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不安の原因と不安の形の小まとめ その上でネットの匿名による攻撃が自分が有能であり権威に貢献できるということを示したいという心理に基づいているということ 不安シリーズ7 [進化心理学、生理学、対人関係学]



不安の発生原因については
大きく分けると3種類あって
A) 生命身体の危険の認識
B)人間関係の中の孤立の予期不安
C)生理的変化、病気、あるいは薬の副作用による脳の誤作動

ということになりましょう。AとBは、ある意味不安の合理的な発生です。何か自分に危険が迫ったことを認識することによって、不安という生理的変化が起きるわけです。

ところが、どうやら合理的理由がないのに、つまり何も危険がないのに不安を感じてしまうのが人間のようです。理由のないうつ病、内科疾患の合併症としての不安、薬の副作用としての不安、頭部外傷による不安をはじめとして、人間は理由がない不安に苦しむということが多く見かけられます。また、この「理由はわからないけれど、不安を感じていることが確実だ」という漠然とした不安というのが一番厄介で、問題行動を引き起こす原因となったりするようです。

不安になれば人間は不安を解消したくなりたくなり、不安を解消する行動をとろうとします。
身体生命の危険がある場合は、危険の場所から離れようとすることが基本です。

対人関係の孤立を予想した場合は、孤立の原因を修正することによって何とか孤立を回避するということが合理的な行動となるでしょう。

しかし漠然とした不安は、原因がわかりません。とりあえず、「対人関係の孤立の予期不安に対する解消行動」をとろうとすることが多いようです。

さて、ひとたび不安を感じてしまうと、人間の知能や心理状態がどのように変化するかのまとめですが、基本は、「自分が所属する対人関係の中に未来永劫とどまることができるという安心」が欲しくなるということです。
<対人関係永続性の保証要求>
・ 仲間として尊重してほしい=人間として肯定的評価してほしい
・ 仲間に貢献して自分の価値を認めてもらいたい=自分の存在感をアッピールしてしまう。
・ 権威者に迎合したい(自分が権威者《ボス猿》なら権威を維持したい)
<不安の一時停止の要求>
・ 誰かを攻撃することで、自分が不安を感じている時間を少しの間でも無くしたい
<思考力の低下>
他者の感情を読み解けなくなる1。被害者への同情、共感が無くなる
他者の感情を読み解けなくなる2。自分を利用する人間を信じてしまう。
他者の感情を読み解けなくなる3。言葉態度からしか感情を想像できない。
自分の行動の妥当性の検証ができなくなる。
現在の行動による将来への影響を考えられなくなる。
折衷的な思考ができず二者択一的な考えになる。
結果として悲観的に考えてしまう傾向になる。

こう考えると、ネット炎上というのは、不安を感じた人が夢中になって弱い人を攻撃していると考えるととてもよく理解できると思い当たりました。

ネット炎上について、私はこれまでは、怒りの論理、正義の論理で、
・ 攻撃感情は相手が致命的なダメージを受けるまで続いてしまう
・ 自分が反撃されないことが怒りを面に出して攻撃する感情が生まれる条件である。だから匿名の攻撃が過激になる。
・ 攻撃に伴う怒りの感情によって一時的に不安を感じにくくすることができる
という、いわば怒りとか正義の性質から説明をしていましたし、

しかしどうやら、さらに、別角度の不安の効果を理由にすると説明されやすいと思うのです。

相手が反論できない形でネット攻撃をする心理としては、
・ 自分が正義を実現する人間であることをアッピールしたい。
・ 効率よく、要領よく、的確に相手を攻撃しているということを積極的に評価してもらいたい。
・ だから、自分は、社会全体や秩序の権威者から評価される人間であるというアッピールをしたい
という心理が働いている可能性があるということです。

ネットの書き込む場を、攻撃コンテストの会場みたいに考えているのでしょう。だから攻撃対象に対して書き込んでいるというよりは、ギャラリーに対して自己アッピールを行っているということなのだろうと思います。

そして
頭の良い人だとか、論理明快な人だとか、称賛を浴びたいと考えると、色々な発言者の発言がどうしてそういうことをそういうふうに言うのかということを理解しやすいようです。おっと、このブログもそういうところがあるのかもしれません。(但し、このブログは、権威には背を向けてひねくれているというところはありますが。ある一定の読み手を想定して、その読み手から評価をされたいということかもしれません。その意味では、同じことかもしれません。)

さらには、権威付けということを意識するようになり、自分は権威に基づいて発言しているという意識が見えるようになっていきます。常識だったり、道徳だったり、あるいは宗教かもしれませんし、政治的な党派というようなものだったりもするのかもしれませんが、自分は秩序の側の人間なのだから立場が安泰だと言いたいようなことを付け加えて攻撃するようになるという特徴があるようです。その抽象的な社会の権威に対して、自分が有能なのだということを必死にアッピールしているようにも感じられる時があります。

例えばテレビ番組を契機にネット炎上が起これば、その時の番組の支配的な論調が権威となり、その権威に積極的に賛同しようというスタイルからの攻撃になると思います。つまり権威に迎合しているわけです。また、その「権威」なんて言うものは、一時的で背景的理由のない、ただの「その場のトレンド」というものかもしれません。それでもそれが権威だと感じたら、迎合したくなるのが人間の本能なのかもしれません。

自分が権威の側にいるという安心感によって、攻撃対象者が、自分が言ったことでどのような感情を抱くかということを想像しようともしなくなります。誰かが自分を賞賛してくれれば、攻撃はエスカレートしていくでしょう。誰かの口車に乗せられて攻撃がエスカレートするということも大いにあると思います。ネットという場が、そのような文字情報、デジタル情報だけで動くため、純粋形態のように攻撃が激化していくわけです。

もしかしたら、ネット炎上だけではなく、他者に対しての攻撃の全般は、自分をある意味守るために行われているのかもしれないと感じるようになりました。つまり、攻撃している自分を賞賛してほしい、その場の仲間の中で賞賛してほしい、攻撃することによって自分の居場所を確保したいというそういうことなのかもしれません。

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