不安で苦しいのです。

そして妻というものは、夫に自分を救ってもらいたいという第1希望を持っているのです。

特に家族が孤立している現代日本の場合は、実際に妻は夫に不安を解消してもらうほか現実的な方法がない場合がとても多いと感じています。

妻に反対された夫の夢は、ただ単なる金銭的価値の収集ではなく、家族に良い生活をさせたいという思いも入っているのだと思います。妻から評価をしてもらいたいという思いが込められていることが実際は多いのですが、妻との関係では歪んでしまうことが多いというのも実務的によく経験しています。もしそうならばストレートにそういうべきです。実際の人間関係では、あと一言がいつも足りなくて不信感が大きくなるということを常々感じています。

それだけで妻が安心するならば、説明をしない理由はありません。しかし、それでも妻が不安を訴えたらどうするか。私は、それが悪いことではないとしても、勝算が十分あるとしても、妻の不安をあおらないために「やめるという選択肢」をきっちり持つべきだと思います。

実際に多くの夫たちが妻からの根拠のない不安という横やりのために、自分の夢を断念しているようです。しかし、案外それは悪いことではなく、後から考えると「やめといてよかったな」と感じることも少なくないようです。要はやめ方であり、考え方なのかもしれません。

それよりも何よりも、妻が少しでも安心してくれるということに価値をもう少し置いた方が良いのではないかと感じています。確かに病的に、やみくもに反対するので取り付く島がないという感覚はよくわかるのですが、安心させる努力をするということは、先ほども言った通り義務だと思うのですね。そればかりでなく、安心させようという態度を示してくれること自体が妻の不安を軽減することになると思うのです。

つまり、投資でお金を無くしてしまうという心配と、自分がパートナーとして尊重されていないという心配の二通りの心配を妻はしていると考えるべきだと思うのです。投資でお金を無くしてしまうという心配が無くならなくても、一生懸命に説明することによって、尊重されていないわけではないと妻が思えるならばそれなりの成果が上がるということなのです。

後は、夫婦問題は二人の問題や家族の中だけの問題で終わらないということをきっちり頭に入れておかなければなりません。

妻が相談した相談先では、妻の不安や焦燥感は、すべて夫の対応だけが原因だととらえ、妻に対して「あなたは悪くない。それは夫の精神的DVだ。」と言おうと待ち構えている人たちが多いのです。その相談先とは区役所の配偶者暴力相談センターだったり警察だったりという公的機関なのです。そこでは、「子どもを連れて逃げなさい」と言いかねない強固なマニュアルがあると考えておいた方が良いということです。

そうして、奥さんが、もう心配することにつかれてしまい、心が持たないということになれば、そういう誘いにふらふらと乗ってしまうこともあるということを忘れてはなりません。なんでも良いから不安を解消したい。不安を解消する方法があるなら飛びつきたいという心理状態なのです。

さらに、一度その誘いに乗ってしまうと、弁護士ががっちりサポートしてしまい、離婚やそれに伴い費用の請求をがっちりされてしまうということです。そうなってしまうと、もはや投資などをしている場合ではなくなる、経済的意味でも心理的余裕の意味でも、ということを頭に入れておいたほうがよろしいと思います。

妻子との共同生活は、不自由なことも多いし、こちらなりの不安もあるわけです。表面的には夫も幸せとは言えないのではないかと感じている場合もあるかもしれません。しかし、幸せは失ってみないとわからないということも真実です。おそらく、共同生活をしているうちは、このブログで何度も取り上げている子どもを連れて出て行かれてしまうという間違いのない不幸を想像することも難しいのだろうと思います。

家族が孤立している現代日本の状況は、逆に家族や夫婦の間に、家族や夫婦を破綻させることに何のためらいを持たない第三者が実に簡単に入り込みやすい状況だということは、離婚事件を担当しているとつくづく感じます。

私は警告をしました。



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むしろ苦しむために心があるという非哲学的説明 シリーズ2 [進化心理学、生理学、対人関係学]


私たち人間は、仲の良い人から裏切られたり、信頼していた人から冷たくされたりすると、心が苦しくなります。自分が攻撃されていても誰も助けてくれない状況があると絶望を感じる場合もあります。

