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公正世界仮説を批判的に学ぶ 苦しんでいる人をそこまで攻撃する理由 被害者を攻撃したくなる心理  [進化心理学、生理学、対人関係学]


以前自死が忌み嫌われる理由ということで、直感的な説明をしたことがあります。他人の自死に対して憤る理由 忌み嫌うということ 絶望回避のシステム(閲覧注意)https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2016-05-14

社会心理学では、公正世界信念という認知バイアス理論で説明されるようです。
この説は、Wikipediaの説明によると、
「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。

わかるような、わからないような説明ですね。

要するに努力している者は必ず報われるはずだというような考えや、不利益を受けている者は何か悪いことをしたから不利益を受けるはずだというように、つい思ってしまうという傾向が人間にはあるという理論なのです。おおざっぱに言えばですが。こういう風に考えることによって何も約束がない現実社会に法則性があるということで安心したいのだと社会心理学の教科書には書いてありました。

前にもこの学説は何度か目にしていたのですが、私は違和感があるものの「そりゃあないだろう」ということでスルーしてきた理論でした。そうしたらニュートン2023年2月号の認知バイアスの特集で公正世界仮説として20の認知バイアスの一つとして取り上げられていたので、一度私の考えを整理する機会だと思ってこれを書いているわけです。

性犯罪被害ということでよく出てくる理論です。性被害を受けたことは、精神の殺人だと言われることもあるほどの強烈な精神的打撃を受けることです。その後に人格が変わってしまったり、引きこもりになってしまったり、社会活動ができなくなるということもあることです。この世に生まれてきた意味がなくなるほどの被害を受けます。

それにもかかわらず、世の中には、被害者が挑発的な服装をしていたのが悪いとか、夜中に一人で歩いていたことが悪いとか、原因を被害者に求めようとする論調がされることがあります。なぜ被害者を叩くのかということで、それは公正世界信念に基づいている、つまり不利益を受けた者はそれに見合う行動をしていたからだという風に考えてしまうということを説明する理論ということになります。

これに対して、私が直感的に「そりゃあないだろう」と考えた理由は以下の通りです。
・ 回りくどい。いちいちこの世の中はこうだから、被害者が悪いという理屈づけをしているわけではない。もっと反射的な感情、思考をはさまない説明をするにふさわしい感情ではないか。
・ 無意識にそう考えてしまうという意味の理論なのですが、それでも現実社会に住んでいる人間にとってはそう考えてしまうということには疑問があります。だって、努力が報われると思っている人がどれだけいるでしょうか。自分が不遇であることが自分に責任があるという謙虚な考えは人間として自然な考えなのでしょうか。違うと思うのです。

そのため私は、公正世界の信念ではなく、自分の心理的負担を軽減するために生じる認知バイアスだと考え、自殺者に対する批判の言動に関して述べたのが先ほどのブログ記事だったわけです。

この記事をニュートンの記事が出たことを機会に整理しようとしていたのです。ところが、Wikipediaの記事を読んでみたら、私と同じようなことは既に考えられていたようです。これはなかなか私が読んだ何冊かの社会心理学の教科書には出てこなかったため、これまで知りませんでした。

エルビン・スターブと言う人の理論のようです。
犠牲者非難やその他の戦略は、苦痛を見た後の不快感を軽減する方法であり、共感によって引き起こされる不快感を軽減することが第一の動機だとしているようなのです。

この人の理論の日本語訳が見当たらなかったので、私の考えに引き付けて説明をすることにします。

<他者の苦痛を見た場合に自分も苦しくなる共感というメカニズム>
人間は、群れで生活する本能を持った動物です。群れの仲間だと認識した他者に対しては、我がこととして苦痛を排除したい、安心させたいという本能を持っていて、このために言葉のない時代でも群れを作ることができたという考えが出発です。現代社会で、このような感受性の強い人が少なく見えるのは、当時と異なり所属する群れが複数あり、関係する人間が膨大な数になってしまうため、群れの仲間を完全に肯定することが難しくなっているという環境の変化に起因すると考えます。

つい、誰かが苦しんでいる姿を見て、ああなるほど苦しいだろうなと思ってしまうと、あたかも自分がその苦しみの原因を追体験しているように自分が同じ立場であることを想定してしまい苦しくなってしまうということが「共感・共鳴」による苦しさということです。

