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「いじめ」の解消をどのように進めればよいのか  他者に対する貢献の喜びを教えること 現代版黄金律の構築の必要性4 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「いじめ」という言葉は注意が必要です。世間一般で「いじめ」と言えば、一人の子どもを大勢が取り囲んで暴力をふるったり、嫌がらせをしたりという意味だと思います。ところがいじめ防止対策推進法では意味が全く異なります。「法で言ういじめ」は、同じ学校に通う児童生徒などから、心理的、物理的に影響が与えられる行為で、本人が苦痛を感じるものということであれば全部「いじめ」になります。

1対1の喧嘩でもいじめになりますし、先に手を出してきた方に対して反撃してもいじめになります。問題行動を起こした相手を注意することもいじめになりかねません。一緒に遊ぼうと言われて他の子と約束があるからダメだといってもいじめにあたるわけです。いじめの内容が広すぎるということには様々な弊害があるため日弁連も意見を上げているのですが、改正されたりはしていません。

但し広い定義には、メリットもあります。学校はいろいろ言い訳をしていじめはないと言いがちです。世間的な意味でいじめがありながら、「うちの学校ではいじめをする児童はいない」という教育者にあるまじき発言をする校長がいる学校も存在しています。こういう様々な理屈をつけていじめの対処をしないことを防止するために広い意味でいじめをとらえたということのようです。そしていじめを小さな芽のうちに一つ一つ丁寧になくしていくことによって、重大問題を引き起こさないようにしようという理想があったのだと思います。

しかし、こんな広範囲な意味をみんないじめとしておきながら、「法のいじめ」をしてはらならないとか、「法のいじめ」を早期に予防しようとか言っても、実情にそぐわないわけです。世間的な意味での過酷ないじめについてならば、してはならないとか早期に予防ということは適切な表現だと思います。しかし、法の定義する広範な意味のいじめは、必ずしもしてはらないとか早期に予防とかが適当ではないこともあります。法律は「二つのいじめの意味」を混在して規定した未整理な状態であると感じられます。

法の広いいじめは、相手の感情を基準としますので、現代版修正黄金律である
・ 相手のしてほしいことをしよう
・ 相手のしてほしくないことをしないようにしよう
という観点からは正しいとは思います。

しかし相手の感情を読むことはとても難しいことです。その上、悪意が無くても、偶然でも相手が嫌な気持ちになることをしてはならないとか、早期に予防しようとか言われても、現実問題何をしてよいのか現場ではわからないでしょう。
遊ぼうと言われたら遊ばなくてはならないとしてしまうと、先に約束した方に対するいじめになりかねません。子どもたちにこうすることが良いことだ、こうしてはならないというルール設定ができない状態と言わざるを得ません。法律がいじめを減少させるとは思えないというのが本音です。

学校も広いいじめの定義に従って指導するわけにはいかないと考えているようです。実質的にそれぞれの学校、それぞれの教師の独自のいじめの解釈で運用されているということが実情で、その結果、「うちの学校にはいじめをするような児童はない」という発言をする校長が出てきてしまうわけです。校長でありながらいじめ防止対策推進法を理解していないわけです。

またいじめを悪と決めつけるために、いじめをした児童生徒は加害者になってしまい、一方的に指導や処分の対象としか見られなくなる危険が出てきてしまいます。これではいじめの実態からもかけ離れてしまう場面も多くなるでしょう。とくに未熟で、何に気を付けて行動するか定まらない児童生徒という特性や、自分の近くの事情しか考慮できない発達上の限界があるという特性にそぐわない指導になるほかありません。

特に過酷ないじめを起こしてしまわないためには、初期のいじめ、からかい、いじりを程度が小さいうちにやめさせる必要がありますが、悪であると決めつけず、児童生徒の人格の向上のための良い機会だととらえて一緒に考える絶好の機会にするべきです。相手の気持ちを考える訓練と、相手の気持ちと他の事情をどう調整するかということを一つ一つ覚えていく貴重な機会です。自分の言動が相手を喜ばせたり安心させたりすることの喜びを感じてもらう方向で指導をするべきだと思います。

これができないまま、強い方が指導を受けたり、親の影響力が強い方が被害者として扱われたりしてしまうと、子どもたちはあまりにも早く世間の不条理を知ってしまうことになりかねません。

根本的には、相手の気持ちを考えないで行動してしまうことを、悪であり否定評価の対象とだけ考えることを止めるべきです。そのような行動をしてしまうことは、うっかりすると大人だってあるということは、前回の記事に記載した通りです。ましてや、自己中心的で、他者の気持ちに立って行動することが苦手な発達段階の子どもの行為を善と悪に塗り分けることは科学的ではありません。

こまめにどんな場合、何に気を付けて、どう気をつけて行動すればよいかという経験値を丁寧に教えていくことが一番大切なことだと思います。特に、自分の言動で相手に不愉快な思いをさせずに物事を解決したり、相手から感謝されたり、相手とさらに強いつながりができるということの喜びを教えていくということを主にしていくべきだと私は思います。これなくして学校教育は成り立たないはずです。

具体的には、担任教諭の指導力の強化であり、そのためには担任教諭の立場の強化が必要です。

学校の人間関係も人間関係である以上、秩序が必要です。また人間は無意識に秩序を求める動物のようです。児童生徒という若年者の場合は、抽象的な法律や道徳によって秩序を作ることはなおさら困難です。やはり担任がクラスの秩序を形成し、秩序者の権威によって、小さないじめの芽を丁寧に積んでいくことがいじめ撲滅の唯一の方法だと私は考えています。権威者として人間が秩序を形成しようとする性質を利用して、先ほど述べたように、他者の気持ちに配慮すること、他人が嫌がっていることをしないことで、お互いが安心して暮らせることがとても楽しいことを教えていくこと、やがてはそれが自分の身を守ることだということを教えることが初めてできるのだと考えています。



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疑似発達障害の起きる環境 誰もが置かれた環境によって相手の気持ちを考えられなくなる 現代版黄金律の構築の必要性3 [進化心理学、生理学、対人関係学]



ぜひ前々回のシリーズ1の記事を読んでいただきたくお願いいたします。
かなり要約してお話しすると、発達障害の人は話しかける相手に対して、その人の気持ちを考えて、こういうことを言うと嫌な思いをするだろうから発言をやめようとしたり、表現方法を工夫してなるべく傷つかないように発言しようとすることが苦手であること、その結果悪意が無いのに相手を傷つけたり、立腹させたりすることがあること、そして相手が傷ついていたり立腹していることに気が付かないし、傷ついたり立腹する理由もわからないということがあるということを紹介しました。

しかし、読んでいただいている方の多くは、これは発達障害の人だけの問題ではないことにうすうす気が付いているはずです。

例えば、いつもは相手の気持ちに配慮した話し方をされている方が突然相手の気持ちを考えないような話をすることがあるとか、職場では厳しすぎるパワハラぎりぎりの言動をする人が家庭では穏やかな家庭人であったりということがあると思います。

またご自分でも、いつもは相手の気持ちを考えているのに、自動車を運転して割り込みをされたときに激高して同乗者にびっくりされたとか、買い物をしていて急いで職場に帰らなければならないのにお年寄りがレジでもたもたしていることでイライラしたり、職場で不条理な扱いをされてイライラして帰宅したときにいつもはなんとも思わない子どもの発言が癇に障って思わず怒鳴ったりということがあるのではないでしょうか。

こういう時、相手の気持ちを考えないまま自分の言いたいことを言ってしまっているのではないでしょうか。

こう考えると、相手の気持ちを考えないで相手を傷つけたり不快にする発言をするということは発達障害だけの特性ではなく、条件によっては発達障害が無い人でもつい行動をしているということになると思います。

そもそも相手の気持ちを知るということはなかなか難しいことです。おそらく相手の気持ちを考えて行動をするということ自体が難しいことで、頭をフル回転させて考えなければできることではないのかもしれません。つい、相手の気持ちを無視するだけではなく、相手の気持ちを自分勝手に決めつけて逆方向の話をしてしまうということもありそうです。

相手の気持ちを知ることが難しいということであれば、「難しいことを考えることができない脳の状態」のときに、相手の感情にそぐわない言動をしやすくなるということです。思考が停止している状態や、思考力が減退している状態です。どういう場合に思考が停止したり減退したりして、相手の気持ちを考えないでつい相手不愉快にしたり、怒らせたりするか予め知っておくことで、不用意な発言を防止しやすくなります。

思考力の減退、停止が起きる典型場面が、自分を守ろうとしているときです。

何かから逃げようとしているときや何かを攻撃するときは、危険を無くすことだけを考えるようにできているため、相手の気持ちを考えるなどという余計なことをしないように作られているわけです。逃げなければいけないのではないか、攻撃しなければいけないのではないかと感じる事情がある時、つまり危険を感じているときに思考力が低下します。

身体生命の危険だけではなく、対人関係的危険、つまり自分が組織や社会という人間関係から孤立する危険、追放される危険がある時、もっと平たく言えば自分の評価が下がる危険のある時、立場が無くなりそうなとき、こだわっていることができなくなりそうなとき、自分の仲間を守ろうとする時、こういう人間関係的な危険を感じている時に思考力が低下して、相手の気持ちを考えることができなくなるようです。

