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① 人間が群れを作ることができた最大のツールは「心」であること。 ② 当時極めて有効だった「心」が現代で苦しむ原因は、心と環境のミスマッチにある  中島みゆき「帰省」に寄せて シリーズ1 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中島みゆきさんの歌に「帰省」という歌があります。詳しくはぜひ聞いていただきたいのですが、都会の中に生きることの不自然さというか「人間としての無理」が彼女らしい表現で歌われているように感じます。その中に、「人は多くなるほど物に見えてくる」というかなり毒の効いた一節があります。詩人のものの見方、とらえ方、そして表現に感銘を受けました。対人関係学の言いたいことを一言で言えば、そういうことなのです。

群れを作って行動する動物というのはいろいろありますね。水族館で見るイワシの魚群は光を浴びるととてもきれいで、一体の竜が泳いでいるような統一感もあり、見惚れてしまいます。馬も群れで走ると迫力があり、あの地響きのような蹄の音は心を動かされてしまいます。渡り鳥のV字隊列は、不思議なほど見事です。これらの群れの行動の原理はよく知られています。

イワシは群れの中に入って泳ごうとする本能があるということで、これを各イワシが行っていると結果として竜の魚群が形成されるそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうで、それぞれがこの本能に従って走り出すと、スピードが上がり肉食獣から結果として逃げることができるわけです。鳥は、風圧を避けて飛ぶことから自然と圧が一番低くて楽に飛べる位置をキープしてあのような隊列を結果として組んでいるとのことです。

では、人間はどうやって群れを作っていたのでしょう。

約200万年前になると、人類は、群れを作り、群れで小動物の狩りを行い、群れで肉食獣から身を守り、群れの中にいることで安心して血管の修復などがなされていたようです(概日リズム)。群れが無ければ人間は生き残れなかったということになると思います。

群れを作ったツールがほかならぬ「心」であると対人関係学は考えます。
つまり
・ 群れの中に居続けたいと思う心
・ 群れから外されそうになると不安になる心
・ 群れの秩序を守ろう(権威に従おう)とする心
これらの心を本能的に持っていたから、人間は群れを作れたのだと思います。

これらの心がどのようにして人間の本能に組み込まれたのかについてはわかりません。突然変異か何かで、このような心を持った一群が生まれたのでしょう。そしてこのような心を持った一群は、他の心の不完全な一群よりも生き残る確率が高く、かつ、男性も女性もこのような心を持った個体を繁殖相手として選ぶ傾向にあり、その結果人間という種はこのような心を持った生物種として確立したのだと思います。

これは200万年前の人間の環境には、良いことづくめだったと思います。当時の人間の群れは数十人から100人ちょっとというのが一単位であり、生まれてから死ぬまで同じメンバーであったし、まさに運命共同体で頭数が減少してしまうと自分の命が危うくなるという関係にありましたので、群れの仲間を自分と同じように大切にしたことでしょう。というか、他人と自分との区別があまりつかなかったのだと思います。みんなが群れにとどまりたいと思っていたし、群れの自分以外の個体も群れにとどまりたいのだと理解していたわけです。その結果、利益は等しく分配され、むしろ弱い者ほど手厚く扱われたのだと思います。極めて不完全な赤ん坊も群れで育てることができたのだと思います。理性的にこのようなことをして頭数を確保しようとしたわけではなく、たまたまそういう心を持っていたために環境に適合することができて生き残ったということです。

このような心が無ければ、人間は現代まで生き延びなかったはずです。

その心にとってのパラダイスのような環境から、約200万年後の世界が現代です。あたかも心があるために、人は傷つき、あるいは他者を攻撃しているような印象さえ受けます。これはどういうことでしょうか。また、人間の性善説、性悪説なんてことも言われています。これも視野に入れて考えてみましょう。

結論から先に言えば、ここで中島みゆきさんの「帰省」なのです。
つまり、人間の心は、せいぜい数十名から100名ちょっとの仲間、それも一つのグループの利益を大事にすることにはとてもよく適合しているのですが、それ以上の人間たちを平等に考えることには対応していないということのようです。また、グループ間の対立があると、どうしても自分のグループに肩入れしてしまうので、他のグループと対立してしまうきっかけが生まれてしまうようです。

人間同士のかかわる環境に、人間の心、つまり脳が対応できていないということです。だから、人間が多くなると、だんだんと「物」に見えてきたり、自分を攻撃する「肉食獣」に見えてきたり、自分のエサの「小動物」に見えてきたりしてしまうということなのです。200万年前から進化が止まってしまった心が現代社会の環境にうまく適合できていないということから、「環境と心のミスマッチ」が起きているという言い方ができると思います。

現代社会において人間は、特定の他者を唯一絶対の仲間であるという尊重ができなくなるわけです。しかし心は200万年前から変わっていませんから、現代においてもなお人間は自分が唯一絶対の仲間の一人として尊重されたいと思いますし、尊重されなければ心の性質として、仲間から排除される心配がこみ上げてきてしまい、心が傷ついてしまうわけです。

性善説、性悪説という言い方はあまり機能的ではないという言い方が正確だと思います。人間は、200万年前は、善を施すだけで一生を終えることができたのだと思います。みんな仲間ですから大きく敵対しあうきっかけもなかったはずです。むしろ一番弱い者を守ることによって群れを守るということに必死だったはずです。法律も道徳も必要が無かったと言えるでしょう。ところが、農耕が開始され、人間がかかわりを持つ人数が増えて群れが複雑化すると、自分や自分たちを守るために、他者を傷つけ他者の利益を奪うということも生まれてきたのだと思います。道徳だけでなく、法律という明文のルールを作る必要ができてきたわけです。また、宗教も生まれたのだと思います。

本来人間は、他の群れと共存していくことが脳の構造上得意ではなかったはずですが、強い群れが弱い群れを支配する形で大きな群れを形成していき、他の群れとの関係で群れが大きいことのメリットを感じたのでしょう。群れ同士が共存できることが、その外の群れとの関係で圧倒的に有利だったので、共存の方法も獲得していったのだと思います。

これが理性です。

理性を働かせて、人が人を支配しなくても共存ができる人間社会を作るのか、自分と自分たちのための利益のために他者を傷つけて他者から利益を奪い、人類を滅亡させるのか、おそらくそいう岐路に人類は差し掛かっているのだろうと思います。

根本的な社会システムを理性で作り上げることも大切ですが、対人関係学は、自分が自分の周りとの関係をどう理性で築いていくかという方向の検討を行う学問を目指していっています。

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真の連れ去り防止は、安心して楽しい夫婦の生活を作ること。夫の妻に対する言動の間違いリスト 女性は男性に比べて夫婦関係について原因がないのに不安を感じやすいという仮説に基づいて考えてみた。男女は決して対等平等ではない。 [家事]



できれば前回の記事と合わせてお読みいただくと何を言っているのか理解しやすくなると思います。

前回は、離婚は、というか子どもを連れて突然の行方をくらます形の別居は、一つ二つの直近の夫の行動が原因ではなく、それまでに夫が原因とは限らない原因で離婚に踏み切りやすい精神状態(離婚飽和状態)が妻に生まれていて、些細な夫の言動をトリガー(きっかけ)として起きるのだということ、そのために連れ去り別居を防ぐためには離婚飽和状態を作らないことが肝心だということを述べていました。

一つは夫の日常の言動が、他の精神的問題や他の人間関係上生じていた不安と相まって、離婚飽和状態の形成に一役買う場合もある、もう一つはいつもと同じ言動が離婚飽和状態になった後ではトリガーになるということでした。

何をすると離婚飽和状態になる方向に向かい、あるいはトリガーになるのかということを予め検討しておくと、その言動をしないことができます。しかし、それがわからないと、日常の言動が知らないうちに連れ去り別居に近づけている危険があるため、これまでの実務経験からできるだけ具体的に問題のある夫の言動をあぶりだそうというのが今日の記事です。

まず、夫の言動がどうして離婚飽和状態を形成するのかということです。
妻は、夫の言動の積み重ねによって、「自分のことが自分で決められない」という不自由感、非拘束感を抱くようです。さらには、自分に対する評価が低いこと等から、「自分は夫婦という人間関係に安住できないのではないか」という不安感を抱くようです。これらの感情を起こさせる事情が継続してしまうと、不安感、閉塞感、解決不能感を感じるようになってしまい、とにかくこの不安などから解放されたいという気持ちが形成されてゆき、解放されるなら何でもよいやと言う気持ちになってしまい、思いついた行動を抑制することができなくなってしまうということが起きるようです。

夫の言動が、妻から見れば、「自分が対等の仲間として扱われていない」、「仲間として尊重されていない」という感覚を与え続けてしまうということにまとめられると思います。

=離婚飽和状態を形成する夫の言動リスト=
<それ自体が直ちに危険な言動>
・ 離婚、別れる、終わり、出て行けという発言
・ 子どもや第三者の前で体面を傷つけること、不貞
・ もちろん暴力、特に妻にとって理由が理解できない暴力
・ 妻が危機的な状態にあるのに救済せずに放置すること
・ 逃げ場のない状態に追い込むこと

<継続すると危険な言動>
・ 家庭内のことの決定システムについて、妻の感情よりも、合理性や損得を優先してしまうこと(妻の意思決定の否定)
・ 妻の感情よりも、自分の体裁を優先してしまうこと
・ 妻や子よりも、自分の公的な関係を優先してしまうこと
・ 妻の感情よりも、社会的ルール、正義感を優先させること(最終的に社会的ルールを優先することよりも、妻の感情を即時否定すること)
・ 妻の言動に対して、肯定を表明しないこと

<危険な言動をしてしまう夫の誤謬>
・ けんかにおいては夫婦は対等・平等だ 
・ 同じことを相手もしているので、こちらもしてもよい
・ 妻が原因を作っての反撃には再反撃できないはず
・ こちらに原因が無い場合には、妻が自分に不機嫌な様子を見せてはらなない
・ 家庭の中でも不合理な提案は却下されるべき 合理的な案が優先されるべき
・ 家庭の中でも感情よりも合理性や正しさが優先されるべき
・ 男子たるもの妻の機嫌を取ることは情けない

=解説=
<それ自体が直ちに危険な言動>
直ちに危険な言動がどうして危険なのかについては特に解説する必要はないと思います。逆に言うと、こういう言動が、仲間として尊重していない言動の典型であって、人間としては耐えられない言動だということです。

特に暴力については、その場で直ちに恐怖がみられるだけでなく、何年か後になって実はその影響が持続していたことがわかり、本人すら自覚がないうちに精神状態が悪化していたということがあります。夫の言動だけで精神悪化が生まれたか否かは不明としか言いようがないのですが、その暴力が無ければ不可解な精神症状は生まれなかったはずだと感じられる事例をいくつか担当しています。

そして、何らかの妻の先行行為に問題があって、夫の感情の爆発が予想される場合は、身構えますし、因果関係がわかるのでまだよいのですが、妻からすると「どうしてここで暴力を受ける。」という理解不能な場合には、防ぎようがない暴力を受けたという無意識のレベルでの学習をするようで、夫に対してむやみやたらに警戒するようになってしまうようです。こうなると夫の実力以上に夫に対する恐怖感や不快感、嫌悪感が生まれやすくなるようです。

この類型の言動があれば、離婚飽和状態が十分に形成されていなくても、離婚に踏み切るトリガーになりやすいようです。また、一つ一つの出来事が、直ちに離婚原因として主張されることが多いです。

自分の窮地を救わない、放置されるという離婚原因は、東日本大震災の際にみられました。地震の時に一緒にいなかったということそれ自体が不信感の原因になるようですし、家族であれ、友人であれ、自分以外の人間の面倒を夫が見ていたという事情が、やや病的なまでの離婚飽和状態の形成の原因にもなりました。

<継続すると危険な言動><危険な言動をしてしまう夫の誤謬>のセット解説

1 職場の価値観を家庭に持ち込まない(合理性優先は家庭には当てはまらない)
  このことに男女差があるのかないのかわかりませんが、現状は男性側の問題として多く気になっています。企業の中の価値観を家庭に持ち込んでいるのです。極端なことを言えば、「話し合いは結論を出すためのツールであって無駄話はしてはならない。」みたいなことを言い出したら、夫婦は崩壊するというか、家族という意味合いが無くなります。おそらくこれは賛同いただけるのではないかと思います。
 それから、費用を切り詰める方法があるにもかかわらず、だらだらと不合理な行動をすることは不道徳の極みだとでも言わんばかりに、妻の行動を批判しだす夫も多いです。それでどのくらいの金額が削減できるのかわかりませんが、妻がストレスを抱くようになって、勝手に高額のランチに行ったりすれば元も子もありません。まあ、それは冗談ですが、結局、それがそんなに重要なことなのか理解できない場合は、どうして自分の行動が否定されたのか理解できません。そうすると、自分は何をやってよいのか悪いのかわからなくなってしまうのです。これ自体が不自由感を抱くことであり、こういうことが継続すると支配されているような感覚になっていくようです。
 どうでもよいと割り切れるところは、相手を否定しないということを意識するべきです。夫婦再生を目指していて、割と妻の精神状態に理解のある人でも、妻側の出してきた計算書について、計算方法や項目の挙げ方に目くじらを立てる人がいるのです。私はその人のそれまでの妻に対する寛容な態度とは異質なものですから、「この点をある程度鷹揚に考えることができるならばあまり細かいことを言わないほうが妻にとっては圧迫感を感じないよ」と言い、「もしかしたらお仕事の関係で無意識に合理性やルールを優先してしまっているのではないですか」と尋ねたところ、はたと気が付いて、「そこは、指摘しなくてもよいです。」というやり取りが普通にあります。特に、お金の関係する業種、職種の人に多いです。一種の洗脳されている状態ですから、次に別の出来事があっても同じ思考傾向を持ってしまいます。また私も同じやり取りをしないとなりません。これは大変恐ろしいことだと思いました。
 とにかく、目の前の損をしないために全力を挙げる人が多く、そのために将来的に大きなものを失うことになるということを考えない人がほとんどのようです。私がここで偉そうなことを言うのは、自分がきちんとできているというのではなく、そういう離婚事例をたくさん見ているからです。