エルビン・スターブは「不快感」という言葉を使っているようなのですが、言語がどういう言葉なのかわかりません。共感という言葉も使っているようなので、私のように「苦しみの追体験」ということでよいのではないかと思います。ただ、実際に苦しむ出来事は他者には起きていないので、追体験と言えるほど強烈な感情を起こすことなのかということについてはもう少し考えなければならず、不快感という強烈とは言えない程度の感情が起きた場合ほど被害者攻撃は起こりやすいと考える方が妥当かもしれません。

しかし、さらに翻って考えてみると、被害者本人のように精神的打撃を強大にしないための防衛機制であると考えると、やはり追体験でよいのではないかとも考えています。要するに追体験による強い精神的打撃の予防行為ということです。特に解決不能の不安を解消したいということ、絶望を感じることを避けたいということなのだと考えています。

<防衛機制としての被害者攻撃>

被害者攻撃がなぜ不快感の軽減、ないし追体験による精神的打撃防止になるかという点について説明します。なお、どうして自分に利害関係が無いのに、被害者に対して攻撃と言えるような表現の言動があるのかについても合わせて説明してみます。

一言で言えば、被害者を仲間として見ることを拒否する行動だからです。先ほど述べたとおり、人間は仲間だと思うから被害者の苦しみをわがことのように感じてしまうわけです。当時の人間は数十名から100名を超える規模の群れの仲間と一生涯を過ごしていました。群れ以外の動物はすべて敵か食料であり、攻撃する対象でした。現代において、経済動物である豚とか牛とかに、名前を付けてはいけないという話を聞いたことがあります。名前を付けてしまうと、仲間だという気持ちが生まれてしまい、殺して食べることができなくなるからだとされています。逆に言うと名前を付けないことによって群れだと感じないようにして、食べやすくしているということが言えるでしょう。

他者が群れの仲間ではないという扱いになると、それは人間として尊重する必要性を感じなくなることになります。敵であると認識すると、共感が遮断され、容赦のない攻撃をすることに抵抗が極端に無くなるのだと思います。

被害者を非難したり、人間扱いを否定したりすることによって、共感を遮断し、自分が心理的負担を感じなくて済むように、認知が歪むのが人間だということになりそうです。

現代とは異なり、群れの人数がせいぜい150人くらいという、仲間の個体識別が可能であり、かつその人たちとだけ一生過ごしている時代には、このような共感の遮断は行うことができなかったと思います。現代社会が、人間の能力を超えた人数とかかわり、複数の群れに同時に所属するようになり、かつ、群れへの永続性が保障されない不安定な環境の中で人間が適応するための認知バイアスだということになりそうです。

群れとして共感の発動を拒否する現象としては、性被害をはじめとする被害者に対する場合、自殺者や遺族に対する場合、民族の異なる人への差別、障害者や災害被災者等様々な場合が説明できると思います。

一度群れの仲間ではないと感じてしまうと、人間性や個性などを細かに評価することができなくなり、例えば日本人とか犯罪者とか自殺者とか、抽象的カテゴリーで認識しようとしていくことになります。社会心理学でいうところの外集団均質化という理論につながっていくわけです。

以上から見ていくと、自殺者差別や被害者攻撃は、心無い人が行うというよりも感受性が強く他者の痛みを自己の痛みととらえやすい人たちが行っている場合である可能性があることになります。人間は一定以上の心理的負担を拒否したいという動物ですが、他者に共感してしまう動物だという矛盾を抱えているわけです。ここを無視して、他者への攻撃だけを非難したとしても、被害者攻撃は無くならないのではないでしょうか。

他者が被害を受けたことを見聞きした場合には、意識してお気の毒であることを意識することが第一だと思いますし、亡くなられたということであればお悔やみすることが第一に行うことだと思います。そして自分が何かできることがあるか否かを考えてできることがあればするということですし、できることが無いというのであれば、それは仕方がないことだと納得するべきです。また、家族の中であれば、その被害はあなたには起こらないということで安心させることも仲間としては行ってよいと思います。

できるならば、どうしてその被害が起きたのかということがバイアス抜きに説明されて、これから自分がどのように心掛けて生活すればよいかということがその人なりに理解できるようになることで安心することが本当は良いと思います。

人類の課題としては、理屈として、味方ではないと感じても、敵だと感じないようにすることであり、敵でも味方でもない人間がいると認識できるようになること、共感の遮断のために攻撃まではしなくてよいようにするということを編み出していくことが必要なことだと私は思っています。こういう考え方こそが被害防止の理論の根幹に置かれるべきだと思っています。

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