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私が「寄り添う」という言葉が嫌いな理由 そこに相手への尊敬が感じられないから 支援者(第三者の)の寄り添いが本人をダメにするパターン。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


寄り添いという言葉が大はやりですね。誰かから「それは寄り添っていない。」なんて言われると、反論することができなくなってしまいます。ある意味、呪文のようなものだと感じることが多くなってきました。思考停止の呪文です。

寄り添いという言葉は、
「傷ついた感情を肯定し、理解した上で受容し、いたわる」
という意味合いで使われているようです。抽象的には、それは大切なことなのでしょう。しかし、実際には、具体的にはどうでしょうか。

傷ついた人、葛藤が強い人は、面倒くさいから、
言われたことを
『理解できます。』
『もっともですね。』
『当然のお気持ちです。』
『あなたは悪くありません。』
と答えて、刺激しないようにすることだとでも考えているような発言に感じられる場合が時々あるのは、私がひねくれているからでしょうか。

家族とか友人とか、仲間ならそれでもよいのだと思います。その人が仲間ならば、一番ありがたいことは、一緒にいてほしい時に一緒にいてくれて、1人にしてほしい時に1人にしてくれるということだと思うんです。そういう仲間というのは、自分の寄り添いの結果で本人に何か悪いことが起きても、一緒に何とかするという覚悟がある人間だと思うんです。

ところが、弁護士とか行政とかといった第三者の支援者、つまり、その人とスポット的にしか関わらない人が、その人の感情を無条件に肯定して、やるべきことをしないということになると、その人に回復しがたい損害を与えたり、窮地に追いやることが生じてしまいます。その人はスポット的な関りですから、本人に損害や窮地が生じても、責任をとることがありません。
支援者として第三者がかかわるならば、本人が多少傷つく結果になっても、感情を害することになっても、言うべきことを言わなければなりません。それができないならばかかわりをやめるべきです。
もちろん言い方という問題はあるわけです。

仮に第三者としてかかわらなければならない支援者が、「あなたは悪くありません。」を連発したらどうなるでしょう。「自分は悪くない。悪いのはあの人だ。あの人を罰するべきだ。死んでほしい。」と、いささか極端ですが、こういう方向に流れていくとは想像できないでしょうか。自分の行動を修正する契機を失い、その結果、自分のいたコミュニティーに復帰できなくなってしまいかねません。
孤立が待ち構えているかもしれません。また、本人に何らかの要因がある場合には同じ過ちが繰り返される可能性もあるわけです。

例えば、単純な話では、期限が区切られている行動についても、今それどころではないと寄り添っていつまでも放置していて、本当は本人が得られるはずの利益が得られなくなるということもありうるわけです。これはわかりやすいのでめったに間違いは起こさないでしょう。

しかし、少し複雑な話になると、そういう単純な構造も見えなくなるようです。

私の職業柄のためなのか、よくあるのが、傷ついている人に、怒りの感情をたきつける形の支援です。我慢(自制)することが悪であるかのような行動提起をする支援の形があります。

何か衝撃的な出来事があって、生きる気力を失っているとき、そのまま生きる気力が失われたまま何もできなくなってしまうことがあります。そういう時に怒りという感情を持つことによって、感情がリセットされたように、途端に活動的になられるという場面は何度か見ていました。
怒りということも生きるためには必要な感情だと、私は思っています。

しかし、その人の中で怒りが固定化してしまったり、怒りの歯止めが利かなくなってしまうことがあるようです。そういう場合、もとからあった苦しみ、ダメージ、自分自身に対する不安感などは、むしろ残存してしまうようにも思われます。怒りが自分に向いてしまった場合は自死リスクも高まってしまいます。
怒りは自分も傷つけるようです。また、他者とは共有されない怒りを表出し続けてしまうと、他者は本人から離れていくことになります。第三者からは、それがはっきりわかるのですが、本人はなかなかそれに気が付きません。理不尽なことを受けて怒っていたら、仲間だと思っていた人たちが自分から去っていく。二重の理不尽を感じて、さらに怒りが大きくなり、さらに孤立が深まる。怒りのスパイラルとでもいうような状態になるようです。怒りは、対象を亡き者にしない限り収まりにくいという性質もあります。

自分が支援者だというならば、過剰な怒りの表出で孤立する当事者に対して、怒りの程度をアドバイスする必要があると私は思います。本人のためです。そのためには、本人の怒りの原因を本当に理解して、理解を示し、本人が理解されているなと感じられなければ反発されるだけかもしれません。

ところが、支援者は、「あなたが悪くない。怒りは当然だ。」と寄り添うわけです。
あたかも
「苦しんでいる人たち、傷ついているという人たちの心情は
必ず極端な怒り、制裁感情を覚えるものであって、肯定しなければならない」
という不文律があるようなグループを目にするときに強く感じます。

傷ついている人が傷ついているからこそ、冷静な判断ができず、単純な思考で行動を起こしたり、発言したりするわけです。第三者ならば、その言動の派生的効果を考えて、その人がさらに傷つく事態にならないために、「自分はそうは思わない。」とか、「そうではなく、こう考える考え方もあるはずだ。」ということを提起する必要があり、義務があると私は思います。

弁護士として実務的に言えば、駄々洩れのように寄り添っていたら裁判負けるんですよ。

そういう形で寄り添う人たちは、自分の果たすべき役割を意識しないで、なぜ「寄り添い」を優先するのでしょうか。

私は端的に言って、寄り添いが支援者の自己満足の場合があるのではないかと思っています。支援者にとって当事者は、利害関係のない他人なわけです。自分の「駄々洩れ寄り添い」によって、当事者が不利益を受ける可能性があるということに、あまり関心がないのだろうと思います。特に、自分とはかかわりのない場面での、当事者の生活において不利益が生じることはあまり想定していないのではないでしょうか。
例えば、当事者が支援者と別れて自宅に帰ったときにどういう風に近所から扱われるかとか、当面は良いけれど数年後、10年後に例えば今の子どもが成長する段階になったらどういう問題が起きるかとか、そういう自分とは関わらない相手の人生についての想定をしていないのではないかという心配があります。
そういう目に見えないところでの想定をしないから、今の目の前の寄り添いがすべてで、当事者が満足すれば、自分も満足できるわけです。

支援するつもりもないのに、支援をする者のように近づき、無責任に当事者の怒りをあおる典型はマスコミだと思います。

自己満足というと言葉が悪いとすれば、自分が苦しむことの回避でしょうね。当事者の感情を波立たせる話題や意見を避けることは、当事者の絶望を覗き見なくて済むことになります。第三者が本人の苦しみをどの程度理解できるようになるかについては、確かに難しいことがあるかもしれません。しかし、「あなたは悪くない。」と一言で片づけてしまえば、本当に楽な話なのです。これでは法律相談をしていてもストレスを感じることはあり得ないでしょうね。その人が、真摯に自分と仲間の人生の利益のために、本当はどうすればよかったのか、これからどうすればよいのか、そこに望みがあるかということを一緒に考えることをしないで済むという利点があるわけです。当事者の絶望に共鳴しないで済むという利点です。

逆に当事者に共鳴しすぎてしまって、後先考えるべき立場である支援者が怒りの当事者になってしまい、本人が不利益になるかどうかなんて考えないで感情のおもむくままに、例えば訴訟を継続するなんてことになるのは論外です。一部の支援者は、どうやら「共鳴する怒りは強ければ強いほど寄り添うことになるのだ。」とでも考えているような支援をする人たちもいます。これでは、明らかに自分の理屈上の怒りを、本人に押し付けて本人の怒りを先導ないし扇動していることになってしまいます。

本人は、怒りによって、悲しみや落ち込みが感じにくくなったという体験をしていますから、どうしても怒りの方向に同調しやすくなっています。時として、怒りや支援は、麻薬のように作用することがあるのは理由があることです。

何が本人のためになるのかという問題は難しい問題です。本人が決めることなのですが、本人の葛藤が強く、冷静に考えることができないからこそ支援が入るわけです。それでは、第三者の支援者は、どうすればよいのでしょうか。

第三者の支援者が行うことは、当事者に対して選択肢を提示するということだと思います。
裁判の場合で言いますと、当事者が判決とは関係のない立証活動をすることを希望している場合(自分のこだわりを裁判官に聞いてもらいたいという場合)、それによる想定される不利益をきちんと提示して、それでも望まない判決になっても良いという意思が真意として確認されれば、その活動を行うということはあり得ることです。しかし、「それをやることによって、あなたが合理的考えをして行動をしない人だと裁判官に印象付けてしまいますよ」と言わないで寄り添ってはダメだということなのです。

このパターンでよくあるのは、妻が子を連れて別居してしまったといういわゆる連れ去り事件で、「妻を怒らせてしまうと、子どもに会えなくなる。」ということをはっきり言わない弁護士でしょうね。本当のことを言っているのに、それで妻が怒ったら子どもに会えなくなることは理不尽です。しかし、「今の裁判手続きは、理不尽であり、自ら子どもに会えなくしていることになる」ということをはっきり伝える必要があるということです。
決定するのはあくまでも本人です。支援者は選択肢を与えるという役割と、自分ならこう思うというサンプルの提示をするしかないけれど、それをしないで済ませるということはできないはずです。
それをしないで、当事者の感情を駄々洩れのように肯定して追認して、その結果当事者が不利益を被ることは当事者の自己責任だというのでは、人を支援しているわけではないということになるように思われます。

当事者がいかに葛藤が高くても、一人の人格を持った人間ですから、自己決定をする権利があるわけです。しかし、知識が無かったり感情的に高ぶっていたりすると、他の選択肢が思い浮かばないし、どれを選択するかの意思決定が十分な思考をもって行えないという状態なわけです。
きちんと当事者の感情に沿わない選択肢であっても選択肢を提起して、どれを選択するとどのような効果になるかということについて説明を行うということをまずやるべきだということなんです。

そのためには、第三者の支援者の人間観として、
「感情が高ぶった相手も、十分話せばわかってくれるはずだ、十分理解して、後悔しない選択をしてくれるはずだ」
という相手に対する信頼を持たなければならないと思うのです。相手は感情に反することも冷静に考えて結論を出したという尊敬の念を持つのが当たり前だと思うのです。

駄々洩れの寄り添いには、信頼も尊敬も感じられません。どうせ言っても分からないだろうとか、感情が高ぶっている以上は仕方がないというと勝手に考えて支援者が本人抜きに自己完結しているような気がして、とても心配なのです。

私たちは、「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)という本を今年出版しました。
表紙修正.jpg
この本は、葛藤の高い人に「寄り添う」ための本ではありません。葛藤の高い人も、あるいは病気の人も、自分達と同じ地平にいる同じ人間なのだ、しかし、理由があって特定の行動や思考パターンになっているに過ぎないという考えを基盤として、相手に対する誤解をさけ、支援者側の障壁をなくし、肩を並べて共同作業をするための本です。法律現場でも、大先輩から直々にご感想のお便りをいただきました。しかし、学校現場でも多く読まれているようです。面倒くさい人をどう処理するかということでなく、一緒に歩んでいくことこそが、一番のコミュニケーション術だとご理解されて広まっているのだと勝手に考えているところです。

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【批判】自死はコップに水がたまるようにリスクが高まっていくという例えはやめた方が良い たとえ話を修正してはみる。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死の説明をする場合、誰が考えたのかわかりませんが
けっこう多くの人がするたとえ話があります。

