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妻側からの家族再生の相談が急増 その心配な背景 [家事]



3月に入って、無料相談会や事務所へのこのブログを読んでの面談相談で、妻側が夫に対して家族再生を提案しているという事例が増えてきています。

本来の対人関係学とは、紛争予防にとどまるものではなく、家族などの人間関係を円滑にして、みんなが安心して生活をするための学問です。こういった家族再生の相談に対応するためのものですから、対人関係学を屈指してご一緒に考えていきます。とても楽しく頭を使えるわけです。

再生の相談の中では、
何が相手から安心感を奪っているかを探求し、
これまでの成功例を踏まえながら、
これまでの自分の言動をどのように修正するか、
お互いに尊重しあう関係にどのように誘導していくか
ということを考えていきます。

そして、再生が必要な度合い、つまり、逆にうまくいかない程度によって、法律相談で終わって当事者で解決するパターン、私が代理人になって調停や話し合いをするパターンとバリエーションがあります。

私のところにこのような相談が多く寄せられることは、私としてはありがたいことです。しかし、いろいろと心配なことが見え隠れしています。

<弁護士に相談に行くと 夫婦再生希望なのに離婚を勧められる>

これは、前々から、私のところにたどり着いた方がよく言っていることです。何人もの弁護士に相談に行くのですが、決まって最後は弁護士から離婚する場合の条件について話を詰めるように言われるというのです。

恐ろしい話だと思います。

食事をしにレストランに入ったのに、「うちはデザートしか作ることができませんので、ぜひパフェを注文してください。」と言っているようなものだと思います。

この人たちは、夫婦の再生については相談に乗るつもりが無いようです。
離婚の法的手続きについては勉強すれば誰でもわかりますが、再生については様々な事例と向き合い、様々考えなければ相談に乗ることができません。

相談者の相談したいことではなく、自分ができる方法で依頼を受けるということですから、無理を通していることになると私は思います。

そもそも再生のノウハウが無くて、離婚の調停や裁判を維持することが本当にできるのか、根本的な疑問もあります。

離婚というのは、数々のライフイベント調査によって、人間の人生にとって最上級の精神的ダメージを受けることだとされています。それを自分が再生のノウハウがないからと言って、依頼者の意思に反して離婚に誘導するということは、依頼者にとっても不誠実ですし、相手方という人権主体である人間に対しても冒涜のような気がしてなりません。

少なくとも
①離婚をしたい理由が、主として相手の言動に起因しているというよりも、本人の精神的な状態を反映していることではないこと
②具体的な破綻事由があり、その存在の裏付けられており、程度が明らかなこと
③回復の可能性が無いこと
という条件をクリアしてから離婚の選択をするべきだと思います。

特に、夫婦に子どもがいる場合は
④子ども利益を考慮しても離婚以外に選択肢が無いこと
⑤両親の離婚による子どもの不利益を軽減するべき行動を計画すること
があって離婚という選択が支持されるべきだと思うのです。

国民の皆さんは注意して弁護士に相談するべきです。
このような考えを持っている弁護士は少数派になってきているようです。少なくとも簡単にアクセスできるわけではなさそうです。

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面会交流手続きにおける、連れ去り母の精神的不安定を理由に、申立を取り下げるべきかについての一考察 [家事]



面会交流調停というのは、親同士が離婚の前後に関わらず別居した場合、子と別居している親と子どもを面会させるための家庭裁判所の手続きです。多くは母親が子どもを連れて別居するので、父親が母親を相手に申し立てるという形を取ります。私が担当したのは父親の方が幾分多いですが、母親が別居親として面会交流調停を申し立てる際の代理人になることも少なくありません。

父親が申立の場合、特に母親による子どもを連れての逃亡のような形の別居の場合、母親が精神的不安定になっている場合が少なくありません。面会に対して激しい抵抗を示すというより、子どもが父親と面会をすることに病的な反応をするという感じです。実際に母親の方が自ら様々な診断書を裁判所に提出して、自分が精神的不安定であることを主張します。

調停は、申立人と相手方が同じ部屋で顔を会わせることはめったにありません。交代で調停委員と話をするわけです。だから申立人の代理人も、調停中の相手方の様子はわかりません。それでも、調停委員や裁判官を通じて、様々な情報が入ってくることがあります。取り付く島が無く一方的に話し続ける方、30分間泣きっぱなしでなだめるだけで期日が終わったとか、言っていることがおよそ成り立たない荒唐無稽な話を真顔で行うとか、メンタル面に問題があるのではないかという事情がうかがわれる場合が少なくありません。

調停で話し合いがつかない場合は、面会交流の場合も審判になります。審判になれば裁判所は、最終的には、面会交流阻害事由が無いと判断した場合は、面会実施の審判をすることになります。

ただ、審判の効果ですが、強制力はないため、審判で面会交流を命じても面会交流が実施される保証にはなりません。それにもかかわらず、相手方に対しての心理的影響が大きいため、このまま審判を出しても良いか関係者一同が躊躇することがあります。

子どもを連れ去った妻に対して、憎悪感情しかない場合は、妻のメンタルが悪化しようと「知ったこっちゃない」と割り切ることができます。

しかし、家族再生を求めている場合で、妻が面会交流さえ応じないために、裁判所の決定を得る場合、常に葛藤が生じてしまいます。妻のメンタルが悪化したため、今や密室となっている母子の家の中で、子どもに対して悪い影響が生まれることも考えなければなりません。

相手方の心情の考慮を最優先してしまうと、調停や審判を取り下げるという選択肢が出てきます。

ケースバイケースなので一般化することはできません。しかし例えば、変な応援団が妻側についている場合、医師だったり、教員だったり、行政だったりが、一方的な妻側の情報だけで、夫婦間の対立をとらえた上で夫を全面的な悪と決めつけて面会交流阻止を主張する場合もあります。こういう人たちは、十分な考察が無く正義感という感情によって、子どもの利益も考えずに、つまり無責任に面会交流阻止を叫んでいるわけです。こういう場合、調停や審判申し立てを取り下げてしまうと、「やはり夫は極悪人であり、妻の保護のために、面会交流を阻止できた。」となり、子どもは現状からさらに父親から物理的にも心理的にも遠ざかってしまいます。「極悪人を親に持つ自分」という観念を植え付けられてしまうわけです。

