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面会交流で子どもが言ったことと矛盾することが監護親から子どもの発言として連絡が来るが、どちらも子どもの発言と把握してみることとが有益であるということについて 始まった面会交流を定着させて拡充するために考えるべきこと [家事]


子連れ別居からの離婚調停、婚費調停、面会交流調停が行われ、なんとか面会交流が始まり、当初は短時間でファミリーレストランでの食事だけとか、ショッピングセンターでおもちゃを買う程度という場合もあると思います。
 
 それでも、
・ 子どもが別居親と面会することを楽しそうにしている
・ 面会をしても別居親が同居親に攻撃をしないので、馴れてくる
という要素があると、次第に面会交流の時間も長くなり、もう少し自由にいろいろなところに行きたいということは、自然な流れです。

同居親が別居親に対しての恐怖や嫌悪感がそこまで大きくなくても、離婚なり別居なりに至ったわけですからかなり複雑な感情を持っています。子どもを積極的に会わせたくないし、子どもに会うことで別居親を喜ばせたいと思うわけはありません。

それでも子どもが楽しそうにしていると、もう少しのびのびと別居親に会わせてもよいかなと、ふらふらっと考えるわけです。
タイミングなどいろいろな要素で面会時間が拡大していくようになります。

例えばお昼をはさんで2時間の面会交流時間が10時から4時なんてことになると、ある程度の遠出ができるようになります。そうなると、それまで出てこなかった争いのポイントが出てきてしまいます。

つまりどこに行くかということです。

同居親は特に理由もなく不安になっていますから、このデリケートなところに配慮して、事前にプランを立てて了承をしておいた方が後々良いのです。しかし、プランが提示されるとそのマイナスの見通しだけが、同居親としては見えてきてしまいますのでいろいろと難癖をつけてくるわけです。

人込みはだめだとか、子どもにはまだ体力がついていないからアスレチックはだめだとか、遠すぎるとか。

別居親からすれば面白くないことは当然ですが、どうやら同居親というのは多かれ少なかれそういうもののようです。

別居親が男性、つまり父親である場合は、別居親はいろいろ連れて行きたい、盛りだくさんのサービスをしたいという気持ちになることが通常ですから、少し盛り込みすぎる傾向があることは否めません。子どもは、盛り込みすぎの弊害など考えずに楽しそうならば父親の提案に乗ってくるわけです。マイナスの見通しは頭に入ってきません。はっきりと約束をしてしまうとルール違反ということになりますが、今度はどこに行きたいという話題の中で、子どもと別居親は阿吽の呼吸で次回の場所の合意をしているような雰囲気が生まれます。

ところが、別居親が自信満々でお伺いを立てると、同居親からそのプランだと、「子どもは、疲れるから室内でゆっくりお話がしたいと言っている。」等の横やりが入るわけです。これは結構どこにでもあるパターンのようです。

そうすると別居親は、あの時子どもと楽しくプランを立てたのだから、それは子どもの気持ちではない、子どもはそんなこと言っていないはずだ等と感情的になってしまいます。とげとげした返信をしてしまい、面会交流の拡充どころか、一度拡充した実績を維持することもできずに縮小してしまうなんてことになるわけです。そのままフェイドアウトしてしまう危険もあります。これこそが離婚に至る過程を再現していることだからです。

確かに子どもは、自発的にそう言っていないことも多いかもしれません。同居親から、「疲れるのは嫌だよね。次の日学校あるし。」なんて聞かれれば、「うん。そうだね。」と不承不承頷いているというイメージは作りやすいものです。
しかし、少なくない事例で、子どもが自発的に、同居親に対して同居親が望む答えをしているということがありそうです。

これ、私も昔は子どもの気持ちを抑圧する悪い親の対応だと思っていたのですが、子育てが終わった今、少し考えが変わりました。

どちらも子どもの本音というか、自発的考えなのだと思うようになったのです。子どもの一番やりたいことは何かというと、これはもう、家族の中で自分が尊重されて生活したいということに外なりません。こういう本能があるから、子どもは大人のマネをして、自分の行動、思考に取り入れながら発達をしていきます。

別居親である父親と一緒にいるときは父親に受け入れられたいと志向しますし、父親の価値観に同調して時間を過ごします。その時盛りだくさんのプログラムを楽しそうにしていたことは本音で間違いありません。

しかし、同居親である母親と一緒にいるときは、同じように母親から尊重されたいと志向していますし、母親の価値観に同調しようとするわけです。母親の問題意識はその通りだなと思っているとしても無理はありません。

子どもは、近くにいる大人によって考えが変わってしまう発達段階にいるという可能性があるのです。

実態はわかりませんが、私はそう考えるべきだと思います。その方が子どもに対しても優しく向き合うことができますし、同居親と感情対立して、結局子どもが別居親と会う場合の自由度が小さくならないで済むからです。

また、別居親が父親の場合、どうしても「何か」をしようという意識が強くなってしまうようです。様々なアクティビティーを体験させようという気持ちになっているようです。

これも間違いではないのですが、子どもたちの本音を聞いてみると、アクティビティーは楽しいのですが、それよりも別居親の近くにいること、自分が大切にされているという実感を持てるほうを一番に求めているようです。どこかに行ったというよりも親と一緒にいるということが一番のようなのです。

親と一緒に暮らしていないという当たり前ではない状態にあるのだから、親と一緒にいるという当たり前の状態に自分がいると子どもが思えばそれだけでも幸せなことは当然だと思いませんか。

子育て終わってつくづく感じるのは、子育てに関して父母があんなに考えて情報を入手して、口角泡を飛ばして激論したとしても、
結局はどっちでもよかったんだな
ということなのです。

同居親と別居親という微妙な関係の中で面会交流が進んでいるときに、どうでもよいことで親同士が対立することほど子どもにとって迷惑なことはありません。大体子どもが矛盾した意思を示していることこそが、子どもであっても相手の意見を尊重しているという努力をしている、あるいは配慮ができているということなのです。それにもかかわらず、せっかくの楽しい別居親との時間を台無しにしないでくれと言う気持ちになることは当然だと思いませんでしょうか。

まあ、これは夫婦が別居しているか同居しているかにかかわらなく、どちらでも当てはまることです。その意味で、私も大いに反省しているわけです。

だから、別居親が考えなければならないのは、子どもとどこに行くという行く場所ではなく、子どもと一緒にいる時間を減らさないで増やしていくということだと私は思う次第です。

「子どもと長時間一緒にいて何をすればよいのだろう」というのは別居親が父親の場合、不安になることだと思います。父親としてよくわかります。

子どもにとってうれしい面会時間となるためには、年齢にもよるのですが、子どもが一人前として尊重されることのようです。

話を自由にさせる、さえぎらない、否定評価は極力しない

ということが子どもが安心し、嬉しい時間となります。あれが欲しい、これが欲しいというわがままをかなえてもらえば嬉しいでしょうが、それよりそれが欲しいということに共感を示してもらうことが大切だということのようです。どうせ同居親なんて、様々な日常家事で大変でしょうからあまり子どもの話を聞かないし、大人の価値観で話をさえぎったり、それはだめだで終わったりするようです。これに対して、話を面白がって聞いてくれる、友達の名前を憶えていてくれるということがあれば、子どもは生き生きと目を輝かせて話をし続けるでしょう。

子どもの心象風景や話に出てくる人物の心象風景を思い浮かべながら聞いていると、子どもは案外人をよく観察しているようです。面白いです。

ここで注意です。親が聞きたいことを話させるのではなく、子どもが話したいことを聞くということが一番大事です。いろいろ尋ねられることは、子どもは面倒くさくて嫌です。

もし、子どもが女の子であれば、幼稚園の年長くらいになれば、子どものやりたいことに積極的に付き合えばよいです。イニシアチブを子どもにゆだねてしまうのです。ただ、年齢が低いと、目で見えていないものに発想を飛ばせるということは難しい側面もあるので、やりたそうなおもちゃがたくさんあるような空間にいることが有利です。児童が遊ぶ施設で、ゲームがあったり、絵本があったりという空間であれば、子どもに任せるべきです。

男の子の場合も基本的には同じですが、少しこちらから誘導してあげるほうが良いかもしれません。

ただ、何もすることが無くなったら、子どもと一緒にいることがうれしいんだということを知らせるだけでもよいかもしれません。言葉で言うというよりも、笑顔で知らせた方が説得力があるようです。

冒頭にも言いましたが子どもとの面会時間が拡充するためには
第1には、子どもが楽しいということ。それは自分を一人の人間として尊重していることを示すこと、アクテビティに固執する必要はなく、一番は話を聞いてあげるということだと思います。

第2は同居親が、別居親と子どもが面会しても悪いことが起きないということを学習させることです。安心させることだと思います。この意味で一番やってはいけないことは、相手を否定することです。対立感情を子どもに関しては持ち込まないことが大切です。感謝の行動を忘れてはなりません。感謝の心は持てないとしてもです。