これらは、すべて心の問題です。心が無ければ、苦しんだり不安になったりしないのかもしれません。
これから述べることは、もともと、例えば1000年前は人間には、そのような心は無かったのではないか。その後の進化の過程で心が生まれたのではないかというお話です。心が苦しかったり、不安になることは、人間が人間として生きていくためには必要なことだったので、進化の過程で獲得したということをお話しします。


人間の先祖とサルの先祖は共通の動物だと言います。大体6,7百万年前にチンパンジーと人間は枝分かれしたようです。チンパンジーだって、それからずいぶん進化したのでしょうから共通の祖先と今のチンパンジーと同じだということはできませんが、まあ、イメージとしてはそんなもんだということでよいと思います。

現代の人間が、寂しいとか悲しいとか、嬉しいとか怒りとか、そういう感情や気持ちが複雑に存在しているということに疑いを持つ人はいないでしょう。では現代のチンパンジーは我々人間と同じように複雑な感情を持っているのでしょうか。ある程度の感情はあるでしょうが、そう確かな話ではないのではないかというのが大方の感じ方だと思います。人間の先祖もそんなものだったと思います。

だから、前は持っていなかった感情や知能が、その後の進化の過程で人間には備わったのだということがイメージとしては持てることと思います。

そもそもは、感情や知能をもったのは、何らかの偶然、例えば突然変異だったのかもしれません。しかし、その感情を持つことが、生存競争を優位にすることができたので、種全体として感情や知能、心を持つようになったのだと思います。

心は人間が群れを作るために必要だったのだと対人関係学では考えるのです。

雑多なオリジナルの人間の中に
① 群れの中にいたいと感じる心を持った人間
② 群れから外されそうになると不安になる人間
③ 自分の所属する群れを維持していきたいと思う人間
   群れの仲間を守りたい(群れの頭数を減らしたくない)
   群れの中の弱い者を守りたい
   群れの中の権威に迎合して秩序を作りたい
という、こういう心を持った一群の人間たちが出現したのだと思います。

特に大事なものは②です。
まず例を挙げてみましょう。
A) ようやく獲物を取った。自分はとても腹がすいていた。仲間に分ける前に自分だけ先に食べようとした。しかし、食べようとしたら、みんなが冷たい目で自分を見ている。自分に攻撃をしようとするのではないかという厳しい目で見る人間もいる。弱い子どもが、自分を恨めしそうに見えている。
B) こういう状況を見たら、このまま自分が誰にも分けないで食べ始めてしまうということは大変まずいことが起きるような気がしてきた。不安になってきた。
C) だから、自分一人で食べるのをやめて、みんなで分け合って食べるように、食料を提供した。」
とまあ、こういう流れが、言葉が無い時代であっても、人間は群れの中で行ってきたのだと思います。そのような時代でも、教育というか、大人を見て育ちますので、どんなにおなかがすいていても、自分だけで食べようとすること自体がそもそもなかったものと思われますが。

Aの自分勝手な行動をしようとして、Bの群れから嫌われそうなことをしていると気が付くことによって心が苦しくなってしまう。だから、Cの心が苦しくならないように自分の行動を改める。心が苦しくなったら心を苦しくなくするために何らかの行動をしようとする。
こうやって群れを作ってきたのだと思います。

まとめますと、対人関係的な不具合を感じると不安になり、心が自分自身に警告を与えて、行動の修正をさせようとするという仕組みです。

これは体が痛みを感じる仕組みとよく似ています。

例えば足首をひねって捻挫をすると、足首が痛くなります。自分が足首を痛めた(捻挫=筋繊維や軟骨の部分的挫滅)をしたということがそれで分かります。痛くて歩きにくいため、歩くことをやめます。歩き続けてしまうと挫滅部分がさらに拡大していき、治癒までに時間がかかったり、捻挫以上の傷が生まれてしまう危険があります。痛い⇒けがをした⇒動かないという流れで、傷の悪化を防ぎ、傷を早期に治すことができるわけです。負傷部分が捻挫に至ったのかどうかということは、現代医学でも画像診断などでもわからないという意味では客観的には確定する方法がありません。しかし、そんなことができなくても痛みを感じて活動を控えれば重症化を防ぐことができるわけです。

「自分のこれからすることによって群れから追い出されるかもしれない」という将来的な因果関係を厳密に考えなくても、仲間の反応を見て不安になり、不安になって行動を修正して仲間の怒りを未然に防ぐことができれば、結果として追放をまぬかれるわけです。全く体の痛みと同じです。