そうして、後で、本来ならば父子のきずなが復活しても良い時期になっても、「自分は父親から取り下げという形で見捨てられた。」という気持ちを抱いたまま、父親との交流の機会が未来永劫失われ、わだかまりを抱えたまま一生を送ることも考えすぎかもしれませんが、考えるべきだと思うのです。

子どもは母親(同居親)の所有物ではありません。母親を通しての評価で父親を考えなくても良いはずです。自分が同居中に直接体験した人間として、母親とは別に関係を構築することはむしろ自然なのではないでしょうか。このように、子どもを一人の人間として見た場合は、夫婦間で葛藤があったとしても子どもが別居親から愛される権利を誰も奪うことはできないと思うのです。

面会交流審判が、実際の面会交流につながらないことも良くあります。第三者である裁判所から見れば、「出しても実現しないなら出さなくても良いのではないか」と思われるかもしれません。しかし、別居親の気持ちの問題だけでなく、面会交流を実施せよという裁判所の判断が下りた事実は、妻の一方的な言い分を信じている子どもにつながる人たちに考えるきっかけを与えるのではないでしょうか。中には、子どもの世話をしている機関であるにもかかわらず、妻の一方的な話をうのみにして、夫を子どもから遠ざけようとする人たちもいます。子どもがいざというときに、父親は救いの手を差し伸べることすらできない状態になっていることもあります。こういう人たちに、面会交流審判が出ていることはとても威力を持つことになると思うのです。もっとも使い方にもよるでしょう。

考えてみれば、面会交流の調停や審判は、子どもの監護の方法についてどうあるべきかということを定める手続きです。子どもの利益をやはり最優先するべき手続きであるという大前提は崩すべきではないと思うのです。

確かに母親は精神的不安定である。しかし、審判によってどの程度悪い影響が生じるかは、実際は予測することができないと思うのです。悪化するかもしれませんがしないかもしれません。悪化したとしても、それほど重大な結果となるのか、つまり程度の問題もわからないとしか言いようがありません。

もちろん、父親と会えないことで子どもの将来が暗いものになると決まったわけでもありません。しかし、実際に父親と会えず、一方的に母親の評価を通した父親像しか持てない場合、子どもに父親を拒否する行動傾向がみられることが多いことは確かです。母親の話を真に受けなくても、母親の意をくんだ行動をしようとすることはとても多いです。

実際に父親(別居親)と交流できないことによって、程度の差はあれ、子どもに対してマイナスの影響が生まれることも確かだと思われます。

親としては、例えば発がん性の疑いのある物質だとわかれば子どもに食べさせないようにしようと思うのではないでしょうか。こちらのパズルをすれば、成績が上がるというならば、やらせてみようと思うわけじゃないですか。少しでも良い方向に、お金がかかったとしても子どものためにしようと思うのではないでしょうか。

裁判所の審判を求める場合は、子どもの育て方に対して、両親が意見を別にする場合であり、裁判所が両親に変わって結論出すということになるはずです。そうだとしたら、子どもの利益を最優先して、子どもが健全な成長を遂げられない可能性を少しでも排除する方向で明確な結論を出すべきではないか。多少それで同居親の精神的問題が生じたとしても、そのことを子どもの健全な成長に優先させるべきではないと今のところ考えております。

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妻からのDV事案が増加している 3 なぜ夫はDVに対抗できないのか 相談窓口の設置は急務である [家事]



「男性は他者を支配したい生き物であるから、相手の支配を目的とするDVは男性の属性だ」とする考え方があるようです。腕力が強く、筋肉量が多い男性の方が暴力的な手段で相手を屈服させようとするとか、女性は人間関係の調和それ自体に価値を感じるため仲間の調和が第一になるが、男性は人間関係の外に目的を持つので仲間の調和以上の目的を持つため、仲間との関係が後景に追いやられるなどの考え方があるようです。

しかし、それは古い考え方です。前に述べたように、DVの内容には男女差はありません。人間が他者を攻撃する場合は、自分が強いから攻撃するというよりも、反撃により致命的な被害を受けないと感じた場合に、怒りという感情が生まれ攻撃という行動が起きるようです。つまり、攻撃を受け入れてしまうからDVが繰り返されると言ってよいと思います。

DVを受けている男性は、争うことを嫌う人が多いです。一般的に争いを好まないというわけではないにしても、妻と争うことができない人が多いです。「どうしてそんなこと言われて黙っているのだ?」と疑問が起きるほど、反論や反撃をしません。

どうして争うことができないかについては、いろいろな理由があるようで、この点を分析することにはあまり意味がないと感じています。むしろ、通常の男性であれば、タイミングが悪いと反撃ができなくなり、DVを受け続けることが誰にでもあるというように考えた方が良いと思います。

早い段階に適切な対応を取れば、場合によっては第三者や裁判所の力を借りたりして、激しいDVがおさまったり、何らかの損害が生じる前に解決することもありうる話です。

しかし、前回や前々回にもお話しした通り、DVを原因とする精神破綻や自死は、むしろ夫の方が多くみられるようです。その理由は、一つに相談機関が無いということ、なかなか知人に相談することができない事柄であるため、公的な相談機関は絶対に必要です。ただ、DVの本質を安易に男性の属性の支配欲だ等というドグマに陥っていたのでは相談にはならないでしょう。また、「男性なのだから妻のDVをやめさせろ」というこれまたDVの本質を理解せず、また女性は腕力で従わせろとでもいうような指導が役所の相談所でなされたということの報告も受けています。こういう人が女性のDV相談を受けているのですから、「子どもを連れて逃げろ」しか結論は出てこないわけです。

この配偶者暴力の防止に関する法律、いわゆるDV法は男女の区別がありませんが、実務的には男性は冷遇されています。鼻で笑われて帰るように促された例も聞いています。

行政が真面目に取り組んでいないことを端的に表しています。

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妻からのDV事案が増加している 2 夫の対処方法 [家事]



対応方法ですが、明らかな精神疾患や、精神影響を与える内科婦人科疾患の場合は、治療をして原因となる疾患の手当てをすることが第一とするべきだと思います。

問題は精神疾患とまでは言えない場合です。
一つは、先ほどお話ししたように、相手のDVを良く分析し、自分に対して理由なく攻撃しているのではなく、自分をつなぎ留めたいということが相手も気が付かない本当のところだという認識を持つということです。

