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他人の自死に対して憤る理由 忌み嫌うということ 絶望回避のシステム(閲覧注意) [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日は、取り乱してしまって
文体もめちゃくちゃだし、
そもそも、書き始めから逸脱していました。

何を書きたかったかというと

どうして、他人の自死に対して
怒りを表してしまうのか
という、そのメカニズムについてでした。

(今回は、もしかすると
 極めて不快な感情を抱くかもしれませんので、
 注意して読み進めてください。)


他人が自死しようと、
特に自分に害がないならば、
ああ、お気の毒に、ご冥福を祈っていれば良いはずです。

しかし、特にネット上で
無責任だとか、
浅はかだとか
死ぬ気で生きろとか
生きたくても生きられない人がいるんだとか
死んだ人にムチ打つ論調が必ず出ます。

遺族を苦しめる結果となるのですが、
書いている本人たちに
それほどの悪意は感じられません。
しかし、怒っているのです。

怒っているだけならばよいのですが、
それをネットやテレビなどで
意見発表をせずにはいられないようです。

死んだ人には、もちろん届かないメッセージです。

ではどうして、そのように
意見表明をせずにはいられないのでしょう。

唐突にゴリラの話を迂回させるのですが、
ゴリラは、胸を叩いて
緊張(興奮)を鎮めるといいます。

実は、自死を非難する意見表明も
これと似ているのではないかと見ています。

怖いのです。
自死者の絶望に共鳴してしまうのが怖い。
このため、共鳴という危険から
逃れたいという無意識の要求が生じます。
(もちろん本人は、この自覚はないでしょう)

危険から逃れる方法は
文字通り、逃げることと
戦って危険をつぶすことです。

自死や自死者を非難することは
逃げたり、闘って、
自分が自死者の絶望を除くことを
回避する有効な方法なのです。

どのように否定するかですが、

「自死した人は、特別弱い人である
 (意思が弱い、無責任、etc.)」
という裏には
 「自分は、特別弱いわけではない。
  だから自死しない。大丈夫」
という言葉が隠されているわけです。
自分に向かって安心させているわけです。

だから、自死の原因も
死ぬほどのことではないと
「否認」の姿勢を貫きます。

「借金なんかで死ぬなどおかしい」
「中学生が死ぬなんて浅はかな考えなしだ。」
「死ぬ気になれば何でもできる。」
これは、最も合理的に
自死者の絶望を見ないための方法です。

もしかすると、
われわれ自称自死予防活動家たちも
何か予防する方法があったはずだ
と思いたいがために
自死予防の活動をしているのかもしれません。

これほどまでに、
絶望を感じることは
他人事であっても
生命体に取って極めて有害です。

本当に絶望を感じるとき
生命体は生きるための活動を停止してしまいます。

例えば、高所から落下してしまった時や
猛獣の群れに囲まれてしまったときなど、
気絶したり、仮死状態になるといわれています。

 これに対して、処刑される時は
 相手が人間であるために、
 助けてもらえるのではないかという
 一縷の望みをつい持ってしまうことが多いようです。

処刑に至らなくても
やがて追放に至るだろうとか
またもとの群れの構成員として尊重されるようになる
ことは絶対ないという確信を持った場合は、

気絶という瞬時の生きるための活動停止ではなく
徐々に生きるための活動が鈍くなり、
タイミングが悪ければ自死に至るわけです。

これは当事者だけでなく、
当事者の絶望を覗き込んだだけで
生きるための活動が鈍ることが多くあります。

人間特有の生き残るための仕組みであった
共感共鳴というシステムです。
絶望に引きずり込まれるような感覚なのでしょうか。

だから、絶望に引きずり込まれそうになるところから
逃げ出そうとするわけです。
あるいは、近づこうとしないわけです。

これが「忌む」、「忌み嫌う」という現象です。

本来死ぬこと自体が絶望的現実なのですが、
天寿を全うするとか
手厚く葬られるとか
死者の名誉や生前の功績を称賛される
ということで、
慰みを持つことができます。

これが、無残な殺され方をしたとか
死体が放置されれば
やはり忌み嫌われるわけです。

忌み嫌うというのは、このように
人間が生きるためのシステムであり、
あながち否定されなければならないものではないでしょう。

しかし、どんな死にざまをした人であっても
身内は、いとおしいものであり、
その絶望を共有しても
あるいはそれは供養として
生きる糧にかえることもありうることです。

死者であったとしても
人前で、ネット上で
それをいたずらに非難することは
何の役にも立たないばかりか
WHOは、スティグマを与えてしまうことによって
自死予防を妨げると警告しています。

日本人は伝統的に
忌み嫌うべき場面でも
地域、血縁共同体の中では
忌み嫌う感情を極力抑え、
遺族を尊重します。

そして
自宅に到着した時に
塩をかけるという象徴的行為を儀式として行うことによって
気持ちの切り替えをして
日常生活に復帰するという知恵をもっています。
(これは宗教的儀式ではありません。
 特に仏教は、死を穢れとみていません。
 また、遺族が塩を用意するというのも
 考えてみればおかしな話です。
 葬儀が、第三者である葬儀社が行っている
 ということの象徴でしょう。)

誰も傷つけない、
また、自分についてのメンタルケア的な行為を行うシステムですから、
極めて高度な文明なのだと思います。

日本を学び、先祖から学ぶことは
とても大切なことであり、
現代の問題を可決するヒントが
たくさんわかりやすく用意されていると思います。





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