脳科学者の中には、人類を作った自然は、対人関係の中の不具合の察知について、体の痛みのメカニズムを借用したのだという説明をする人もいます。

これは思考ではなくて心の役割なのです。このように群れを作るためには、心があることがとても有利だったのです。先ほどの例でいえば、仲間の冷たい目を感じることができる心を持った人間の群れは、食料を強い者だけが獲得することをしないで、弱い者にもまんべんなく行き渡らせることをするようになります。弱い者も栄養が行き届き、群れが強くなります。この反対に心のない人間ばかりですと、強い者が食料を食べてしまい、運がよくなければ弱い者には食料は回りません。そうすると、弱い者から栄養不足で病気にかかりやすく、死んでいくことになるでしょう。強い者だけが生き残っても頭数が減ってゆきます。群れは肉食動物の襲来にも弱くなりますし、獲物等の食料を獲得する確率も減っていってしまいます。心のある人間たちがの群れの方が、群れの力を発揮しやすくなるため、生存の可能性が飛躍的に高くなるわけです。

また、男性も、女性も、心を持って周囲と協調して生きる者を好ましく思えば、そのような心を持った人間を繁殖相手としたので、生まれてくる子どもたちは心を持った人間である確率がとても高くなったわけです。

これを裏から言うと、心が不十分な個体は子孫を作れないまま死滅していったということになります。

こうして人間は種として心を持つ動物となったのだと思います。

そうだとすると、人間は、心を使って、自分の行動を修正し、群れを維持させて種を生きながらえさせてきたのですから、相手の自分に対する「一定の反応」があると、人間であれば誰でも、多かれ少なかれ、心が苦しくなっていくものだということになります。心というものはそもそも苦しむためにあるものなのだというのはこういう意味です。

その一定の反応について、研究することによって、人を苦しめないで済む方法、特に苦しみすぎて起こる人間のさまざまな不合理な行動を回避することができるようになると思うのです。

但し、過去においては人間が心を持つことによって、自分の行動を修正し、群れ全体が幸せになる時代と、現代は条件が異なるということだけは理解しておく必要があります。心が生まれたころから今から数万年前までは、人間は数十人から100人余りの一つの群れで、原則として生まれてから死ぬまで生活を共にしていたということです。仲間と自分の区別もつかない状態ですから、基本的に仲間は、お互いが苦しむことに耐えられず、何とか助け合おうとしていたということが考えられます。これに対して現代は、家族、職場、地域等様々な群れに同時に所属するだけでなく、すれ違う人も含めて圧倒的多数の人間と何らかの接触をしてしまうという環境に激変しています。相手が人間だから、相手が顔見知りだからと言うだけでは、相手の利益を考えて自分の行動を修正するということをしないことも多いという重大な違いがあります。ひところで言えば、人間関係が極端に希薄になっているということです。心と環境はミスマッチの状態にあるということが大切な補助線となります。(シリーズ1をご参照ください)

さて、人間を苦しませる仲間の「一定の反応」というものがどういうものかということは、人間が苦しむ人間関係の紛争の事例の蓄積からだいぶわかってきました。

一つの切り口は、自殺予防です。どういう場合に自死を起こすかという原因を探求して、その原因を作らないということが自死予防の鉄則です。自死の原因という視点で自死を見て行けば一定の方向が見えてきます。

二つ目は、労働災害補償の文脈です。過労自殺、過労による精神障害の発症に関して、(ダイレクトな自死予防とは微妙に方法論を異にして)研究が進みました。

その他にも、離婚事件、いじめ事件等、人間関係の不具合は、苦しむ心の発動の資料の宝庫と言えるでしょう。

このような人間の紛争による心の問題の蓄積によって、「ある方向性」が見えてきたように思っています。
そもそも心とは、進化の過程で人類が獲得した群れを作るためのツールでした。心は結果として群れを作ることに役立ったわけです。つまり、「自分の行為から将来的な因果関係を分析し、検討して群れから追放されることになると考えた上で不安になる」というのではなく、一定の状況になれば自然と不安になり心が苦しだのです。その結果、群れを維持してきたわけです。
理論的には、
「自分が他者から仲間として友好的に扱われていない。」と感じた場合に心が苦しくなると、自分の行動を修正して群れを維持することができるわけです。
そして事例の蓄積から表現を微妙に調整すると
「自分が仲間として尊重されていない。」と感じた場合に心が苦しくなる
という仮説を立てることができると思いました。

