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新型コロナの自死に及ぼす影響の試論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 今年の日本の自死者の動向

我が国の自殺者数は、小泉政権の頃をピークとして、それ以来減少を続けていた。第一次緊急事態宣言が出されていた6月までは、毎月の自殺者数は近年もっとも低かった前年比でも減少を続けていた。ところが7月に前年比増加となり、8月は女子中学生、女子高生での顕著な増加がみられるなどさらなる増加が見られた。それ以降の前年比は、明らかに増加している。それでも9月までは、平成27年とほぼ同様の自殺者数であったが、10月は極めて高い数字になり、11月には、平成27年と同様の自殺者数に戻ったが、近年では高い値を示している。特に女子高生の自殺者数は、例年一ヶ月あたり数件程度であったが、今年は8月以降は二桁の月が多い。女性の自殺者が増加しているという特徴があるが、前年代で見ると、男性の自殺者の方が多いことは例年通りである。

2 1月から6月までの自死者の減少

1月から6月までは、近年の最も自殺者数の低かった前年を下回る自殺者数であった。すでにコロナの問題は大きくなっており、緊急事態宣言も出された。マスクなどの予防グッズは品薄になり、入手困難となった。志村けん氏や岡村久美子氏の死亡も報道され、コロナの恐怖も現実的になったはずだが、自殺者数は減少した。
この理由については、ある程度、国も把握しており、大規模災害の際は、連帯感や帰属感により、自殺者数が減少するという現象が指摘されていると報告している。東日本災害の前からこの見解は実証的に証明されていた。東日本大震災の際も同様であった。
この事実は、自死の原因として孤立感が大きな要素であることを示している。
この時期には、多くの人達が、同じ思いでいるということを実感していたと思う。人々は理屈抜きに、繁華街から足を遠ざけたし、マスク不足を嘆いていた。政府に対して批判をしていたし、定額給付金も受給できていた。自分だけが苦しいわけではないということは、孤立感を解消し、自分が社会の一員であるという意識を醸成するという効果があったと思われる。
これに対して、政府のコロナ対策の政策が自死者現象の要因ではないかという指摘が主として政府筋からなされているようである。これも否定する必要はなく、社会の一体感を醸成することに一役買っていると評価して良いと思われる。大事なことは、そうであれば、今後も定額給付金の支給など6月までになされて有効だった政策を今後も行うべきだということになる。

3 7月と10月の自死者の急増とウエルテル効果

7月8月と10月に自死者が急増した理由は何であろうか。指摘されているのは、7月に俳優の三浦春馬氏の自死の報道があり、9月末に女優の竹内結子氏の自死の報道があったことである。有名人の自死が起きると、連鎖的に自死が増えるという理屈である。いわゆるウエルテル効果があった可能性を否定できない。
しかし、ウエルテル効果という言葉だけで説明を終えることには疑問がある。ウエルテル効果で終わってしまえば、自死の予防方法は報道のあり方の対策だけになってしまうし、結論としてあまり有効な対策がないということになってしまいかねない。
有名人の自死が引き金となる自死は、有名人が死亡したことで希望を失って自死が起きるという単線的な話ではない。例えば、有名人が病死をした場合は、連鎖自殺はおきにくい。元々自死の要因があり、最終的に、有名人の自死が最後の一押しとなり自死が起きたという分析がなされることが通常であろう。
問題はどうして最後の背中の一押しとなるかにある。
考えられることの一つは、有名人はテレビなどに露出する機会があり、日常的によく目にする存在である。心理的に、自分の仲間とか、身近な存在だと錯覚してしまう効果が生まれてしまう。その身近な存在が自ら命を断つということで、死の恐怖が軽減されてしまうという効果が生まれてしまう。人は、苦しみ悩むことがあっても、死ぬことは恐怖である。このため自死ができないという構造がある。しかし、その恐怖を打ち破って自死をしたものが身近な者である場合は、あるいは同じ苦しみを抱いていたと感じている者の場合は、死の恐怖を軽減させる効果があるようだ。考えられる理由の二つ目は、自分の抱いている不安を解消する方法が見つからない場合、自死という方法で不安から解消されるというメッセージを受けてしまうことだ。これは自死の方法が具体的に示されれば具体的なほど、メッセージは強いものになる。不安の解消方法が見つからずに精神的恐慌に陥っている場合、具体的な不安解消方法が示されてしまうと、それを行わないで自分を押しとどめる力が弱くなってしまうようだ。若年の自死者の多くが、自殺の方法が掲載されているインターネットのサイトを閲覧しているようだ。精神的に追い込まれているものにとって、具体的な自死の方法をテレビや新聞で知らされることは、苦しみから解放されるためには、こうすれば良いのだよという悪魔の誘惑となっているということなのだろう。
ただし、自死の原因はさまざまであり、連鎖自殺、群発自殺があったからと言っても、本来であれば、追い込まれた原因はそれぞれのはずである。しかし、今回、コロナという大きな出来事があり、この問題と自死の問題を関連づけないわけにはいかない。

4 前提としての個別事例の調査の必要性

現在のコロナと自死の原因の検討に対して、マクロ的な視点はあるものの、ミクロ的な視点が検討されているということがあまり聞かれない。つまり、実際の自死者がどのような背景の中で自死したのかという事情の調査が行われたという話を聞かない。
統計的にコロナが自死の原因になっているだろうという推測は可能であるが、では、どのように自死と関係があったかという具体的な事情は不明のままである。
このため、それぞれの立場に都合の良いように、コロナと自死を関連づけている見解が目につく。コロナ禍に便乗して自分の主張を展開しているかのような者も残念ながら目につく。

とはいえ、私の以下の試論も同じようなものである。どうかそう言う目で私の考えも読んで欲しい。

5 対人関係学と自死のメカニズム 不安解消要求の肥大化

自死のメカニズムについては、先日のべた
どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか

ごく大雑把に要約すると
対人関係問題、健康問題など解決不能の問題に直面すると、人間は合理的に思考する力が低下していく。思考力の低下は、複雑な思考の低下、二者択一的思考の傾向、悲観的傾向、因果関係や他者の感情把握の困難性などの具体的な現象となる。不安が解決しなければ不安解消要求も大きくなり、解決不能感がさらに持続していくと不安解消要求も肥大化してゆき、更なる思考力の低下と相まって、不安解消要求が最優先課題となってしまい、表面的には生存要求をも凌駕してしまう。通常時の死の危険からの解放を求める衝動的要求と同程度の強い自死への衝動により自己抑制が効かなくなり、自死に至ってしまう。
と言うものである。

6 コロナ不安と自死のメカニズムの親和性

コロナ禍の現状は、このような絶望を抱きやすい不安が存在する。
人類が体験してこなかった事態である。これが当初は、良い方に作用した。気温の上昇とともに、収束に向かったかのように思えたと言うこと、おそらくこんな感染力のあるウイルスはこれまでなかったのだから、今回も一時的なものであり、時期が来れば収束するであろうと言う期待を持つことができた。それまでの辛抱だという希望があった。しかしそれは根拠のないものであった。
収束するかと思われたにも関わらず、収束しなかったと言うことは大きなダメージである。ふわりと浮いてから地面に叩きつけられたようなものである。落差効果も生まれてしまった。その後、気温低下とともに、これまでにない蔓延が起き、絶望が起き始めた。その時々の芸能人の自死は、元々あったコロナの精神的ダメージによる効果に、自死による衝撃を上乗せさせた形になった格好なのではないかと推測している。
コロナの問題は、目に見えない感染ということで、不安を抱かせる。しかし、その解消方法は見つからず、収束に向けた動きも見えない。思考力の低下、悲観的思考傾向への誘導が起きやすい事情である。症状や後遺症の内容も曖昧なところがあり、治療法も確立されていない。漠然とした不安を抱きやすく、不安の解消が困難であるという極めて危険な不安形態である。つまり、自死の背景になりやすい不安なのである。

7 不安と個性 そして女性

人の反応は一様ではない。コロナ問題が解決しなければ、不安が増加する人もいれば、馴化してしまう人もいる。つまり慣れてしまうと言うことだ。心配をしても、自分にとって悪いことが起きないと言うことが続くと、不安を解除してしまう性質は自然のものである。防犯グッズを集めて防備を固めた人もいれば、第一波の時は外出しなかったのに感染者が増大しているのに忘年会などに出席することに抵抗がなくなってしまった人もいる通りである。
生まれつきの性格ということもあるだろうが、どうやら人間は他者との関係で心理的な変化をするようだ。それにも個性があり、仲間が怖がっているときに無条件で自分も怖がる人、仲間が怖がっている姿を見て逆に冷静になり合理的な行動をしだす人もいる。どうやらこういう群れの中のランダム化、結果としてのバランス化が人類の強みだったようだ。
このため不安の性差は分かりづらくなっているが、どちらかというと身体の一体性や安全性に神経質になりやすいのは女性の方ではないかと感じている。男性の方が多少怪我をしてもやるべきことがあればやってしまう人が多いような気がする。男性の方が向こうみずの者が多く、馴化しやすい者が多いのではないだろうか。
もしそうだとすればということになるが、コロナ不安の影響を受けやすい人間は、女性の方が多くなるのではないかという推論が可能となる。

8 自死の予防に向けたコロナ対策

感染が目に見えない。感染すると命の危険があり、後遺症もあり、他者にも感染させてしまう危険がある。自分だけが気をつけても、知らない間に感染している可能性がある。感染の危険が減少するどころか、現在は増加傾向にある。底が見えてこない。
これらの事情は、コロナ不安を起こしやすい事情である。しかし、どこまでその不安が合理的なものかについては、争いがあるようだ。
ただ、自死予防の観点で必要なことは、客観的事実のありかではない。不安は主観的なものであり、合理的な思考によって不安が解消される人もいれば解消されない人もいる。自死予防で想定されるべきモデルは後者である。
もっとも大切なことは、他者の不安を否定しないことである。不安をコントロールするべきだという議論は、一見合理的に見えるが、心理的な実情からすれば極めて乱暴な議論なのである。自分が落ち着いているのは、そばにいる人が不安になっていることの逆説的効果なのかもしれないということを意識するべきである。

第二波の女性の自死者の中で、同居家族が多い人の割合が多いと言われている。即時に家庭内暴力に結びつける論調がある。これがコロナ便乗の主張の典型である。母数を考慮する必要がある。一人暮らしをしている女性と同居者のいる女性ではそもそも圧倒的な差異があるはずだ。もし、同居者のいる女性の方が、一人暮らしの女性よりもそもそも人数が多かったならば、同居者のいる女性の自死者が多くなることは当然のことである。また、このような乱暴な推論は、自死の理由を同居者にあると主張するものであり、遺族を鞭打つ主張となる。

但し、もし私の推論が正しければ、つまり、女性は男性よりもコロナ不安に敏感であるにもかかわらず、男性は女性のように不安を感じていないという構造があるのであれば、それが自分が家族から攻撃を受けていると感じることの要因になっている可能性がある。そしてその不安格差を是正する方法もあるということになる。

何よりも、他者の不安を尊重するという態度である。それは他者の不安を否定しないということである。不安をバカにしたり、不安になっていることを責めたりする場合もある。こういうことをしないことを意識することである。
不安の否定、嘲笑や叱責があると、不安を抱いている者は、ことさら自分を否定されたと思いやすくなり、自分の理解者がいないということで、孤立感や疎外感を感じやすい。自分を理解してくれる仲間を外に求めることができればそちらに向かってしまう。また、表面的な共感を渇望してしまう傾向になる。それらの外部での不安の緩和方法がなかったり、外部の相談機関がクライアントに共感することに夢中で、家族を否定する回答することにためらうことがないならば、家族の些細な言動が、自分に対する精神的虐待だと感じやすくなってしまう。
家族は、自分以外の家族の不安をきちんと受け止めることが肝要だということになる。過敏な不安に追従する必要はない。意見が違う場合でも、相手を否定しないでじっくり聞くことはできるはずだ。否定の結論だけが示されてしまうと、不安は減少せずに焦燥に変わりやすくなる。思考力の低下が進み、悲観的傾向が強くなる。否定されないで、むしろ共感を示されることによって、悪循環が絶たれて、思考力が回復し、漠然とした不安から合理的な対応へ変化する道も切り開かれる。「心配する必要ない。」と言うよりも、「あなたは心配しているんだね。心配の種は尽きないね。」という方が、不安は減少するということを覚えるべきだ。
コロナが原因で家族が崩壊するということを避けるという発想から、コロナを機会に家族力を育むという発想が明るい気持ちになれるのではないだろうか。不安に対応することが意識的に行われれば、それは対人関係を強化する。