これだけでもかなり受け止め方が変わってきます。

相手方は日常的に心理的圧迫を受けているうちに、
自分が悪いから相手方を怒らせているのではないかという自責の念を抱いたく場合や
とにかく自分は、「容赦ない攻撃をされるような人間」なのだと思わされて、絶望感に苦しめられるようになります。
そして、緊張状態が高まる中で、睡眠が十分とれないこととなり、その結果考える力がほとんどなくなり、考えることができなくなるために、つまみ食いのようにいろいろなことに不安を感じるようになり、優先関係を判断できなくなり、やらなくても良いこと逆効果になることを衝動的にやってしまうという現象がみられてきます。

このため、それ以外の理由を問題提起することによって、自分が悪いから攻撃されるのでも、自分が攻撃されて当たり前の人間でもないことに気が付くことができるようになることが多いです。

ここで、「相手のほうこそ『悪い』のだ」という観念を植え付けようとする支援者がいるのですが、それは自分は悪くなく、防ぎようのない攻撃を受け続けているということを述べているの等しく、「自分の苦しみは対応方法がないのだ」という絶望感を抱くようになり、終わらない精神的苦痛が始まる場合があるので、くれぐれも注意するべきです。

次の対応方法は、こちらから相手を先行して安心させることです。また、相手を不安にする言動をやめるということも大切です。これらのことは無意識に行っていることなので、点検が必要です。もしかすると、相手を何らかの理由で馬鹿にしている態度をとっているとか、相手を孤立させる態度をとっているのに、それに気が付かない場合があります。そうであれば「馬鹿にしていないよ」というよりも、感謝や尊敬の言葉を発する方が無難です。

また、相手に何かを任せる、お願いするということも、尊敬を伴って行うとうまくいくことがあります。おだてるということです。逆に、掃除や片付けができない相手に対して、眉間にしわを寄せて自分で片付け始めることは、相手からすると自分を否定評価しているということを意味しますので、要注意です。包丁をかざして「やめろ」と脅かされた人が複数人います。

それからレクリエーションも大事です。高いレストランなどでなくて構わないので、理由をつけて誘うことはするべきだと思います。

相手を安心させる戦略をするためには、相手を観察する視線は上からであるべきです。「自分が家庭をうまくまとめるのだ」という意識で行う必要があります。そうでないと、怖くて提案できないし、何か自分が卑屈になってこびへつらっているようで気がめいってしまいます。

相手を大切にしているというメッセージを言葉にする必要があります。葉が浮くようなセリフこそ大切です。そうでなければ伝わらないからです。感謝や尊敬の気持ちを言葉に出すとよいでしょう。そんな気持ちを持てというのではありません。言葉を発するということです。心なんてものは後からついてくるものだと心得ましょう。

それでもうまくいかないことも多いです。あまりにもうまくいかない場合は家庭裁判所に調停を申し立てるということも効果がある場合が確認されています。ギャンブル的な要素もあります。つまり、それでうまくいく場合もあるのですが、逆に離婚の話になっていく危険もあります。
最後の手段という覚悟は必要かもしれません。

大事なことは夫婦関係調整調停(円満)という調停を申し立てるということです。夫婦関係調整調停(離婚)になってしまうと、離婚調停になってしますからです。ただ、調停の事件名だけでなく、具体的にどういうことをどう改めてもらいたいか補充書面を出すべきです。その書面で、あくまでもこれからもずっと一緒にいたいためのアクションだということをアピールするわけです。

今後の人生を左右することですから、弁護士に書面にしてもらうことも選択肢に入れるべきだと思います。但し、離婚の事件の経験しかない弁護士もいるので、家族再生をキーワードにしている弁護士を探す努力は必要です。

調停を申し立てると、しばらくして家庭裁判所から申立書の副本が相手の元(同居している場合はその家)に送られてきます。相手がこの書類を見て、申立てがあったことを知ったことによって、態度を改めることがあるという実績があります。問題が解消されるのであれば調停を取り下げるという選択肢も生まれます。調停は何回でも申し立てることができます。

家庭裁判所でも、こちら側が行う努力の方向は、一言で言って、「相手を安心させること」です。あとは相手方の心情を聞きながらその事案に適した安心させる方法を構築していくことだと思います。第三者を交えて話し合いをすることによって、相手に物を考える場を提供するということになるわけです。

ただ、DVを受けている場合、妻からDVを受けているときも、解決の方向が見えず、単純に右肩上がりに解決していくということはありません。どうしても耐えることができずに、精神的に破綻したケースも少なくありません。無理はしないことです。むしろ、離婚という選択肢を常に持ち続けることの方が長持ちするようです。もちろん離婚とか別れるとか終わりだという言葉を相手に使ってはなりません。

その場合精神的に破綻することを回避することを最大の目標にするということを忘れないでください。大変残念な話ですが、家庭裁判所の手続きでは、子どもとの関係では女性が有利になっています。乳幼児の頃のかかわりで、現在では男性と女性とそれほど関り度合いに差がないご家庭が増えています。また、母親が精神的に不安定のために父親のかかわりが多いケースもあります。それにもかかわらず、親権者は圧倒的に母親になる場合が多いです。

このため、夫からすると、離婚してしまうと子どもたちに会えなくなるという危機感を持ち、無理をして離婚を回避しようとするケースがあります。あるいは、責任感から自分が家族を手直そうという気持ちを強く持ってしまったという事情もあったかもしれません。

このケースでは、夫は自死しました。
その後夫のご両親が相談に来て知った事案でした。

子どもたちにとって、一時的に父親と別離することは、確かにもしかすると取り返しのつかない成長上の不利益を被る危険はあります。しかし、父親の命が無くなってしまうと、それこそ本当に取り返しのつかない事態になってしまいます。子どもたちのためにも生き続けるということを最優先にしなくてはなりません。

この事例は、母親が子どもに過酷にあたる行為もあり、それが夫としては一番辛かったようです。

精神的に破綻するかどうかは自分ではわかりません。どこまでならば大丈夫かということも確かなことは誰に言えません。もし、妻や夫の行為によってそれが辛い、毎日暗い気持ちになっている、解決不能感を持っているならば、あるいはそのことを考えて眠ることができないとか、自分の行為の記憶が亡くなっているということがあるのであれば、他者に相談してほしいと思います。