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【仮説】ありもしない虚偽DVの主張はミュンヒハウゼン症候群という精神障害の症状だったのではないか。無責任な寄り添いが共感・同情依存症の女性を作りあげる構造 [家事]

もう少し早く気が付けばよかった。

ミュンヒハウゼン症候群の実例と対峙した事例があり、昨年はこの事例に引き付けて物事を考えていたので、記事にはしたのですが一般化ができない状態でした。次の日に別事例でちやほやされたいあまり、夫を攻撃するという事例も述べていたのですが、きちんと結び付けては考えていなかったようです。

ミュンヒハウゼン症候群という恐ろしい精神疾患から説明します。

ミュンヒハウゼンとは、実在のプロシアの貴族であるミュンヒハウゼン男爵のことです。「ほら男爵」と言うとわかる人もいると思います。つまりミュンヒハウゼン症候群の最大の要素は、嘘をつくということです。

ミュンヒハウゼン症候群と代理ミュンヒハウゼン症候群という二つの類型があります。

ミュンヒハウゼン症候群とは、自分が病気であると嘘をつき、あるいは実際よりも重い症状があると嘘をつき、あるいは自分から病気になったり自傷行為をして、周囲の同情を勝ち取ろうとする精神障害です。周囲の同情を得るために、実際に自傷行為をしたり、検査物を他人のものとすり替えたりして、治療の必要性を作り出す行為をします。

代理ミュンヒハウゼン症候群とは、自分が病気になるのではなく、多くは子どもを病気にしたり、けがをさせたりして入院などをさせて、自分は懸命に看護をしてみせて、周囲から「大変だね」とか、「立派なお母さんだね」と言われようとする精神障害です。

厚生労働省の「子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について(第6次報告)」では、平成20年の4月から21年の3月までで、3人のお子さんが代理ミュンヒハウゼン症候群のために死亡していると報告されています。

しかし、実際はもっと多くの子どもたちがこの病気で命を落としていると思います。代理ミュンヒハウゼン症候群は、気が付くことが難しいからです。なにしろ多くは母親が何の責任もない子どもを危険な目にあわすのですから、「まさか母親が自分の子どもに害をなすことをしないだろう」と誰しも思うわけです。母親は、一番初めに容疑者から外れる人間です。

検体のすり替えが見つかるとか、傷害している現場を押さえるとか、動かぬ証拠が無ければ見つかることがありません。それだけ、医療関係者から見ても意外な犯人だからです。子どもの病状悪化が、人為的に行われているとは思いませんし、不可思議な病状の進行だと思っても、「まさか母親が子どもに不利益を与えることがあるなんて」という意識でいるわけです。

今Wikipediaを確認したら、最近はミュンヒハウゼン症候群は心的外傷を主張する例も増えているようです。また、代理ミュンヒハウゼン症候群では、子どもを傷害するのではなく、配偶者を傷害等するケースもあると記載されていました。

さて、虚偽DVとのかかわりですが、虚偽DVとは、ありもしない夫の暴力や暴言をあったかのように嘘をつくという現象です。裁判所で虚偽性が認められたケースもありますし、客観的な録音や写真から妻の虚偽が明らかになるので、妻の主張が虚偽であるとわかります。もちろん、それが虚偽だとわからないケースも無数にあり、「DV冤罪」という言葉もポピュラーになってきました。

虚偽DVがミュンヒハウゼン症候群の症状だというのは、自分がDVを受けている被害者なのだというアッピールをすることによって、他者から同情をされたり、あなたは悪くない等の励ましをもらうことが脳の報酬系を刺激し、多幸感を得てしまい、またそれを繰り返してしまうということだからです。

虚偽DVのケースの中にも、妻が隠れて不貞をしていて成就するために離婚をする手段として主張する場合や、とにかく離婚をしたいし、慰謝料などを有利に運びたいから主張をするという確信犯もいるのですが、虚偽DVを主張する中の一定割合に、不可解な虚偽DVの例があります。

初めから離婚を目的としていないケースです。区役所やNPO法人、人権擁護委員会の相談などに頻繁に出入りして、ありもしない夫の暴力や針小棒大の話をするのです。相談担当者たちは、妻の話を疑わないで同情をしてくれますので、とても心地が良いようです。ただ、相談担当者たちが、妻の話を真に受けて、「それは危険だ。ぜひ家を出て、離婚の準備をするべきだ。警察に行って夫を逮捕してもらうべきだ。」という話が具体的になってしまうと、用事があるとかなんとか言って、相談を打ち切り、しばらく連絡をよこさなくなります。
そんなごまかしが10年位前までは通用していました。

しかし、近時、相談が相談で終わることが難しくなり、すぐに警察に連れていかれて、本人が抵抗をしても家を出て行くように何時間かかけて説得され、子どもを連れて家を出て、行先をくらませるということを言われてするようです。身を寄せる先には保護命令の申出書の書式があり、弁護士が紹介され、保護命令や離婚申立てをしなければならなくなるようです。それでも本人はシェルター職員や担当弁護士から同情の言葉をもらいながらことが進みますので、やっぱり嘘でしたと言って、脳の報酬系の刺激をストップさせることができなくなっています。まさにアヘンのような仕組みです。どんどん離婚の方向に進んでしまうようです。

こういう虚偽DV申告は、まさにミュンヒハウゼン症候群の症状だということを今回言いたいのです。

ミュンヒハウゼン症候群は、自分を肯定されたり、気遣われることによって、脳の報酬系が刺激され、多幸感を得てしまうことによって、次の虚偽行為に進んでいくのではないでしょうか。

私が思い当たる事例は、女性が夫以外に自分を肯定する人間に恵まれない事情を抱えていました。

一人は外国人です。ヘイトスピーチが激しくなっている時期で、その対象となっている国から結婚目的で来日して見合いをして結婚した方です。同じような人たちの多く住む地域から、都会に引っ越し、夫に遠距離通勤をさせていました。夫と子ども以外に打ち解けて話ができる人もおらず、行政相談に行って同情の言葉を受けるということは、なるほど幸せな感覚になったことでしょう。本人は夫を嫌ってはいなかったのですが、警察では妻の話を真に受けて、夫を暴行罪で逮捕し(のちに不起訴)、大々的に報道がなされ、児童虐待のニュースが全国報道されました。新聞には大まかな住所まで書かれてしまい、子どもも学校に行けなくなりました。夫と子どもは被害者なのですが、妻の主張は警察主導で行ったことだということでしたが、こう考えると妻も、自業自得の側面はあるにしても被害者の側面もあったのかなと今回初めて考えました。

この人のほかにも
偉大過ぎる姑の陰に隠れてしまい、親戚や地域から独立した人間として扱われず疎外感を受けていた中年女性。
統合失調症と診断された女性で、自死未遂を起こして地元にいられなくなり、転居をしてきたけれど入院を繰り返し、周囲との交流を持てなかった若いお母さん。

等々、自分を肯定する相手が夫だけという環境の中で、第三者の大人、おそらく同性の自分より年上の人、立派な職業だと思う人からの、肯定、同情が何よりも幸福を感じるだろうという要素がある人たちだと思います。

さっき見たWikipediaで、かなり響く記述もありました。
「ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。」

気が付いたら離婚手続きに入っていたというパターンの虚偽DVの事案では、夫のDVに関しての主張はまさにこのような感じです。私は虚偽だから当然だと思っていました。

中には、つじつまを合わせるためか原稿のようなものを書いている人がいました。うっかり弁護士に見せたら、弁護士はそれを日記だと思ったのでしょうね。証拠提出をしてしまったのです。矛盾点がいくらでも出てきますので、夫側には有利な証拠でした。こちらの主張通り、裁判所が妻に幻覚、幻想があった可能性があると認定した証拠となりました。

この女性は、やはり本音のところでは離婚をしたくなかったようですし、信じられないことかもしれませんが、夫から悪い印象を持たれたくない様子でした。しかし、行政の機関の「DV⇒子の連れ去り⇒離婚調停」というコースに乗せられてしまい、夫がさすがに愛想をつかせたということもあり、結局離婚をして今は母子ともに行方が分かりません。

そういえば、別件で海外から日本に出稼ぎにきた女性が勤め先の経営者と結婚したのですが、言葉が不自由だということで孤立していたというケースでも虚偽DVが主張されました。これは周囲の民間人が、優越的感覚からその女性が金で買われるようにして嫁いできたのだろうという差別的な目で女性を見ていて、女性がDVを訴えれば待っていましたとばかりに支持的に同情の言葉をかけて、警察に通報し、海外の国へ帰る段取りをつけてしまいました。女性は別居するしかなくなったのですが、別居してからも、夫に対して好意を示していましたり、経済的に頼りにしていましたし、自分を美しく見せる写真を送ってきたりしていました。矛盾だらけの行動で理解に苦しんでいたのですが、ミュンヒハウゼン症候群だと思えば理解できることでした。