具体例を挙げると、会社の部署の責任者であり、その部署全体のノルマが達成できなくなりそうだというときに、部下の気持ちも考えずに第三者から見れば罵倒にしか聞こえない言動をするということが典型かもしれません。取引相手との約束の時間がギリギリなのに、開いたエレベーターのドアの前で入ろうか遠慮しようかともじもじしている人を見ると、どっちかさっさと決めてくれと毒づきたくなるわけです。
先ほど挙げた例もすべて自分を守る必要性を感じている場合ですね。

この他に、体調が悪いとき、睡眠不足、副作用のある薬を服用した時、それから時間が無い等の焦りがある時も同様に複雑な思考ができなくなり、他者の気持ちを考えて行動するということができなくなるようです。

思えば現代社会は、相手の気持ちを考えて行動できなくなる事情にあふれているように思われてきました。

会社に行っても家庭に帰っても、本当に自分はこの人間関係で受け入れられているのだろうかということを常に不安に感じるという事情、会社からこんな業績では成績評価を下げるぞと脅かされたり、退職を迫られたりするという事情という事情のある人も少なくないでしょう。今の世の中、自分は安全だ、安心だ、大丈夫だと感じられない人間関係が多いのではないでしょうか。特に日本では他国に比べて時間に追われるということも多いようです。何かと寝不足になる事情も多いですね。自分以外の誰かが起きて活動をしているとなると、SNS等のインターネットをのぞいてみたくなってしまいます。また、昼間のストレスで眠れないということもありそうです。

そうだとすると、現代社会は、大人の発達障害の行動を起こさせる原因に満ち溢れていることにならないでしょうか。ついつい他人の気持ちを考えずに自分の言いたいことを発信してしまうということが起こりがちになっているのではないでしょうか。その結果、自分の所属する家族や職場での自分の立場がますます不安定になってしまっているわけです。まさに心無い言動が理由で不安になっているという二次被害のような人も出てくれば、悪循環が大きくなっていきます。

現代社会は、発達障害の特性の行動類似の行動が起きやすい社会だと思います。それにもかかわらず、空気を読むことが強制され、空気を読めない人が低い評価を受けているような気がします。それができない環境にありながら、強制的に緊張を強いられ、空気を読ませられている、とても生きづらい社会なのではないでしょうか。

人々は、常に自分の感情が他者から考慮されずに行動提起がなされるので、指図されている不自由感を慢性的に感じているのかもしれません。自分のことを自分で決められないという閉塞感を抱きやすいのかもしれません。自分の感情を考えずに問題敵されることに過敏になっている可能性もあるのかもしれません。

現代版の黄金律である
・ 相手のしてほしいことをしてあげる
・ 相手のしてほしくないことをしない
ということはますます難しいことになってしまいます。

だから黄金律だけを述べることは無責任なのでしょう。
・ 自分と他人が違うことを前提にして
・ 他人の感情を察して自分の行動を決めるという価値観、理想を掲げること
・ そして、他人の感情を考えることができる環境をできる限り調えていく
ということが本当は言うべきなのかもしれません。

できれば社会全体がこの価値観で回ることが人間の幸せのためには効果的だと思います。それができないのならば、せめて職場の中とか家族間とかで、そのような価値観を共通の価値観として共有する必要があるのだろうと思います。

せめて家族の中では、自分が大人の発達障害類似の事情を抱えているならば、むしろ家族を安心させようとする気持ちを持つようにすることが必要なのかもしれません。

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大人の発達障害をきっかけに考えた旧黄金律の弊害 現代版黄金律の構築の必要性1 [進化心理学、生理学、対人関係学]



発達障害は、様々な症状の組み合わせということなので、発達障害だからこういう行動傾向があるとかこういう行動傾向があるから発達障害だとは必ずしも言い切れないそうです。ここでいう発達障害の人の行動特性とは、何人かの私のかかわった人たちの共通点の行動傾向を、架空のキャラクターQ氏の目を通してお話ししています。医学的な正確さではなく、人間関係の紛争解決と予防の実務的観点でお話ししていることをお断りします。

よい歳になれば、それなりの処世術を身につけますから、延べ数時間話したくらいではなかなか発達障害だと気が付かないものです。Q氏は、もしかして自分が発達障害ではないかと自分を疑い、精神科に言って心理検査を受けて、発達障害だと診断されたというのです。それでも私はすぐにQ氏が発達障害だと納得できませんでした。

しかし、彼の話を聞くと、なるほど発達障害ということはそういうことかという新鮮な衝撃を受けました。

彼によると、若いうちから人づきあいが苦手で、グループの中に入れず一人で過ごしてきたそうです。仲間と打ち解けることのできない具体的な原因の一つとして、「余計なことを言う」ということがあったようです。こういうことを言うと嫌な気持ちになるかもしれないと考えて、発言をやめるとか、表現を穏やかにするということができないため、思ったことを言ってしまうのです。賞賛や感謝をすぐに口に出すのならばよいですが、そうではないようです。例えば学校で、課題を提出できなかった同級生がいた時、その同級生が「難しくてどうしてもできなかったよ。」というと、「できなかったのではなくて、しなかっただけだろう。」なんて言ってしまうようです。会社などでも、ノルマを達成しなかった同僚に対して、思った通りの言葉を言ってしまう、「やれなかったのではなく、やらなかっただけだろう。」と言っていたようです。

多くの人は不愉快になるし、けんかを売っているのかと思うでしょう。実際にQ氏に対しても、言われた本人だけでなく周囲の人間からも反発をされたり、そういう言い方はだめだよと注意されたりしたそうです。しかし、Q氏は、どうして反発されているのか、どうして自分が注意されるのかが理解ができなかったそうです。

どうやらここがポイントのようです。

Q氏は、自分の言葉は当たり前のことを言っているだけだと思っているようです。言われて当たり前だということでしょうね。どちらかというと正義感に基づいた発言のようです。その言葉で相手が嫌な気持ちになるということが理解できないようです。

もしかすると、課題を与えた学校やノルマを課した会社からすればQ氏の発言こそが正しい発言だと考える人もいるでしょう。しかし、その結果Q氏は孤立してしまい、楽しくない状態になっているのです。他者から受け入れられないことの苦しみはきちんと感じるのです。

これが、会社という組織ならばまだよいかもしれませんが、家庭でも同じならば家族は辛いでしょう。「なんでこんな問題ができないんだ。勉強する気が無いふざけた態度では将来社会から脱落するぞ。」とか、「あんなくだらないママ友との付き合いのためにこんな必要でもないものを買うなんて何を考えているのだ。」とか、子どもの進路や妻の交友関係にまで、過酷な表現で自分の意見を押し付けてくるわけです。

その背景としては、「よく考えないからそういう間違いを犯すのだ。自分が言い聞かせれば、自分と同じ結論になるはずだ。」という極度に自分と他人の区別がつかないという感覚の問題があるように思われます。自分の言葉は、攻撃ではなく、気づきのために必要な方法だということになるようです。

だから、家族の「幸せ」を思えば思うほど、正しい自分の意見を強く押し付けようとすることになります。表現は過酷になり、態度も圧迫的になります。家族のことを思えば思うほど、一方的な押し付けが強まるので、家族はQ氏のような人を煙たく感じるようになるわけです。やがてQ氏の愛情は、家族から拒まれ、Q氏は家庭の中でも孤立していくことになります。愛するがゆえに嫌われるという側面もあるので、これは切ないことです。

Q氏の正しさは、伝統的な黄金律に合致しています。
黄金律とは、「自分のしてほしいことを相手にしてあげなさい」とか
「自分がしてほしくないことを相手にしてはならない」ということです。

おそらくこの黄金律が作られた2000年前であれば、人間の個性というものは、それほど気にしなくても良かったのではないかと想像します。自分がしてほしいことはほとんどの他人もしてほしいし、自分がしてほしくないことはほとんどの他人もしてほしくなかったのだと思います。また、個性ではなく、常識とか社会秩序とかが重んじられていたので、常識や社会秩序に合致したことをされていれば相手も満足していたのではないかと思うのです。

ところが現代社会は、社会が複雑化して、一つの常識や一つの秩序では人間をすべて規律することが不可能になったのではないでしょうか。したいこと、されたいことが人によってバラバラになっているのだと思います。その結果、自分のことは自分で決めたいということを強く感じるようになっているということもあるように思います。

だから、「昔」であれば、Q氏の発達障害は、あまり目立たなかったはずです。世間の常識、共通の道徳に基づいた発言は、少々煙たがられても受け入れられることが多かったと思います。言われた方も常識や道徳に反発することもできなかったのでしょう。その代わり、相手に任せたことについては口出ししないという道徳もあったはずです。世の中便利に動いていたと思います。

発達障害の人の場合に限らず、過去の黄金律は現代社会においては妥当性を欠くばかりではなく、人間関係の不具合の原因になるようです。修正が必要なのだと思います。つまり
・ 相手がしてほしいと思うことをしなさい。
・ 相手がしてほしくないことをしないこと
というように自分ではなく、相手を基準に物を考えなければならないということなのだと思います。

ところで、正しいQ氏の発言が、どのように間違っていて、言うべきことではなかった、あるいは言い方を修正するべきなのかということについて、あえて言葉での説明を試みてみます。