他者から見て、精神科で診察を受けるべきだとか、入院が必要だということは、自分で判断するよりわかります。
あなたは離婚という選択肢を持っていますか。常にそれを点検してください。メンタルが破綻した場合は離婚という選択肢が無くなり、解決不能の問題を解決しようと資するようになります。相談するべき時期だと思います。

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妻からのDV事案が増加している 1 どのようなDVがどうやって起きるのか [家事]



ここ数年間、離婚訴訟や相談事例で、夫が妻からDVを受けている事案を切れ目なく担当している状態です。

DVの内容は、
暴力(殴る、蹴るが中心)
間接暴力、(ドアを大きな音を立てて勢いよく閉めるとかコップを投げて壊すとか))
多いのは暴言(恐喝をする時のような相手の人格を否定しきるような暴言)
子ども(赤ん坊)に対する危害予告
不貞
家庭内での無視、会話の拒否
夫の自由になるお金がない状態にする
夫の親戚、友人や取引相手との交際などの妨害
GPSの発信の強要
こんな感じで、その事例によってさまざまです。男女に違いは無いようです。

令和の夫は、妻からこのような仕打ちをされても、怒らないし、是正を要求することもあまりしない。他者ともあまり相談しない(できない)。ストレスの発散もできず、ただ耐えている状態です。

「男なんだから厳しく対応すれば良いじゃないか。」という反応はまさに昭和の反応であり、女性の生活を大切にしない時代遅れの発想です。

以前にもこのような相談が無かったわけではないのです。ただ、これまでのケースは、奥さんは明らかに精神疾患を抱えており、医療機関の受診を継続していたり、入院することになったりという感じでした。

最近の妻のDVにも何らかのメンタル上の問題を匂わせることもあるのですが、精神病を発症しているわけではなく、少なくとも仕事をきちんと行っていて、日常的な社会生活を破綻なく送っている人がほとんどです。

これまでのDVの理解は、DV行為者は配偶者を支配することを目的として、身体的虐待や精神的虐待をして相手を無力化させるという意識的な活動だと理解されていました。

しかし、ここで分析がとどまっていては穏便な解決を図ることができません。どうして「支配」しようとするのか、なぜそのような方法を身に付けたかなどについて考察をしていません。従来の理論は、男女の機微についてあまりにも無知であり、机の上で現象面だけをなぞるだけの説明だと感じてなりません。

ここで止まる原因は、DV行為者が、特別な人間であり、生まれながらの人格を持っているということで切り捨てられているということです。DV行為も普通の人間の感情の延長線にあり、ある要因があって相手を支配しようと見える行為を止めることができない状態なのだと考えるべきです。私も程度の差こそあれ同様の問題行動を起こしている可能性があるのだと考えるべきだと思います。

特に日本では、アメリカの学者の分析対象となる極端なDV事案というのはごく少数です。DV行為者は生まれつきであり治らないという発想は日本の実務においては取るべきではないドグマだと私は思います。

結論を言うと、支配という現象の心理は、関係性の継続の欲求だということです。極端に孤立に対する不安を抱くことに原因があるということです。つまり、相手が自分から離れることがとても怖いために、何とか相手をつなぎとめようという感情が高まり、相手を拘束しようとしたり、相手に忠誠を誓わせようとしたりして不安を解消しようとしているという現象が日本におけるDVと呼ばれる現象だと思います。

これはDVを行うのが男性であろうと女性であろうと共通です。

もちろんDVを受ける方は、そのような事情は分かりません。悪意の嫌がらせをされているという意識しか持てません。

ここで、おそらく多くの方々は、「相手をつなぎ留めたいならば、そのような感情に任せた行動をとらないで、相手を安心させる行動をとるのではないか。そういう行動をとらないことは相手をつなぎとめる気持ちが無いのではないか。」と思われるかもしれません。

しかし、人間の行動なんて、合理的な行動だけを行っているわけではありません。意識的な行動決定すら怪しいということが認知心理学の定説です。ましてや日常生活の節々に突如高まる自己の感情を、いちいち冷静に客観的に考察して最も良い方法は何か、そのための最も効率よく行動を起こそう等と考えているひとはほとんどいないようなのです。「そこまで考えていない」で行動を先行させてしまうというのが人間の行動であり、家庭の中の行動は特にそうなのではないでしょうか。

関係をつなぎとめておきたい感情に基づく行動ということは、DVの内容やきっかけから矛盾なく説明ができそうです。

自分以外の人間とかかわりを持つことによって、それが相手の実家であろうと友人であろうと、或いはプライベートの時間の取引先や同僚であろうと、その人が自分から離れて行ってしまうのではないかという不安が起きてしまい、不安の爆発のまま行動をしてしまっているようです。

自分の知らないところに移動することも、「何か悪いことが起こるのではないか」という漠然とした不安が沸き上がってしまうので、GPSで行動を把握しようとしていると考えられます。

さらに、自分に対して反論する等、自分を否定されることによって、孤立の不安が生まれてしまうので、自分を否定することは徹底的に粉砕しようとしてしまうのでしょう。暴力などの衝動が生まれる瞬間です。

このような病的な発想は、DV行為者のその時々の人間関係の状態やこれまでの人生の経験、そして精神状態に原因があるようです。そこで言う精神状態とは、様々な理由で
孤立不安が高まっている
何事も悲観的な見通しを持ってしまう
何かがあれば被害的に受け止めてしまう。
精神的に余裕がなく、感情的、衝動的な行動をしてしまう
子どもに対する影響など周りが見えない。
という感じです。

様々な理由の中で女性のDVで実務的に一番多くみられる不安の要因は産後うつです。
内分泌疾患、婦人科疾患が次に続きます。

これらのために症状として「安心できない心の状態」に苦しんでいらっしゃることが多いです。

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原作改変問題に見るこの国の公平公正や自由競争の現状 テレビ局が自分自身のためにも検証するべき内容とは [弁護士会 民主主義 人権]