ミュンヒハウゼン症候群の症状としてただ同情や共感、肯定の言葉を受けたいだけの人、ちょっと考えるとつじつまが合わなかったり、あいまいな話をしたり、その時によって話をかえたりする虚偽DVの訴えは、弁護士が作成する書面で呼んでも一言で言えば胡散臭いのです。どうして虚偽だと見破れないのでしょうか。

確信犯的に、見破っても離婚をさせることが最優先で、訴えを良いことに離婚ルートに乗せようとする人は除いても、中立的な第三者ならおかしいと思うはずです。

これは一つには代理ミュンヒハウゼン症候群が見破られないことと同じだと思います。
「まさか妻が夫のDVが無いのに夫からDVを受けたとは言わないだろう」という思い込みです。しかし、これを見過ごしているために何人もの子どもたちが死亡しているのです。代理ミュンヒハウゼン症候群は、DVにかかわる人たちは意識をしなければなりません。訴えた本人も不幸になりますが、子どもが一番の犠牲者です。罪のない夫は、精神的に深いダメージを受けてしまい、廃人のようになったり自死をしたりという事例が少なくないのです。

虚偽DVに気が付かない原因の二つ目はジェンダーバイアスです。
つまり、夫は男性という属性から妻に対してDVをする生き物だという偏見です。これ、研修によって男性の職員も洗脳されているのです。こういう洗脳されている男性職員たちは自分だけは例外的にDVをしていないと思っているようです。ギャンブルで経済的に立ち行かなくなる人たちと同じ心理状態です。

虚偽DVに気が付かない第3の理由はノルマでしょうね。
女性保護の件数を上げないと予算が獲得できません。相談件数だけでなく保護件数が無ければなりません。DV事案を待ち構えているという心理になりますから、DVではないかもしれないという発想を持ちにくいのだと思います。

第4の理由は、マニュアルです。DVを受けた女性はつじつまが合わないことを言ったり、理路整然と話をしないことは当然であり、ここを批判することは「被害者に寄り添っていない」とされています。これに対して加害者は精神的に追い込まれていないから理路整然とものを話すので加害者から事情を聴いてしまうことはごまかしを積極的に受け入れることだから加害者から裏を取らないという運用もなされています。(実際は加害者は何らかの事情で追い込まれているからDVを行うというのことが正しくて、理路整然とした話など行いません。全くのステロタイプの思い込みにすぎません)ミュンヒハウゼン症候群の曖昧な言動を知っていてこのようなマニュアルを作成したとしたらば、虚偽DVでも離婚にもっていくという確信犯だということになるでしょう。

その結果、証拠もないのに、離婚判決が下されるわけです。さすがにDVを証拠不十分で認定できなくても、別居の事実と離婚意思が固いという、さも客観的に認定できると思われるところを認定して離婚理由が正当でなくても離婚を正当化したりしています。こんなことで離婚が認められるなら、離婚は好き勝手行えることになってしまいます。そこに子どもの利益は全く考えられていません。

また、祖母が孫を連れ去った事案では、祖母が娘が統合失調症であるということを様々なところで言いふらしており、いくつかの行政機関はそれを真に受けてしまい、単純な誘拐事件であるにもかかわらず誘拐に対して何ら対応しませんでした。警察も実に冷たく突き放しました。大体警察はミュンヒハウゼン症候群に限らず、精神疾患の知識がなく頓珍漢な行動を繰り返しているようです。言ったもの勝ちという状態が温存されています。複数の裁判所も母親に子を連れされる理由は無いという決定をしましたが、肝心の裁判所が決定を1年以上出さないまま放置されました。子どもは1年近く誘拐されて、その間通学することができませんでした。法が適正に執行されないために、子どもの将来にわたり極めて深刻な影響が生じたことになります。これが一つの裁判所とは言え、裁判所が行ったことなのです。

繰り返しますけれど、ミュンヒハウゼン症候群由来の虚偽DVは、本当は妻は離婚したくないし、夫の愛情を受け続けたいと考えています。しかし、あまり自分を肯定される機会に恵まれない孤立している妻たちは、冷やかしのようにして行った相談所で、自分を無条件に肯定され、同情されることによって脳の報酬系が刺激されるという経験をしてしまいます。この報酬系の刺激が途絶えることに恐怖すら感じるようです。同情共感依存症とでもいうような状態に陥ってしまうわけです。私はこのような支援ほど人を馬鹿にした支援は無いと思っています。自立して生きる力を自己満足で奪っているからです。関係機関は連絡を取り合っていますから、ここで実は嘘でしたというと、そのあと誰からも共感を示されたり同情をされたりという機会が無くなっていくということに恐怖や絶望を感じるということなのだろうと思います。やってはいけないことをやってしまう、やらないではいられないということがミュンヒハウゼン症候群の特徴なのではないでしょうか。

ちょっと考えればおかしいと思われる言動について、きちんと対応しないのは、子どもや夫に対して重大な損害を与える可能性が高いだけでなく、実は妻本人も依存症を深めて自立しない女性として作り上げられているという女性解放に逆行した行動であるということを指摘しなければなりません。妻自身を不幸に陥れていることにもなると思います。

そもそも、配偶者暴力相談という相談対象の限定された相談機関を作ること自体がおかしいと私は思います。女性の悩みも様々な要因から生まれるものです。女性対象の相談機関というものはどうしても必要なものだと私は考えています。しかし、一般的な女性相談機関が少なく、紹介される期間は可能性があるということだけで配偶者暴力相談センターに誘導されてしまえば、専門機関ですから出口は夫のDVを理由とした離婚に向けたコースしかないということもおかしな話です。国民はそろそろ気が付くべきです。





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中高生の生徒さん方に自殺予防のお話をする機会で、何を伝えるべきか 自殺、うつについての誤解 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


生徒さんに自死予防のお話をする場合、どのようなお話をすればよいかということで、例によって、記事を書きながら考えていこうと思います。

まず、自死予防とは何を予防するのかということをはっきりさせなければならないと思います。
最終的に死ぬことを予防するということは間違いありません。しかし、死にそうになってから「さあ、予防しましょう。」というのでは遅すぎます。予防が成功する確率も下がってしまいます。また、予防のためには、例えば精神科への入院など、「死なないことを最優先する」ということになってしまいます。

このため、もっと早い段階で、死にそうにならないようにするということが最初に考えられるべき自死予防であり、最も効果が高い自死予防になるはずです。しかし、不幸にして死にそうになってしまったならば、まずそのことに気が付いてできるだけ早い段階で対応をする必要がある、こういう順番だと思います。

死にそうになる段階というのは、自死リスクが高まっている段階です。

「自死リスクが高い状態」を、ここでは通常の心理状態であれば自死に向けた行為のきっかけにならないような些細な刺激で自死が欠航される危険のある状態としておきます。

自死が行われる場合、自死リスクが高い状態になってから自死を決行するのか、そのような状態を通らないで一つの衝撃的な出来事だけで自死をしてしまうのかというと、圧倒的に多いのは自死リスクが高い状態が存在してからだと思います。死の危険性が高まっても、直ちに自死することはなく、自死リスクの高い状態が、相当時間継続します。

この時間は千差万別です。数か月以上あるいはそれ以上自死リスクが高い状態が続いたうえで適切な働きかけができないでおいて亡くなってしまう場合もありますし、衝撃が大きすぎて数日単位で亡くなってしまったケースもありました。

ところで自死リスクが高まっているときの心理状態はどういうものでしょうか。
自死を途中で思いとどまった人の話を聞くと以下の特徴があります。
・ 死ぬことが怖くなくなっている。むしろほのかに明るいイメージを持つ。
・ これ以上生きていることが負担で耐えられない。
・ 何をやってもうまくいかないと思い込んでいる(第三者から見るとそうではない)。
・ 現在の苦しみは解決しないと思う(第三者から見るとそうではない)。
・ 自分は孤立している(第三者から見ると違う場合が多い)。
・ 比較的多いケースとして「自分は死ななければならない」と思い込んでいる。

悲観的傾向、二者択一的傾向、刹那的傾向、将来を見通すことができない、客観的な状態把握が難しい、つまり
「思考力が低下して理性的なものの見方考え方ができなくなっている状態」
というようにまとめることができるかもしれません。

このような心理状態になり、例えば誰かにからかわれるという出来事(普段なら笑って切り返していた出来事)だけで、「自分は死ぬまで孤立して過ごし回復することは無いのだ」という絶望を感じてしまい自死を決行してしまうということが起きてしまうわけです。

それでは、何が原因で自死リスクが高い状態となるのでしょう。これまでの調査で浮かんできた事情を列挙してみます。
・ 継続した人間関係のトラブル(パワハラやいじめも含む)
・ 元々あった精神疾患、あるいは人間関係のトラブルが原因の精神疾患
・ 様々な事情で起きる、物の見方考え方の極端な歪み
・ 薬の副作用
・ 脳の傷害
・ 睡眠不足
・ 精神疾患以外の病気
・ 慢性的な緊張感の持続(過重労働、無理な受験勉強)
・ 社会的評価が失墜するような出来事(犯罪を行い逮捕されるとか)