言われた方の心情としては、「自分が努力をしたのに、その努力を否定された。」、「自分の能力や人格を簡単に否定された」と受け止め、自分が人間関係の中で劣っている者、取るに足らない者、簡単に切り捨ててもよい者だという否定評価をされたというように感じ、「攻撃」だと受け止め、危機感を抱かせ、ある人はがっかりするでしょうし、また別の人は腹が立って反撃をすることになるわけです。いたずらに、相手に精神的ダメージを与えることをするべきではないということがするべきではないという理由だと思います。

Q氏は、何の悪気もなくQ氏なりの正義や正しさを言葉にしただけです。しかし言われた相手からすると、Q氏が自分の考えを口に出しているのですから、自分はQ氏から攻撃された、Q氏は自分を否定しようとしていたという悪意であると感じるわけです。

黄金律を現代版のように相手の心を基準としなければ、言われた相手も傷つきますが、結局Q氏も孤立して苦しむことになります。その人間関係全体がピリピリとして不安定な状態になってしまいます。だから修正黄金律にするべきなのです。

但し、修正黄金律の大きな弱点は、発達障害がなくても、他人である相手の心なんてわかりにくいということです。今回はこの問題を短期集中シリーズにして何を考えるべきか、どう考えるべきかということを、検討していきたいと思います。

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幸せについての考察メモ [進化心理学、生理学、対人関係学]



一緒にいたい人と一緒にいること
その人と一緒にいることに不安が無いこと。

完ぺきではないし、失敗も多いし
いつも頼れるわけではないし
邪魔な時も無いわけではないけれど
一緒にいたいし、いれば安心する

尊敬できない時もあるけれど、尊敬できるときもある
なにかが優れていなくても良い 普通でも普通以下でもよい
理由なんてなくても良いのかもしれない

ただ一緒にいたいし、一緒にいれば安心する。
何があっても許してしまう
手を貸すことができればやっぱりうれしい
喜んでもらえばもっと嬉しいし、もっと安心する

理由なんてないけれど
一緒にいれば大丈夫かもしれないと思ってしまう。


自分は大切な人のそんな存在になっているのだろうか
なにかにこだわって、大切な人を不安にさせていることは無いだろうか

よく考えもしないで、誰かの言うとおりに行動してしまって
自分にとって大切なものを大切にできないということは無いだろうか

自分勝手な考えに夢中になってしまって
大切の仕方のポイントを外していないだろうか

いつもうまくいかないで自分にがっかりすることが多いならば
せめて、一生懸命やろうとすることにしよう
時々振り返って考えて、一生懸命やることにしよう
それはとても素敵なことだと思う。
それがきっと。

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認知症には美空ひばりの歌声が良いらしい 記憶のメカニズムの観点からの考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]



認知症の人に美空ひばりのCDを聞かせたり、DVDを見せたりすると、食い入るように見入ったり、認知症が軽減されることがあるという話を聞きました。これはどういうことか、誰にとって効果があるのかについて、記憶のメカニズムの勉強として考えてみました。

先ず、認知症について、少し説明します。認知症はいろいろ種類があるのですが、大事なことは記憶力が衰退してしまうということにあります。人間の記憶というのは、数秒から数分覚えているだけの「ワーキングメモリー」、ある程度の期間覚えている「短期メモリー」、記憶に定着して何年たっても思い出せる「長期メモリー」という3種類があるとのことです(論者によって分類が異なるようです)。記憶はワーキングメモリーの脳内の滞留場所から短期メモリーの蓄積場所に移り、短期メモリーから長期メモリーの蓄積場所に順々に異動するらしいです。

認知症の方と話していると、特にワーキングメモリーが衰えてしまうようです。さっき言ったことを忘れていて思い出せないとか、聞いていないとかいう場合がワーキングメモリーの問題です。入口に問題がありますから、移動もしにくくなるわけです。長いスパンの記憶が定着しないことは止むを得ません。

長期記憶については比較的定着しているので、過去の出来事については思い出すことができるようです。これに比べて最近の出来事の記憶は思い出しにくくなるようです。このため、極端な話、現在住んでいる家が10年以上もそこに住んでいたとしても、その間の記憶が思い出しにくくなり、70年前に子どものころに住んでいた家の記憶ばかりが思い出されてしまいます。その結果、ご自分が帰るべき場所だと記憶しているところにご自分がいませんから、「自分は今どこにいるのだろう。」と分からなくなる。これが識見当(見当識)が無くなる、悪くなるという現象のように感じます。根幹は記憶の問題のようです。

さて、その記憶なのですが、「あれが思い出せない」という現象が起きるのはどういうことかということなのですが、末尾の参考文献によると、記憶が無くなるというよりも「思い出すことができなくなる」ということらしいのです。

逆に言うと、記憶力の良い人は、思い出す力が優れているということらしいのです。だから、テストの暗記科目に対応するためには、覚えこむ努力をするよりも、思い出す努力をした方が、「記憶が定着する。覚えている。」という結果を生みやすいのだそうです。


現代の認知症の方々は80歳代、90歳代の方々が多いのではないでしょうか。そのあたりの年代の方々にとって、歌手美空ひばりの歌声は、多くの人が強烈に記憶に焼き付けているできごとなのでしょう。おそらく、何度も何度も歌を聞いていたし、中にはテレビやラジオと一緒に歌を何度も何度も歌っていたのだと思います。この何度も何度もということがミソなのです。

美空ひばりの歌を、反復して想起しているために、記憶に強烈に定着させることができたのだと思います。

そうすると、美空ひばりの歌を聴くだけで、比較的定着している記憶をさらに思い出すことができるし、思い出そうという意欲が生まれるのだと思います。その結果、実際に思い出しているのだと思います。

ここから先は素人の憶測です。
筋肉も使わなければ衰えていきます。記憶の喚起も、日常で記憶を喚起する必要があり、喚起していなければ、神経の接続がうまくいかなくなり衰えていくのではないでしょうか。おそらく認知症の患者さん方は、記憶の喚起(特に宣言的記憶、エピソード記憶)をする機会が減ってしまっていて、記憶の喚起の神経が作動しづらくなっているとは考えられないでしょうか。美空ひばりの歌だけでも記憶の喚起の作業をすることによって、喚起の神経の接続が良くなって、認知症が軽減するという構造だと考えることにそれほど矛盾はないと思うのです。

それにしても80歳代、90歳代の人たちにとって美空ひばりと言う人の存在は大きいものだったのでしょうね。戦争も経験され、戦後の復興も経験された方々です。大きな時代の変化に翻弄されるということもあったことでしょう。いろいろなお辛いこともあったことだと思います。そのようなストレスフルな日常の中で、テレビやラジオから流れる美空ひばりの歌声の1分から3分くらいの時間だけ、しばし苦しみや悲しさを忘れて聞き入ることができたのでしょう。情動を揺さぶられる歌声だったのだと思います。CDやDVDで本当に認知症の進行が緩やかになるのであれば、それはとてつもなくすごいことだと思います。あらためて国民栄誉賞を授与しても良いように思います。

果たして、私の10年後、20年後、食い入るように聞きほれるようなCDやDVDはあるのでしょうか。今から作ることができるでしょうか。私達や私の子どもたちが考えるべきことは、楽しいと心の底から感じて、一心不乱に没入できることを探しておくということなのだろうと思います。できるだけ早い時期に自分の好きなことを身につけておくことが、後々自分を助けることになるのだろうと思います。


参考文献 
記憶の心理学 基礎と応用 ガブリエル・A・ラドヴァンスキー 誠信書房
記憶力の招待 高橋雅延 ちくま新書



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「正義バイアス」 取り返しのつかない残忍な行動の原因 特に弁護士は陥ってはならない思考ミス [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 正義バイアス

私は、正義感という言葉を警戒しています。(その意味と内容は過去記事を文末に貼りました。)仕事の中で出てくる正義感も社会病理の背景として登場する正義感も、正義の名のもとに他者を傷つけるということにつながっていることをよく見ているからです。あるいは自分をも苦しめる場合もあるかもしれません。

特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する職業です。犯罪をした人を理解して、その人の利益を図ろうとしなければならないわけです。それにもかかわらず、正義感を全開にして、「犯罪を行ったから悪い」とか「少なくともその犯罪行為は悪いのだから弁護のしようが無い」等と弁護士が考えてしまったら、仕事にならないし、弁護士の存在意味が無くなります。

正義感が起きてしまうとどのような不都合が起きるか、まとめてみました。

1 (心理的加担)正義だと言われると、詳しい事情が分からないにもかかわらず、利害関係にかかわらずその正義の側に心理的に加担してしまう。

2 (二項対立的思考)一度一方の人を正義だとして加担してしまうと、その人と対立している人は悪だと思ってしまい、事情がよくわからないのに憎しみの感情まで起きてしまい、しばしば制裁をしようとする、あるいは制裁をしてしまう。

3 (検証の回避)正義であると主張する方に疑問を持つことが許されないような気がしてくる。本当に正義なのか疑うことができなくなる。

4 (確証バイアス)確証バイアスと結びついて、最初に正義だと思った方の肯定的事情ばかりをかき集めてしまい不利な事情は評価しない又は無視をする。一方、対立する相手の肯定的事情については客観的に評価できないか、無視してしまう。

