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実務的な観点からみた残念過ぎる企業のパワーハラスメント予防研修 [労務管理・労働環境]



1 現行研修の3段階の企業側の目的

法改正などがあり、現在、パワーハラスメント等のハラスメント対策に頭を悩ませ研修などを行う企業も増えてきています。しかし、企業側も、まだ手探り状態のようで、パワハラ対策の必要性について、まだ十分に自分のものにしていないため、せっかく研修を行っても、効果が無いような研修に飛びついてしまっているようです。ご自分の研修の目的をまずしっかり考えましょう。

1)国が言うからアリバイ作りをする
2)パワハラで従業員が病気になったり自死したりして損害賠償を請求されることを防止する。含む、損害賠償報道による企業イメージの低下防止
3)パワハラによって生産性が低下することを下げて、意欲をもって仕事に取り組む従業員を増やす 含む、企業内の良好な雰囲気づくり

大きく分けるとこの3段階になると思います。
アリバイ作りをするための研修であれば、とりあえずやればよいでしょうし、できるだけ費用をかけないで行うということになることはむしろ当然かもしれません。おそらくその研修はただ時間を浪費するだけで頭に入ってくることはほとんどないでしょうし、下手をすれば自分たちの今の状態で問題が無いという楽観的な気分になってしまうかもしれません。

損害賠償事案の防止という観点は切実です。ただ、大きな視点が定まらない対症療法的な研修になるリスクは高いです。これからこの内容をお話しすることによって、3)の目的をもって研修や対策を行うことこそが、効果的に損害賠償事案を減らしたり無くしたりすることができる方法だということに気が付いていただければと思います。

2 損害賠償事案予防型のパワハラ研修の問題点

損害賠償事案予防型のパワハラ研修の問題点は、目標とするターゲットが狭すぎて、誤差が大きくなり、結局足をすくわれるというリスクがあるということです。パワハラ事案の実務をあまり知らない人が研修担当となる場合によく行われる研修内容です。

内容としては、パワハラによって従業員が自死をしてしまい、裁判によって企業に巨額な損害賠償支払い義務が認められた裁判例を説明して、その分析をして、ここまでやってはいけませんという研修が実際に行われているようです。

こう文字で書くと、気が付く人もいると思うのですが、この研修では、裁判例になるような事案の防止にしかならないです。自死しなければそれで良いという研修になってしまいます。端的に言うと、「ここまでしなければ大丈夫」という間違った知識が身についてしまう危険があります。なぜ、リスクが生まれてしまうかということを分析的に説明します。

1)裁判例で示される「事案」は裁判所が証拠によって認定された事案だけであること。

パワハラの裁判は実は簡単ではなく、パワハラの事実が証明されることはかなり難しいという高いハードルがあります。多くは上司の部下に対する言動に問題があるわけですが、その言動の存否がなかなか証明できないのです。

本当は、もっと従業員に影響を与えた言動があったとしても、それが証明できないために証明できた証拠だけがクローズアップされてしまうという危険を判決は常に持っています。だから判決だけではなかなか事案を正確に把握することが難しいというべきでしょう。

ただ、近時IT化が進み、昔は考えられなかった様々な証拠を残すことができますし、証拠に残ってしまっていたという偶然も起きやすくなっています。あの判決の時は裁判所から見て評価される証拠が提出されなかったとしても、現代では評価される証拠が提出されてしまい、裁判事例とは別の角度からパワハラの認定がなされてしまう危険があります。

2)労災認定実務に引っ張られ過ぎている可能性がある

裁判所において、従業員側が「これがパワハラの原因だ」ということで主張する事実関係は、労働災害でそれがあれば労災だと認定されやすい労災認定基準で示された事実関係を主張するものです。労災認定の行政手続きでは鉄則です。

しかし、この労災認定基準も完璧なものではなく、労災と私病を区別するという目的があって作られているもので、従業員側に何らかの要因(弱さ)があると言える場合には、私病に寄せて扱われる可能性を孕んでいます。
つまり、労働災害か否かの判断は、
ストレス過重であればあるほど労災になり
従業員がもともと弱ければ弱い程労災にならない
という相関関係があるということになります。

しかし、実際の損害賠償請求事案では、損害賠償請求を先行させる場合もあります。必ずしも、この相関関係に当てはめずに判断が先行することがあります。また、ストレス要因であるパワハラの存在と内容が、例えば週刊誌の報道が先行し、世間に知られてしまった後では、今さら従業員に弱いところがあったなどという反論がなかなかしづらくなるわけです。

提訴会見などが広く報道されてしまうと、その何年後かに裁判で勝ったとしても、世間に定着した悪いイメージを払しょくすることは簡単ではありません。判決が出た時は既に廃業しているという可能性もあるわけです。

私が企業から相談を受けるときは、この一般顧客(世間)からのイメージや取引先との関係も考慮に入れて解決策を考えるのですが、最近は裁判に勝つ要素があると、裁判でさえもそれですべてが決まるわけでもないのに企業活動の利益を考えないで裁判に突き進む方針が立てられる場合もあります。

しかし、裁判の結論というのは判で押したものが用意されているわけではなく、色々な事情が絡んで先行きが見えないことが通常です。特に裁判官の個性というものが案外影響を与える場合が多く、この証拠があれば絶対勝てるとはなかなか言いづらいということが実情ではないでしょうか。

判決事案は氷山の一角であり、事実を正確に反映しているとは限らないので、あまりその判決の論理だけを参考にするべきではありません。

3)死ななければよいというものではないこと

裁判で現れた事案は、不幸にも自死が起きた事案が中心です。闘病中であるようなケースは、なかなか裁判になりにくいし、従業員の勝訴判決もそれほど大きな損害額が認定されているわけでも無いようです。しかし、近時、この点は改められてきています。うつ病についての研究が進み、損害のプレゼンが進化しているという事情もあると思います。

また、生死の分かれ目というのは、それほどはっきりしているわけではなく、そこに偶然的な事情で大きく結論が異なるということは、よく見ています。死なない事案と死ぬ事案というのは、区別はつきません。裁判例で、「死ぬほどの事案ではなかった」と仮に判断されたとしても、同じような事案でも亡くなる人が現実に出てくるということは大いにありうることです。それでは、企業の損害を予防できるとは言いえないわけです・

パワハラ予防は、もっとゾーンを広げて予防しなければ、ならないと思います。前に大丈夫だったということを過信すると、最悪のケースになることがあっても不思議ではありません。

4 国のパワハラ指針が、実務的には難解である理由

もちろん国のパワハラ指針でどのようなことを言っているのかを知っておくことは必要です。しかし、パワハラはいろいろな要素が組み合わされて大きなストレスになるものです。例えばベテラン従業員にそれをやった場合と、新人従業員にそれをやった時では、受け取る言葉の意味は全く違ってしまいます。

国のパワハラ指針は、その性格上やむを得ないとも思われるのですが、その他の環境を考慮に入れないで、こういう言葉を使ってはダメだ等の例示が列挙されています。これ自体が裁判例を参考にして作られているようで、その意味することも難解です。人によって解釈が変わることもありうることだと思います。

大事なことは防止するゾーンを広げて、確実にパワハラ及びパワハラによるストレス過剰による様々な負の効果を防止するということがきちんと目的とされているかどうかということです。パワハラ的言動をしないことが既得権益の侵害みたいにぎりぎりのところを攻めてはだめなのです。

研修会では、慎重な解釈をあえて提示するという姿勢が必要だと思います。

5 パワハラ予防は企業の伝達効率などを阻害するか

パワハラとは何か、パワハラがなぜストレスになるのか、なぜ予防しなければならないのかということをきちっと理解した講師でなければ、「企業伝達などの効率性がパワハラによって阻害される」などと考えて、予防対策を手加減しても良いように話してしまう場合があります。

仕事で行っている場合には、クライアント受けが良い方が良いと考えてしまうのはありうることかもしれません。

しかし、パワハラがどうして起きるのかということを見ていくと、伝達技術が未熟である場合もあるのですが、伝達環境を整備していない場合が多いように思われます。他人を動かす場合、時間もかかりますし、コストもかかるわけです。これを無かったことにしようと無理を通そうとする場合にパワハラが起きてしまう場合が多いのです。むしろ個別にパワハラと指摘された行為を点検して、改善するためにどうしたらよいかということを考えた場合、
1)そもそも伝達しなくても良いことを伝達しようとしていないか
2)伝達する場合の方法は適切か、どうあがいたって伝達情報が伝わらない方法で伝達しようとしていないか
3)伝達対象にふさわしい伝達方法になっていたか
という点検をする必要があり、それを点検すれば、パワハラをすることがいかに企業にとって非効率的なことをしている場合が多いことかよくわかると思います。

真のパワハラ予防は、企業活動の効率化につながるということはこういうことも含んでいます。

6 パワハラをする人間像の誤解

一部ではパワハラをするというのは、人格性パーソナリティ障害の人間であり、あるいは他人の心を感じられないサイコパスのような人だという誤解があります。もっともそう思いたくなる事案が多く、そのような事案では従業員は多大なストレスを受けてしまいます。

しかし、現実には、真面目過ぎる、責任感が強すぎるという上司が、十分時間を取らずにコーチングをして失敗しているケースも多くあります。一度上司に対する信頼関係が無くなると、周囲もパワハラ上司だと認識をしだしてしまい、本来ならば指導の仕方を覚えれば済む話も、どんどんパワハラの沼に落ちていくということが多いのです。

あまりにも人道的に問題がある上司であれば、改善を促して改善されなければそれなりの処分をしなくてはなりません。しかし、実際は上司の言い分はわかるということが多いようです。「言い分がわかっても改めなければならない」、これが多くの企業で行うべきパワハラ研修のはずです。

7 効果的なパワハラ防止策、パワハラ研修

ここで最悪なことは、「上司として部下の人権を尊重しましょう」ということで終わってしまう研修です。何が最悪かというと、人権という言葉は一義的に意味のある言葉ではなく、行動指針とはなりえないからです。結局何も変わりません。

なぜ、パワハラを行ってしまうかという理由を明確にして、理由を常に意識させて、同じような事態になる時に、先ずパワハラをしない方法を考えるという癖がつけばかなり上出来です。しかし、これも、実務的に、常に意識し続けるという作業ができるかについては、かなり難しいことだと自覚をする必要があります。

中間管理職の上司が自分の行動を改めるということには限界があることを十分に意識する必要があります。会社に対する責任感を無くせとか、ちゃらんぽらんに仕事を考えろと言えるはずもありません。

現実的で効果的な方法は、パワハラ上司の上司のコーチング技術を向上させることです。

つまり、自分ひとりではなかなか行動を改めるということができないために、補助者の協力を得るということです。

「それはパワハラだ」と叱責するだけでは、相手も構えてしまい、逆にストレスでつぶれてしまうことも心配しなければなりません。評価や査定が低くなることも心配になってしまい、結局、統制力や指導力のない上司が出来上がってしまいます。

やるべきことは「置き換え」のアドバイスが一つです。

これも部下の前で上司のメンツをいたずらにつぶすようなことがあっては困ります。上司の上司は自分の役割を見せつけたいためにパワハラを起こしやすいという実例も多くあります。

いくつか方法があります。

部下の指導に参加するタイプ
部下には中間管理職の言いたいこと、目的などを説明し、改めてあるべき指導をする
中間管理職には介入してしまうことを謝罪しながら、部下に対してフォローをする。
後で改めて、どうすればよかったかということをミーティングする
パワハラの問題を作業効率、効果的な指導の問題としていくことで中間管理職を安心させるということも意識しなくてはなりません。

中間管理職とその上司の信頼関係が効果を左右すると言っても過言ではありません。この信頼関係が絶大であれば、個別に部下対応、中間管理職対応を迅速に行って指導方法の置き換えが可能となります。



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連れ去り別居。離婚調停への対応についての現実の夫の行ってしまいがちな行動行動決定の傾向と、家族再生を目標とする場合に行うべきこと [家事]



私のところには、妻に子どもを連れ去られた上に、妻から離婚請求をされているけれど、それでもまた以前のように家族仲良く暮らしたいという人が多くいらっしゃいます。簡単ではありませんが、少しずつ、家族再生に成功した事例も増えてきています。また、家族再生には至らなかったけれど、子どもとの面会が定期的に行われるようになったという実績はそれ以上に増えています。

しかし、世の中では、家族再生どころか子どもとも会うことができず、養育費だけを支払っているような状態になっている男性もいらっしゃいます。大事なことは、自分に責任もないのに父親に会えない子どもたちが日々増えているということです。

どこに違いがあるのでしょうか。もちろん、条件面として、妻の夫に対する拒否の度合いの違いはあります。もちろん、家裁実務の問題もあるでしょう。妻の状態、家裁手続きの対応が結論を動かす要素であることは間違いありません。

だけどもう一つの要素として夫の対応というものがあります。ここは夫が「意識をして取り組めば」できることなので、夫側がやるべきことであることは間違いありません。

何をするのか。

答えはもうはっきりしています。妻を安心させることです。妻が夫と一緒にいることに安心できるようにすること。今さらだけど帰ってきても大丈夫だと思うこと。これまでの成功例からすると、妻を安心させるための行為を徹底することが不動の王道であることは間違いないと思います。

妻の精神状態がどうあれ、調停委員や相手方代理人がどう対応しようと、夫はあらゆる方法を総動員して、妻を心配させない存在であることを妻に実感させること、これだけです。

ところがせっかくのチャンスでの調停での陳述書作成や証拠提出において、逆方向の活動をしている人たちがほとんどなのです。

もちろん、「もう家族再生なんて目指さない。不当な損害を受けることだけを回避できれば、一人で生きていく。」という強い決意がある人ならば良いのですが、夫婦再生を目指しているはずの人も、逆方向の活動をしてしまうのです。妻を怒らせ、不安にさせて、自分から遠ざけているということが実情です。

単純な結論である「妻を安心させる活動」を貫くということはとても難しいことだからです。

人間は、目標を定めて、それに向かって効果がある行動を行い、効果が無い行動や逆方向に向かう行動をしないという単純な動物ではないということなのだと思います。意識的に自分のやるべきことを検討して、その派生問題まで考慮して行動を決定していないという言い方もできると思います。

現場では、私からしてもそりゃあそうだろうという気持ちになることも間違いありません。全く事実として成り立つことのない主張が正々堂々となされていますし、誰の作文なのかわかりませんが、事実に反して下品で醜悪な行為を自分がしていると言われたり、何よりも大切に思って大事にしてきた妻に対して自分が暴力をふるったり、呼びつけにしたり、それ以上の侮辱をしているという虚偽の主張をされてしまうと、「そんなことはしていない。」ということをムキになって反論したくなることは当然です。第三者の私が読んだって、うっかりそんな気持ちになることも多いです。

その結果、言われた夫は、気に障った箇所についてだけ重点的に反論をしてしまったり、相手に対して人格を非難するような反論内容になったり、大事なところをきちんと説明するのを忘れて致命的な失敗をしたりという訴訟技術的な問題も起こしてしまいます。妻側の意図にまんまと引っかかるわけです。

しかし何よりも最大のデメリットは、相手を怖がらせる、不安にさせる、こちらに対してますます安心できなくなるということにあります。

企業秘密に触れない範囲で説明しますと、家族再生を目指す離婚調停をする場合にお勧めする弁護士は、あなたの怒りを理解しつつもそれに従わず、家族再生の目標を堅持して書面を書いたりして対応をする弁護士です。こういう人と一緒に手続きを行うことが有効です。

威勢がよく、相手が犯罪者であるかのように(まあ連れ去りについては講学上は見解を持っていますが)決めつけて、少しの誤りも許さず完膚なきまでに叩きのめす対応をする弁護士は、連れ去りをされたような理不尽な思いをしている人にとっては確かに救いだと思います。家族再生を目指さないならばそれでも良いかもしれません。

しかし、家族再生を目指す場合はそれでは逆方向に向かってしまいます。

但し、事実と違うところは事実と違うということを明確に指摘する必要がありますし、評価が偏っているところも明確にこちら側の評価を主張する必要があることも間違いありません。だから、離婚事件は難しいし、家族再生を目指しながらだとさらに難しくなるわけです。相手の主張を否定しながらも、相手を怒らせないというところが、弁護士の腕の見せ所ということなのです。

要するに怒りの反応で行動決定してしまうと、本当に望むことの逆方向に行ってしまうということを抑える必要があります。第三者を近くにおいて、感情による行動をストップして、目指すゴールに向かっていくということが必要になります。