2 任せたことは否定評価しない。(男子厨房に入らず)
 だいぶ前にこのブログで述べたのですが、戦前の男子は出された食事に文句を言わないとか男子厨房に入らないとか戒めを以て、調理を任せた人を尊重したものだとお話ししました。これは別に調理に限定した話ではなく、夫婦で役割分担をした以上、相手のすることに文句をつけないということがその意味するところです。
 いまだに地方の中小企業(役所を含む)なんかは「ほうれんそう」をありがたがって唱えていますが、それは労務コンサルの立場から言わせてもらえば、企業活動の縮小にしかつながりかねない重大なデメリットを持っているのです。
 この習慣が家庭に持ち込まれているのかもしれませんね。
 いずれにしても他人に対するコーチングというのはノウハウと寛容の心が必要であり、安易なダメ出しはパワハラにしかなりません。それはご自分も職場で嫌になるほど経験していることだと思います。

3 妻を最も大切な人間として最大限の尊重と尊敬を示すこと
  間違っても、「私の愚妻です。」なんてことを他人の前で言ってはいけませんよ。現在は平等、民主主義の世の中にかわったからです。昔これが違和感なく受け止められていたのは、夫と妻の関係ではなく、夫と相手の人間関係が平等ではなく、経済外的に相手に服従する(悪く言えば)人間関係だったからです。
それから、家で男子厨房に入らず等、戦前の男子は女子に対して最大限の配慮を示し、子どもの前で尊敬を示して見せていたからです。今はその信頼関係もないのですから、普段尊敬を示していないくせに、妻を貶めるようなことをよそで言っては瞬時に離婚飽和状態を形成してしまいます。
 なお、現代日本は、家族が孤立しているというこれまでにない家族形態をしています。夫の両親との同居はデメリットもありましたがメリットもありました。例えば夫が家に帰らないで、公的な活動を優先したとしても、家の中で話し相手や夫の悪口を共に言い合う仲間というか、妻の淋しさに共感を寄せる相手もいたわけです。しかし、現代の孤立過程においては、一方が家庭をかえりみない場合は、もう一方は子どもの世話をしながら一人ぼっちで時間を過ごさなければなりません。現代日本では、妻を一人にすることは大変危険なことになっています。孤立感はすぐに発生しやすい状態になっていると言えるでしょう。
 仕事で帰宅が遅くなる人は少なくなっていましたが、友人関係を大切にする余り、家庭をおろそかにする人もいるようです。そこに女性がいれば妻は当然に不信感を抱きます。家庭と仕事以外の部分で、妻と共有できない時間はなるべく作らないほうが結婚を維持するという観点からは無難だと思います。
 妻がバーゲン品しか買わない、スーパーでも割引商品のワゴンに真っ先に向かうということがあっても、自分の給料が低いことを馬鹿にしていると思う必要はありません。楽しそうにしているならば、それくらいやらせてあげればよいと頭では理解しましょう。
 まあ、結婚した時、お互いに相手を最大限尊重するというようなことを言って信用させて結婚したのだから、何年かたったら期限切れなんて言うことは断固許されないということなのでしょう。

4 男女は対等平等ではない。
  実際は対等平等なのですが、心構えとしては、対等平等として考えないほうが良いという意味です。
  対等平等や正義というのは、突き詰めれば、報復の正当性の根拠となるものです。ひらったくいえば他者を攻撃する際の言い訳です。
・ 相手が自分をこういう言葉でからかったから、自分も同じ言葉でからかってよいのだとか、
・ 妻が自分に対してこういう言葉を言ったから自分は怒ったのであって、多少大声を出したり物にあたったりしたとしても妻は文句を言えないはずだとか、
なんというか、子どもじみた対等平等は考えない方が無難だということです。
例えば、「妻が夫を反射的に小突いたから自分も小突き返したのだ」ということを言う人がいます。「私が暴力をふるったのではなく、妻と対等にもみ合っただけだ。」という人もいます。まあ、実際は妻の方が手加減がきかない状態で危険な暴力をふるうことも実際には少なくないのですが、第三者との間では、このような対等の主張は通用しません。
これまでけんかにおける暴力の対等平等がありえない理由が、男女には筋肉量の格差が存在するため、そもそも対等平等の条件が無いという説明でした。しかし、離婚飽和状態の理論からすると、この理由付けは修正が必要であるようです。
 つまり、女性の方が一般に暴力による精神的ダメージ(自分が仲間として尊重されていないというショック)が深く、かつ、持続するからということが正しい理由となると思います。特に出産後の女性に対してはそうなるようです。こういう意味でも、男女は対等平等の関係にはなく、古来のレディーファーストをはじめとする女性優遇措置は、このような法則を経験的に把握していて、こうすると円満な人間関係を構築できるという人類の知恵だったということに気が付くべきでしょう。
5 妻の言動にはこまめに肯定を示す。
  離婚飽和状態形成の原因となることが女性の間ではよく知られている「肯定をしない男」ということを、男性はあまり理解していません。男性の立場からすると、自分の言動に対して相手から文句を言われないなら肯定されていると感じやすいのではないでしょうか。しかし、女性は、肯定をされなければ不安になるようです。あまり気づかれないことですが、こういうところにも男女差があるようです。
でも、そう大それた肯定が必要なわけではなく、花が飾られていたらきれいだねと言ったり、作ってくれた食事がおいしければおいしいねと言ったり、何か提案があってどうでも良いことでも「どうでも良いことだ」と言わないで、「賛成」と言っておけばよいのですからそんなに大変なことではありません。
女性は不安を感じやすいということがキーワードです。男性とはやはり違うのだと考えた方が実務的だと思います。

6 女性はこちらに理由がないときでも不機嫌にしてもよい特権がある
 対等平等だとすれば、道徳的に考えれば、こちらに原因がないのに不機嫌な態度を見せることは失礼なことだということになろうかと思います。
大体は八つ当たりと考えてよさそうですね。しかし、正論で割り切れないのが家族という人間関係だということでよいのではないでしょうか。不機嫌には理由があるのだから、理由の解消に貢献するべきだという考えの方が建設的ではないでしょうか。つまり、不安を感じてしまうと不安を解消したくなる。不安を解消するために、不機嫌な態度を示したり、相手を攻撃したりするということが、一時的に不安を感じなくて済むことなのです。女性の場合は不安を感じやすく、感情コントロールできない事情があるとするならば、これを無視して非難をしてしまうと、そこは心休まる場所ではなくなるような気がしないでしょうか。
女性は「不機嫌でわがままなことがあっても、攻撃されない」という特権があると考えた方が無難だということになりそうです。その時は気にするそぶりをするのは良いとして、本当に気にしなくても良いのです。こちらに原因はないのですから。
思うに、このような理不尽な状態を耐えるのが、古からの男性の役割だったようです。古今東西の文学作品や芸術作品はこの男性の苦悩を描いていると思います。ギリシャ神話や古事記、「源氏物語」や「竹取物語」もそのような視点で読み直すと見えてくるものもあるように思われます。アナトール・フランスの「にんじん」なんていう作品はその最たるものではないでしょうか。また、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェ、トルストイの妻ソフィア等有名な悪妻は多いものです。しかし、実は悪妻ということではなく、単にしたたかさやあざとさとは無縁の女性らしい女性だったという可能性もあると私は思っています。

 最後に最も大切なことを述べます。いつも述べていることですが、こちら側も完璧を目指さないということが一番大事です。3割くらい実現すればだいぶ楽しい、安心できる家庭が生まれるのだと思います。7割失敗しても、「ああ今失敗した。」と気が付くことの方が有効だと思います。そして、失敗後のフォロー、修正能力こそ、大切なのだと感じています。

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共同親権より大切なこと わが子の母の感情をわが身を捨てても肯定する覚悟をもてるかどうかということ 思い込みDVからの子の連れ去りの原因と対策のまとめ [家事]



法務省提案の共同親権制度は、原則単独親権(名ばかり共同親権)となるだろう選択的共同親権制度の提案でした。それでもぎりぎりとはいえ、悪い方の想定の範囲内でした。それよりも、「共同親権」という言葉がついているからか、これに対して嫌悪感を示す人たちが存外少なかったことは想定外でした。これではこのまま現状維持が確定することになるのでしょう。

ただ、私の基本的スタンスは、子どもを片親にしないためには、法律や裁判所に何かを期待していてはだめなのであって、とにもかくにも家族関係を強化して連れ去られないことが一番だということでした。初心にもどるために、改めて考えを整理したいと思います。

先日、自死が起きる場合には、自死の直前で起きたことが主たる原因で自死するというよりも、「自死の段階では通常はそれが自死の原因にはならない些細なことでもきっかけになって自死してしまうほどすでに自死リスクが高まっている状態にあったからだ」という記事をアップしました。
「自死リスクとは何か 自死のトリガーとの関係 自殺の直前に亡くなられた方の意に添わないふるまいをしたからと言って、それが自殺の原因だとはならないという意味  自死予防で本当に必要なこと」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-06-10

DVもないのに、DVを主張して子どもを連れ去り、離婚に持ち込まれるのも、同じ構造があるということが、実務的感覚です。

つまり
「離婚リスクが高い状態」(離婚飽和状態)
     ↓
「離婚のきっかけとなる出来事」(トリガー)
     ↓
子の連れ去り、裁判手続き

という流れがあるということです。だから離婚飽和状態を作らないことが連れ去り予防の最たるものとなるということを言いたいわけです。

離婚飽和状態になるのは、必ずしも夫に原因があるわけではなありませんが、トリガーは大体は夫の言動です。ただ、通常はその言動だけによっては離婚を決意するということにはなりにくいので、夫自身が自分の言動がトリガーであることすら気が付いていないことが多いようです。
トリガーで多いのは、「離婚する」、「別れる」、「出て行け」、「もう終わりだ」という夫の言葉ですし、大声、乱暴な言葉、理詰めでの発言封鎖です。妻は即時に家を出るということは少なく、翌日とか数日後、子どもと身の回りのものを抱えて家を出て行くようです。だから、何がトリガーだったかのかは、当初は思い当たらないことが多いようです。でも、その行為自体はよく覚えていることが多いようです。

離婚飽和状態とは、ややトートロジーですが、「些細なきっかけがあるだけで、離婚を決意して離婚のための行動に出てしまう危険性の高い状態」をいうことにします。

孤立不安があり、不安を解消したいという要求が蓄積していくにもかかわらず解消する方法がないという不能感をいだき、さらに不安が高まり、焦燥感も出現し、これが一定期間持続してしまいます。この結果考えることが面倒くさくなり、二者択一的傾向、悲観的傾向が強まっていき、とにかくこの不安感から解放されれば後はどうでもよいという刹那的な行動を起こしやすくなっています。すべての原因を夫に求めて、不安解消要求が夫からの解放要求にすり替えられています。離婚さえすればすべてうまくいくという思い込みを持たされている状態です。こういう時に些細であっても後押しをする出来事があれば、子の連れ去りが起こるようです。

離婚飽和状態の形成の原因は、複雑です。それぞれのご家庭で異なります。
抽象的に言えば
・妻の精神状態
・妻の職場などの人間関係
・夫の言動
が相まって素地が形成されてゆき、
・第三者の夫に対する憎悪の夫への集中化
によって最終形が形成されます。

妻の精神状態に影響を与える原因で一番多いのは、実務的には、妊娠、出産、及び産後うつのようです。
夫に対して共感する力が著しく減退してしまい、夫が何を考えているのかわからなくなり、夫に対する安心感が持てなくなるとともに、夫との楽しかった時の記憶も失われるようです。

妻の精神状態に影響を与える原因で次に多いのは、出産と無関係ではないのですが、精神に影響を与える内分泌系の病気です。離婚事件を担当するようになって、この診断書が出てくる事例がうんざりするほど多いのです。

この二つに続くのが、元々ある精神疾患、全般性不安障害、パニック障害、うつ病や婦人科疾患です。
それからお子さんに障害がある場合も、妻の精神状態に対して深刻な影響を与えるようです。夫は子どもの障害をあまり深刻には考えない傾向にあり、障害であることを否定する場合もあります。妻は、夫が想像している以上に深刻に考えていて、不可能感、絶望感を抱いていることがあります。障害を持った子どもを置いて失踪するという場合もありました。

また、精神に影響を与える場合としては、長期住宅ローンを組むということも軽視できません。新築直後や長期返済の借金をした直後の連れ去り別居ということは結構あります。

これらの問題は夫には原因がありませんが、妻は精神的に苦しんでいるということもまた事実です。

離婚飽和状態を作る原因として見過ごせないのは、妻の人間関係の不具合です。特に最近多いのは、職場での人間関係のストレスです。上司との関係だけでなく、顧客とのトラブルやクレーム処理は、知らず知らずのうちに、職場を離れてもストレスが持続していることがあるようです。男性も女性もそうですが、家庭に影響を与えるような職場を辞めないことは、家庭崩壊の危機に直結するのでご家族で検討しなくてはならないことだと思います。