5 (容赦のない攻撃)正義であると信じる者同士が仲間意識をもって、相手方に対して対抗する意識を持ち、攻撃が容赦なくなる。

「正義」という言葉は前面に出ないことが多いため、これだけを言っても抽象的にピンとこない人もいるかもしれません。
実際に正義バイアスが発動される言葉は、「虐待」、「いじめ」、「DV」、「マイノリティの保護」、「差別」、「ハラスメント」、「侵略」、「戦争」等です。いずれも弁護士が業務としてかかわる可能性のある分野になります。

2 正義バイアスのもたらす不都合

正義で熱狂しているとき、本当は責められるべきではない人が責められたり、それほど強い制裁が科されるべきではないのに強い制裁が科され、その結果二度と立ち上がれないようなダメージを受けたりすることがあります。

その正義バイアスに弁護士が陥った結果、弁護士が冤罪のように回復不能な不利益を作り出すこともあります。

この正義バイアスは人間が本能的に持つものです。常時正義バイアスに支配されていないかという点検をしていないと、取り返しのつかないことを行ってしまう危険があります。

3 人間の本能と正義バイアスについて

よく考えないで、あたかも反射的に「正義」という言葉に飛びつく理由は、言葉のない時代の人間の意思決定を踏襲しているのだと思います。当時(200万年くらい前から1万年くらい前)、人類は厳しい自然条件の中で、瞬時の対応を迫られていました。こちらに近づいてくるのは飢えた肉食獣ではないかと瞬時に判断して逃げるとか、集団で戦う準備をするとかということが典型的だと思います。みんなで討論をして、熟考して多数決で決めようなどという発想はなかったのだと思います。言葉もありませんから話し合いもできません。誰かが瞬時に判断し、仲間はそれに盲目的に従ったはずです。それ以外の日常的なことについては、これまでの慣習通りに行うということでよかったはずです。つまり、考えるということは身の危険があることで、瞬時に結論を出さなければならないことが中心的だったと思われます。

そこにいる者が群れの仲間の人間なのか、危険な肉食獣なのか、味方か敵かという二者択一的な思考ができれば十分で、それ以上の思考はむしろ有害だったのでしょう。

それが敵だと結論付けられれば、逃げるか戦うかということでシンプルに行動をすればそれで事足りていたわけです。肉食獣を叩き殺すことに何ら躊躇をする必要が無かったということです。

現在では、その人に現実の危害を加える存在の多くは、肉食獣ではなく人間です。その人間にも言い分があることが多いと思います。全面的にどちらが正しくて、どちらが間違っているということはめったにありません。しかし、対立している人の一方をつい守ろうとしてしまうと、他方が敵ということで、反射的に仲間と敵を振り分けてしまい、仲間だと判断したものを守ろうとしてしまうということが起きているのでしょう。一瞬で理性的な考察ができなくなり、「一方が仲間であり人間である、他方は敵であるから人間ではない」という太古の感覚が頭の中をめぐってしまうのではないでしょうか。

例えば200万年前の生活なら、その思考方法にデメリットはなかったでしょう。むしろうまく生き延びることができるので、そういう思考をした人間たちが群れを作って生き延びてきたということです。その思考(脳の活動)が現代においても抜けきらないのは、進化の時間軸では200万年は「あっという間」の時間なのでしょう。ところが現代は、群れは無数にあるは関わる人間も膨大にいるわですから、環境は劇的に変化してしまいました。200万年以上前からの人間の思考パターンと、現代の複雑な人間社会のミスマッチが起きているわけです。

正義バイアスに支配された脳の活動は、相手は人間として扱えなくなっていますので、敵の良いところなんて考えることは無意味ですし、味方をどこまでも守ろうと当然にそういう発想になります。人間を狼から守るために手段を択んでいる場合ではなかったのでしょう。非論理的な主張、不合理な主張、ダブルスタンダード、論点ずらし等、相手に配慮する必要がありませんから、仲間を守るという意識がある以上は、何ら気にならないということになってしまいます。

もはや相手に勝つということだけがテーマになってしまっています。

これは実は人間にとって大切な思考パターンでもあります。仲間を疑わないで、仲間のきずなを強くすることが人間の生きる目的だとすれば、仲間が間違っているか正しいかということよりも、仲間が仲間であり続けるほうが価値が高いという考え方もありうると思います。正義は共存するための不完全極まりないツールにすぎないと考えても良いと思います。

対立する相手にも言い分があり、尊重されなければならない人間であると気が付くのは、相手が深刻なダメージを受けて取り返しのつかない状態になったときになってしまうわけです。

民主主義の根幹は、多数決ではなく、全体の利益がかなうための結論に向けた話し合いをするところにあります。ところが、対立する意見に正義などのバイアスが持ち込まれれば、瞬時に敵と味方と別れあってしまいます。双方の良いところを持ち寄ってさらに良い提案をするという発想にはなかなかなりません。これを野放しにしてしまえば、民主主義は全体主義の方法論に堕落してしまいます。

弁護士に限らず、夫婦でも、職場でも、学校でも、インターネットでもなんでも、相手に対して完全否定したいという欲望や、一瞬でも我を忘れる怒りや、いら立ちを感じた場合、そしてそれが正義や正義類似の概念に支えられている場合は、意識して立ち止まって考える必要があるのはこういう理由からです。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11
正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18
「心を込めて」なんてことは子どもがする独りよがり 「正直」の弊害について考える(常識を疑う) 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-03-16
【木村花選手の急逝に寄せて】人を追い詰める誹謗中傷は「正義感」からなされていることを意識しなければ、悲劇は繰り返される。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-05-25
夫婦仲を壊し、再生を妨げるのは「正義感」かもしれない つい家族を攻撃してしまう人の心理 家庭の中に敵が生まれるとき2
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-08-18
【正義よりも命。特に子どもたちの命】「憲法9条を守る」ことよりも大事なこと 戦わずして勝つことが何よりも追及しなければならないことだということ
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-05-06


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まじめさと優しさはどちらかを選ぶことが迫れていることが案外多いこと 優しさを選択することの勧め  [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 まじめさの副作用

あまり、まじめさと優しさのどちらを選ぶかということを考えたことは無いと思います。例えば、結婚相手を選ぶときに、まじめで優しい性格の人が良いということに、あまり異論はないかと思われます。また、まじめだけど優しくない人や優しいけれどまじめでない人というタイプも実際はいないとは思います。

しかし、局面によってはまじめさと優しさはどちらかを選ばなくてはならないことがあります。この選択を迫られる事態は案外日常的に登場してくるようです。

例えば職場の場合です。チームを作って大切な仕事をしている場合を想定してください。上司からすれば、ある部下の行動は真剣みが足りないと感じてしまうことがあると思います。同僚の間でも、自分が言われたとおりまじめにやろうとしているのに、別の同僚が全力を出そうとしないで、初めから手を抜こうとしているように見えることもあるでしょう。自分が損をしないだけならなんとなくモヤモヤするだけですむかもしれませんが、同僚や顧客に対しても迷惑をかけることになると思うと、怒りが生まれることを経験される方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ただ、この場合の怒りをもっと分析してみると、怒りの発生経路は少し違うようです。つまり他人に迷惑をかけるから怒るのではなく、自分がまじめにやっているというそのまじめさと比べて、相手のまじめ度合いがずいぶん低いというところに怒りのポイントがあるということが実際ではないでしょうか。その怒りをぶつける言い訳として他人に迷惑をかけるということを後付けしているような気がします。

つまり自分のまじめさの水準に達しない者に怒りを感じるのです。その人間にも自分と同じ水準のまじめさを要求しているわけです。まじめに取り組むということは良いことなのですが、副作用として他人にもまじめさを要求してしまうということがありそうです。その要求の多くが、仕事の結果ではなくまじめさという方法論に対する要求のようです。本人が「まじめにやらなければ結果は出ない」という信念があるのは良いのですが、他者のやり方が必ずしも同じ方法論とは限りません。表現を変えればまじめさを発揮するポイントが違うということは大いにありうるのです。

自分のやり方で他者を拘束してしまうという傾向から、まじめな人は実は付き合いづらいと思われているかもしれません。結果を重視するのではなくまじめさという固定化された方法論を重視してしまうために、結果が出せないことも起こりうることを見過ごしてはなりません。

2 優しさの意味と弊害

 優しさとは何かということですが、親が赤ん坊に対して当たり前のように接することが優しさの基本ではないかと思います。赤ん坊は自分が生きるための必要な行動が自分では取れません。赤ん坊の不自由なところを親が見つけて、本人の代わりに行います。我が子に手をかけることがそれほど苦痛ではなく、それ自体が自己実現であるかのように喜びすら感じながらお世話をしています。多少排泄で失敗したとしても、怒る気にならずさっさと片付ける。常にそういう気持ちが持てるというわけではありませんが、こういうことが優しさであろうと思います。

もちろん、ただ相手に尽くすことが優しさではありません。ありがた迷惑なことはせずに、相手の気持ちに配慮して、相手の助けをするということだと思います。赤ん坊が泣くのはおなかがすいているだろうというように一般論で考えてしまい、本当はおむつが濡れて不快なのに、無理に授乳しようとするのは優しさとは言わないわけです。相手の具体的な気持ちを配慮しないで良かれと思って自分のやり方を押し付けるならば、それはまじめさということになります。