社会的には、コロナの科学的な解明とそれを分かりやすく伝えるということが必要だと思う。コロナの問題だけは、政治的な立場や自分の主義主張による便乗をできるだけ排除しなければならないと考えている。また、科学的なことをわかりやすく伝える努力があまりにも欠けているように私は感じているが、どうだろう。わかりやすく説明するためには、メリットデメリットや、各対策の限界についてもごまかさず伝えていかなければならないだろう。
例えば、第三波とも言える令和2年11月からの感染者の爆発的増大であるが、政治的な失敗が多く指摘されている。そういう側面もあるかもしれないが、私は、ウイルスの性質もあるのではないかと考えている。つまり、第1波の収束は、気温と湿度の上昇およびマスクの効果により、飛沫感染が起こりにくくなったことによるもので、11月からの増大は、気温の低下と湿度の低下により、飛沫感染が起きやすくなったということは考えられないだろうかということである。もしそうだとすると、必要なことは3密とマスクだけでなく、湿度管理、水分補給ということを意識することという視点も強調されるべきだ。もちろん、冬は飛沫感染が起こりやすくなっているのであるから、マスクをしても密集、密室、密接は感染リスクを高める。夏に感染を起こさなかった行為も、冬は感染を起こしやすいのである。後ろ向きな政治的な失敗を指摘し続けることは、本当に今しなければならないことの行動提起が疎かになる危険があるように思われる。現政権を批判するよりも、国民が望んでいるリーダーシップを取ることの方が、政権の帰趨により現実的な変化を与えるだろう。

また、コロナの対策の科学的検討を国をあげて推進するべきであろう。特に重症化を防止するための方策と重症化からの回復の方法の検討を行うことが不安の増大化を防ぐために効果的ではないかと思われる。そしてこれらの研究、検討は、途中経過をどんどん報道するべきだと思う。大規模に検討しているということを知ることが、希望につながる場合も少なくないと考える。

そうやって、国民の対立をできるだけ縮小する方向に国は誘導するべきだと思う。国にいる全員が利害共同体なのだから、みんなでコロナに向かっていくという一体感を作り出す方法を積極的に取り入れて行くべきであろうと思う。

今やってはいけないことは、個人を分断させることだと思う。コロナ警察という社会現象も、コロナ不安によって感情的な意味合いを増強させている。不安は、社会に対しての公正さを強く求めるようにさせるのである。政策に、不平等を感じなくさせるように努力することが必要になるだろう。そして、不安を解消させる方法、他人を責める方法に変わるエレガントなやり方を具体的に提示するべきである。そのためには和やかな議論は必須だと思われる。相手を否定しない議論のサンプルを示すことはとても有効だと思う。また、自分の意見を社会が受け止めるという仕組みづくりも有効だと思われる。

今回色々と私見をごちゃごちゃと述べさせていただいた。今後、自死の分析が進む中で、さらに様々なことがわかってくると思われる。そのためにも、できる限り個別事情にあたることが必要となるはずである。その基盤がないことと、社会の未成熟、民主主義の未成熟がコロナ不安を増強させているような気がしてならない。
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どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



「死にたいと思っても、死ぬことが怖くて死ぬことができないはずだ
それにも関わらず、どうして命を絶つことができるのだろう。」

この疑問に真正面から取り組んだのが
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」です。
この理論は、自死のメカニズムを探求するというための理論というよりも
今生きている人が自死を行う危険があるのか
あるとすればどの程度危険性が高いのか
という危険性の評価方法を構築して自死を予防する
という実務的観点から構築されています。

ジョイナーは、
リストカットや自死未遂という行為を繰り返すことによって
あるいは戦争などで人間が死ぬことを目撃して
死ぬことに慣れていくのだと考えました。
これをジョイナーは自殺の潜在能力が高まるという表現をしています。
つまり、通常の人間は死ぬことが怖い
うつ病であっても死ぬことが怖い
しかし、人間の命が尊重されない現実を体験していく中で
少しずつ、死ぬことに馴れていくということなのでしょう。
外科医であっても自殺の潜在能力が高まることを指摘しています。

ジョイナーによれば
この自殺の潜在能力の高まりとともに
自殺願望(所属感の減弱、負担感の知覚)がそろうと
自死の危険が極めて高くなるというのです。

自死リスクの評価を、
できるだけ客観的な個別事情によって評価しようとする試みは
極めて画期的で、
高い評価を受けています。

私も自殺の対人関係理論は強く影響を受けているというか
繰り返し勉強させていただいている理論ですし、
評価事項を作る上でとても有効な理論だと思います。

ただ、
自死の心理的メカニズムというものをもっと探求できるのであれば
それを知りたいという気持ちはあるわけです。

後付けの言い訳ですが、
もう少し心理的メカニズムが解明できれば
自死リスクの詳細で多岐にわたる評価項目を
もっとすっきりできるのではないかと思うのです。

専門的機関では、詳細な調査で自死リスクを評価するとしても
その専門的機関につなぐために
自死の危険性を、例えば家庭、学校や職場などで
簡単な要素で専門的評価や専門的な介入が必要だと
判断できるようになると
もっと有効な自死予防、自死介入ができるのではないか
と思うのです。

学校や職場は、自死の危険性を評価するための機関ではないかもしれませんが
もし、危険に気が付き、専門機関につなぐことができれば
かなり自死予防の効果が上がるのではないかと思うわけです。

心理的メカニズム、自殺行為に至るプロセスに焦点を当てた理論としては
日本の精神科医の張賢徳先生の「解離仮説」
というものがあります。
主としてうつ状態からの自殺の場合は、
自死行為の実行時、当人は解離状態にあるというのです。
解離状態とはどういうことかというと
Wikipedia(寄付をすることによって存続を呼びかけられています)
によると
「無意識的防衛機制の一つであり、ある一連の心理的もしくは行動的過程を、個人のそれ以外の精神活動から隔離してしまう事である 。抽象的に表現するならば、感覚、知覚、記憶、思考、意図といった個々の体験の要素が「私の体験」「私の人生」として通常は統合されているはずのもののほつれ、統合性の喪失ということになる 。」
とあります。
要するに、自分が自分でなくなっていて、自分の人格の発言として行動しているわけではない。わけのわからない状態。
ということなのでしょうか。
極端な例が二重人格の状態です。二人目の人格がはっきり確立していない場合が通常の解離状態だということでしょうか。

この解離仮説が、私の考察の出発点でもありましたから、
私にとっても大切な学説だということになります。

では、この解離状態はどういうメカニズムで起こるのか
あるいは解離状態の直前の状態とは何なのか
という疑問が出てきます。
自死を完遂できる場面というのは
他者に目撃されない場面ですから
その前の状態がわからないと自死は予防できないことになりそうです。

また、実際の自死のケースを後追いに見ていた場合
解離ということで説明がつくのか
(私の解離の理解が不十分である可能性は大いにあります)
という疑問も生まれしまいます。
どうも、冷静に、自死という行為を選択するケースも多いのではないか
遺書には、遺族に対するあふれんばかりの
愛情と謝罪が書かれていることが多く
こういう場合、少なくとも、わけのわからない状態というわけではないように
思います。

つまり、自分には死ぬ他に選択可能な方法がなくなったと
冷静に(この言葉は難しいですが、少なくとも静かに、興奮しないで)
判断しているという印象を受ける自死が比較的多いのです。

張先生は、
解離仮説に親和する考え方として、焦燥感や不安感が高まっている
という考え方を指示されているようです。
この点は、私も常々そのように感じていました。

では、焦燥感や不安感とは何か
それがどのようにして死の恐怖を凌駕させるのか
ということについて、まとめたいと思います。

もっとも自死の完成に至るプロセスは人それぞれ異なります。
しかし、これまで後追い的に自死を見てきて、
これから述べるプロセスは、
大きな柱となる典型的なプロセスであると考えています。

自死が起きる場合は、
実際に何らかの悩みがある場合が多いと感じます。
悩みの多くが対人関係的なもので、
学校や職場、家庭などで
自分が仲間として尊重されず仲間から追放されてしまう不安
仲間の中で顔向けできずこれまでの関係を維持できなくなるという不安
つまり仲間から離脱する不安
という形で不安を還元できると考えています。

(もちろん身体的な悩みを主たる悩みとして
自死リスクが高まるケースもありました。)

但し、精神的な不安定が明らかに先行しており、
口に出した不安の内容が荒唐無稽の場合もあります。
過敏になり、客観的には妄想的不安を抱いている場合ですね。
つまり確たる理由がないにもかかわらず、
不安や焦燥感が出現してしまう場合もあるということです。

人間は(本来人間に限らないかもしれない)
不安を抱くと、不安を解消したいという要求が生まれるようです。

犬が怖い人が、自分が進む先に犬がいる場合、
回り道をするとかですね。
危険の認知と回避行動との間に
危険に対する不安と「不安解消の要求」という
心理過程があると仮定してお話を進めます。

不安解消要求にもとづいて簡単に不安が解消できれば
不安は解消されます。
しかし、不安解消要求が発生しているのに
不安を解消されない場合はどうなるでしょうか。

不安解消要求は維持されたままになります。
そして不安が解消されなければ
不安解消要求は高く強く変化していくようです。

不安解消要求が高度に変化するとは、
なんとか不安を解消したいという想いが強くなると同時に
早く不安を解消したいという想いが生まれてきて強くなります。

感情が強くなるため、理性的な思考力が後退していきます。
理性的な思考力が後退するということは、
複雑な思考ができなくなるということです。
具体的には、
・二者択一的な思考になる
・悲観的な思考になる
・将来的な派生問題、因果関係の把握が難しくなる。
・他者の気持ちについて考えることができなくなる
・結果として視野が狭くなっている
ということです。

これは逃げる場合にとても都合の良い思考変化です。
但し、それは例えば文明ができる以前の
狩猟採集時代の場合において都合の良い変化でした。
このころの危険は、自然現象や野獣でしたから
何も考えないで逃げるという方法が一番有効だったのでしょう。
その時代から現代はせいぜい2万年くらいしかたっていないので
脳が対応できていないわけです。

だから、このような不安解消要求が持続してしまうと
人間の脳は、今生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められている
というような極端な危機感を感じたように
動き出してしまうようです。

このため、ますます出口が見えなくなるわけです。
例えば途中で、
だれか他人に救出してもらいたいという意識が芽生えることがあり、
それ以外に方法が考えられない状態になりますから
その人に対する依存度、要求度も大きくなるわけです。
そして、その人から援助を拒否されると
絶望を感じやすくなることが多くあります。
つまりこの人だけが私を救ってくれる
その人が私を助けてくれない
では、解決方法はすべてなくなった。
という具合です。

さらにさらに、不安解消要求が大きくなります。
早く解決したいという要求も高まっていきます。

早く解決したいという気持ちは、
脳が勝手に生きるか死ぬかという場面だと勘違いして
それにふさわしい脳の活動をしているわけですから
外のすべての要求よりも不安解消要求を優先してしまうわけです。
今は生きることができればそれでよい
あとはどうなっても良いという心理です。
これが焦燥感です。

既に、不安の原因を除去、修正しようというような
論理だてをした思考をすることは、そもそもできない
発想としても生まれてこない状態になってきます。
不安が解消されればそれでよいという姿勢に一貫されるようになります。