自分が仲間として尊重されていないとは
仲間として見られるのではなく敵視されていること
仲間ならばこういう扱いをするはずだという期待を裏切られる扱いをされること
の二種類があると思われます。

先ほどの例で、弱い者から食料を奪おうとして仲間から白い目で見られるというのは、仲間から敵視されるということでしょう。
白い目で見られるだけでなく、実際暴力を受けること、ぞんざいに扱われること、行動を制限されることなど、敵対的な扱いを受けることは強烈な不安、ストレスがかかることになるでしょう。

これに対して食料を奪われそうになる方は仲間としての価値を認められていないと感じることになるでしょう。このほかに、差別をされているとか、自分だけ分配を受けないとか、健康を気遣われないとか、困っているときに助けてもらえないとか、原因がわからないときに自分のせいにされるとか、自分の評価を適当に低くされるとか様々な場合が不安、ストレスがかかる場合のようです。

いずれにしても仲間として尊重されないときということでまとめることがふさわしいと感じています。

付録として、誰からそのような扱いを受けると不安やストレスが大きくなるかということをお話しします。

自分以外の群れ全体から仲間として尊重されなければ不安やストレスが増大することは容易に想像がつくことだと思います。また、直接手を出しているのが少数だとしても、他の仲間もそれを是正しない、注意しない、さらに自分に対して援助の手が無いと言えば、受けるほうからすれば仲間全体が自分を尊重していないと感じることでしょう。これも心が強く苦しい状態、ストレスが強い状態と言えるでしょう。

それは群れの権威者の行動です。人間の心の3番目に、人間は群れの権威者に迎合して群れの秩序を形成したいとする心を持っていると言いました。群れの人間がそれぞれ別々に行動提起をしたり、勝手に行動をするとすれば群れを形成するメリットは何もなくなります。群れを作るための心として権威者に迎合して秩序を作るという心があるととても便利です。これはミルグラムは「服従の心理」という言い方をしましたが、私は「迎合の心理」という表現の方がしっくりきます。

但し、人間は、それほど根拠もなく、誰かを権威者として定め、その権威者に迎合をしたい心を持っています。権威者が自分を守ってくれるはずだという期待をしているわけです。そのような権威者から自分が冷たくされることは、自分の存在が群れにとって有害な存在だと感じることになるのですから、人間にとっては他の人間から同じ扱いを受けるよりも不安やストレスが大きくなるということです。

また、自分が大切にしている相手から、やはり仲間として尊重されない扱いを受けるとストレスが強くなるという傾向にあるようです。

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子の連れ去りは、警察、区役所をはじめとする役所が税金を使って不可欠な役割を果たしているということ 親権制度以上に深刻な問題がなぜ議論されないのか 連れ去りの本当の闇がなぜか語られない件 [弁護士会 民主主義 人権]


先日(令和4年6月26日)、フジテレビで共同親権についての議論が放送されました。櫻井よしこさんの言説は一部の隙も無くさえわたっていたといえるでしょう。しかし、それだけに伝えることの難しさを身にしみて感じました。つまり、子連れ別居の親子引き離しの闇はもっともっと深いと言いたいのです。これは、番組の論点とはずれるところです。ここまで言及してしまえば、肝心な情報提供もできなくなります。それはわかります。私が言いたいのは、共同親権になったところで、このような問題が放置されてしまうと日本の親子関係はさらに崩壊していくということです。

結論を言えば、連れ去り親子引き離しの最も重要な役割を果たしているのが国や地方自治体という役所だということです。ヒステリックな当事者の行為によってだけでは連れ去りは可能になりません。役所が連れ去りの不可欠の役割を果たしているという事実こそ国民に知らせなくてはならないことのはずです。なぜかこの点を強調する人が少ないということを指摘したいと思います。

<妻が相談する前から「被害者」と「加害者」が色分けされている>
例えば、日本という国は、DV相談を行った女性を「被害者」と公的文書で呼び、その相手を「加害者」と呼ぶのです。驚くべきことに、実際にDVが行われたかどうかということは問題にしていません。相談があっただけで裏付けの検討をせずに、相談者が被害者、相談者のパートナーが加害者と呼ばれるようになるのです。総務省の平成25年10月18日付の事務連絡文書で、日本語の加害者という意味で使ってはいないとはっきりと各自治体に説明されています。