テレビや映画の脚本が、原作と大きく異なることについて、改変それ自体の良しあしの評価とは少し異なった角度から考えてゆきます。

なぜ、原作を改変するのかというその理由について、業界内部からの問題提起が続々と上がってきています。それによるとどうやら、脚本家が原作を「自分の好みで好き勝手に原作を書き換えている」というわけではなさそうなのです。

私がなるほどと思った理由は、テレビドラマや映画の制作初期の段階で、先ずキャスティングが先に決まるようなのです。この時間帯のこういう期間、こういう年代をターゲットにするドラマを作ると、それに対して、それぞれの俳優の「実力」、所属の「実力」等に応じて、おおよその役柄を配点して、少なくとも出演の合意をとっておき、出演者のスケジュールを確保するということのようです。

なかには旧名称を持つ事務所と音楽番組のように、所属タレントを使うために企画を持ち込んでいくということもあったのかもしれません。

ところが、原作にそのような売り込み俳優の出番が無いとか、所属事務所が配役の原作の人物を所属俳優が演じることに難色を示すことが出てくるわけです。

そこでニーズが生まれるのが、脚本家による原作の改変だというのです。原作には登場しなかった登場人物を脚本による原作の改変で登場させるとか、はなはだしい場合には登場人物が男性なのに、女優を使うために原作を改変するということも、これらのニーズに応じる手っ取り早い方法だというのです。

件の脚本家の方は、このような制作側のニーズに合わせて器用に原作を改変させる「才能」があったということだったのでしょう。

「じゃあ、原作を使わないで、オリジナルの脚本を作ればよいではないか。」ということも考えられると思うのですが、それも理由があって、オリジナルの脚本を書けないというよりも、原作があった方が話題になる分視聴率が見込めるし、テレビ化すれば出版の側も売り上げが上がるという思惑もあるようなのです。

私はこの一連の理由には説得力があると思いました。この原作改変システムであれば、特定俳優の割り当てという制作の思惑は実現するわけです。

私は、原作の改変や原作では出ない登場人物をつくるとか、逆に割愛させるということについては、原作者の承諾があれば、それは理由のあることだと思っています。絵やアニメのようなメディアでできても、実写映像では表現しえないこともあるし、逆に実写映像だから表現できることもあると思います。また、一人の頭の中で作った進行に不自然な点があり、それが実写化されると矛盾として受け止められ、視聴者を混乱させるということもありうるからです。

このように、制作側の主観で構わないのですが、エンターテイメント性を高めるとか、作品の質を高めるとかというならば、ある程度原作から変わることもありうるだろうという風に考えています。こう考えるのも私が松本清張氏の影響を受けているということもあると思います。

しかし、観る側の満足度を高めるとか、作品の質を高めるとかそういうことではなくて、制作側やスポンサー、俳優の所属事務所の都合で原作を改変して行ったら、それは視聴者や作品の質という方向は二の次になっているということだから、観る側からすれば、つまらない方向への改変ということにしかならないでしょう。単にその「ごり押し俳優」のファンだけが喜ぶ、程度の低い番組になることは予想が付くことだと思います。一部のファンだけが見る番組は視聴率が低下していくことはあまりにも当然だと思います。

思えば、旧名称を持つ事務所の問題も、性加害問題だけでなく、そのようなテレビ局の事務所による私物化というところにも本質があったはずです。つまり、所属事務所とテレビ局の関係が旧名称を持つ事務所だけの問題ではなかったということです。考えれば当たり前です。

昨年から今年にかけてインターネットで話題になっている様々な問題は、このようにテレビ局の特定の人間との結びつきに関しての問題であると整理できそうです。
「特定のスタッフやキャストとの結びつきがどうして起きたのか」ということについて厳しく検証をしていくことが必要であると言えそうです。

単なる人間的結びつき、情実等の問題なのか
そこに利益供与があったのか
スポンサーの意向なのか
それが論点になるはずです。社会的非難をかわすことを目的とした検証ではなく、自社の生産性を高めるための検証でもあるのだから、真剣に取り組まなければならないことだと思うのです。

テレビ局が私企業であっても、報道部門もあるわけです。同じように報道の目的以上の私的な結びつき、個人的な利益、スポンサーの圧力等によって、報道するべき事柄を報道せず、報道内容を都合よく改変している可能性が否定できないということになり、貴重な電波をこのテレビ局に割り当てて本当に良いのかという公的事情が存在することになります。

あれはドラマ制作部門だけの問題だということは通らないと思います。音楽制作部門でも同様の問題があったのだから、報道部門だけは別だという理屈は通らないからです。少なくとも、そのように部門独自の問題だという構造を解き明かした検証は無いと思います。

もしかすると、テレビの衰退は、この日本という国の生産性の衰退を象徴しているのかもしれないという危機感を持っています。良いものを作るという製作者の誇りよりも、一部の担当者の感情や利益を満足させることが優先となるとか、良いスタッフに活躍の場を与えるよりも、個人的な都合に対応できる要領の良い人ばかり起用され、あるいは本当の実力とは関係のない人間関係の力学によって場を与えられている人ばかりが横行し、能力のある人たちが能力を発揮できないということがあるのではないか。このような状態だから、日本企業の生産性が高まらず、本当はもっと繫栄するはずの社会が停滞しているのではないかという危機感です。

これが現代日本のように複雑な人間関係であり、かつ、大量の人間と利害関係が生じている社会ではなく、100人前後のムラが人間の世界のすべてであれば、仲間を大切にして、仲間の利益を優先することは当然のことだと思います。

しかし現代日本では、誰かに利益を与えることが、誰かに損をさせることになってしまうということをもう少し意識しなくてはならないと思います。意識する際のツールが、「公平公正」という概念だと思います。仲間がいたとしても、公平公正な起用をしていくこと、良いものが流通するようなシステムによる資本主義的な自由競争原理を精巧に作り上げていくことが求められていると思われます。

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【SNSの危険性の注意喚起】脚本家の投稿への支援的なコメントが凶器になる理由 正義感、同情が第三者を傷つけることの好例 それにしても脚本家の仕事って・・・ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



才能あふれる漫画家が、原作のテレビの実写化にあたって、テレビ局が制作した内容が約束に反して原作から逸脱していることから、SNSなどでのいくつかのやり取りの後に、先月自死されるという痛ましい出来事がありました。