また、妻の親兄弟との関係も、離婚飽和状態を作る理由になることがありそうです。最近多いのはママ友やPTAで、継続的人間関係を円満に構築できない人の離婚を担当することがちらほら出てきました。

夫の言動というのも、これらの事情と相まって離婚飽和状態を作るようです。(但し、私は離婚を決意した後、連れ去りの後で母親の意見を聞くことが多いので、実際には夫の言動がどこまで主たる要因になるのかという判断はなかなか難しいということはお話ししておきます。)

夫の言動で離婚飽和状態を形成するのは、妻の感情を論理で封殺すること、大きな声やアクションで封殺すること、頻繁な低評価、行動否定などです。もっとリアルに言えば、妻の「自分が何をしても肯定してくれない」という体験が離婚飽和状態を作り上げていくようです。閉塞感、不自由感、非拘束感を抱かせる出来事とまとめられるかもしれません。

夫の言動が離婚飽和状態に大きく形成している場合はともかく、それ以外の場合は、夫にはあまり責任がないのに離婚飽和状態が形成されていることになります。夫は離婚飽和状態が形成されつつあるとは知らないで、妻から職場での人間関係の悩みを教科書通りに聞いてあげて、さりげないアドバイスをしたり、転職の選択肢を提示したりするわけです。

それから1カ月もしないうちに、妻が子どもを連れて出て行くということが最近目立って増えています。
離婚飽和状態は夫婦問題とはあまり関係がなく形成されるけれど、その結果としては連れ去り離婚という行動になってしまうということが不合理と言えば大変不合理なことです。

そこに何があるのか。

通常あるのは、第三者による、妻の不安を夫の責任として集中化させることです。
昔これをしていたのは、もっぱら妻の不貞相手でした。妻が不貞するときというのは、男性と違って、精神的に不安定な要素があり、その不安定を解消したいという焦燥感から将来的な因果関係についての考えができなくなり、刹那的な行動をする場合が多かったようです。

現代では、「そもそも離婚しか選択肢のない相談機関」の増加が問題なのだと思います。夫婦の不具合に対する再生についてアドバイスをするのではなく、何か妻に不具合がみられると、「あなたは悪くない。」、「それは夫の精神的DVだ。」と言って、連れ去り別居を指南するしか能のない機関があまりにも多いです。問題が大きいのは、警察や区役所がそのような機関になっていて、国民の離婚を扇動していることです。明らかに妻に精神状態の異常がみられるのに、それすらも夫に原因があるかのような援助というにはあまりにも強引なそそのかしが確認されています。

そもそも妻は離婚飽和状態にあるわけです。冷静に考えを構築していく力がありません。とにかく、自分のこの苦しみ、不安、孤独、焦燥感から解放されたいという一心です。そこに、何も事情を知らないくせに、自信たっぷりに夫が原因であり、夫から逃げるべしと言われたらひとたまりもない精神状態になっているわけです。大変罪深いことだと思います。

常々情けないと考えるのは、例えば隣国韓国では、離婚については裁判所が関与し、離婚後の子どもの養育計画を作って実行するようアドバイスをする仕組みをきちんと作っています。もちろん共同親権です。国家として子どもの健全な成長に関与するために、韓国に限らず我々の多くが知っている国家はすべて共同親権制度にしているわけです。日本だけが、子どもの健全な成長何するものぞの勢いで公的機関が離婚を称揚しているのですから、国家の体をなしているとは言えない状態だと思います。離婚して女性が自分では働かなくてはてはならなくして、安くて優秀な労働力である女性労働者を市場に出そうとするために家族を壊そうとしているわけですから、100年の計も何もあったものではありません。少子化をいとわないなりふり構わない国が日本なのでしょう。

妻が離婚飽和状態になってしまってから神経をとがらせても、些細なことで離婚行動に出てしまうのですから、連れ去り離婚防止に功を奏さないことが多いということは誰でもわかると思います。
大事なことは
・離婚飽和状態を作らない
・離婚飽和状態は早期に解消する
という二つであることを理解することは容易だと思います。

離婚飽和状態になる人は、特殊な女性ではありません。どんな女性でも、出産によって離婚飽和状態になる下地があるということを自覚するべきです。

自分に原因がないなら自分は悪くないからいいや

と言う人はいないと思います。それは家族という仲間の関係を作る義務を果たそうとしない子どもの論理だからです。自分は悪くないということは、家族という「自分たち」の状態の言い訳にはならないと考えなくてはならないと思います。それは私の個人的な見解です。義務を果たそうとしないなら、いつまでも一緒にいて快適に自分を扱ってくれるという権利(?)は要求するべきではないというのも私一人の見解です。(ただし、これらのことをわからなかったということは、その人の責任ではありません。)

妻の離婚飽和状態を作らない行動、早期に解消する行動は、夫としての義務ということになりそうです。

どうすればよいのか。

離婚飽和状態は、様々な要素が相まって形成されていくと言いました。そのうちの一つ、夫の妻に対する言動も原因になっていると言いました。正確に言うと、夫の日常的な言動により、妻は圧迫感、不自由感、非拘束感を抱き、それらのストレスが持続してしまうようです。これが常時行われていくと、孤立感や疎外感、解決不能感に育ってしまいます。

離婚飽和状態解決の作戦としては、第1に夫由来のストレスを最小限にすること、第2に夫由来ではないストレスからくる不安感の手当てをして、夫を含む家族こそ自分が帰属する仲間であるという認識を持ってもらうことです。

そのためには、
まず、女性は誰が原因でもなく不安を感じやすくなるものだという良識を持つこと、

次に、家族のことについては妻の考え、感情をできる限り尊重し、その結果多少の不利益や損をするよりも妻の感情を尊重することを優先するという価値観に立つこと。不安由来の夫に対する攻撃は大目に見ること。いちいち反撃しないことが正解ですが、反撃してしまうことは仕方がない側面もあるので、必ずいち早くフォローをすることですかね、現実的には。このあたりが我が身を切る覚悟ということになると思います。

自分が悪くなければ自分は守られるべきだという子どもじみた発想を捨てること。家族の中で不安を感じている人がいれば、仲間の一員として不安の手当てに全力を尽くそうとすること、それが人間が生きるということなのだという心構えが必要なのだと思います。

このあたりの具体的な方法論は、できるだけ早くまとめたいと思います。

一番は子どもが父母のもとで生活できるようにするという子どもの利益を考えてのことなのですが、不安を感じている仲間を思いやれるかどうかが連れ去り回避のカギになりそうです。

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連れ去りの温床を温存する「選択的」共同親権制度に反対する。「親権」という名の子どもの成長に対する親の責任を金の支払いに限局しようとする法案が上程されようとしている件について [家事]

私は2019年から毎年1回ずつ合計3回、選択的共同親権制度にしないことが唯一の力点だとこの力弱いブログで述べていました(後掲の3件の記事)。

しかし、賛同者はあまりいなかったようです。いろいろな記事を見ましたが、選択的共同親権制度に危機感を抱く人がいたということはそれほど感じられませんでした。

大変残念ながら、今日(令和4年6月20日)の毎日新聞の報道を見ると私の悪い方の予想が見事に的中したようです。

政治家の皆さんは、共同親権制度に理解があると信じられていた政党も含めて「選択的共同親権制度」ということは言葉で述べていた人もいるし、否定する人もいなかったので、嘘はついていないことになるのでしょう。私も橋下氏の選択的共同親権を推進するという発言を称賛する記事の多さに危機感を抱き、その都度フェイスブックなどで批判をしていましたが、あまり伝わっていなかったようです。これらの方々には現在の実態の問題点については良く取り上げていただいていたので、うっかり信用してしまったとしても仕方がないという事情があります。私は自分の力不足を嘆くしかありません。

さて、毎日新聞の報道によると、選択的共同親権制度といっても
・ 父母双方が子に関わり続けることが「子の最善の利益にかなう」ケースである場合に
・ 父母が話し合いや裁判所の判断で共同親権を選択できるようにする
というものにすぎません。

父母の一方が、相手が虐待や暴力をすると「主張している場合」は、共同親権の話し合いの土俵にも乗らないことになりかねません。わざわざ絵に描いただけの「絵にかいた餅」ということになるでしょう。わざわざ絵にかいた理由は外圧をかわすためです(後掲の記事)。

通常子どものが一方の親に連れ去られる場合は、多くのケースで暴力や虐待が存在しないケースです。それにもかかわらず、連れ去った側がDVだと主張して、一方の親から身を隠し、子どもは慣れ親しんでいる友達がいる学校や幼稚園から引き離され、相当期間学校に通うこともできず、突然もう一人の親に会えない状態になってしまいます。子どもにはかかわりのないことで、子どもの精神的発達に深刻な影響が生じることが行われているのです。

各種調査によると、子どもの年齢にも関係しますが、子どもは一緒に住んでいない親から自分が見放されたという意識になってしまい、中にはどうして自分に会いに来ないのだという気持ちになっているそうです。そしてとくに両親間の葛藤が強い場合、特に同居親が別居親に対して憎しみや嫌悪感などを抱き続けていると、子どもは血を分けた自分の親の悪口を言われていることになり、それらが合わさって、自分を大事にしよう、自分はかけがえのない存在だという意識を持ちにくくなるようです。

実際にいじめの問題が起きたり、心的な意味の男女関係の形成がうまくいかないで様々な問題を起こしたり、リストカットや拒食過食を繰り返し、引きこもりや精神科病棟への入退院を繰り返す事例もあります。私は同時期に2件のこのような問題にかかわったことから、親子問題は子どもにとって大切な問題だと思い、面会や夫婦問題に熱心に取り組むようになりました。

一番感じているのは、子どもが健全に成長することは大人の責務であるということです。養育費を払えばその責務を果たしたことになるとするのは大人の勝手な理屈であり、子どもに対して通用する話ではありません。以前にも言いましたが、親権というのは、国家や地域あるいは血縁関係の中で、子どもの健全な成長を判断するのはほかでもない親であるということから定められたものです。法制史上も、戦前でさえ「親の子どもに対する権利」とは考えられていませんでした。このことを現代の法律家たちもよく理解していないということは実に嘆かわしいことです。家長と戸主の区別もつかない弁護士もいる始末です。

誤解だらけの親権制度 封建制度の残存物として排斥するのがいかに浅はかであるかについて:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-06-24

例えばドイツなどは、この意味での親権即ち親の責任は、子どもが生まれたときから当然に両方の親に別々に帰属するという制度となっています。親同士が離婚しても子どもに対する責任は消えません。婚姻や離婚は親同士の事情であって、子どもには何のかかわりもないことだと割り切っているのです。これが当たり前だと思うのですがどうでしょう。親は結婚していた初めて親なのでしょうか。離婚をしたら養育費さえ払えばそれでよいという法制度は間違っていると思えてならないのです。

日本の単独親権制度は、この「親の責任」に対して親同士が離婚をしただけの事情でどちらか一方の親だけに帰属させ、他方の親は養育費さえ払えばよしということになります。世界の先進国では類例を見ない制度です。日本はそもそも子どもを大切にしていない法制度なのです。
選択的共同親権制度というのも、他国で実施されている制度ではなく、日本の官僚が作り上げた政治的妥協の産物なのではないでしょうか。この点については詳細がわからないと何とも言えないとするべきなのかもしれません。

いずれにしても国会で議論されるのは、選択的共同親権制度か従来の単独親権制度かどちらかしかないということになりそうです。

連れ去りをするような人間は、連れ去ったうえで離婚をすれば自分だけの単独親権となり、もう一方の親は子育てに関与させないで済む、但し養育費だけは強制執行を背景としてしっかり義務付けるというゴールを持っています。単独親権制度は、このゴールがあるから連れ去りを誘発していたという側面があると思っています。ところが選択的共同親権で、共同親権を選択しないことが認められるならば、やはり連れ去り事例は減らないでしょう。相変わらず子どもたちは、友達や先生から引き離され、住んでいた場所から一方的に連れ去られていくことでしょう。

共同親権が「子の最善の利益にかなう」ケースである場合に共同親権の選択が議論されるということの意味は、原則として共同親権の選択は議論されず、一方の親が自分たちのケースが「子の最善の利益にかなう」ケースであるということを証明して初めて選択の余地が出てくるという危険があるし、おそらくそうなるでしょう。そうだとすれば、原則単独親権制度です。例外的にこの最善の利益があることの立証に成功した時だけに共同親権の議論の土俵が設定されるけれど、連れ去り親が承諾しない限り共同親権制度とはなりえない制度であることを懸念しなければなりません。

選択的共同親権制度は、例外的共同親権制度になるだろうと思います。
子どもにとって有害な連れ去り別居、離婚の歯止めには一切ならない制度設計しか初めから無い可能性が高いと言わざるを得ません。

心ある外国語ができる方々は、拒否権付きの名ばかり共同親権制度が作られそうになっていることを諸外国に大いに伝えてほしいと思います。

2019年10月11日
共同親権制度の法制化の効果と共同養育との関連 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-10-11

2020年10月2日
共同親権制度が生まれることで何か子どものために効果があるとすれば何か 家族分断法体系は温存されるのか
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-10-02

2021年6月29日
【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(前編)】 反対者の「論理」を踏まえた、私の考える「何を主張するべきか」。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-06-29

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「働かないおじさん問題」キャンペーンの行き着く先 もう国民はいい加減覚えよう!マスコミ、娯楽報道の果たす役割 その行く先は安心して年を取ることができなくなる労働環境 [労務管理・労働環境]



「働かないおじさん問題」という問題をマスコミは盛んにあおっているようです。それは、ベテランの年配社員が一日中ろくに仕事もしないでパソコンを見て遊んでいたり、新聞を見ていたりするだけなのに高給をもらっていて、まじめに働く若者は働かないおじさんに給料を払うために働いているようで不合理だと怒っている。
というものです。