順番は今思いついた順番であり、特に意味はありません。書いていて気が付いていたのですが、複合的なことが多く、それぞれが原因と結果の関係が入れ替わったりします。例えば長時間労働があれば、睡眠不足になり、うつ状態になっていって自死リスクが高まることもあります。原因不明のうつ病によって睡眠不足が症状として出現し、自死リスクが高まることもあるという具合です。

どうやら、人間は、
「自分が構成員となる人間関係において、仲間として尊重されていたい
という希望を本能的に持っているようです。そして、自分が要求する仲間として扱いを受けないと孤立感を抱いてしまい、それがその人の能力に応じて一定以上継続してしまうと、精神的に破綻していくということが起こるようです。精神疾患や薬の副作用、あるいは睡眠障害によって、特に理由もなくこの
「回復不可能な孤立感」
を感じることもあるようです。

そして、複数の人間関係のうち、一つだけで不具合が発生しても、
全部の人間関係で孤立しているようなダメージを受けてしまうようです。
だから、どんなに家族が仲が良くても、例えば会社でひどい仕打ち、仲間として扱われない状態が続いてしまうと自死リスクが高まったり、友人関係が豊富でも社会的信用を無くしてしまうと自死リスクが高まるということが実際に起きています。

その人間関係がだめでも、家族はいつもの通り接しているのに、すべてうまくいかないというダメージを受けるようです。

ここは自死についての誤解がよくあるところです。自死が起きた以上、家族関係がうまくいっていなかったのではないかということを無責任に言う人がいますけれど、それは全く失礼な話です。遺族が苦しむだけのことなのです。

また、上に紹介した通り、精神疾患だけで自死リスクが高まるということが実際にあります。特に理由もなく、自分は警察に逮捕されて刑務所に入れられてしまうと考えてしまう人もいました。うつ病性妄想といううつ病の症状です。うつ病という精神疾患は、ただ苦しいだけではなく、人間関係に回復しがたいトラブルがあるという妄想を抱くことがあるようです。

精神疾患は隠れている場合もあります。強烈なストレスは、結構多くの場所に待ち構えているものです。そう考えると、あの人は強い人だから大丈夫だとか、この人は明るい人だから大丈夫と言うような、大丈夫と言うことはありません。誰にでも自死リスクが高まる可能性があると考える必要があると思います。

ここでも自死の誤解を指摘します。自死する人は心が弱い人、すぐに逃げ出す人ということがネットなどでは言われるのですが、自死する人は
責任感が強すぎる人
心が強すぎる人
能力があって、たいていのことはやり抜いてしまう人
という人たちが典型です。私のような無責任で、心が弱い人は、辛ければ逃げることができます。しかし、過労死する人は、自分の属する部署に会社のノルマが与えられた場合それはやり抜かなくてはならないと考えてしまいます。そして、同僚がそれに対して熱心に追求しない場合は、同僚の分まで自分でやろうとしてしまいます。そして、能力があるのでやり抜いてしまうことが何度かあるため、またやろうとしてしまうわけです。能力の範囲を超えたことをやろうとするため、強烈なストレスが慢性的にかかり、自死リスクが高まっていくという事例を多く見ています。

さて、では、私たちができる自死予防というものは何があるでしょうか。友達、家族、そして自分に分けて考えてみましょう。

友達
友達については、まず自分が友達の自死リスクを作らないということです。仲間として尊重しないということをしないということになると思います。簡単に言うと仲間として尊重するということですが、これはまじめに考えすぎるとキリがないことです。あなたにも家族がいるでしょうし、別の友達関係もあるので、特定の人間だけに全力を挙げて対応するということは不可能です。

ただ、攻撃しないということはできることですし、知らないうちに攻撃をしているということがあります。ご自分はそのつもりが無いのに、相手は傷ついているという場合ですね。キリがないと考える一つの理由もここにあります。

例えばクラスの中の友達の場合、つまりそれ以上の友達ではない場合、クラスのほかの人間と同じように接するということが大切だと思います。一人だけ情報が入らないとか、一人だけ嫌なことをさせられるとか、一人だけ呼び捨てにされるとか、考えようによっては嫌なニックネームで呼ぶとか、そういうことをしないということはできると思います。

また、その人がいかにも突っ込みどころと思われるような天然ボケをしたとしても、言葉がきつくならないようにということは気を付けるべきです。もしかしてもう自死リスクが高まっていて、些細なあなたの発言で自死をするということがありうるので、相手に対して失礼のない言葉遣いをするということは大切です。特に異性に対しては神経を使うべきだと思います。

ここでも一つチップスを紹介します。うつ病と言うと、もしかするとどんよりと落ち込んでいることが見た目で分かり、生気の無い様子も見ただけで分かるものだと誤解している方がいらっしゃるかもしれません。しかし、実際は、うつ病で多い初期から中等症の人たちは、自分がうつであることを隠そうとしています。ニコニコ笑っていたり、はしゃいで見せたりするということも実際は自分がうつであることを知られたくないからしている可能性があります。そして、そのごまかしはうつ病の人にとってはとてもエネルギーを必要とすることなので、かえって消耗してしまうようです。

案外気が付かないうちに、私たちは仲間にダメ出しをしようとしているということがあるかもしれません。相手の欠点、不十分点ばかりが目に付いてしまい、そしてそれを指摘してしまうということがあるようです。これを治すのは今のうちです。案外離婚で一番多い理由はこれなんです。今から訓練することは必ず将来に役に立ちます。また、そのような行動傾向があるのは、あなた方のせいではなく、社会的な問題だと思います。社会的な問題だと言っても不幸になってしまうのは自分たち一人一人ですから、自分の行動を点検してみることはお勧めします。

次に、誰かが誰かを攻撃して、孤立させた場合は、フォローをするということができることだと思います。
これは何も、攻撃した相手の首根っこを押さえて謝れと促すことだけではありません。

「今のはひどいね。」、「誰もそんなこと考えていないから、気にしないでね。」
と一言掛けるだけでも、かなり救われます。この一言が無かったので過労死になってしまったと思われる例がとても多いのです。

クラスで孤立して自死リスクが高まるパターンは、クラスの人間が孤立させないという声をかけることが一番効果があることだと私は思います。

どういう場合に声がけをするべきでしょうか。

もちろん暴力を振るわれたときが筆頭でしょうね。これは痛いから傷つくのではなく、自分が暴力を振るわれても仕方がない立場の人間だと思われているというところに深く傷つくわけです。
その他、否定評価がなされたとき、立場がなくなるようなとき、顔をつぶされたと思うときなどです。その人に何らかの原因があっても、自分は仲間として尊重しているということを伝えるということが大切だということです。誰もフォローをしないならば、自分がその場の人間全体から同じように思われていると感じてしまうということです。

なお、一人だけで何とかしようとするより、クラス全体で話し合って行動を考えるとか、場合によっては先生に告げ口をするということも含めて、可能な行動をとるようにした方が良いと思います。

家族
例えば兄弟がいじめられているとか、パワハラを受けているような場合、つまり自分の大切な人間が、自分と接点の少ない人間関係で傷ついている場合にどう接したらよいのかという問題があると思います。

これは大人の人たちに言うべき話だと思うので、皆さんにお話しするべきではないかもしれませんが、考え方だけ説明しておくことは何かの意味があると思います。

簡単に言うと、どこかの人間関係(学校、職場等)で、人間関係に不具合があっても、家ではどんなことがあっても家族として尊重するというメッセージを発することです。あなたは孤立していないというメッセージです。但し、はれ物に触るような扱いはかえって負担がかかります。本人が苦しみを見せているときは、そのようなメッセージをそのまま発してもよいです。しかし、本人がうつを隠そう、悩みを隠そうとしているときは、いつもと同じように接することが一番良いようです。

自分
自分の精神状態を客観的に知ることはなかなか難しいことです。少し弱ってきたら少し調整しようということは無理なことです。自分の環境を作っていくという発想が良いと思います。つまり、それでどうなるかはわかりませんが、仲間を仲間として尊重するということをむしろしていくということです。

つまり、仲間の欠点、失敗、不十分点を、笑わない、批判しない、責めないで、むしろ自分が助ける、補充するということをしていくということです。そして仲間が自分に何かをしてくれた時は感謝する。自分が何かを失敗した時は謝罪するということです。

そんなことでいいのかと拍子抜けをした方もいらっしゃると思いますが、実はそんなことができないのが人間社会のようです。どうしても仲間の失敗で、自分が不利益になることがあると、仲間を責めたくなるし、批判をしたくなるということがあります。必ずしも仲間を解消したいわけではありませんが、つい言ってしまうということが結構あるようです。

基本は自分を大切にするということでよいと思います。ただ、自分を大切にするということは、突き詰めて考えれば、自分が所属する仲間の中で自分が仲間として尊重されることなのではないかと考えています。人間はそういう時に幸せを感じていると思います。もっと大事にするべきは、自分が衣食住を共にする人間という意味での家族だと私は思います。