それは、コップのようなものがあって、
何が嫌なことがあると一滴一滴、水みたいに溜まっていき
ある時あふれると自死に至る

という説明方法です。

多くは、
相手に対して普通に話していたとしても
本当は悪意も何も無いとしても
コップの水がこぼれる寸前の場合は
相手はひどく傷つき、それだけで自死をしてしまう危険がある
だから、乱暴な言葉は使わない方が良い
という指導の際の話なのだと思います。

こういう誤解を生むたとえ話はやめた方が良いと思います。

もちろん現実にはそのようなコップや水はなく
例えばそういうことだということもわかります。

しかし、第1に
日常のストレスというものは
コップに注がれる水のように
コップにたまって減ることがない
ということはありません。

実際は、色々な出来事が人間にとっては刺激になり
ストレスになっているのですが
ストレスがあったこと自体を自覚すらしないうちに
睡眠や他人のアドバイス等の働きかけ、
過去の経験との照合(睡眠)などで解消していきます。

そのときはストレスだったものが
視点を変えるとストレスではなくなるということもあり
それは成長・発達によってよりよく見られることでしょう。

英語の勉強をすることがストレスだったけれど
勉強の方法を覚えて楽しみになったとか
暗記に苦労していたけれど、実を結んだために
今では苦労したことが楽しい思い出になったとか

いつも嫌なことばかり言う人で
叱責ばかりされていると思っていたけれど
本当は悪気はなく、色々教えたいから言っていたことを知って
叱責とは感じなくなり、こちらから意見を求めて
むしろ頼れる人間として安心の材料になる
今まで言われていたことがありがたく感じる
とかですね。

本来は、たいていのことは、
地面に水がしみわたるようにしみこんでいくわけです。

狭い容器の中に一方的にたまっていくというのは誤解です。
ろうそくの炎が消えたら命が消えるみたいな現象はありません。

そして色々な方の色々な条件が影響するわけです。

敢えて器の例えを使うとすると
初めから器が無くて地面にしみこむだけの人
水をため込まないではじき返す人
そうかと思うと、器のようなものがあり
どんどん溜め込む人
あるいは器の小さい人
どんどん溜め込むけれど、器は大きい人

またどちらかと言うと
器は生まれたときから同じ大きさというよりは、

理由のあるなしにかかわらず
器が突然できてしまったり、
これまであった器が極端に小さくなってしまったり
ということが起きているようです。

この器のたとえ話の弊害は
以下のように起きています。

弊害1
「すべてのストレスが、自死の原因の一つである
だからストレスを掛けた人間は全て自死の原因である。」

人間が生きていくにあたってストレスは必ずしも有害ではないのに
例えば成長を促すきっかけになったりするのに
すべてをネガティブに評価しなくてはならなくなります。

その人の人生を否定評価の出来事だけが存在した
というようなまとめ方をしなければならなくなります。
しかし、そうでしょうか。
自死した人の人生は、すべてみじめな人生だったのでしょうか。
実際の自死事件を後追い的に見ているとどうもそうは思えないのです。

楽しいこともあったし、生きる喜びを感じていたこともあった
それもまた、真実だと誰も言わないことは
たいそう恐ろしいことだと私は感じます。

弊害2
「器の水がこぼれんばかりにあふれそうになっているときに
通常なら気にしない一言で人が死ぬことがある
言った自分はある人の自死の直接の原因を作った人物だ」

人を非難したり、貶めたり、嘲笑したりしない
ということは尊いことです。そうありたいと思います。

しかし、自死事件を後追い的に見ると
善意のストレッサーという存在が目につきます。

仕事上のミスを指摘して修正をお願いしたり、
攻撃されたと感じた人が反撃をしたり
ちょっとしたからかいがあったり、
なお、単なる事務連絡が引き金になったようなこともありました。

これらの行為が、自死の引き金になったと
評価してよいのでしょうか
私は良いとは思えません。

先ほども言いましたけれど
ある時、突然に容器ができてしまう
そして、多くは既に容器にはあふれんばかりに水が溜まっている。

私は、自死の原因はあくまでも
容器ができたこと、既にあふれんばかりの状態になったこと
に求めるべきだと考えています。

もっともこれは遺族ではない第三者としての意見で
自死予防に重点を置いた考えです。

既にリスクが高まった後で
言葉に気を付けましょうと言ったところで自死は防げません。
リスクを作らないことが一番だと思うからです。

道徳的にはあるいは正しいことを言っているように見えても
自死予防の観点からはむしろ弊害があると思うのです。

それから、語られない恐ろしい前提があります。

今自分が話している人たちは
この先の人生において身の回りに自死者を出さないだろうという
そういう前提です。

もし、自分の同級生や身の回りの者が自死して
その直前に自分が何か言ったり、言わなかったり
あるいは視線を動かしたりというくらいのことで
コップの水があふれれば、自死は自分の責任だという
罪悪感を持ち続けなければならないことになる
ということに全く考慮されていないと
私は思います。

弊害3
これが最も深刻な弊害かもしれませんが
自死は、誰か他人の行為だけが主たる原因である
だから自死をした場合には、自死をさせた犯人を探し出さなければならない
という誤解を招くということです。

コップに水が溜まっていくという几帳面な自死リスクの高まりというものは
私にはイメージが付きません。

ある日突然、容器ができていて
その容器には水が溜まっている
容器ができた原因は
確かに誰かが意図的にストレスを掛けたということもありますが、
病気など、だれの責任でもない場合も多くあります。

また、一度できた容器が極端に狭く小さくなり
その結果水が満杯になるという場合もあります。

絶望を抱いてしまう、通常あり得ないことが重なって起きてしまう
というようなタイミングの悪さということもありました。

それを誰かの責任にしてその人だけを責めると
新たな自死リスクが生まれることになります。

必ず誰か犯人がいるはずだ
という誤解をまぬくということが
最大の弊害かもしれません。






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いじめかどうかの議論よりも子どもの命の心配をするべきではないのか。教育現場において、子どもを心配する「システム?」を作る必要性がある [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法が平成25年に施行されています。
この法律では「いじめ」を幅広くとらえて、
いじめに対しては懲戒を行い、
重大事態(生命被害、心身被害、不登校)が起きたならば
いじめとの因果関係を調査し
教育委員会に報告する等の義務を学校に課しています。

いじめの定義だけここにも記録しておきます。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒との一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」

様々な問題点については1年前に書いていますので、
よろしければ以下をご覧ください。一部重複します。

いじめの定義を科学的なものにするか、いじめと認定した効果に教育的観点からの働きかけを入れるかしてほしい。いじめの定義は広すぎて改めるべき理由 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-11-26

この法律というか、現在の日本の子どもを守るシステムについては
子どもが「児童生徒からいじめられていた」といいう条件が
必要だということになっているという問題があると言えると思います。

いじめが無ければ、自死があっても、深刻な自傷行為があっても
何年間も学校に来なくても
調査も報告もしない
ということになってしまっています。

もしかしたら、
教職員の逸脱した指導があったかもしれない
登下校中に犯罪などの被害に合っているのかもしれない
それなのに
児童生徒からいじめられた子どもだけが
調査の対象となっているということはそれでよいのでしょうか。

こういう政策を原因として
児童生徒に何らかの被害が生じた場合、
無理やりにでもいじめがあったと主張しなくてはならない
ということになるような気がします。

但し、いじめは簡単に見つかってしまいます。
なぜならばいじめの定義が
子どもどうしの心理的影響を与える行為であって
それで子どもが心理的苦痛を与えられればそれでいじめですから。

未成年者が集団生活をしているのですから
当然、心理的影響を与え合っているわけですし、
未熟さゆえに心理的苦痛を受けていることも
日常茶飯事であるからです。

今大人になっている者たちの中で
学校で嫌な思いをしたことがない
苦しい思いをしたことが無いという人間が果たしているのでしょうか。

子どもに限らず対人関係上の心理的苦痛は
ちょっと加減をしないでやり過ぎてしまったなどの先行行為があり、
それに対して攻撃されたと思って、反撃をして
反撃をされたことによって、心理的苦痛を受ける
ということが日常無数にあるわけです。

この苦痛によって、自分の行動が失敗だったことに気が付き、学習し
行動を修正して人間関係に復帰していくわけです。

成長のために有益な苦痛となることが多くあります。
これも全部いじめになってしまいます。

(但し、一方的な八つ当たりのようないじめも確かにあります。
これは何が何でも大人がやめさせなければなりません。)

そして、反撃した人間が児童生徒であり
反撃された側の子どもが心理的苦痛を抱えていたら
懲戒の対象としなければならない
これがいじめ防止対策推進法の建前なのです。
法律の「加害者」に対するアプローチは懲戒だけです。

もちろん学校は「良識」をもって反論するのです。
いろいろと自己流の理屈をつけていじめには該当しない
と無理なことを言い出すわけです。

このように自己流のいじめ除外理由が横行してしまうと
どれもこれもいじめではなくなってしまい
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめだけがいじめになってしまい
気が付いたときには子どもの自死も防ぐことができない
つまり自死があったときだけいじめを認める
ということになってしまいかねません。

いじめの定義の問題が学校関係者においても
十分理解されていないのですから
世の中で理解がなされていないのは当然のことです。

これを読んでいる多くの方々も
いじめの定義の意味の問題点をどの程度の方が
ご理解されているでしょうか。
私は以前たまたま自治体のいじめに関する仕事をしていた時期があり
いじめの定義について資料に目を通す機会があったため
ここでこのお話ができるわけです。

「DV」という言葉で再三お話ししているとおり、
「いじめ」という言葉も独り歩きをしてしまいます。
「いじめ」があったというだけで、
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめがあったと
そう感じる方も多いのではないでしょうか。

子どもどうしのたわいもないやりとりも
法律上の「いじめ」に該当してしまうので、
子どもどうしのたわいのないやりとりをしただけなのに
残虐ないじめがあった
残虐ないじめの加害者だという受け止め方をされてしまいます。

なぜかマスコミも、
いじめがあったと認定すると
実体とは別に
残虐ないじめだったかのような報道をするようです。
しかも相手方のコメントも取らず、
第三者が存在している場合も第三者のコメントも取らず
一方の言い分だけを報道してしまいます。

さらにおよそいじめがあれば、
それがたわいのないものである可能性もあるのに
自死や不登校などの重大事態と結び付けようとする報道も
最近よく目にするとおりです。
根拠は、ただ、いじめと認定されたそれだけです。

それもこれも、いじめがなければ
調査活動を行わないという法律に問題があると私は思います。

自死という最悪の事態を考えてみると
ご賛同いただけるのではないかと思うのですが
いじめによる自死
教師の逸脱指導による自死
登下校の犯罪などによる自死
原因不明の心理的圧迫を受けての自死
私は全て防止する必要があって
そのために大人は全力をあげなければならないと思うのです。

さらに自死ではなく不登校だって同じだと思います。
子どもが長期間休校してしまうと
なかなか再登校することは難しくなります。

長期休み明けの心理が強大になり
否定的な記憶が優位になってしまいます。
また、自分がいない期間の中で
人間関係が変わってしまい、自分の居場所がなくなってしまっている
という不安も付きまといますし、
いざ登校してみると
知らないやり方が定着しているなど
お客さん気分、つまり自分はこの仲間ではないという意識を
拭い去るには相当の時間がかかるでしょう。

ずっと不登校が継続してしまい
学校どころか、社会に復帰することが困難になる事例もあります。

原因不明の不登校が起きたら
大人たちが団結して対応する必要がどうしてもあると思います。

自死に話を戻しますと
何らかの心理的葛藤があり
自死リスクが高まった場合、
不登校になって
重大事態の目安になる1か月休校を待って調査を行う
というのでは、
自死は起きてしまいます。