「またか」という思いでした。

実際はありもしないのに、マスコミがどこの誰だか変わらない人たちの「多くの意見というような印象」を報道して、多くの意見として不平等だという声を上げたような形となり、世論が形成されたような体裁を整えて、国の制度を変えて、結局みんなが損をしてしまう。
という現象はこれまでも繰り返されてきました。

一つには高齢者医療の有料化でした。
この時は、その多数意見の外形つくりを戦争中から国策に積極的に関与していた漫才興行会社を使って行いました。「老人たちは、病気でもないのに病院にかかり、病院の待合室がサロン隣老人たちの社交場になっている。無駄な医療費が大量に浪費されているために国の財政が圧迫されている。」ということを宣伝しました。島田紳助や桂文珍が盛んにこのネタをテレビでやっていました。同じ興業会社所属です。ギャグのネタですから誰からも直接批判される状況を作らなくてすむので、一方的に偏った意見を繰り返し流していくことができるというメディア戦略でした。まだインターネットが普及していないので、テレビの威力は絶大でした。紳助は後にテレビで老人たちに謝罪たのを目撃しましたが、老人医療費有料化になった後でした。老人医療費が有料化された後は、老人いじりのネタはぱったりとやられなくなりました。

この漫才だけが原因とは言いませんが、世論は老人医療費の無料をやめて本人にもある程度の負担をさせるべきだという流れになり、結局老人医療費が有料化されました。その結果はどうでしょう。確かに有料化によって高齢者が受診を自己抑制するようになりました。一時的には医療費が減少しました。しかしその結果、初期の治療をしないために病気は悪化するようになり、悪化してから病院を受診するようになりました。このため老人医療費は一時期的には抑制したのですが、その後抑制した分を取り返しておつりがくるように高額になってゆきました。早期発見早期治療や予防は医療費は低いのです。早期治療をしなければ、当然病気は悪化し、合併症も出てきます。早期治療を抑制したために、かえって高額の医療費がかかるようになりました。目先の利益を追及して、かえって高額の税金負担となったということです。

何よりの損失は、「安心して老いる」ということが難しくなったということです。

実際に老人になってみると、体のあちこちに不具合が出ることはいかんともしがたいことです。診察券ばかりが増えていきます。「痛み」は治療をするべきだという体のサインですから、痛みには早め早めに手当てをしなくてはなりません。また、医療機関で必要のない投薬などはしません。おおざっぱな話をすれば、デマを流して世論を作り上げ、近視眼的な政策を実現してしまったということです。

年金問題もその最たるものです。
世代間の不公平感ということはいつの世にもあるものですが、これを利用して、若者の不満を代弁するというマスコミが不公平を喧伝して、受給する年金額が切り下げられて行きました。国民年金料を何のために払い続けてきたのかわからない程度の金額の保険金しか支給されません。長年支払い続けて、ある時金額が切り下げられるのですから騙されたようなものです。
またも「安心して老いる」ということができなくなりました。また、老後いくら必要だということをあおっていますから、心配性の人たちは真に受けて、老後の資金のための方法にお金を使うようになっています。

女性の働く権利の問題も似たようなものですね。
昭和の後半に、労働基準法の改正と雇用機会均等法の成立が同時に進められました。すべての女性が「働いて責任ある部署について高収入が欲しいものだ」という単一の価値観を持っていることを前提として、女性がそのような処遇を受けない原因は、労働基準法が深夜労働を禁止し、生理休暇を取りやすく定めているからだということが標的になりました。ずいぶん様々な女性の方々が、女性の地位が低いのは深夜労働の禁止や生理休暇が原因で、これさえなければもっと出世するのだということを言っていました。
結局、深夜労働禁止が廃止され女性も深夜労働をさせても良いことになりましたし、生理休暇の規定は改正されてしまいました。
その結果、40年たった現在、女性の社会進出はどうなったでしょうか。国は男女雇用機会均等室を設置したのですが、そのうち男女参画局の一部署となり、審議会も開かれなくなったようです。一連の結果は、単に女性の権利、女性の保護が削られただけではないかと思います。未だに日弁連でさえ、正規とは別に女性枠で副会長ポストを用意するかというような議論をしているのです。つまり、男女雇用機会均等法から40年近くたった現在も女性は下駄を履かせなければ男性と対等にはならない存在だとされているのです。

だいたい深夜労働が禁止されているから女性が出世しない職場なんて極めて限られた職場しかないわけです。これを理由として女性が社会進出できないなんてことを、今思うとよく恥ずかしくもなく主張していたなと思うんです。当時私は学生でしたが、まっすぐに法案について反対しているあまり、普通に考えると恥ずかしく空々しいことを言っているということに気が付きませんでした。女性の深夜労働禁止を撤廃するための方便として、女性の社会進出という空手形が発行されたということでした。

現代の男女参画の国の政策については、昨日アップしましたので、そちらをご参照ください。本記事で指摘している手法をいかんなく発揮しています。

このように、娯楽の話題提供ではなく、制度改悪のキャンペーンだと怪しむためのポイントは
・ 統計的な根拠ではなく、どこの誰だかわからない人が、どんな資格で言っているのかも不明のまま、さも「自分たち」全員が不平等に怒っているということを情緒的にアッピールする。
・ その「ありそうな」不平等が実際にあるのかどうかもわからない。
・ 漫才だったり、ワイドショーだったり、ネットだったり、批判を受けにくい方法で、いつの間にか国民の間で広く承認されたかのような外観が作り出されている。
・ その結果、表立って反対する人たちは声を出しずらくなる。
・ 誰かが得する結果となり、多数が損をする結果となる。
こんな感じです。


今回の「働かないおじさん問題」も全く同様の構造だと思います。
今の日本の状況で、どこの会社で、働かなくても高給をもらっている労働者がいるのでしょうか。天下りの人は知りませんが、普通のたたき上げの労働者でそのように四六時中パソコンを見て遊んでいる50代、60代の社員がいるとは思われません。
(パワハラの一種で仕事を取り上げられて、自主退職を促されている場合はあります)

昭和の教育テレビの「働くおじさん」をもじったキャンペーンですので、おそらく広告代理店の戦略なのでしょうけれど、これを「働かないおじさん問題」としてテレビや取材をしないインターネットニュースの配信会社がお金をもらって取り上げれば、誰も反論できません。私のこのブログで反論していてもとても影響力はありませんから、一方的に偏った情報を流し続けることができます。テレビで面白おかしく取り上げれば、笑っているうちに、そう言う問題があるのかと先入観を持たされてしまいます。
意図を持ったキャンペーンであることに気が付かないうちに、正義感の強い国民ほど「何とか問題を解消しなくてはならない」という気持ちにさせられてしまうわけです。

言われている年代の中高年は、誰も自分のことだと思わないし、現実にはいない人なのだから、俺は働いているぞとムキになって反論する人もいないでしょう。そもそも働いている中高年は気が付きにくい時間、方法で宣伝されているようです。
言っているとされる若者は自分の賃金が低いものですから、「そんなことがあれば」不平等だという怒りが沸き上がることはイメージしやすいことです。自分の処遇が低いことの不満が、仮想敵である働かないおじさんに対する怒りにすり替えられるわけです。

誰が得してだれが損をするのでしょう。働かないおじさん問題が目指しているのはどのような制度改革なのでしょう。

端的に言えば、年功賃金の消滅を狙っているということと、極端に言えば労働の対価性のない諸手当のカットを狙っているものと思います。つまり、すべての労働者を派遣労働者にするようなそういう発想になっている危険があるということです。

その理論的根拠として、同一労働同一賃金の原則が悪用されています。

極端に言えば、働いた分量に応じて報酬をもらうべきであり、その他の要素、家族手当、扶養手当、住宅手当、交通手当は個人の事情だから、もらえる人ともらえない人が出るのは不公平だ。だからそんな手当はカットされるべきだ。
「労働に応じた賃金にするべきだ。」という主張になるようです。

また、これまでの歴史を見た場合、「平等」は実現するかもしれません。しかし、その結果は実質的な賃下げです。

働きに応じて賃金を払うということは、平等だから一見良いことを言っているなと感じることと思います。しかし、働きに応じた賃金なんてフィクションです。そもそもどうやって働いた分量をお金に換算できるのでしょうか。これは無理な話です。長時間働いたのに、働く時間が少ない人という指標はあるでしょうけれど、労働の内容は全く違います。同じ質の労働ということはそもそもフィクションです。「働きに応じて」の金額なんて、算出しようがないわけです。

また、誰がよく働いていて、誰が遊んでいるということを決める判断権者は誰でしょうか。その評価には必ず労働者の不満と、上司の恣意的な評価が入ってしまいます。

結局は、使用者が算定基礎時給を一方的に決めて、低いレベルでの平等が図られるということはミエミエではないでしょうか。平等を求めたために、賃下げが起こる可能性があるということを自覚するべきです。

また、始終誰かから監視されている、評価されていると思って働いくことになると思います。そんなプレッシャーの中でコストパフォーマンスを発揮できる人はどれだけいるでしょうか。おそらく失点をしないように、余計なことをしないで言われたことだけをするという労働姿勢が、これまで以上に進んでいくことでしょう。

特に中高年者の間では、若者と同じラインに立って評価を受けることになれば、体力的な事情もあって不安を覚えない中高年者一歩手前の人たちは多いはずです。

そこまで考えなくてよいのかもしれませんが、ますます労働者のやる気は無くなっていくと思います。

賃金とは何かということについては、学問的には、労働の対価であると同時に生活保障である、あるいは賃金の額によって良質な労働力を獲得できる要素になるという3要素があるということは基礎の基礎です。労働の対価性だけを考えて賃金の平等を考える考え方は法律にも、経済学にも、政策学にもありません。

そもそもの問題は、かかるお金に比べて賃金が低いということから出発するべきだと私は思います。例えば十分な賃金が支給されていて、手当の支給を受けなくても十分に家族を養うことができるならば、手当なんていらないわけです。ところが、現状では十分な賃金をもらっている人が少ない、特に基本給は賞与や退職金の絡みで低く抑えられているということが実情ではないでしょうか。ようやく生活保障的な手当てで家族が生活しているということが多いと感じています。生活保障的な手当てがカットされることは労働者にとっては大打撃です。賃金の生活保障という性格に照らすと、扶養を要する人と暮らしている人に扶養手当を払うことは当然のことなのです。

今回の「働かないおじさん問題」キャンペーンは、多くの労働者が派遣労働者のような待遇に切り替わっていくというか、実際に派遣労働者に切り替わっていくということが究極の着地点として想定されていると感じられます。

かなり悲観的に、かなり懐疑的に、いろいろ考えてしまいました。しかし、これまでの改悪とあまりにも重なっていて、「またか」という思いが強くあります。この最初の段階で疑問の声を上げていかないと、単純な感情に訴えかける方向で世論が形成されていくということがこれまでの教訓です。

もし、パソコンで遊んで新聞を読んで高給をもらっているように部下から見える人がいるならば、日本の国益のためにご自分が仕事をしていることをくれぐれもアッピールしていただきたいと願うのはこういう次第です。


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【男女共同参画白書批判】 結局安い労働力として女性労働を労働市場に投入する工夫が主目的であること 就業制限は賃金が低いことと男女賃金格差があることが主たる原因であり、扶養手当や配偶者控除が原因だというのは深刻な茶番であること [弁護士会 民主主義 人権]


2日前(令和4年6月14日)に政府は、令和4年版の男女共同参画白書を発表しました。情勢分析と政策の二部構成になっていて、かなり膨大なものです。政策も令和3年度の政策の振り返りと令和4年度の政策とに分かれています。その令和4年度の政策だけでも251頁から300頁とちょうど50頁もあります。この数字大切です。
各ページは2段組みで、左右40行ずつですから1頁約80行あるわけです。これが50頁です。

さて、男女賃金格差解消に関する政策はどのくらいの分量があると思われますか。

実は実質2行しか記載はありません。「男女間の賃金格差の解消」という項目があることはあるのですが(259頁)、その全記載が8行で、うち6行は「えるぼし」という政策の推進関連です。関係が無いとは言いませんが、せいぜい関係があるという程度の話です。後の2行だけが男女賃金格差解消プロパーの問題です。全文引用しましょう。「女性が多い職種における賃金の実態等につい て、調査分析を行う。」これだけです。実際にご覧いただくとよくわかります。これから賃金実態について調査を始めるのだというのです。しかもなぜか女性が多い職種に限定しての調査ということらしいです。この成果がどうなるのか来年の白書が楽しみです。

ちなみに令和3年度の政策実績は、全く令和4年の政策の中の6行と同じ文章が並べられていて、男女賃金格差プロパーの問題としては何ら取り組まれていないことが195頁に記載されている通りです。特筆するべきは、内閣府男女参画局は、令和3年度は男女賃金格差については何も取り組みをしていないということです。

これに対して「働く意欲を阻害しない政策」というものが掲げられ、「就労調整」をするのは家族手当や扶養控除があるからだということで、これらの制度の見直しを40行弱で熱く語っています。たった2行だけの記載の男女賃金格差解消と比較して熱の入れようの違いがよくわかるところです。

ここで「就労調整」というのは、夫婦共働き場合、妻が就労を一定金額以上の収入とならないに働くことを言います。所得税の対象とならないようにとか、扶養手当の対象から外れないようにということです。年収103万円の壁とか130万円の壁とか言われます。