そして早く不安を解消したいという悲鳴が生まれてきます。
元々は、がむしゃらに何も考えないで逃げるためのシステムでした。
おそらく人類の多くがこのようなシステムによって
野獣などから逃げ延びて、我々が生まれてきたのだと思います。
しかし、生きるためのシステムが、生き延びる方向と
反対側の行動を促し始めます。

何かを行って不安を解消できていればよいのですが、
アルコールやドラッグで不安を一時的に感じなくしようとしたり
自傷行為で不安の感覚を消そうとしたりする行為がみられてきます。

その究極の不安解消要求に基づく不合理な思考が
「死ねば不安から解消されるのではないか」
という希死念慮の芽生えです。
じっくりと不安の原因を探求して解決を目指す
という姿勢はなくなっています。
そういう気力が無くなっているという表現がリアルかもしれません。

この早く解決したい、しかし方法はない、しかし早く解決したい
という堂々巡りが焦燥感です。
焦燥感が大きくなっていくと
ますます思考力がなくなっていきます。

さらに、解決するという方法ですら思い浮かばないにもかかわらずに
早く解決をするという方法までを探さなければならなくなるため
ますます解決の可能性が狭まっていくわけです。
そうするとさらに絶望しやすくなってしまう
なんでもよいから不安を解消したいということになりますから
死ぬことを考えると、
長いトンネルの出口が見えたような少し明るい気持ちになるそうです。

また、
不安と向き合う時間は、初期は短く、
眠れば忘れるほどでしょうけれども
どんどん長い時間不安にさらされるようになります。
眠れなくもなるようです。
これがさらに思考力を奪います。

自死すれば死ぬということの意味も十分把握できず
つまりデメリットを正しく評価できなくなり、
不安が解消されるという結果だけが意識に上るようになります。

取りつかれたように自死行為を行う
という事例もありましたが
こういう状態だったのかもしれません。
多くの事例では、
自死というアイデアが生まれ、それを決行する日時を予定すると
静寂の気持ちを取り戻し、
遺族に対する謝罪と感謝をつづった遺書を記したりするようです。

既に死は恐怖ではなく、
安らぎ、温かいイメージ、明るいイメージになっています。
むしろ自死行為を取りやめるということが
不安に苦しめられる時間に戻ることですから
恐怖を抱くのかもしれません。
なかなか思いつくことも難しい状態になっているようです。

死ぬことを思いついて
冷静になっているように見えますが
意識は確実に死ぬことだけを目指しているようです。

この状態で家人などに発見されて
自死を思いとどまるように説得されると
本人は、確実に死ぬことしか考えていませんから
説得を受け入れたような態度を見せ、安心させ、
すきを見て自死に至るという例も複数ありました。
一見冷静に見えますが、
既に、絶望の果ての強固な自死の意志が生まれているわけです。
私は、そこには自由意思はないと思っています。

この状態で自死を思いとどまった事例で私が知っているのは、
自分の周囲に対する感謝や愛情ではなく、
憎しみや敵意のようです。
「死んでまで相手を喜ばせることは許せない」
という怒りが不安を握りつぶして自死を思いとどまった事例が
実際にあります。

なお、自死が失敗に終わって救急搬送され、入院しているときは、
自死の原因を作った不安から一時的に解放されていますから
例えば、2週間以上の入院が確約されている場合は
不安の源から離れることができるために
一時的に自死の意志が弱まっていることが
多く観察されます。
思考をする余裕も出てきます。

この時期に適切に、適切な人材がかかわることによって
不安の原因について考察をして、
必要な人間関係の状態を改善することで
自死リスクを解消することができる場合があります。

つまり本人の考え方(認知)を変えるだけでなく、
退院後に本人を取り巻く人間との関係が改善されることが
とても大切なことだと思います。
私がかかわった事例では、親の力が有効でした。

オープンダイアローグ的な発想が有効だと思います。

対人関係的な不安で私が強調したいことは
一つの人間関係、例えば職場で自分が追放されると感じた場合、
本来離脱しても人生において大した不利益にならない人間関係で
他の人間関係、例えば家族などにおいては
尊重され、大切にされていたとしても
職場での孤立感、疎外感によって
世界中から自分は孤立しそうになっているという不安を
脳が感じてしまうようだということなのです。

おそらく、人間がチンパンジーと別れて600万年前、
農耕集落ができるまでの2万年前
この間、一つの群れだけで一生を終えていたことの
脳の名残なのだと思います。

このように人間にとって群れとは、
水や空気のように、生きるための不可欠な要素だと
脳が思い込んでいて、進化できていないようです。

自死をする人たちは、必ずしも自傷行為をしておらず
アルコール依存症にもなっておらず
突然自死する場合があります。

ただこういう場合でも、多くのケースで

自分を取り巻く人間たちから
自分が尊重されていない、仲間として認められていないという
いじめやハラスメントが繰り返されていることがあります。

おそらく人間が生きるということは
生物学的に生きるだけでなく
自分の周囲の仲間の中で尊重されて生きるということなのでしょう。

仲間の中で尊重されない体験は
自分の体を傷つける自傷行為や戦争のように
自殺の潜在能力を高めているのだと思います。

また、自死前に社会的な逸脱行動をする場合がありますが、
(自分の評判を落とす行為を理由もなくやってしまう)
それはある意味自傷行為と同じなのかもしれません。

それでは、以上のまとめの中から
直感的に自死の危険が高いと判断する要素を抽出してみます。

自殺未遂は、当然高い自死の危険があるわけです。
一見冷静になったように見えても、
冷静にこちらをだまそうとしている可能性があります。

原因がどこにあるのか分からず、
何ら不安解消要求が解消される出来事が無ければ
自死リスクが極めて高い状態で維持されていることは当然です。

衝動的な行為が目立ち始め
特に刹那的な理由での行為で
社会の評判が落ちることを気にしないような行為
しかし、落ち着くとどうして自分がこういうことをしてしまったのだろうと
激しく公開するような態度を見せる場合はかなり危険だと思います。

解離状態に近いとうことになるでしょう。

衝動的な行為に暴力が伴う場合は
不安解消要求が自分では収拾つかなくなっている状態ですから
とても危険です。
特に暴力の対象が他者に向かわず、
自分に向かっている場合、自分の持ち物に限定して向かっている場合は
自分がなくなってしまうことによって不安が解消されるかもしれない
という感覚が生まれていると考えた方が良いでしょう。

仮に確定的に自分が死ぬ意図が無くても
「死ねたら死のう」みたいな感覚で、はたから見たら事故のように
死ぬ危険のある行為を行うことが若年者を中心として見られます。

また、いじめだけでなく、クラスや同僚から受け入れらなくて孤立し、
多数派から侮辱されたりからかわれたりすることが続くと
行き場のない気持ち、解決不能の気持ちになりやすく
自殺の潜在能力が高まりますから
何らかの解決が必要です。

先ずは家族など支援的仲間があることを
強く意識付けすること
次に問題のある仲間をチェンジすることです。

自分は悪くないのに転校しなければならないのか
転職しなければならないのか
という気持ちはわかりますが、
そのようなこだわりよりも命が大切だと思います。

そして最近つくづく思うのですが、
私の依頼者の方の何気ない発言で衝撃を受けたのですが、
変な行動をしたら、心配する
という仲間として当たり前の気持ちをもつことが
自死予防のすべての出発点になりそうです。

面倒くさいな、けむったいなと思われる行動を
衝動的に行ってしまうのが
自死リスクの高い状態です。
迷惑をかけるわけです。

そのときに心配になるということは
家族でも難しいかもしれません。
でも心配して、その心配を本人に伝える
ここから始めるということが
大前提になるようです。

変な行動をしていたら理由を聞いてみたくなり聞いてみる
これが自死予防の第1歩かもしれません。

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いじめの定義を科学的なものにするか、いじめと認定した効果に教育的観点からの働きかけを入れるかしてほしい。いじめの定義は広すぎて改めるべき理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




文科省のいじめの定義(いじめ防止対策推進法)をご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。定義は以下の通りです。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒との一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」となっています。

2018年1月18日日弁連は、この定義が広過ぎるという意見書を発表しています。
問題点として4点を挙げています。
① 定義が広く、本来あれもこれもいじめであると認定しなければならないのに、いじめと認定すると否定的な評価を伴うので、いじめと認定せず、いじめの認定を前提とする情報共有が行われないというもの
② いじめを認定すると当事者関係者に与える影響が大きく、第三者委員会でいじめを認定するといじめ行為が一人歩きしてしまい、マイナスの影響が大きくなり過ぎる懸念があること
③ 本来子ども相互の調整によって解決する問題もいじめに該当してしまうので、保護者から対処を求められるとやらなくてはならなくなる
④ 法律を厳守する立場の教員は、いじめに該当するとして杓子定規に懲戒などの厳しい対応をしてしまう。

日弁連の意見書のこの問題意識は全くその通りだと感じています。

いじめの定義を広げることで、学校に対して「いじめを見逃さないという意識」を持たせようとすることは分かるのです。問題は、いじめと認定すれば後は認定された行為をした子どもたちに対しては懲戒などの厳しい処分しか法律は用意されていないという点が問題なのです。
大体、同じ学校で近くにいるのですから、子ども同士でなんらかのやりとりはあるわけです。心身の苦痛を感じることも当然あるはずです。それが全部いじめになってしまい、懲戒という学校の処分しか用意されていないということは極めて不都合です。

例えば、最初にAさんがBさんにちょっかいを出したとしましょう。或いは乱暴な扱いをしていたとしましょう。Bさんは、Aさんに近づくとまた乱暴にされてしまうと思って、なるべくAさんと一緒に遊ばないようにするということはよくあることです。それでも、AさんがBさんに「遊ぼう」と言ってもBさんが乱暴にされることを嫌がって「遊ばない」という態度を続けたら、遊ばないBさんは、一定の人間関係のある他の児童生徒が遊ばない行為によって心理的な影響が与えられるのですから、Bさんの行為はいじめと認定されてしまいかねないのです。Aさんの親御さんが、いじめだからBさんを処分しろと言われると、どうしたら良いのでしょうか。Bさんは、乱暴されることを承知でAさんと遊ばなければならないのでしょうか。

また、例えば、Cさんは仲良しのDさんがいて、Dさんといつも一緒にいることが安心なので、休み時間もすぐにDさんのところに行ってしまうということがあるとします。Eさんは、誰も友達がいないので、一度親切にしてくれたCさんと遊びたいとします。Cさんは、そんなことを知らないので、Eさんを振り切っていつもDさんのもとに行ってしまいます。EさんはDさんが苦手なので、CさんがDさんのところに行ってしまうと近寄ることができません。Cさんが友達のDさんとばかり遊ぶことは、Eさんの心理的苦痛を伴うわけですが、いじめだとして法律が介入するべきなのでしょうか。Cさんは処分されないためにはEさんとも遊ばなければならないということになるのでしょうか。その結論はおかしいと思うのですが、いじめの定義に該当しない理由は見つかりません。
Eさんの親からすれば、一緒に遊んでくれないという部分しか耳に入ってこないので、いじめられていると感じることはありうることです。どうして自分の子をいじめるのかと思うのも自然な流れかもしれません。しかし、その全ての責任をたまたまEさんに気に入られてしまったCさんが一身に背負うということは極めて不合理です。

Fさんは、Gさんから物を隠されたり、机にいたずら書きをされたりして、いじめに遭っていました。HさんやIさんそれを見ていて、いつもFさんを助けていました。Fさん、Hさん、Iさんは、ある日、Gさんを取り囲んで、いじめをするのをやめろと言って、「やめる」というまで家に帰さないと言ったとします。GさんもFさんに対するいじめで処分を受けるとして、Fさん、Hさん、Iさんも処分されなければならないのでしょうか。3人は、Gさんのことを先生に言いつけることが可哀想だと思い、自分たちだけで解決したかったとしても、処分されるのでしょうか。そもそも必要なことは処分なのでしょうか。