立ち止まって考えるとつくづく不思議なのです。
いつも登校していた生徒が突然不登校になったというのであれば、
心配にならないのでしょうか、
そうでなくても10代の若者が
突如家に引きこもった状態になったというのであれば
一体どうしたのだろうと心配になるのではないでしょうか。

人格の向上を最上位の目的として学校教育がなされているのだから
学校に来ないまま大人にすることはできないと
焦ってしまうことが普通ではないかと感じるのです。

このままでこの子の人生はどうなってしまうのだろう
と心配になることが、普通ではないかと思います。

いじめがあったかどうか
不登校と評価できる日数の休校があるかどうか
なんてそんなことはどうでも良いのではないかと思えるのです。

いじめの有無や休校日数は
こうやって考えると
学校が調査をしない言い訳に思えてきます。

自死が起きたら
学校としても、自分達に何らかの問題がなかったか
調査をしたくなるということが
あるべき人間の姿ではないかと思うのですが
違うのでしょうか。
また、そういう発想を持つ立派な教育委員会も現存します。

これからの日本は
今の子どもたちに大きな経済的な負担をかけることが予想されています。
子どもたちの一人当たりの負担を減らすという
私たち大人の自分勝手な利益のためにも
もっと学校に予算を投入して
子どもたちの健全な成長を確保する政策を実施するべきだと思います。

いじめに限らず
不登校や
不健康な状態
自死リスクへの対応をし
何が何でも健全に成長する子どもを増やすために、
予算を抜本的に増やし
当たり前に心配のできる教職員を
必要人数配置するべきだと思います。

ただ、お金をかけるだけでなく、
子どもの異変を心配する大人たちが教育に関わる仕組みを
作る必要性があると感じています。

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もう一つのインターネットパラドクス インターネットは現実の代替にならないのではないかということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]


「インターネットパラドクス」という言葉は1998年の論文で発表されました。
インターネットを利用すると、家庭内でのコミュニケーションの低下を招き、社会関係を縮小させ、抑うつ感や孤独感を増大させるという意味で用いられていました。

それから20年余り経た現代では、インターネットの中でもSNSの利用に伴うソーシャルネットパラドクスという言い方がなされています。友人たちのHappyな日常を見せつけられることによって自分の境遇のみじめさを感じてしまうという負の影響や、「いいね」などの反応をしなければならない等の負担感が原因として指摘されています。投稿しない閲覧中心の利用スタイルの方が、投稿を頻繁にする者よりも抑うつ傾向や孤独感が表れやすいという統計結果もあるようです。

今回はこういうことではなく、別の問題点について光を当ててみたいと思います。
コロナ禍で報告されている抑うつ症状として、学生が学校に登校できず、オンラインで講義を受けていた。友達ができない焦りなどから抑うつ症状を出現させたというものです。適切なカウンセリングによって症状が軽快されたとのことでした。
この学生さんも、友達ができないと言っても、それまでの友達もいるでしょうし、それこそSNSの友達もいたと思うのですが、それでは何かが足りなかったということなのでしょうか。この学生さんは、実際のところ、何を求めていたのでしょうか。

もう一つ、令和2年の自死の状況です。特徴的なことは、前年度比で、10代の自死が増えたということです。特に高校生女子が80人から140人に増え、小学生女子も5人から10人に増えたということに注目するべきだと思います。父親が家庭にいる時間が増えたので居場所がなくなったのではないかという根拠のない説明が公的にもなされるという驚くべき事態が日本の現状です。しかし、統計的にはこれは成り立たない説明です。例えば高校生女子の自死の原因としては、それまで家庭問題が原因のトップでしたが、令和2年は入試を除く進路の問題と、学業の問題が一位と二位になり、家庭問題は3位と後退しています。増えているのは家庭問題とは別の事情だとして原因をより詳細に考えて、対策を講じるということが科学的視点だと思われます。

学生のうつ病と、高校生、小学生女子の自死の増加という問題が関連しているのではないかという視点から掘り下げてみたいと思います。

これまでも子どもの自死の好発時期というものが指摘されていました。ゴールデンウィーク明けとか夏休み明けの日に自死が増えているということは統計的にも明らかです。
今回コロナ禍の学校の状況をみると、自宅でのオンライン授業ということが多くあり、実際の対面の授業、即ち、実際に同級生たちと過ごす時間が、断続的に停止されていたようです。自死の問題は当然のことながら個人情報の最たるものですから、その詳細が報告されることはありません。自死の時期と授業再開の時期だけでも明らかになるとある程度この説が証明できる又は否定されるのですが、ここは致し方ありません。但し、もしそうであれば、夏休み明けの日に子どもの自死が集中しているということと考え合わせると、同じ原因で自死が起きており、長期休暇明けという出来事が多かった分につれて自死が増えていったという説明が可能となるかもしれません。もちろん自死の原因はこれだけではないのですが、何らかの対策によって子どもの自死を減少させることができるかもしれません。

過度の競争社会による心理的圧迫感や自尊心の低下という根本的問題は今回は除外して考えます。根本問題が解決しなくても自死を無くすべきであり、できる対策をするべきだという考えに基づいています。

さて、それではどうして長期休暇明けに自死が増加するのでしょうか。これは、これまでもこのブログでたびたび以下のような推論を述べているところです。
学校での人間関係は、同級生であったり、部活動の仲間であったり、その他の子ども同士の人間関係や、教師、学校職員との人間関係があります。そのすべての関係で円満な、心穏やかになる人間関係が構築されるということは難しい話だと思います。そのどこかの人間関係において、ストレスが生じるような不具合の伴う人間関係があると思われます。それでも、長期間継続して人間関係を構築していく中で、対処の方法を覚えたり、誤解があった場合にそれが解消されたり、あるいはその人の行動に馴れが生じてだいぶ気にならなくなったり、友人が援助してくれたりして、なんとか毎日を緊張感をもって乗り切っているということが少なくないと思います。
しかし、長期休暇になって、そのような緊張感の不要な日々が続いてしまうと、「なんとかなっていた」という安心の記憶が失われるということが起きるようです。同級生、部活動の仲間あるいは教師との関係などとの困難な場面だけが思い出されてしまい、それを乗り切ってきたはずのその安心の記憶が蘇らないのです。
この安心の記憶というのは、言葉にできる記憶ではなく、言葉以前の生理的現象の記憶というようなものかもしれません。実は、学校に行って、校舎の壁の色を見たり、階段の角の足に当たる感触を感じたり、教室のにおいを感じたりすると詳細が思い出されてきて、それほど心配することがないことも思い出されるということが多いようです。しかし、ただ家にいると安心の記憶を思い出すツールが何も無いので、困難な場面だけが思い出されて、対処の方法が無いという結論になってしまいがちになるようです。記憶というものが危険を記憶して危険に近づかないという機能を持っているため、どうしても危険の記憶を優先して思い出されるようです。
学校に行けない、行く気力が出てこない、学校で悪いことが起きて逃げられないのではないかという感覚は説明しがたいものがあるので、なかなか周囲はそれを理解できません。困難な記憶の方、同級生とのトラブルや教師からの叱責などについてはそれなりに理解できますが、「そんなことで学校に行きたくないのか」という評価になってしまいます。安心の記憶が持てないことについて理解できないからです。
学校に行けない生徒の中には、不安が飛躍していく場合があります。学校を卒業できないような自分は社会に出ていけない、社会の中で不遇な人生を歩み、みんなに馬鹿にされてみじめな生活を余儀なくされるというような悲観的未来だけが想起されていくようです。こうして社会とのかかわりを拒否する傾向が生まれてしまい、不登校スパイラルになっていくようです。それでも明日は学校に行かなくてはならないという強迫観念が外部からも内部からも押し付けられていくわけです。そうなるともう毎日が夏休み最終日です。毎朝が苦しい時間となり、学校が終わる時刻にようやく少し楽になるのではないでしょうか。

「自分が関係する仲間の中で安心の記憶を持ちたい」という要求は、必ずしも自分が具体的に困難に直面していなくても起きるものだと思います。また安心の記憶が持てない場合は、かなり精神的に追い込まれてしまうようです。具体的なトラブルがある場合は、不安を解消して安心したいという気持ちはわかりやすいのですが、これと言ったトラブルがない場合は周囲は理解しがたいのだろうと思います。

冒頭述べた、学生さんがコロナで実際の人間とのリアルな交流がないことでうつを発症したということはこのような文脈で理解されなければならないことだと思われます。仲間と安心の記憶をもって、自分が仲間とともに学生という立場になったという安心感を持ちたいということなのだろうと思います。新たな人間関係の中で、自分が仲間として受け入れられているという安心感と言っても良いでしょう。この安心感を持ちたいというのが人間の根源的要求であり、これが満たされない場合は、心身に不具合が生じるということなのだと思います。

そうだとすると、何らかの事情、例えば精神的な疲労の蓄積、睡眠不足による思考力の偏り、誰かの影響などによって、安心の記憶が持てなくなり、具体的な人間との切り結びを一切行えなくなるということがあり得ることだということです。もちろん、いじめや無理な指導と言った具体的なトラブルがあればなおのことだと思うのですが、必ずしもそういうことではないような気がします。つまり、危険の記憶が小さい場合でも安心の記憶が持てないために行動ができないという相関関係にあるように思うのです。

 そして肝心なことは、インターネット、SNSでは、この仲間の中での安心の記憶というものが持ちにくいということなのだろうと思います。インターネット、SNSは、距離を超えて、あるいは立場を超えて、様々な人たちが交流を持てるツールであり、人間関係を無限に広げることを可能にしたツールのはずです。確かにSNSによって人間関係が広がっていくのですが、そのSNSの人間関係において、安心感の記憶を持つことができない。人数が広がった分だけ不安の材料もまた増える可能性があるということになりそうです。少なくともSNSでの人間関係の拡大は、人間の根源的要求を満たしはしない。即ち、自分が誰かと人間的なつながりの中で生きているという実感を持つことはできないということです。自分の大切に思う相手の、実際の生の声を聴き、実物をみて、あるいは手で触り、あるいは匂いやぬくもりを感じるということこそ、人間には必要なことであり、インターネットはそれを代替することはできないという仮説を立てることができるのではないでしょうか。

コロナのために直接会うことができないということは、不便なこと、経済的な問題があるということにとどまらず、人間の根源的要求を否定しかねない重大な問題が生じるということだと考えるべきだと思います。コロナ禍から、私たちはもっと大きく、もっとリアルに問題を把握しなければならないと思うのです。

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【緊急】文部科学省の令和3年の自死対策 コロナも令和2年の統計結果も関係ないまとめではないのか。つまり実効性に疑問を払しょくできない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

令和3年度 児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議 審議のまとめ

文部科学省の審議会が令和3年のまとめ報告を令和3年6月に行いました。
https://www.mext.go.jp/content/20210629-mxt_jidou02-000014544_002.pdf

この点について読み込んでメモをする必要があったので、ついでにブログにして保存することにしました。

文部科学省に児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議という審議会があるようで、毎年一度審議のまとめを発表しているようです。令和3年度は、5月7日に第1回会議があり、6月25日に第2回会議があったとのことです。いずれもweb会議だったそうです。そして、6月に、資料を除いて30頁の審議のまとめが発表されました。二回のweb会議で誰がどうやってまとめたのかたいそう興味のあるところです。