もう一つ、攻撃的手段を選択したくなる「現代的な理由」があるようです。インターネットでの離婚手続きに関する情報サイトには、戦闘的な裁判手続きを紹介するサイトが結構あるようです。中には、「そんな方法最初から取ったらまとまる案件もまとまらなくなるし、認められるわけがない。お金と時間だけを浪費して逆効果にしかならない。」という方法について、「これをしなくてはならない」と紹介しているサイトもあるようです。「ネットではこう言っているのですが」と紹介してくださる依頼者もたくさんいらっしゃいます。どうも不安をあおる効果もあるようです。

ある程度ちゃんとした当事者の方々が運営しているサイトであれば、私の方で大筋は把握できるので、その真意などについて説明できるし、メリットデメリットを紹介して、ご自分の最終目標との関係で選択してもらえますので問題にはなりません。しかし、中には商業的な意図を持っているのではないかという疑わしいサイトもあり、きちんと信頼できる弁護士に依頼できたならば、その弁護士を信頼した方が良いと思っています。また、弁護士は、メリットデメリットや、実務的な実現可能性についても的確な見通しをお話しできなければなりません。

私の依頼者の方への提案は、一度本当の目標に立ち返ってから考えるという作業をしないと、すんなりと気持ちに収まらないことも多いです。せっかく家族再生という目標がありながら、逆方向に行こうとする場合、それを考えた上で行うならば良いのですが、感情に任せて行動決定する場合、どうしても思い直してもらうことに必死になってしまうことがあります。高圧的だとか言われたこともありますが、そういう事情なので勘弁していただければ幸いです。

一番うまくいった例も、その時は離婚という結論になってしまったのですが、面会交流がかなりうまくゆき、すぐに宿泊付きの面会交流になり、夫の家にお泊りになり、やがて子どもが父親の元から学校に通う問い話になったと思ったら再婚していたという事例があります。

離婚手続きの間、早急に態度を決めなければならないことも多く、感情的に態度を決めるのではなく、目標から考えるとここはこうした方が良いということをかなり細かく打ち合わせしなければならない事案でした。何せ、その時は再婚の保証もないのに、離婚や、子どもたちと別れての生活を選択しなければならなかったのですから、それに至るさまざまな過程で当事者の意図しないことが多く、こうすべきだという私の提案には反発を繰り返したり、自暴自棄になるような発言を繰り返したり、大変疲れました。おそらくその依頼者も同じく疲れたし、理不尽な思いをしたことだと思います。

でも、離婚後にもたびたび連絡をしてくれて、面会交流がきちんと実施されたとか、子どもの体調を理由に面会交流を中止にされ、かなり疑わしい事情があったけれど、私から言われた通り、「それは仕方がない。一人で看病させて申し訳ありません。この次を楽しみにしています。」と言ったら、とても感謝されて、今度はホテルを取って子どもたちと宿泊することになった。もちろん、相手に感謝をがっちり伝えました。その後も、今度は私の家に子どもたちが止まることになったとか、いつもいつも嬉しくなるような報告をいただいています。私の弁護士として生きる支えになってくれている人の一人です。

理屈はわかっているのですが、このように絵に描いたように成功した事例でも、そこに至る道筋は簡単ではありませんでした。とにかく、ひたすら相手を安心させるということに徹したことができたという素晴らしい精神力の賜物だと素直に感じました。よりを戻した奥さんも尊敬できますが、この人も心の底から尊敬していますし、弁護士としても感謝しています。

やることは明確だ。しかしそれをやりきることはとても難しいことだ。しかし、それをやりきることができれば、必ず然るべき場所まで到達できる。そう確信できる事例が少しずつ増えています。

お金と時間を使った挙句に逆効果になることだけは無くなってほしいと思います。

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行動決定の原理 4 離婚、特に理由の曖昧な離婚と効果的な離婚予防 [家事]


1 離婚を社会病理の一つとして考える理由
2 不可解な離婚群 離婚は自由意思の熟慮によって行われているのではない場合が多いこと 
3 不可解な離婚の行動決定過程と二次の情動
4 離婚を考える前、日常の夫婦生活で考えて行動すべきこと 夫婦を単位とした生活は歴史的には始まったばかりであること 自立した人間とは
5 離婚予防とは何か 幸せになる方法として考える

1 離婚を社会病理の一つとして考える理由

これまで述べてきた犯罪や自殺が社会病理の一つであることには異論は無いと思います。ただ、離婚に関しては、離婚を社会病理に入れる人と、離婚はいれないで家庭内の児童虐待や配偶者加害を社会病理に入れる人と様々なようです。
離婚を社会病理に入れない人は、おそらく、①離婚したい人を無理やり結婚生活に拘束することの方が不合理だ。とか②離婚によって女性は自分を取り戻し、依存体質から脱却して自立して生きることができる。というような論拠を掲げる方が多いようです。また確かに、一方配偶者の人格を否定する行為を常習として行い、改善可能性が無いような場合等、離婚をすることが有益である場合もあるとは思います。

1)離婚は自由に認められるべきか

「離婚」は、人生の各局面におけるストレスポイントの調査である「ライフイベント調査」において、「配偶者の死」という出来事に次いで上位の精神的ダメージが生じる出来事だという結果が出ています。離婚という出来事は、深刻なダメージを与えたり、受けたりする出来事です。あまり簡単に考えるべきことではないように思います。
また、気に入らなくなったら離婚できるということであれば、それこそ相手を人間として尊重していないということではないでしょうか。離婚を積極的に評価する人たちは、「夫のDVからの防衛手段」として離婚を考えていることが多いようです。昨今の共同親権の議論でもそのような傾向が如実に表れています。しかし、離婚をしたいのは女性ばかりではありません。むしろ少し前までは、一方的な離婚は男性が女性に対して離婚を突き付ける方が多かったのです。今も夫ないし夫の親が妻を排除しようとして、一方的に離婚を工作する場合も少なくありません。女性が男性と離婚したい場合に理由として持ち出すのはDVです。逆に夫側が妻と離婚する場合に用いる手段は、妻を発達障害だとか人格障害だとかということにして子どもを夫の元に残したまま、妻を入院をさせたり、実家に引き取らせたりして、その後は妻を家に入れず、子どもに会わせず、親権を父親にしての離婚を強いられているのです。連れ去り離婚の手段は、妻の追い出しにそのまんま利用されているわけです。「離婚は一方配偶者からの解放だ」という評価によって、女性が苦しむことになっているのですが、その点は目をつぶるようです。私には納得できません。

そもそも夫婦の在り方において夫婦が一番に考えるべきことは、「子どもの将来」のはずです。日本以外の諸国は子どもの利益がきちんと考えられているかを裁判所などで審理をして、許可を得て離婚をするという厳格な手続きとなっています。
それには科学的根拠があります。統計的に、離婚後の子どもは、自己評価が低くなり、社会生活に適合することにハンディキャップを生じる傾向にあるという共通認識が背景にあります。日本では「子どもは家のもの」という考えが色濃くありました。でも、今よりはましな考え方かもしれません。現代は子どもの利益は大人の二の次になっていて、しばしば相手を苦しむために利用される存在になっています。これでは単なる自分の付属物であり、子どもの人権が無視されているのではないでしょうか。現在の離婚実務では、離婚を申し立てる方がどこまで子どもの利益を真剣に考えているか甚だ疑問であることが実に多いのです。確かに離婚によって必ず自己評価が低くなるわけではありません。子どもにも個性があります。しかし、親として、少しでも子どもの将来に悪い影響が生じる可能性があるとするなら、親の健全な感覚では、少しでもその悪い可能性を排除しようとするものではないでしょうか。

このような他者に深刻な影響を与える離婚にもかかわらず、現在の調停実務、裁判実務における離婚手続きでは、離婚したい理由が判然としていない事例が圧倒的に多いのです。もちろん不貞や虐待などと明確な理由がある場合もありますが、私や他の特に離婚に関して主義主張のない公平な目で見ている弁護士の多くは、「暴力による配偶者加害が原因となった事案はあまり経験が無い」とのことでした。

また、離婚を社会病理とは考えないもう一つの論拠である、離婚は女性の自立を促進するでしょうか。これは疑問です。離婚後も働く人の多くは離婚前から就労して収入がある人が多いと思います。結婚時働いていない人は、離婚をしても働かないケースは少なくありません。現代日本の場合は、女性であっても働かないことにはそれなりの理由がある場合が多く、離婚をすることによってその働けない理由が解消するという関係に無いことが圧倒的多数のようです。

結局、婚姻時働かなかった人は、離婚後も働かないで、実家の世話になったり、再婚相手の世話になったり、行政福祉の援助を受けて生活するようになることが多いようです。
むしろ、婚姻時は育児を分担していたために働いていた女性も、離婚後は一人での育児を理由に働くことをやめたという事例もありました。

離婚と自立の問題は後でもう少し考察します。

2 不可解な離婚群 離婚は自由意思の熟慮によって行われているのではない場合が多いこと 

「『離婚はあなたが決めたことです。』ということを離婚後に離婚を勧められた相手からそう言われた」と法務局の人権相談で訴える女性が少なくありません。行政や行政と一体に見えるNPO等の団体に相談して、強く離婚を勧められて、弁護士もあっせんしてもらって無事に離婚が成立した。しかし、離婚をするまでに時間がかかった上、離婚をしても言われたように収入が確保できず、生活は苦しくなる一方だ、離婚なんてしなければよかったと後悔している人が、離婚を強く勧めた行政やNPO等に抗議をした時に、担当者から言われる言葉が「離婚はあなたが決めたことです。」という言葉だそうです。これは、訴える人が違っても同じ言葉が言われているようです。おそらく、この種の抗議が多いために、その場合の回答マニュアルが整備されているのだろうと感じました。

私は、女性から強い決意の下での離婚の相談が寄せられた場合は、離婚後の生活のシミュレーションを先ず行うことを勧めます。自分の想定する収入、一か月の生活費、行政からの援助の項目と金額などをすべて調査するということです。制度がどうなっていようと、例えば元夫の養育費や婚姻費用分担の制度があろうと、元夫が抵抗すれば差押えまでしなければなりません。すぐにお金が入ってくるとは限らないのです。また、元夫の給料を差押えをしたことによって元夫が会社を退職しなければならない事態になる危険があります。夫の精神的ダメージも合わせて、元夫が会社を退職してしまい結局お金が支払われない等という事態を想定するべきです。離婚後の経済的問題は、特に子どもがいる場合ははっきりさせておかなければならないことだと思います。しかし、人権相談に訴え出てくる人たちは、そのようなアドバイスをもらえずに、「とにかく離婚」、「とにかく子どもを連れての別居」を強く勧められたのかもしれません。

離婚の実態として、全員が全員そうではないにしろ、離婚後の経済的基盤も検討しないで離婚の行動決定をする人たちが少なくないのです。つまり、離婚のデメリットを真正面から検討して対応策を講じないで離婚手続きに入ってしまう人たちが多いことを示しています。

また、離婚が裁判所の手続きになった場合でも、子どもと他方の親の関係が悪いということはあまりなく、母親が「父親の子どもに対する虐待」を主張する場合であっても子どもは父親を慕っているケースが多いのです。それは父親側の自己申告ではなく、母親からの報告で私たち弁護士は知りえる情報なのです。ましてや、実際は虐待のないケースがほとんどであり、虐待、あるいはそれに近いようなことがあっても、その子以外の兄弟姉妹は父親に会いたいと思っているケースが圧倒的多数です。それでも同居親は子どもを別居親に会わさないように全力を挙げて抵抗をし、裁判所が説得をしても会わせようとしないケースも少なくありません。実際、会わせないために、子どもに事実に反することを父親の悪口を伝えて、子どもに父親を嫌いにさせたということを裁判官の前で堂々と述べた母親もいました。離婚にあたって、デメリットとして考えなければならない「子どもの健全な成長に対する影響」を考えていないか、それが行動決定に全く影響を与えていない人が実に多いというのが実態です。

そして裁判所で主張される離婚理由は、どうして離婚をしたいのかが理解できない内容がほとんどです。「離婚の意思はかたい。元に戻る気はない」という言葉は判で押したようにどなたも言うのですが、こういう事実があったという主張がほとんどないのです。それでも事実関係の主張をすると、針小棒大であるとか,事実に反するという反論をすることができますし、それが事実とは違うという裏付けがあることも少なくありません。もしかしたら、このような反論をされることを回避するために、あえて具体的な理由を書いていないということがあるかもしれません。

結局、本人はどうして離婚をすることにしたか、十分な理由を示すことができないケースが圧倒的多数です。抽象的に「DVがあった」とか、「精神的に虐待された」とか、「積年の不満が爆発した」とかそういう抽象的な表現しか主張書面に出てこないのです。そんなもの実際に無くてもできる主張です。「それが通用するのかと、それでは離婚はできないのではないか」と感じる方も多いと思います。しかし家裁の実務では、離婚の意思がかたいことと、別居の事実という二つの要素で離婚を認容する傾向にあります。離婚が認容されるなら、下手に詳細な事実を主張して反論をされて、「理由が無いから離婚を認めない」という流れになることを回避するのは、仕方がないかもしれません。

ただ、結論としていえることは、離婚後の生活を吟味せず、どうして離婚をするかということを自覚できず、子どもに対する影響もあえて考えずに、「離婚をしたいから離婚をするのだ」という離婚が増えているということです。離婚の意思表示に至るための「分析」ではなく「感情」によって、離婚手続きに入るという行動決定をしているようです。もっと正確に言えば感情で離婚決定をして、後は弁護士や裁判所という万事心得ている人たちが確立した離婚手続きのレールに乗っていれば、離婚判決に到着できるというケースが多くなっているということです。

それを間接的に示す統計もあります。離婚件数自体は平成14,5年をピークにして右肩下がりに下がっています。それにもかかわらず、面会交流調停申立はその傾向とは逆に平成以降右肩上がりに増え続けています。各年の配偶者暴力相談の相談件数の50分の1の数字と面会交流調停申立件数とほぼ同じであり、増加傾向はぴったり符合しています。離婚件数が減ったのに、相手にとって理不尽な子どもとの切り離し事案が増えているために、子どもと会わせてほしいという訴えが増えているということです。
面会交流調停.png

3 不可解な離婚の行動決定過程と二次の情動

理由のはっきりしない妻の離婚の行動決定はどのような過程を経ているのでしょうか。はっきりしていることは、妻が夫を嫌悪し、恐怖さえ感じているということです。あたかも一次の情動、つまり、自分の身体生命を守るために離婚の行動決定をしたかのようです。

おそらく支援者も裁判所も、妻の身体生命を守るために離婚に踏み切ったと思っているのでしょう。しかし、私は違うことを考えています。「二次の情動による行動決定パターン」だということです。

今回意思決定や意識の勉強をしていて再発見したのですが、「カプグラ症候群」という疾患があるというのです。これは、「周囲の他者(通常、親しい関係にある人)が、本来の人物によく似た替え玉に置き換えられているという妄想的確信を持つ病態である。替え玉は本物そっくりだが、時に患者は本物とのわずかな「差異」(雰囲気や身体的特徴)を指摘する。すり替えられた対象は、動物や非生物であることもあり、自分自身を含む場合もある。配偶者、両親など自分が愛着を持つ人物が偽物であることが妄想の主題であ」るとのことです。

1960年代まではストレスが原因だという考えが主流でしたが、1970年代から脳の部分的損傷や機能不全が原因だという考え方が主流になってきたそうです、前は女性に多く見られるという報告がされていたようですが、現在では性差が無いとされているそうです。

カプグラ症候群と言えるまで極端ではないのですが、妻に程度の軽いカプグラ症候群が起きているような印象を夫側が持つことが多いです。これまでと同じように接してきて、これまでは何も問題が無く二人で幸せに過ごしていたのに、突如自分に対して被害的な発言が飛び出すようになったとか、わけがわからずに自分を拒否するようになったという印象を持つできごとが始まるようです。場合によってはそのような兆候が無く(気が付かず)、ある日仕事から帰宅したら、家がもぬけの殻で妻と子どもが行方不明になっていたという突然の別居となるというパターンも少なくありません。

きっかけがあって、妻がそうなっているのですが、夫は何がきっかけかわかりません。妻自身でさえきっかけはわかりませんし、自分が変わったという自覚も持てないようです。過去の夫との仲が良かった時代の楽しかった記憶、幸せだった記憶は消えてなくなっているような印象を受けます。

この変化の一番の理由は、妊娠出産によるものです。以下産後うつの関連の、私の過去記事を紹介します。

引用開始
2016年12月にバルセロナ自治大学の
オスカー・ヴィリャローヤ率いる研究チームが、
https://www.sankei.com/wired/news/161222/wir1612220002-n1.html
2018年2月5日に福井大学 子どものこころの発達研究センターが
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20180205/index.html
それぞれ大変興味深い研究発表を行いました。