この就労調整をするのはどうしてでしょうか。

妻が、パートに出てもラインをはみ出して働いてしまって、夫の扶養控除が出なくなってしまうと、かえって世帯としての収入が減ってしまうからです。つまり、3万円余計に稼いでしまったばかりに年間50万円損をするならば、ラインの中で働こうとするということです。

どうしてこういうことが起こるかというと、女性の賃金が男性に比べて著しく低いということに原因があるからです。扶養手当を受けられなくても、配偶者控除を受けられなくても、妻が普通に働けば家計として損をしないほどの収入があるならば働いた方が得だということになります。
ところが、男女の賃金格差のために、女性が男性並みの収入を得るためには、長時間労働をしなければならなくて、それでも得をしないというならば、その分家庭のことをするとか休むとかした方がよっぽど人生が豊かになるということなのです。

一口に賃金格差と言っても、職場内の男女同一労働同一賃金の問題と、女性の労働の価値が低く設定されているために男性並みの収入を得られる職種が少ないという二つの方向から考えていかなければならない問題です。

政府は「働きがい」という言葉を使って、扶養手当や配偶者控除を廃止しようとしているわけですが(読み方が違うならもっとわかりやすく記載してほしい)、それは、妻が働かなければ人並みの生活を送れないと感じている人たちにとっては、単なる家計収入の減少であり、もっと「働かざるを得ない状態になる」という心理的圧迫に過ぎないのではないでしょうか。これが平等とか公平の名において進められようとしているとしか感じられないのです。

一方で男女共同参画白書では、女性の労働は多様化しているということを言っているのですが、就業調整の場面では、夫の扶養控除、家族手当の範囲で働くという就労形態は、なぜか目の敵のように否定しようとしているのも不思議なことです。専業主婦、専業主夫という生き方を否定しているように感じられるのです。企業で働いてこそ女性が輝くのでしょうか。家族、家庭を大切に作り上げていくということは、賃収入よりも価値が低いことなのでしょうか。そんなことに国民的コンセンサスがあると言えるのでしょうか。

男女共同参画白書のすべてが悪いということを言うつもりはもちろんありません。セクハラの問題なども取り上げられていてなるほど女性が働きやすい職場や社会を作るための工夫も多く見られますし、統計的資料はかなり的を射た資料的価値の高い資料が掲げられていると思うのです。つまり女性が働きに出やすい社会、会社にしようとしていることは間違いないのです。

しかし、それだけなのです。

女性が自立した生活を行うという目的なら、なおさら賃金を高くする工夫が必要であり、シングルマザーこそ、手厚い扶養手当が支払われるべきであり、税控除が充実させなければならないはずなのに、そこが見えてこない。そして所得の再分配という言葉も使われるのですが、これもサラリーマン間の所得の再分配にとどまった意味でつかわれているにすぎません。経済学用語ではなく、単なるいいわけです。

結局、「女性をもっと企業で働かせよう」という目的の政策としか、私には感じられません。つまり、安い労働力のまま労働市場に投入しようという労働力流動化政策と、税控除のカットという増税と扶養手当カットという実質賃下げを同時に行う政策しか残らないのではないかという不安ばかりが増大する内容になっているのです。

一方で少子化対策なども言及しているようです。白書に資料として示された統計をみると、日本人は、他の国の人に比べると、結婚しないと子どもを作らないという傾向にあるとのことです。ところが、男女参画白書は、女性を安い賃金のままでより多く働かせようという政策で、女性が働かなくてはならない状態を作り出そうとしています。今言いました増税や実質的賃下げもそうですが、離婚してシングルマザーとなり、自分が働かなくてはならない状況を作るのもこういう目的のもとで系統的に行われているとすればよく理解できることです。こういう政策が進めば、結婚なんてしたくなくなる。結婚して家庭を持つことが現実的ではなくなる。ますます結婚しなくなるという流れになりやすいのではないでしょうか。結局少子化が加速していく亡国への道に向かっているように思えてくるのです。

白書は、また、家族構成というか、人間が誰とどのように生きるかということが、昭和の時代から変わったということをかなりの分量を取って力説しています。そしてこの部分をマスコミは盛んに報道しています。

しかし、結婚をしなくなったというのは、政治にも責任があるのではないでしょうか。結婚して共同生活を営み、子どもを産んで教育する自信のもてない人たちが増えただけなのではないでしょうか。「もはや昭和ではない。」という表現は、もはや昭和の家族形態を作ろうとはしないという国の宣言にしか聞こえません。私には日本崩壊に向かっているように感じられてなりません。

すべては、配偶者控除や扶養控除、扶養手当の廃止に向かった伏線であると考えるととても理解がしやすいはずです。

フェミニストの皆さんや、ジェンダー政策を掲げる団体の皆さんのこの男女共同参画白書への評価がとても気になるところです。
本当に女性の自立を目指す人たちなのか、安い労働力を労働市場に投入することに反対しない人たちなのか、とても良い指標に白書はなっていると思います。沈黙をする人たちは、当然後者の人たちです。男女の賃金格差解消という女性の自立を阻む最大の問題に関心が無いということを示していると考えるべきだと思います。

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夫婦間の八つ当たりに関する考察 八つ当たりの構造と対処方法 ここが人間関係が終わりに向かう方向に行くか安泰な方向に行くかの分かれ道 かもしれない。 [家事]



八つ当たりされることはとても理不尽なことです。頭に来ます。それは当然です。道徳的にも罪のない人に八つ当たりすることは許されないことだと私は思います。八つ当たりされれば、断固として八つ当たりを拒否するということは当然のことのように感じられます。

しかし、その先のことを考えた場合、その考えのまままっすぐ行動することは果たして妥当であるのでしょうか。妥当性の基準については人それぞれなのですが、その基準も含めて検討してみます。

<なぜ人は八つ当たりをするのか。>

職場で嫌なことがあったとします。職場で部下から嫌味を言われたとか、上司がミスを自分に原因があるかのように言ってきたとします。

部下から嫌味を言われることは本当に嫌なことで、部下のくせに上司に嫌味を言うならやめちまえと言いたいところです。しかし、昨今の人権意識や自分が上司に嫌味を言うという嫌がらせをしたことが無いので、どう対処してよいかわかりません。逆に上司から不当な攻撃をされた場合は、善良な私たちは、反論どころかそれは理由のない評価だということもできませんが、このまま黙っていたら評価が下がってしまうという不利益を受けます。何よりも自分が上司として、あるいは従業員としてこのまま職場の人間関係に安住できないのではないかという不安を感じるようになります。それを自分でうまく処理して、部下や上司にはっきりものをいうということができればよいですし、気の利いた同僚が一緒に反論してくれないまでも、何も悪いことは起きないよ、安心していてよいよと言ってくれるならばまだ救われます。しかし、それらの事情が無いと、モヤモヤした感情を抱えたまま帰宅するわけです。

当たり前の話ですが人間は無意識にこういう不安を抱くと解消したいと願うわけです。無意識というのは、かゆいところを搔き始めてから「ああかゆかったんだ」と気が付くように、意識に上る前に行動するということで、これは生き物の仕組みとしてよくあることです。

帰宅早々突然八つ当たりするというよりは、最初はこういう嫌なことが職場であった等と話すことから始まるのかもしれません。夫婦間で「ひどいね。でも大丈夫だよ。」とか言ってもらうこともおそらく多くの場合で行っていると思います。その家族の慰めは少しは気持ちを収めることができるでしょう。しかし、しょせん職場の人間関係の話を職場外の人に慰められても、効果はそれほど期待できません。ああ、そうか気にする必要はないかと思えれば良いのですが、また明日職場に行ったら後輩からはなめられて指揮命令ができない、このままでは上司失格と言われるのではないかとか、上司から理不尽な評価を受け続けると思えば、それだけで嫌な気持ちになり、一度落ち着いても何度でも再燃してしまうでしょう。

こういう時、これまでの人生経験で、誰かを攻撃して自分の優位を感じることによって、それまで持っていた不安を解消できる(一時的ですが)ということを学習している人は、つい誰かを攻撃して不安を解消しようとしてしまうことがあります。これも無意識に行っているという方が近いと思います。

程度によって、八つ当たりというかわいらしいものから、虐待、暴力と呼ぶべきものまで様々です。(暴力による八つ当たり、全く逃げ場を奪うような八つ当たりは許されませんので、ここでは考慮外とします。)家族に対する八つ当たりは大体このような流れで起きるようです。家庭に反映されてしまう他の人間関係でのストレスは、職場がダントツなようです。あとは、夫婦の一方の実家である親、兄弟とのトラブルが続くでしょうか。子どもが親に八つ当たりする場合は、学校の友人関係が多いかもしれません。

ただ、一般の人たちは、八つ当たりというのはむやみやたらに誰にでもするわけではありません。(町で出会っただけの人に八つ当たりをする人もいますが、それは犯罪として警察に通報されることも多いかもしれません。)

<なぜ八つ当たりの相手が家族なのか>


八つ当たりする場合でも、誰に言うかということは実際は計算して行っているのです。これも意識に上る以前の思考ともいえない脳の作業だと思います。八つ当たりをする相手とは
・ 自分がその人に八つ当たりをしても致命的な反撃が来ないだろう相手
ということになります。
極端な話をすれば、見るからに怖そうな人に対して八つ当たりをするということは無いと考えてよいでしょう。その逆というとこういう人ということになるはずです。
即ち、ある意味信頼をしている相手であり、ある程度の甘えは許されるはずだと感じている相手ということになります。子どもが親に対して八つ当たりをするのはこれでよく理解ができると思いますが、夫婦間の八つ当たりも同じだと思います。
それから、八つ当たりをしたいときに身近にいる人という条件も満たす相手が家族ですね。

<八つ当たりだと気が付く方法が必要>

八つ当たりをされた方は、初めは八つ当たりをされたことに気が付きません。
なぜなら、八つ当たりとはいえ、「その人に対して怒っている」という体裁をそれなりに整えて攻撃をするからです。それにしても唐突で、理不尽で、理解が難しい怒りが自分に飛んでくるので戸惑ってしまいます。それよりも、自分が前々から気にしていることにピンポイントで攻撃してくる場合の方が頭にくる割合は高く大きくなるでしょう。

言われている方が八つ当たりの背景を知らない場合は、八つ当たりだとは思わないで、原発的に自分を攻撃したくて野生の怒りを向けてくるのだとしか考えられません。これを真に受けてしまうとただ単なるけんかが始まってしまいます。

厄介なことに、初めに八つ当たりを仕掛けた方は、そういう最後の砦のような相手とけんかをすることによって、新たな不安が芽生えてきますから、ますます不安が増大していき、ますます攻撃力を高めないと不安に押しつぶれそうになり攻撃は増強して収拾がつかなくなっていくことになるわけです。

<八つ当たりであることに気が付く方法試論>
・ 今この時に怒りが表明されることが唐突であること 理由が何であれ
・ 言っている怒りの原因に比べて怒りの程度が不自然に強いこと
・ 言っている怒りの原因に比べて、否定の表現がえげつないこと
・ いつもは怒らないことで怒っていること これまで我慢して言わなかったと言っているとしても
・ 家族外の人間関係で不安になる出来事があったという情報
・ 相手の体調 相手が女性であれば怒りが表明された時期
こんな感じでしょうかね。

<八つ当たりだと気が付いた時に考えること>

第一にこれは八つ当たりであると認識する。

⇒ 攻撃の理由は胸に刺さるが、本気で相手は言っているのではないことを理解する。いちいち真に受けないということですね。これが、言われていることがもっともな場合は、「以前は口ではそんなことは気にしないと言っていたのに、本当はそう思っていたのか」と思いたくなるのですが、非常時であるために、相手は何か攻撃になりそうな材料を総動員して攻撃しているだけですから、「本当にそう思っている」とは言えないので、頭ではそう思いましょう。

⇒ 真に受けないということは、まともに反論する「必要」は無いということを理解する。本気で言い訳をする必要はなく、外形的に相手をすれば足りる。「それはちょっと言い過ぎではないか。」とか。何も相手をしないというのも、あまりよくないということがややこしいところです。確かに、相手の攻撃によって、精神的ダメージを受けているということは示したほうが良いと思います。

⇒ 罪悪感を持つように誘導する。悲しそうな顔をするとか、うなだれるとか、斜め下を向きながら寂しそうに微笑むとか。ある程度抵抗した後は、それぞれのご家庭の方法で、敗北を宣言して相手に勝利を譲ってあげる形を作るということですね。 この理不尽さについては後に考えましょう。

⇒ 相手が収まったら、何事もなかったように日常を再開する。テレビを観たり、家事をしたり、本を読んだり。もちろん相手に対して平時の口調で話すということですね。ここが一番のポイントだと私は思うんですね。どんな失敗をしても、家族はその人を見捨てないという強烈なメッセージになって、安心の記憶として蓄積していくようです。そして、職場でどんな不遇なことがあっても、家族はみすてないこと、いざとなったら退職するという選択肢があるということを態度で告げることになるようです。人間は複数の人間関係で生きているわけですが、一つの人間関係のトラブルにすぎないことも自分という人間の属性だと勘違いする場合が多いのです。重要な人間関係とそうでも人間関係を区別してもらって、自分には最重な人間関係に守られているという安心を感じて対処できるようにサポートするということです。

そして、不安の本命に一緒に取り組めれば良いのですが、この場合、方法論より共感を主とするべきです。根本的には、職場にいるより家でがっちり安心してもらえばよいというのも一つの根拠だと思います。