(6頁)同会議は、まず、令和2年の児童生徒の自死に関する統計を確認しています。子どもの自死は増えています。特に高校生女子は、80人から140人に増大しています。小学生女子も5人から10人に増加しています。小学生の自死が少ないにもかかわらず100%増ですから、人数が5名だとしても本来大問題とするべきですが、特に言及はありませんでした。警察が調査した自死の理由を分析しています。まとめとしては、うつ病を含む精神疾患の影響の割合が増えたことを多く指摘しています。高校生では、入試以外の進路の悩みが、学業不振、病気の悩みが上位を占めたそうです。ここで注意するべきは家庭問題を理由とする自死が増えたという事情が報告されていないということです。また、どうして精神疾患にり患したかということは考察されていないということも留意しておく必要がありそうです。このため、対策としては、論理的には進路の悩みと健康状態の悩みにどう対応するかということが議論されるはずだと述べておきます。

(9頁)次に、コロナ禍の家庭環境の変化について、統計の直後に分析しています。先ず、進路問題や健康問題についての分析が先になされるべきと思われますが、なぜか家庭問題が第一に分析されているところも留意が必要です。
 ここでは、在宅ワークのために父親がリビングなどを占拠し、「家中に声をとどろかせて」オンライン会議をしていた、家族は息をひそめて過ごしていた、母親は家族全員分の食事の用意などをして自分の時間が無くなっただろうという、根拠を示さない推測をしています。さらには一世帯当たりの酒量が増えている家計調査を示し、「酒を飲めば酩酊するはずだ、酩酊すれば声が大きくなり、感情の制御も難しくなり、家族間の衝突が多くなった」かのような文章が続きます。子どもたちはこの問題から遠ざかるためにスマホ、ゲーム、動画干渉に依存し、親の干渉を呼ぶという悪循環が起きて、家庭が居心地の良い場所ではなくなった可能性は否めないとしています。このような出来事があったということは推測にすぎません。また、自死者の家族問題がこういう問題であったという調査も全く示されていません。
 なぜこのような推測と決めつけの話を原因論の冒頭で行うのか私には理解できません。

(9頁)そして、学校環境の変化について言及がなされています。そこでは、運動会や文化祭、遠足や修学旅行などの行事の中止、部活動や合唱コンクールの中止や延期が冒頭に上げられ、次に友人や学級担任などの交流が亡くなったことを指摘して、これを環境の変化というようです。加えて、カウンセリングの相談が難しくなったというのです。これが児童生徒の自死予防を増加させてしまったというのです。しかも、そのことによって、むしろ日常の学校生活やカウンセリングが自死予防に効果があったことを証明しているというのです。
 現実の児童生徒の自死の原因について、詳しく調査をしたという話がないままの自画自賛が続いているようです。はたして、カウンセリングなどがどの程度の自死予防に貢献したのか、その論理的確からしさのない我田引水の感想文に過ぎないと思うのは歪んだ味方でしょうか。

(10頁) 次に児童生徒の自死の原因としてうつ病とあるが警察官の調査によるものでうのみにすることができないという指摘は正当だと思います。また、精神科の専門治療につなげるだけでは児童生徒の自殺予防としては十分とは言えない可能性があるとの指摘があり、この点は賛意を示します。しかし、ではどうするかということで、「地域の保健業績感や児童福祉機関、あるいは、民間の社会資源とも連携した支援が必要であるともいえる。」これが具体的に何を意味するのかについては、この時点では不明です。また、どうしてそれらの連携が有効なのかについてもわかりません。やや唐突な印象を受けます。但し、学校と精神科だけで抱え込んではだめだということは賛意を示します。

そして課題に移るのです。つまり、原因として増えている、入試以外の進路についての自死の理由については全く考慮されていないというところに注意していただきたいと思います。確かに5月に始まった会議で6月にまとめたというのであれば審議期間が短いと言えるのですが、どうしてそんな短い審議機関でまとめを出さなければならないのかについては理解が及びません。

(11頁) コロナ禍の社会変化に対応した児童生徒の自殺予防に係る課題
と題された論述が次に展開されます。
 どうしても気になることが、常に不十分、原因を作っているのが家庭で、学校は支援を補充する場所、子どもを支える「プラットフォーム」だという論法にあります。学校が原因で自死リスクが高まるという観点が全くありません。いかに文部科学省の審議会だとは言え、「指導死」という言葉もポピュラーになっている現在、そのような視点が全くないことは奇異であり、科学的分析とは遠い分析がなされているような印象を受けてしまいます。先ず、子どもを守るのか、学校を守るのか、鼎の軽重を見せてほしいところです。プラットフォームの意味が分かりにくいのですが、どうやら基盤という意味で使っているようです。子どもを支える基盤、基礎が学校にあるという考えに立っているようで、国民の意識との乖離がないかどうか検証するべきだと思いました。
 そしてSOSの出し方教育を含む自殺予防教育が必要だというのです。これではコロナはあまり関係なく、コロナ前からの行政の主張を繰り返しているだけだと私は思います。

(11頁)コロナ禍で児童生徒の危険を支援につなぐ必要があるとして、そのためには子どもの援助希求を求めることが重要などしながらも、追い込まれた人間心理としては援助を求める行為は厳しいという意見には賛成です。ではどうするかということなのですが、日々の健康観察、相談体制、そしてアンケートとのことです。これは従来から学校現場では行っていると思っているようなので、具体的に何が足りなくてどうすればよいのかということを指摘しなければ、「もっとがんばれ」と言っていることに等しいと思います。その上で、SOSを表現しやすいツールの開発や表現されたSOSを支援につなぐ体制の強化が対応策だと言っています。自らSOSを発することが心理的に難しいと述べていながら、難しいことをどうやって克服するかを示さずにもっと頑張れということで終わりにしているような気がします。

(12頁)SOSを把握した場合の体制が論じられていますが、一言で言って連携をしろということに尽きるようです。それは間違いないとは思いますが、現状で連携していたのかいないのか、不十分であればどこがまずかったのか、そして具体的にどうすれば連携できるのかについては一切言及がありません。つまり、また頑張って連携しろということなのでしょう。とにかく学校側の反省は全く論述されていないと言ってよいでしょう。
 そして、家族に問題がある場合もあるので、家族の機能を代替する方法を考えろと言っています。具体的には児童相談所の保護なのでしょう。学校に問題がある場合は一切想定されていません。

(13頁) 第2章 コロナ禍における児童生徒の自殺予防等のために必要な今後の施策がここから始まります。具体的に見ていきましょう。

1)各人がかけがえのない個人としてともに尊重し合いながら生きていくことについての意識の涵養等に資する教育又は啓発
  自尊心を向上させろというのです。文部科学省は自尊心とか自己有用感ということが大好きなようですが、もうこういう言葉に頼ることは止めるべきです。どうして子どもが自尊心が低いのか、その原因を突き止めて改善することこそが大切のはずです。環境をそのままにして自尊心だけを高めろと言っても私には無理な話だと感じられます。具体的には心理プログラムを実践しろと言っています。教育の在り方についての充実については放棄し、心理プログラムでつじつまを合わせろと言うように聞こえてなりません。

2)困難な事態、強い心理的負担を受けた場合等における対処の仕方をみにつける等のための教育又は啓発
 子どもに対して、一般的に強い心理的負担を受けた場合の対処の仕方を身に着けされるという施策は無謀としか言いようがありません。こんなことをするよりも、教師一人一人が、子どもに信頼される方法を身につける方がよほど実践的だと思うのです。しかし、この審議会は学校に対する反省が全く見られませんので、教師に問題があったというアプローチを拒否するようです。あくまでもSOSを出さない子どもと、家族に問題があるというアプローチで児童生徒の自死を減らすことができると考えているようです。

3)心の健康の保持に係る教育または啓発
  祖の教育とは何かと言うと「こころの不調や精神疾患についての知識を得ること、病気を予防したり、自分のこころの不調に気付いて周りの大人や友達、専門相談機関などに相談したりできる力をつけていくこと」だそうです。
 先ほど追い詰められた者が、自ら援助を求めることは非常に難しいとした指摘をした同じ会議が言っていることとは到底理解できません。矛盾していると言ってよいと思います。

児童生徒に対する働きかけは以上となるようです。

(14頁)そして体制整備を施策としようとするようです。
プログラムとして、「学級の一員としての自覚や自信の獲得や、互いを認めあえる人間関係の構築」ということについては大賛成です。ただ、このプログラムを実施すれば、学校現場の負担軽減に繋がると考えられるという見解は学校現場とはだいぶ乖離していると思いますが、いかがでしょう。

そしてSOSの出し方教育を含む自殺予防教育プログラムの構成要素の明示がなされます。具体的に引用しましょう。
①早期の問題認識(心の危機への気づき)
・チェックリストなどを用いて自身のこころの状態へ気づく。
・心の危機につながる出来事、状況を知る
・心の危機への対処方法を考える。
②援助希求的態度の促進
・心の危機への対処方法として、他者に援助を求めることの重要性を知る
・友人、教員、家族、親族の他、地域の相談機関など、相談先について知る。
・友人の危機に気づいたときの対応方法、き(気づいて)、よ(よりそって)、う(受け止めて)、し(信頼できる大人に)、つ(つなぐ)について知る。
いずれにしても子どもに自分を守らせようとしている姿勢は鮮明です。そんな都合世の良い自殺予防教育プログラムというものが文部科学省では用意しているのかもしれません。いずれにしても自ら援助を求めることは非常に難しいとした指摘した態度とは別人格だと思います。②のひらがなをつなぐと教室という言葉になりますが、そこまでして話すほどの促進方法なのか賛同しかねます。むしろ信頼できる大人を作るということが前向きだと思います。
私の独自の考えかもしれませんが、プログラムの作成が可能となったとしても効果は極めて限定的だと思います。自ら援助を求めることは非常に難しいとした指摘の論理的帰結だからです。

(15頁)心の健康の保持に係る教育の実施時間の確保
一学期あたりに2,3回の時間を確保してSOSの出し方教育を行うそうです。日常的なクラス指導の中に組み入れていくということも検討していただきたいです。

こころの健康の保持に係る教育の実施に関するマンパワーの確保
スクールカウンセラーの活用が唱えられています。おそらく理想的な経験も知識も、技術も豊かな心理士が十分に確保されているという前提なのだろうと思います。

(15頁)ICTの効果的な活用
結局ネットワークと端末の整備のことらしいです。こういう審議会のまとめでありながらICTとはなにかということも記載されていません。SNS相談などを行えと言っているようです。ずいぶん過大な評価をしていて、デメリットについて考慮がなされていないものだなあと感心することしきりです。現状分析とは全く関係がなく、唐突にICTが出てきたなと感じます。そう言っておきながら、まず導入してからなのでしょう。活用のメリットデメリットについて、丁寧な検討が必要だとしています。デメリットを検討しないで導入だけは呼びかけるということなのでしょうか。理解がなかなか難しいところです。

(17頁)関係機関等の連携体制の構築
協力体制を保護者、地域の関係機関との間で(学校は)築く必要があるということはそのとおりでしょう。奇妙なことは自死の原因の上位3が学業不振、進路についての悩み、親子関係の不和だとしていながら、家庭の問題をどのように解決するかという文脈になっていることでしょう。連携が大切なことは、学校の反省を促す意味でも必要だと思われます。