バルセロナの研究は、脳のある部分の大きさの変化をとらえ、
福井大学の研究は、脳の動きをとらえ
同じことを発見しています。

ざっくり要約すると
妊娠した後、あるいは赤ん坊を産んで育てている間に、妻の脳が変化をしているということです。
その結果、
妻は、赤ん坊の状態に対する共鳴力、共感力が強くなるのに対して、
大人に対しての共鳴力、共感力は弱くなる
ということになるようです。(以上引用終わり)

これが極端なケースでは、夫に過去に感じていた愛情や、夫のそばにいることによる安心感が湧き起こらなくなり、過去の愛情や安心感を思い出すための現在の感情が欠落していることから思い出すことができなくなるという表現が当てはまっているように感じます。

これまで、離婚裁判の手続きの中で産後うつという診断書は多くは出てこなかったのですが、内分泌疾患、頭部外傷、神経性障害(ICD10 F4)等の精神疾患の診断書が提出されることがありました。突然、夫に対して、過去の愛情や安心の記憶が欠落する要因になりうる疾患の診断名だと思います。

このような生理的変化によって、夫に対して過去の愛情や安心の記憶が欠落するということはありうるのではないでしょうか。そうして、愛情や安心の記憶の無い成人男性が、いつも自分の身近にいる、そして自分の行動に文句をつけるということであれば、恐怖を感じたり嫌悪感が大きくなるということになり、夫の些細な言動が、自分に対しての攻撃であると被害的に受け止めてしまうようになる、やがて自分の行為は全般的に夫は気に入らない、「自分が想定していない場面で夫の自分に対する攻撃が始まるかもしれない」という予期不安に支配されるようになるという流れが、突然に夫に対しての嫌悪感を感じる流れのようなのです。

この流れは夫が実際に暴力的な加害を妻にしている場合の妻の心理変化とほとんど重なるようです。暴力が典型的ですが、必ずしも暴力が無くても、要は「自分が理不尽な苦しみを受けて、約束事さえも踏みにじられる」という体験をした場合、妻は、夫に対する愛情を抱いていた記憶や、安心感が失われて、存在自体に恐怖と嫌悪を感じるようになる。同じ空間にして同じ空気を吸うことも嫌になり、街で夫に似た後姿を見るだけで体が硬直してしまうという報告を受けています。

これらの問題は一見すると自分の生命身体を守るための防御として離婚の行動決定が行われたようにも見えます。しかし私は、離婚の行動決定は二次の情動が基本であり、場合によってはいくつかの人間関係の組み合わせで行動決定がなされていると考えています。

先ず暴力から身を守っているのではないかということですが、暴力があったとしても頻繁に起きているわけではなく、また大きな暴力であることは少ないようです。暴力があっても次の瞬間に逃げるというわけではないようです。また、実際は暴力の有無にかかわらず幸せの記憶の喪失は起きるようです。

また、この点は妻側の代理人になる方に特に注意していただきたいのですが、暴力が痛いから離婚したいという短絡的な流れではないようなのです。暴力は、本来、敵に対して自分(たち)の身を守るために行う行為です。仲間から暴力を受けるということは、仲間は自分の身体生命という基本的価値を否定している、自分を怖がらせることを何とも思わないということを感じさせ、その結果二次の情動を強烈に高める、つまりその人間関係が安心できる人間関係ではないという感覚を強烈に与える出来事なのです。

だから、その人間関係が自分を大切にしていない、仲間として最低限度の配慮もない、むしろ敵とみなしているという感覚を持つことになれば、その人間関係の相手である夫は、自分の社会的存在を脅かす「敵」ということになってしまうわけです。

暴力が無くても、感じる主体である妻側が、妊娠後、出産後の安心できない状態変化を起こしていれば、夫の些細な言動も攻撃と感じるようになるでしょうし、夫側が例えば「離婚する」、「別れる」、「出ていけ」という言葉を発してしまうとそれだけで、「敵」という認識になってしまうようです。

二次の情動と一次の情動をどこまで区別する必要性があるのかわかりませんが、主としては二次の情動が活発化しており、一次の情動がそれを後押ししているということがリアルな捉え方だと考えた方が実務的には正解だと思います。

夫が敵であるとしか受け止められなくなった以上、離婚をするという行動決定に出てしまうことはある意味自然なことになってしまいます。

4 離婚を考える前、日常の夫婦生活で考えて行動すべきこと 夫婦を単位とした生活単位は歴史的に始まったばかりであること 「自立した人間」とは

離婚の裁判手続きで気になる妻側の主張があります。それは、妻側の不満や言い分を、「夫は妻の不満を察して、自分の行動を改善するべきだった。私はそれを待っていたが、夫はそれをしなかった。だから修復不能なのだ。」という言い回しが非常に多いということです。そしてその不満を同居中は口に出していないというのです。「言わなくても察しろ」ということを堂々と主張しています。

結構女性の自立を主張する代理人たちもこのような主張をしてくるので、不思議でたまりません。これでは、「女性は男性から守られるべきものであり、男性が全てを見越して女性を守らなければならない。女生はそのような男性の行動の一方的評価者なのだ。」と言っていることと同じだと思えるのですがどうでしょうか。

言葉にしなければわからないことはたくさんあります。自分に妻に対する攻撃的感情が無ければ、ますます自分の言動によって妻が苦しんでいることはわかりません。実現が困難な無理難題を要求しているということが一つです。それ以上に不思議だと思うのは、「女性は夫に依存する社会的立場にある」と言っているようなものではないかということです。男性次第で女性は幸せにもなるし、不幸せにもなる。こういう主張に思えてなりません。

そんな奇跡とも思えることを期待していないで、自分の言いたいことを言うべきです。子どもと大人の区別はそこにあるはずです。子どもは親に依存して成長しなくてはなりませんので、例えば乳児は泣くということですべての要求を通そうとしますが、それは止むを得ません。

しかし大人である以上、男女にかかわらず、自分の環境を快適にする行為を自分で行う必要があるわけです。その方が楽しいですし、黙って待っていてイライラするよりよほどストレスを感じないのではないでしょうか。女性は男性に意見を言ってはならないという価値観は極めてナンセンスで時代錯誤も甚だしいと私は思います。

この依存的傾向が強い人は、結婚時は夫に依存して、離婚をしたら実家や行政に依存しようとするようです。誰かに依存しなければ不安になるようですし、自分で責任を取ることを嫌がっているようにみえます。離婚の行動決定も相談機関に依存した結果ではないかと疑いたくなる場合もあります。このような場合は離婚後の生活苦をNPO等に訴えても「結婚はあなたが決めたことです。」と言われると人権問題だと感じる流れになることは自然だと思います。

現代社会の特徴について少しお話しします。
例えば戦前は、多くの家庭ではでどちらかの両親と同居する場合が多かったわけです。また、両親との同居が少ない都市部では、職場とか近所との人間関係の結びつきが強く、おせっかいな人も多かったわけで、子育てでも夫婦問題でも、夫婦だけで解決しないで、夫婦以外の人が首を突っ込んだり、相談に行ったりすることが通常の状態だったようです。また、夫に非があると思っても、「早く逃げなさい。離婚しなさい。」というアドバイスをすることはよほどのことが確認できない限り無くて、「私が言ってあげる」と夫に態度を改めるように意見を言いに来たということが多かったのではないでしょうか。

それに対して現代社会は、どちらかの両親と一緒に暮らしていることはまれであり、近所や職場の人間関係も極めて希薄になっているのではないでしょうか。相談する相手が行政やNPOしかないという状態なのだと思います。

だから夫婦の理想の在り方、あるべき付き合い方ということは自分たちで考えるしかありません。自分の行動の不具合は自覚しにくいということが実情です。二人で情報を提供しあって考える必要がどうしてもあるのです。

その際、どちらが良いとか悪いということは、考えてもメリットの無いことです。いずれにせよ夫婦の問題ですから、双方が協力してよい方向へ進まなければ解決しないことは当たり前です。どちらが悪いとか加害者、被害者では解決する方向を間違っているとしか思われません。双方がどのように行動を修正すれば楽しく安心して暮らせることができるのかという発想が出発点だと思います。

そのためには一緒にいる時間が長く無ければすべての信頼の土台が構築できないと私は思います。
基本は一緒にいる時間を長くとること、一緒にいる時間で生きるために必要なこと以外のこと、どうでもよいことを共有することがとても大切だと思います。

5 離婚予防とは何か 幸せになる方法として考える

結局離婚予防とは、離婚しなければそれでよいというわけではないということです。一緒にいてお互いが楽しく、安心して生活できるようにすることが結果として離婚予防になるということなのだと思います。

例えば職場で嫌なことがある場合、家族に当たり散らして雰囲気を悪くする場合があります。八つ当たりですから攻撃される方も不意打ちを食うという現象になることが多いです。「自分がどうして辛く当たられるかわからないため、不信感が増大します。他の人間関係での不具合があるということは予め情報提供をしておくとだいぶ不安が軽減されると思います。男性は、女性に助けを求めることになることだと感じて、相談しづらい気持ちになることはよく理解できます。でも八つ当たりするよりは相手にとってはよほどましなのです。

もう一つ男性目線で言えば、本当に「男性側の態度が変わらないのに女性側の感じ方が変わっただけだ」と言い切れるでしょうかということです。確かに先に述べた産後うつ等のエピソードによって敏感になっているということはあると思います。しかし、結婚前、出産前、出産後で、知らず知らずのうちに夫側が平気で乱暴な言葉遣いになったということはないでしょうか。今の言葉遣いのままでプロポーズまで貫き通したと言い切れる人はどれだけいるのでしょうか。プロポーズの前は、自分を失うほど大きな声で相手を怒鳴ったことは無いと思います。

やはり、男性も女性も、自分の行為で自分が生活する環境を良いものに変えていこうとすることが大人の自立なのだと思います。相手の状態を想像すること、相手の役に立とうとし(喜ばせようとし)、そして自分で快適な家族を作っていくという発想を意識することが大切だと思います。そもそも産後うつや疾患のために被害的に感じやすくなってしまうのだって女性に責任があるわけではありません。大切にしているというメッセージを意識的に相手に届けるということが、女性の被害意識を軽減させることにつながると考えるほかなさそうです。そしていつそのような気持ちの変化があるかわかりませんから、そのようなそぶりが無くても大切にしているということを態度や言葉ではっきり告げるということをそれなりの頻度で行うことが前向きな方法だと思います。

一度被害的な気持ちになると、過去の幸せの記憶を失うと言いました。どうすれば過去の記憶を取り戻してくれるのか、その時の自分が相手にした安心感を与え続けることによって、記憶を喚起する資料を与えなければ記憶は喚起できません。わかりやすく言うと、幸せの記憶を失ったとしても、新たな幸せの記憶を蓄積させていくという方向で解決するしかないのだと思います。

家族に安心してもらうこと、何があっても一緒にいるというメッセージを折に触れて示しあうことが幸せのカギだと思います。



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行動決定の原理 3 自殺の行動決定のメカニズムと有効な予防法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 はじめに
2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない
3 自殺の前に考えるべきだったこと
4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム
5 自殺という行動決定
6 持続する自殺の行動決定
7 効果的な自殺の予防

1 はじめに

自死とは不思議な現象です。「生きようとすること」が、人間に限らず生き物の共通項だと思われるところ、生きようとしなくなるどころか、直ちに生きるのをやめる行動をするということだからです。さっきまで生理的に問題なく生きていた人間一人の命が失われるのですから不思議という表現よりも、「何かしら怖い」という気持ちになることも多いかもしれません。当然拒否反応が出てきて、「自分は自殺の心配はないということ」を確認して安心したくなり、自死をした人あるいはその人の家族をことさら攻撃するネットの反応も見られるところです。

私は人間には、生命、身体の危険を示す事実を脳がキャッチすれば、無意識に(脳が勝手に)生命身体を守る行動をする本能があり、これを「一次の情動に基づく行動」だと言っていました。自死をした人には一次の情動が機能不全になっていたということになります。

しかし、最も生物として基本的な反応ができなくなるということはどういうことが起きているのでしょうか。

前回の記事の犯罪の行動原理の説明の際に、「社会などの人間関係の評価を落とさないようにする『二次の情動』の機能が働くなる事情があったために犯罪が起きる」という説明をしました。その二次の情動が働かなくなる要素として一次の情動が高まりすぎたことを一つの事情としてあげました。自分が生きるために他人を犠牲にする行為が正当防衛になるという文脈で言いました。

おそらく自死は、犯罪とは正反対に、二次の情動が強く働きすぎて一次の情動が働かなくなるという現象が起きているのではないかと考えています。今回は、結局このことを詳しく説明することになるのだと思います。

2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない

「自死」とか「自殺」とかいう言葉から受けるイメージとしては、自ら熟慮の末に死を選んで自死を決行したというイメージが生まれがちです。しかし、私が聴取した自死未遂者や自死を考えた人の話からすると、多くのケースでどうも違うような気がするのです。

確かに、「急に死ぬことを思い立って十分考えなしに危険な行為をしてしまい、結果として命が失われる。」という例ばかりではないのかもしれません。ある程度長期間にわたって自死を実行しようかしないかを思い悩んで心が揺れ動いた結果自死に至ったというケースももちろんあるわけです。

ただ、思い悩んではいたとして、あるいはためらっている時間が相当時間あったからと言って、分析的な熟慮をしていたのかというと、どうもそうではないようだという事情がありそうです。「悩んではいたけれど、苦しんでいたけれど考察はしていなかった」という現象がありうるのではないかということです。

ドライな言い方をすれば、生き続けるメリットと死ぬデメリットを比較考慮していないとか、死ぬことによるデメリットをリアルに予想して考えていないのではないかと感じるのです。

全く非論理的に、つまり感情的に、あるいは直感的に、死ぬしかないという結論を出し、死に至る危険な行為を実行していたということが、実態に合いそうです。自分が自死したら家族が苦しむということは頭ではわかっていても、家族が悲しむということを十分に考慮すること(家族が苦しむから自死をやめよう)はしていないようです(家族が苦しむことは大変申し訳ないし、かわいそうな思いをするけれど、自死をする)。遺書や生前の行動から考えると、自死をした人が家族を愛していないとか、家族を守ろうとしたくないとか、家族と不仲だとかそういうことではないことがほとんどであることは間違いありません。「そこまで十分に考えていない」というだけのことです。

結局は命の危険のある行為をすることには間違いないのですが、中には最後まで生きるか死ぬかを迷っていて、もしかしたらワンチャンス死なないで済むかもしれないと思っていたのではないかという方法が取られていたこともありました。

3 自殺の前に考えるべきだったこと

では、自死の前にドライに何を考えるべきなのでしょうか。
一番は、「自死の原因が、本当に自死をしなければ解決しないことなのか」ということだと思います。

自死の原因には様々あって、内科疾患や精神疾患によって、自分の行動にコントロールが効かなくて自死に至ったというケースもあります。確かにあります。しかし、一番に多いのは対人関係上の不具合がある場合だと言ってよいのだと思います。職場や学校での人間関係の不具合、あるいは夫婦(男女)、親子の問題、あるいは社会の中の孤立という問題などがあります。自分が大切にしていたり、最後のよりどころにしていたりした人間関係から、自分が否定評価されることは、人間として文字どおり耐えきれない絶望を感じるようです。

しかし、その不具合は解決できないことなのか、また、解決しなくてはいけないことなのかということを冷静に考える必要が本当はあります。

多くの事例では、解決できないわけではない、また解決しなくて別の方法をとる、あるいは自ら解決しようとすることをやめてこちらから見放すという選択肢も大いにありうることが、第三者からみればあるように感じることが少なからずあります。

但し、第三者から見ればそう思うのですが、人間の本能は、特定の人間関係を結んでいる人間から否定評価され仲間であることを否定されると、言いようもない危機を感じてしまい、何とか自分の立場を回復したいと志向させてしまうという特徴があります。これが「二次の情動」です。人間が言葉を作る前から群れを作ることができた原理がこの二次の情動をもつ心というシステムによると私は考えています。

4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム

1)情動と思考低下ないし停止

一次の情動でも二次の情動でも、情動が高まると物を考えることが困難になります。一次の情動(身体生命の危険を示す事実を脳がキャッチすると、危険から遠ざかろうとする心)が生物の基本ですが、典型パターンは①怖いものを脳がキャッチしたら②逃げるということを自動的に決定させて、③いち早く逃げはじめ、④わき目も降らずに全力で逃げることをして、⑤それ以外をしないということで、身体生命をより安全にすることができ、結果として人類も生き残ってきたということです。

だから情動が高まれば、思考力が低下ないし停止することは合理的だったことになります。このシステムが今も人間の脳に残存しているわけです。つまり考えさせなくする働きが生まれてしまっていることになります。一次の情動ではこれで良いのかもしれませんが、現代社会における二次の情動が発動するような対人関係的不具合が生じたら、冷静に考えて周到な対処をすることが合理的ですが、いかんせん進化の過程で獲得してきた本能的システムは、環境の変化に追いつくことができません。「環境と心のミスマッチ」の現象が起きているわけです。