<八つ当たりの真の原因に切り込む>

例えば部下から嫌味を言われている場合は、
部下のくせに上司に嫌味を言うなんて何様だと思っているのかねえ。
部下から嫌味を言われたら、否定されているような馬鹿にされているように感じてしまうから、やりにくくて仕方ないよね。不気味でもあるね。
と、なぜ不安を感じたかを短く言い当ててあげることはとても効果的のようです。後は、「自分の上司に相談する」程度のことで方法論は終わりにした方がよさそうです。

例えば上司から不当評価を受けたとすれば
上司の役割をはたしていないね。上司がきちんと仕事をしなければこっちはやっていられないね。それは悔しいねえ。私から上司に言ってやりたいくらいだよ。
くらいな感じでしょうか。

<八つ当たりを大切に扱う理由>

ところで、「そんなことはおかしい。八つ当たりなんてやってはいけないことだ。今後の生活のこともあるので、八つ当たりをやめさせるためにガツンと決着をつけなければならない。我慢するなんて不合理だ。」という考え方ももちろんあるわけです。というか、普通に考えればこの考えに基づいて行動することになると思います。

人間は何のために生きるか、人間の役割は何かと言う問題だと私は思うのです。だから様々なご意見があるのも当然です。私がここで最後に述べることは、では、その考えのまま突き進んだらどうなるかということのシミュレーションです。

八つ当たりと分かった。⇒ 八つ当たりは許されない。⇒ 全力を挙げて八つ当たりを阻止するべく反撃をする。⇒ 相手を論破ないし論理的に制圧する。⇒ 勝利。

でも家族ですからそのあとまで共同の人生は続くわけです。

八つ当たりをした本人からしてみたらどう受け止めるでしょうか。
非難が阻止された。(本人は八つ当たりだとは自覚していません)⇒ 自分の提案は、(八つ当たりされた)相手に原因があるため、これを指摘して改善させてあげようとしてのことだから自分は正当な行動をした。(攻撃のための「体裁」が独り歩きを始めるわけです。)⇒ 相手は自分が悪くても謝らない人間だ。⇒ 相手はこちらに落ち度が無くてもすぐに感情的になり、自分が降伏するまでこちらを攻撃してくる人間だ。

さらに、会社の問題は解決不能の問題であり、自分は会社でも家庭でも苦しみ続けなければならない存在なのだ。つまらない人生だ。会社でも家庭でも相手に恵まれなかった。やり直して穏やかに生活したい。

こういう流れがむしろ現実的だと言えるのではないでしょうか。

<八つ当たりは本当にやってはいけないことなのか>

おそらく、八つ当たりを阻止することは正当なことだという私たちは、とても道徳的で、正義感に満ちているといえるのでしょう。阻止ができたということから行動力もある人間なのだと思います。社会的には評価されるべき人物像なのだと思います。

でも、それだけです。

それでよいならばそれでよいし、そもそも八つ当たりなんてしない人と夫婦となり、相手も八つ当たりなんてされないような職業についてもらえばよいのだろうと思います。しかしそれは現実的なのでしょうか。そう言う人をどうやって知ることができるのでしょうか。またもしかしたら、相手が八つ当たりをしないのは、あなたが信頼できない人で、甘えることができない、心を開くことができない人だと思っている可能性もあると思います。

それで幸せならそれでよいかもしれません。

妥協や自分を傷つけることよりも孤立を選ぶというならば、それは生き方の問題ですからそういう生き方もあるのだなと思うわけです。

ただ、多くの人たちは、原因が自分にあろうとなかろうと(大体は双方に原因というか修正ポイントがあるのですが、)、別離があると、精神に著しい影響が生じるほど、つまり自分で自分の感情を持て余してしまうほど、精神的ダメージを受けるものです。臨んだ離婚が成立しても、心にぽっかり穴が開くということも多く目撃しています。ましてや、一方が二人の子どもたちを連れて出て行ってしまうと、他方はかなり精神的に追い込まれます。そして当初は、相手に対しての怒りを持っている人たちも、「自分にも修正するポイントがあったのではないか。それができなかった理由は何か。」ということを考え始めて、相手に対する攻撃が無くなるころになると、逆に穏やかな日常を送ることができるようになるように感じています。

自己中心的で、こちらに何の配慮もしない相手だと思って、敵対心を持ってしまったことに気が付くようになります。

そうです。相手の八つ当たりこそ、自己中心的で他者の感情を配慮しない象徴的な行為です。これが道徳に反すること、八つ当たりをする人の人格を貶めること、一定程度こちらに精神的ダメージを与えることは間違いありません。しないに越したことはないのです。

でも、そんなに向きになって否定しなければならないことなのでしょうか。家族の中で、多少の八つ当たりがあったとして我慢することはそんなに屈辱的なことなのでしょうか。また、もしかしたら、それに対して余裕をもって鷹揚に対応できないのは、八つ当たりされる方が家庭外での原因で不安感を抱いていて、八つ当たり予備軍だったということはないのでしょうか。

わたしは、夫婦問題を多く担当していく中で、特に男性があまりにも正義や論理や合理性、あるいは公平という理屈で相手の人間を評価していることに少しずつ違和感を抱くようになりました。これは我が身を振り返って、自分もそういう側面が強いということ、これを徹底して家族を寂しい思いをさせたという振り返りができたことにも関係をしているように思えます。また、そういう論理で家族の中にいると、自分が傷つくことが多いということも身に染みて感じるようになりました。

暴力とか逃げ場のない追い込みはだめですが、多少の八つ当たりは家族なのだから仕方がないと思えるほうが結局幸せになるのではないかと思い始めているのです。これが幼い子どもなら親に対して、八つ当たりするなとか、自分が安心して暮らせるように親のエゴを子どもにぶつけてはならないというならそれは正論であるし、そうするべきであることを疑いません。

しかし、夫婦という大人同士の関係で、あたかも赤ん坊が親にしてもらうように相手に自分に対する態度を要求するっていうことは、それも自己中心的だと言ってもよいのではないかと考え始めています。人間はいろいろあるし、特に家庭の外のことで言いたいことも言えないで理不尽な思いをしている場合があります。八つ当たりをしたくなる事情が大人にあります。それにもかかわらず、生身の人間に対して、家庭で、夫や妻と接する場合は、不安をすべて忘れて自分の相手をしろということは、やはり無理があるのではないかと思ってきたのです。

つまり人間の行動の評価の基準は、家庭とその他の他人同士の人間関係と、基準を別にするべきなのではないかという考え方です。

家庭の中で許しあう関係は、仲間としての関係を心地よく強化していくでしょう。相手を縛るというのではなく、そこに帰ると安心するということから、いつまでもそこにいたいという関係になるということです。

家庭に持ち込んではいけないものは、家庭の外の不安やストレスではなく、他人と他人の関係を規律する基準で家族を評価することなのではないかと考えている次第です。

まあ、そうやった方が八つ当たりの「あたり」が柔らかくなるのではないかという期待を込めて。

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自死リスクとは何か 自死のトリガーとの関係 自殺の直前に亡くなられた方の意に添わないふるまいをしたからと言って、それが自殺の原因だとはならないという意味  自死予防で本当に必要なこと [自死(自殺)・不明死、葛藤]


自死に関する報道で気になるのは、自死の直前にあったストレスを起こす出来事が自死の原因だという間違いです(直前出来事重視型とでも言いましょう)。
何かストレスフルな出来事があれば,それを原因として自死を決意し、自死が起こるという考え方です。

具体的に事例を作って考えてみましょう

Aさんは、①仕事上の不注意で注文を受けていた商品をメーカーから仕入れるのを忘れて、取引先に届けることができませんでした。②上司のBさんから、「不注意をするのは心掛けが悪い。」等と言われました。③Aさんは、自分のミスについてなのかBさんの発言についてなのかはわかりませんが、ひどく落ち込んでいたようでした。④その日の夜Aさんは自死しました。Bさんからの注意の後は、何事もなく帰宅して、帰宅後もストレスを発生させる出来事はありませんでした。
こういう事例があったとします。

例の直前出来事重視型の場合は、自死の直前にあったストレスフルの出来事は、Bさんによる注意であるから、自死の決定的原因はBさんだと考えます。そして、「Bの叱責によってAが自死か」等の見出しが出るわけです。

そして、BさんのAさんに対する注意が人が自死するほど強烈だったのか、注意の程度、文言、その他の様子を何も知らないのに、自死があった以上Bさんからのストレスが過大だったということを想像で補い決めつけるわけです。結果責任みたいな思考になってしまっています。
Aさんの方が身近な存在であり、Bさんの方は顔の見えない存在である場合は、その傾向が強くなるのは致し方が無いことです。

そうでなくとも人間は、目に見えた被害を受けた人間の方に肩入れをしてしまう性格もあります。これが発展すると被害を受けたと主張する人間の方を持ってしまうということが「善良」な人間のようです。

これに対して通常の自死を予防するという観点からの自死の原因論を考える場合は、自死予防の考えは、「Bの発言が自死の原因になったとは断定できない。その可能性もあるがもっと何か別の理由も検討しなくてはならない。」と考え、BさんとAさんの関係や、Aさんの職場の立ち位置、Aさんの性格、生い立ち、財政状態などの検討を始めるでしょう。注意を受けた日以前のAさんの様子などを調べることになります。また、職場以外の人間関係についても調べなくてはなりません。そもそも、Aさんの注意の方法について、できるだけリアルに再現しようして聴取を行い、慎重に検討するということになります。

直前出来事重視型というのは、感情的な考え方で、論理的な説得力のない無責任な考え方であることがはっきりわかります。もしどんな注意かも知らないでBさんの注意が原因で自死が起きたと結論付けるならば、自死の予防策としては「上司は部下に注意しないこと」という頓珍漢な結論しか出てこないでしょう。

しかし、自死についての人のうわさとかワイドショーの報道などは、大体がこの直前出来事重視型です。新聞報道も、被害者の訴えという断り書きは付きますが、読み手からするとそのように受け止めてしまう表現で報道がなされる場合が目につきます。その人の自死の原因は、その人にもわからないことも多いのです。本人の日常に何のかかわりもない人が、自分なりに事実を把握して、自分なりに心情を把握したとしても、原因にはたどり着かないでしょう。ましてや信用性の検証もできないネット情報などを基に考えても、真実からは遠ざかる一方だと思います。

直前出来事重視型の報道が繰り返される理由は、加害者と被害者というわかりやすい対立構造を作るために自死者に「寄り添い」やすく、加害者とされるターゲットを攻撃することで、自死が起きたときに起きる第三者の不安感情を解消することができるという、第三者の感情にアッピールしやすいからなのかもしれません。

直前出来事重視型の自死の把握は、「自死に至る構造」を全く考えていないという批判も可能でしょう。直前出来事重視型の場合、いじめやパワハラが原因となる自死は、「いじめられたから自死した。」と短絡的に漠然と考えて、それ以上考えることはしないのだと思います。
・ なぜいじめられると死のうと考えるのか。
・ なぜいじめられたからと言って死ぬことが怖くなくなって死ぬことができるようになるのか。
・ なぜいじめられて死ぬ人と死なない人がいるのか。
・ 自死をするようないじめとはどのようないじめか。そもそもいじめとは何か。
・ 自死をするのは、ストレス耐性が低いのか。
等々、自死を予防するために大切な情報がすべて省略されてしまっているのです。もっとも、このようなことについて必ずしもすべての人が考える必要が無いのですが、自死予防を考える人は考える必要があると思います。こういうことを考えない人は自死予防に参加するべきではないとも考えるのです。頓珍漢な予防方法に時間と予算と人手が取られてしまうということは深刻な弊害です。まじめに自死を予防しようとする人たちは、ここは自分の居場所ではないと立ち去っていくことも深刻な弊害です。

直前出来事重視型ではない考え方が必要となるわけです。

「自死リスク先行型」とでもいうような考え方が有効だと思います。
「自死が起こるときは精神的な変容がすでに起きていて自死をする危険がかなり高まっているために、通常であれば大きな精神的な影響が出ないようなありふれた出来事であっても、過剰に反応して自死を決行してしまう。」
という考え方です。

この通常であれば大きな精神的影響がないありふれた出来事のはずなのに自死の引き金になるような出来事を「トリガー」と呼んでいます。簡単に言うとトリガーによって自死が起きてしまうような精神状態が、「自死リスクが高い状態」です。

但し、例外的にトリガーが存在しないのに自死が起きる場合の類型があります。典型的には、統合失調症や妄想を伴う重篤なうつ病の場合です。本人以外の人間が認識できるトリガーが存在しない、つまり客観的には出来事は存在しないのですが、本人の頭の中で何らかのトリガーが発生してしまう場合があるのだと思います。

また、トリガーはストレスフルな出来事とは限らず、事態が改善するような兆しや苦しみに一息入るようなほっとする出来事もトリガーになることもあるようです。苦しみのどん底にいるときよりも、少し状態が良くなったときに自死が起こりやすいということは自死予防の文脈では古くから言われていることです。

実際にも、パワハラの会社で数か月苦しみ続けてようやく退職を決意した直後の自死、うつ病で子どもの相手もできなかった母親が子どもと楽しく遊んで家族がほっこりした直後の自死等、良い事情のはずがトリガーになった可能性のあるケースは見られるところです。

自死予防を徹底するためには、一度自死リスクが高まったら、自死リスクが解消されるまでは、悪いことでも良いことでも何か動きがあった場合は注意をし続けなければならないということが結論になると思います。