今あげた3つのどのケースでも私が良識的だと思う学校の対応は処分をしないことです。でもどうすれば良いのでしょうか。いじめには該当するけれど、処分はしないということが正解でしょうが、真面目に法律を考えるとなかなか難しいでしょう。おそらく、現場ではなんとかして、「それはいじめではありません。」という対応をとるのだと思います。3つのケースはそれで良いのですが、そうやってイジメの定義がグダグダになりローカル定義が横行すると、自死につながるような重大ないじめも見逃したりする危険がでてきます。「あの時も、こういうケースはいじめではないと言ったよなあ」ということが積もり積もって、なんだかわからなくなるようです。
実際の事例でも、生徒がいじめアンケートでいじめられた経験があると回答すると、学校が内容を聞き出して、「それはいじめではない」といってアンケートを書き直させていることがあるそうです。こうなるともう、いじめかどうかは、いじめがあるという結果を学校が出したいか出したくないかということで決まってしまうということになってしまいます。結局、このような学校の自己保身を理由としていじめではなくなり、対応しなければならない生徒の行為が学校によって放置される結果重大な事態が起きてしまうということがあるように思われました。
こうなってしまうと、いじめ防止法があるからイジメが見逃されるという本末転倒な結果になってしまいます。
このあたりのことは日弁連でさえ言っているのですから、とっくに学校現場では分かっている問題のはずです。あまりいじめの定義の問題が学校現場から意見が出されているということを知りません。私が見逃しているのでしょうか。
いじめの解決方法が処分ということだけでなく、いじめは未熟な子どもたちの行動上のエラーだと捉えて、どうすれば良いかということとそのケースごとに大人と一緒に考えていくことが当たり前の方法だと思うのです。未熟な子どもの人格の向上を図るのが学校であるのに、未熟であることを理由に処分するということは学校のあるべき姿ではないと思うのです。
この点は早急に解決してほしいと思います。本気でいじめを減少させるという政策を取るのか、起きてしまったいじめをした児童生徒を全て処分するという政策を取るのか、随分前から判断を迫られていた事柄だと思います。
いじめの定義を変えるか、いじめと認定しても学校に柔軟な対応ができるような建付をするしかないのではないかと今のところは感じています。
「いじめ」という言葉に反応して、処罰を優先させるという世論ばかりを気にしていたのでは、子どもたちが正当な価値観を持てなくなってしまうと心配でたまりません。

追伸として、生徒の自死が起きると、第三者委員会を立ち上げて調査が行わることが増えてきました。私もある委員会に参加しているのですが、この場合も定義が広すぎると問題が起きてしまいます。いじめについて事実関係を把握した例があったとしても、程度が軽かったり、すぐに人間関係が回復したりして、自死とは関係の無いことが明らかになるいじめがたくさんあるのです。私はそんなものは報告しなくてよいと考えているのですが、いじめはすべて報告するべきだと考える人もいます。そうすると、例え、このいじめは自死とは関係ありませんと報告書に記載しても、マスコミが知りえて報道する際には、第三者委員会でこのようないじめを認定したと報道してしまい、それだけ読むとそのいじめで自死が起きたような印象を受けるということがありうるのです。誰がその行為をしたかということは報道されなくても、子どもたちどうしは、それは誰がやったことだとわかるわけです。心配なことは、その子の行為のせいで自死したのだ、あるいは、自分の行為のせいで自死したのだと思うことになることなのです。
早急にいじめの定義を改めるか、硬直な効果を改めていただきたいと切に願います。

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うつ病患者さんの家族に対する支援を充実させなくてはならないのではないかということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



「うつ病が伝染する」という表現が使われることがあります。
もちろんうつ病はウイルスや細菌に起因する病気ではないので
おそらく伝染の定義には該当しないと思います。

ただ、うつ病患者を抱えている家族は
精神的にも追い込まれて、家族も治療が必要な状態になる
ということは少なくないようです。

ある母娘の話ですが、
年配のお母さんがうつ病の方で、
私が継続的に法律相談を担当していたのですが、
お願いして付き添ってもらっていた娘さんが
とても険しい顔つきをした方でした。

お母さんには、私の師匠とも言うべき精神科の先生を紹介して
順調に回復してゆきましたが、
ある日、お母さんの付き添いでやってきた娘さんが
とても晴れ晴れした表情をしていました。
ずいぶん若返ったみたいなことを
年配の私だったから図々しく言ったら、
「そうなんだ」というのです。

お母さんの治療が効いたため
うつ病からくる後ろ向きの発言をしなくなったから
一緒にいて苦しくなくなったのだというのです。
なるほど、眉間のしわがなくなっていました。

うつ病の治療経過は
家族の表情で分かるのだなあと学びました。

後ろ向きの発言とは
他者の言動を悪くとらえる被害妄想
自分や家族の将来に対する悲観
自分の存在価値の矮小化
自己否定など
その本人の気持ちが家族に伝わってしまうことは
家族の持つ共感作用を発動してしまい
耐えられない気持ちになってしまうのは想像ができると思います。

(そう考えると、むしろうつ病の方々は
そのような悲観的な思考に苦しまれていらっしゃるのが
毎日のことなのですから
それに耐えておられると考えると
もしかするとむしろ精神力が強いと言えるのかもしれません)

うつ病患者さんの家族こそつらい思いをしているということなのですが、
なかなかそのことが世の中に知られていないように思います。

友人から紹介された事例では
二人暮らしのご夫婦で、奥さんが重いうつ病の方の場合、
旦那さんは仕事をしながら奥さんの看病をしているのですが
奥さんには時々大きな精神症状が出現して
旦那さんは会社を休みながら看病をしているという
ご苦労をされているという訴えがありました。

政令指定都市や都道府県の
精神保健センターを紹介することしかできませんでした。
利用可能なショートステイみたいなものがないと
夫婦共倒れになりかねないと心配です。

うつ状態を伴う精神疾患の場合、
精神状態に波がある場合も多く
良いときは普通に散歩もできるのですが、
悪いときは、布団から起き上がることも容易ではなく
トイレに行くのも支えないと転んでしまう
ということがあるようです。

患者さんが眠っているときには
家族は起こさないようにと
台所で調理をすると寝どこまで聞こえてしまうので
戸の閉まる風呂場で調理をするという方もいらっしゃるようです。

患者さん本人は忘れていることがあるようですが
「死にたい」とか、「消えてなくなりたい」とか
夜中に突然言い出されると
一晩中心配していなくてはならず、
何度も起きては布団に本人がいることを確認して
夜が明けてしまったという話も聞きます。

通院が物理的には一人で行くことが可能である場合でも
途中で何か発作のようなものが起きてしまわないか心配で
結局同行するのですが、
病院では本人の様子を話すばかりで
家族の献身的な介助はお医者様にも伝わりません。
本人に自覚がないことも多く
家族からの聴取も必要だと思うのです。

結局なるべく一緒にいることになりますので
家族は自分の時間を持つことができなくなるようです。
こうなる前は色々と趣味もおもちなのですが、
患者さんを一人家において出掛けることができないのでなかなかできない。

そういう状態のようです。

社会で何とか荷を分かつような制度があればよいのではないかと思います。
そうでないと、
病気の家族を捨てる人も出てくるのではないかと思います。
24時間、365日、個人が一人で行えることではないように思います。

そのためにも、家族の方こそ、社会に向けて
当事者として発言してもらいたいのです。
そうでないと、親切だけど頓珍漢な人たちが
頓珍漢な制度を作ってしまったり、
実態を知らないために反発を買うようなことを言ってしまったりするからです。

私は今、
うつ病の患者さんを抱えた家族が
家族をうつ病にした相手に対する損害賠償請求の
訴訟を担当しています。
家族の介護費用の請求をしています。
それだけ大変な状態なのだということを
世の中に知ってもらいたいと思っています。

うつ病患者さんだけでなく
すべての人のために頑張っている人たちが
社会から支えられることが
人間らしい社会なのだと思います。



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死のうと思わないで行った行為で「自死(自殺)」してしまう現象について 過料服薬(オーバードーズ)「自死」未遂をした人からお話を聞きました。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


おそらく多くの方は、誰かが自死したという情報に接すると
死にたいくらいつらいことがあって
そのつらいことから逃れようとしたのだろう
と思うことでしょう。

何か自死するほどの出来事があったはずだという前提で
自死の理由をあれやこれや詮索するでしょうし、
あるいは誰かを自死に追い込んだ犯人として非難するかもしれません。

また、自死を予防するとは、死のうとしている人を発見して
死ぬことを思いとどまらせることだ
と考えていらっしゃるかもしれません。

しかし、話を聞くと、いろいろな自死の形があるようです。
うつ状態をともなう精神疾患にり患した方々から聞いた話を紹介します。
もしかしたらこういう形の「自死」が多いのではないかということです。

まずは仮にAさんとしましょう。
Aさんは、何年か前に職場で同僚との人間関係をきっかけに
うつ状態を伴う精神疾患にり患し、
労働災害であると認定されました。

Aさんは、抑うつ状態が長く続くこともあるのですが、
一見普通に話ができているように見えることもあります。
ただ、私たち健常者からすれば普通の日常生活である
仕事とか、他人との交流とかをすると
それだけで疲れ切ってしまい、
反動で数日間も寝込むという状態が起きてしまうそうです。
とても出勤をすることはできない状態です。

そんなAさんが、自死未遂で救急搬送されたことがあったそうです。
睡眠薬の過剰服用でした。
ところがAさんは、死のうという気持ちは全くなかったと言います。

ただ眠たいのに眠れない。だから睡眠薬を飲んだ。
それでも眠れないからもっと飲んだ。
それでも眠れないからもっと飲んだ。
この連続が結果として過剰服薬になり、
命の危険があったため救急搬送された
というのです。

睡眠薬を飲み続けているときは
何かにとりつかれているように飲まずにはいられなくなり、
自分で自分を抑制することができない状態だったようです。

Aさんの言葉は印象的でした。
「死ぬつもりはなかったのに
気が付いたら自死していたということになったかもしれない」
と言うのです。

うつ状態を伴う精神疾患ですから
周囲は、本当はそういう事情だったということは分からずに
自死したのだと判断することになるでしょう。
死のうとして薬を過剰に飲んだと考えることでしょう。

もしかしたら、
自死と認定された事例の中で
相当程度はこのような事案があるのかもしれません。
つまり、
(Aさんの場合は突発的に)①強い精神症状が起きてしまい
②精神症状が原因で自己制御が効かなくなり、
③今解決すること(Aさんの場合は眠ること)だけを目指してしまい、
④他の事(死んでしまうこと)を考えることができなくなり、
⑤結果として死んでしまうということが
あるのかもしれないということです。

実際の自死事案でも
このような①から⑤の流れで自死が起きたとすると
とてもうまく説明できる事案はあります。

次にBさんの話を紹介します。
Bさんも、症状の波のある方で、
精神症状(病的状態)が急に悪くなる時期があるそうです。
抑うつ状態がひどくなるようです。

ある夜、家族に
「死んでしまおうかな」とぽつりと言ったそうです。
家族はびっくりして、一晩中Bさんを監視していたそうです。
うっかり眠りに落ちてしまうとすぐに目覚めて
Bさんが生きているか何回も確認をしていたようです。

ところが後で、精神症状が落ち着いてから家族がそのことを話すと
Bさんは、「そんなこと言ったかなあ。」
とまるで覚えていなかったそうです。
Bさんとご家族の両方からお話を聞いたので、
どうやらそういうことがあったようです。

何か原因があって死のうとしているわけではなく、
突発的に死にたいという気持ちがこみあげてきてしまったようです。
これがうつ状態を伴う精神疾患の
本当に恐ろしいところだと思いました。

直接の原因がなく、死のうと思ってしまい、
その手段を考えついてしまい
その手段を思いとどまろうとする自己制御ができなくなり、
後先考えずに死の危険のある行為をしてしまう
ということになってしまいます。

このようなパターンの自死の危険のある人に
「命を大切にしましょう」と言えば
「それはそうですね。大切ですね。」
と心の底から同意されると思います。

「悩みがあったらどこどこに相談してみてください」
と言えば、
「悩みがあったらそうしましょう。」
と心の底から納得され、本当に悩みがあれば相談するだろうと
ご本人も思うわけです。