思考力が減退すると、考えるべき要素が浮かんできません。考えることにとてつもないエネルギーが消費されていきます。できるだけエネルギー消費を抑えようと勝手に脳が省力化を図ります。そうすると、今見えていない将来の見通しなんてものは思い浮かびようがありませんし、思い描く将来像があってもそれに至る筋道を計画することなんてとてもできません。二者択一的に物事を考えることがせいぜいで折衷的な考えなどできなくなります。見通しを考えるというよりも「現状を悲観的に理解する」ようになります。こうやって悲観的にいることで、楽観的な見通しの下逃げることをやめて猛獣の餌食になることを回避してきたわけです。ただひたすら逃げるということはこういうことのようです。そうすると複雑な思考ができなくなります。他人の心を推測するということは難しくなります。

また、「この人間関係をそんなに大事にするべきなのか」というテーマ自体が浮かんできません。「いくつかの人間関係を横断的に比較して、例えば職場の人間関係を切り捨ててでも家族などを大事にすればよいのではないか」という考えも出てきません。思い悩んでいる人間関係それ自体を放り投げても、自分が生きる分には何の支障もないということも考え付かないわけです。

ただただ、自分は全世界から否定されていると感じるときのように絶望し、誰かに相談すれば簡単に解決するはずなのに、「どうせだめだろう」という姿勢になっていて、対策を立てることができなくなっているようです。

自分で自分を孤立に追い込んでいくという現象が見られます。相談するべき身内こそ、心配をかけたくない、あるいは弱い自分を見せたくないという感じでもあります。このため本人から大事されていた遺族ほど、どうして自死したのかわからないということになることはこういう理由があることです。

そして、「このまま苦しみ続けるか死ぬか」という悲観的な二者択一の選択肢が浮かび、「死ぬしかない。自分は死ぬべきである。」という結論から抜け出せなくなるようです。だから、本来は対人関係上の不具合を解消したいということにすぎない場合であっても、出口は死の危険のある行為を行うということになってしまうわけです。この現象をとらえて、「人間は希望が無くては生きていけない、絶望をしたら生きていけない」と表現をすることがありますが、現象としては間違っていないのだろうと思います。

結局、二次の情動が肥大化しすぎてしまい、基本的な身体生命の確保という一次の情動が機能しなくなっているというのが自死に至る際に起きていることなのだと思います。

また、特定の人間関係(例えば職場)について二次の情動が肥大化するために、別の人間関係(例えば家族)における二次の情動が働かなくなってしまうというパターンもあるということになりそうです。

5 自殺という行動決定

自殺の行動決定も、具体的な行動で考えなければ実行には映りません。具体的な行動とは、「いつ(今、これから)」、「どこで(ここで、思い当たる場所で)」、「どのような方法で」を具体的に定めた選択肢が出てきてから危険な行動に出るという筋道を通るはずです。厳密な意味で自由意思による制御の時間はなく、あるいは制御の選択肢(やっぱりやめた)が無くなり、脳によって勝手に自死が行動決定されているのだと思います。その危険な行為をその時に、その場所で行う以外の選択肢が無くなるまで追い詰められているわけです。

一度自死の行動決定がなされてしまうと、他者によって物理的に取り押さえなければ、止めることはできないのだろうと思います。実際に物理的に自死を取り押さえた例はよく出てきています。必ずしも死ぬことを確定的に考えていなくても、突発的に飛び降りれば死ぬ場所に飛び出すことがあり、あるいは飛び出そうとして、家族が物理的に止めるのです。そのような場合、例えば妻が掃き出しからベランダに飛び出そうとしたところを夫によって取り押さえらて自分の顔が床にあたったあたりから我に返るようです。しかも、その直前の自分の行為を覚えていないということも多く報告されています。離婚事件では、自分の命の危険がある行動決定を夫が止めたという客観的事実が、取り押さえられたことが夫からのDV(暴力によって床にたたきつけられた)だという記憶にすり替わっていることが何件か見られました。その際、何をきっかけにDVが起きたのか(実際はDVではないので)記憶はしていません。記憶が無いことが直ちに行動時に意識が無かったことを示すのかどうかはよくわかりません。後に記憶が欠落するということもありうるからです。しかし、瞬時に記憶が欠落したというよりも、無意識下の行動であったと考える方が自然であるような気がします。無意識下でも、死のうという意図が無くても、死ぬ危険のある行動をして命を無くすことがありうるということを示していると思います。

6 持続する自殺の行動決定

例えば死地を決めて、自動車等で死地に赴く場合等、自死を決意してから実際に命の危険な行為を起こすまでにある程度の時間が経過していた場合があります。そこから生還した人から話を聞いたことがあります。死地に赴く途中で、あるきっかけから、「今死ぬわけにはいかない」とふと思い立って、別行動をとり生還したそうです。残りの数名は自死によって亡くなっています。

途中で我に返るということはありうることですがむしろ例外のようです。その他の人は集団で自死をしたのですから、自死の意思があり、それが持続したと考えなければならないかもしれません。

ただ、この時もいつ自死の行動決定をしたのかという端緒に着目する必要があると思います。仮に、数人で死地に出発した時に行動決定があったとすると、その段階で自由意思が失われて、後は行動決定を覆すことをできなかったということになります。「やっぱりやめた」という意思の力を振り絞るには、その時点ではすでにエネルギーが消耗しすぎていたという可能性があります。うつ病がこの意思の力を振り絞るエネルギーの無くなる病気です。もっとも症状が重い時期では、意思を使うエネルギーが無いために食べ物を口に入れても咀嚼できないし、目の前にリモコンがあるのにテレビをつけることもできないという状態になると言います。一度開始した自死の行動決定を覆す意思を持つこともエネルギーが必要な状態だったのかもしれません。エネルギーが枯渇していると、一度自死を決定したことを覆すエネルギーが残されていないということがありうると思います。

逆に何度も自死を止められて、しばし落ち着いたために家族がトイレに行った隙をついて自死を決行したケースがあります。かなりうつ病が進行していてエネルギーが無い状態だったのですが、生き続けるという意思を持てない、苦しみに耐えるエネルギーが枯渇していたということかもしれません。

7 効果的な自殺の予防

1)精神疾患が原因の場合
重篤なうつ病や統合失調症などは、それらしい出来事が無くても自死をしてしまうことがありうるので、きちっと治療をすることが最優先となるでしょう。病気の症状として、些細なことが重大なことのように思えることもあるようです。うつ病などは病気の症状として合理的な思考ができなくなり、あたかも一次の情動が高まって思考力が停止しているのと同じ状態になりうる様です。また、病気の症状として、悲観的になり、絶望しやすくなるということがありそうです。

ただ、精神疾患の治療はなかなか難しく、ひとたびうつ病になってしまうと、10年以上、波はあるけれど症状が継続していて、発病前の状態に戻れないという人たちをたくさん見てきています。治療研究を世界中で取り組んでいただきたいと思う次第です。

2)対人関係が原因の場合

その人を大事に思う人間関係の人たち、例えば家族が、いち早く他の人間関係で苦しんでいて絶望をしているという状況を察することが近道であることは間違いありません。しかし、少し前に書いた通り、本人から大切に思われていた家族こそ、本人の自死リスクに気が付かないようにできています。

そうすると、自死のリスクに気が付いてから対処するというのはあまりにもゆったりと構え過ぎだということにならないでしょうか。常日頃、意識的に「自分たちはあなたといるととても楽しい」、「あなたを尊重して、大事に考えている」というメッセージを、折に触れて発信しあうということが解決方法になるはずです。そのような習慣が無いので、なかなか難しいことですが、現代社会においてはそのような意識的な明示の発信をすることが必要なのかもしれません。ただ、自死予防の対策としてそういうことをするということではありません。本来人間は、そのように仲間の不安を取り除きながら共同生活をする動物であるはずです。そして、そのような相手を安心させる意思の発信をすることは、結局この人間関係が安心できる人間関係だということを相互に強く意識づけることになると思います。つまり人間として、本当当たり前の幸せを作り出す行為なのだと考えて、ある意味エチケットとして行うという発想こそが必要なのだと思います。幸せになろうということにためらいは不要なのだと思います。自死予防ではなくても、幸せになるための行動を行い、結果として自死が減るという流れを意識するべきだと思います。

また、あらゆる人間関係において、他者を追い込まないことということを共通のルール、価値観にするべきだと思います。とくに継続的人間関係である、家族、学校、職場等は、人間の本能として、何らかの不具合があると二次の情動を使い切る可能性がありますので特に注意が必要です。人助けや世直しを標榜するボランティア的な組織程、自分こそが正義だと強く思う人がいて、正義を貫こうとする余り、仲間を致命的な状態になるまで攻撃し続けるというパターンがみられることがあります。

また、学校をやめたり職場をやめたりした場合、すぐに別の学校や職場に移ることが可能な仕組みを作ってほしいと思います。「辞めればよいのだ」ということをつい忘れがちになりますので、「いつでも辞めることができる」という意識を持つことが大事だと思います。「いつでも辞めることができる。辞めればよいのだ」という気持ちを持つことは、その人間関係での絶望を感じにくくなり、逆に人間関係が長持ちする場合も多くあります。

3)自殺のリスクのある人に対する第三者の相談や支援の方法論

①自死の行為を詳細に語らない
WHOの報道に関する要請でもありますが、自死の行為を詳細に報じないということは有効です。自死の行動決定は具体的な危険行為を思いつくことによって実行に移ります。他者の詳細な自死行動をインプットしてしまうと、具体的な自死行為が選択肢に現れてしまいます。タイミングによっては、とても自死をする理由が無いにもかかわらず、行動決定して行動してしまうということが大いにありそうなのです。マスコミはくれぐれも自重するべきですし、詳細な事実を開示した人に対して何らかのペナルティーを与えることも視野に入れてほしい程重要な話です。

②「死ぬな」という結論を押し付けることに良い効果は期待できない
 自死は意識的に自分で命を無くそうという意思決定をしていない場合がある可能性があります。その人たちに対して「死ぬな」とか、「死んだら家族が悲しむ」という結論をいくら言ったとしても、その人たちの苦痛を大きくするかもしれませんが、予防としての効果があるかどうかは甚だ疑問です。逆効果になるかもしれないということを理解してほしいです。

特に死んだら家族が悲しむということはわかっているようなのです。それでも、十分に認識ができない状態に陥っているのですから、結論だけ言っても何かが変わるとは思えません。

③帰属するべきコミュニティーに帰属させる
その悩みがどこから来るのか一緒に理由を考えて、安全なコミュニティーに返すということを基本とするべきだと思います。「孤立を解消する」ということが最も必要なことです。孤立と言っても客観的に全世界の中で一人ぼっちになっているわけではありません。特定の人間関係の中で疎外されているだけのことが多いのですが、間違いなく孤立感を感じているし、自分から孤立化に向かってしまっていることが多いのです。

支援者自身は、支援対象者とそれから先の生活を共同にするわけにはいきません。支援者にも家族がいるはずです。その人がともに生きる人間関係を理由なく破壊することが最もやってはならないことだと思います。安全なコミュニティーを探し出して、あるいは安全なコミュニティーを創りだして、そのコミュニティーに帰属させるという最終目標を持つことが必要だと思います。必ずしも共同生活にこだわる必要はありません。「自分のことを大事に思ってくれている仲間がいる。」という意識を持てることが真の目標なのだと思います。

中には、何でもかんでも、ストレスの原因は家族であるとしてしまう人たちが実際に存在します。ストレスの解決策は家族からの離脱以外ないと考えているようです。しかし家族という基本的なコミュニティーからの離脱を勧めることは、その人の家族を精神的に追い込むことにもなりかねません。コミュニティーに不具合があるならば、不具合を是正する働きかけをすることが第一選択肢になるべきだと思います。

④総じて、支援者がやってはいけないことは、対象者の自死リスクを高めることと対象者の近くにいる人を攻撃して新たな自死リスク者を生んだり、リスク者がコミュニティーに戻ることを妨害することなのだろうと思います。自分たちこそが、寛容な社会、失敗を許容し、再出発を見守ることを率先して実践することが必要だということは間違いのないことだと思います。

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行動決定の原理 2 犯罪の行動決定と予防に効果がある対策 [刑事事件]



1 犯罪も熟慮の末に実行しているわけではなく、気が付いたら罪を犯していたということが多いこと 及びその意味
2 二次の情動と犯罪 多くの人はなぜ犯罪をしないか
3 二次の情動が働くなる要因
4 別考慮が必要な職業的犯罪と犯意の持続 犯罪環境
5 犯罪予防の有効な策

1 犯罪も熟慮の末に実行しているわけではなく、気が付いたら罪を犯していたということが多いこと 及びその意味

新聞の犯罪報道を読むと、おそらく多くの人が「なんでそんな馬鹿なことをするのだ。こんなことをしたらどうせすぐにつかまるし、ニュースで顔や名前、住所までもさらされてしまうだろうに。」と感じることが多いと思います。

しかし、刑事弁護をして感じたのは、圧倒的に多くの場合、犯罪を行った人は、それらの事故にとっての不利益を、「そこまで考えていなかった。」状態で犯罪を行っているようです。例外的に盗みをして生活をしているような、反復継続して犯罪を常習にしている人は、また別考慮が必要です。これは後から述べます。まずは圧倒的多数のそこまで考えないで犯罪を実行する場合を考えます。

万引きなどが典型例ですが、弁護の過程で本人から聴いても、自分がいつ万引きをしようと考えはじめたのかよくわからない人がほとんどです。自分の気持ち(意識)についてのメタ認知が無いという言い方もできるかもしれません。だけど、自分の行為(①対象物を定めて、②周囲を気にかけて見つからないように緊張して、③商品を手に取ってバッグに入れて、④外に出たところを職員から呼び止められる)は記憶しているのです。但し、④の段階でふと我に返り、自分が万引きという窃盗を犯していることを強く自覚するというパターンが本当に多いです。①から③については、記憶はしているけれど、①から③の時点ではあまり「自分の行為が意識に上っていない」という表現が近いようです。意識下で脳が勝手に行動をしているような、そんな感じです。

「自分は万引きをしていない。誰か他人が自分を罠にはめようとして自分がやったことにして商品を自分のバッグに入れたのだ。」という言い訳が少なくないのですが、そのように感じていることは理由が無いわけではないようです。

殺人なども同じ場合が多いのではないでしょうか。①殺害対象の人間を定める、②人の死ぬような危険な行為を行動決定する、③人の死ぬような危険な行為を実行する、④相手が苦しんだり、死んだりして自分がしたことに気が付くという流れで、①から③については、やはり無意識下で脳が勝手にやっていたという感じのことが多いようです。攻撃意志が強固ではない場合は、相手の被害を見て攻撃の意思が無くなり、蘇生活動をしたり、救急車を読んだり、あるいは危険から脱出させたりする行動をすることが実際は多いです。(控訴審の弁護をしていて気が付くことは、弁護士が「中止未遂」の主張を案外忘れていることです。)

一方的な殺人ではなく、相打ちのような場合、自分の行動(上記①から③)が記憶から欠落していることもありました。実際に自分がやったことを「覚えていない」ということは裁判上不利になりますし、そのことを十分伝えましたが「覚えていない」と言い続けていましたので、やはり覚えていないのでしょう。但し記憶に残らなかった時間はほんの1秒程度のことだと思います。

思い立ってから即時に実行できる犯罪類型では、このような「脳が勝手にやった」犯罪という一群がありそうです。

不可解な交通事故、業務上横領、万引きその他、一般市民が犯してしまいがちな犯罪に多いかもしれません。

このような犯罪は、厳密にいうと自由意思に基づいて行われるわけではないし、自由意思によって行為前に抑止することは実際にはなかなか難しいことです。しかし、「厳密に言えば自由意思の制御が不可能だった」と弁護をしても、無罪にはなりません。無罪有罪の判断基準は純理論的なものではなく、国家政策で決まるもので、国家意思の考慮要素としては刑罰の威嚇による犯罪抑止と、被害者や一般人から見て悪いことをしたら処罰されるべきだという「応報」と言われる観念も考慮されて決まるものだからです。

但し、純粋に予防の観点からすれば、この種の犯罪は、刑罰の威嚇はあまり効果が無く、予防の観点からはむしろ刑罰よりもその人たちの生活環境を改善することの方が有効だとは思っています。