この「加害者」という呼称は、警察署や区役所でも引き継がれて用いられます。

国がこの日本語と整合しない用語を何年たっても改めないということは、これは意図的な言葉遣いということだと評価されなくてはなりません。言葉が独り歩きをする流れを作っているのです。

<相談時>
あるケースでは、精神科クリニックを2件掛け持ちして、それぞれから統合失調症の薬の処方を重複して受けていた妻が、警察に夫のDVを相談に行きました。もしかしたら妻が言った暴力は実際にその妻が受けた暴力かもしれません。ただ、この妻は再婚をしていました。妻が受けた暴力は、当時の夫からではなく、10年も前の初婚の時の夫の行為でした。連れ去り当時の夫に暴力が無かったことは、裁判所で確定しています。妻の言葉は幻想による可能性があると裁判所によって正当に認定されたのです。

それでも警察は、妻の言葉だけで当時の夫が暴力をふるったということにしました。本当は暴力なんて振るわれていなかったのですから妻は、夫の元に帰ろうとするわけです。警察官は、夫の元に帰ろうとする妻を2時間かけて子を連れ去って逃げるように説得しました。「このまま一緒にいたら殺されることになる。」、「DVは一生治らない」と説得したとある報告書でその警察官は得意気に述べています。

その結果専業主婦だった妻は夫名義の預金を全部おろしたうえ、夫名義の借金までして、子どもを連れて出て行きました。その後子どもは父親に会えていません。経済的に夫の稼いだ結果である財産をすべて自由に使える立場の妻がDV被害者だという警察の認定は実にばかばかしいものです。ちなみに警察は、このような被害を夫から知らされても、妻を窃盗罪や横領罪で立件することをはしないとはっきりと夫に宣言しました。子どもからは引き離されるし、財産は一切保護されないし、夫は精神的恐慌に陥りました。

おそらく、役所にはDV保護の目標数値みたいなものがあって、DV保護をすることで評価が上がるということから、少しでもそれっぽいものをDVとして「保護」しようとする前のめりの体制ができているのでしょう。行政改革以来、行政は民間企業と同じような原理で行動するようになってしまっています。但し民間経済のように自由競争原理による売り上げの増加が目標ではなく、国民の税金で作られる予算をいかに自分の部署に多く配分を受けるかという目標を持たされているのかもしれません。

もちろんこのような行政の論理だけではなく、警察官になろうというくらいの人ですから正義感や、弱者保護の理念の旺盛な方々です。力弱い女性というジェンダーバイアスをかけられていて、女性が虐待されているという言葉が成立しそうだとなると、途端に正義感に火が付きやすいのでしょう。疑わしい点があったとしても、「ちょっとまてよ」という歯止めをかけることがなかなか難しいことには理由があります。私が言いたいのは、警察官に問題があるのではなく、このような職務上「正義」を求められている人たち、加害者と被害者に色分けしなくては職務が遂行しずらい職種にDVの有無の判断をさせる仕組みに問題があるということです。実際にはDVの有無を判断しないで行動をさせようとしているのです。

<夫が気が付いて行動をすると>

妻が突然子どもを連れて家を出て行くなんて、全く予想もしないことです。その日は突然起こります。誰もいない家に帰ってきた夫は、いつも通り妻の携帯に連絡を試みますが、誰も出ません。まず思いつくことは、妻は子どもを連れて実家に戻ったのではないかということです。夫は、妻子の安否もわからずに心配ですから、そこが他県であっても妻の実家に、仕事で疲れ切った体を奮い立たせていくわけです。そこで待っていることは、大勢の警察官に取り囲まれることです。実際に何人か数えた人はいませんが、あと少しで子どもに会えると思っていた矢先に、気が付くと何台かのパトカーに進路をふさがれて、わらわらと警察官が寄ってくるそうです。ものすごい人数に感じられるようです。

そのまま警察署に連れていかれることも多いようです。そこで、「二度と暴力を振るいません」という誓約書を書かさられた人、書かされそうになり「今後も」という文字を追加して書いた人様々です。これまで、いざとなったら自分の味方だと思っていて疑ったこともなかった警察が、自分を犯罪者扱いしていることを目の当たりにして、精神的にひどく動揺しない人はいないようです。私だって、こういう状況であれば暴力をふるってもいないのに暴力を振るわないという誓約書を書いてしまうと思います。