しかし、①精神症状が強くなると
そのようなことは一切忘れてしまい、
②自分の一番自覚している感情を何とか解消しようと思い
③考えついた手段を止めることができなくなり、
④その結果、自分の命がなくなり取り返しがつかなくなることも忘れ
(あるいは正確に認識できなくなり)
⑤死の危険のある行為を実行してしまう。
ということになるようです。

そうなると、
既に精神症状が出てしまってからだと
命を大切にしようとか
悩みがあったら相談しようといっても
自死予防には有効性が乏しいのかもしれません。

但し精神症状が強くなる前であれば
誰かに相談することによって
悩むことを解消できるならば
自死予防への効果があると言えるかもしれません。

今あなたが抱えている悩みが
精神症状を引き起こしてしまい
死の危険のある行動をする原因となり
結果として自死に至るということを
みんなが理解する必要がありそうです。

どうやら人間は我々が思っているよりも
簡単に精神的な破綻を起こしてしまい、
簡単に死んでしまうことができる
ということのようです。

また上に述べた①から⑤の流れが起きるとすると
それは過剰服薬に限ったことではなく、
他の手段を使った自死の場合も
同じかもしれません。
①精神症状(病気というわけではないにしても)が強くなり
②当面の課題を解消することだけが要求になってしまい、
例えば翌日のプレゼンを行うことをしたくない
嫌な上司と顔を会わせたくない
何かいじめられて馬鹿にされたくない

③課題解消の手段として死の危険のある行為を止めることができなくなり、
④課題解消をすると命を失い、さまざま
⑤死の危険のある行為を実行してしまう。
ということが起きることがありうることを意味しているような気がします。

②の心理状態が理解しにくいと思われます。
例えとして挙げることも躊躇するのですが、
戦前の拷問にこの心理を応用したものがあります。

人間は眠りたいという要求がとても強いそうです。
拷問の内容は、無理に眠らせないというものです。
大量の光線を浴びせたりその他の手段で
眠ろうとするところを眠らせない
そうすると、どうしても眠りたいというのが生物のようで、
眠らせてほしいために、
捜査機関の都合の良い自供を始めてしまう
一度自供をしてしまうと再び抵抗する力が失われてしまい
捜査機関の言いなりになってしまう
ということがあったようです。

これは、人間の動物としての生理的問題でどうしようもないのですが、
自供をするのは、思想が甘いとか、信仰が薄いとかいうことになってしまうので、
一度自供してしまうと堰き止める手立てがなくなってしまうようです。
禁煙を誓って煙草を1本吸ってしまい、
抵抗力がなくなって禁煙をやめてしまうことに似ているようです。

死の危険があるほど深刻な問題でなくても
かゆいからと言ってひっかいていると
ますますかゆくなって、皮膚がボロボロになっていく
ということも
痒さからの解放のために
ひっかくことをやめられなくなっている状態
ということになると思います。

掻けば掻くほど悪くなるという理性が働いているうちは良いのですが
痒みが強くなってしまうと理性が働かなくなる
ということと似ているのではないでしょうか。

意志の力というものに
それほど期待はできない
ということを
頭の中に叩き込んでおく必要がありそうです。

自死予防の柱は
今死の危険のある行為をしようとする人を
力づくで止めるか
死につながりかねない精神症状を起こさないために
人間関係の状態と言う環境を改善すること
となるのではないかと
考えさせられた対話をご紹介いたしました。

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人の死を憶測で語ることは、遺族をはじめとする関係者、何よりもご本人を傷つけている可能性があります [自死(自殺)・不明死、葛藤]



女優さんが亡くなったという報道がなされました。
驚くことにネットには様々な書き込みがあり、
その誰一人も事実を把握する立場ではないにもかかわらず、
あれやこれや理由について語っています。

ご自分なりに理由を推測する理由は
自分の動揺を鎮めたいという意識からくるものですから
ある意味自然なことだと思います。
自分には関係がないということで
安心をしたいという心理です。

しかし、特に事実に反する憶測は
その意図がなくても
誰かを傷つけるものです。
特にご遺族です。
憶測で理由を語り、
結局遺族が止められなかったということを言われているように感じると
ただでさえ、身内をなくして悲しいのに
それが自分のせいだといわれるように感じるものです。

そして私の立場は
死者にも名誉があるという立場なので、
亡くなった方ご本人を傷つけることを
考えていただきたいと思います。

また、ほかの誰かに原因があるというようなものの言いようは
その無実の人たちを精神的に破綻させる危険があります。
そういう人たちも見てきました。

悪意のない発言でも
何の責任もない人の人生に
取り返しのつかなくなることになることもあります。

実際に多くの人たちの自死を後追い的に見てきましたが、
その多くは単純な理由で人は死ぬことはできないということがわかります。
これが原因だと思っていても
それがどのように死に至るかということは
簡単には説明ができません。
調べれば調べるほど
簡単には説明がつかないということだけがはっきりしてきます。

何人にも事情を聴取してもこういう状態なのです。

憶測で死の理由を語っても
ほとんど間違っています。
自分の安心のために理由を詮索するなら
公に発表しないでせめて仲間内、家族の間などだけで
語るべきだと思います。

それをネットにさらすことは
メリットは何もなく、
誰かを深刻に傷つけるというデメリットしかありません。

どうかおやめいただきますよう
心よりお願い申し上げる次第です。

何よりもあなたご自身のために。

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なぜ自死するくらいならば退職をしなかったのか 新入社員の場合、何が危険要素になり、どのように予防するのか [自死(自殺)・不明死、葛藤]

何件かの同種事案に接しております
私一人だけでも複数の案件に関与しているということですから、
新入社員という立場は
自死のリスクが高い時期だということが言えるのかもしれません。
今回は、損害賠償とか労災申請とかという業務を離れて、
純粋に従業員の自死を防ぐ、
特に新入社員の自死を防ぐという観点からの分析を行います。

いくつかのケースの共通要素を取り上げて
一つの事例を作り検討してゆきます。

<事例>
自死者は、23歳男性
一流大学を卒業し、第1希望ではなかったが、一流企業に入社した。
入社してそれ程たたない段階で、友人や家族との電話やメールで、
仕事がうまくいかず、思い悩んでいる様子が報告されていた。
何を悩んでいるのか、具体的な内容については記載されていない。
友人は、「そんなにつらいならば退職をした方が良い」というアドバイスを送っており、本人も退職することもあるという返信もしていた。
入社して数か月後自死。

<周囲の疑問>
どうして、死ぬくらいなら退職をしなかったのだろうか。
パワハラなどがあったのだろうか。何が彼を追い込んだのだろうか。
どうすれば自死を防ぐことができたのだろうか。

1 どうして死ぬくらいなら退職をしなかったのだろう。

1)うつ状態になった者の心理として

この点に関しては、仕事が原因でうつ病になったあるシステムエンジニア(SE)の貴重な体験がありますので、紹介します。
このSEは、中途採用でSEの派遣会社みたいなところに入社しました。ところが、上司と折り合いが悪く、上司は自分の能力に見合わない不利益な仕事しか回してきませんでした。つまり、お金にならない派遣先しか紹介しなかったのです。最初はこのSEは、会社に腹を立てて、言いたいことも言って、「いつでもこんな会社辞めてやる」という気持ちでいたそうです。そんなことが半年も続いたころ、このSEは精神的不調を自覚し、辛くてたまらないために精神科を受診しました。そうしたところうつ病であると診断され、原因は職場にあると言われ、結果的には退職しました。最初元気だったころ「いつでもこんな会社辞めてやる」と考えていたのに、うつ状態で精神的につらくなったころからは、「会社を辞める」という選択肢がいつの間にか意識の中で無くなっていたそうです。このまま苦しみ続けるしかないのではないかということを考えていたそうです。
このSEは、それでも意地とプライドが残っていたため、自死というアイデアはなかったと言います。しかし、思考は極端な悲観的な傾向を示し、二者択一的になっていて、問題の解決をしたいのだけどできないという意識があり、「問題を解決できない場合は苦しみが続く」ということばかり考えていたようです。もし、精神科医にうつ病だと診断されず、職場を退職するという選択肢を持てなかった場合は、この二者択一は「問題を解決するか、できない場合は苦しみ続け、この苦しみから逃れるためには死ぬしかない」という形に変わっていった危険性があると思います。

うつ病と呼ぶかなんと呼ぶか、精神疾患名はわかりませんが、うつ状態になり、悲観的になってしまうと、人間は、今いる人間関係を解消して孤立するという選択肢が薄れてゆき、やがて選択肢を失ってしまうことがあるのかもしれません。
冷静に第三者的に、「このまま勤務を続けてしまえばやがて自死するかもしれない。そうなるくらいならば退職をしよう。」という発想にはうつ状態になった場合はもてないと考えるべきなのだと思います。
事案では、心配した友人から退職のアドバイスがあったようです。ところが、本人は、口ではその選択肢があるとは言ったものの、実際にはその選択肢が自分の頭の中にはなかったということになるのでしょう。
別の観点からもこの問題を考えてみましょう

2)悩みの程度、悩みの原因はよくわからないことがむしろ多い。自分が死ぬなんて思っていない

私が、パワハラや自死の相談を受けるときは、パワハラや自死の相談をしたいという形での相談申し込みはほとんどありません。職場のことで悩んでいる。家族のことで悩んでいるということを言えることが精いっぱいであることが圧倒的多数です。中には別の相談をした後で、実は別のことでも悩んでいてと切り出され、かなり精神的なダメージを受けているいわば本命的な相談が始まることだってあります。
だから、事案の彼も、悩んで苦しいということは自覚があったから周囲に相談をしていたのだと思うのですが、それがうつ状態を引き落としているほど苦しいということや、自死の危険があるという自分の悩みの危険性までは自覚できていなかったということは大いに考えられます。不満を感じている程度の自覚だったのかもしれません。
自分が自死する可能性が高いと自覚していたら、退職という選択肢が現実の選択肢として浮上していたでしょう。しかし、そのような自死の危険性について自覚ができる人はとても少ないようです。
別の事例でリストカットをやりすぎて、それ自体で命をなくす危険がある人に対して、「このままリストカットを続けると別の手段で自死を試みる危険が高くなるから精神科に入院する必要があるよ」と言ったところ、その人は自分もこのままでは死んでしまうかもしれないと気が付いて、怖くなり、私の知り合いの精神科病棟を受信し入院し事なきを得たということがあります。自死の危険は、第三者から、その危険があることを指摘されなければなか自覚(意識)できないことなのかもしれません。

3)死のうとして死ぬわけではない

自死についての誤解が、「自死する人は死にたいから死ぬんだ」というものです。違いについての説明が難しいのですが、実際は、「死ぬしか生きる道はない。」と考えているという表現がリアルな心理状態のようです。
あくまでも本人の望みは問題の解消です。そのことを理解していただくためには次のことを理解していただく必要があります。私が事後的にかかわった何十人という自死をされた方々は、共通の特徴があるということです。それはまじめすぎることと責任感が強すぎるということです。
自分に与えられた課題は、自分が遂行しなければならないと考えてしまうのです。ほかの人がサボってやらないなら、自分が代わってでもそれも引き受けるという気質を持っています。ところが、様々な課題がありますから、本人ができない課題も当然あります。中にはできっこないのに課題として与えられてしまったような無理難題もあります。それでも本人は、生真面目さと責任感から課題をやり遂げようとします。
それでもできないと悲観的意識、二者択一的意識がでてくるようです。
「課題をやり遂げる。できないならばもっと時間をかけてやる。」
「課題をやり遂げる。時間をかけてもできないならば誰かにやり方を尋ねる。」
「課題をやり遂げる。誰からも適切なアドバイスを受けられないならばもっと頑張る。」
「課題をやり遂げる。何か方法を考えてこれまで以上に頑張る。」
「課題をやり遂げる。何も方法思いつかなければ自分の存在価値がない。」
「課題をやり遂げる。やり遂げられなければいつまでも苦しみ続ける。」
「課題をやり遂げる。やり遂げられなければずうっと死ぬまでこの苦しみが続く」
ここでいう課題、新人ができっこない課題としてあったのは、
新人にはできるはずのない経験とスキルが必要な仕事を遂行するとか
クレーマーからのクレームを手際よく処理するとか
パワハラから逃れるようにきちんと仕事をするということもはいります。