以上が第Ⅰ部でした。
第Ⅱ部はSOSの出し方教育を含めた自殺予防教育の在り方とのことです。
(20頁)これまでの取り組みが記載されています。
(21頁)SOSの出し方教育の在り方
まあ、色々書いてあります。児童生徒の自死が無くなるように、個別事案に応じて必要なことはすべてやるべきだと思われますが、なぜか大きくSOSの出し方教育という縛りがあり、これに該当しない教育は認められず、その基盤や環境整備として位置づけられなければならないというような説明がなされています。仮にSOSの出し方教育が完璧に自死予防に効果的な方法で、それ以外はむしろ弊害が大きいというならばこういう議論は意味があるとは思いますが。なんにせよ、大人ができないことを、いかに教育とは言えできるようにはならないのではないかと悲観的な感想が首をもたげています。これは私だけが言っているのではなく、協力者会議が同じような意見を言っているようです。(26頁)私は、この懸念に概ね同感です。
つまり、このまとめ文書の名義人が懸念を持っているのにもかかわらず、強引に推し進めようとしているということです。誰がこのまとめを作成しているのか、訳が分からなくなります。
(28頁)学校の施策で留意が必要なものとして
・関係者の合意形成
・適切な教育内容
・ハイリスクの子どものフォローアップ
これらはその通りだと思います。ただ、相変わらず、家族が子どものストレッサーであり、学校はフォローをする組織であるという姿勢はあっぱれなほど一貫しています。

どうか、私の歪んだ見方ではなく実物をご一読ください。
歪んだ見方とは、結果としてコロナとか、令和2年の統計とかとはあまり関係のないところで議論をして、原因分析を科学的に行わないで従来の対策を繰り返し主張しているという感想を払しょくできないということです。

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【まるっきりネタバレ御免】映画版「ソロモンの偽証」勝手にレビュー。藤野涼子さんをはじめとする俳優陣の好演と対照的に残念な自死の描き方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、長時間留守番をしなくてはならない日があって、
留守番はカギに任せて出かけて、楽器の練習をしに行くのが常ですが、
腰痛のために出かけられず家にいることになりました。
本を読むのもしんどくて、
仕事の関係で知らないうちに入っていたビデオサービスがあったと思いだし
日本映画で、何を見ようかなと選んでいたら
年齢制限のかかる映画ばかりで、ちょっと見れないなと
あとで私がそういう映画を一人で見ていたと思われるのが嫌というか。

それで、宮部みゆき原作の「ソロモンの偽証」
前編後編を見ようということになったのです。
制作当時、書店でずいぶんビデオが流れたりポスターが貼られていたのを見て
興味があったということではあります。

宮部みゆきさんはずいぶん読みました。
仕事がら「火車」から入って、テレビドラマもみて
現代ものから時代物までずいぶん読みました。
多少つじつまが合わないかなと思っても
面白ければいいやというたちなので、
あまり気にせず読んでいたのですが
ちょっと調べてみたら21世紀にはいっては読まなくなっていました。

面白ければよいのですが(夢中になって読めるということですね)
少年事件を題材にした作品がどうしても気になったというのがきっかけです。
なぜ事件をその少年が起こしたのかという掘り下げが弱く
被害者の被害はよく描かれているのですが、
どうも話が薄っぺらくなっているところが気になって、
読めなくなってしまったようです。

「ソロモンの偽証」も、中学生たちが主人公で、
そのような心配が正直ありました。

ここから先はあくまでも映画を観ての感想です。
映画と原作とは違うのだろうとは思います。

先ず、いじめなどの事件を起こす大出ですが、
この人物は比較的丁寧に家族構成などが描かれていて
感じは良かったです。
その原因となった両親の描き方まで言うときりがないから
これはこれで良かったのだと思います。
簡単に更生しないけれどそれなりに上を向く
というラストはほのかに明るさを感じさせて印象的でした。
俳優さんもよく理解して演じていて好印象でした。
この人の描き方が良かったので、後編まで観られました。

主人公の女優さんは、気迫すら感じました。
大きな画面にアップされた時の一つ一つの絵がビシッと決まっていて
この人でなければ成立しなかったかもなと思わせる
圧巻の演技でした。
役名と同じ藤野涼子さんという名前は憶えておきましょう。

生徒役の皆さんはおしなべて、
自分が求められる役割をきちんと果たしていて素晴らしかったです。
富田さん、前田さん、良かったと思います。
裁判で唯一偽証をする石井さん、難しかったと思います。
行動原理が理屈っぽくなってしまったのはあくまでも演出上の問題であり、
女優さんの女優根性は立派でした。
お年頃なのに、よくもまあ、自分を醜く見せられるものだと感心しました。
実物は個性的な押しも押されもしない美人です。

大人の俳優さんも良かったです。
イライラさせるべきところで、きちんとイライラさせる演技は
あとで、あああれでよかったんだなと納得させられました。
松子のご両親役は、光っていたと思います。
演出の腕の見せ所でしたね。この映画の救いの部分担当というか。

中学生たちの模擬裁判が現実の日本の裁判実務と違う
ということは全く気になりませんでした。
気にならないように、複線を貼っていただいていたので
話に没頭できました。

概ね感動をしながら映画を観ていたのですが
そういう話をするためにこのブログで書こうとするわけはなく、
残念なというか、言っておかなければいけないところがあるために
ブログを書いているわけです。

最大の問題は自死の描き方でした。
この点は、大いに批判されるべきです。
このことを言うための記事です。
ここから一気に話は暗転します。
映画の良いところだけ読めばいいやと言う人は
どうかここまでにしてください。




おそらく原作は映画よりももっと
自死の実態についての理解抜きに
俗物的な解釈で自死を描いていたのではないかと想像しています。
文字通り、自殺は自分を殺すことだとでもいうような感じで。

おそらく映画の方はできるだけリアリティーを持たせようと
苦労して、いろいろなことを省略をしていたように感じられました。

なぜ柏木は自死をしたのか。

映画の方は、観ている方があまり気にならないように
ごまかしている。
のだろうなと感じました。
これは悪いことではなく、良心的な意図だと思います。

それでもあえてそのごまかしたところを分析してみます。

自死した柏木は、中学校2年生頃から抑うつ状態になっていて
不登校引きこもりになります。
世界が虚無で満ちており、生きるに値しないと感じるようになっていったようです。
病前性格か病後の症状なのかははっきりしませんが
きれいごとと感じる言動をする他者に対して
猛烈に人格否定となる言動をするようになります。

これはかなり病的な行動として描かれていて、俳優は好演

藤野を偽善者呼ばわりするときも、
一切の許しを拒否する姿勢はある意味圧巻で
相手の感情にいささかも共感できない様子を描き切っています。

いじめの現場を見てもいじめられている被害者がいることには
何も心を動かすことはなく
いじめを見過ごそうとする人間だけを罰しようとする
そのくせ自分も何もしない。
つまり、攻撃のためだけに生きている、
生きる原理が他者を罰することのような人格が描かれています。

柏木は神原に対しても
神原の父親が酒乱で母親を殴り殺し、勾留場所で自死した
というエピソードがあり
実の両親のことを忘れようと神原がしていることを知って、
神原に命じてクリスマスイブの雪の夜に
神原の両親との思い出の場所を歩いて回らせ
感想を言わせるというゲームをやらせる。

これに、神原が応じる(けっこう自然に映画では描いていました)。
実際やってみると、神原は、忘れようと目をそらせていたけれど
実際に訪れると、楽しい思い出もあったことに気が付き
それを柏木に告げる。

柏木はその神原の言動を否定する。
殺人者の父親と殺された母親との記憶に温かいものがあるはずがない
お前も血塗られた血の持ち主だと罵る。
そして深夜の学校の屋上に神原を呼び出し
一緒にいろと命じるが
神原が拒否して屋上を立ち去った直後
屋上から身を投げる。
(だいぶ省略していますが)

だいたいこういう流れだったと思います。

この自死を遂行する場面の描き方が
あまりにもリアリティーの無いところで、大変残念なところです。

これでは、自死が誰かへの当てつけで行われることがあるように印象付けされるし
自死が自分の意思で意図的に行われうるかのような
誤解を観る者に与えてしまいます。

これでは、
ネット記事を見て事情を知らない人が憶測しているような自死の構造です。
あるいは高齢になって、自分の知らないことは無いという傲慢な感覚で
解決策を思いつかないで苦しんでいる人たちを馬鹿にする小説家Sの感覚です。
さらには、自死をした人に非難が向かうような描き方にもなっています。

確かに、自死が起きた場合は
周囲は、自責の念を感じます。
これは自死者との距離や対人関係の質によっては
壮絶な苦しみを抱く場合があります。

そして、物理的距離が近くて
心理的な距離が近くない場合は、
自責の念が歪んでしまって、
自死が自分に対する当てつけであり
死んだことによって反論のできない暴力的な主張だ
と感じる場合もあるでしょう。

確かに自死した人たちの遺書を読むと、
多くの人たちに対する配慮が記載されているのに
特定の人に対してだけ
皮肉のような内容の文言が書かれていることがあります。

しかし、後追いでなぜ死んだのかということを調査すると
誰かに当てつけをするために自死をするということはない
ということがリアルな実感です。

遺書がある場合は、死ぬ前に不思議な静寂の時があり、
様々な配慮をするような思考が可能となることも確かにあります。
ただ、それでも残された者を思いやっても
自死を決行することが揺るぐことがなく、
残された者に詫びながら亡くなっていくということが
私が後追いで関わったすべての自死のケースで言えることです。

遺書がない場合も多いです。
何かにとりつかれたように
自死の行動に向かっていくのです。
自分は死ななくてはならないと思っているかのように
最大限の努力をして死ぬ行動をします。

これに対して、
残された方とすれば
何か心当たりがある場合は
自分が死に追いやったのではないか
と感じる人たちがいることも間違いありません。

実際にそういう場合もあるでしょうが、
それは、実際に自死の行動に入り始める前の事情であり、
自死リスクを高めた事情という評価になるでしょう。
死ぬ瞬間、あるいは直前の心理ではないと思われます。

自死リスクを高めた事情としては誰かの言動が
理由となる場合があることは事実です。

しかし、今から自死するという時に
誰かの言動で自死を決意して実行する
例え、そのうち死のうと思っていても
その言動をきっかけにということはありません。

そんなに簡単に人は死にません。

この映画の一番残念なところは
(私の個人的な意見ということですが)
自死が、自分の自由意思で行われているという前提にたって
自死を描いているということです。

何をもって自由意思というのか難しいところですが、
自死者の意思を想像すると
「自死を途中でやめる」という選択肢を持てないところで
自死が行われていると感じられます。
「自分は死ぬしかない。死ななければいけない。」
という病的なまでに強固な想念とでもいうものに支配されているようです。
自死のメカニズムの研究の張賢徳(ちょうよしのり)先生は
解離状態が起きているとの説を説かれています。

分かりやすく言うと自分の日常の人格とは別に
病的な別の人格となって自死を決行するという感じでしょうか。

なぜこれを問題にするかというと、
自死はもっと追い詰められて行うもので
死ぬ他に選択肢が無くなって死に至るということが実態なのに、

色々考えた結果自由意思で死を選び
自分の命を誰かに当てつけにする目的で死ぬなんて言う
余裕のある自死なんてあるはずがない。
それにもかかわらず、そういう死が少なくないように
人々に誤解と謝った先入観を与える危険性があるからです。

この映画では自死者が人格的に問題のある行動をしてきたことは
明るみにだされましたが、
判決の結論部分は、さらっとしていて
大出が柏木を殺したのではないということだけが強調されていました。
ここは今考えるととても良い演出だったと思います。

ここは原作とは違うところかもしれません。

ところで自死を途中でやめた人から話を聞いたのですが
止めるきっかけとなったことは
ある人に対する強烈な憎しみでした。
「自分が死んであいつが生き残るということは許せない」
という思いが死を思いとどまらせたようです。