何がトリガーだったのかということについて議論しても意味がないことがわかると思います。すでに自死リスクが高まっている場合、どんなものでもトリガーになりうるということです。自分の失敗もトリガーになるし、上司からの注意もトリガーになる。または、お小遣いを要求して断られること、友人から遊びに行く約束をすっぽかされたこともトリガーになりうるわけです。人間が他者とかかわって生きていく以上、そのトリガーになりそうなすべての出来事を無くしてしまうということは不可能です。また、楽しい出来事、明るい出来事もトリガーになりうるのですから、これをすべて無くしては生きる意味がなくなるような気もします。(これらをすべて無くする精神状態が、重篤なうつ病の状態なのでしょう。)

直前出来事重視型の場合は、自死の直前に何があったのかということを夢中で探り出そうとする傾向がありますが、それは誰かを攻撃し、自死の全責任を負わせようとすることにしかならず、意味のあることではありません。また、例えば亡くなられた方のご遺族が、亡くなる直前に亡くなられた方の意に添わないふるまいをしたからと言って、それが自死の原因とはならないということをぜひ理解していただきたいと思います。

自死リスク先行型から考える自死予防は、
第1段階 高度な自死リスクを作らないこと
第2段階 高度な自死リスクが存在することを見抜くこと
第3段階 高度な自死リスクを解消することです。

ということになるのですが、この3点は、私の不勉強というところもあるのだと思うのですが、解明が進んでいないように感じているのです。

現在ではそうでもないと言われているのですが、ひところは自死リスク=精神病、特にうつ病でした。うつ病予防とうつ病を見抜くことうつ病の治療が自死予防でした。これは20世紀の終わりころからの、主に北欧のうつ病対策による自死予防が功を奏したことを模範として行われていました。WHOも先導して自死対策としてうつ病の薬物治療を勧めていました。日本では国を挙げてこの対策に取り組みましたが、ほとんど効果が見られず、自死者が3万人台が長年継続したことは記憶に新しいと思います。

現在では自死者は安定して3万人を切る状態となりました。しかし、どうして自死者が減少したのかということについても、抽象的に「予防を頑張ったから」ということくらいしか言われておらず、次の自死が増えることを予防しているという実感を持てる人はいないでしょう。この間のコロナ禍で、どうしてコロナ患者が減ったかについて原因がわからなかったため、次の増加を防ぐことができなかったということを私たちは何度も学びましたが、全く同じことです。自死者が減った理由がわからなければ、またすぐに増える可能性もあるということも学ぶべきです。そして恐れるべきです。その上で対策を講じておくべきだと思います。

現在の自死予防についての世界的研究段階は、「うつ病患者の大部分は自死をするわけではない」という考えに基づいて、うつ病以外の自死のリスクが起きる場合について考え始める研究が少しずつ浸透してきています。しかし、まだ十分ではないという状態です。特に日本ではかなり遅れを取っています。

まず、自死リスクを形成し、自死リスクを高める要因の検討を始めるべきです。
自死リスクを高める要因こそが、まさに複合的であることが多いようです。

ただ、ここで注意するべき内容は、「複合的」という言葉の意味です。これは日本の自殺統計が警察の調査を基に研究が進められている影響があるためか、自死の原因が「複数の人間関係でのトラブル」がある場合に自死が起きるというふうに間違って考えられることが多くあります。

複数の原因とは、先ほどの会社の例でいえば、Aさんは、転勤があったため馴れない土地で一人暮らしをしていたため、自分が仲間の中で安心して暮らすということができない状態だった。それまでの人生では目立った存在ではなかったけれど、いつも友人たちの輪の中にいた。それはAさんが友達から見放されないように自分を殺していつも必死で努力していたことによるものだった。Aさんは、自分が自然にふるまったら独りぼっちになるという恐怖を幼い時から感じて努力し続けてきた。その友人たちも就職してバラバラになっていた。自分には味方がいないと思うようになっていた。転任先の人のノリもAさんの出身地と違っていて、親愛の情を示すからかいもAさんにとっては初めてのことで怖いと感じていた。地元の業者に対する取引をするにもコミュニケーションがうまく取れず、相手の思っていることを理解することができないため、取引も前任地ほどうまくいかなくなっていた。会社から期待されて転勤したのに、同僚や上司も期待外れだと思っているように思えてきた。睡眠不足も深刻となっていたことが原因で、記憶力が減退し、自分がやったと思っていたことがやっていないことが起きていた。また、いつもならばメーカーの営業所に在庫がある商品なのに、たまたまその時はよそに大きなプロジェクトがあって偶然在庫切れだったことが、大きなショックだった。うつ状態が発生していて被害妄想も生じていたために、それらすべてが自分を排除するために仕組まれたことだと考えるようになっていた。このまま会社にいたら苦しみ続けるだけだと考えるようになり、苦しみ続けない方法として死ぬことを考え出し始めた。

こんな簡単に人は死ないでしょうが、例えばこのくらいの事情があることの方が多いわけです。「注意されたから死ぬ」という直前出来事重視型がいかにばかばかしい話なのかの説明として架空の事案を作り出してみました。

複数の人間関係でトラブルが起きる場合もありますが、いじめやパワハラのように、単一の人間関係が原因で自死が起きる場合も多くあります。「複数の人間関係でトラブルが起きて自死に至る」というドグマは、実際は存在しない家族との間にもトラブルがあったはずだ。あるいはトラブルとは言えないとしても、「家族に無理解があり、家族が防ぐことができたのにそれをしなかったから自死が起きたのだ」という決めつけに結び付きます。このようなケースが横行しています。例えば若いお母さんがうつ病とうつ性妄想によって自死されたケースでは、「夫のDVがあったからだ」といううわさが夫の職場であったことに驚いたことがあります。その後夫は退職を余儀なくされました。奥さんの残したメモからはそんな事実は全く感じられませんでした。

家族を失って苦しんでいる人に対して、具体的事実もないのにその原因は家族にもあるということを言うわけですから、大きな問題だと思います。

ここで、高度な自死リスクというのがどのような心理状態なのか、現在言われていることについて説明を試みます。

「些細なきっかけでも自死を決行してしまう心理状態」だということが定義です。これをもう少し具体的に説明してみます。

自分が大切だと思う「仲間」の中で自分が仲間として尊重されておらず(孤立)
将来に向けてもこの孤立は解消することが不可能だと考えている(絶望・悲観傾向)
この結果、生きていくことは、苦しみ続けることだと考えている(絶望)
一瞬でも早くこの苦しみから逃れたいと感じている(焦燥)
このまま苦しみ続けるか死ぬかということを考え出している
(二者択一的思考、悲観的思考、被害的思考)
死ぬことに、暖かく明るいイメージを持つようになる(希死念慮)
自分は死ななくてはいけないという信念のようなものを持つ(希死念慮)
どのように死ぬべきかという死ぬ手段を具体的に調べている

様々な出来事を、自分を否定している事情ととらえ(被害的思考・過覚醒)
ますます孤立感、絶望感、解決不可能感が深まるきっかけになってしまう。

こういう状態がこれまで調査した結果、自死リスクが高まっている状態です。

外形的に言えば
衝動的な行動
暴力的な行動
自分を抑制することができない状態
それらの行動の原因が理解できない。説明できない。
それらが広い意味での自分を否定する方向に向けられる
(広い意味での自分とは、自分の体はもちろん、自分の持ち物、自分を含めた自分たち、あるいは自分の記憶などに対する否定的、破壊的、暴力的な行動ということです。)
こういうように整理できると思います。

リストカットなどの自傷行為や過度の飲酒、ドラッグ服用、あるいは高度の摂食障害などはそれ自体は自死を目的とした行為ではない場合が多いのですが、本人も自分の体をむしばむ行為であることを本人は理解しています。自分を大切にしないという行動を行っていることを自覚していることになります。自分の価値、人間の価値を否定する考え方になじんでいき、命を重要視できなくなり、自死リスクが高まるという関係にあると思います。

では、このような高度の自死リスクが形成される原因は何でしょう。

これは大変難しい問題ですが、単純に考えてはいけない、決めつけてはいけないということは間違いのないところです。

ここでは、
本人の対人関係的な位置の変動ないしおかれている位置という対人関係的問題と
本人の心理状態、精神状態
という2つの側面から考えなければなりません。

対人関係とは、家族、学校、職場、ボランティアやサークルなど継続的人間関係に着目するべきですが、さらに貧困や障害、差別と言った社会的立場というものも考慮に入れるべきです。但し、人間関係の喪失による孤立の感じ方は年齢によって異なり、高齢者になればこれまで築いてきた立場の喪失が大きなポイントとなり、若年者については今後の将来に対する絶望がポイントとなるという違いがありそうです。

心理、精神的傾向というのは、端的に精神病や先天的な脳の問題という病的な問題もありますが、物の見方感じ方という意味では、性格や生い立ちなどのこれまでの経験によって形成された思考傾向なども問題になりそうです。現在の対人関係的なトラブルについての感じ方に影響を与える諸事情が大切です。それを超えて対人関係的に影響を与えないけれど脳内で自働的に悲観的傾向が生まれる事情なども考慮しなければなりません。

この意味でうつ病などの精神疾患が、自死リスクを高める一要因となるという表現は可能だと思います。重篤なうつ病の場合は、実際に対人関係的な問題が無くても、病気の症状としてあるように感じてしまい自死リスクが高まるということもありそうです。

自死リスクで注意を要する点が2点あります。
一つは、人は自死リスクの高まりを隠すということです。
もう一つは、特に若年層は、自死リスクが継続しているのに、その場その場では普通の快活な生活態度を示すということです。

「うつ病者はうつを隠そうとする。」ということはあまりにも有名な話です。私は、責任感優位型の人間が不可能な責任感を果たそうとする行動であると感じています。周囲に気を遣わせないようにする、心配させないようにするという行動は、その人の性格上自然体で行ってしまうようです。また、自分が帰属する「最後の砦・人間関係が家族だ」だと考える場合は、自分がうつということで家族から特別扱いされるということを恐れるということも何人かから聞きました。仲間にはふつうに仲間として接してほしいもののようです。

もう一つは、自死リスクを隠そうとしているわけではないのですが、気分が変わりやすい状態になっていて、ひどく落ち込んでいて今にも自死企図を行いかねない状態にあったのに、時間を置くと日常的に変わらない快活な行動を取ったりする場合です。これは、必ずしも病気ではなく、思春期以前にはよく見られる現象だそうです。自死企図のような行為をしたのに、部活動は熱心に取り組んでいたり友達の輪の中で談笑したりするということはありうることです。快活な様子を見てしまうと、自死リスクが解消されているのかもしれないという錯覚を抱いてしまいます。そして、あんなに快活に行動していた生徒がどうして自死したのか、自死ではなくて事故なのではないかと感じてしまうようです。

特に若年者は、深刻な自死リスクを示す事情があれば、それが解消されない限り、快活な様子を見せても、深刻な自死リスクは継続していると考えなければならないということが切実な教訓です。感情が動きやすいということは、快活になりやすいことと同じように深刻な状態に戻りやすいということなのです。

自死リスクでもう二つ注意するべき点があるとしたら、自死リスクはひとたびはっきりと示されれば時間的経過で自然解消しにくいということと、放っておけば大きくなっていくということでしょうか。
自死リスクが生じてしまうと、自分が体験することが自分が攻撃されているという被害的意識でものを見るようになり、あらゆる出来事が自分の絶望回避が不可能であることを示していると感じられるようになっていきます。それを解消しようと不合理な行動に出ることがあり、それによってますます自分の立場が悪くなり、絶望が深まっていくという危険があります。

ひとたび深刻な自死リスクが生じてしまうと、それが解消されなければ些細な出来事をトリガーとして自死が起きてしまう可能性が高くなります。
誰がどうやって自死リスクの発生に気が付くかという研究が一つ。
誰がどうやって自死リスクを解消できるのか。医師がどこまで関与できて、家族の果たす役割は何か。
誰がどうやって自死リスクが解消されたと判断するのか。

自死予防の政策は、まだ始まったばかりということは、両方の意味で言いすぎでしょうか。

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「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」(マタイによる福音書5章)の非キリスト者の対人関係学的解釈 「人パンのみに生きるにあらず」との一体性といわゆる無抵抗主義との違い [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

本記事は、非キリスト者による解釈です。教義の正しさを主張するものとは次元を異にします。非キリスト者も人類の財産である聖書、キリストの言葉から多くのことを学び人生を豊かなものにすることを意図して書かれています。
表記については、今日インターネットでたまたま検索出来たものをそのまま引用させていただいています。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という新約聖書の言葉について、世間には様々な解釈があるということを知って驚いています。もっとも、様々な解釈があるのは世俗の話だろうと思いますが、いかんせん礼拝に出席したことも数えるほどしかない身としては、宗教的にはどう正しく解釈されているのかはよくわかりません。

何かの拍子でこの意味について調べようと思いたって、マタイの福音書第5章を読んだところ、やはりこれまで私が漠然と考えていたことでよいのではないだろうかという思いが強くなり、これは対人関係学が力を入れている内容と強く重なるところだと思って、雑感のようなものをご紹介しようと思いついたというところです。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というと、文字通り読めばかなり自虐的なことを言っているようで衝撃を受けますが、ガンジーやトルストイのいわゆる無抵抗主義と関連付けられて説明されることもあるそうです。しかし、聖書は、確かに印象的な言葉が有名になり、非キリスト者である私たちも知るところになっているのですが、前後の文脈がきちんとあるのですからそれを読まないと始まりません。これは論語の解釈でも同じように感じています。

マタイの福音書の5章は、「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである。」というこれまた有名な言葉から始まるイエスの山上の垂訓と呼ばれる一連の説教の始まりの部分です。
ここでは、天国とは何かということを述べるとともに、地上においても天国と同じように生きることの大切が語られているように私は受け止めました。
あまり知らないことを知ったかぶりして話して間違ったことを述べることが心配なので、結論を端的に述べましょう。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉の意味ですが、これは前後の話の流れからすると、
「決して怒りを持つな。」
ということが述べられているように受け止めたのです。