親と赤ん坊の関係を、大人同士の優しさまでスライドすることはなかなかイメージが付きにくいのですが、極端に言えば、相手の個別性を理解して、相手の失敗やミス、あるいは自分に対する八つ当たり等の攻撃に寛容になることが優しさなのだろうと思います。

しかし、ただ寛容さだけを示すと言っても、例えばプロジェクトチームの場合は、やる気のない人にも「よしよし」では、仕事になりません。会社の上層部は、他人にプロジェクトをゆだねるわけですから、寛容だけのチームリーダーは評価されません。それはそうだと思います。

3 「優しさ」による解決方法 会社の事例で

プロジェクトチームでまじめでないと感じる部下がいる場合はどのようにすることが正しい(効率的な)解決になるのでしょうか。

先ず、チーム全体の目標をきちんと立てて、計画を立案して、メンバーで共有します。その際に各メンバーの役割と行動計画を明確にする必要があります。その際に、役割を頭割りで機械的に割り振るのではなく、それぞれのメンバーの個性に応じた割り振りをすること①が理想です。そしてメンバー一人一人がチームの目標と自分の目標をそれぞれしっかり持つことが基本となります。

さらに理想を言えば、このように段取りを立てれば、後は上司は自分の仕事をするだけで勝手にチームが動いていくことになると思います。
それでも、計画通りに事が運ばないことがつきものです。計画通りに事が運べば機会がやっても良いですが、計画通りに事が運ばずに新たな対応が必要になるからこそ人間が仕事をするわけです。

仕事量が減ったメンバーが出てくることは当然です。ここでの上司の仕事は、どうしてだろうと考えることではないでしょうか②。ここを考えないで、「そいつは不まじめだから気合を入れる」ということをして解決しようとするならば、上司というポジションは不要です。

とある職場の実例で、どちらかというと上司の配置ミスのために部下が成果を上げられないということがあり、上司としてはその部下の能力(欠点)について知らなかったために、ただ気合を入れ続け、イライラをぶつけ続けた結果、部下はうつ病になってしまったということがありました。この手当てのためにいろいろな手続きが必要となり、会社は大損害を被りました。

経験豊富な上司であれば、部下のどこに問題があったか見抜くことを期待されています。その部下の個性、例えば能力の偏在によるものなのか、あるいは目標や計画が間違っていたのか、あるいは目標や計画段階では予測できない事態が現れたのか、それぞれの原因ごとに対策が違います。部下の個性によるものならば配置転換をすることが効率的な場合がありますし、事実関係の変化があれば計画を立て直すこと、あるいは別の能力のある人間の補強をするということを検討することが合理的です。

優しさは、物事をいい加減に終わらせるということではなくて、原因に対してその個別性をきちんと認識して、その事例に即応した手当てをするという合理的な対応なのです。こういわれれば当たり前のことなのですが、どうしてもまじめさが勝っている人は、まじめさですべてを解決しようとする傾向があることを頭に入れておくべきです。

4 事例解決 家族等の場合

会社の例えはわかりやすいので、おそらくそんなことは当たり前だと感じていらっしゃるのではないでしょうか。
案外難しいのは家族の場合です。

もちろん婚約中とか新婚の場合は自然と優しさが前面に出ますし、子どもが赤ん坊の時も先ほど述べたように優しさであふれています。問題は、夫婦で言えば繁殖期が過ぎてから、親子で言えば子どもの反抗期を迎えた後の話なのでしょう。そして、悪いことが重なるように、自分のまじめさが会社などで評価されなくなったときに悲劇は起こるわけです。

自分が会社でまじめにやっている、自分としては高評価されて当たり前だと思っている、しかし結果を出すのはずる賢い奴で、そいつはまじめさがないのに会社からは評価が高い、まじめにやっている自分ばかりが注意されている。あるいは、自分では理由がわからないのに、特定の人間から急に自分が否定評価されるようになった、周囲の人間も自分をかばってくれずに不合理な評価を放置しているなど不合理な出来事というものにぶち当たることがあると思います。

そういうあたりに苦労しているうえに、これ以上ひどい思いをしたくないので、細心の注意を払って仕事をしているわけです。ところが、家に帰ると家族が自分の神経を逆なでするような、無神経なふるまいをしている。ついつい八つ当たりをしたくなってしまうという場面も、程度の違いはあれ、実社会ではよくあることなのではないでしょうか。

怒りが生まれるわけです。

さらに、こんなにまじめにやっている自分さえも苦労しているのだから、不まじめな家族はやがてとてつもない苦労をする、今から直さなければならない。という後付けの言い訳をしながら怒りを解放してしまうということがありそうです。

いずれにしても、家族にまじめさを持つように要求してしまうわけです。

あなたが家族の中で孤立し始めるポイントです。

あなたが家族の中で孤立し始める理由は、おそらくあなたがいることが他の家族にとってストレスであり、あなたの行動、言葉、顔の表情、しぐさによって、自分の安心が奪われると感じていることかもしれません。

特に家族の中では、まじめさはプラスにならないでデメリットしかないかもしれないという考えに理解を示すということを提案します。

確かに、家族の夢の実現をバックアップするということは家族というチームの課題かもしれません。まじめな人の言い訳はここにありますし、一定の真理があると思います。

しかし、家族というチームの一番の目的は何なのでしょう。一言で言って、一緒にいて安心できるという考え方もあるわけです。一緒にいて安心するということはどういうことか。今日は結論だけを急ぎますが、「いつまでもここにいて良いのだ、いつまでも自分はこの人間関係に戻れば迎え入れられる。」という確信を持つことと仮説を立てます。逆に不安になるということは、家族という人間関係から追放されるのではないかということです。自分が失敗したり、欠点を克服できなかったり、不十分なことが多かったりすると、人間は仲間から見放されるのではないか、仲間として扱われないのではないかとい不安が生まれてくるようです。どんな失敗、欠点があっても「あなたは私のかけがえのない仲間だ」というメッセージを出し続けることが安心感につながるわけです。いろいろな個性があることを承認して、不足があれば補って、長所があれば頼りにして、個性丸ごと受け入れるということが安心感になるという仮説です。

これが家族が一緒にいる目的なのだという仮説を提案したいと思っています。

それでは、厳しい受験戦争等外の人間関係に対応できるのかという心配は当然あると思います。ただ、現在では、厳しい外の社会に対応するためには、家族の元に帰ってきたときだけは安心感に満たされることが必要だという考え方に、競争社会のコーチング技術は傾き始めているようです。家でも外の社会でも緊張の連続を強いてしまっては勝ち残れるような社会ではないということです。また、自分は変える場所があるという確信がある者こそ、思い切って外社会で戦うことができるという考え方が浸透し始めてきています。家族をモチベーションにするという考え方です。逆に常にストレスにさらされている者は、慎重になりすぎて委縮してしまうという弊害もあります。

さて、かなり偏った考え方を披露したかもしれません。人間関係においてはまじめさよりも優しさで対応した方が、メリットが多く、デメリットが小さいのではないかというお話でした。

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和解の弁護士技術とゼロサム・バイアスを実務に役に立つものにするための必要事項 [進化心理学、生理学、対人関係学]



ゼロサム・バイアスという言葉も雑誌ニュートン2023年2月号に載っていました。名前は聞いたことがあるのですが、私の読んだ認知心理学の教科書や社会心理学の教科書には説明されていなかったようです。

簡単に言うと、「誰かが得をするならば誰かが同じだけ損をする」とつい考えてしまうという錯覚、あるいは思考ミスみたいな感じでしょうか。

色々な現象がゼロサム・バイアスで説明されているようです。

A 労働者に対する使用者の査定が低評価の場合は、誰かを優遇しようとするために自分の査定が低くされた
B浮気をされたことの被害は、自分に対する愛情の部分が浮気相手に向かったために損をしてしまった。
C 相手が10万円得することは自分が10万円損することだと和解の時に思うこと
D 移民が増えれば本国人の働き場所が減る

共通することは、会社の評価に基づく賃金準備資金(A)、人間が他者にそそぐ愛情の量(B)、和解の席上の損得(C)、国民と移民の働き場所の絶対量(D)といういわばパイは固定されていて、相手がパイを取ればその分自分がもらえるはずのパイが少なくなる、パイを奪い合うという考えをつい持ってしまっているということが前提となっているということです。

この考え方は真実ではなく間違った結論に至る考え方ということで「認知バイアス」という言われ方をします。例えば会社の評価(A)は、本当はどうなのかわからないけれど総量が決まっていると勝手に思い込むというはなしですし、人間の愛情(B)はそもそも総量が決まっているわけではないですし、和解の席の損得(C)は金額だけの問題ではないし(これは最後に詳しく説明します)、移民が増えれば仕事も増えるかもしれない(D)等の検討が必要なのですが、つい頑固にそうは考えないで自分の損は誰かの得と考えてしまう傾向があるというわけです。