最後に、少し、青年期の自死にまつわることで、気になることを説明したいと思います。

第1に、インターネット、SNSの問題です。インターネットは、対面式のコミュニケーションではないので、相手に対しての思いやりが省略されてしまうことがあります。気が付かないで相手を孤立させることがあるようです。典型的なSNSは、簡単に一人を、そのグループで孤立させることができますし、そのことによって相手が苦しんでいることを想像することができなくなり、執拗な攻撃をしていることがあります。特に正義感から、相手を攻撃してしまうと、相手をフォローするものが出にくくなるということもあります。表現も過激になっていきますし、面と向かってならば言わないだろうことも言ってしまうということがあるようです。また、言葉から誤解をする場合もでてきます。わたしは、SNSは事務連絡にとどめた方が良いと思います。早く寝て、早く起きて、フレッシュな脳で体面で会話をする方が無難だということですね。

第2は、10代のうちは、気分感情がくるくる変わるということです。とても落ち込む出来事があっても、部活を熱心に取り組んでいるとか、仲間内でふざけていたとしても、落ち込んでいることは変わらないということが多いようです。落ち込む出来事があれば、明るい様子を見せていてもフォローをする必要がありそうです。

第3は、10代の自死リスクがかなり高度に高まった場合に見せる行動について説明しておきます。以下の特徴のある行動をとる場合です。
・ 手が付けられない暴力行為
・ 衝動的な行動
・ 自己に対する攻撃行動(自分を傷つける、自分のものを壊す等)

これ等の事情があり、原因がわからない場合は、心配をすること、大人を使って専門機関を探し当てることが必要になります。市町村や県の保健所に相談するという選択肢もあります。

さて、このように今日は自死予防のお話をしました。重い話になったかもしれません。
ただ、自死予防ということが、今まさに死のうとしていることを止めることだけではなく、むしろ主力は、自死リスクを高めないという方法なのだということは伝わったともいます。

その主要な方法は、自分も相手も仲間として尊重されているという環境を作るということです。相手の欠点、弱点、失敗を補い合うということ、欠点、弱点、失敗があっても仲間として尊重し続けるということは、人間にとっては本能的に幸せを感じることのようです。自死予防とは死ぬ人を無くすというマイナスからゼロを目標にしていたのでは達成できないことです。具体的にみんなで幸せになっていこうとするゼロの先のプラスを目指す活動なのだと思います。楽しく人間らしい活動だと私は考えていて、今日もお話をさせていただきました。

<考察>
大体授業一コマだと、少し長いですかね。長いというより要素を盛り込みすぎかもしれません。また、パワポが使えないということであれば、言葉とレジュメ的な資料だけということになりますね。まあ、要素は頭の中で網羅されたと思っていますので、聞かされている生徒さんの立場に立って後で検討してみましょう。



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施設入所=親子分離の裁判所の承認の判断要素となっている児童相談所の一時保護下における心理分析は客観的な分析結果とはなりえず予備知識と先入観で分析結果が変わる危険について 施設入所という親子分離が増加した理由は世論が怒りを利用して誘導された結果ではないかということ [弁護士会 民主主義 人権]


断り書き:私は特定の児童相談所の複数のケースの調査報告書を対象としていますので、全国的に同じ調査をしているか否かは実際はわかりません。仕事上現れた問題を指摘して、同じ問題がある場合に備えて問題提起をするという趣旨です。なお、宮城県児童相談所のケースではありませんので、念のため申し添えます。

まず、これから述べることは、児童福祉法28条1項の、親から児童を分離して、児童養護施設入所または里親委託の措置をとることにあたってのお話です。これに対して一時保護というものは、児童の安全の確保や調査などの必要性がある場合に児童相談所所長が決めることができます。但し、親との分離期間は2か月を超えることができません。裁判所の関与を不要としているのですが、国際的な批判もあるところです。

施設入所または里親委託は、他の児童相談所では例外もあるようなのですが、私が関わっている事件では、高等学校を卒業するまで続き、その間親子の体面さえも無い場合もありそうです。私が代理人になって、児相ではなく委託を受けている児童養護施設と協力して断続的に面会を実施したケースがありました。親の方は、身に覚えのない出来事を理由に施設入所が決まったために児相に対して感情的な対応を抑制できない状態となっていたし、トラウマのような心理的症状も見せていました。このような特殊事情から親子の体面ができなかったという事情もあるかもしれません。児相ばかりに問題を押し付けても何ですが、子どもを取られた親ですから葛藤が高まって持続する人間も多いと思いますし、それは他の事例でもそうでした。いわば児童相談所は葛藤が高まった人に対応をする機関ということになると思いますが、ノウハウはまるでなく、かえって親と感情的にも同じ地平で対等に対立していた様相もありました。

但し、子どもが高校を卒業するまで親子が顔を会わせないという危険のある処遇であることは間違いありません。

一方親子の自然な感情交流は人間が成長するために有益なものであり、子の福祉の観点からは親子が一緒に生活することが望ましいということが確立された価値観です。子どもにとっても、自分の親に問題があり、子どもと一緒に暮らしてはいけないと公的に評価されたということをしれば、それは精神的に打撃をうけることも間違いないでしょう。親が自分に会いに来ないということから自分が親から見捨てられたと思う子、自分は親から愛される価値のない子と感じる子どもたちもいるようです。自己評価が低くなる危険は高いです。両親が別居した場合の子どもの心理を考えれば応用がきくはずです。

自分や両親の意思に反して離れて暮らすということは、子どもの健全な成長にとって害を与える危険があるということはしっかり認識しなくてはなりません。

このため児童福祉法28条は、
1 保護者が、その児童を虐待し、著しくその監護を怠り、その他保護者に監護させることが著しく当該児童の福祉を害する場合
2 家庭裁判所の承認があること
という二つの条件のある場合は、児童の健全な成長などと言っている場合ではないので、児童相談所所長の申し立てによって親から分離して施設入所や里親委託をさせることとしたわけです。

どういう場合に1の要件に該当するか判例を調べたのですが、目を覆いたくなるような虐待の場合が多いです。理由のない暴力や性暴力、命の危険のある傷害といった強烈な加害行為があり、それによって子どもが身体的に傷ついていたり、反応性の精神障害や、発達上の問題があるケース場合が典型的な事案でした。また、特徴として子どもが学校に通学させられないというような事情も多く見受けられました。

命が亡くなったら、成長も何もありませんし、親に健康問題があり、親として感情に基づいた行為ができない事情があるため、このまま親と生活していたら人格が歪んでしまい、生きる喜びなんて感じられないだろうな、そもそも虐待死しそうだというケースであり、親と分離するデメリットを大きく上回るメリットが明らかにあるというケースだと思います。

さらにそういうケースだということを児相が判断するのではなく家庭裁判所という別機関が判断するということがみそでした。

さあ、問題がここにあります。

家庭裁判所は児童相談所と別機関だということが売りの制度ですから、家庭裁判所が児童相談所の報告書などの矛盾点をきちんと見つけだし、児童相談所の意見はともかくとしてもそれを裏付けるものが証拠として提出されていないということになれば、きちんと児童相談所の申し立てを却下しなければなりません。

児童相談所の主張をやみくもに信頼してしまって、承認の審判を出すだけの税金の無駄遣い機関にならないことが制度の命です。

これに反して決裁印を押すだけの機関に転落する要素はたくさんあります。

子どもを取り上げられる親は、現在多いのは何らかの病気があり治療を受けている、生活保護を受けている、過去において何らかの不十分な養育があった事実がある等、事情のある親が多いからです。

さらに、施設入所の前に一時保護を受けているのですから、それなりの事情を現に抱えており、理想的な養育をしているわけではなく、「子どもの長期的な心理面を考慮しなければ」、施設や里親の方が快適な生活を送れるだろうと思われる事案であると一般的には見える事案ということもあります。

つい、子どもにとって別の生活を与えたいと思うかもしれません。

方や児童相談所は県や政令指定都市の公務員であり、児童福祉士や児童心理士という肩書を持った人間たちです。この人たちが子どものことを思って申請するならば、報告を疑わないで承認してしまったほうが間違いがないだろうと思ってしまうのは人間かもしれません。法の番人である裁判官でなければということです。

また、裁判官は、認知科学や発達心理学、行動心理学についてあまり勉強をしていないようです。この知識を補うのは家裁調査官なのですが、家裁調査官に調査命令を出すのは知識のない裁判官ですから、事なかれ主義のいわゆる役人根性の強い調査官だとすれば、裁判官の知識不足を陰で笑いこそすれ、知識を補充する提言をするということはしないのかもしれません。そうでない調査官はもちろんいます。今でも立派な調査官の方々の顔が浮かんできます。名前はあまりよく覚えていませんが。