憎しみや怒りは、最後の最後では
生きるために必要な感情になるということです。

柏木にとって神原が、両親との楽しい思い出があったということを語り
そのことに偽善者である、あるいは嘘をついていると
激しく非難したのであれば、そのような人格であれば
神原が立ち去ろうとしたのであれば、

神原の言動によって、むしろ自死を思いとどまり、
神原への攻撃を生きる喜びとして
立ち去る神原を追いかけて行っても攻撃するということがリアルでしょう。

神原が立ち去ったことが自死のきっかけになることは
私にとっては許しがたい矛盾だったのです。

なぜ、そのことで、ここまで激しく書いているかという
その部分を最後にお話しします。

この映画は、とても大きなテーマをもって作られています。
それは、印象でもって決めつけをしてはならない
特に確かな根拠もなく、他者を非難してはならない
理由なく人格否定された人間が著しく傷つくということです。

そもそも、裁判自体が
大出の冤罪を晴らして無罪にするために行われたものでした。

映画中印象的なシーンでは
告発状を受け取ったはずの担任が受け取っていないと言ったのに対して
受け取っているはずなのに卑怯だと言われて
担任が追い込まれるのですが、
実際は隣の住人が盗んだということでした。

それらの思い込みによって生じた他者への攻撃を解消するためにも
その時苦しんだ学級の全体で真実を共有する必要があり
どうしても裁判が必要だったということだったはずです。

ところが、この映画は、肝心の、つまりミステリーの起点になったはずの
自死については
「自死者の性格が悪いために勝手に自死したものであり、
そのために周囲がとても迷惑をしている」という型を
最後まで外すことができませんでした。

聞きかじりの思い込みで自死が描かれているということです。
フィクションとしても一気に面白みが失せたポイントです。

このような聞きかじりの論調はマスコミでも肯定的に取り上げられています。
自死は他者に迷惑をかけるもので、非難されるべきだというのです。
容赦なく死者とその家族に鞭打つわけです。

少年事件を取り上げたときもそうでしたが
この作家はどうしてもそういう非科学的な論調に乗って
事件を起こす少年というものは
人間らしい思いを持たない特殊な人格を
生まれながらに持っていると理解しているかのような
印象を私は個人的に受けていました。
この人の小説が面白くなくなった一因は確かにここにありました。

それを象徴するように「描かれなかったシーン」があります。
自死をした柏木の両親も裁判に傍聴に来ていたのですが、
柏木の病的な話が出てくるとき一度だけ
父親を演じた宮川一郎太が困惑している様子が写されていました。

しかし、裁判が終わった後に
柏木の両親の姿だけは映されませんでした。
話の流れから行って不自然だと思います。

どう演出をつけて良いか分からなかったから
ごまかしたのだと思います。

そうだとすればそれはもっともな話です。
まだ救いがあります。

そうだとすれば、根本的に何がおかしいのかについて考えて
せめて演出上の工夫があっても良かったかなとは思います。

問題のある映画であることは確かですが、
原作以外はとても良くできていて
夢中になって観ていました。

しかし、自死について
あまりにもリアリティーの無い取り上げられ方をすると
無駄に傷ついてしまう多くの人がいること
それは社会的差別を受けたように苦しむこと
苦しんでいる人たちは反論ができないことにも苦しむということ
それを分かってほしいと思い記事を書きました。





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【宣伝・広告3】本日発売! 「イライラ多めの依頼者・相談者とのコミュニケーション術」(遠見書房) 心理士と弁護士の東日本大震災後の自死対策活動のコラボレーションの中から生まれた本 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


http://tomishobo.com/catalog/ca126.html

本になってみて気が付いたのですが、「はじめに」という個所(私が書いた)や「あとがき」に自死対策や自殺予防などという言葉がやたら出てきて、初めて読まれた方には訳が分からない感じがするかもしれません。

実はこの本は、実際にこういう経緯の中で生まれた本なので、裏話シリーズ第3弾として、その内訳をお話ししようと思いました。

東日本大震災から10年が経ちました。私の歳のせいでしょうか、まだ10年しかたっていないということが実感です。今年は10年目ということで津波の映像がテレビでバンバン流れたのですが、とても平気でいることはできません。かなり具合が悪くなりました。

震災直後、仙台ではこのあと自死が増えてしまうのではないかという心配の下で、様々な活動が行われました。自治体での精神保健活動や民間のワンストプ相談の立ち上げや、解決策の研究会等、様々な人たちが様々な活動を行いました。特徴的なことは、業種の垣根を越えて、研究や実践の交流を行ったり、共同での相談活動を行ったりというところでしょうか。何かもっと良いものを求めてみんなどん欲に考えていました。今はそれほどではないにしても、それでも、この人からお話を伺いたいと思えば、連絡を取ってみるということは昔よりも気軽にできるようになったような気がします。

この本の心理監修をしていただいた東北大学の若島孔文先生は、被災者の救助活動をしていた警察官や消防職員、自衛官といった人たちのカウンセリングを精力的に展開されていらっしゃったと伺っています。仙台市の自殺対策連絡協議会でも、当時先生は宮城県の臨床心理士会の副会長をされていて仙台弁護士会の担当者であった私も協議会をご一緒していました。ちょうどその頃、若島先生のお師匠様の長谷川啓三先生(東北大学名誉教授)とも偶然ボランティア活動みたいなことをご一緒する機会があり、いろいろ勉強させていただいたのですが、若島先生をご紹介いただいたという感謝しきれないできごともありました。
震災後は、出会いの機会が大変多くあったと思います。

仙台弁護士会は、震災の直前ともいうべき平成21年から自死対策プロジェクトチームを発足させ、他の弁護士会に先駆けて弁護士会として自死対策に取り組み始めました。私もメンバーですが、それまで私は過労自死の問題しか取り組んでこなかったということもあり、何をどうするのが弁護士会としての自死対策なのかが全く分かりませんでした。幸いなことに宮城県医師会のご協力を得て、シンポジウムをやったり協定を結んだりして、マスコミにも取り上げていただきました。自死問題は個人的な問題ではなく、社会的な問題だとアッピールできたと思います。
弁護士向けの自殺対策マニュアルも作成していたのですが、震災のために印刷がずれ込むということもありました。そのマニュアルの中で、自死が多いと、離婚が多い、失業率が多い、犯罪認知件数が多い、破産件数が多いという統計的な関係があることに目をつけてマニュアルの序文で発表しました。つまり、弁護士という職業は、自死のリスクの高い人と接する職業であるというようなことを主張しました。

県の心理士会も自死対策に取り組むということで、担当副会長だった若島先生にお声をかけて弁護士会と共同で対策を検討しましょうということで、東北大学に行って研究会を始めたような気がします。いつしか、県の心理士会が抜けて、先生の研究室の学者さん方に引き継がれるような形で、実践的なコラボレーションが開始されました。

弁護士の依頼者の中で、事件の問題もあって葛藤の強い、自死リスクの高い方がいらっしゃって、それでも法的問題を抱えていて、弁護士だけの対応だけでなく、カウンセラーのカウンセリングも並列的に行いながら裁判を乗り切るということが行われました。
うつ的傾向がある方が離婚調停を起こされて、ますます不安定になった事例
暴行事件の被害者の方の事例、
刑事事件の被告人、
と事件は様々ですが、やはり家族問題が多かったと記憶しています。

依頼者の許可を得て、事案の報告とカウンセリングの効果の検証などを行い、次にするべきことを検討したり、依頼者の心の状態の解説を受けたりと、極めて実践的で、心躍る時間でした。
それから、弁護士自身の精神問題についても研究は進み、弁護士が事件の中で心が折れた事例の報告などについても解説をいただき、対処方法を話し合ったりしました。

リスク者への個別対応ということを丁寧に実践的に研究していたということになりましょうか。

2018年には、若島先生の研究室が主体となり、日弁連の協力も得て、弁護士が業務で出会う自死リスクについてのアンケート調査を実施しました。弁護士は長く業務を続けるほど、依頼者の自死を経験する可能性が高くなり、多くの弁護士が依頼者の自死や自死未遂を経験しているという結果となりました。業務の分野としては、債務関係、家族関係、刑事事件が多いという結果になりました。

そうこうしているうちに、弁護士会の自死予防対策の概要が見えてきました。葛藤の高い人、自死リスクの高い人が弁護士の元を訪れることはそれほど期待できない。むしろこちらからその人たちの元に出向いて行って、弁護士という敷居を下げなければならないということが一つです。もう一つとしては、葛藤の強い人、自死リスクの高い人の、相談の機会を増やすことが必要だということで、例えば無料で弁護士が相談を聞くということであれば、話しても良いかもしれないと思うのではないかということです。自分の心理、精神の相談ということは敷居が高いけれど、その原因となっている対人関係の解決ということであれば、相談しやすいのではないかということです。東日本大震災の影響を受けて弁護士会としての予算が心もとないということであれば、各自治体の自死対策として、高葛藤の人向けの弁護士相談会をしてもらうということを考えました。

実はこれは仙台市では実施されています。純然とした法律相談ではなく、自治体の保健所の保健師さんや心理士、ケースワーカー、医師と一緒に相談を行うということで、できれば定期的な開催にするということです。
葛藤の高い人が相談に来やすい相談会の名称がポイントになるかもしれません。

さて、そうなると、どんな弁護士が担当しても良いというわけにはいきません。葛藤の強い人の葛藤をさらに高めるような回答をしていたのでは本末転倒になります。そもそも行政の方も弁護士に任せることができるだろうかと信用してもらえないのだと思います。

これに備えて、希望する弁護士に、研修をしてもらい、マニュアルも作成して(最近マニュアルがはやりのようですが、作るのは楽しいですが、活用には疑問がないわけではないのですが)、参照資料として提供しなければなりません。そうして、必要な研修を終えた弁護士を例えば「カウンセラー弁護士名簿」という名簿に登録して、自治体の相談会の担当を名簿の中から選んで派遣するというシステムが必要になります。

どうやって研修をやって、どうやって研修資料を作るかということの解決が先ず行われなければならなかったわけです。
本書が企画されたのは、こういう事情が元々はあったということです。但し、弁護士会の研修と言っても、弁護士だけで行ったのでは危険であります。そういうことで若島先生に図々しくお願いに上がったところ、本書の一般的な出版という話になり、本の内容も少し変わり本書が今日発売されるという運びになったわけです。

研修会の専用資料は別途作成しました。もう少し実務的な細かい話が具体的に盛り込まれています。服装や視線をどこに置くかとかそういうことから記載されています。当初の予定では、この本もそこまで盛り込んだ本にすることが予定されていましたが、いつの間にか誰かが原稿から落としていました。今一番有力な犯人は私で、執筆していなかったから落ちたのかもしれないということがオチのようです。おかげで一から執筆しなければなりませんでした。これも東日本大震災の被災者相談のマニュアルを作った経験が大いに役に立っています。

あまり書店には並ばないと思いますが、もし見つけたら手に取って目次だけでも見ていただければ幸いです。

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【草稿】深刻ないじめが発覚しない原因 いじめ対策、若者の自殺対策が理解していないこと なぜ若者がSOSを発することができないか [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 本人の自覚