2 二次の情動と犯罪 多くの人はなぜ犯罪をしないか

ところで、「どうして犯罪を実行したのか」ということを考えるにあたっては、「どうして多数の人は犯罪を実行しないのか」ということこそを考えるべきだと思います。犯罪を実行しないシステムというものがあり、この犯罪をしないためのシステムがうまく作動しないから犯罪を実行してしまうという考え方をしてみようと思います。

1)多くの幼児は罪を犯さない

例えばスーパーマーケットで、自分の好きなキャラクターがデザインされたお菓子があって、どうしても食べたいと思っても、多くの幼児は親の目を盗んで勝手にとって食べません。これはどうしてでしょう。

色々な説明方法があると思うのですが、私の説明方法は以下のとおりです。子どもは、そのような自分の家の外の物は、「親から与えられるものだ」という認識を強く持っているのではないでしょうか。自分は外から物を調達する立場ではないという認識があるということです。だから、欲しくても自分でこっそり取らないで、顔を真っ赤にして床に寝転がって、親に対してねだるわけです。

まあ、親が子どもが勝手にとらないように目を光らせているということはあるかもしれません。

2)社会の一員から脱落したくない 「二次の情動」

犯罪を実行するときに、それをすることによる様々な不利益、①自由を拘束される、②自分に対する社会(報道された範囲、及び、自分のこれまでの付き合いのある人間関係)の評価が低下する、③損害賠償を請求されるなど、を「考えないで」実行するというのが犯罪を実行する場合の多数派のようです。そうだとすると、犯罪を実行しない場合も、そこまで「考えた上で」犯罪を実行しないというわけではなさそうです。

例えば、<店の前を歩いていたら自分の欲しい服が売られていた。手に入れたいけれど、お金が無い>という場合、いちいち「これを盗んだら犯罪による不利益が生じるから盗まない」ということを考えてはいないでしょう。ただ、「お金が無いからあきらめる」ことが通常だと思います。

「盗まない」という意識による選択をして決定をしているのではなく、「『盗む』という選択肢がそもそも意識に出現していない」と考えることが私たちの感覚にもあっているのではないでしょうか。

ではなぜ選択肢が出てこないのでしょう。もちろん、法律で禁止されているからとか、不道徳な行為であるとか、お店の人に迷惑をかけるからとかいろいろ思い浮かびますが、そのような「意識による価値評価」をしているわけではなさそうです。

「無意識のうちに脳が勝手に処理している」と考えることが自然なのではないでしょうか。つまり、①欲しい、②お金が無い、③盗めばすぐに手に入るというアイデアは、意識はしないけれど脳の中で駆け巡っているのだと思います。しかし、④それは社会的に自分を不利にするからだめだという「本能的な打消し」が起きているということが私の仮説です。これらは無意識に処理されているので、意識には上ってきません。

人間は群れを作る動物です。言葉もない時代から群れを作っています。言葉が無ければ自分達の意思を外から拘束する「ルール」が存在するということは無理な話です。本能的に、社会的評価を落とす行為が何かを知っており、それを無意識下で思いついたら、本能的に(脳が勝手に)その行為を抑制するシステムが人間の脳に組み込まれているという説明の仕方を提案するわけです。このシステムを「二次の情動」と私は呼ぶことにします。

「二次の情動が健全に働いている場合、人間は犯罪行動を起こすことは無い」のではないかという仮説がここでの結論です。

ちなみに一次の情動とは、身体生命の危険を脳がキャッチした場合に、危険を避けて身体生命の安全を図る無意識のシステムです。動物全般に備わっているものです。野生動物が炎を見たら怖くて近づかないとか、何かが飛んで来たら危ないと思って腰をかがめるとかそういう自然に行動している原理です。

3 二次の情動が働くなる要因

それでは二次の情動が働くなり、犯罪を選択して行動決定してしまう理由はどこにあるのでしょう。

1)側部抑制
 
二次の情動が働かなくなる一つのパターンは、「二次の情動は一度に一つのことにしか働かない」という場合です。生理学の用語を用いて「二次の情動の『側部抑制』」と言うことにします。

二次の情動は、自分を取り巻く人間関係の中に自分の立場を維持しようとするシステムです。人間の心が生まれた今からおよそ200万年前(狩猟採取時代)の人間関係は、生まれてから死ぬまで一つの群れ、同じメンバーの少人数の群れしかありません。一つの人間関係の立場だけを考えればそれで万事解決する環境だったので、二次の情動も一つの関係に関して発動しさえすれば、他の関係では発動しないという仕組みで良かったのです。ところが、現代社会は複数の群れに人間は所属しています。すぐに思いつくだけでも、家族、学校、職場、地域、国等々、人によってはもっと様々な団体に所属しているわけです。

だから、職場での人間関係で情動が高まって葛藤が強ければ、そのことで二次の情動がフルに使われてしまい、家庭との関係での二次の情動が働きにくくなるということが起きていそうなのです。

継続的人間関係(例えば家庭や職場とか)での二次の情動が強すぎて、お店(店員と客である自分)という人間関係が希薄な場面では二次の情動が十分に機能しない状態になっているということがありそうです。一つの人間関係において二次の情動が目いっぱい使われていると二次の情動によって本来無意識に選択肢から落とされるべき万引き行為は、落とされないで選択肢が残ってしまい、さらに制御もできずつい万引きをしてしまうという流れがありそうです。弁護人として本人たちから話を聞くと、この流れがしっくりくる説明のようです。

私は万引きという犯罪類型に興味を持ち、意識的に弁護をしています。その中で感じたことがあります。万引きをした人は、ストレスを強く感じている場合が多く、その最も多い類型が「孤立」でした。高齢者の万引きでは、少なくない割合で一人暮らしが多いようです。次に多いのは不条理な扱いを受けていると感じることです。「なぜ自分だけが不運なのだろう。」と考えることと犯罪が強く関係しているようにいつも感じます。

貧困が原因になることもあるのですが、どちらかというと、貧困による生物的機関というよりも、貧困の社会的なみじめさ、疎外感という心理に対する影響が強く作用するように感じています。

2)一次の情動優位

二次の情動相互間のバッティング(複数の人間関係で自分に対する否定評価があっても、一つの人間関係だけが意識に上るということ)を述べましたが、一次の情動によって、二次の情動が働かなくなるということもあるようです。つまり襲われたので身の危険を感じてやり返すというような場面です。

このような場面では、正当防衛や緊急避難という違法性を無くす制度があるのですが、危険を招いた者に対する逆襲については要件を緩和して罪を問わないことを徹底するべきだと思います。この考えを法律化したのが盗犯防止法(盗犯等防止に関する法律)です。

また飢えをしのぐための窃盗というものがあるのですが、これは無罪にはなりません。ただ、一次の情動が勝るために二次の情動が機能不全になった例としては参考になると思います。

3 ストレス以外の情動の機能不全を招く疾患

よく知られているのですが、ある種の病気というか体調の変化が犯罪の理由として説明されることがあります。病気などによって不安や焦燥感が高まってしまい、二次の情動が機能不全になってしまって、犯罪行動という選択肢を排除できないでいる状態です。自分の何らかの(病的、生理的、その他の)変化によって、「特定の人間関係における自分の役割が果たせなくなった」という意識が強くなり、二次の情動を圧迫しているという印象を受けることがあります。

もしそうであれば、職を失うとか、大けがをしてこれまでとは同じ様に仕事ができなくなり収入が不安定になった場合も、やはり二次の情動が高まってしまい、不合理な選択肢を脳が勝手に排除するということができなくなってしまう可能性があるということになると思います。

こういう場合があれば、家族など周囲は本人を安心させ、本人に対して自分たちという絶対に見捨てない仲間がいるというメッセージを伝えて、安心さることに努めることが必要なのかもしれません。

4 別考慮が必要な職業的犯罪と犯意の持続 犯罪環境

積み残していたのは職業的な犯罪、特に常習犯罪と犯意を生じてから周到に準備をして犯罪に至るように犯意が持続している犯罪です。

1)二次の情動による抵抗を打ち破る一回目の犯罪と二回目の犯罪との違い
 
二次の情動がよりよく働くのは一度目の犯罪の時です。逆に言うと一度犯罪を実行してしまうと、繰り返してしまうことが少なくありません。具体的経験は、その犯罪の選択肢を想起しやすくなるようです。万引き、侵入窃盗、すり等の窃盗罪、業務上横領事案、あるいは放火や偽計業務妨害罪等がすぐに思いつきます。

一度その犯罪を実行してしまうと、変な表現ですが体がその行為を覚えています。そうすると、無意識で例えば万引きをしようという選択肢が浮かびやすくなってしまうし、それを実行に移してしまいやすくなるという説明がリアルだと思います。犯罪行動の選択と言っても、抽象的な選択ではなく、どこそこの(今その店にいるならこの場所で)、具体的な商品(今その店にいるならこの商品の子の手前に配置されている商品)を、具体的に手でつかんでバッグに入れるという具体的な選択肢が出現しなくてはなりません。もしこの具体的な選択肢が出現してしまっているならば、無意識下で万引きは実行できてしまいます。

1回目の犯罪では、二次の情動が機能不全になっているとはいえ、ある程度力が残存していますから、選択肢が具体化するにはそれなりの抵抗があったはずです。ところが二回目の犯罪では、二次の情動がある程度残っていたとしても、一度二次の情動を打ち破って犯罪を行ったことによって、二次の情動の力が十分働かなくなり、犯罪の選択肢が出現しやすくなり、かつ、消えにくくなっているという説明が可能なのではないでしょうか。

2回目の犯罪は1回目よりも無意識の抵抗が小さくなるという言い方をすることがあります。だから、1回やって悪いことだと分かったからもう二度としないだろうと安易に考えて合理的な対策を立てないことは間違いです。1回目だからこそ二回目の内容にきっちり対策を立てることが必要です。有効な予防策を立てる必要性が高いし、予防策の効果が上がる確率は高くなると思います。

2)犯罪環境という考え方

様々な事情で働いて収入を得ることができず、当人たちの間では「生きていくために仕方がなく」万引きなどの窃盗をしている人たちがいます。あるいは、犯罪組織に身を置いてしまい、言われるがままに犯罪を繰り返す人たちもいます。

犯罪をしたその時点だけを見れば、この人たちは冷静に、熟慮をして、準備をして、計画を立て犯罪を実行するわけです。これは二次の情動とは関係ないのでしょうか。この種の犯罪は、全体の犯罪から見れば少数です。しかしこの一群の説明ができなければ、理論は完成しないようにも思えます。

この人たちも、「二次の情動の機能不全」が起きていると説明することは可能だと思います。最初に二次の情動を打ち破ってしまって、犯罪を実行してしまった後、さらに犯罪を重ねていくと、もはや二次の情動は働くなる傾向にあるのだろうと思います。即ち、もはや守るべき自分、関係を維持すべき自分の人間関係が消滅したという感覚です。大変恐ろしいことですが実際にあるように感じます。「もういいや」という感覚です。

特に、夫婦ぐるみで、あるいは家族ぐるみで、あるいは仲間を形成して仲間ぐるみで、そのような二次の情動が消滅してしまうと、犯罪自体を後ろめたいものと思っていないような感覚で計画を立てて行動しているような印象を受けることがあります。この場合は、家族ごと社会から孤立している場合だという表現がぴったりときます。

また、犯罪集団に身を置いてしまうと、そちらの人間関係が最優先になってしまい、そちらの人間関係の中で自分の立場を維持するために、群れの外の人間を容赦なく攻撃する類型の犯罪を実行するようです。少年事件では典型的な事件類型です。仲間の一人が別のグループの人間からひどい目にあった、それではみんなで復讐しようというのが典型的なパターンです。自分たちの仲間を守ることが自分を守ることに直結しているかのような行動をしてしまいます。

窃盗常習者の事件を弁護したことがあるのですが、100件くらい住宅に入って金品を盗んで何か月か生活していたという事案でした。最初のうちは、冷蔵庫の食料を盗み食い(まさに)していたのですが、だんだんと預金を心掛けるようになってゆき、生活の安定を目指すようになったというわけがわからない行動パターンになっていました。この人は、当初濡れ衣を着せられて職場から非難を受けて仕事をやめさせられて、家族も失って生きる気力がなくなり、家に引きこもっていました。さすがに体が動かなくなってきたという極限状態に近い状態で、捕まってもいいという投げやりな気持ちで盗みに入ったらうまくいってしまい、繰り返していくうちにうまくいかなかったことに備えて貯金をするまでになってしまったようです。

肝心なことは最初の二次の情動が働かなくなった理由として、それまで自分が大事にしていた人間関係を、次々に失い、およそ人間関係全般、社会の中での自分の立場というものがどうでもよくなってしまったというところに本当の原因を求めるべき事案だったのだと思います。

私は、このように犯罪の選択肢を排除できなくなるという二次の情動が働かなくなるその人の環境を「犯罪環境」と言っています。どんな犯罪者でも生まれつきの犯罪者はめったにいません。この犯罪環境が必ずあります。この犯罪環境から抜け出すためにどうしたらよいかを本人と一緒に考えることこそ弁護人としての重要な役割だと考えています。

5 犯罪予防の有効な策

1)犯罪後の再犯の予防
ⅰ)刑罰について

犯罪を予防することだけを考えるなら、必ずしも処罰をすることは必須ではないように思います。但し、処罰があるということで、様々な道徳などのルールの中で強いルールなのだという意識づけには有効かもしれません。

しかし、本来人はまっとうに、穏やかに暮らしていれば犯罪を選択しません。また、犯罪を選択して実行するのは、実際は無意識の状態ですし、二次の情動が機能不全に陥っている事情がある場合です。「刑罰があるから犯罪をやめよう」と考える時間ないしきっかけが無いことが多いです。刑罰を重くすれば犯罪が総数として減少するということは無いというのが実感でもあります。受ける刑罰の重さまで考えていないから犯罪を行うわけです。

どちらかと言えば刑罰は、悪いことをすれば処罰されるということを知らしめて、応報感情を満足させたり、社会の安心を作っているという役割の方が大きいのかもしれません。それも国家という秩序を維持するために必要なことだと思います。

ⅱ)叱責より理由の探求

例えば万引きなどは窃盗ですから犯罪です。このことを知らないから万引きをする人はこれでの弁護士人生で扱った事件では一人もいませんでした。家族も万引きは悪いことだから一時の気の迷いだからもう二度としないだろうということ、万引きをしたことに対する、叱責、非難、嫌味などで終わりにすることがしばしばみられます。

しかし、一時の気の迷いは、これまでお話ししてきた通り再現してしまいやすいのです。やってはいけないことを知っていてやっているので、やってはいけないということを繰り返してもあまり意味はありません。

叱責をするのではなく、二次の情動が機能しなかった理由を突き止めて、それに応じた対応をするということが必要であるということになるわけです。

ⅲ)二次の情動の回復

 ひとたび二次の情動が機能不全になり、警察沙汰になり、広く報道をされてしまうと、社会的存在でいることをあきらめてしまう場合が少なくありません。社会的評価が下がったことは仕方がありませんが、二次の情動を回復させる必要はむしろ高まっています。二次の情動を高める工夫についてお話しします。

① 将来に対する希望
執行猶予になるとか刑期を終えるなどして社会復帰をした後の、生活の喜びというものを提示することによって将来に対して明るい気持ちになることが最終目標だと思います。「ここで逮捕されていろいろなことを考えられたので、逮捕されなかったよりもよりよい人生を歩めるかもしれない」という希望をもてることができれば、犯罪環境からも抜け出すことができます。

この目標は信頼関係の構築など、前提事項が多いし、自分自身で目標を持つことが必要なので、弁護人がただ提案すればよいというものではありません。

② 二次の情動の後付けの具体化

本能的に発動する二次の情動は、なかなか言葉では説明しづらいことがあります。「本来ならばここでこうすればよかった」と後付けではありますが、一応の正解パターンを考えることで、これから先の人生における二次の情動を発揮しやすくなるはずです。

例えば、被害者の心理的被害や困った事態になったことを具体的にイメージでき、話しができるようになること。これは現実に起きたことではなく、おきそうなことをシミュレーションできればよいのです。そうして、次に選択肢が来るときにすぐにそれを打ち消す意識が生まれることが期待できるようになります。

その犯罪がなぜ処罰されるのかということをなるべく具体的に思い描くことが有効だと思います。

③ 犯罪環境の自覚
 自分がなぜ考えなしに犯罪に及んだのか、「どうして止めることができなかったのか」ということを考えてもらいます。その人が犯罪環境にいたわけですから、自分にとっての犯罪環境とはどういうことだったのかということに気が付いてもらうことが有効です。その上で環境を変えること、例えば実家に戻ることで、二次の情動を妨げることができるようになることもあります。ここも抽象的ではなく、具体的に止めることができなかった要因を考えてもらうことが必要です。