そのことについての詳細はわかりません。今回のテーマはそのSNSのやり取りの方です。

その実写化の脚本を担当された方が、全10回の放映のうち、8回は自分が脚本を書き、最後の2回分は原作者が脚本を書いたので、最後の2回が面白くなかったとしても自分の責任ではないということと、このように脚本の担当を外されたことの不満をインスタグラムに投稿したようです。

この投稿に対しても、原作へのリスペクトが足りないなどといった批判がネット上で上がっていましたが、今回はこちらの問題も脇に置いておきます。

問題として取り上げるのは、この脚本家のインスタグラムの投稿に対して、同業者の一人が、その脚本家の苦悩というか外された悔しさというかそういうことに共感して、支持的なコメントを出したことがテーマです。

このコメントを出した人は、おそらく善意でコメントを出した良い人なのだろうと思います。ご自分もそのような悔しい思いをしたこともあるのでしょう。最初の脚本家も、そのようなコメントをもらって、自分の感情は正当であり、自分は尊厳を傷つけられたと承認してもらったことで、少しは気持ちも落ち着いたことと思われます。

ただ、善意の良い人で終わりませんでした。このコメントは、脚本家に対しては暖かい、善意あふれるコメントになりますが、原作者にとっては攻撃を受けていると読めるわけです。原作者が自死されたことによって、このコメントが自死と関連付けられて炎上してしまいました。

原作者は言い分が言い分がもちろんあるわけです。一般論ではなく、自分の作品の大切な部分は改変してもらいたくないという意思表示を事前にはっきり伝えていたとのことです。少なくとも原作者はそう認識していたようです。それにもかかわらず、その大切な部分が改変されているので、脚本に手を入れるようになり、最終的には最後の2話分を自分で手掛けたというところまでいきました。おそらく、事前に「どんな改変でもよいよ。」なんてことであれば、テレビ局も原作者の脚本への口出しや自らの脚本執筆なんて許さなかったと思いますので、そこから考えると原作者の言っていることの方が信用できるのかなという推測は成り立つでしょう。

原作者としては、「最初の約束を守ってもらいたいだけだったのに」という気持ちがあったと思います。また、繊細な作風の原作者としては、キャラクターや話の流れの一つ一つに思い入れがあるのだと思います。

だから、脚本家のインスタグラムの投稿は、原作者にとっては、「自分のわがままで脚本家を侮辱した。」と非難されたと受け止めたのではないでしょうか。

インスタグラムに限らず、SNSの投稿の特徴は一方的であることです。それに対して効果的な反論をすることは大変難しいです。また、字の数が多いと誰も読みませんので、背景事情まで説明して反論することは難しいと思います。かなりのストレスにはなるはずです。

脚本家の投稿にコメントを出した人は、「そこまで考えていなかった」ということでしょう。

コメントを出した人は、善意で
当初のテレビ局と原作者の約束も知らず、
どのような改変がなされたのかも知らず、
「脚本家が役を下ろされた」ことの憤慨に対して共感を示したということになります。

これがインスタグラムではなく、家庭の中の会話や友人同士の会話ならば、コメントを出した人の発言は、善い人ということになったと思います。問題はSNSというツールをつかったコメントだということに問題があったのだと思います。

人間と人間が対立している場合に、SNSというツールを使って一方を支援するコメントをすることに当たって考えなければならないことは、

不特定多数の人が見ること
もめている他方の人も見るということ
その他方の人は、コメントを出した人間が、自分が読むことを気にしないで、あるいは意識して発信していると感じること
もめている人の一方を、その人は擁護していると感じること
それはとりもなおさず、他方の自分に対する非難に加担したという意識が生まれること

また、実態も知らないでのコメントだと分かったとしても、インスタグラムの影響力から、自分の周囲の人にも読まれてしまい、自分の立場が悪くなるということを直感的に感じてしまうこともよくあることです。

そして、元の脚本家の投稿や、それに対する支持的コメントに対して、自分以外の誰も反論してくれなければ、「自分の味方だと思っていた人が自分を助けてくれない」という意識になりやすいということがあるようです。これはいじめを受けた人の心理です。加速度的に孤立感を深めていきます。

コメントをした人は、ただ、考えが足りずに無責任にコメントしただけの人だと思います。われわれとしては、「SNSというツールがこのような危険性を持ったツールだ」ということを意識する必要があると警鐘を鳴らした事例と捉えるべきだと思います。

ただ、とても疑問なことがあります。ある人のセリフによって、そのセリフの相手や、せりふの相手につながる人が反応を示し、またその相手なりがセリフや行動を起こして、元々の人が反応を示して、ドラマは進んでいくのだと思います。そして、それを視聴者が「なるほどそうだね。」とか「そんなこと言えばそうなるの当たり前だろう」、「あれあれ、この続きはどうなるのだろう。」等と制作側が意図した反応を示して、視聴率も上がり、制作側は「してやったり。」と思うのだと思うのです。

自分の発言や投稿に、他人がどう反応するか「そこまで考えなかった」人たちが、一般視聴者に反応を起こさせるテレビドラマを制作することが本当に可能なのでしょうか。プライベートと仕事では意識を切り替えることができるということなのでしょうか。それが私の疑問でした。

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女性のヒステリーについて 極端なジェンダーレス思想が少なくない女性を苦しめる。 発達障害、パーソナリティ障害への分類という弊害 [家事]



ジェンダーフリーとか、ジェンダーレスという主張があります。女性だから、男性だからという、個人を捨象して性という大雑把な違いに基づく取り扱いの違いは、概ね社会的、文化的に押し付けられた不合理な扱いであり、かつ、個人の特性を無視した評価であり、本当は個体差があり違うのに不当に個人の能力を否定評価することにつながりやめるべきだという主張のように思われます。その意味では、正しい側面もあると思います。

ただ、生物学的違いが厳然と存在していることも事実です。端的に言えば女性は子どもを産む性です。この子どもを産むということは、妊娠してから出産するまでに限った話ではなく、それ以前から綿々と続く生体内システムの問題であり、その後においても影響が生じていることも間違いありません。