なぜ、裁判官に知識が無いかといことがわかるかと言えば、裁判官は児童相談所の職員が行った心理テストについて、評価することをしないということに気が付いたからです。

心理テストとは、ロールシャッハテスト、STCテストに代表される検査です。これが客観的に施行される、物理実験のようなテストだと思っているようなのです。

この心理テストには苦い思い出があります。労災でうつ病になった依頼者が、大きな病院の精神科で心理士の心理テストの結果、境界性パーソナリティ障害とされ、精神科医からそのような診断名を付けられました。これも大きな理由として労災が認められなかったという事案がありました。今にして思うと、その病院は患者の苦しみを取り去るために治療をやり抜こうという真摯な姿勢が無いということを今なら論証する自信があるのですが、当時は知識が不足していました。ただ、その事案でも著名な精神科医の先生にご協力いただいたのですが、うまくゆきませんでした。

まず心理テストについてですが、誤解と非難を恐れずに言えば、科学的なテストではない言うべきテストです。この意味は、誰でも同じ検査をすれば同じ分析結果になるというものではないという、再現性が無いテストだということを意味します。

例えば、ロールシャッハテストは、1920年にロールシャッハという医師が作成したテストで、紙にインクを落として半分に折りそれを開いて左右対称の抽象的な図形を作り、施行者が質問をし、被験者が回答をするという形で進められ、被験者の発語や発語回数などから被験者の心理状態を分析するというなんとも頼りないテストなのです。そもそも再現性がありようのないテストです。
また、その発言、発言回数、言い方などから、施行者が結論付けた被験者の性格に至った道筋について文章で説明せよと言ってもできるものではありません。それは、同じ流派の人たちであれば、こういう場合はこういう結果だと判断しろと言う阿吽の呼吸が伝承されていますから、流派内の人、特に師匠と弟子の間では言葉による説明が可能ですが、一般に向けた説明は無理です。どうしてそういう結論になるか誰も納得しないでしょう。「裸の王様」のようなものです。

特徴としては施行者の主観が入り込む余地がとても高いということがあげられるでしょう。

STCテストは、私は、冬の寒い日は・・・・・だ。の・・で示した空白の部分に言葉を書き込んで文章を完成させるというテストです。児童相談所で行われる心理テストでは比較的多く3割近い児童相談所で実施されているようです。
しかし、この空白の補充も、同補充すればどういう性格だということが一義的に出てくるわけはありません。やはり施行者の主観の入り込む余地が大きいテストです。

これを入社テストなどで行うことを問題にしているわけではありません。いやなら受けなければよいですし、それで採用に失敗しても自業自得ですから他人が批判する話ではないでしょう。

問題は児童相談所がこれをやっているということです。
要するに親の養育に問題があり、その影響で性格に偏りがみられるとか、発達上の遅滞があるとか、そういう判断をしようとしているわけです。それで、親子は分離され、子どもは健全な成長を阻害されるリスクを背負わされるということです。

おそらく、大半の方は、心理テストというのは、どこかにそのテストを専門的に行う機関とか専門家がいて、先入観無くてストが実施され分析がなされていると思っているのではないでしょうか。

全く違います。子どもを担当している児童相談所の職員が行っているのです。場合によっては長年子どもを担当している職員、親とけんかをしている職員が行っています。つまり、予め子どもに対する情報がインプットされている人が行うのです。心理テストなんてしなくても、ある程度分析ができているはずですから、改めての心理テストはいわばセレモニーとか裁判所に対する権威付けで行っているわけです。子どもの親に対する偏見があったり、子どもの親から罵倒されたりという経験があれば、分析結果に影響が出ない保証はありません。

心理テストの報告書からこれが明らかになってしまうケースもありました。つまり心理テストを実施しているのですが、心理分析の結果を記載しないのです。心理テスト以前に知っていた情報を理由として結論を出している報告書ですから、心理テスト報告書ではないわけです。それでも裁判官は、そのことに気づかないことがあるようです。ロールシャッハテストとかSTCとかいうちんぷんかんぷんなテスト名を出されると、それは客観的に行われて客観的な結論が関数のように出てくるテストだと勘違いをしている人もいるようなのです。知らないのに知ろうとしないわけです。

しかし、こういう心理テストは家庭裁判所では結構出てくるのです。児相の問題もそうですし、離婚の際の親権者をどちらにするかとか、面会交流の際にも、主観的心理テストの結果を踏まえてどちらかとは会わせないとか、少年事件で少年の処遇を決めるときにも心理テストが出てくる場合もあります。裁判所が心理テストのメリットデメリット、注意点を把握できないでは、家庭裁判所の裁判官としてはどうなんだろうという疑問がわいてきます。

さらに心理テストには問題があります。
それは被験者である子どもが児相で一時保護されているという環境を考慮しない場合があるということです。心理テストで、何らかの性格的傾向、行動傾向などが見られたとしても、それが親との生活で形成されたものなのか、親と長時間会えなくて、学校にも通学できないという状況を反映したものなのかわからないということですし、ある程度の年齢になればこの心理テストの結果親と会えなくなるということがわかりますから、それを警戒したり不安に感じている結果なのか考察をされることが無いということです。
この問題は常にあるように感じています。仮に子どもに何らかの問題が認められたとしても、その原因は親ではなく児相にあると解釈できる子どもの反応というものが、強引に親由来の問題だと分析されているという問題です。

また、問題は実はそれにとどまりません。
心理テストを低年齢の子どもに実施することの問題点です。例えばロールシャッハテストですと、この図形が何に見えるかというような質問をして、回答の数、所要時間、表現等によって深層心理を分析するわけですが、子どもには豊富に語彙があるわけではありません。そもそも図柄は何にも見えないただのシミです。子どもは漫画のようにデフォルメした図を好むわけですから、はっきり意味が通じる図柄でないと理解できないという発達上の問題もあります。その回答は深層心理の問題ではなく、子どもの認識と表現の発達段階の限界の問題である可能性が高いのではないでしょうか。そもそも7歳の誕生日を迎えたばかりの子どもの深層心理とは何なんでしょう。およそ発達心理学の知見もないのではないかと勘繰りたくなるテストが行われています。他者との結びつきにおいても、小学校入学前は一緒に遊んでいるようにみえても、同じ場所にいてめいめいに遊んでいることが多いそうです。人間関係が深くないというのは、同年代の子どもと比較してなのか、大人と比較してなのかわかったものではありません。

STCテストだって、小学抗低学年では、まさに国語の試験問題みたいなものです。文章を埋めることは大変なのです。能力的に負担となれば、適当に切り抜けようとすることは自分がその年ならやることです。また、空間に整序立てて書くことも、きれいな字で書くことも年齢によっては難しいことです。ここから何らかの心理状態を結論付けるなんてことができるとは思えません。

これ等の心理テストは大人が被験者であることを前提としたテストだと私は思います。

そもそも子どもには無理なテスト行って、何らかの心理的傾向を導き出そうということ自体が無謀なことだと思います。また、実際は心理士は、苦労して心理分析をしないで、こういう回答が見られた等という回答結果だけを報告し、心理傾向について報告しないで、先入観や元々あった情報で心理テスト報告の結論部分を書いているかもしれません。これは報告書を読めば簡単にわかります。

おそらく裁判官の中には心理テストの報告書を読まない人もいるのでしょう。実際に多少の知識をもって読めば、かなりいい加減な報告書もあるかもしれません。

税金をもらって仕事をしている裁判官は批判されなければなりませんが、弁護士も批判されなければならないかもしれません。心理テスト報告書など読めば批判は簡単ですからきちんと読んで、論理学的な技術をもって真実を見極めて批判をしなくてはなりません。それをしないで裁判官を批判することは、職務放棄だと思います。

ただ、施設入所を申し立てられる親御さんには経済的事情を抱えた方も多く、弁護士を依頼する費用が出せない方も多く、誰が熱心に取り組む弁護士かという情報からも疎外されている人が多いです。そう言う人が狙われているという感すらするほどです。大変悩ましいところです。それにしても、問題意識が希薄な弁護士が多いということも事実かもしれません。

弁護士だけの問題ではなく、国民全体の問題だということを最後に述べたいと思います。

児童相談所所長の28条申立は、極端に増加しています。平成元年は14件しかありませんでした。平成7年くらいになると36件、平成10年の65件まで増加していったのですが、平成11年は97件、平成12年から15年は百数十件、そして平成16年から平成21年は200件前後、平成22年から平成29年は二百数十件から300件の間ということになっています。

そんなに審判例にみられる虐待件数が増えたのでしょうか。もしそうならば、社会構造的に親が子供を虐待するようになった要因を探さなければなりません。しかし私はそうではないのだろうと思っています。要するに申立のハードルが下がったということです。しゃにむに多少判例の事案に届いていないが申立をしようということが本当なのではないかとにらんでいます。

一つには虐待に対する世論の味方が厳しくなったこと。同時に虐待を放置して児童が死亡することに対する児童相談所に対する批判が多くなったことが理由だと思います。

怒りは、単一の問題の所在しか考えることができなくさせてしまいます。つまり、虐待死を無くすという価値観です。それ自体は間違っていません。虐待死があってはならないということは当然です。