リアルタイムに深刻ないじめを受けているという自覚を持つことは実は難しい。第三者によって言語化されることによってはじめて気が付くことがある。さすがに深刻ないじめが完成した後では、いじめだと認識できても、軽微な段階からリアルタイムで自分は今いじめを受けているということを認識することは実は少ない。
ではどう感じているかというと、なんとなく苦しいと感じているが、自分が不当な扱いをされているために苦しいということはなかなか自覚できない。何が起きているかよくわからないということが実感に近いようだ。だから誰かに言葉に出して相談することができない。
これは大人のパワハラも同じである。
自分に原因があると責めること、誰かに相談することで行為者を窮地に陥らせるのではないかと心配すること等から、行為者に対する配慮のため深刻ないじめを受けていることを口に出せないことが指摘されているが、実ははっきりと自覚していないということで説明できる。
自分が何らの原因もないのに、不当な扱いを受けるということは、解決の方法がないという絶望につながる発想なので、何か理由を見つけようとすることも人間の本能である。絶望回避の思考をしてしまう。

友人や知人などから、「それはいじめじゃないの」と言われて、深刻ないじめを受けているということをはっきり自覚できる。但し、その後も解決の方法が見つからない場合は絶望感を抱くことになる。

2 本人の自分に対する言い訳

理由なく深刻ないじめを受けているということを自分でも認めたくない。そのため、攻撃を受けていると感じても、それは攻撃ではなく最近はやっている遊びであり、行為者には自分に対する敵意がないと思い込もうとする。友人であり、仲間としての扱いだと思い込もうとする。このため、自ら相談しようとする行動がとれない。

3 いじめのさらなる深刻化

行為者は、ターゲットがいじめを拒否しない場合、さらに加害行為を強める。これも人間の本能である。行為者の不満や不安のはけ口になるのである。行為者のその不満や不安は、通常ターゲットとは関係がない。自分の進路のこと、自分の家庭などの境遇のこと、兄弟や友人など自分の人間関係のこと等である。不満や不安が強い場合、誰かを攻撃することによって、不満や不安を感じない時間を作ることができる。攻撃とは怒りの情動を伴うが、この怒りの情動にはいくつかの特徴がある。
・不満や不安がエネルギー源になる
・不満や不安を与える根本原因に対して必ずしも怒りは向かわない。
・怒りは、自分より弱い者、戦えば勝てる者に対して向かう。
つまり怒りには八つ当たりがつきものである。

ターゲットが行為者の加害を拒否しないで受け入れるということは、行為者にとっては、ターゲットに対して確実に勝てるという確信が深まるだけである。ターゲットとは関係がない不満や不安がある限り、無抵抗なターゲットの存在は怒りを増幅させるだけである。行為者は自らの怒りに支配され、加害行為をやめることがなかなかできない。
だからいじめはさらに深刻化する。

さらに深刻化する要素としては、ギャラリーがいじめに参加することである。ギャラリー自体が不満や不安を抱えていること、攻撃しやすいターゲットが存在すること、複数の行為者の一人であればこちらに反撃してくることが考えられないことから、怒りの法則によってターゲットが怒りの対象となりやすくなる。

4 深刻ないじめの理由は何でもよい 通常は行為者の正義である

  上記のとおりであり、深刻ないじめの場合も、ターゲットに深刻ないじめを受ける理由がないことが多い。しかし行為者は、他者を攻撃している自覚があるため、それを正当化する言い訳をしている。複数人のいじめの場合は、特にその傾向が強く、言い訳を共同化することによって、深刻ないじめをすることが正当であるという一種の規範意識を醸成している。
  例を挙げてみる。
 ・ スポーツ推薦で入学を狙っていて、学校では品行方正にしなければならず、それなりの成績をとらなければならない生徒が、発達障害疑いのある生徒がそのような精神的緊張なく学校生活を送っていることから、発達障害であることを揶揄したことやその他の加害行為をした事例。
 ・ 毎日ハードな部活動を送っている生徒たちが、部活動を休んでいる生徒に対して、SNS等で仲間はずれにした事例
 ・ スポーツもピアノもよくできて、学校からも称賛を受けている生徒を、本人が自慢しているわけでもないのに、不道徳にも自慢しているとして執拗に嫌がらせをした事例(これは自分がターゲットから攻撃を受けているという感情を持った可能性もある)
  ターゲットは、自分なりに普通に生活しているにもかかわらず、行為者が苦労して環境に適応しようとしている場合、そのような苦労を否定されたような感覚になるようである。「あいつばかりずるい(正義に反した振る舞いをしている)。」という感覚を持ってしまうと、人間は相手に対して容赦がなくなるようだ。

5 それでもSOSを出せない理由、受け止められない理由

 1) ターゲットは周囲の大人を信用していない。ひとたび救助要請行動をすると事態はさらに悪化することを予想している。
ターゲットの過去の学習としては以下のものがあげられる。
<かつて、別の問題で親等に相談したら>
親がパニックになり学校に怒鳴り込んで、自分が学校での立場が悪くなったことがある。逆に友達が引いてしまった。
相手の子どもに対して直接怒鳴って変な親だと思われた。
些細なことで感情的になり、自分を守ってくれない。
教師に言ったところ、行為者と握手をさせられて、終わりにされた。それ以来行為者から嫌味を言われたり嫌がらせがエスカレートした。
  (大人が解決の手段方法を持っていて、華やかに解決して見せることによって、子どもは大人を信頼する可能性が高くなるようだ。)

 2)大人も深刻ないじめではないと思いたがる。
   自分が受けている行為を相談しようとしても、気にするなとか、気持ちの問題で処理しようとする。自分が攻撃を受けているわけではないから、相手の心に対するアクセスを中断すれば世界は平和になる。別の案件に没頭することができる。
   驚くことに、いじめ自死の事案の多くで、ターゲットは出来事を担任に報告している。担任も苦しそうにしていることは確認している。しかし、深刻ないじめであるという自覚をリアルタイムでは持てていない。SOSは受け止める側の問題である。
   ボーダーラインが、深刻であるために自死につながるいじめか、自死までには至らないかという線であり、その線は大人の忙しさによって高くなったり低くなったりする。

 3)そのような大人も自分の仲間であると思うことがSOSを発信しない理由
   「自分はいじめられている」ということを言うは、「自分は人間として否定されるべき人間だと思われている」という心配を持つようだ。それを言ってしまうことで本能的に心配することは以下のとおりである。
   ・自分が家族や学校から、一人の仲間として見られなくなるのではないだろうか。
   ・自分は特別扱いされてしまい、今までのように普通の仲間として扱われなくなるのではないだろうか。
   ・自分の居場所がなくなるのではないか。
   例えば家族の場合、子どもであろうと大人でも、学校や職場で辛い思いをしていても、家に帰れば家族として普通にいつも通りに接することができるという想いを頼りに家に帰ってくる。それが、かわいそうな子、普通ではない子、社会でやっていけない子として特別扱いされてしまうと、家族が仲間ではなくなってしまう。
   うつを家族に隠す人たちは、なぜ隠すのかという問いかけに対して、「家族が自分の最後の砦だから」と回答する。それは、こういう意味なのではないかと考えている。

6 SOSの発信と受信とは何か

  若者の自死対策として、国は、SOSの出し方教育を掲げる。私は、その意味がまるで分からない。せめて、何がSOSなのか、いつどうやってSOSを受け止めればよいのか、それだけでも説明してもらいたいが、対策をどう実行したかについても報告は極めて少ない。
  上記の説明から、既に深刻ないじめが完成した後でSOSを出させようとしても、無理と言わないまでも極めて困難であることが理解されたと思う。
  先ず、深刻ないじめを防止するためには、きわめて早期に不当な攻撃を受けているということを言語化し、自分が不快な気持ち、悲しい気持ち、寂しい気持ちになっているということを表現させる必要がある。この段階であれば、行為者の側も修正は容易である。それをさせる大人も深刻に考えないですむ。
  早期に異変を口に出させるためには、異変であろうとなかろうと情報の提供を受けることが最も大切である。普段会話がないのに、いじめの話だけを提供しろということはどだい無理な話である。幼稚園、保育所から小学校高学年までは、親は我が子の友達の名前を記憶して、説明抜きの話を聞く習慣を持つべきである。そのためには、幼稚園、保育所の時から、子どもが親に話をすることが楽しくなる時間を習慣化することである。
  楽しい会話のためには、話を遮らないこと、興味を持って聞くこと、感情を共有すること。レスポンスが楽しいこと等である。子どもは、人間のプロトタイプであり、また相手の家族のことも分かってしまい、なかなか興味深い。
  それでも深刻ないじめのごく初期であっても、子どもの心はとても傷つく。いったん深刻ないじめが解消されたとしても、数年たって、些細なことで、「あの時のように、またいじめられるのではないか。」と、必要以上にと思われるほど過敏、過剰な反応を見せる。
  また、時期が遅れたとしても、SOSは受け止めなければならない。SOSは言葉で発信されることはあまりない。表情、感情の乱れ、行動、特に逸脱行動や怒りの行動、破壊的な行動が起きる場合がある。いつもと違う場合には、話せる環境を整えてあげる必要がある。動揺しないこと、特別な珍しいことではないこと、どんな時も自分が子どもの見方であり、子どもの不利益になることはしないことを示す。また、子どものいやがる行動には出ないことを表明してあげる。そして、普段通り、これまで通りの対応を継続する。特別に庇護するとか、はれ物に触るような態度をしないこと。
 (自死はいじめがなくても起きる。いじめがないことで安心してはならない。)
  そして子ども本位に考えて行動すること。よく親は深刻ないじめを子どもが受けていると、怒りの感情が強くなる。相手を制裁しなければ気が済まなくなる。それはそうだ。しかし、それをすることで子どもの立場や子どもの感情をさらに侵害してしまう危険性が高い。親は、どんな場合でも、生命身体の危険に対しては身を挺してでも子どもを守ろうとするが、社会的な危険に対しては自分の感情を優先し、子どもの感情を顧みようとしなくなる。このことはなかなか自覚することができない。子どものためと口で言っても、実際は自分の感情を大切にしているだけのことがとても多い。怒りに任せて子どもを通学させることは、結局子どもを自分の所有物としてしか見ていないことになる。自分では自覚できないことなので、辛口の評価をしてくれる友人、家族は極めて貴重である。
  子どもが今日は学校にいけないというのであれば、それはチャンスである。登校できないのはそれだけの理由があるからである。それでも学校に行かないと言えば親から叱られると思っている。だから、欠席をしたいと言うことはよくよくの勇気が必要なことである。このことを先ず評価するべきだと思う。そうして、欠席を許す。但し、子どもの年齢に応じて、今欠席してしまうと、ますます学校に行けなくなるよということを言って、子どもの意思を最終確認しよう。明日は必ず行くからという言葉が出て欠席を許した例(中学生)では、翌日から出席することができた。親が自分のできないことを承認した。親は自分を理解し、信じてくれたということがその子にとって自信につながったのではないかと考えている。

7 教師、親がいじめを止められないならば

  教師や親は、これまで述べてきた通り、残念ながらそれほど力があるわけでも解決能力があるわけでもない。実際にいじめを解決した事例では、狭いグループ内のいじめを、少し広いグループ外の子どもたちが主として解決した事例が多い。」
  実際の深刻ないじめの事例でも、ほぼ必ず、深刻ないじめを受けている子どもに手を差し伸べる子がいる。そして、深刻ないじめを受けている子はそれを事実として記憶している。しかし、様々な理由でそれが手を差し伸べているとは評価することができない。
  どんなに社会的地位が高い人であっても、学校との関係では、孤立していれば極めて無力である。そのような手を差し伸べる子の親に相談することは大切である。最終的には一緒に行動してもらいたいが、最初は相談で終わらせる。そして、手短にこちらの行動の報告を受けてもらう関係ができてから協力をお願いするのがコツである。最初から相手が協力を申し出てくれたなら、それは大歓迎、大感謝するべきである。
  そのためにも行為者に対する敵対感情は、極力隠すという戦略を身に着けるべきである。
  再度述べる。目標は、親の感情、ポリシー、常識、生き方を満足させることではなく、子どもが楽しく過ごすということにするべきだと考える。