「ずうっと死ぬまで苦しみが続くのか」と感じるころは
かなり苦しみが持続している状態になっているようです。
しかし本人の意識は、課題をやり遂げるということなのです。苦しみから逃れたいという気持ちは人間が生きるために必要な気持ちです。本来は課題を解決して苦しみから逃れたいと思っているのですが、それができないために苦しんでいるわけです。それが続いてしまうと、何かの拍子に、自分が死んだら苦しみが終わるということが頭の中に浮かんでしまうと、明るい気持ち、温かい気持ちが起きてしまうのだそうです。そうすると、「自分が死ぬ」というアイデアから逃れられなくなるということが起きるようです。決して死にたいわけではありません。あくまでも課題をやり遂げたいのにできないから苦しいのですし、真面目過ぎて責任感がありすぎる人間にとって、課題をいつまでもやり遂げられないことは大変苦しいのです。私のように無責任な人間はできないことはできないと考えます。過大な課題を与える方が悪いと割り切ることができるので、課題ができないことはそれほど苦痛ではありません。他罰感情が生まれるため、怒りが自分に向かいません。また、死ぬことなんて怖くて考えつくこともないでしょう。しかし、真面目で責任感が強すぎる人は、死にたくなるほど課題をやりたいと思ってしまうものなのでしょう。驚くことに、やらなければならないことをできない自分は最低だと苦しみ悩むそうです。他罰感情ではなく、自罰感情が強く働くのかもしれません。(自罰感情も極限的な状況では絶望回避という自己防衛的な意味合いを持つことがあります。)もちろんこうなってしまうまでには、過剰なプレッシャーをかけられていたり、睡眠不足などで冷静な思考能力が奪われていたりするという事情もあることが考えられます。
本人は死にたいわけではない、あくまでも課題をやり遂げたいだけですから、自分が死ぬことになるなんて思っていないわけです。死ぬことに頭がいっぱいになるころには、そんな気持ちを打ち明けられなくなっています。打ち明けてしまえば、死ぬことを止められてしまう、そうしたら苦しみから逃れる最後の望みも絶たれてしまうということになります。また、死ぬことを考えているということで、自分が異様に感じられないか、自分がさらに孤立するのではないかと考えてしまいますので、打ち明けることをしたくなくなっているのです。死なないで済むという方法があることさえも考えられなくなっているということだと思います。
彼らにとっては、課題を遂行することから逃げようとする発想がないために、退職して課題を無しにするという選択肢ももてないのかもしれません。

2 若者の自死の特徴

若者の自死も、高齢者の自死も、将来に対して絶望することから起きるということでは共通でしょう。ただ、絶望の仕方は決定的に違うと思います。高齢者の絶望は、これまで自分が築いてきた自分の価値が壊れてしまい、これまでの努力に見合った将来が絶たれてしまったという過去から続く未来への絶望だと感じます。これと異なり若者の絶望は、どちらかというとこれからの将来に対して何も期待が持てなくなるという長く続くであろう将来に向けた絶望だと思います。若者なりに思い描いていた未来が不可能となり、何も良いことがあるとは感じられない未来が死ぬまで続くという絶望です。
このように思い悩んで、緊張が続いているならば、睡眠不足になることは当然です。睡眠不足は合理的な思考力を低下させますから、悲観的傾向、二者択一的傾向は加速していくわけです。

3 新入社員は自死リスクが高まる時期であること リスクを加速する先輩社員

先に上げた事案の本人の置かれた状態はどのような状態なのか想像してみましょう。本人は、一流大学を卒業し、一流企業に入社し、家族や友人たちからうらやましがられる立場だと思います。本人も周囲から祝福されていることを自覚しています。もちろん将来に対する不安もあるわけですが、どちらかというとこれまでの自分の実績という自信を持って会社での仕事に取り組もうとしていると思います。つまり、自分自身と周囲の自分自身に対する評価が高まっているという側面があるわけです。
ところが、会社の仕事はこれまでとは勝手が違います。また、自分のやったことがこれまでは自分が責任取ればよいことがほとんどだったでしょう。勉強をさぼって遊んでいれば、自分の成績が落ちるという具合です。ところが会社での行動は、すべて会社に効果が帰属してしまいます。自分がやったミスで、会社が損をすることや、取引先が迷惑を被るということもあるでしょう。かなりの緊張を伴うものです。他人に迷惑をかけることが嫌な人たちだからなおさらです。また、馴れないために、自分の行動のプラスもマイナスもその効果の程度もはっきりしません。すべてが手探りという状態です。
初めてのことは不安だらけです。これらのどこまでやればよいか、どこまで責任を感じればよいか、何に注意をすればよいかということは、初めから見に就いている人はいません。やりながら、自分や他人の失敗を見ながら体で覚えていくという側面は確かにあるでしょう。
このため、入社で一度高まった自分に対する評価は、現実の仕事を始めるときには自分でも著しく低下することがある上、上司や同僚から自分に対する評価に自信を持てなくなる時期であることが当然なのです。
こういう時にもかかわらずよく見られるのは、先輩による後輩の鼻柱を折るという行動です。ろくに仕事のことがわからない新入社員のくせに根拠のない自信をもっているわけです。いつも失敗ばかりしているこちらを馬鹿にしているように感じる先輩もいることでしょう。実際の仕事の困難さを思い知らされて、従順に仕事をさせようと考えているのかもしれません。また、そういう後輩いじめが綿々と受け継がれている職場もあるようです。そういう職場では、先輩は何も考えないで、自分が受けてきたいじめを後輩にも行うことが職場の流儀だと考えているような人たちもいます。
新入社員たちは、ただでさえ、馴れない仕事をしてなかなか仕事が進まないために自信を失いかけています。これまで築いてきた自分の実績に自信が持てなくなっています。その中でさももっともらしい先輩の「指導評価」が入ってしまうと、
一気に自分自身に対する評価が急降下してしまいます。
このような自分に対する評価の乱高下は、危険なまでに情緒不安定になってしまいます。
特に、当たり前のこと、馴れていないこと、知識がないことという、はっきりしている弱点を当たり前のことではなく、常識がないとか能力が無いという、その人の人格に絡めて批判されることが一番つらいことになります。思考が止まる危険があるのです。
だから、後輩いじめの典型は、
・一度教えたことは二度と教えない
・なんで一回教えたら覚えないんだ
・なんでも他人に聞いてやろうとするなよ
・このくらいのことができても誰も評価しないよ
・君この仕事向いていないんじゃないの、転職を考えたらどうだ
等のセリフです。これらのセリフは、他人に対して使う言葉ではありません。
そもそもその先輩だって新人の頃は同じようなものです。そうではないと思うならば忘れているだけです。あとは日々のルーティンの中で、自然と馴れていったために、それほど苦も無くできるようになっているだけです。仕事というのは繰り返し行うというところに特徴があるわけです。また、新人がやった仕事の評価も適正な評価をしているかどうか新人にはわかりませんので、評価しないと言われたら、それが全力でやったことでもそういうものかもしれないと思ってしまいます。
しかし、新入社員の自死の事例をベテラン社員と検証すると、いろいろな問題点が浮かび上がってきます。暴言をする先輩社員が新人の時もできたのに、その本人ができない場合は、多くは、その暴言先輩の最初のレクチャーがずさんであったり、必要な情報を提供していない場合が多いという事実です。自分の行動に問題があって、その結果として新人社員がうまく仕事ができないのに、その責任を新入社員に押し付けているという構図が明確になることが多いです。さらに、先輩社員が新入社員に対して適当な指示を乱発したために、前に言ったことと後で言ったことが矛盾していて、新入社員がどちらの指示に従ったらよいかわからない場合もあります。その責任を新入社員に押し付けているわけです。
新入社員の時期は、評価が乱高下する時期であり情緒不安定になりやすい時期です。誰からも間違った対応をされていなくても、大変危険な状態になっていると考えるべきです。この時期に先輩社員のわずかな悪意で、言った本人も想像がつかない大きな精神的ダメージを受けるということになります。

4 予防の観点から

鼻柱を折るなんてことは考えるべきではありません。無駄なしごきは絶対にやめさせるべきです。
必要な情報を提供することと矛盾した指示をしないことは鉄則です。
試行錯誤しておぼえさせるということも私は否定的です。必要な情報を提供して、手取り足取り解説しても、最初にそれをやることは戸惑うものです。それでも手取り足取り、まず仕事を完結させる体験をさせ、繰り返させていく中で、仕事に慣れ、応用が利くようになる仕事が多いと私は思います。疑似成功体験を積むことが成長をさせる近道であり、王道だと思います。そして疑似成功体験とはいえ、それができれば、「それでよい」という肯定評価をすることが大切です。そうして、理想形を反復して叩き込み、それがそれで良いということを体で覚えていくということなのです。これが記憶の仕組みからも正しいと思います。
それに反して手探りで一から始めると、どこまでが正しくて、どこからが間違っていたのかよくわかりません。それがわからないと結論が間違っていたとき、どれが間違いの原因かもわかりませんから、正しかった方法も記憶から排除される危険があります。逆に結果として正解だったとしても、どれが正解かわかりませんから間違ったことも肯定的に記憶する危険があります。さらには、無我夢中で取り組んで、偶然正解にたどり着いた場合は、何も教訓を得られない危険もあります。特に、鼻柱を折られて、緊張感が無駄に持続している場合は、思考力が低下し、二者択一的な考えに支配されますから、教訓を正しく身に着ける記憶力も低下しているわけです。記憶の仕組みからすれば、必要な情報をきっちり提示して、疑似成功体験を積み重ねさせ、どの点がそれで良いかを明確にして、記憶の土台をつくるべきだと思います。

さて、そのように対応を間違わない場合であっても、新入社員の時期、半年くらいは情緒不安定になることがあります。自死リスクも高まっている可能性はあるわけです。
若者の自死リスクについては、研究によって以下のような特徴があるということがわかってきています。
・自分の感情を抑えることができない
・攻撃的な感情を持っている
・自分や自分の持ち物に対する破壊行為をしてしまう
・その日、そのときによって感情が変わる。
・現状肯定で建設的な行動を見せても、リスクは無くなっていない。
・集中が続かなく、気が散りやすい
具体的には
話をしていて感情的になり、突然泣き出したり、怒り出したりしてしまう。
一緒に話をしているのに、突然、その場を去ってどこかに行ってしまう
聞くに堪えない悪感情を他人や自分に向ける
それにも関わらず、突如上司のいうことをはいはいと聞き出す
家に行ったら大事にしていたと思われる楽器やアルバム、記念品をぼろぼろになるくらい破壊していた。
理解できな行動が、1か月の間に何度か見られる。

これらの行動が見られたら、
一つ一つの出来事をそのまま放置するのではなく
良く事情を聴かなくてはならないようです。
それでも本人も自覚がないので、ビジネスライクに結論がすぐに聞き出せるわけではありません。また、安心できない相手には本当のところを話そうとしないでしょう。
大事なことは、奇怪な行動をしている本人に対して
まず心配すること、そしてその心配を伝えることだと思います。

一つ一つの行動をとがめるのではなく、心配するという態度を示すということが必要だと思います。
その背景として、新入社員の時期は、自己評価が乱高下するために、情緒が不安定になっているということを理解しなくてはなりません。

それはその人の特殊性ではなく、人間一般に起こりうることです。
また、新入社員の時期を過ぎればなくなる一過性のものです。
この時に必要な心配とフォローをすることによって
新入社員の帰属意識とモチベーションが上がり
持ち前の責任感の強さと真面目さも加わり
御社に多大な貢献をする社員となる可能性が高いと私は思います。

