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刑罰 と 国家による報復 の異動 [刑事事件]

弁護士が、国民のサポーターと考えると、
国民(会社等団体も含めて)の数だけ弁護士の立場がある
ということになり、
刑事事件においても、業務としての立場は、
被疑者、被告人の立場、被害者の立場、
それぞれの立場の弁護士が存在するわけです。

しかし、制度を論じる場合、
声なき立場を代弁しなくてはならないというのが、
古今東西を問わない弁護士の本能みたいなもののようです。

刑罰は、ここ何年かで、その意味合いがずいぶん変わってきたようです。

大学で法律を学んで、近代市民法における刑法で、
ほうと思うのは、自白の強要の禁止です。
国家が、無理やり自白をとって、無実の人を罰してきたという反省
という理由ならば、感覚的にすうっとはいるでしょう。

教科書に書かれていることは、
犯罪を犯したことを強制的に話させることは、
近代刑事手続き上は、
被疑者に屈辱を与えることなので禁止されているというのです。
まさに、へえ、ほおでした。

近代市民法は、欧米でいえば、市民革命やアメリカ独立戦争
というエピソードがあるので、
いつからというのがわかりやすいのですが、
日本は、諸説あり、近代市民社会が無くいきなり現代だという
説もあるくらいです。

近代市民社会は、封建時代の後、現代の前の時代を言います。

近代市民社会の近代刑法は、
刑罰に目的があるのかという議論から出発し、
それまでは、刑罰には目的などなく、
悪いことをした人に対して、罰を加えるということは当然である、
ただ、私的報復が許されると無秩序となり、不穏当であるから、
国家が吟味を加えて、刑罰に値するか、
度のような量刑が妥当か、吟味する。
私的報復を、国家が惇化するという説明がされていました。
罪に報いるので、応報刑論と呼ばれたものです。

これに対して、刑法には目的がある。
刑罰を科することで、
人をして、刑罰が科されられるから
罰せられるような犯罪を犯さないようにさせるという
一般予防という目的や、

犯罪により刑罰を受けたことにより、
受刑者をして、再び犯罪を犯させないようにするという
特別予防という目的があるという考え方、

刑罰に目的があるというので目的刑論があります。
(議論の整理は様々ですが、わかりやすくいうとこうなると思います)

こうやって考えると、これまで、刑罰や刑事手続きは、
国家論として考えられてきて、
犯罪被害者といいう視点は、無かったといえるのでしょう。

おそらく、当初から、近代刑法以前から、
犯罪被害者は、深く傷ついており、加害者を許せないのは、
あまりにも当たり前の話だ。
だから、犯罪被害者が、刑事手続きに参加するのは、
国家権力の行使としてなされる刑罰権の行使過程に
参加することになり、
国家権力の行使を適切に行い得ないと考えることが、
あまりにも当然のこととして扱われたものと思われるのです。

その代わり、国家が犯罪者を確実に身柄を確保し、
有罪を宣言し、必要な刑罰を加えるとしたのでしょう。

また、純粋に国家権力の行使を遂行するため、
行政権から切り離された裁判所において、
裁判がなされるということになっていたわけです。

現在、犯罪被害者が刑事裁判に参加する制度ができました。
色々な危惧があるのです。

ひとつに、このような理念的問題がどのように解決されたのか、

また、被害者が自分の被害を適切に言えた場合と言えない場合と
あるいは被害者が参加した場合と参加しない場合と
公平な審理は可能なのか。
(物言えぬ被害者こそが救済されるべき場合が多いのです)

犯罪被害者の補償は、全く別の観点から検討されるべきであって、
そのような、経済的補償、精神的ケアの問題を最優先するべきではなかったのか

そもそも犯罪被害者が裁判で発言しなければならないというのは、
被害者に向き合い、
本当の被害を汲んだ裁判の運用となっていなかったという点こそ
裁判関係者は反省しなければならなかったのではないか。

なぜ、検察官とは別に、
犯罪被害者の代理人の弁護士が、
刑事法廷に立たなければならないのか、

ここに深刻な問題があるという自覚はあるのでしょうか。

刑法をどのように運用するかは国家政策の問題ですが、
もう少し、国民を交えて、
裁判の在り方を議論する工夫が必要だし、
裁判員裁判が始められているのだから、
国民的議論をしなければならない時期に来ている
と思います。

大事なことですから、
何度でも立ち止まって話し合えばよいと思うのです。

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