怒りは神の国には無いということが大きな教えであり、怒りによって人々の苦しみは増していき、人間社会を悪くするということなのだと思います。神の国にたどり着く前でも、神の教えに従って生活することにより、幸せを感じ、人生を豊かにすることができると教えているように感じるのです。そして、そのような神の言葉の実践者が地上にあふれれば、限りなく神の国に近づくことができるということを言いたいのではないだろうかと感じました。

この意味するところは、その前の4章でキリストがモーゼの言葉を引用し、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と言ったことと連続性があると思うのです。

人は、生命身体の安全だけを気にかけて生きるのではなく、神の言葉ので生きる、つまり、人間としての生き方が人間として生きるためには決定的に大切なのだと述べていることと連続している内容となっているということです。この神の言葉がキリスト教では「信仰」であり、対人関係学では「仲間とお互いに尊重しあって生きる方法」ということになるのだと思います。対人関係学の目指す価値観は、聖書からも多く学ぶことができるということになるのだと思っています。


そして怒りを持たない方法として、自分の利益、財産、損得にこだわらないことということなのだということが明かされています。この象徴、比喩として「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と述べられているのではないかというのが私の感想です。「右の頬を殴られたからと言って怒り狂うな。そのためには、左の頬も差し出すくらいの心構えでいることがコツである。」というような意味なのだと思います。

旧約聖書との違いが言われているようなのですが、詳しくは考察できていないのですが、時代の推移による人間のコミュニケーションの拡充と希薄化を受けた表現の違いの可能性があるとにらんでいます。

この私が勝手に解釈した聖書の教えは、弁護士として人間関係の紛争にかかわるとつくづくその通りだと感じているところです。自分を守ろうとする思いが強くなってしまって、最も大切な仲間とさえ疑心暗鬼を抱きあってしまうことが人間関係の紛争の芽には必ずあります。そして、その自分に対するこだわりが、紛争を鎮める方向とは全く逆の拡大する方向のエネルギーになってしまい、それがまた怒りの炎を高ぶらせて、収拾がつかなくなってしまう。そして、誰も悪くないのにみんなが傷ついて、他の人たちにも怒りと悲しみが広がっていってしまう。こういう人間模様に繰り返し立ち会っています。

怒らないで冷静に考えることをアドバイスするのですが、なかなか功を奏しません。うまくいく場合は「教科書通り!」というようにうまくいくのですが、なかなか自分の怒りの原因に気が付くことも少なく、怒りにも気が付かない場合も少なくありません。
もっとも、なかなかうまくゆかないということは、我が身を振り返ればよくわかることです。そういうことに気づいていながら、つい自分を守ってしまう。自分を守るために、大切な仲間に怒りを向けてしまうということに気が付いて、今も愕然としているところです。

どうすればよいのでしょうか。
あきらめて無抵抗となればよいのでしょうか。私はガンジーやトルストイの思想というものについてはほとんど知りません。無抵抗主義という言葉が何を意味しているのか正確なことはわかりません。でも、現実に対して働きかけないという意味ではないと思っています。それはガンジーやトルストイのように理想を掲げて理想に向かって行動する生き方とは矛盾するからです。

それではどうしたらよいのでしょうか。
私の一つの結論としては、
「怒らないで考える」
ということを意識し、追及することだがするべきことなのだと思います。怒ってしまうと、思考力が減退し、悲観的な思考、二者択一的な思考が頭を支配していきます。また、怒りは他者を自分から遠ざけていくものです。合理的解決にはまっすぐ向かいません。

では怒らないためにはどうするか。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
がここでも生きてくるのだと思います。

怒ってから、怒りに気が付いて自分を抑制するということは至難の技です。怒りに気が付くこと、怒りを抑制することという二つの高いハードルがあります。
そうではなく、怒りを覚えるポイントの出来事があったら、自分が怒っていなくても(怒りを自覚していなくても)、自分を守ろうとすることをやめようとするということをするべきなのかもしれません。

自分が傷つけられたら
乱暴にされたら、
否定評価を受けた場合、
言いがかりをつけられた時、
顔をつぶされたとき
立場がなくなったとき、
一方的に攻撃されたとき、

こういうような時、自分を守ろうとすることをやめようとする。左の方も差し出す。むしろ自分は、もっと否定されても仕方がない人間だと自分を戒める。しかし、それで終わってはだめです。考えるのです。
どうして自分が攻撃されるのか、自分が受けた迫害には理由があり、そうされなくて済ませるためには方法があったはずだ。
同じようにこれから将来に向けてそれを改善するためには方法があるはずだ。
自分に与えられた役割を果たす方法があるはずだ。
と考えていく。こういうことだと思います。

私のような未熟なものは、絶えず、人間がどうしたら怒るのか、傷つくのか、不安になるのかということを考え続けて、自分を守ろうとせず、仲間を守ろうとすることを修行し続けなければいけないのだろうと覚悟を新たにしました。

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離婚がらみの別居がなされたからといって、婚姻費用を支払っているにもかかわらず、扶養手当がカットされることは納得がゆかない件。むきになって離婚を勧める弁護士が絶対に教えないこと。 [家事]



子どもを連れて別居を考えている奥さん方に注意をしておきますが、同居時の夫の給料よりも、別居後の夫の給料の方が下がる場合が少なくありません。夫が公務員や大企業に勤務している人達で扶養手当をもらっている場合は、奥さんが子どもを連れて別居してしまうと夫の扶養手当はカットされてしまいます。このカットされる金額は馬鹿にすることができません。

同居中の給料を念頭に養育費や婚姻費用の金額を見込んでしまうと、思わぬ失敗をすることがあります。

(ちなみに、別居することで給与が減額される事情としては、家族のために自分から残業をしていた人が意欲が無くなったり、体調が悪化したため残業を命じられなくなり、3分の1ほど手取り額が減ったという事例もありました。)

いざ婚姻費用請求をしてみたら、離婚を勧めてきた相談担当者の言うような婚姻費用はもらえないということはよくあることというか、その方が多いかもしれません。それでもこのくらいはもらえるはずだから別居しろというささやいた人は差額を払ってくれるわけではありません。

全くの自己責任で別居に踏み切らなければなりません。

さて本題なのですが、今回述べたいことは表題に尽きます。
別居をしただけで離婚をしたわけでも、生活費の支払いを止めたわけでもないのに、扶養手当の支給が無くなるというのは不合理ではないかということなのです。

もっとも、使用者が労働者に対して、扶養手当を払わなければならないという法律があるわけでもありません。規定がなければ子どもがいようと、老母がいようと払わないからと言って違法でも不合理でもありません。だから別居したら扶養手当を支払わないという形の決め事をすることが、直ちに違法と言えるかは自信がないところです。

ただ、合理的ではないという事情もある。今回はこの事情を上げるのが記事の内容です。

では離婚をしない段階で扶養手当をカットする形式的理由はどこにあるのでしょう。批判しやすいので公務員の場合に絞って述べていきます。

まず、別居をして扶養手当がカットされる理由は、扶養手当を支給する条件が無くなるところにあります。扶養手当が支給される条件とは、公務員と扶養手当の対象となる家族が「生計を一にしている場合」に限定されるという条件です。同居しないで世帯が二つになるような状況になったら、生計を一にしているとは言えないというのです。

しかし別居をしても、子どもが大学に通学するために、親元を離れて別居して仕送りを受けているような場合には扶養手当は支給されるようです。別居をしても生計を一にするという扱いになるようです。
それと同じように、別居はしたけれど(子どもが小さいとか)妻が就労できなくてすべて夫が送金する定められた婚姻費用だけで生活しているという場合は、生計を一にしているということになり、扶養手当はカットされないですむ扱いになるようです。

しかし、妻が働いて収入を得てしまうと、婚姻費用を夫が払っていても、夫の扶養手当はカットされるという扱いになっているようです。わだかまりが消えません。
家族で同居していて、妻も働きに出たけれど、基準になるような収入を得られない場合には、夫婦が同居している場合ならば扶養手当が出るはずです。また、妻の分は扶養手当が出なくても、子どもの分の扶養手当はカットされないはずです。

これが例えば、家族は仙台に住んでいたけれど、子どもが東京に進学をして学業が忙しすぎて身の回りのことができないために妻だけが東京の子どものもとに行って子どもと同居している場合で、妻が子どもが学校に行っている間にパートをして就労しているというのであれば、外形は離婚目的に別居して収入を得ている場合と、あまり変わらないと思うのです。

結局は、別居が離婚の準備かどうかということで決まってしまうことになるのでしょうが、それは妻の頭の中だけの話のはずです。子どものために東京で子どもと同居している妻が、本当は離婚を考えていたらと考えるとややこしくてなりません。

私なぞは、離婚調停が申立てられても、よりを戻す活動にも力を入れているので、その仕事が成功したなら、離婚目的の別居だからと言うことでカットされた扶養手当が遡って支給されるのかということも気になるのです。

また、別居した妻の収入が基準を超えて妻の分の扶養手当がカットされても、それだけで十分な生活ができないとすれば、子どもに対しての扶養手当は存続させるべきだと思うのです。

(ただ、離婚目的があろうとなかろうと、妻が勤務先で子どもを扶養に入れて妻の勤務先の扶養手当の支給を受けてしまったら夫の扶養手当がカットされても仕方がないかもしれません。)

それにしても、おかしいなと思うのです。国は、裁判官が算定表まで作って、別居しても離婚しても生活費を払う義務があると言っているのです。同じ国が、生計を一にしていないという理由だけで、差押えの制裁を背景として婚姻費用や養育費の支払い義務がある人で現に支払っている人に扶養手当を支給しないということに納得できないのです。

国家秩序を作る裁判所という側面での国は、生計を一にしなくても子どものために金を払えという。ところが、給料を払う使用者としての側面での国は子どもために払う金を援助しないよというのです。なんか違和感を覚えませんでしょうか。

面倒なので、妻に対する扶養は考えないで子どもに対する扶養だけを考えます。

離婚してもしなくても、自分の子どもは親の子どもで間違いがありません。一緒に住もうと住むまいと、子どもの生活のために親がお金を出すのは当たり前のことだと思います。だから、法的には、婚姻費用だ養育費だと支払い義務が認められるわけです。これを支払わないと給料を差し押さえられる危険が生じるのですが、一般の債権が給料の4分の1までしか差し押さえられないのに、婚姻費用や養育費は給料の半分が差押えされてしまうという強力な威嚇力であり強制力なのです。

ところが婚姻費用や養育費の財源となる給料の面で見れば、離婚や離婚前提の別居の場合と、離婚をしない場合では、差別されているということにならないでしょうか。差別の不利益を受ける主役はあくまでも子どもです。

離婚しないで同居して子どもが養われていれば、国はその費用の一部を給料として出しますよと言っているわけです。ところが親同士の事情で離婚になりますとなったら、親が離婚する子どもの分は面倒見ませんよということがやはり納得ゆかないポイントなのです。

平成31年から、ほぼそれで実務が運用されている裁判官の研究会のモデル養育費、モデル婚姻費用においては、多くのケースで夫が負担する義務者の金額が高騰しました。高騰した理由は、子の福祉のために別居親に負担させるということらしいのです。要するに、同居親の多くは妻だから、別居し、離婚しても十分な収入は上がらない。だから、別居親である多くのケースである父親の負担を増やしたということなのでしょう。賃金の男女格差による女性の低賃金という不合理を男性に負担させて解決しようという思想のようです。

いろいろ根本的に言いたいことはあるのですが、少なくとも、そんなに別居親や離婚後の子どもの福祉が大切で強制の契機があっても子どもの家庭の収入を増加させたいならば、養育費や婚費の支払い約束をしている別居親の扶養手当のカットをやめることが必要なのではないでしょうか。裁判所も行政としての国も同じ国です。同じ一つの人格を持つ国が、一方で養育費を払えと言い、増額だと言い、他方でそのための資金をカットするということは矛盾ではないでしょうか。

もっとも、扶養手当の額は、定められている養育費や婚姻費用の金額を上限とするということでよいと思うし、定められた金額を支払わないで扶養手当を支給されたというのであれば、それは詐欺扱いになっても仕方が無いと思います。

さらに、扶養手当がカットされると、年間収入が下がり、養育費の金額も下がる可能性も出てきます。扶養手当カットは、支払う方にとっては支出を下げるという効果がありますが、子の福祉のためにできるだけ十分な金額を定めるという考えからは逆行しているわけです。

逆に言うと、そういう実情も踏まえないで、裁判所は、ただ養育費や婚費の金額だけは上げる、それが子の福祉だという理屈はとても納得がゆかないのです。

生計を一にしているか否かにかかわらず、子どもに対して扶養(婚姻費用、養育費)のお金を支払っている場合は、扶養手当をカットするべきではない(ただし上限あり)と私は思うのです。

ところで「別居親の扶養手当をカットするな」というのは、支払い義務者の別居親よりも支払い権利者の子を実際に扶養する側の親が強く要求するべき事案であるとも思いました。



余計な話をすると、子どもの健全な成長を主と考えるかの違いが表れる論点なのでしょうね。

ちなみに妻側の立場に立って、扶養手当をぎりぎりまでカットされないためには、別居先の賃料や高熱水道費等の生活費を夫の婚姻費用で賄い(夫の口座から引き落としなど)、不足分があれば現金などで支払ってもらうように取り決めをするという方法も考えられるのですが、それに協力してくれる夫ならばそもそも別居や離婚をしないほうが良いかもしれません。

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