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ネット誹謗中傷の発信者特定開示と厳罰に関する要求キャンペーンに対する疑問。この国の「リベラル」の形 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



これまで2回にわたり、
急逝した木村花選手とネットの誹謗中傷の問題を考えてきました。
政府は、この問題を受けて
ネットの誹謗中傷者の発信元を突き止められるようにし、
誹謗中傷者の刑事処分を設ける動きが報道されています。

スピード感をもって対応するという大臣の発言もありました。

私は、この動きを歓迎しません。
慎重に考えるべきことだと思います。

匿名での誹謗中傷をするべきではないことは賛成です。
そのために、これまでいろいろ考えてきたわけです。

しかし、物事メリットがあれば、必ずデメリットもある
と考えるべきです。
特に全国民に適用される法律は
デメリットを必ず考えなければなりません。

既に成立している法の解釈でさえ、
一つの利益を擁護しようとしての解釈は
思わぬところで不合理を招くことが多いものです。
私は、大学で、
教授から厳しいご指導をいただく幸運に恵まれました。

熱に浮かされて
一つの利益だけを考えて行う法解釈は
不合理な結果を生むということを思い知らされました。

ましてやこれから使われる法律を作る場合ですから、
もっといろいろなことを考えなければなりません。


先ず、すべての匿名発信を事実上禁止するようなやり方は
重要な情報提供が得られなくなるでしょう。
企業の不正を内部から告発する場合
匿名で発信することができなくなれば
解雇を覚悟に情報提供しなければなりません。
一応法律はあるのですが、
内部告発者が守られる運用にはなっていません。

例えば、そういう巨悪の不正をただす場合
匿名の告発投稿から始まるというパターンはなくなるでしょう。

では、発信者を割り出すのは、
誹謗中傷の場合だと限定した場合はどうでしょうか。

「何が誹謗中傷にあたるか」という難しい問題があります。
ネガティブな評価であればすべて誹謗中傷だ
というわけにはゆかないでしょう。
根拠のない否定評価や、人格否定を伴う場合、損害が生じた場合
等の限定をすることが、果たして限定になるのでしょうか。

また、一つ一つの書き込みがそれほどひどいものではないとしても
それがいろいろな人から大量に送られることが
精神的ダメージになるわけです。

特に悪質なものが排除されるのは良いとしても、
それ以外が排除されないのであれば、
結局人が追い込まれることを防げなくなるという心配もあります。

おそらく、企業の正当な信用を害する書き込みは
誹謗中傷として発信者開示の手続きになるだろう
ということを考えなければなりません。

匿名での告発は
おそらく重大な事情の告発ですから
発信者開示の手続きがはじまるでしょう。

また、送られてきた商品に問題があるとか
年寄りをだまして不要な商品を買わせている大企業がある
なんていう書き込みも
発信者開示がなされるでしょう。

法律家であれば誰しも考えることは
国家機関に対する批判が封じられることです。
匿名の書き込みだけが厳罰の対象になるとは考えにくいので
実名を出した書き込みも厳罰の対象になるのでしょう。

政策を批判することはさすがに厳罰の対象とはならないとしても、
政権批判をしている人たちの書き込みは
確かに人格批判のようなものも多いので
個人を批判したものとして厳罰の対象となるでしょう。

名前を出せば、個人攻撃をしても厳罰にならないというならば、
誹謗中傷はなくならないでしょう。
誹謗中傷される方は
知らない人が名前を出して否定評価することは
むしろ、逃げ場が無くなる気持ちになるかもしれません。

SNSの政策提案は、
このような問題の所在を一切述べないで
ただ、情報開示と厳罰を求めるものです。
それを作るのを国家機関にゆだねています。

国家機関がおよそ信用ならないとは言いませんが、
どの政党の政権であっても
およそ権力は自分に都合よく政策を立案するものです。
少なくともそう考えて、国民は権力を監視こそするべきです。

それなのに、国家権力に対して
国民の権利を制限しろ
やり方は任せる
という主張は無責任ではないのでしょうか。

根本の問題は、
問題の解決を自分の頭で考えずに
とりあえず、国に何とかしてもらおうという態度ではないでしょうか。
国に要請すれば何とかしてくれるのではないかと思っているのでしょう。
昭和の年代に法律を学んだ私としてはとても理解ができません。

どうしてもそこには
国民は自分たちと違ってどうしようもない人間たちなのだから
外側から強い力で規律しなければ
弱い者を守ることはできない
という本音があるように感じてならないのです。

児童虐待の問題も
通報の拡大と警察の介入強化ということで
事後的な対応しかなく、予防は議論にすらなりませんでした。

今回も
まったく同じシーンを見ているような気がします。

誹謗中傷する人も虐待をする人も
私は、自分にもそのような要素がある同じような人たちであり、
特別な人ではないと思っています。
色々な環境が変えれば
そのようなことは落ち着いていくと考えています。



警察権や国家機関が
国民の私生活に介入する余地を拡大していくことを
手放しに行う人たちをリベラルと呼ぶのは
この国くらいなのではないでしょうか。




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テレビ番組発信の誹謗中傷が生まれる仕組み 攻撃参加の論理、あおりの原理 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

 

フェイスブックなどの政治がかった投稿等で、
ある程度権威のある人の投稿のコメント欄を見ると
なんとも情けない気持ちになることがあります。

例えばそのリーダーが、
政権だったり野党だったりを皮肉たっぷりに批判する投稿をしたとします。
コメント欄は、
批判の過激さだけを競うようなものが並びます。

単なる人格攻撃だったり
皮肉の工夫だけに力を入れていたり
それならまだよいのですが、
お決まりの単語を書き込むだけのコメントもあります。
読んでいて恥ずかしくなります。

たとえ最初の意見の核となる部分には同調できても
この人たちと同じに見られたくないなあと
「ひいて」しまうことが私の場合良くあります。

私にはこのようなコメントは
リーダーにすがっているようにしか見えないのです。
「ね、そうだよね。私も一緒だよ、ほらね。」と
なぜここまで必死なのだろうと首をかしげてしまいます。

仲間内のサークルでそれをやっているなら
罪がないのかもしれません。
空虚な賛辞が続いていたとしても
おそらく仲間内では
それほど深刻に意味なんて考えないで
応援しているというメッセージが伝わればよいのでしょう。

おそらくそのコメントを出すことで
特に誰かが傷つくわけではないのだとすれば
それは言葉の持つコミュニティー機能
サルの「毛づくろい」と同じ
相互のなだめ行動ということで、
人間としての正しい在り方なのでしょう。

通常の人間は、多かれ少なかれ
誰かと仲間でいたい、仲間の中に入っていたい
という意識を持ち、
これがかなわないと心身に不具合が生じるそうです。
(Baumeister : The Need to Belong)

現在の人間関係は人間が心を持つようになった時代に比べて
複雑になっています。
仲間以外の人間とも日常出会うことになりますし、
仲間と生活できないで一人暮らしをしている人も多くいます。
学校でも、職場でも人間関係が希薄になっているために
仲間の中にいるという安心感を持てないのかもしれません。


自分の周りに仲間を感じられないと
よりわかりやすく明確に考えを表明する人と
仲間だと思って結び付きたくなるのでしょう。

その人と仲間であることを優先して考えるあまり、
例えばその人を賛美することが
他の人間を攻撃することになって、傷つけるということも
考えられなくなっているのだと思います。

人間相互の結びつきが希薄であるために
探し出しても結びつきの中に自分を置いて安心したくなる
ということなのでしょう。
ネットでのいじめも、学校でのいじめも、パワハラも、
このようにして生まれます。

2人の対立に利害関係はないけれど
攻撃者との関係で仲間意識を持ちたくて
攻撃者に協力する、攻撃参加するわけです。

この場合、攻撃者がわかりやすい方が
より仲間意識を持ちたくなります。
怒り、悲しみ等、感情がはっきりしている方が
無責任な追随がしやすくなります。
追随しても攻撃者から自分が攻撃されることがないだろうと
安心して攻撃参加できるからです。

いじめられる方はいじめられ続けると
感情表現をやめてしまいますから
ますますいじめられるわけです。

また、思想、政治、宗教など
仲間意識を強く求める仲間の中にいる人ほど
対立する相手の感情を顧みない傾向があります。
「自分たち以外は敵。」
結果としてそういうことになっていることに気が付かないようです。
これは思想の中身、政治傾向、宗教内容とは関係なく
仲間としていたいという要求度によって変わるようです。

こういう仲間意識の強い人たちは
リーダーの感情が高ぶったときこそ
その感情に追随して仲間の中にいるという意識を満足させる
絶好のチャンスだととらえるわけです。

リーダーが誰かを非難すると
仲間であることを確認したくて、あるいは確認してもらいたくて
積極的に自分と利害関係の無いはずの人に
攻撃を仕掛けていきます。
どうやら攻撃することが自己実現ではなく
仲間として共通の行動をしていると実感することが
自己実現であるように感じてしまいます。

仲間意識を渇望している人たちは
色々なことをとらえて仲間になりたがるようです。
テレビ番組なども
ただドラマを楽しむことができず、
ただ野球を観戦することができず、
誰かの感情が現れることを待って
その人の感情に追随しようとします。
そしてリアル生活で誰かと感情を共有したくても
近くに誰も感情を共有できる人がいない場合、
インターネットなどで探してまで
仲間を求めるようです。

テレビではこれを積極的に利用しています。
テレビ番組では、小画面(ワイプ)を作り、
そこでタレント等の反応した表情を同時に映す
その表情を見て安心して自分の感情を追随させているようです。

ニュースショー、ワイドショーでも
それぞれ事実を自分なりに評価すればよいのに
コメンテーターの言葉にうなずいているうちに
意見が整理されてしまうのです。

確かにその場その場の視聴者の感情の
一部をコメンテーターは言い当てているかもしれませんが、
それは複雑な感情の一部にすぎません。
一部でも言葉にしたかったことを言葉にしてくれているので、
自分も同じ感情を共有していると仲間意識を満足させてしまうので、
コメンテーターの言わない側面は捨象されてしまうわけです。

人間を尊重しないで馬鹿にするようなテレビ番組も
ワイプの中でタレントが笑っていれば
笑ってよいのだというように追随してしまう。
「ちょっとやだな」という感情は捨象されていくわけです。

その番組に対する自然な感情、感想ではなく
一部が拡大されて、感情、感想が集約されてしまうわけです。
誰かと仲間になりたいということを渇望する人にとっては
感情を共有しているという実感を持つことによって
仲間でいる安心感を持つのでしょう。

だから、テレビ番組で
司会者などが、番組のキャラクターを非難して怒りをあらわにすると
その怒りという「部分に」共鳴した人たちは
その司会者やコメンテーター、番組参加者と仲間になりたいと
どうしても思ってしまうようです。
人間の本能で、無意識に思ってしまうのでちょっと厄介です。

その怒りが弱い者を守ろうとしての怒りから始まる場合であると
さらに積極的に攻撃参加してしまうのが人間のようです。
人間は弱い者を守るという要素があると
その他の人間を傷つけるという要素に目が行かなくなるようです。
日常的に怒る口実を探しているのかもしれせん。
それだけ現代社会では、
人間の仲間の中にいたいという欲求が満たされていないのでしょう。

(でも、本当にその人が弱い人なのかどうかは
 テレビのこちら側の人間は分からないはずなのです。)

人間の仲間の中にいたいという要求は
誰かの攻撃に参加することで
協同攻撃をしているという実感である程度満たされるのでしょう。
さらに正義感から出発するのでそれを止めることがなかなかできない
止めるという発想が生まれないようです。

攻撃しているうちは、攻撃している人間は同じ仲間だと感じて
一体感を持つのかもしれません。

テレビ番組やメディアは学習するべきです。
視聴者の感情をあおって視聴率を上げようとする場合は、
うかつに司会者が感情をあらわにすると
それに追随しようとする多くの視聴者が生まれてしまうのです。
番組の時間、テレビの前ということにとどまりません。
仲間意識の残像を求めて、インターネットに向かうわけです。