ただ、「ゼロサム・バイアス」等という言葉を使ったばかりにかえってミスリードをしてしまうということもありそうです。

根拠がなくそう思うという意味ではバイアスと言ってよいのかもしれませんが、それが必ずしも誤りではない場合もありそうです。会社の評価なんてトップシークレットでしょうから、本当は誰かの評価が上がれば誰かの評価を下げなくてはならない、という具合に評価に関する秘密の通達がある会社もあるかもしれません。そもそも浮気をしないで安心させることこそ愛する二人の約束事のはずですし、損害を何らかの理屈で説明しないと損害賠償が取れないことからこちらに愛情が注がれる量が減少したと説明しているにすぎないことが一般的な使われ方です。それをゼロサム・バイアスなどと言って否定してしまえば、浮気をしても損害がないなどというとんでもない言い訳に道を開いてしまうような気もします。和解の話は、後に回します。移民の問題も、おおざっぱに言えばゼロサムかもしれませんが、移民の規模にもよるのでしょうが、移民反対の一つの理由にすぎず、またゼロサムという言い方は理由付けの表現であって、移民が就職する分だけ就職先が減るというようなことを実際は考えていないかもしれません。もっと複雑な話なのではないでしょうか。

この時点でも、事例のA、B、Dに関しては、必ずしもゼロサム・バイアスという言葉は必要がなく、使うことの弊害があるような気がしているわけです。本当は是正するべき事象についての主張を根拠なく否定してしまう便法として使われる危険もありそうです。ゼロサム・バイアスという言葉が出たときは、一応警戒して聞く必要がありそうです。

ゼロサム・バイアスの理論の最大の問題は、これは人類が進化の過程で獲得した考え方だというような説明がされるところです。文明発祥以前は資源が貧弱であったため、限られた食料を迅速に奪い合わなければ生きていけないために生き残るために他者の利益を自分の不利益に関連付けて考えるようになったというのです。

この根拠づけは間違っています。

人間の心が成立した時期は、認知科学のコンセンサスとして現代から約200万年前くらいだろうとされています。その時の環境は食料の総量が限定されていて奪い合うことが必要だったとか、奪い合っていたという知見はありません。ここが間違っているわけです。確かに当時は収納施設も作れず、冷蔵技術等の保存技術もなかったでしょう。しかし、現在よりも温暖な気候であり木の実など豊富にあり、それなりに人間が狩ることのできる小動物もいたようです。なによりも人間が少ないために人口密度が極端に低い状態でした。だから、奪い合うという事態が常態だということは無かったようです。

そもそも少ない食料を奪い合っていたならば、人間は弱い個体、病人や子どもから栄養失調で死んでいったでしょう。群れは先細りになり、肉食獣からは襲われやすくなり、獲物は捕獲しにくくなります。群れ全体が死滅していたでしょう。人類は種として絶滅していたでしょう。

また進化人類学の見地からは、人間が心を獲得した200万年くらいの人間の群れは完全平等だったのだろうとされています。私は上記の群れの存続の観点からの理由付けを支持します。また、共感、共鳴によって、群れの仲間の空腹は、自分が空腹で苦しんでいるかのように、なんとか解消させたいと思ったことと思います。奪い合おうという気持ちに、そもそもならなかったと思います。

このような観点から、ゼロサム・バイアスが仮に存在するのであれば、このバイアスが発生する場面は限られているということが私の意見です。つまり、群れの仲間という感覚を持たない状態の相手、即ち敵対している相手との関係では、共感が遮断されるので、相手の利益は自分の損害だという気持ちが起きてしまうのだと思います。例えば肉食獣に仲間が襲われれば、肉食獣は食料を確保できるが、自分たちは大事な仲間を失うという関係にあるということです。ここで大切なことは、ゼロサム、即ち自分の損失と相手の利益が釣り合っているというような思考をしているわけではないということです。相手に利益が生まれること自体が自分の生存を脅かすという意識なのだろうと思います。

さあここで、ようやく和解の際のアドバイスの話になるわけです。

これは調停の技術と言っても良いと思います。技術というか考え方ですね。

例として、申立人が100万円を請求していて、相手方が1円も支払わないと対立している場合ということで単純化して考えましょう。
色々と話が進んで相手も50万円ならば支払うということで和解の話が進むとします。

金額をめぐって争っているのですから、申立人と相手方は典型的な対立関係にあると言ってよいでしょう。敵対する場合、人間の多くは相手の心情を考えて、相手なりに合理性があるのかもしれないと考えをめぐらすことは困難な状況になっています。普段は温和で思いやりのある人でも、紛争の局面において、敵対する相手方に対しては考え方が変わることは当然です。実際は、ゼロサムというよりも二者択一的な思考、二分法の誤謬という感じに単純化して考える状態になってしまっています。和解などしないで判決で白黒つけるという方法論になじみやすい思考パターンになっているということが言えると思います。

もちろん和解をすることだけが望ましいということを言いたいわけではありません。
私が言いたいことを以下の通りまとめてみます。
1)決断をするのはあくまでも当事者本人であり、弁護士や調停委員ではないということ
2)しかし当事者は和解の考えになじみにくい状態にある(本人の性格如何ではなく、置かれた環境、状態から)
3)当事者本人は判決を選択した場合のデメリットが考えられない状態であり、この手当てをしなければ、当事者本人が判決を選択したと言えず、代理人が放置をしたために判決を選択させてしまったということになってしまう。(このため代理人の仕事は、本人の意見を否定するのではなく、自由意思を回復させて本人に本来の選択肢を提示することなのだろうと思います。)

という心配があるため、和解という選択肢と判決という選択肢との距離を等しくおいて、本来の自由意思で選択してもらう必要があるだろうということなのです。

この点弁護士によって、考え方の違いが大きいようです。私は、事態は当事者が自分自身で決めるべきだと思いますので、それぞれの選択肢のメリットデメリットを正確に理解してもらいたいと考えています。

当事者としては本当は元々の請求額が取得できるはずだと思っていますし、それは感情的にだけでなく理屈の上でも間違っているわけではなくそれなりの根拠があっての請求です。だからその金額から受取金額が下げられることは納得がゆくことではなく、自分の損だと考えやすいことは当然です。相手方を敵対視しているわけですが、それは代理人や調停委員も同じ立場ならばそうするということは前提として当事者を先ず理解しなければなりません。また、その理解を積極的に示すことも大切なようです。

但特に代理人は、当事者ではないけれど当事者の利益を図らなければなりません。当事者と同じ感情で視野狭窄の状態であれば第三者である意味がないということになるでしょう。

代理人や調停委員は、和解の成り行きや判決の成り行きを正しく予想するためにも、こちら側の心情と相手方の心情の双方を理解して、和解の機運があるならば和解という選択肢を提案しなければならないと思います。

先ほど和解をしたくないことについての理解を示す方が良いということを言いました。ここが和解を助言するときのポイントになりそうです。ここを説明します。

本人ならば和解したくないだろうということは簡単に推測ができます。和解を勧める代理人もそのことを知らないということはありません。しかし、和解したくないと知っていながらそれを肯定しないということは、当事者本人にとっては、和解をしろと強い態度で言っているように感じるでしょう。自分の感情、思考パターン、人格を否定された気持ちになるかもしれません。ここを積極的に肯定する発言をしないと、その時は和解のメリットを選択して和解したとしても、後から代理人から強引に和解を迫られたという気持ちになるのかもしれません。

要するに和解という選択肢を実質的に考慮できないのは、敵対モードになって視野が狭くなっているところに原因があるということです。そうだとすれば、感情を肯定することによって、自分には理解してくれる味方がいるということで安心してもらう必要があります。その上で、別に考慮することがあるという流れがスムーズな流れであり、理にかなっていることになると思うのです。「わたしもそう思う。約束を守らないで終わりになることは納得できませんよね。そりゃあそうです。でも、それを貫いてしまうと、かえって損をしてしまう危険もあるという別考慮をしないと、損が確定してからあの時和解をしておけばよかったということになるのです。損を拡大しないようにするという視点を加える必要があります。」等という流れですね。そこで判決のデメリットやリスクを説明してゆきます。

そしてデメリットやリスクを説明するだけでなく、メリットを説明していくという流れになるでしょう。早期解決や敗訴の危険、執行をしなくて済む等のメリットを説明して一緒に考えていくことになります。

ただ、熱心で依頼者思いの代理人ほど、依頼者を損させないように、経済的だけではなくメンタルも含めて被害をこれ以上拡大しないようにということで、熱心に和解を勧めてしまい、依頼者との感情が遊離してしまう危険があります。こうなってしまうと極端な話、依頼者にとっては和解を迫る弁護士こそが敵対相手だという感覚になってしまいます。

先ず、自分がどのようにするべきなのにどういう状態なのかというメタ認知を弁護士はしなくてはなりません。ただ、夢中で説明しているとそのことに気が付かないまま説得を続けることがあります。

一つの方法として、和解を勧める場合は、顔の表情を作って共感を示すということです。あえて笑顔を作って和解したくないという感情を肯定することを意図的に行うということです。笑顔を作るというと難しくなりますが、「目を細めて口の両端を上に持ち上げながら話をする」ということです。自分の感情と異なる表情をすることによって、自分の感情の現在地がこの表情と異なる場所にあることを知ることになります。そうなると、理性が発動しやすくなり、先ずは肯定、別考慮の事情の情報提供という流れを作りやすくなると思います。

