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人が盗みをしない理由から考える 犯罪防止として法律より効果があるもの インターネットという拳銃をすべての人が所持している現代から愛の時代に向かう時に越えるべきハードルとは何か 無差別攻撃型犯罪の構造 [刑事事件]



前に担当した事件で、とても人づきあいが良く、仲間には思いやりもあり好かれていた人が、量販店での万引きを繰り返していたということがありました。「どうしてやめようとできなかったのか」の一つの理由として、「店に迷惑をかけることまで考えていなかった」という説明がありました。

他人に対する思いやりがありながら、どうして店の損害を考えることができないのか。かなりのギャップがあるように感じました。どこに違いがあるのかを少し考えてみました。

その一応の結論が、その人との距離、一緒にいた時間等の違いが正反対の行動に現れたのではないかということです。仲間(近くにいる時間が長い)であれば、等身大でその心情を考えることができるので、これを盗んだら途方にくれる仲間の姿や、がっかりするだろうという仲間の姿を、考えなくても思い浮かべることができる。その姿を思い浮かべるとかわいそうだと思う。自分もつらくなる。だから迷惑をかけない。むしろ、仲間が何をすれば喜んでくれるかわかるし、仲間が喜べば自分の楽しいから思いやることをする、というのではないかと考えました(殺人や暴言等の私怨型の直接攻撃は別考慮が必要)。

量販店の場合は、商品が陳列しているところに人がいません。この効果としては、監視する人がいないので盗みやすいというよりも、迷惑をかけて苦しめる人を具体的に想定できないことから万引きをする心理的ハードルが低くなるということなのかもしれません。昭和の商店の形態である、人のよさそうなおばちゃんがあまりもうけのないだろう安い商品を扱っている店であれば、あのおばちゃんが悲しむと思えばやはり盗みをしようと思わないのが大人なのだと思います。

物を買うことを一つをとってみても、昭和から令和という時代の流れの中で、人間と人間の交流という要素はどんどん希薄になっていると思います。希薄になっているのに、関わり合いになる人間の数だけはどんどん増えています。インターネットの向こう側にいるのも人間ですが、お互いがどれくらい人間として扱っているのでしょうか。人間として扱われているのでしょうか。

機械たちを相手に言葉はいらない
決まりきった身ぶりで街は流れてゆく
人は多くなるほど 物に見えてくる
(中島みゆき「帰省」より)

インターネットの書き込みは匿名で行えば、自分の言いたいことを躊躇なく言うことができます。相手の気持ちを考えることなく相手を傷つけることもできます。インターネットの書き込みは、言われた方は反論する方法がないことがとても多いです。その書き込みが真実かどうか、正当かどうかも通常は誰も調べたりしません。友人や取引相手などがその書き込みを見て、自分に対する評価を変えるかもしれません。それが本当かどうかわからなくても、怪しいところには関わりたくなくなるということはよくあることです。インターネットの書き込みによって大事な人間関係が無くなってしまったとか、収入が無くなるということもおそらくすでに現実に起きていることでしょう。

インターネットの書き込みによって命を絶つ人も出ています。

インターネットは気軽に誰でも利用できるツールですが、人の人生を台無しにしたり命を奪う危険なツールでもあります。

スマホの若者向けの使い方講習会が行われているようですが、主として話されることは、被害者にならないための方法についてのようです。もしかして、それよりも大切なことは加害者にならないための方法、使い方なのではないでしょうか。他人の命を奪う拳銃を与えているのだから、もっとも大切なことは加害防止のはずです。

他者との人間的な結びつきが希薄になっている現在、他者の苦しみに配慮しない行動がますます増えていく可能性は拡大するだけで、縮小していく要素は現在のところ見当たりません。

ここで考えなければならないことは、全員が全員、相手の顔が見えなければ盗みをするということではないことです。むしろ、誰に迷惑がかかるかはわからなくても、少なくともわが国では他人のものを盗まないという人の方が圧倒的多数です。

その理由の一つとして、法律が貢献していることは間違いないと思います。他人の物を盗むと、警察に捕まり、刑務所で強制労働が待っていると思えば、盗むことは怖いことだからやめようと思うわけです。

ただ、それでは、誰も見ていないとか、証拠が残らないことが確実である場合は、警察に逮捕されないとして人は盗むのでしょうか。そうではないようです。それでは誰かが困ることを想像して盗むことを止めるのでしょうか。もう少しリアルな理由がありそうです。

そういうごちゃごちゃ考えることをしないで、盗もうとしないということがリアルと言えばリアルです。それでもあえて説明すると、「他人の物を盗む自分でありたくない」という気持ちがあるので盗もうとしないということが自然なのではないでしょうか。この時の「自分」という概念が問題なのです。おそらく、現在、過去、将来を問わず、自分がつながっている人間、つながっていた人間、つながるであろう人間との関係で、評価される人間、否定されない人間、尊重されるに値する人間でありたいと自然な感覚を持つのではないでしょうか。

ありえない想定ですが、物心ついた時はもう孤立していて、将来的にも誰かと仲間になることを想定できない人間であり、それが生きていくためには必要なことだと思うならば、他人の物を盗まないという選択肢は持てないのではかと考えてみました。近い例えで言えば、第二次世界大戦の終結直後の都市部の状態に似たものがあるではないかと考えています。

そして現代社会では、その危険な部分がまた似通ってきているということなのだろうと思います。

無差別殺人は、その極端な例であると説明できると思うのです。その人にとって、現在自分が尊重されたい相手という人間関係が存在せず、将来的にもそのような人間関係を形成することはないと絶望をしている場合、「自分」がどういう人間だと、誰から思われようと気にならなくなるのではないでしょうか。そういう状態であれば、命永らえること自体がむなしくなるのかもしれません。そうだとすると死刑の威嚇はあまり予防効果が期待できないことになってしまいます。

人間の脳が他者を個体識別できる人数は、150人程度だと言われています。この人数を超えれば、よほどの人でない限り、思いやる力は希薄になっていくのでしょう。インターネットは、そもそも人間の能力の限界を超えていて、進化によって能力を獲得するには何百万年もかかります。しかし、生活や仕事の隅々まで浸透してしまったインターネットをやめるわけにはいかないのでしょう。せめて不当な書き込みについての対応方法はもっと早急に整備しなくてはなりません。

むしろ現実な対策としては、すべての人間一人一人が、人間的に尊重されるリアルな関係を持つことなのだと思います。この関係に照らして「自分」を考え、他者に迷惑をかけることに気が付き、やめるという流れがより現実的なのだと思います。しかしこれ自体、現在では砂に水をまくような途方もない話なのだろうと思います。しかし、犯罪を防止するだけでなく、人間として生き残るために必要なことは、結局は、人間の本能を利用したこの方法しかないのだと思います。

刑事事件の弁護をしながら、そんなことを考えていました。

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