だからあおりというは、怒りとか正義感をあおっているのではなく
仲間意識の的を作るということが出発点なわけです。
これが大変危険なことなのです。
弱い者を守るために誰かを責めるという大義名分が
大変危険なことなのです。

つまり、テレビなど不特定多数人に発信する場合、
特定の人に対する怒りを無責任に発信することは
大変危険なことだ
ということを肝に銘じてほしいと思います。

自分の欲望を満たすための行動ですが、
仲間のなかにいたいということは人間の根源的要求なので、
防衛意識に似たような切実な求め方をするようです。

攻撃対象者の感情、立場、人間関係など
その人の人間性はすべて捨象されてしまい
単なる攻撃目標になってしまいかねません。
彼らは、攻撃対象者に恨みもないのに、
同じ攻撃仲間の一員でありたいという強い感情が
強い攻撃になるわけです。

彼も攻撃している、彼女も攻撃している
自分も攻撃しているので、自分は彼と彼女の仲間だと
言葉にしてしまうと大変ばからしいのですが
そういうことだと思います。


少しだけ攻撃される方の心ものぞいてみましょう。
例えば、テレビなどメディアに露出して攻撃を受ける人は、
昔、インターネットの無い時代は、その場限りの攻撃でした。
漫才のボケ役であれば
テレビの中だけ、演芸場の中だけで馬鹿にされればすんだでしょう。

俳優の悪役であれば
テレビの前だけ、舞台の前だけでののしられれば終わりだったはずです。

昔の国民は、ボケを、悪人を「演じていたこと」は了解していました。
ボケ「役」、悪「役」ということで、
それは仕事としてやっているということをどこかに意識しながら
お茶の間で楽しんでいたはずです。

中には、実害を及ぼす人もいるにはいましたが
ニュースになるくらい珍しいことだったようです。
その人たちも昭和の中期くらいまでは
自宅の住所を公開し、手紙を受け取っていたようです。

昔の国民は、テレビの虚構の世界と実生活の区別がついたのでしょう。
テレビの中の世界は自分の世界とは違うということを
よくわかっていたのだと思います。

現代社会は、インターネットの普及で
攻撃者と被害者がごく身近な存在になってしまいました。
虚構の世界と現実の境界が曖昧になってしまった
ということなのかもしれません。

またインターネットの世界は、
時間が途切れないというところに特徴があるようです。
いつでも誰かが悪口を書き込んでいるかもしれないわけです。

夜中でも、明け方でも
体調が悪い時も、家族と幸せに過ごしているときも
インターネットに書き込まれるわけです。
見なければ良いというわけにはいかないようです。
気になって仕方がないようです。

プライベートがないということにもなるかもしれません。
心を休ませる暇がないようです。

そうすると、自分が世界中のあらゆる場所から
常に、ひと時も休まずに攻撃されている
という感覚になるのかもしれません。
これは、おそらく人類がこれまで体験したことの無い恐怖でしょう。

人間の心は対応できるようにできていません。
このような誤作動を起こすわけです。

一人暮らしをしているとなおさら孤立しやすくなるようです。
家族や友達に相談すればよいのでしょうが、
追い込まれていると
自分が相談することによって負担をかけてしまうのではないか
という意識が強くなっていくようです。
相談することによって
自分のかけがえのない仲間を失うのではないか
という本能的に不安が現れるようです。

切れ目なく自分に対する攻撃がつながり
知らない人から非難されていったら
大勢の人から非難され続けたりしたら
「誰も自分には味方がいない」
そういう絶望を抱きやすくなるのかもしれません。

どうか、私たちは
ネットの誹謗中傷は他人事と思わず
自分も結果的に同じことをしているかもしれないということを考えませんか。
インターネット社会の中で
他人を気遣う方法を見つけるために知恵を出し合いましょうよ。


私ももっとそのための役割を果たせればと思っています。

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【木村花選手の急逝に寄せて】人を追い詰める誹謗中傷は「正義感」からなされていることを意識しなければ、悲劇は繰り返される。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

木村花選手が22歳の若さで急逝された。
死因は分からない。
生前、木村選手のネット配信番組の関連での
とてつもない誹謗中傷があったことが報じられており
その関連を示唆する関係者のコメントが多い。

誹謗中傷の内容を一部読んだが
一つ一つのコメントもさることながら
それが連日多数寄せられていたということを考えると
精神的に追い詰められても不思議ではない。

木村選手の急逝に関しては様々なコメントが寄せられている。
その中でも最も感心したコメントが
WWE(アメリカのメジャープロレス団体)の
ASUKA(華奈)選手のコメントだ。
「渡米するまで数年間、毎日沢山の、死ね、女子プロレスを壊すな、この業界から去れとメールが私の元へきました。そして今日は、他の選手がコメントを出してるのに、まだお前はコメントをださないのか、ときました。自分の正義感に前のめり過ぎて、同類だと気がついてないんですきっと。これが怖い。」

日本人ながら本場アメリカで、多くのファンを惹きつけて
「女帝」と呼ばれる地位にのぼりつめた人のコメントであり、
本質を突いていると感じた。

それは、誹謗中傷というものが「正義感」から始まっている
という真実を言い当てていることだ。
そして、本人たちがそのことに気が付かないために
誹謗中傷はなくならないだろうということも示唆している。

この視点で見ることができれば
多くの識者のコメントが
ASUKA選手の指摘通りに
前のめりの正義感をひけらかすだけであることに気が付くであろう。

このような事態を防ぐために
ネットの言論を厳しく監視し、
行き過ぎた言動を法律で制限しようという提案もなされている。

残念ながら浅はかな主張であると思う。
1 本質が正義感から来るのであるから、自分の行為が法的規制されている言動だとは思わないため、抑止にならない。
2 匿名性を排除する措置をとるなら、自由な言論が制限され、その効果は、政治的な主張が抑制されることになる危険性を考慮されていない。
3 なんでも、国によって管理してもらうという発想は安易である上、国が国民の私生活に介入する余地を広げてしまうことになる。

正義感から人を攻撃するということはよくあることだ。
いじめも、パワハラも、DVも突き詰めれば同じことだ。
正義は人を苦しめ、人を殺す。
このことは以前書いたので、詳細は略す。
「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18

誹謗中傷が、最初から最後まで悪であり、
誹謗中傷の内容を思いつくことから間違っている
という風に考えてしまえば
対策を立てようがないのである。

誹謗中傷をする人は、
自分は正義を貫こうとしていると思うので、
自分が他者を誹謗中傷しているということに気が付かない。

例えば黒川東京高検検事長が、マージャンをして辞意を表明している。
これに対して、
「訓戒処分ではなく懲戒処分にするべきだ。」
「退職金を支給するべきではない。」
等という懲戒論も、正義感から始まっている。

これを法律家さえも主張しているのだから暗澹たる気持ちになる。
「処分比例の原則」というものが確かにある。
「行った行為の重さ以上の重い処分をしない」という意味だ。
行った行為以下の軽い処分を許さないという論理ではない。
実際の処分は、その人の功績や処分をすることの影響
等を考慮して、処分比例の原則に反しない範囲で
処分者の裁量にゆだねられる。
この軽減する事情は、処分者が一番情報を有しているからだ。

それにも関わらず生ぬるいと言って
30年近くの公務の結果である退職金を支給するなという主張を
平気で行うということだ。
彼や彼の家族の生活が全く捨象されている。
おそらくそれらの主張を声高に叫ぶ人は
そのような主張が認められた結果の相手や家族の苦しみを
全く考えられないのだろう。

漫画家と比較して処分が軽いという主張もある。
一般の人がこういう主張することはある程度やむを得ないが、
法律家がするのは疑問が大きい。
結局は重い方に合わせろという主張だからだ。

世の中は、どんどん個人の感情、個人の利益
その家族の感情について鈍感になっていくことがよくわかると思う。

前のめりの正義感が、
世の中を堅苦しく、相互監視の風潮を強めている。
自分で自分の首を絞めることになるだけだと思う。

今回の誹謗中傷もそうだが、
誰かを守ろうとすると
誰かを攻撃してしまっていることになる。

ネットの書き込みをして誹謗中傷した人たちも
攻撃が自己目的ではなかったはずだ。
出演者の誰かを守りたかったのだろうし、
人間関係を守ろうとしたのだろう。
そして、黙ってはいられないという気持ちから
弱い人たちのために力になりたい
という素朴な気持ちから始まったはずだ。

攻撃している人間が仲間であれば、
仲間のやっていることを非難したくない
仲間を応援しようとして攻撃参加する人もいたかもしれない。

それはやがて、みんなが攻撃しているのだから
自分も攻撃の輪に加わっても、
誰からも反撃されないだろうという意識を生ませる
自分のいら立ちを
彼女を攻撃することで
なだめていたという側面もあったかもしれない。

黒川氏の家族がどんな思いをしてもかまわない
退職金を払うな
と主張することとまったく一緒である。

原理は、いじめも、パワハラも、虐待も同じである。

詩人吉野弘は、「祝婚歌」という詩の中で
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
と歌っているが、全くその通りだと思う。

そう言う自分自身も今回は番組を責める言葉を探してしまっていた。
感情が起きる環境を作って
生身の感情、当然の感情をさらして見世物にするような番組は
人間に対する尊敬が欠けているのではないか。と
さらされた人間はかなりつらい状況に
そもそも初めから追い込まれるようになっていたのではないかと。

自分の放つ正義の大砲は
結果的に誰かに向けられている可能性が高い
だから大砲を打つ前に、攻撃をする前に
誰かを傷つけることになるのではないかという
チェックが必要なのである。

当初の誰かを守ろうとする気持ちを否定する必要はない。
問題は守り方、その方法論にある。

誰かを責めるのではなく
問題提起をするということだ。

誰かを責めることなく
問題の解決を目指すという
大人の社会に早くならなければならないと思われる。

「正義と悪の二者択一的な価値判断を当然のこととして
無邪気に仮想敵を攻撃すること」
に疑問を持たなければならない。
そのような行動に対しては
眉をひそめ、軽蔑する社会の風潮が必要だ。



木村花選手は典型的ではないにしろ
ヒールとして活躍した選手だとのことである。
誹謗中傷という反響は
彼女の勲章だったはずだ。
それだけで彼女が自死したとは考えにくい。

おそらくその誹謗中傷と何らかの関連をもって
自分の将来を悲観しなければならない出来事に直面し、
相談することによって、誰かを苦しめてしまうことになることを気遣い、
誰にも相談できない孤立に追い込まれたのだと
考えている。

また、頭では自分の活動が成功しているということを理解できても
22歳という年齢から考えると
そう理性的にばかり受け止めることは
とても難しかったということはもちろんあるだろう

もし、彼女自身が、
彼女を非難している人たちに
うっかり共鳴してしまい、
誹謗中傷者の視点で
自分自身を評価してしまったらと思うと
恐怖すら感じてしまう。

結果的にであれ、
他者を攻撃することは
それが最悪の事態を生むことがある。
このことを私たちは忘れるべきではない。


*****


私は、
彼女のことは、おそらくデビューして間もないころしかわからない。
薄いピンクのフードと肩掛けのセットを身にまとってリングに登場し、
スラっとした長い手足で、およそレスラーっぽくない外見だった
アジャコング選手や、里村芽衣子選手と無謀にもブッキングされ
とてもかなわないながら一生懸命エルボーを打っていた姿しか覚えていない。
アジャ選手や里村選手が彼女を、
一人前のレスラーとして育てようとする愛情も感じられた。

その後彼女は団体を代表する選手に育ち
次世代の女子プロレスの目玉選手として
団体の枠を超えて期待されるまでに成長していたようだ。

母親のお人柄ということもあるのだろう
たくさんのプロレス関係者から大切にされていたようだ。

一プロレスファンとしても残念でならない。

母上の木村響子様、木村花選手を大切に思っていたプロレス関係者の方々には心よりお悔やみ申し上げます。
木村花選手のご冥福をお祈り申し上げます。

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