しかし、虐待死を無くすためにどんどん親子分離をするべきだということになれば反対ですし、それは子どものための議論ではなく、第三者の気持ちを落ち着かせようとするために当該子どもの健全な成長を阻害する結果になることだと私は警鐘を鳴らさなければならないと思います。子どもにとって弊害があるから、厳しい要件が満たされない限り施設入所などを認めないというのが法律と判例の立場なのです。そのことが、弊害の知識もなければ考察する余裕もないような正義感によって原則が取り外されそうになっています。その結果、成長に深刻な影を落とす児童が増え、自分を否定されたと感じる親が多数生まれ、結果として親と子双方の自死が起きているのです。

単純極まりない正義感は本当に害悪です。ただ、それはどうやら作られた正義感、誘導された世論ではないかという疑いが払しょくできません。テレビや新聞の単純な正義感に火をつける報道スタイルが誘導している印象があります。要するにテレビや新聞も、視聴回数を伸ばそうとするユーチューバーと同じ論理で国民に働きかけているように思えてならないのです。


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聴覚障害者の職場でのノーマライゼイションと対立概念としての差別 差別は差別しているという意識が無くても相手を苦しめているということ [労務管理・労働環境]


差別は人の心に深刻な影響、打撃を与えて、それが当然視されて温存されると、精神を破綻させてしまう恐れもあります。様々な差別の解消が、現在提起されています。大変良いことだと思います。ただ、どうしても私から見ると、声の大きい人たちの差別ばかりが取り上げられており、予算をかけて解消されようとしているような印象があります。私は、聴覚障害者の労働災害事件を担当したことを踏まえて、聴覚障害者が健常者に混じって働くために必要なことがまだまだあるということを痛感しました。このことについて述べたいと思います。
序 前提として障害の内容は千差万別
まず、最初に申し上げなければならないことは、聴覚障害者の障害の内容、程度は、各聴覚障害者によって異なるということです。Aさんは、同じ条件で聞こえていたのでBさんも聞こえるはずだとか、Cさんはこれが聞こえなかったのでDさんも聞こえないはずだとか、そういう「聴覚障害者」というひとくくりでは障害の内容は把握できないということです。
今回お話しするのは、具体的な一人を想定してのことですが、実際の方については、その人の状況をよくリサーチすることこそが一番大事だということです。
そして、その際には、聴覚障害者は、健常者の聴覚の状態がわからないので、何ができて、何ができないのかは、障害を持つ人にはわかりづらいということを理解する必要があります。まず、これまでの障害者本人の経験を踏まえて、自分で自覚している障害の内容を個別に聴取することが大切です。次に、日々職場で活動している中で、何ができて何ができないのかについて判明したことについて、職場と本人との共有をこまめにしていくということも大切だということです。
1 聴覚障害に関する誤解1 小さい音が聞こえないという誤解
  聴覚障害についての一番ポピュラーな誤解は、「聴覚障害というのは、小さな音が聞こえないのだろう。だから、大きな声で話せば聞こえるはずだ。」という誤解かもしれません。
  確かに聴覚障害という場合は、小さな音が聴き取りづらいということは一面の真理です。しかし、では、大きな音なら聞こえるかと言うとそうではありません。
  例えば、一対一で面と向かってお話しした場合が、一番聴き取りやすいようです。これと違うのは聴き取りにくくなります。極端に言えば後ろから話しかけられた場合、例えば車座になってめいめいがめいめいに話しかけているような場合は聴き取りにくくなるようです。話す方が、他の作業をしながら顔は手元に向けて障害者に話しかける場合も、話しかけられていることが分かった後でも聞き取りにくくなるようです。
  実はこれと同じ傾向は、健常者にもあります。何かの作業に没頭していて不意に話しかけられても気が付かなかったというご経験は誰しもあるでしょう。また、急に話が変わってしまうと話について行けなくなることがあると思います。ずっとお酒の話をしていたのに、前触れが無く突然天気の話に変わってしまったら「何か話しているな。」ということはわかっても、全く言葉が頭に入らなかったこともご経験があると思います。
  聴覚障害のある方は、この音が耳に入るが言葉として気が付かないということが健常者よりも頻繁に起こりやすいようです。
  人間は、音がしているという音をすべて耳を通して脳が拾ってしまっています。しかし、脳の中で、これは言葉として意味がある音、これは雑音と自然に区別して言葉だけに神経が集中しやすくなっているようです。そして、言葉の意味を脳で認識して、発言者の発言内容を理解するようです。
  聴覚障害者は、この区別がうまくできない人が多いようです。だから、視覚などでこの人がこちらに話しかけていると感じて、「よし意識して聴き取ろう!」と思って半ば意図的に区別をするという作業をして聞いているようなのです。どうやらここがポイントではないだろうかと思うようになりました。
  このことを示すエピソードがあります。デジタル補聴器とアナログ補聴器です。アナログ補聴器は、値段的には求めやすい補聴器です。しかし、雑音も言葉もすべてが音が拡大して聞こえるようになっている仕組みです。声も聞こえるのですが、その他の音も聞こえてしまうので、声が音の中にうずもれてしまう傾向があるようです。デジタル補聴器は、イコライザーが内蔵されており、主に声が拡大して聞こえるようにはなっているようです。聴覚障害者としてはデジタル補聴器を使う方が聞こえやすいことは確かです。しかし、デジタル補聴器は値段が高額で、何らかの補助が無いと片耳分だけで数十万円かかってしまうそうです。アナログ補聴器よりは格段に聞きやすいということですから、集団の中で働く場合はデジタル補聴器を使うべきですが、お金の問題が障壁になっているようです。何とか国の方で、合理的配慮をしてデジタル補聴器を求めやすくしてはもらえないかと思う次第です。
  ただ、デジタル補聴器にしても、聴覚障害者は健常者に比べて、言葉の意味を理解するまでに若干時間を多く必要とするようです。
  どういう場合に聞こえて、どういう場合に聞こえないかということは、一人ひとり違いが大きいようです。最初に一通り聞いて、あとは仕事をしながら発見し共有することが大切だということは前にも述べたとおりです。聞こえないという場合は、それを理解して記憶するように努めることが第一です。前同じような状況で同じ程度の音量で話したら聞こえたから、今度も聞こえるはずだという思い込みはくれぐれも行わないこと。自分の声以外の条件によっては聞こえたり聞こえなかったりするということがあるということです。例えば気圧も関係するかもしれません。もっと簡単には、他の音の状況に違いがあるかもしれません。前聞こえたときは、その部屋で聞こえる音は、話者の声だけだったかもしれません。聞こえないときは、別の人も話をしていたかもしれませんし、車が通っていたかもしれません。聞こえているはずだという思い込みが一番障害者を傷つけることになります。
2 聴覚障害に関する誤解2 どこが聞こえないか本人はわかるだろうという誤解
  はなはだしい職場になると、「聞こえなかったから聞こえないと言え」と聴覚障害者に対して冷たく当たる職場があります。この発言が無茶苦茶だということを理解することは、実は骨を折ることです。この発言には、論理的前提として、「聴覚障害者が、誰かの話を聞いた時、自分が聴き取ったところと聞き取れなかったところを自分で自覚しているはずだ」という考えが忍び込んでいるということです。自分が相手の言葉をよく聞き取れなかったということを知っていたのだから、聴き取れない部分について聞き返せということです。こう整理すると、なるほどひどい話だと分かるのですが、実際の例を挙げると、なかなか難しいことがわかります。誰かから事務連絡Aと事務連絡B、そして事務連絡Cの話を聞いたとしましょう。AとCの内容については聴覚障害者が聴き取っていて、上司に報告をしたとしましょう。Bの話は報告しませんでした。上司としては、AとCの話を聴き取っていたのであれば、Bの話も聴き取っていたと思うのはある意味自然のことのような気がします。あとでBの話もあったということを上司が知ったときに、当然部下の聴覚障害者に対して、「どうしてBの話の報告をしなかったの。」と尋ねることも自然な話でしょう。これに対して、Bの話を聴き取っていないということは実はありうる話です。Bの話がAの話とは全く関係のない話で、突如話題転換があったような場合、あるいはBの話をしたときに誰かが別の話をしていて同時に聞こえてきたような場合等、Bの話をしたこと自体を認識できない場合があるようなのです。この時、話があったということがわからないのですが、上司に対しては、何と答えて良いかわかりません。職場の中で聴覚障害の実例のフィードバックが十分に行われていないときは、自分がどうして聞こえなかったのかについて、自分でも理解できていないからです。すると、答えは、「聴き取れませんでした。」と言うしかないのです。本当は「Bの話があったという認識はありません。」と答えることが「正解」なのですが、Bの話が合ったことが前提として話が進んでいるので、正解を回答しずらい状態になっています。また、上司が「どうして認識できなかったのか。」という無茶な質問を素朴に行いますので、障害者は「聴き取れませんでした。」と回答せざるを得ません。そうすると、「聴き取れなかったことは、繰り返し聴いて確認しろ。」という無茶な指導を素朴に行うことになるわけです。