④ 将来の生活の構築
犯罪環境など二次の情動が機能不全に陥らないためには、やはり今後の生活のどこに気を付けて生活するかということが必要です。具体的に実行できなくては意味がありません。だから③の考察の中で気持ちが緩んでいたとか気持ちが弱かった、流されていたという言葉にとどまっていたのでは将来設計はできません。③の考察が具体的であればあるほど、将来の生活設計は簡単に構築することができるでしょう。

2) 犯罪の前後を問わない予防
ⅰ)孤立の解消

ここで言う「孤立」とは、その人がこの世の中で、すべての人間関係で一人きりになることではありません。ある一つの人間関係で孤立するだけで、その人はこの世の中で孤立しているという意識を持ってしまうようです。二次の情動は一つの群れだけで一生を終えていた時代(狩猟採取時代)に進化によって獲得していたものですから、複数の群れで生きている現代社会においても、一つの人間関係での孤立を過大に受け止めてしまうことは十分な理由があるわけです。

家庭では円満な人間関係であったとしても、職場でひどい目にあっていると、家族の気が付かない間に孤立感を深めてしまっているかもしれません。

弁護の過程では、本格的に再犯を防止するために、その人の様々な人間関係を調べる必要があります。場合によっては生い立ちにさかのぼっての調査も有効です。これはそれほど難しいことではなく、本人は、無意識にその関係の不具合にこだわりつづけているので、自分の口から話してもらいさえすればわかることが多いです。ただ、興味を持って調べられるかどうか、そのことに気が付くかどうかにかかっています。

孤立の解消が最大の犯罪予防になると考えています。逆に言うと、普通の人がひどい孤立をしてしまうと、思わぬ犯罪を選択してしまう危険があるのだと思います。その人がどうしてよいかわからない状況に追い詰めることは、犯罪以上に否定的に評価するべき事柄だと思います。ある人に何かを改善してもらいたいときであったとしても、その人を追い詰めるようなやり方はしてはならないということです。もしその人が家族や職場の仲間だとすれば、この仲間からは外さない、否定はしないという意思を明示して改善を提案し、一緒に考えていくことが正解なのだと思います。

過剰すぎる正義は他者を追い込み孤立されることがしばしばみられます。また過剰すぎる責任感は自らを追い込み孤立させることがしばしばみられます。

ⅱ)貧困の解消
かつてのように、貧困であるから生きるために盗むという事態は少ないのではないでしょうか。絶対的貧困ではなく相対的貧困はむしろ拡大しているかもしれません。

貧困自体が、かつてよりも低く社会的に評価されてしまい、貧困自体を犯罪視するかのような意識を感じることもあります。これでは、犯罪をしたことが無くても、貧困に陥ったことによって自分が社会の一員として認められていないという意識を持ってしまう傾向が生まれやすくなります。

二次の情動が機能しなくなっているケースでは、「精神的に不安定になって働くことができず収入が無くなった場合」、「犯罪歴があるため職に就けないで収入が無い場合」、あるいは「薬物依存のため生活が破綻して貧困に陥っている場合」等のケースを担当しました。先ほどの、不条理な解雇によって精神的ダメージを受けて再就職活動ができなくなるケースもありました。

貧困それ自体が犯罪を誘発するというよりも、貧困に陥ったことで社会の一員として扱われていないという疎外感が二次の情動を圧迫して犯罪の無意識の選択を行わしめているようです。

自然な感情から「自己責任」という考え方が生まれることは仕方がないことかもしれません。必死になって、あるいはプライドを捨てて収入を得ている人から見れば、「薬物なんてやめて働け」、「万引きする度胸があるなら就職して働け」という気持ちになることももっともです。

ただ、その人たちも、貧困を選んで貧困に陥ったわけではなく、抵抗する方法が無く犯罪環境にはまってしまうということが実際です。理解はしたくないとしても、犯罪予防の観点からは、貧困による弊害を社会で防止していくという発想が求められるのではないでしょうか。

犯罪が多発して自分の身を守らなければならないということこそが、犯罪環境になっているということもあると思います。

罪が行われ、被害者が出た場合に起きる応報感情と、被害者を出さない予防政策は両立するものです。両立するということは別個に考えなければならないということを意味します。児童虐待などで、この応報感情に支配されて、強硬な、処罰的な対応ばかりが構築されて、結局有効な予防策が構築できず、児童虐待を防げないということであっては意味が無いのです。私は、被害を予防することを最優先にして政策を考えるべきだと思います。

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行動決定の原理 1 総論 人間は考えて行動しているわけではないこと 意識の生まれた時期と原因、意識とは何か [進化心理学、生理学、対人関係学]



第1 人間はできるだけ考えないようにする動物であり、考えて意思決定しているわけではないことを仕事柄感じていること
第2 情動(一次)による行動決定
第3 二次の情動
第4 意識の始まり
第5 情動の側部抑制

このシリーズ考察の最終目的は、人間の行動決定原理をある程度明らかにして、自殺、犯罪、離婚をはじめとする社会病理の行動を予防する効果的な方法を考えることです。

第1 人間はできるだけ考えないようにする動物であり、考えて意思決定しているわけではないことを仕事柄感じていること

私の仕事としては、自死の原因を後追いで調査し検討すること、犯罪の起きた原因を考えて再び犯罪を行わないためにはどうしたらよいかをその人と一緒に考えること、そして離婚に至る原因を考えて離婚を予防して、あるいは家族をそれぞれに適した形で再生させて、子どもたちが両親のもとで成長することを可能とすることが中心になっています。

私の仕事は、人の行動決定を見つめて考えていることだと言えるような気がします。

結論めいたことを先に言うと、人間は、そのような重大な行為を実行するにあたって、「それほど分析的に熟慮をして行動決定するのではなく、様々なことを考えないで一つのことに支配されて行動決定を行って行動する」ということ、そして行動をした後で自分の行動に気が付くということが多いのではないかという感想を抱いたのです。約30年の弁護士の仕事の中で、自死問題については未遂の人からの事情聴取や自死の現場の状況から、犯罪については刑事弁護を担当する被疑者被告人からの事情聴取や捜査資料、あるいはこれから自首をする人たちからの事情聴取、離婚については両当事者から事情を聴いたうえでの結論です。

例えば犯罪どうして犯罪を行ってしまうのでしょう。犯罪をすると広く報道されてしまい、自分のしたことを知られてしまったり、損害賠償を請求されたりする危険があります。そういう不利益があるのにどうしてその犯罪を実行したのかについて本人から話を聞くと、「そこまで考えていなかった」ということが多いです。また「気が付いたら罪を犯していた」という回答も実に多いのです。自死未遂者の人たちからお話を聞くと、この場合も当然考えての行動だろうと第三者が感じることを「考える余裕が無かった」ということが多かったです。離婚や別居についても、離婚後のお金の問題や子どものことをはじめとして熟慮するべきことが考えられていないことも少なくありませんし、離婚を回避しての修復の方法などについても考えていないようです。

様々な心理学実験によって、「人間は、熟慮をして分析的に考えて行動決定をしているのではなく、その時々の外界の刺激によって、自分が気が付かないうちに行動決定をしている」という知見が示されています。

いつも近くにいる人が仲間だと思ってしまう「単純接触効果」、質問の表現によって回答を誘導されてしまう「フレーミング効果」をはじめとして、ダニエル・カーネマンらが一群のヒューリスティック思考をまとめています。十分に考えないで即時に結論を出してしまい、かつ他人を信じてしまうというのが人間のようです。

それにもかかわらず私たちは、人間何か行動をする時は、①十分考察した上で判断して、判断資料に基づいて②自由意思で行動決定を行って、③行動を開始していると考えています。そうではないことが多い、私たちの常識は実は科学的ではないという科学の結果から考察が始まっています。これまでの考察が、上記①,②、③の人間像を前提にして考えられているので、原因論や対策論が間違っているのではないか、その前提を否定して新たな行動決定原理を作ってこそ、正しい分析が行われ、効果的な対策が構築できるかもしれないということです。

第2 情動(一次)による行動決定

ではどのような過程を経て行動をするかということについて、「情動」という概念と、「情動」の中でも「一次の情動」と「二次の情動」というものに突き動かされて行動決定しているということをお話しします。

情動は「エモーション」の訳語です。「エモい」という言葉の語源ですね。ほぼ「感情」と同じ意味ですが、感情については無感情があるけれど、情動については無情動が無いことが違いだなどという説明もなされることがあります。

情動は、それによって行動をする心の動きというイメージになると思います。アントニオ・ダマシオという脳科学者は、情動には今まで知られていたもののほかに、二次の情動が存在するということを明らかにして(「デカルトの誤り」)います。二次の情動について理解するためにも、先ず一次の情動についてお話しします。

一次の情動による行動決定は、私たちも理解しやすいと思います。
危険が迫ってきたことを示す情報を脳がキャッチして、怖いと思って、逃げるという場合、怖いということが情動の一つであることがわかります。歩いていたらスズメバチが飛んでいるのを見て怖いからそちらの方向に歩くのをやめるとか、何かの物体が飛んできて自分に近づいてくるのを見て腰をかがめてよけるとかということが典型です。

危険が迫ってきたことを脳がキャッチして、怖いとは思わないけれど不快だと思った場合は、怒りを感じて、攻撃を行います。怒りが情動の一つとなります。ゴキブリが出てきたので、殺虫剤をかけたり潰したりして攻撃するということですね。
逃げるか戦うかということが最も基本的な情動による行為です。

その他にも、森を歩いていて甘い果物を見つけて取って食べるというのも喜びの情動とでもいうのでしょうか。そういう報酬系での行動を起こさせる情動もあるわけです。

情動に基づく行動は、意識が介在する余地はありません。反射が典型的ですが。反射以外の情動行為もあるわけです。野生の熊が遠くに見えたので、反対方向に逃げるということも情動に基づく行為でよいと思います。本当はこの場合も、意識的に逃げ道を選択したのではなく、実際は反射的な行動みたいなものかもしれません。ただ、ここでは、情動が高まりすぎると意識は介在しにくくなり、情動が鎮まると意識が介在しやすくなると言っておこうと思います。

この一次の情動による行動は、人間が生きていく上で必須な行動決定様式です。スズメバチが近くにいて分析的な熟慮をしているうちに刺されてしまわないように、即時に決断をすることが有益であることはお分かりだと思います。知識が無くては生き残れないというシステムよりも、本能的に怖いと考えて逃げるという行動パターンが自動的に出てくる方が身体生命の安全にとっては、効果的なわけです。

特にこのような情動による行動の場合は、行動決定を行う前に①脳が行動を起こしており、脳によって既に逃げるという行動が開始されて②そのあとに逃げようと自覚して、③逃げるというパターンになるようです。意識は、あくまでも「①自分が危険を意識して、②逃げる意思決定をして、③逃げる意識決定に基づいて逃げる行動を開始した」というもののようです。脳が勝手に逃げ出したということは通常自覚できないということです。
脳の行動開始から自覚までのタイム差は0.4秒くらいというのが、リベットという人たちの実験結果であり、その後の実験でも検証されていることです。

個人的にそれで合点が行った出来事がありました。長い直線道路を自分で自動車を運転していたのですが、前を走っていた車両が急に停止してしまったのです。どうやら右折をすることを直前で思いついたようです。これからブレーキを踏んだところで止まって衝突を回避することは到底間に合わないので、私は、自分では衝突してしまうだろうと思っていました。しかし、自分が考えるより先に、思い切りハンドルを左に切っていて衝突どころか接触も避けることができました。自分でハンドルを切るという意思決定をしたという意識があまりありませんでした。自分ができる以上にハンドルを回したので、しばらく肩がとても痛かったです。私は、亡くなった父親や義父が私の腕をもってハンドルを切ってくれたのだと考えて感謝することにしました。しかし、リベットの実験を踏まえると、様々な要素を目で見て脳がキャッチして、最も合理的行動を選択してその通り実行したという無意識の行為、脳が勝手にした行為だと言われれば合理的な説明がつくことに初めて気が付きました。感謝はし続けますが。

このように熟慮をしないで情動に基づいて無意識に行動することは、現代社会においても生きていくために必要なシステムだと実感した次第です。

第3 二次の情動

二次の情動について、アントニオ・ダマシオは「デカルトの誤り」の中で、鉄道敷設の際の事故で頭蓋骨に鉄パイプを貫通させてしまったけれど生きていた男性の分析から、鉄パイプで損傷した脳の部分(前頭前野腹内側部)は、二次の情動を起こさせる脳の部分であるということを解明しました。

脳の部分的欠損によって、周囲と協調して温厚に生活することができなくなり、節度を保てなくなったり、利益にばかり目を向けて損をする確率を度外視してしまう傾向になったりという不具合が生じたと結論付けました。これは二次の情動が機能不全になったために起きた変化だというのです。

私は「二次の情動」とは、結局人間が群れを作るための情動なのだと考えています。人間は言葉を使う前から群れを作っていたわけですが、どうやって群れを作ることができたのかというと、この二次の情動があったからということになるのだと思います。厳密にいうと二次の情動があった個体群だけが生き残ることができて、生き残った人間という種の共通特徴になったということです。言葉を変えれば、突然変異が結局遺伝子に組み込まれたという結論になるのだと思います。

群れを作る動物はたくさんいます。水族館でみるイワシの大群の群れは光を浴びてキラキラと輝きとても美しいものです。この群れはイワシが「群れの内側で泳ぎたい」という本能があるために形成されているようです。何らかの群れを作る目的意識があるわけではなく、本能的な問題だそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうです。だから群れで逃げると先頭を競って早く逃げることができるようです。

人間にもこのように結果として群れを作るための本能があるわけです。つまり、
・ 群れから離れて孤立することに重大な危険の意識(不安)を感じる
・ 但し、群れにいても、群れから仲間として認められていない兆候を感じて不安になる。例えば低評価、攻撃を受けることの容認、排除の意思表示を受けること、自分に対する不合理な扱いを仲間が容認すること
・ 群れの中で尊重されると安心する
・ 自分が尊重されるべき存在だと思うと気持ちが良い。例えば群れの役に立つ行為をする。群れの仲間を助ける。群れの敵を駆逐する。
・ その結果不安が起これば原因除去のため自分の行動を修正するし、尊重されるべき自分が納得できる理由がなく否定評価されれば絶望するということが起きるようです。

これらの不安と不安に基づく行動修正は、一次の情動の発現パターンと一緒です。つまり、蜂に刺されないように蜂から遠ざかるように、自分が他者から嫌われないように自分の利益のために他者に損害を与えることをしない等という本能的行動だということになります。

これらのパターンは人間だけでなく、群れを作る動物においてある程度共通している可能性があります。但し、行動を完全に遺伝子でプログラミングされているような動物では、そもそも二次の情動を起こすような行動(群れから自分の評価が下がる危険のある行為)は行わないようにプログラミングされているのかもしれません。人間は個体の自由度を上げる代わりに、不安という心を作り、群れにとどまらせようとして群れを形成したと考えています。

人間が群れを作るようになったのは、他の群れを作る動物よりもだいぶ遅かったということになるでしょう。元々長い間個体として、群れを作らないで生活していたのに、ある時期から突然変異で二次の情動が活発となった個体群が増加して、群れを作るようになっていったということかもしれません。人類がゴリラの共通祖先から分かれても1千万年は経っていないようです。そのため、群れにいればそれでよいというわけにはゆかず。個体として生きたいという気持ちがどこかに色濃く残っているのかもしれません。

人間が群れを作るために他の動物と大きく異なることは、他者(仲間)に対する共感力、共鳴力が強いということです。「ミラーニューロン」という仲間のマネをしたいという、マネをすることを上手にさせる神経系が、仲間の感情を的確に把握して、仲間の言動、態度から不安を感じさせたり、効果的な修正行動を思い浮かばせたりしているようです。

また、人間の心が生まれた200万年前の群れの環境(狩猟採取時代)が、二次の情動を起こし、共鳴共感を活発にすることでメリットだけがあり、デメリットが無かったことが支えになっていると思います。進化人類学の知見では、当時(狩猟採取時代)は、人間は生まれてから死ぬまで一つの群れで過ごしており、その人数は平均すると150人くらいだったと言われています。他者の個体識別ができる人数が脳の白質(頭蓋骨の大きさと形)から割り出されるそうです。

つまり、自分以外の人間は、全員生まれながらの付き合いであり、一人一人にそれなりの個性があったとしても、相互に知り尽くしているわけです。ミラーニューロンも強かったことがさらに理由となり、他者の情動は、自分の情動としてとらえ、他者が困っていたら助けていたことでしょう。仲間意識は極限まで強く、極端に言えば自分と他人の区別がつかないほどだったと想像できます。野獣に襲われればみんなで反撃したでしょう。誰かに損をさせて自分だけ得をしようとそもそも思わなかったし、そういう行動をしてしまうと仲間から攻撃されたことでしょう。群れに対する依存度も高く、群れから排除されることは死に直結することはそれほど考えなくても理解できていたと思います。まさに運命共同体であり、それが可能な人数だったということです。