単にゼロサム・バイアスがあるという大雑把な考えは和解技術の役に立ちません。ゼロサム・バイアスが妥当する場面を限定して、ゼロサム・バイアスがどのようにして起きてどのような失敗をするのかということまで考慮することによって、ようやく実生活で役に立つようになると思った次第でした。

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公正世界仮説を批判的に学ぶ 苦しんでいる人をそこまで攻撃する理由 被害者を攻撃したくなる心理  [進化心理学、生理学、対人関係学]


以前自死が忌み嫌われる理由ということで、直感的な説明をしたことがあります。他人の自死に対して憤る理由 忌み嫌うということ 絶望回避のシステム(閲覧注意)https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2016-05-14

社会心理学では、公正世界信念という認知バイアス理論で説明されるようです。
この説は、Wikipediaの説明によると、
「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。

わかるような、わからないような説明ですね。

要するに努力している者は必ず報われるはずだというような考えや、不利益を受けている者は何か悪いことをしたから不利益を受けるはずだというように、つい思ってしまうという傾向が人間にはあるという理論なのです。おおざっぱに言えばですが。こういう風に考えることによって何も約束がない現実社会に法則性があるということで安心したいのだと社会心理学の教科書には書いてありました。

前にもこの学説は何度か目にしていたのですが、私は違和感があるものの「そりゃあないだろう」ということでスルーしてきた理論でした。そうしたらニュートン2023年2月号の認知バイアスの特集で公正世界仮説として20の認知バイアスの一つとして取り上げられていたので、一度私の考えを整理する機会だと思ってこれを書いているわけです。

性犯罪被害ということでよく出てくる理論です。性被害を受けたことは、精神の殺人だと言われることもあるほどの強烈な精神的打撃を受けることです。その後に人格が変わってしまったり、引きこもりになってしまったり、社会活動ができなくなるということもあることです。この世に生まれてきた意味がなくなるほどの被害を受けます。

それにもかかわらず、世の中には、被害者が挑発的な服装をしていたのが悪いとか、夜中に一人で歩いていたことが悪いとか、原因を被害者に求めようとする論調がされることがあります。なぜ被害者を叩くのかということで、それは公正世界信念に基づいている、つまり不利益を受けた者はそれに見合う行動をしていたからだという風に考えてしまうということを説明する理論ということになります。

これに対して、私が直感的に「そりゃあないだろう」と考えた理由は以下の通りです。
・ 回りくどい。いちいちこの世の中はこうだから、被害者が悪いという理屈づけをしているわけではない。もっと反射的な感情、思考をはさまない説明をするにふさわしい感情ではないか。
・ 無意識にそう考えてしまうという意味の理論なのですが、それでも現実社会に住んでいる人間にとってはそう考えてしまうということには疑問があります。だって、努力が報われると思っている人がどれだけいるでしょうか。自分が不遇であることが自分に責任があるという謙虚な考えは人間として自然な考えなのでしょうか。違うと思うのです。

そのため私は、公正世界の信念ではなく、自分の心理的負担を軽減するために生じる認知バイアスだと考え、自殺者に対する批判の言動に関して述べたのが先ほどのブログ記事だったわけです。

この記事をニュートンの記事が出たことを機会に整理しようとしていたのです。ところが、Wikipediaの記事を読んでみたら、私と同じようなことは既に考えられていたようです。これはなかなか私が読んだ何冊かの社会心理学の教科書には出てこなかったため、これまで知りませんでした。

エルビン・スターブと言う人の理論のようです。
犠牲者非難やその他の戦略は、苦痛を見た後の不快感を軽減する方法であり、共感によって引き起こされる不快感を軽減することが第一の動機だとしているようなのです。

この人の理論の日本語訳が見当たらなかったので、私の考えに引き付けて説明をすることにします。

<他者の苦痛を見た場合に自分も苦しくなる共感というメカニズム>
人間は、群れで生活する本能を持った動物です。群れの仲間だと認識した他者に対しては、我がこととして苦痛を排除したい、安心させたいという本能を持っていて、このために言葉のない時代でも群れを作ることができたという考えが出発です。現代社会で、このような感受性の強い人が少なく見えるのは、当時と異なり所属する群れが複数あり、関係する人間が膨大な数になってしまうため、群れの仲間を完全に肯定することが難しくなっているという環境の変化に起因すると考えます。

つい、誰かが苦しんでいる姿を見て、ああなるほど苦しいだろうなと思ってしまうと、あたかも自分がその苦しみの原因を追体験しているように自分が同じ立場であることを想定してしまい苦しくなってしまうということが「共感・共鳴」による苦しさということです。

エルビン・スターブは「不快感」という言葉を使っているようなのですが、言語がどういう言葉なのかわかりません。共感という言葉も使っているようなので、私のように「苦しみの追体験」ということでよいのではないかと思います。ただ、実際に苦しむ出来事は他者には起きていないので、追体験と言えるほど強烈な感情を起こすことなのかということについてはもう少し考えなければならず、不快感という強烈とは言えない程度の感情が起きた場合ほど被害者攻撃は起こりやすいと考える方が妥当かもしれません。

しかし、さらに翻って考えてみると、被害者本人のように精神的打撃を強大にしないための防衛機制であると考えると、やはり追体験でよいのではないかとも考えています。要するに追体験による強い精神的打撃の予防行為ということです。特に解決不能の不安を解消したいということ、絶望を感じることを避けたいということなのだと考えています。

<防衛機制としての被害者攻撃>

被害者攻撃がなぜ不快感の軽減、ないし追体験による精神的打撃防止になるかという点について説明します。なお、どうして自分に利害関係が無いのに、被害者に対して攻撃と言えるような表現の言動があるのかについても合わせて説明してみます。

一言で言えば、被害者を仲間として見ることを拒否する行動だからです。先ほど述べたとおり、人間は仲間だと思うから被害者の苦しみをわがことのように感じてしまうわけです。当時の人間は数十名から100名を超える規模の群れの仲間と一生涯を過ごしていました。群れ以外の動物はすべて敵か食料であり、攻撃する対象でした。現代において、経済動物である豚とか牛とかに、名前を付けてはいけないという話を聞いたことがあります。名前を付けてしまうと、仲間だという気持ちが生まれてしまい、殺して食べることができなくなるからだとされています。逆に言うと名前を付けないことによって群れだと感じないようにして、食べやすくしているということが言えるでしょう。

他者が群れの仲間ではないという扱いになると、それは人間として尊重する必要性を感じなくなることになります。敵であると認識すると、共感が遮断され、容赦のない攻撃をすることに抵抗が極端に無くなるのだと思います。

被害者を非難したり、人間扱いを否定したりすることによって、共感を遮断し、自分が心理的負担を感じなくて済むように、認知が歪むのが人間だということになりそうです。

現代とは異なり、群れの人数がせいぜい150人くらいという、仲間の個体識別が可能であり、かつその人たちとだけ一生過ごしている時代には、このような共感の遮断は行うことができなかったと思います。現代社会が、人間の能力を超えた人数とかかわり、複数の群れに同時に所属するようになり、かつ、群れへの永続性が保障されない不安定な環境の中で人間が適応するための認知バイアスだということになりそうです。

群れとして共感の発動を拒否する現象としては、性被害をはじめとする被害者に対する場合、自殺者や遺族に対する場合、民族の異なる人への差別、障害者や災害被災者等様々な場合が説明できると思います。

一度群れの仲間ではないと感じてしまうと、人間性や個性などを細かに評価することができなくなり、例えば日本人とか犯罪者とか自殺者とか、抽象的カテゴリーで認識しようとしていくことになります。社会心理学でいうところの外集団均質化という理論につながっていくわけです。

以上から見ていくと、自殺者差別や被害者攻撃は、心無い人が行うというよりも感受性が強く他者の痛みを自己の痛みととらえやすい人たちが行っている場合である可能性があることになります。人間は一定以上の心理的負担を拒否したいという動物ですが、他者に共感してしまう動物だという矛盾を抱えているわけです。ここを無視して、他者への攻撃だけを非難したとしても、被害者攻撃は無くならないのではないでしょうか。

他者が被害を受けたことを見聞きした場合には、意識してお気の毒であることを意識することが第一だと思いますし、亡くなられたということであればお悔やみすることが第一に行うことだと思います。そして自分が何かできることがあるか否かを考えてできることがあればするということですし、できることが無いというのであれば、それは仕方がないことだと納得するべきです。また、家族の中であれば、その被害はあなたには起こらないということで安心させることも仲間としては行ってよいと思います。

できるならば、どうしてその被害が起きたのかということがバイアス抜きに説明されて、これから自分がどのように心掛けて生活すればよいかということがその人なりに理解できるようになることで安心することが本当は良いと思います。

人類の課題としては、理屈として、味方ではないと感じても、敵だと感じないようにすることであり、敵でも味方でもない人間がいると認識できるようになること、共感の遮断のために攻撃まではしなくてよいようにするということを編み出していくことが必要なことだと私は思っています。こういう考え方こそが被害防止の理論の根幹に置かれるべきだと思っています。

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罪悪感の弊害 防衛機制としての片親疎外 夫婦喧嘩その他 [進化心理学、生理学、対人関係学]

