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G7男女参画会議についての違和感 前提論理や価値観は、女性の地位の向上や家族の生活の向上とは逆行するのではないかという疑問 [弁護士会 民主主義 人権]

栃木県日光市で開かれたG7男女共同参画・女性活躍担当相会合は、男女間賃金格差は複合的な要因があるとし、一つの要因として女性の職場での地位が低いということ、一つの要因として家事の負担が女性にしわ寄せされていることを述べ、家庭内の男女平等を目指すという一部報道がなされた。

一部報道というのは、この会議や日光声明についての内容のある報道を見つけられなかったからだ。翻訳が間に合わないためか、元々内容のある議論がなされていなかったのかどちらかではないかと思われる。

特定の価値観が所与の前提のような報道のされ方をしているが、こういう場合は大変危険な印象操作が行われている場合であることはこれまでも多く経験してきたことだ。少し上げ足という感もあるけれど、男女参画の本質があぶりだされるのではないかと思い、あえてコメントをしてみる。

1 そもそも女性の経済的自立ということは目標とするべきなのか。

  これは前提として、「多くの女性は経済的に自立していない」、「経済的に自立していなければ対等にはならない」という論理がある。そして、目指すべき方向として、女性の自立、地位の向上のためには女性も対等平等に働くことを是としている。そして、情報の受け手は、それが正しい命題だと疑問を持たないで受け止めている。

私は、ここにこそ疑問を持つべきであると思っている。家族の一人が賃労働等の就労をすることで、複数人の家族が幸せに生活できる社会ということこそ目指すべき方向なのだと考えている。家族の一人とは男性でも女性でもその家族で決めればよい。あるいは共稼ぎをすることにすることも含めて家族が決めればよい。

どちらが働くか、二人で働くかということには、各家庭に選択肢が持てるようにすることが目指すべき方向のはずだ。

ところがどうやらG7は、共稼ぎという方向を固定して方法論を検討していることになる。つまり、共稼ぎをしないと、望んだ生活ができない低賃金社会が固定されることを前提としているのではないかという疑念を持つべきだと思う。女性の経済的自立や社会的地位の向上という美しい言葉と、共稼ぎが必要な低賃金社会の固定は常にセットにあると警戒するべきだと感じる。

2 家事労働は平等になるのか、出産をするのは女性

現在の若者夫婦の多くは家事を分担している。専業主婦が減っているように感じられるが、専業主婦であっても夫は家事を分担していることが多い。共稼ぎの場合に、家事のほとんどを女性が行う家庭は私の担当する夫婦では聞かない。おそらくごく少数なのではないかと思う。

但し、公平に見て家事をほぼ平等で行っているとしても、一方の立場では相手の方が楽をしていると感じていることはよくあることだ。妻は夫は自分がやりたいことだけをやるといい、夫は半分以上自分がやっているということはよくあることだ。家事をどの程度シェアしているかについての客観的な指標を作ることは難しいようだ。

実際はかなりイーブンに近い形で家事をすることが多いように感じている。但し、最大の家事はやはり出産であり、これは女性にしかできない。出産というのは、妊娠から出産、そして新生児の育児と母体の回復まで含めてを言うと考えるべきである。

そうであれば、家事労働の負担は、出産がある以上、女性に多くの負担割合があるということは避けられない。

家事が女性にしわ寄せされるから女性の地位が向上しないというのであれば、女性の地位を向上させるためには出産をしないことが必要だということを言っていることと同じなのではないだろうか。

出産以外で、家事が女性にしわ寄せされているために女性の地位が向上しないというのであれば、どの程度のしわ寄せがなされていて、どの程度の労働時間の短縮を余儀なくされているのか、そのデータを報告するべきである。

データがなければ感想や印象で世界の政策が動かされていることになってしまう。また、その職場での地位が向上しないことは、その程度の労働時間の短縮によって正当化できることなのかよく考える必要がある。

不意の残業に対応しなくてはならないとか、恒常的な長時間労働をしなくては地位が向上しないというのでは、地位向上の美名のもと過重労働を放置していることになるのではないか警戒する必要がある。

3 「経済的自立が無ければ女性の地位が向上されない」という考えと「家事労働に価値を認めない」ということはむしろ親和するということ

日本の労働者階級は、戦前ころまでは農家が一番人口が多かったのだろうと思う。農家では共稼ぎが当たり前であった。都市部の比較的収入の高い職業で専業主婦となったのではないだろうか。

その当時であっても、外で稼がないから女性は地位が低いという扱いはなく、むしろ女性に対する配慮が道徳として浸透していた側面も確かにある。男性は家事育児に口出しをしないということで、女性の裁量を最大限尊重するべきだという風潮があった。

そうはいっても、女性の選挙権は認められておらず、行為能力も一部否定されていたことは間違いない。そういう意味で、女性からすれば差別的扱いをされたと感じることはもっともなことである。

しかしだからと言って、家庭の中で女性が馬鹿にされていたり、一段低い存在だと、男性が優越的な感覚になっていたかというと、実際はそうではないと思う。これは論証できない。自分の親戚筋やその近隣を見ていてそう思うとしか言いようがない。

現代社会の家事労働は、実は非常に価値の高い労働である。健康面一つとっても、環境問題や食材の安全性の問題など、知識と手間が要求される労働になる。教育も、学歴社会の中でいじめが無い子どもたちの世界を作ることにも保護者が協力しなければならないところが大きい。情報を取得して最善の方法を実行するためには知識と技術と労力が必要であり、家族単位でみた場合、そのリターンも大きい。だから現代日本こそ、専業主婦ないし専業主夫が家事を行う必要性が高いと私は考えている。

家事労働は尊敬に値する労働である。そこに価値を見出さない理由こそ、正直に言うと私にはわからない。家事労働の価値をきちんと認識する社会こそ目指す方向なのではないだろうか。外で働かないと輝けないとか、地位が向上しないという価値観こそ否定されるべきではないだろうか。

4 働けない事情は様々あるが、家事労働ならばできる人は多い 働くことに優先的な価値を認めることは障害者差別に親和する

働けない事情は様々ある。その中で、集団行動が苦手で職場で衝突してしまうという人たちが確かにいる。そういう人たちでも、家庭の中では尊重されて家事をこなすことができる人がいる。職場では効率が最優先であるため否定的に扱われるが、家庭では家族が良ければそれでよいのである。こういうパーソナリティの問題で働けないひとがいる。また、身体障害によって、会社などでは働けなくても、家事には対応できる人もいる。

私は身体障害の人の権利の実現する事件を担当することがあるが、障害を無くすことができないのだから、変わるべきは職場の価値観ではないかと常々感じている。

外で働くことに価値があり、外で働けないならば地位が向上は期待できないということを過度に強調することは、端的に障害者差別である。

ここまで書いてきて、私は自分の話が、揚げ足取りの批判のための批判だとは思えない。むしろ、G7の会議の方が、おそらく実際の人間の活動に影響を与えない方向の議論をしているという思いが強くなった。マスコミは、G7の話を深堀せずに、日光市の名産品などを紹介することが多いようだ。また、いくつかの前提とされている理論や価値観に対して疑問の声も、具体的な道筋の欠如も報道されないことに違和感が強い。

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