二次の情動も情動ですから一次の情動と同じように、十分熟慮しないで行動に移せるようにプログラムされていたということになります。

第4 意識の始まり

150人の単一の群れで生活していた時(「狩猟採取時代」と言われます。)は、情動によるプログラミングされた行動だけで十分生存することができたと思います。何か行動を迷うとか、熟慮が必要な判断を迫られるということはなかったからです。仲間は、自分にメリットをもたらすだけの存在だということに疑う必要もなかったと思います。仲間を信じて、後は情動に任せて生きて行けばよかったと思います。

狩りをする時には、自然とリーダーが生まれ、その人の言いなりに行動をすればそれでよかったし、そうしなければいけなかったので、個々人はリーダーに迎合すればよく、リーダーの指示を自分の頭で検証する必要もなかったわけです。

それでも他の動物よりも比較的遅く群れを作り始めた人間は、時折、小さな疑問や葛藤を生じさせていたかもしれません。

「あれ、こっちから回り込んで追い詰めようと思ったのに、そっちから行けと言われちゃった。」とか、「自分の行動が一番貢献度が高いはずなのに、自分の子どもへの分け前が少ないのではないか。」とか、一瞬の疑問、わだかまりというものは存在していたのではないかと想像しています。でもそれは、二次の情動によって、明確な意識とか疑問になる前に消失していたのだと思います。しかし、遺伝子に残された個体単位で生活していた時の記憶という方があったことはとても大切なことです。いくら突然変異と言っても、何もないところから突然意識が生まれたというのは無理があると思います。

この萌芽を元に意識が生まれて、発展していったのだと思います。
今から1,2万年前に、人類が農業を始めて、比較的狭い場所で150人を大きく超える人間と関りを持つようになり、同時に複数の群れが共存するようになったことをきっかけに意識が生まれたのだと思います。

意識に先行して、あるいは相互に影響しあって、言葉が生まれたのだと思います。それまで共感力、共鳴力、仲間意識と慣行とリーダーの権威によってすべて事足りていたのですが、複数の仲間が共存する場面では一人のリーダーの権威では解決しづらい問題が生じたはずです。また、ルールを定めて争いを無くして共存するためには、ある程度の期間、ルールが持続する必要があります。共通理解するために言葉(数字を含む)が必要になり、生まれたのだと考えています。
そして言葉を使って意識が生まれてきた、あるいは大きくなってきたのではないでしょうか。つまり、Aというグループにいる自分が、Bというグループとの利害調整のために行動をしなければならないという事案がたくさんできてきたはずです。その際に、双方が自分の利益だけを主張したのでは話がまとまらず、どちらかが死滅するまで戦いになってしまい、結局は人類は滅びてしまったはずです。人類は滅びませんでした。その理由は、どこかで調整をして、あるいは一方が他方を支配するという形で共存をしていくことができたからだったはずです。そうだとすると、共存の落としどころを探すためには、自分の利益、自分の情動だけでなく、双方にとって都合の良い、あるいはぎりぎり納得のできる結論を出さなければなりません。これは情動では解決しない問題です。

このために自分の情動(心の状態)を自覚するようになったり、情動を抑制する方法としての意識が発達していったのだと思います。せいぜい今から1,2万年前のことですし、そもそも人間の脳(頭蓋骨の形と大きさ)は200万年くらい前から進化をしていないそうです。狩猟採取時代の小さな意識(自分と群れとが対立しているという小さな違和感を形成する力)を発展させていく形でしか意識は形成されなかったのだと思います。また、人間がそのように情動から独立することには慣れていない、脳が進化していないということから、つい熟慮が必要な場面でも、情動によって思考を省略して行動をしてしまうことが未だに続いているのだと思います。

まだ、意識が生まれて高々2万年くらいしか経っていないので、進化が追いついておらず、その後の環境の変化(かかわりあう人間の数の膨大化と所属する群れの複数化)と脳の間にミスマッチが起きてしまっているのだと思います。

第5 情動の側部抑制

痛いと感じることも情動の一つだと思います。痛いから体を動かさないというような行動パターンが生まれる契機になると思います。ただ、「この痛みは、あちこちが痛いはずでも、一番痛いところしか感じない」という問題があるようです。これを生理学的には「側部抑制」というそうです。

側部抑制については私は大いに思い当たります。
腰が痛いので湿布を塗ったところ、スース―することもあり痛みを感じなくなった途端、肩の痛みを自覚したので湿布薬を塗ったら今度は膝の痛みを感じるということを年齢を重ねた成果良く経験しているところです。

どうも意識に上るのは、一番大きな痛みだけのようです。どうやら一番重大な、一番強い情動だけなのではないでしょうか。

後に具体的に見ていくのですが、様々な社会病理の原因は、この側部抑制の減少が二次の情動にも働いてしまい、どこかの人間関係で悩んでいると、別の人間関係のことを考えて行動することができなくなってしまって行動を起こしてしまうという理屈が良くあてはまるように感じているところです。

今日お話ししたことを道具として、犯罪、自殺、離婚の順番で行動決定の分析と予防策を考えていきます。

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行動決定の原理 序 社会病理の分析と予防策について短期シリーズのお知らせ [進化心理学、生理学、対人関係学]



次回から短期シリーズで、人間の行動決定に関するお話をさせていただきたいと考えています。いずれも長文だし、それほど興味のある人もいないかもしれないので、完全に私の自己満足ですね。

まさにその通りで、死ぬまでに(ボケる前に)、これまでの到達点を整理しておきたいという強い願望があってのシリーズです。

1回目 総論
2回目 犯罪の行動決定
3回目 自殺の行動決定
4回目 離婚の行動決定

を準備しています。5回目に補論があるかもしれませんし、ないかもしれません。

それぞれの社会病理がなぜ起きるのかを考えて、有効な予防策を提案するというパターンになっています。

これまで、社会病理の予防については、色々考えられてきたわけです。ここに掲げた犯罪、自死、離婚の件数については、確かに統計的には平成14,5年をピークに右肩下がりに減少してはいます。しかし、意識的な政策によって減少させたということではないので、またいつ上昇するかわからないということが本当のところです。

なぜ有効な政策を立てられなかったかということ、人間の行動について、十分に理解をしていなかったからだと思うのです。その最大のポイントは、犯罪についても、自死についても、離婚についても、「人間が自由意思をもってそれぞれの行動を自分が行うという意思決定をしていた」という点が間違いだというところにあります。

おそらく、「そのどこが間違いなのか」と怪しむ人も多いことでしょう。ズバリ、「人間が意識的に行動決定をしている」という点が誤りです。でも「自分は、意識していろいろなことを決定して行動している。」と思う人がほとんどで、これは理由のあることです。

ただ、これまでの認知心理学や脳科学の結論としては、「人間が意思決定をする0.4秒前に脳が行動を開始している。そのあとに意識は行動決定をする。」としています。

結論を羅列すると、脳は意識をしている以上に、様々な情報を処理しているということがまず最初です。自分たちは自覚していませんが、実際は意識をしている以上に視覚情報、嗅覚情報、皮膚感覚情報、味覚情報。聴覚情報等を脳はキャッチしています。そして、脳が勝手に、「この情報はどうでもいいから未処理。」とか、「この情報は生理的に対応しよう(例えば体内に取り込んでしまったばい菌処理)」、「この情報は、意識的に上らせよう」ということで、勝手に処理しているということです。確かに食べ物を消化については、消化しやすい生理的な変化(血流量の調整や体温調整)などを無意識に行っていますし、無意識に心臓を動かしています。

例えば「盲視」という現象があり、脳の中の視覚野という部分が損傷すると、物が見えていても意識としては見えていないのです。「『見えていない』という意識」なのに「見えている」というのは、見えていない物を質問をすることによって、あてずっぽう以上に正しい回答をすることができるという実験結果によって示されていると言われています。

次の結論としては、人間は自分が意識して行動したのではなくても、自分は意識して行動したのだというストーリーを後付けで作る、つまり作話をする動物だそうです。これも実験によって証明されています。脳の右半球と左半球の連絡が切断されてしまった人に、それぞれの脳で絵の描いたカードを選ばせると、それぞれの脳が関連のないカードを選ぶのですが、それを言語化できる脳の方に両方見せると、初めから両方の脳で見えていたように関連があって意図的に選んだのだという説明をするそうです。わかりやすく説明することができないので興味がある方は、ベンジャミンリベットの「マインドタイム」、トール・ノーレットランダージュの「ユーザーイリュージョン」をお読みください。脳が意識よりも0.4秒先行するという実験についても紹介されています。

意思決定抜きで勝手に脳が行動決定していても、私たちは、「自分が意思決定した」と考えるので、それほど支障が出てくるわけではないようです。私が体験した脳が勝手に行動決定して命拾いした経験を次回の第1 総論で書いています。その体験がこの例に当てはまるのか自信はありませんが、おそらく意思決定の遅れを自覚してしまった例で間違いないのではないかと思います。私の作話は、幽霊話でしたが、自分でも半信半疑だったのが良かったのかもしれません。

どうも西洋人は、このように自分が意思決定しないで行動するということに不安を感じて仕方が無いようです。日本人は、案外どうってことなく受け入れるのではないでしょうか。私のように、自分はご先祖様に守られており、自分が拙い判断をしないようにご先祖様とか守護霊によって守られているなんてことはよく聞く話です。

それでも、どこかしら不安が残るということも理解できます。人間は意識や人格が無くて、自分というものは実は存在せず、自然法則によって勝手に動いているだけだと思うと、心配になったことが私自身随分前にあったような気がします。その後に中途半端な考察の下で理系の学者の方と雑談した時も、「おそらく環境が人間の行動に強く影響している」という話をした時に、「人間の自己責任を否定するのか」という文脈で非難され、話がかみ合わなかった経験もありました。

しかし、人間には個性というものがありますし、客観的に同様な刺激に対して同じ反応をするとは限りません。大事に守ろうとする存在としての「自分」もあるわけですし、意識できるわけです。自分が他者から攻撃されると嫌な気持ちになるのもその一例だと思います。

ただ、個性というのは、持って生まれた生理学的諸条件の影響があるでしょうし、その後の自分以外との人間関係によって育まれるという側面が強くあると思います。行動決定の際には、そのような遠因として背景的事情が反映されており、「個性」というものの実態を形成していると思います。

遠因としての背景的事情だけでなく、まさにその時に近接した時期にあった出来事も、その行動決定に影響があるわけです。近因としての背景事情ということになりましょうか。また、遠因と近因の間にも中間的背景事情が無数にあるわけです。

さらにはその置かれた状況に対する、感じ方(事実の見え方)事態も、見えた自分に対する働きかけについての評価も背景事情によって異なって見えるでしょう。言われても気にしないで聞き流す人、真面目に受け止めて思い悩む人がいるわけです。同じ人でも、その時々の体調によっても、睡眠障害のあるなしをはじめて、違いによって決定的な違いが生まれてしまうものだと思います。

「自分の行動には理由があるが、大きい目で見れば偶然の産物だ」と思ったところで、何かが変わるわけではなく、今の感情が持続していることは間違いないので、深刻に考える必要はないと今では思っているところです。

むしろ今の自分は偶然の産物だと認識した方が、良いこともたくさんあるように思われます。自分が、今絶好調であったら、「それは偶然の産物であり、自分の力だけでこのような結果が生まれたわけではない。」と正しく把握して、謙虚に、誰かに感謝して喜ぶということができると思います。また、自分が窮地にあったとしても、「自分という存在に問題があるわけではなく、偶然の産物だ。だから、自分を否定するよりも、ここから上昇するはずだ。」と思った方が良いことがたくさんあるような気がするのです。その上昇のための道具、あるいは、破綻をしないで自分を維持する道具をシリーズでは考えていくわけです。

逆に言うと、自分が帰属している人間関係は、意識をしないと、その時の体調による考え方(受け止め方)の変化、周囲の人間の影響、あるいは社会情勢等様々な外部的要因によって壊れてしまう可能性があるということだと思います。自分というものがどの程度確かなものかについて自信を持つことはかえって危険であるかもしれません。誰でも、自死をする可能性があり、犯罪をする可能性があり、離婚等大切な人との別離を選択してしまう可能性があることは間違いないことだと思います。

ただ、知識としてどういうメカニズムで、人間はそれらの行為をしてしまうのかということを予め知ってさえいれば(情報を取得し保持するという近因的背景事情の取得)、あとで困るような行動決定はしないで済む確率が飛躍的に高まるはずです。

ただ、それは役に立つ道具であることが必要です。人間の行動決定がどのようなメカニズムで行われるか、そのことに焦点を当てて、その行動決定を選択肢に上らせないということが一番のキモだと思います。但し、本来的な主張は、「結局世界全体が他者に思いやりをもって助け合おう。」という壮大なもの、宗教的な主張にならざるを得ません。そのためにどうしたらよいかということを考えるには、時間も文字スペースも十分ではありません。その前段階、急場しのぎの対処療法、今できることを中心に論じるしかありませんでした。

一番ダメなのは、他人の社会病理の行動については、自分とは違う世界の話だと思いたくて、「それらの社会病理の行動をその人自身が意思決定をしたのだ、その人は特殊な人間であり自分は違う」という、排外主義的な考え方だと思います。これが現在の国家などの政策論も前提となっているのではないでしょうか。

対人関係学の出発点は、「生きること、生きようとすることに一番の価値を置く」ということですし、「社会に問題があったからと言って、社会のせいにしてあきらめずに、自分のできることを行い仲間と一緒に幸せになろう」ということにあります。社会病理の行動をした人を否定評価して安心するのではなく、社会のせいにして自分のできることを考えないのでもなく、何かできることを探していくということが大切だと思っています。

今回のシリーズは、意思決定に着目しないで、行動決定に着目して、分析と予防策の構築を全面的に改めてみたというのが、これから始まる短期シリーズなのです。業務時間外でコツコツと考えたことだし、なんせブログという媒体なので十分な分量ではないのですが、一応納得のゆくものができたと思っています。もしお読みいただく方がいたら、それだけで大感謝です。

いずれも長文になり申し訳ありません。

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テレビ局のJ事務所偏重問題の検証番組のあるべき視点のポイント [進化心理学、生理学、対人関係学]



テレビ朝日を除く各キー局がJ事務所(当時)問題の検証番組を制作しています。検証番組を作ったこと自体は評価されるべきだと思います。但し、批判も多く、2度目の検証番組を制作することをアナウンスしているキー局もあるようです。検証番組制作で何を検証すると良いのかということを考えてみました。

1 検証の目的をどこに置くか

先ず、検証番組制作の目的がどこにあるかということです。現実的な話、スポンサーが今後テレビ番組に巨大な費用を投下し続けてもらうということが、ぶっちゃけ目標のはずです。但し、そのためには、視聴者である国民がある程度納得して、安心してテレビの責任問題を風化させるようにしなくてはなりません。

そのためには、J事務所問題は二つの問題点があったということをはっきりさせることです。一つは児童に対する膨大な性加害問題です。もう一つが、J事務所(当時)の所属タレントの偏重問題です。もちろん二つは密接にかかわっているのですが。前者だけを強調してしまうと、自社の問題をすべてJ事務所創業者の問題としてしまい、自社に対する厳しい検証ができなくなり、結局はテレビ離れが加速し、スポンサーが巨額の費用を投下する媒体としての価値が無くなってしまうという問題が生まれます。

だから1番最初に行わなければならないのは、J事務所(当時)のタレント偏重によってどのような弊害が生まれたのか生まれないのかということを検証するべきだと思うのです。問題が無いと言い切ってしまうことは、結局再び同じようなことが起きる可能性を大いに残すということになってしまうように思われます。

また、J事務所(当時)だったからダメだったのか、児童虐待が無ければ偏重は問題ないと自己評価するのか、大いに注目したいところです。

これは芸能番組、エンターテイメント番組だけの問題ではなく、人間関係によって特定の人たちだけを偏重するという姿勢は、特定の主義主張だけを偏重し、まっとうな意見さえも封殺するという危険を示唆することになってしまうと思います。

2 原因

偏重問題に対して否定評価をする場合に次に行うべきことは、ではそのように否定する出来事をどうして当時は(あるいは現在も)行っていたのかという原因を明らかにすることです。

この点は、社会心理学の理論から考察の対象の宝庫なのですが、なかなかそういった視点からの発言は私の目には映ってきません。

例えば、J事務所(当時)の特定の人とテレビ局側の担当者との密接な関係から次第に抜き差しならない関係になったということが言われています。ただ、そういう事実はあるとしても、どうしてテレビ局という組織でそれが可能だったのかということを検証するべきです。