  つまり聴覚障害者は、話が、報告しなければならない事項を話されているのか、話のない「間の状態」なのかを区別できない場合があるということなのです。
  職員間において、部下である聴覚障害者から上司に報告してもらいたいということはあると思います。できるだけメモを作って渡しながら説明をするべきです。あるいは、最後に3点の報告をお願いしますと言って、復唱させるなどの方法をとるべきです。これは、聴覚健常者どうしでも伝達ミスを減らすためには有効だと思います。
3 聴覚障害者を困惑させる職務慣行と意識
  聴覚障害者に対して合理的な配慮ができない職場の体質というものがあります。業務の繁閑ではなく、その職場の慣行、体質というものが、結構長期間にわたって継続しているようです。
  例えば、複雑な基準で対応を変える場合、社長と常務が来室した場合はお茶を出すけれど平取締役にはお茶を出す必要が無いとか、取引先のこれこれにお茶を出すけれどこれこれには出さないなんてことは、一回聞いてわからなくても当たり前のような気がします。特に聴覚障害者に対しては、口頭で説明したから、その通りやらなければ叱責するということではだめだと思います。音で聞いてもなかなか理解できないところだと思います。そういう、上司の勝手な「基準」「ルール」は、きちんとメモを作って部下に渡すべきです。
また、取引業者や顧客に対しての対応の場合は、定型的な聴取をする場合などは、聞き取り票を作り、最低限必要な事項はチェックや単語の書き込みとして、メモを完成させやすくするなどの工夫が必要だと思います。これも聴覚障害者に限らず職場のミスをなくすために効果的だと思います。
  また例えば、聴覚障害者は、言葉の意味を理解するまでにタイムラグがあることがあります。そして、よくわからないのに自分なりの解釈をして回答をしてしまう場合もあります。いわゆる打てば響くという状態にならないことが頻繁にあります。迅速な処理、迅速な対応が当たり前の職場では、予想外にレスポンスに時間がかかるとイライラしてきます。さすがに舌打ちしたり、遅いと怒鳴りつけるということは無いと思いますが、案外待っている間に眉間にしわが寄ったり、声が高くなったりすることがあるようです。
  このようなイライラがあると、障害者に問題が無いところでも障害者の部下を攻撃しようとすることが出てきたりします。あまりイライラを自覚できないようですから、別の部下なり同僚なりにチェックしてもらうことが有効です。あるいは、聴覚障害を持つ部下に対しては、上司と聴覚障害者だけのやりとりだけでなく、上司の補助者を置くということも有効です。イライラしだしたら補助者が引き取って、上司に変わって説明をするという方式です。この方式は、できる限りすべての職場で行われるとよいですね。聴覚障害に限らず、新人教育などでも、パワハラ防止に有効だと思います。
  いずれにしても、聴覚障害者が何ができて何ができないかということを常に点検し、理解を共有するということが第1です。次に、聴覚障害があっても、自分たちが合理的配慮をすることで、障害者が自分の持っているパフォーマンスを職場で発揮できるようにするという使命感を持つことが第2です。これを常に持ち続けていると、怒りやイライラはだいぶ収まります。この二つが無いと、いつの間にか聴覚障害が無かったことにされて、健常者と同じ条件で評価しようとして、障害がないかのような行動を要求してしまいます。そして障害が無いかのような無茶な要求が実現しなかったことに怒りやイライラを持ってしまうという悪循環に陥るようです。この2つは、放っておくと無くなります。定期的に点検をして、共有をすることが必要だと思います。
  また、本来職場というものはそういうものだという意識を持っていくことは、取引先や一般市民を相手にする場合にもプラスになりますし、本当の意味での永続した生産性向上を保障するものだと思います。一番弱い者を守るという意識は、人間らしい好ましさを周囲にも印象付けますし、自分たち同士の結束にも役に立ちます。
4 健常者の中の聴覚障害者の孤立
  今述べた、二つの人間らしい態度をしない場合は、聴覚障害者にとって過酷な職場となります。つまり、聞こえたはずなのに聞こえないと言っている「ずるい奴、卑怯な奴」という意識をもって扱われたり、レスポンスが悪く、口頭で説明したのに覚えが悪いという意識を持っていたら、聴覚障害者の些細な言動でもイライラしてくるものです。まじめに仕事をしていないと感じたり、ちょっとしたミスをしてもしつこいくらい叱責したり、あるいは言わなくてもいい「馬鹿」とか「なにやってんだ。」とか「言い訳するな」とか、端的に「卑怯な言い訳をするな」とか言ってしまうきっかけになってしまいます。典型的なパワハラを行うきっかけになってしまいます。だんだんと不真面目な仕事の取り組みをして、言い訳ばかりする部下だという気持ちになってくるわけです。周囲指導することは上司の責務であるし、正義の観点からも許せないという気持ちになりますから言動が厳しくなることを抑制することも難しくなります。
 パワハラの被害を受ける労働者は、常にその労働者に落ち度があるわけではありませんが、ミスが多かったり、反論をしないことをもって攻撃しやすくなって攻撃をしてしまうということがあります。障害を持っている人たちは、攻撃されやすいと言えるかもしれません。もちろん障害を原因に叱責しているという意識を持つ人はいません。正義とか合理性とか社会的常識を理由にした感情形成なのです。致命的な話としては、そこでは障害が無かったことにされているということです。
 障害者から見れば、どうして自分が叱責されているかわかりません。このために、「実は障害に対してイライラしているんだ」ということには気が付きにくいのです。できて当然のことを自分ができないので叱責されているという意識になることが通常です。健常者に対するパワハラも同じ構造で自分が悪いから叱責されていると思い込まされています。イライラからつい言ってしまう、「馬鹿」とか「何やってるんだ」とか、「まじめにやれ」という言葉は字面通りの意味として受け止めてしまいます。障害に対してイライラしているだけなのに、自分が人間的な問題で上司から疎まれている、嫌われているという意識になることは当然です。上司から嫌われているということだけで、人間は職場全体から嫌われているという受け止め方をしてしまうものです。
 上司だけでなく、同僚も障害に無理解の場合は、同僚も上司からの障害者に対する叱責やパワハラに共感してしまいます。誰も上司を止めようとしないことが起こりますし、さらに上司の叱責の後で「ひどいよね。」とか、せめて「大丈夫?」とかいう人間も現れないことが多いです。上司が無理解であれば、部下に理解を促す人がいませんので当然でしょう。さらに職場全体から嫌われているという気持ちが強くなる大きな事情です。不思議なことですが、通常であれば「部下がミスをしたからと言って、上司は部下の人格を否定する言葉を発してはならない。」という意識を持てるのですが、聴覚障害によってミスをして仕事が遅滞したり、同僚が自分が変わってやらなくてはならないなどということが重なれば、「上司がそのようなことを言ったのは、その人がミスをしたから仕方がないと思う。」等ということを平気で言うことが多いのです。パワハラの同僚に対するアンケート調査なんてそういう恐ろしい発言のオンパレードです。
 そもそも聴覚障害者は、同僚と交わることが苦手です。前に言った通り集団で雑談をすることができない人が多いからです。自分以外の人たちが打ち解けて話しているなということはわかるのですが、自分はその中には入れないというあきらめの気持ちを多く持っています。
 会社ですから、全体に向けて話さなければならないことも多いと思います。一対一で話治すということができないこともあるでしょう。そういう場合でも聴覚障害者に対して顔を向けて話して、健常者には話だけ聞いてもらうなどの工夫が必要だと思います。また、補助的に聴覚障害者に対して個別に説明をする人を配置することも検討するべきです。
 日本は、安倍内閣の時に障害者差別解消法という法律を作って、障害者に対して合理的配慮をすることによって、差別を解消し、障害者の社会参加を促そうとしています。ところが、肝心の職場の合理的配慮が、公的な職場においても極めて不十分な状態です。障害を持った方々は、健常者に混じって働くことによって、精神的に深いダメージを受けることがあるようです。かえって仕事をすることによって精神的に傷ついている可能性があるのです。
 もっと障害者の研究が行われるべきです。どういう障害があり、その障害をカバーするためにはどうするかという研究です。そうして、障害があることを克服できるような体験をもっともっと共有するべきです。
 もう一つ言わせていただくと、差別とは、違いを理由に攻撃しようとして攻撃する行為だけではないということです。障害があり、その人に言っても不可能なことを強制してしまうこと、その結果相手が困惑してしまい、どうしようもない状態にされてしまい、そしてその場の人間関係の中で孤立してしまい、仲間として尊重されることが不可能だと思わせられる、そういう結果が生じることが差別なのだととらえなおすべきです。
 そうして、弱さを持っている人間に対しても仲間として尊重していく、そのためにはどうしたらよいかという知識をしっかり身につけるということが差別のない人間関係なのだと思います。そしてそれは、障害者だけでなく、仲間全体に居心地の良い空間を作るし、仲間全体を無駄に苦しめていることを排除し、全体の目的に役に立つことであることを勉強しました。報告します。


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