罪悪感の弊害 防衛機制としての片親疎外 夫婦喧嘩その他

1 罪悪感の本質
2 罪悪感の発動ポイント
3 罪悪感に耐えられない人間
4 罪悪感から逃れようとする時の問題
   犯罪
   片親疎外
   その他

1 罪悪感の本質

罪悪感を抱くと、落ち着かない気持ちになります。何とかしなくてはならないという気持ちになるわけです。端的に言うと不安になるわけです。
罪悪感を抱く理由が実はここにあります。
つまり、罪悪感の原因を突き止めて罪悪感を抱かなくするために、行動を修正するきっかけになるわけです。結果として、良い行動ができることになります。罪悪感があったために、人間は悪い行動をすることについて、自分で自分を野放しにしないで抑制することができた、だから生き残ることができたということになりそうです。逆に言うと、罪悪感を持てない個体は淘汰されてしまったのだと思います。つまり罪悪感は進化の過程で人類が獲得したということが本質だと思うのです。

2 罪悪感の発動ポイント

では、どんな場合に罪悪感を発動するのでしょう。対人関係学では、他者との関係で自分の立場が危うくなる場面で罪悪感が発動されると考えています。つまり、法律や道徳などルールを守らない行動をした場合、誰かに迷惑をかけた時、誰かから非難されそうなことをした時などです。もっと対人関係学的に言えば、自分が自分の群れから追放される危険を持つ行動をした時ということになるのですが、これはなかなか自覚できる話ではなく、原理論理の話です。

つまり、群れの仲間として否定評価されるような行動を自分がした場合に、罪悪感を抱いて行動を修正するとか、罪悪感を抱くことになることを予想してそのことをすることを我慢したりするということです。

この結果、人間ははっきりしたルールを作る以前から群れを作ることができて、他の動物の中で生き残ることができたと考えるわけです。

3 人間は罪悪感に耐えられない

現在生存している私たちは基本的には、罪悪感を抱いて群れにとどまり続けた人間の子孫ですから、罪悪感を抱くと不安になり、何とか解決をしようとします。そういう心を持っているわけです。

罪悪感を抱いても行動を修正しなければ、生存の役に立ちません。強い力で人間に行動修正をしたくさせます。罪悪感は行動を強制修正する装置だということも言えます。ただ、それだけに罪悪感を解消できなければ、不安は持続しますし、解決欲求はどんどん強くなってしまいます。

本来、罪悪感を抱いた原因を探り当てて、その原因を解消するような行動をとって罪悪感を解消するということがノーマルで合理的な行動だということになります。おそらく100人程度の単一の群れで生活していた場合は、それが十分可能だったのだと思います。

ところが現代では、出会う人間の数は多いですし、群れも、家庭、学校、職場、ボランティアなど無数にあります。例えば、学校でみんなで次の授業をさぼろうという話になっても、親の顔がちらついて授業をさぼっては申し訳ないという罪悪感を抱くということはありますよね。しかし、自分だけ授業に出てしまうと友達との関係で罪悪感を抱いてしまうこともあります。群れと群れの間で罪悪感を解消する方法が見つからないということは、結構あるわけです。子どもの学校の卒業を祝おうと約束していたのに、急な残業をしなくてはならなくなるとかということもあることでしょうね。

4 罪悪感から逃れようとする時の問題

罪悪感を抱きながら生きていく人もいるでしょう。まじめで責任感が強い人は罪悪感に無防備になっていて、何とか解消する方法があるはずだ、群れと群れとの板挟みを合理的に解決する方法があるはずだ、頑張ればできるはずだという姿勢に立つからこそ、苦しむわけです。

要領の良い人になると、理屈をつけて罪悪感を解消しようとしています。
学校の例で言えば、「自分で進学を希望した以上授業に出るのが本則であり、友達の約束自体が不道徳で守る必要がない。」と割り切る人、「学校での友人関係こそが財産になる。授業を一回くらいさぼったとしても、天秤にかければ自分にとって得になる。」と考える人。会社の例は、皆さんも良く直面している問題かもしれません。約束を破った家族に対して、「仕方がないじゃないか」と言って素通りしようとする人が多いかもしれません。

実際は、罪悪感に向き合い続けることができず、あえて罪悪感から目をそらさないためには、相当の意志の力が必要ではないでしょうか。無意識のうちに言い訳を作って罪悪感を抱かないようにしようとか、軽減しようとすることを、人間は自然に行っていることが多いです。自分を罪悪感で苦しませないための心理的なメカニズムが発動されているわけです。

<犯罪者の合理化>
自分を守るということを言い訳にして犯罪を実行する人たちがいます。実際にそのような経験を再三したことが多いのですが、「誰かに温情をかけると自分が壊滅的に苦しんでしまう。こう言う人は損をさせても良い、だから自分の犯罪は、違法だけど自分は気にしない。」ということを言う人もいました。一見するとパーソナリティに問題があって他人の苦しみを理解しないのではないかと思う人でも、きちんと罪悪感を抱いていて言い訳をしていたことになります。今気が付きました。

<親から分離された子どもの片親疎外>

児童相談所に保護された経験を持つ人から話を聞いたり、一方の親に連れ去られて久しぶりにもう一人の親と面会した子どもの様子を見たりしていると、親から引き離された子どもは、その親と一緒に生活しないことに罪悪感を抱いていることがわかります。

要領の悪いというか、まじめで責任感や正義感が強い子どもは、罪悪感をいつまでも引きずっていくようです。親から分離されて育った子どもは自尊心が低くなることが指摘されていますが、こういうところにも原因があるのではないでしょうか。育てた人がどんなに立派な素晴らしい人であったとしても、自尊心の低下が起こるには理由があるように感じました。

子どもは自分でもあまり罪悪感を自覚しておらず、その場その場では、周囲の人と協調していて楽しそうに行動しています。しかし、子どもたちを見ていると、やっぱり孤立感や罪悪感を抱いていたのだなと強く感じる瞬間があるのです。これは顕在化しないだけに対処が難しいのだと思います。

但し、そんな子どもでももう一人の親と会い、その親が満面の笑顔で迎える場合は子どもの罪悪感は一挙に氷解します。親にしがみついて大泣きして泣き止まない子、ずうっと何をしても楽しそうに笑顔を続ける子、年齢に応じた表現方法で、長年の懸案事項が一気に解決した安心感を爆発させる姿は、言葉にできません。

子どももそんなまじめというか要領が悪いというか、そういうタイプの子どもだけではなく、自分を防衛するための理屈を作る子どもたちもいます。一番多いのが、「会えない親が悪いから自分が被害を受けているのだ。その親は親として不適当な人間なのだ」というものです。子どもの性格によっては、どうしても必要な心のバランスのとり方のようです。自分の周囲の大人に対しても、その親と「会いたくない」というわけです。積極的に会いえない親の悪口を自分から言う理由もそういうところにあるのかもしれません。同居中に厳しいしつけをしていた親に対しては、特にそのような言い訳を自分にしている場合があるように思われます。言い訳がしやすいのだと思います。片親疎外(子どもが親のうちの一人に対して拒否的な行動をすること)が深刻になる原因には子どもの一緒に住んでいないという罪悪感もあるのかもしれません。

<その他>
罪悪感が高じてしまうと、罪悪感の原因になった問題を解決しようという合理的な解決を考える余裕がなくなります。とにかく罪悪感だけは何とか解消したいという逆転現象が起きてしまいます。特に人間関係と人間関係の間に入ってしまい、こちらを立てればあちらが立たぬという状態にある場合は、逆転現象が起きやすいようです。冷静に考えればどちらにも角を立てない方法があるのかもしれませんが、このようなジレンマに苦しむときは冷静な思考が起こりにくくなるようです。

こうなってしまうと直感的な行動になってしまいます。反撃されないほうに不利益を押し付けるということが出てきてしまいます。先ほどの会社と家族の約束を例にとりましょう。会社の上司には逆らえないとなると、会社の用事を優先することになるでしょう。家族に対しては罪悪感があるようです。罪悪感を消すことだけを考えてしまうので、家族から文句を言われる前に、「外で働いて苦労している」という恩着せがましいセリフを吐くことをしてしまいます。家族に約束を守れなかったことを丁寧に説明することをしないで、「文句を言うな」みたいなことを言ってしまいます。あれは、罪悪感を解消しようとするからこそ感情的な言葉遣いになるわけです。罪悪感の解消以外の、例えば家族の気持ちなんていのも考えられなくなるわけです。言われた家族の方は、約束は守られないし、なんだかわからないけれど怒られてしまうしで踏んだり蹴ったりになるわけです。

妻が友人と結構いい値段のランチに行くという場合、自分だけ贅沢して夫に申し訳ないと罪悪感が発動されてしまいます。妻はメンタル面や情報取得面の効用を説明して堂々と家計を使えばよいのですが、罪悪感から「こんな時々しかないランチごときに妻をびくびくさせないで済む稼ぎをしろ」等と余計なことを言ってしまうわけです。夫から何か言われることが嫌で先制攻撃をするという説明が一般的ですが、私は罪悪感が一役買っていると思うのです。

罪悪感を抱きやすい人は、良く言えばまじめな人、悪く言えば要領の悪い人です。でも、それだけ相手を大切に考えている人だということは確実に言える人です。その点が理解できれば、先制攻撃や八つ当たりにもう少し寛容になれると思うのです。しかし、罪悪感を抱いているということは自分でもなかなか自覚できないところが難しいポイントかもしれません。

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