1 単純接触効果
先ず検証しなければならないのは単純接触効果の観点からでしょう。つまり、特定の人間同士が、長い時間交流を持つことによって、その人と自分が仲間であるという意識を持ちやすくなってしまいます。そうして、仲間に対しては便宜を図ろうという意識になってしまうということです。

2 権威に対する迎合

次は特定の人物ないし事務所の権威化を通じて、権威に迎合するのが人間だということです。私は過去の記事でミルグラム実験は人間の服従性を示したというよりも、「人間は権威に自ら迎合していく動物だ」ということを示した実験だと述べています。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05
これは人間の心が生まれた200万年前の狩猟採集時代を考えれば理解は簡単です。当時は、言葉が無くても、群れで生活し、集団で狩りをしていたのですが、各自がてんでんばらばらに獲物を追って行っても狩は成功しません。組織的に追い詰めて、逃げ場を無くして捕獲するということをしなくてはなりません。誰かが権威者(リーダー)として、ある程度の陣形や追い詰め方を仕切って、各自がそれに無条件に従うことが理にかなっていたわけです。その時と現代では環境は全く違いますが、残念なことに脳はそれほど進化していないのです。

だから、人間関係の中に声が大きく、実績がある人がいれば、その人に権威性を認めて、その人の指示に無条件に従って、物を考えることを省略するという習性が人間にはあるわけです。単純接触効果も、物を分析的に考えず、近くにいつもいる人は仲間だ、利害一致する運命共同体だという意識をつい持ってしまう傾向がある可能性が高いのです。

3 思考時間が無い事情

また、この物を考えないで行動する最大のメリットは、結論を迅速に出せるということです。200万年前の急がなければならない問題は、けがをするとか死んでしまうとかいう問題ですから、思考を省略して行動決定をすることが必要でした。

それを考えると、偏重の実績を作っていく過程の中で、十分にものを考えないで結論を出さなければならない事情があった可能性も検証するべきでしょう。

また、仲間意識が作り上げられた背景として、本当に単純接触効果だけだったのか、それを超えて利害共同体を形成するような事情が無かったのか、検証するべきなのでしょう。

4 分析的思考の懈怠の事情

担当者同士の人間関係の形成があったとしても、テレビ局という組織で動く場合ですから、担当者の決定に対して事後的に批判的検証が行うことは可能であり、やるべきことのはずです。結果としてこれができなかったのではないでしょうか。テレビ局の中にも権威ができてしまい、権威が個人的判断で行ったことに他の人たちも迎合していったという過程が検証されるべきです。

最終的にどちらの結論になろうとしても、そのようなチェック体制が組織としては必要だっと思うのですが、この点を検証してほしいわけです。

5 原因論に基づいた制度設計

反省の最終的な着地点は、ではこれからどうするかというところにあります。単にJ事務所が無くなったからそれでよいのかということが問題なわけです。1番最初のJ事務所忖度問題は否定評価ではないというならそういう結論になるでしょう。そうではないのならば、J事務所問題を機に、体制の問題を検証していくことは、テレビが将来的存続するかという点にとって極めて重要であるはずです。あるいはテレビ局自体が新しいコンテンツに乗り換えることを検討しているのか、今後の検証番組で視聴者は見極める必要がありそうです。

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自殺の予兆なんてわからない。同居家族は自殺計画に気が付かないものであることの理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



前にも書きましたが、大事なことなので、何度でも言おうと思います。

これまで多くの自死の案件を担当しましたが、家族が自死の前触れに気が付くということはほとんどありません。離れて暮らしている事案だけでなく、同居の事案でも同じです。悩んでいるとか、苦しんでいるということは気が付いていても、まさか自殺をするとは思わないで自死が起きることが、私が担当した事案は圧倒的多数でした。

それにもかかわらず、「どうして気が付かなかったのか」ということを言い出す人たちがいて、同居の家族が、家族を失って悲しんでいるのに、無抵抗の状態で責められる苦しさを味わっています。特に結婚をしている人が自死をすると、亡くなった人の実親が同居していた妻や夫を責めるという痛ましい事例はまだまだ繰り返されているようです。

自死という、その直前までは普通に生活していたのに、次に気が付いた時には亡くなっているということは家族、親族にとっては衝撃的なことです。信じたくないし信じられないということはよくわかります。つい、誰かに原因を求めて怒りをぶつけてしまいたくなるのも、ある意味自然な感情なのかもしれません。

でも、だからこそ同居家族は自殺の予兆なんて気がつかないということについて、せめて頭では理解して、自然すぎる感情を表に出さないということが大切なのだと思います。

理由はいくつかあります。また、その人によって様々な事情の変化があるということはお断りしておきます。

1 うつ状態の人はうつを隠すということ

第1の理由は、これまでも述べてきたことですし、北海道大学名誉教授の山下格(いたる)先生も著書でお書きになっているので、理由の筆頭にあげます。うつにも重症、軽症と、その中間の中等症があるとのことですが、重症以外の「大多数のうつ病患者は、自分のうつを隠す」というのです。だから主治医でさえもうつ症状による刹那的な判断をすることに気が付かず、自死をしたり、退職をしたり、離婚をしたことを報告されて唖然とするようです。

実際私の依頼者複数名からも話を聞いていますが、自分の大切な家族の前では、自分がうつで苦しんでいるということを知られたくなくて、わざとふざけて見せて明るく振舞うのだそうです。一人暮らしをしているとむしろ楽なのですが、両親のところに行くと、全力で明るく振舞うので、精神的エネルギーが消耗してしまい、翌日は寝込んで起き上がれないという人が多かったです。

うつに気が付かないことは、患者さんがその人のことを大切に思っているということなのです。重症になってしまえば、エネルギーが残されていませんので、隠すこともできないということになるのでしょう。

家族は、思い悩んでいることに気がついるからこそ、何らかの明るい兆しを見せれば、安心したくなるのも自然な感情だと思います。ごまかしているのではないか、演技をしているのではないかと思うことはとてもできることではありません。

ちなみに、うつのこのような傾向は、本人が自ら孤立化していく結果も招くように思われます。その人にとって家族は、相談する対象とか助けてもらう対象ではなく、自分が助けたり、かばったりする対象だという認識が感じ取れます。自死者は、このように責任感が強すぎたり、まじめすぎたりする人が多いことは間違いありません。家族に迷惑をかけないという気持ちが自ら孤立化を深めて自死に向かってしまうということかもしれないと考えています。

2 自殺は、問題解決の兆しの際に起きやすい

これは厚生労働省などの説明にもあります。自死というのはうつのボトムでは起きないで、少し回復傾向になった状態で起きやすいと言われています。重症時は自死をする行動力もなくなるという説明もされることがあります。

実際これまでの事例でも、パワハラ職場から離脱する段取りができた際、まもなくパワハラ上司が職場からいなくなるなどの時、あるいは過酷な仕事がまさに終わる時等「ああ、もう大丈夫だ。」と周囲が安心しているときに自死が起きていたことが少なくありません。

3 長時間労働の過労自殺の場合は、同居の家族と満足に顔を合わせない

長時間労働をはじめとする過重労働による自死の場合は、家族が寝ているときに家を出て、家族が眠ってから帰宅するということが当たり前のように繰り返されています。休日も遅くまで眠っていて、起きてもボヤっとした表情にしかなりません。家族は疲れているとは気が付いていても、うつになっているとか、自死の危険があるなどということはとても分かりません。顔を合わす時間が無いため気が付きようがないのです。

4 自殺の行動決定は直前に行われる。

希死念慮が継続していて、自死のリスクが著しく高い状態が継続するということは珍しくありません。しかし、子細に検討すると、そのハイリスクの中でも自死の行動決定がなされておらず、実際に「この場所で、この時間に、このような方法で自死を決行するという行動決定」は、自死の直前であっただろうという事例が多くあります。それまでもうつ病などで苦しんでいるため、ずうっと思い詰めて自死決行の機会を伺っていて実行するという例も無いわけではないと思いますが、同居者の不意を突いて自死を決行したという行動パターンはむしろ多いです。

この自死の行動決定について、現在詳細な説明を準備しています。

問題解決だけでなくて、当日ないし翌日、あるいは直後に、楽しい予定が入っていたということもよくあります。「あのイベントを予定していたのだからその日に死ぬはずがない。」ということは言えないようです。

また、真面目な人が多いですから、毎日の薬はきちんと飲んでいる場合もあります。「自死をする人は、死のうとしているのだから、死ぬことと矛盾する行動はしないはずだ」ということは成り立たないようです。

さらに、飛び降りなどの確定的な自死行動が起きる場合も多いのですが、それでも、危険な行動をとっていながら、なお、死なないかもしれないというチャンスを残して危険行動に出ているかのような自死行動も少なくないようです。もしかすると、自死の意思決定をする前に行動してしまっているというケースもあるかもしれません。「自死の意思」というのは極めて複雑で多様性があるということが実際のようです。

自死の行動決定は、抱えている解決方法や死んだ後のこと等を熟慮して意思決定をしているわけではないようです。考えているのではなく「自分は死ななくてはならない」という信念にも似たような観念にとらわれて、自死以外の選択肢を持てなくなるようです。そしてそれは、不意にそういう気持ちが表れて気持ちが支配されることがあるそうです。

自殺予防に熱心な人たちは、予防は可能だ、自殺のサインを見逃すなと言うのですが、これが善意で言っていることは理解できます。しかし、そんな簡単なものではなさそうだということが多くの事案を担当した私の結論です。
自殺のサインを見逃さないという考え方の弊害は二つあります。一つは、自死が起きた以上、それはサインを見逃したのだという、家族などに対する批判、あるいは家族の自責の念を招くという効果が起きてしまうことです。前提が非科学的であることを説明してきたつもりです。
もう一つの弊害は、結局自殺の際なんてないことが多いし、通常の家族などはわからないのですから、自殺のサインに注意を傾けるということは、それが無ければ心配しないということ等、予防の役に立たない可能性があるということだと思います。



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夫婦再生の一番の障害は、「怒り『表現行動』」なのだと思う件 [家事]



どうしても、子どもを連れて黙って妻が家から出ると、だんだんと怒りがわいてきます。これは実際は、必要な感情の変化です。いつまでも解決しない自責の念を抱き続けていると、解決不能の問題を悩み続けることになりかねず、そのあとに対する重大な影響が生じるからです。重大な影響とは、うつ症状の蔓延化、生活破綻、自殺などです。こういう場合でも怒りに転じることで、自分を取り戻して、生きる活力がよみがえるという形はよく見る光景です。

怒りは生きる本能に根差しているということも一つの真理だと私は感じていますし、相手に対して反発できたことでうつ状態を解消した人たちも印象に残っています。

しかし、そのまま自分が怒っていることを自覚しないままで怒りに任せた行動を続けると、ご自分の目標と反対方向に強力に向かってしまうという矛盾もよく見ていることです。本当は、夫婦の再生、ひらったく言えばよりを戻すことが目標なのに、怒りの行動によって、ますます離れていくということもありふれた光景です。

家族再生を第一希望だと表明しているのに、監護者指定、子の引き渡し、仮処分を打診してくる人が最近増えています。インターネットの情報をもとに、裁判所によって正義が実現できると素朴に感じていらっしゃるようです。

しかし、裁判所は、めったなことで同居する母親から子どもを引き渡せと判断することはありません。母親による虐待、あるいは、結果としての虐待行為があり、子どもの将来に悪影響が出ることが必至の場合という特別な場合にだけ引き渡しが判断されると心が得た方が良いと思います。

子どもを父親や、親戚、学校、友人から引き離したことが虐待ではないかという主張はよく聞きますし、私もそう思います。しかし、裁判所はこれを母親による虐待だとは認めません。

「連れ去りは子どもに対する虐待だと主張して戦うべきだし、戦わなければ前進無し」という考え方ももちろんありうると思います。但し、夫婦再生には逆行するのです。夫婦再生ができなければ子どもは父親に会うことができません。自分は大切に思われていない人間だという意識を持ったまま大人になってしまう危険性を持ち続けて成長することになってしまいます。

どうしても、子の引き渡しを主張する場合は、相手方の虐待行為を主張しなければなりません。「裁判所は相手に落ち度(虐待行為)が無い限り現状維持の結論を出すと心がけましょう。」あるいは、「乳幼児期に一番長く接していた親を監護者とする傾向」もあります。

こう書くと「裁判所では正義は実現されないのか」と思われるでしょうが、私はその疑問を肯定するしかありません。むしろ、裁判所に何かやってもらうという考え方は捨てて、「自分で相手の心を変える」という考え方で、裁判所はあくまでも利用する「場」として考えるべきだと思います。

そもそも、(本当はDVと呼べる行為が無く、通常の夫婦の口論があるに過ぎない場合は特に)妻は、夫と生活することに安心できないから別居をして、離婚をしたいと考えているわけです。安心できないというのは、自分を否定評価されるということを常に恐れている意識から出発します。しかし、その原因は、必ずしも夫の行為にだけあるわけではなく、妻の体調や職場の人間関係に起因していることも多いということが実感です。
 
だから夫婦再生の基本戦略は、「自分に対して、妻が安心できる存在であることに気づいてもらう」(あるいは、今から自分を安心できる存在だと思ってもらう)というところにあるという戦略が、これまでの経験上正しいと確信しています。

それにも関わらず、「妻は児童虐待をしているので、子どもを手放して自分に渡すべきだ」という主張をし、調停や審判を申し立ててしまうと、「やっぱり夫は自分に対して否定評価をして、子どもからも引き離そうとしている」と妻はわが身の行動を振り返りもせずに、夫に対する警戒心や嫌悪感、恐怖感だけを募らせていくわけです。

「ほらやっぱり、夫は自分を攻撃する存在だ」と再認識して、離婚の意思が固まり、子どもに会わせないという気持ちもさらに高まっていくことは、少し考えればわかることです。しかし、この「少し考える」ということが、怒りの感情に支配されるとなかなかできないのです。

ただ、妻の側も、離婚手続きを遂行することに夢中で、自分の嫌悪感や恐怖感の出どころはあまり整理されていません。だから少しずつ工夫をして安心の記憶を植え付けていく余地があるわけです。ところが、裁判所での攻撃は書面で残りますから、妻はあやふやだった「自分の嫌悪感や恐怖感」はやっぱり正しかったという妙な確証を与えるだけになってしまいます。こちらの言動を悪く解釈して見せる「支援者」も常に妻の周囲にいます。夫の攻撃から妻と子どもを守るチームの一体感も強めてしまいます。

夫婦再生は、警察も裁判所も全く役に立ちません。自分で妻を安心させることが第一になります。では具体的にはどうするか。

・ 怒りを捨てることも簡単ではありません。夫婦再生の方針を持つことができる弁護士の話をとりあえず信じるという実務的な方法もあります。
・ それから、怒りを脇において冷静に考えるということに次第に慣れていく必要があります。もし、怒りを持たなかったらどう言う考えになり、どう行動することが通常化、もっと言えば相手が安心するのかということを考えて行動するということです。その際には相手の理不尽な夫に対する嫌悪、恐怖もそれなりに肯定した行動を考える必要があります。つまり、心を脇において行動を考えるということです。
・ そうすると安否の心配をすることが一番であることがわかります
・ 2番目は生活に不便が無いか、心細い気持ちになっていないか心配することが通常でしょう。
・ 3番目以降としては、子どもを連れ去ったことにより、こちらが逆上していないかという心配があるわけですから、気持ちは置いておいて「怒っていない」という情報を工夫して伝えることです。相手を安心させる方法があれば、警察でも裁判所でも何でも利用して伝えることを主とすることが肝心です。
大切なことは、「気持ち」ではなく、「相手に伝わるこちら側の情報」だと割り切って考えることがとても有効です。だから、悪いのは「怒りという感情をもつこと」ではなく、「怒っていると相手の思わせる表現行動」なのです。

そして急がないこと。

相手は「自分のペースで生活できていない」ことから不安を感じ、原因を夫にひとたびロックオンすると、夫が原因であるとして嫌悪感や恐怖感が沸き上がってくるようです。急がせることは、この夫原因説を裏書きするようです。地齋の例を見ると、家族再生のためには数か月以上かかることがむしろ当然だと思うべきです。これまでの再生例の教訓は相手に結論を急がせないことという共通項がありました。

結局、妻の安心感をめぐって、支援者と夫との間で綱引きをしているような感覚をいつも持ちます。妻に伝わる夫のメッセージが、自分の頭の中にある嫌悪感や恐怖感を抱かせる夫のイメージではないということに気が付くときに、綱引きの綱が強烈に夫側に傾くようです。しかし、勝負がつくまでにはためらいや確証の反芻のために時間がかかるという感じです。

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