子どもの安否を確かめに必死になって他県まで行ったある人は警察官に呼び止められ、今度この辺を歩いたらストーカー警告を出すと脅かされました。ストーカー警告を警察署長から出されると言われて、平然としている人間はいません。それでも会いに行けば前科が付くわけです。公務員などは失職する事態まで考えなければなりません。

この実際のケースも暴力などはなく、公務員の夫が妻の浪費に対して注意しただけで妻が子どもを連れて家を出て行った事案でした。妻は、裁判所でも一貫して夫の自分に対しての暴力や虐待は主張しませんでした。浪費が裁判所にばれてしまうからでしょう。夫の子どもに対する虐待を離婚理由にしました。しかし、面会のたびに子どもは大はしゃぎしていますから、それも事実ではなかったことを子どもが教えてくれました。慰謝料の話は一切出ませんでした。このような事案でも警察官は、父親が子どもを心配して会いに来ることに対して、ストーカーだ、違法行為だと宣言して、子どもに会わせない行動をとったのです。どうして、子どもや夫の心配を犠牲にしてまで、この事例では自分勝手な妻の連れ去りを税金を使って保護しなくてはならないのでしょう。

この夫が公務員だったということもあり、また警察から犯罪者扱いを受けたということで、かなりのダメージを受けてしまい、精神的に妻子に会いに行こうとする気力がわかない状態になりました。うつになりかけていました。精神科治療で何とか持ちこたえることができました。仕事中の不注意も多くなり、この人もかなり大きなけがもしました。昨日まで楽しく一緒に暮らしていた子どもを連れ去られるということは、このような当たり前のダメージを受けることなのです。

元妻に、儀礼的な手紙を出しただけでストーカー警告を受けた事例もあります。転居届にあった「お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。」という文面が「義務なき行為を強制した」というのです。

子どもが二人いて、別居に際して父親と母親で、合意によって兄弟を別々に育てていたにもかかわらず、警察が父親を説得して父親が育てていた子どもを強引に手放させたという事例もありました。このケースも妻は一貫して夫の暴力を主張しませんでした。それでも警察は、何が何でもDV保護事案にしたかったようです。

荷物を取りに妻が家に戻ったときに警察官2名が同行して家に入り、話もさせない事例もありました。自宅に警察官が入り込むということは、とてもショッキングなことのようです。

まだまだ事例はたくさんあります。妻は、役所などに相談に行くと、すぐに警察を呼ぶように指導されているようです。現行犯逮捕されるような事例はこれまでは一件も聞いていません。
日本においては、連れ去りを成立させている多くの事例で、警察官が連れ去りを誘導し、子どもとの引き離しを完成させている事例が実に多いのです。裁判所の関与もないままに、警察官が妻の望むままに、強制的に父親と子どもを引き離しているということなのです。

警察は、一方の保護法益を守るということにはとても優れた機関であり、なくてはならない機関です。しかし、一方を保護すると他方の利益が害されるという民事紛争に介入することは鍛えられていません。被害者加害者の用語は、警察が本来の被害者保護の意識で行動しやすくしていると思います。だから警察が、一方の言い分だけで他方の利益を害し、精神的ダメージを与えるということは、制度設計に問題が明らかにあるということです。

<連れ去り後の公務員による暴言マニュアル>

その前提として、役所などの配偶者暴力相談においても、何の裏付けもなく相談を受けて、相談票に被害者として相談者の氏名、加害者としてその夫の氏名が記載されたカードを作成し、それが役所を超えて流通するわけです。

あるケースでは、連れ去られた子どもが父親の元に帰ってきました。連れ去り時にその子どもの保険証を妻が持って行ってしまったので、病院を受診できずに困ってしまい区役所に相談に行きました。区役所には、この夫はDV「加害者」であるという内部連絡があったようです。役人は、健康保険証に妻の住所が記載されているために夫が妻を探そうとして保険証を取得しようと思ったのでしょう、役人はマニュアル通り「あなたと話すことは一切ない。」と決然と夫に対して言い放ちました。これを読んでいる方々は馬鹿なんじゃないかと思うでしょう。しかし、役所の職員ですからそれなりの学歴もあるわけです。そういうマニュアルに従ったのです。子どもの不利益は、単なる夫の口実だ、DVの手段だとしか思えないように洗脳されていたということです。この話を聞いた私は、本庁に怒鳴り込んで、子どもの健康はどうでもよいのかと猛抗議をしました。そもそもこのケースは、子どもが妻の居住先から帰ってきて、妻の居場所が妻の実家だということは先刻承知なわけです。住民票上の住所が知られても何も弊害はありません。そうしたところ、役所が妻を説得してくれて、保険証を夫に預けて事なきを得たということがありました。弁護士がいなかったら、子どもは自費でしか病院にかかれず、結局早期治療ができない深刻な事態も生まれたことでしょう。