例えば今から約200万年前から数万年前まで続く狩猟採集時代においても、小動物を狩るのは原則として男の仕事であり、留守を守り育児をしたり、植物を採集したのは女性の仕事だったと進化生物学では考えています。これは、群れの頭数を確保するために、流産を避けるために成人女性は走り回ることを回避したというものだと考えられます。そうだとすれば、これは社会的、文化的な性的役割ではなく、生物学的な性差から派生した人類の生き残り戦略だったと考えられます。

どこからが、生物学的違いに基づいた取り扱いの違いなのか、どこからが社会的文化的な不合理な差別なのかについては、なかなか難しいことなのではないでしょうか。

また、200万年当時は合理的な違いがあったとしても、その後の機械技術の発展とか、人間の考え方の変化、つまり時代の変化によって、合理性が失われた差異的取り扱いも多くあることも間違いないと思います。

ただ、私の感想ですが、あまりにも急進的なボーダレスの主張は、合理的な評価を逆に阻害してしまい、人間的な扱いを阻害することがあると思うのです。女性だから、男性だからという言い訳がきかないことは、本当にあるべき社会なのかというところに疑問が生まれます。

例えば女性のヒステリーの問題があります。これはだいぶ前にブログで記事にしました。
配偶者のヒステリーは抑え込まない方がよい。賢い対処法
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-31
その後もちょくちょくこの話題は触れています。

このヒステリー問題ですが、ここでは、理由もなく怒りの感情が沸き上がり、道徳的な観点からの自制ができなくなり、周囲を気にしないで罵詈雑言を叫びだすようなことを言うことにします。

離婚事例を多く担当していて気が付いたのですが、少なくない女性がヒステリー状態に陥ります。例えば夫の対応が悪いことに対する報復だというような、対人関係的な問題とは別に突然起こり、脱抑制的な言動になると考えることが正しいと私は思います。あえて言えば、女性に周産期があること、あるいはあったことと関連した生理的な問題だと思っています。

確かに人によって程度や頻度が違うのですが、通常は、対処方法さえ間違わず、それも家庭生活だと思えば、ヒステリーがあるからと言って女性が劣っているとか、合理性が無いということにはならないと思うのです。ある特定の時期(人や年齢によって異なるので、時期を特定することは困難です。)の例外的な特質だととらえることができればお互いに不幸にはならないようです。

しかし、ヒステリーに性差があるということを承認しないで、個人の問題だとしてしまうと、とても過酷な評価を本人に与えてしまうことになります。

本人の精神が不安定であり、穏やかな人間関係を形成できない劣った人間と評価されてしまいます。最近だと、「発達障害」、「人格障害」等と決めつけられたり、感情障害や「統合失調症」、「躁うつ病」(最近多い)だと診断されて、ひどい場合は病院に入院させられたりしてしまうこともあります。

確かに中には病的なケースや頻度が高いケースもありますが、多くのケースでは、一時的なヒステリー症状だとして、適切な対処方法を習得することが必要十分で適切な対処だと私から見れば思われるケースも多いです。

男女に性差が無いという主張が過激になれば、このような少数派(実際は程度の差はあれ多かれ少なかれこのような症状は出現するようで、必ずしも少数派とは言えないと思われる)の女性は、女性であることを言い訳にすることができなくなり、「男性が同じようなふるまいをした場合のように」、正常ではないという評価が下されてしまう危険があると思うのです。

「男女に性差はない」という主張は、しばしば「女性も男性並みに働くし、働くべきだ」という結果を産み出していると思います。男性並みに働きたい女性もいるし、子育てや家事をしながら、収入を得ることを目的としない趣味やボランティアに傾注したいという女性、あるいは男性もいると思います。

また、就労という組織的な行為、他者との目的的な行動は苦手だけど、家事や子育ては得意だという人たちも多いように感じます。しかし、他者との組織的な行動が苦手で、目的的行動に必要なコミュニケーションも苦手だという人たちは、何らかの障害があるという否定的評価をされる傾向にもあるようです。

大雑把な人の評価を否定して個人に着目して個人として評価するべきだというものの考え方は正しい側面もありますが、逆にその社会的評価のものさしが特定の価値観に基づくものであれば、その価値観で恩恵を受ける人たちの利益にしかならず、個人を無駄に否定評価することにもつながりかねないのです。

そして、その特定の価値観は、社会の価値観だと認識されやすいために、普遍的価値観であることを疑わない危険が常に付きまとっています。そして、無駄に苦しむ人たちを作り出していると私は思うわけです。



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我が子に会えない母親たち 親子引き離しを問題視しない社会の犠牲者 [家事]



最近、母親が我が子と引き離される事件を担当することが多くなりました。夫が妻を排除することももちろんあるのですが、義母や実母が子どもを引き離すこともあります。

父親が子どもから引き離される場合は、母親が子どもを連れて同居していた家から逃げ出して別居を開始するというパターンがほとんどの形式です。これに対して母親が我が子から引き離されるパターンは、夫や義母、実母が子どもと同居している家から、母親だけを排除するというパターンが多いようです。母親が家から追い出されるわけです。

様々な事情で母親は自分の子どもと会えない状態が続いています。

このような事件を担当して感じることは、警察はあまり熱心に問題解決にあたってくれないということです。母親から子どもが引き離されていれば、必ずしも要件を満たさなくても誘拐や監禁に匹敵する非人道的な行動だと私は思います。

しかし、特に引き離した方が子どもの父親であるとか、祖母である場合は反応が鈍いと思います。誘拐罪に該当しそうな行為も動いてくれません。民事不介入という言葉も出ましたが納得ゆきません。

引き離す方の言い分の多くは、母親が精神疾患だ、発達障害だ、パーソナリティ障害だというメンタル的な問題があるというのです。その多くが虚偽であり、その多くが決めつけです。いずれにしても、日常生活を支障なく送っているのです。我が子と引き離されても仕方がない理由にはならないと思います。

私は、この背景として、行政や警察が母親のDV政策ということで子の連れ去りを許容していることが背景となっていると思います。また、小さな虐待でも児童相談所や警察に通報するという風潮も背景になっていると思います。

DV政策によって、父親の元から母親が子どもを連れ去ることに対して、行政や警察などがそれを奨励して、逃亡に協力するということが当たり前になってきました。この点については何度も述べていますので繰り返しませんが、肝心ことは、DVがあったか無かったかということは一方の申告だけで行政や警察が行動に移ること、子どもの健全な成長に対する悪影響をほとんど考慮していないことです。