本記事で言う深刻ないじめとは
暴力を伴ういじめ、集団でのいじめ、執拗ないじめ等
自死につながる深刻ないじめという意味で使っています。
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警察官と役所の職員がその人の自死の決意をひっくり返したメカニズムとは何だったなか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

その人は、自死をするためにと自分で決めた最後の場所に向かって人気のない道を進んでいたという。
自死をする人の多くがそうであるように、その人も真面目で責任感が強すぎる人だった。自分が死んだ後で迷惑を少なくするために、家財道具を全て処分した。人目につかないような場所も選んで自死が決行されるはずだった。
その人が死のうとしていたことを私に打ち明けた時、一緒に話を聞いていた医療系の人は、精神科医につなごうと思ったようだ。私はその人の理由を聞いて、「全く正常な精神状態だからこそ死のうと思ったんだよ」と言いたかった。
その人が自死の行動に出る経緯は、誰にでも起こりうるものだった。
能力の高いその人はバブル期に、とある会社に途中入社して、どんどん出世をしていった。そのためには、過労死基準を遥かに超える残業も、断らなかった。むしろ、それを誇らしげに感じていたらフシがある。自分がこの会社を回しているのだと自負していたようだった。ところがリーマンショックで会社の事業が縮小され、他ならぬ自分の部署が切り捨てられた。関連会社に出向になり、元の部署に戻される見通しがなくなり、その人は会社をやめた。自分は何のために命を削って働いてきたのかわからなくなったらしい。それでも真面目で責任感の強いその人は、別の職種に移って働き出した。但し、個人プレーが中心の仕事だった。誰かと日常的に関わり続けるのは、怖かったという。あんなにチヤホヤされていたのに手のひらを返すとはこのことかというように、自分などいないような扱いを受けたことが消えないカサブタのようにその人の心を覆っていたようだ。順調に仕事は続いた。また続くはずだった。ところがこのコロナ禍で彼の会社の業務量が激減した。会社は、これまでの貢献ではなく、若い人を優先的に扱ったとその人は感じた。給料は3分の2になった。その時、その人に声をかける職場があり転職することにした。しかし、その職場はもう若いとは言えない年齢になったその人にはつとまらなかった。そのころ、家庭の問題でも事件があり、その人は孤独を強く感じる出来事があった。そして両親も亡くなった。職場でも家庭でも、その人はひとりぼっちであることを強く突きつけられた。
その人は、自分が何のために生きているのかわからなくなったという。ただ食べて、排泄して、寝る。それだけのことに何の意味があるのかと。私はもっともなことだと思った。それだけその人の話はわかりやすかった。
その人のその感情が作られていったのは、むしろ健全な精神状態を示しているとしか考えられなかった。誰でもその人の状況に置かれたらそういう感情になるだろう。正確に言えば、感情をなくしてゆくだろうと。
但し、その人には抑うつ状態の症状が出ていたことも間違いない。古典的なうつ病の概念である全精神活動に向かってゆくということをその人は次のように見事に表現した。
うつ病の患者さんは何かをやろうとする気が持てなくなるという。その人はトイレ掃除をしなくなるとのことで自分の異変に気がついたと言う。掃除をしようとする時、どうやら人間は、どういう道具を用意して、どういう順番で、どういう体勢をしてというように、様々なことを考えてから始めるようだ。しかし、そもそもうつ状態になると、その考えることからがおっくうになってしまう。頭を使うこと自体がひどく疲れるために出来なくなってしまうのだ。その様子をその人は、トイレの様子で私に可視化して見せたわけだ。もちろん仕事を探すなんてことはできるわけがない。他人と関わるということは、かなりの精神活動をしていて、そのためのかなりのエネルギーが使われていることはもっと研究されるべきだと思う。
かくしてその人は、「何のために生きているかわからない」という思いから抜け出せなくなり、わずかに「死ねばこのような辛さから解放される」という考えに救いを求めて、死ぬ準備に相当のエネルギーを使い込んだ。能力が高く、真面目で、責任感の強いその人の自死は完璧に成功するはずだった。
人気のあるはずのない場所をその人は最後の場所に決めていた。誰にも見られていない自信もあった。しかし、おそらく極めて低い確率の偶然が起きてしまった。巡回中のパトカーに見つかり、警察官の職務質問にあってしまったのだ。最初は誤魔化していたが、警察官の真剣な問いかけに負けてその人は死のうとしていたことを認めざるを得なかった。警察官はその人をおそらく生活安全課の職員に引き継いだ。
この職員の話というか態度というか、対応が秀逸だった。「警察も自殺をとめる権限はないかもしれないが、でも放っておくこともできることではない。そうでしょう。」と切り出して、次の日役所の係を教えて、ここに相談に行くことを約束させた。
その人はなにせ真面目で責任感が強いため、約束してしまうと守ることしか考えられなくなる。その人は約束通り役所に、相談に行った。
役所の職員も素晴らしかった。あまり精神論的なことを言わず、問題を一つずつ解決していった。最後に残った問題を解決するために、弁護士の元に行かされて私がその人の話をきくところとなった。その問題は極めて簡単に解決することなので彼の悩みは10分余りで無くなってしまった。
その相談の時はその人は口数が少なかったが、問題が解決して安心したのか、それからはむしろ話すことに喜びを感じているようにさえ感じた。そうして話してもらった話が今までの話である。
さて、警察官と役所の職員は、どうしてその人の死の決意を止めることができたのだろう。その人は今生きている意味を無つけたのだろうか?
ここからは私の考察である。
その人は今は死のうとは考えていないと言う。今死んだら、自分のためにあんなに熱心にしてくれた職員の方に申し訳ないと思う。裏切ったことになる。そう言う意味のことを話した。真面目すぎるその人は言葉も一つ一つ吟味しながら話す。
先ず、「あなたを死なせたくない」というストレートな気持ちが伝わったことは、間違いない。倫理とか正義とか法律とかそういうことではなく、その人を死なせたくないという思いが一番大切なのだろうと思う。
次は、死なないという結果を出すためには、どうしたら良いのかを真剣に考えていたことがよくわかる。だから、死んではいけないなどと結果を本人に求める近道を通らなかったのだ。警察官も職員もかなり勉強をされていて敬服する。
三番目も関連するが、指図を、一切していないこと。その人は警察官も職員も、事務的な話をしないことに感銘を受けていた。ずいぶん久しぶりに人間として扱われたと感じたのだろう。そして、一緒に考えてくれたと感じたのだろう。これも素晴らしい。人が命をたとうとするのだらか、よっぽどのことがあったのである。命を大事にしろというのは、軽はずみな人にいうセリフである。真剣に生きようとしている人に言うことではない。真剣すぎるために死のうとするしかなくなるのだ。その人は、警察官や職員に、自分が仲間として扱われたと感じた。だから、仲間を裏切ることで悲しませることができなくなったのだと思う。
私は、生きる意味なんて考えることは出口のない迷路を歩くようなもので、益のないことだと確信している。生きる意味を見失ったのではなく、「この状態で生きていることが辛い」と言うことの表現なのだと思う。生きる意味なんて考えるよりも、「どうすればもう少し楽しく生きられるのか」こそを、考えるべきだと考えている。だから、考えるべきことは、「どうして彼は生きることがつらくなり、どうしてその状況から脱したのか。」である。
とても単純化すると、「人間は、仲間から離れて孤立すると不安になる。生きることが苦しくなる。」ということである。
だから、
苦しみを和らげるためには、その人のマイナス面から目を逸らさずに、否定せずに、どうやってフォローするかを一緒に考える仲間を作ることである。
群衆の中にいることで孤独感は際立たされるる。こんな世の中なので役所に期待される役割はとてつもなく大きくなっている。その人に関わった警察官、役所の職員の方々は、奇跡的なファインプレーを敢行した。心より敬意を表すために今回記事にさせてもらった。
しかし、役所は、一時的な、仲間である。それは否定的にとらえる必要はなく、むしろそれだからできることが多い。
次は、その人の恒常的な仲間づくりである。この流れを太いものにすることが自死対策なのかもしれない。

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自死(自殺)の原因が複合的であるという意味と過労自死の関係 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の原因が複合的であるとよく言われますが、
この意味をよく理解している人はそれほど多くないかもしれません。

心理的圧迫の事情が複数あるというように考えられている方が多いのではないでしょうか。
例えば、上司のパワハラと、取引先とのトラブルと、家庭問題と借金
とかという具合に
ストレッサーの数が複数あると思われがちです。

確かに、一つだけでも死に至るストレスが
同時に複数起きてしまうと
自死の原因にはなるでしょうけれど、

通常は、外在的な要因としてのストレッサーが多いということを
意味しているのではありません。

人間は、日常的に様々なストレスを抱えて生きているわけです。
ところが、通常はストレスがあったとしても自死に至ることはありません。
一つ一つのストレスは、
何らかの形で無害化して
その影響を深刻なものにする前に軽減させたり無くしたりします。
人間には、自然治癒力があり、回復する力があるのです。
環境を変えたり、考え方を変えたり、
馴れたり、忘れたり
色々な方法でストレスを無力化しています。

この無力化は、
自分1人でするとは限らず
仲間の存在によって無力化が促進されることも多いわけです。
アドバイスをもらったり、慰めてもらったり
仲間がいるということだけで安心できたりします。

それから、偶然の出来事や時間感覚が開くということも
ストレスの軽減につながることもよくあることです。

ところが、様々な事情から
このストレスの自然治癒が果たせない場合が出てきます。

本人の体調の問題や、性格の問題で、
小さなことにこだわったり、
本当はストレスに感じる必要がないことなのに
苦しんでしまうこともあるでしょう。

精神病もこの一因になることがあります。

また、本来何事もなければ仲間が助けてくれるはずなのに
タイミングが悪く、助けてもらえなかったり
逆に攻撃されたりなどということもあるでしょう。

また、対人関係の不具合は、他人から攻撃されるから起きるのではなく
自分の行動の失敗からもおきますし、
それはそれで、後悔など自責の念が加わり、
強烈なストレスになるかもしれません。

体調の問題とは精神疾患に限らず
睡眠の問題も重要です。
ストレスの無力化が起きる時というのがありまして、
その時というのが睡眠の時なのです。
ストレスの無力化とはどういうことかということは
少し長くなるので、今日は割愛します。
実際ストレスと精神疾患に関して
それが労働災害であると認定されるときには、
睡眠時間がどの程度になっているかということが重視されています。

ストレスが無力化されない原因として
このように、本人の問題ということは無視できないことです。
また、偶然の要素もありうる話です。

しかし、ストレスが無力化されない原因として
ストレス自体が無力化できないほど強すぎる場合というのがあり、
他の複合的要因があったとしても
強すぎるストレスはそれ自体で、無力化できない事情ですから
それが大きな原因だとされるべきなのです。

この考え方は、労災認定や公務災害認定でも採用されています。
対人関係トラブルでは、例えば
暴力を伴う攻撃を受けた場合、
多数対個で逃げ場のない場合
執拗な嫌がらせのような場合
など、
日常生活で無力化しにくい出来事がある場合に
精神疾患や自死との相当因果関係が認められやすくなっています。



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