このエピソードは、日本のDV保護政策を象徴していると思います。つまり、あるかないかわからない妻の被害に「寄り添い」、妻の利益を確保することだけを優先しているわけです。単に相談をした被害者の夫と言うだけで、夫は妻を殺しかねない凶暴な男だと思い込まされているのです。被害者である妻を守ろうという正義感と、凶暴な男に体を張って立ち向かわなくてはならないという恐怖で、役人も葛藤が高まり、子どもの福祉をリアルに考えるという冷静な思考が停止し合理的な行動ができなくなって、マニュアル通りの行動をなぞるしかできなくなっている。これが実態なのだと思います。

これが横行するのは、夫の言い分を行政も警察もどこも聞かず、妻の言い分だけで被害者と加害者に色分けをしているところに原因があることが明白です。また、日本の夫の大多数はどこかの国のようにすぐに妻を殺すという凶暴な夫だけだという馬鹿な洗脳に染まりきっているということです。この結果、事実に基づいた適切な行動をすることができず、常に最悪の事態に備えた行動を行って、あとから行動を怠った批判をかわすということが主目的だということです。

これまで多くの事実が積み重ねられてきましたが、妻が夫の暴力があるということを言わなくても、警察は身体的暴力が無ければできない「保護」やそれ以上のことをやってしまっているということも重大な問題です。組織があればノルマがあるということでしょうか。

行政や警察という対立する当事者の間に立って双方に目を向けて物事を判断することが職務ではない人にそのような判断をさせる(判断をさせない)ことが構造的に問題があるということなのです。

<「正義感」を持つ裁判官は任務を果たせないという矛盾>

しかし、そのように対立する当事者の間に入って物事を冷静に判断する職務であるはずの裁判所においても、妻の不安定な精神状態を肯定して、一方的な判断をすることがないとは言えないように感じているところです。

これが大きな闇のもう一つの闇というか、もう一段深い闇なのかもしれません。
裁判所の場合もやはり正義感が冷静さを奪っているということと、それまで夫の保護の下で暮らしていた女性が孤立に直面しているという弱者保護の観点から、冷静な見方ができなくなるのだと思います。

つまりここでも「加害者」という用語が予断を与えているわけです。どこまで行っても加害者と被害者です。

あるケースでは、夫の月収が6万円くらいだと認定した裁判所が、婚姻費用として夫に月額4万円の支払いを命じた例はその典型だと思います。月2万円でどうやって生活しろと言うのでしょうか。できないことを命じても誰も得をすることはありません。裁判官の正義感も、実際にはこういうものです。とてもリアルな人間の生活には興味関心があるようには思えません。私には無茶苦茶にしか思われません。これが裁判所の人権感覚なのでしょう。

肝心なことは、こうやって国家、公共団体丸抱えで子どもの連れ去りを行っているのが日本という国だということです。これらの事案の圧倒的多数は暴力のない事案です。

それどころか、多くの事案では、妻の不安やイライラが、主として夫には関係のないところで起きているということを現場からはどうしても伝えたいことです。

そしてその一番の被害者は、自分の血を分けた親の一人が、何も裏付けなく暴力人間だとして色分けされて、自分に会いに来なくなったと思い、何とかその寂しい気持ちを合理化しないと生きていけない子どもたちなのです。独りの親を寄ってたかって攻撃するという構図は、それはやがて子どもにとっては、自分が攻撃されたという記憶にすり替わる危険をもっと考えなければならないと思います。

嫌な話、聞いていて気が重い話かもしれません。話している方は怒りに任せて書いているので、そうでもないのです。それに、タイミングが悪ければどこのご家庭でも家族崩壊は起きる可能性があると思っています。私は常に自分のこととして考えています。もっともっと実態についての情報を提供していかなければならないと思っています。



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