虐待の親子引き離しも担当していますが、ほとんど印象だけで、何があったかを十分調査しないで虐待認定をして簡単に親子を引き離しますし、平成の初期や昭和の時代の裁判所と異なり、現在の裁判所は子どもを親から引き離して施設入所させることを簡単に認めてしまいます。

DVや虐待という言葉は、幅広い意味があります。また、実態がよくわからないことがあります。それなのに、ひとたびDVや虐待というくくりの中で整理されてしまうと、それらの行為は徐々に拡大していって、妻や子どもが殺される危険があるという認定がされてしまっています。

即ち、ちょっとかんしゃくを起こしたり、思わず手が出てしまうと、行政や警察の生活安全課からはDVであり、虐待であり、そのうち殺人事件になるという認定がされてしまうということが起こっているのです。

子どもと親を引き離すと子どもの成長に悪い影響が出るという世界標準のコンセンサスは、21世紀の日本の司法や行政には通用しないようです。
これでは、子どもに悪い影響があるから子どもから引き離されるのではなく、目をつけられれば引き離されるということにもなりかねません。

DV保護は、しばしば女性保護の文脈で語られます。この主張を突き詰めていけば家族は女性を拘束する前時代的な制度だということになり、家族を解体するべきだとする主張と親和するようです。

しかしながら、行政や警察の力を借りて子どもを親から引き離すことが横行している結果、親から子どもを引き離すことになれてしまって、その非人道的な問題について鈍感になっているのだと思います。

これは父親から子どもを引き離すことだけに鈍感になるということではありません。結局子どもを親から引き離すことに、抵抗やためらいが失われてしまってゆくのだと思います。

何とでも言える、あるいは単なる女性特有の問題がある場合の精神状態をとらえて、精神疾患だ、発達障害だ、パーソナリティ障害だと言ってしまえば、行政や警察は「理由のあることだ」と反射的に反応して、親子引き離しは仕方がないことであり、むしろ子どもの利益になると機械的に考えるようになっているとしか思えないことが横行しています。

現状の「DV政策」による女性保護は、ステロタイプの「女性」の保護であり「女性だから被害者だ、女性は被害者だから支援する」という単純論法だと思います。子どものことを考えないだけでなく、少数の女性が最も苦しむことになっているということを全く考慮していないと思います。物事はメリットデメリットあるのですが、自分の立場のデメリットを考えようとしないから、行き過ぎの弊害を是正するという発想にならない恐ろしい政策立案です。

我が子から引き離されている女性は、このような政策の犠牲者だと私は思います。

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財産分与で納得いかない実務 離婚の可能性のある夫婦は、婚姻前の通帳は家庭の関係の費用の支払いに使わず、新しい通帳を作らなければならないということか [家事]



離婚の際には、財産分与という制度があります。これは、婚姻期間中に築いた財産は、名義がどうあれ、夫婦で分けるという制度です。銀行口座でも共有名義で口座を開設することができないし、不動産登記についても特に意味なく、単独名義で登記することがあるなどの実情があります。だから、例えば夫の名義の財産だとしても実質的には夫婦の共有財産である場合、離婚の場合に財産分けをするということです。ここまでの理屈は銀行口座の所有の最高裁の理論などとも整合があり、必要な制度だと思います。

法律的には記載が無いのですが、実務的には、婚姻期間中に築いた財産は折半する、つまり5:5の割合で分けています。特殊技能による収入は別として、通常は、賃金等を得たのが夫であったとしても、専業主婦であろうと妻がそれを支えて初めて可能になったということから、一律5:5になることが原則です。

どういう場合が特殊技能による収入かというところはなかなか難しい判断になります。

それよりも問題があると私が思っているのは、預貯金の問題です。

例えばA銀行がメインの口座で、結婚前から使用していたとします。結婚前から働いていた会社の給料が振り込まれていたので、口座をそのまま使っていました。結婚前には700万円の口座残高がありました。という事例を見ます。

別居時の口座残高が500万円だとします。そうすると、私の感覚では、「500万円は、婚姻によって得た財産ではなく、婚姻期間中に目減りした預金額の残額だから、分与すべき財産はない。0円だ。」とするべきだと思うのです。

ところが、この口座が家の光熱費や公共料金、子どもの教育関連の引き落として使われている場合、500万円が財産分与の対象だと誘導される傾向にあるのです。この口座の残額が、家の関連の仕様ではなく、全く自分のものであり、夫婦の共有にするつもりが無いということが明白でなければ共有財産だというのです。

自分の専用財産だというのであれば、専用財産として扱っていた証拠が無いと共有財産だというのです。それならば、結婚と同時にそれまでの通帳の取引をやめて、新しい通帳に給与の振込口座を変えなければならないことになります。あるいはいったん口座残高を引き下ろして、新しい口座を開設するということになるでしょうね。

こんな離婚することに備えて口座を変更して結婚生活を始める人はいないのではないかと私は思うのです。

皆さんはどう思われるでしょうか。私の感覚はおかしいのでしょうか。

ところで、ここまで読んだ方の少なくない方は、私のことを保守派やミソジニスト(女性に対して攻撃的な偏見を持っている人)等と思っているかもしれません。保守派はともかく、ミソジニーは心外です。

注意深く読まれた方にはお分かりのとおり、私が例に挙げたケースは男性が700万持っていたとは一言も言っていません。実際にも、金額は架空の金額ですが、女性の方が実家で済んで働いていた時にせっせと貯金をして、婚姻生活で持ち出しが多くなってという事案でした。

預金を多く持っているのは男性だという決めつけの議論が横行しています。限界を超えて払う制度が養育費や婚姻費用であるという制度になっていますが、どうやら女性保護の観点(子どもは女性が育てるべきだという観点=ジェンダーバイアスも絡む)で、高額化しているようです。しかし、その中で一番困っているのは、派遣や有期雇用で勤勉に働いている女性たちなのです。

女性保護を叫ぶ人たちは、多数派の女性ばかりの利益を考えていて、少数派の女性の利益は考慮されないで、少数派の女性が一番苦しんでいるということについてお話ししていきたいと思います。

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