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梅原提言を考える。その2 東電の誤りは、近代からの日本の共通の犯罪環境にある。 [災害等]

梅原猛先生の「廃仏毀釈、修身教育によって神が死んだ」
ということは、
神社の系列下、仏教排斥、キリスト教弾圧の他に
自然に対する畏怖、謙虚な気持ちが失われた
という解釈が、自然なのかもしれません。

八百万の神々という言葉には、
故事に基づく奉りという行為もありますが、
自然信仰ということもあるわけです。

太陽信仰、山岳信仰、
海の大岩にしめ縄をしめたり、
巨木にしめ縄を絞めたり、

いたるところに神々は住まわっていらっしゃるのです。

太陽に対する感謝と尊敬、
海や山に対する脅威と感謝
私の母方の実家が海辺の集落なので、
海に対する脅威と感謝は、
小さい時から教えられてきました。

海辺に住む人たちは、
海の多大な恩恵を受けつつも、
海の脅威についても、
それが想定できるものではないこと、
人知を超えた存在であることを
よく知っていました。

過去の自然の驚異を記憶し、
神として恐れ敬い、
その記憶を風化させないようにしていたのでしょう。

原発事故に関する弁明の中で、
想定外
という言葉が乱発されています。

原子力という身の丈に合わないエネルギーを扱う場合でさえ、
海や地震、津波という自然について、
想定外とさえいえば、弁明になると思っている、
その姿勢が、現代人のおごりそのものを
象徴的に表していると思われます。

しかし、
神が死んだということは、
そのような、自然に対する脅威を再認識しようという
メッセージにとどまるものではないと
感じています。

自然に対する謙虚な気持ちという言葉は、
そのまま、
真理に対する謙虚な気持ち、
道理に対する謙虚な気持ち
等と置き換えることが可能であろうと思っています。

これが、梅原提言を読んで、最初に感じ、
私の身の丈に合わない話を始めた理由なのです。

さまざまな事なかれ主義は、
自分の保身のために、
真理、道理をないがしろにして、
上司の覚え、評価を優先させた
それが社会に蔓延していたと思うのです。

細心の注意を払っても足りない原子力発電の現場においても、
真理や道理が後景に追いやられて、
必要な措置が検討されず、
原子力発電の推進ばかりが、
優先されていった結果、
今回の予備発電の不備などにつながっていったと報道されています。

その根本に、明治政府の
富国強兵のための、効率優先の
意思決定システムが存在すると
梅原提言を受け止めているのです。

要するに今回の福島第一原子力発電所の事故は、
一人東電の内部の問題ではなく、
社会全体の風潮の象徴的な出来事ととらえる必要が
あるのではないかと思うのです。

福島第一原子力発電所の事故について
東電や政府の誤りを洗い出すだけでは
足りないのだと思っています。

今回の事故の教訓が生かされても
また新たな事故の火種はのこっている。
人間の科学は完璧ではなく
新たな不具合にも対応しなければなりません。

この根本を洗い出して、
行動を改めなければならないと考えております。

私の独りよがりの刑事理論、
反省とは、その事件を反省するだけでは足りない、
犯罪を犯すことになじむ
犯罪環境に陥った原因を追究するということと
同じことだと思っています。

それが梅原提言から気づかされたことです。

東電の犯罪環境は、
現代日本に蔓延している犯罪環境である。
そして、それは、
本来第二次世界大戦の際に、
きちんと歴史の総括として
なされなければならなかった総括だと思います。

私の手に余る話になっていますが、
もう少し、格闘してみようと思います。
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