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梅原提言を考える。その3 原発事故、パワハラ、いじめの共通項、空気を読んだ結果? [災害等]

すんでのところで思い出しました。
どうも我々弁護士は、ゴールデンウィークとか夏休みとか、
そういうものに幻想を抱きやすく、
じゃあ、休み中に書面作成しますとか、
この判例調べておきます。なんて言ってしまいがちです。

毎年毎年繰り返している愚考、愚行ですが、
カレンダー通りに仕事をしているのは事務所、事務員であって、
事務所、事務員が休みでも、
普通の仕事はやっているわけです。
そんなまとまった時間はない。

いきなり泣言ですが、
ちょっとテーマが大きすぎた。
一大論文を書く勢いで始めたのですが、
論証をしようとすると、
あまりにも壮大になることが、
その2まででよくわかりました。

ブログという性質上、成り立たない。

ということで、論証抜きでいきなり結論なのです。

要するに、今回の原発事故は、
吉井秀勝氏の国会質問でも想定されていたように、
http://www.441-h.com/message.html
想定されていた事態でした。

文系の官僚はともかく、
理系の現場の技術者、科学者は、
その危険性を十分認識し、
対処の必要性を感じていたはずです。

ところが、それを口に出すと、
上司から煙たがられ、
会社にとどまりにくいということから、
イエスマンに徹していたようです。
中には、がんばった人もいたでしょうけれど。

真理、道理がとおらず、
企業内の官僚制が跋扈していたわけです。
原発推進という効率優先が、
真理、道理を排撃していたということになります。

(これが明治政府が推進していた
思想統制に源流があるという
日本イデオロギー論に着手しようとして
挫折したというのが冒頭の話です)

この話を、久しぶりに買った週刊誌の週刊現代で読んで、
思い当ったのが、パワハラやいじめの構造によく似ているということです。

パワハラは、
特定の上司が、
特定の部下に対して、
同僚の面前で、
執拗に、大声で、長時間にわたって
ののしり続け、
指導、指示ではなく、
責め続けるという形で行われることが多いです。

聞くに堪えない光景が展開されているのですが、
同僚は、
ここで止めたり、抗議したりすると
次は、あのえげつない攻撃が自分に向けられる
ということを恐れて、
何もすることができません。

パワハラは、
客観的に見て、人間として許されることではありません。
それにより自殺やうつ病に追い込まれる人たちが
大量に出てしまっています。
それを止めるのが、真理であり、道理であるはずです。

しかし、パワハラ現場では真理、道理は
後景に追いやられているわけです。
東京電力や、原発関連の公的機関と
構造が似ている側面があるように思います。

学校でのいじめ、教師の行きすぎた指導も
全く同じです。
教師だって、
高々遅刻や服装の乱れで、
歯が折れるほど激しい体罰をすることは犯罪であり、
正当化できる話ではありません。

特に理由もなく特定の生徒を無視したり、
抵抗できないような波状攻撃をかけることは
許されることではありません。
特に子供の場合は、精神的発達にも影響し、
犯罪などの要因ともなりうる話です。

しかし、暴力教師のターゲットや
同級生のいじめのターゲットが、
今度は自分だという恐怖から、
あるいは学校ににらまれることにより、
校内選考で落とされて、正社員での就職ができなくなる
というおそれから、
暴力やいじめを
見て見ぬふりをするわけです。

本当はそれは間違っている
ということを言いだす人がいないというきょうつうこうがあります。

社会全体で、
それは違うと思うということを言い出しにくい
システムができているようです。

それは違うという人は、
パーソナリティ障害とされたり、
思想傾向があるとされたり、
異端扱いされるわけです。

これが、現段階においては、
はっきりした攻撃をするのではなく、
例えば、空気を読めというように、
暗黙のうちに、
特定の方向に誘導する方法がとられているように感じます。

小選挙区制導入の時にそれは強く感じました。
小選挙区制にはメリットデメリットがあるはずなのに、
猫も杓子も、不正議員を落選させるという大合唱で、
小選挙区制が導入されました。

その時の私の仲間内の議論が、
理論を飛ばして、
そういう空気なんだとという議論の運び方でした。

舅のところにあった文芸春秋の
大量の著名人の一言集の特集で、
小選挙区制の弊害を述べている人が何人かいたので、
思いだしました。

パワハラ、いじめを
傍観したり、追随したりする人たちも、
もしかしたら、はっきりと保身目的をもって、
言いだすことをしないのではないかもしれません。

空気を読むことを強要されているという表現が
近いのかもしれません。

これはある種の完成形態かもしれません。
「抵抗する者に対して不利益を与える。」から、
「不利益を与えられないようにするために、抵抗しない。」となり、
「不利益を与えられる対象とならないために、
不利益を与える側に身を寄せる。」ということになる。

東電は東電で、
独自の弾圧を行ってきました。
労働法の勉強を一通りした人なら、
必ず、東電の思想差別事件の判例を勉強しています。
特定の思想をもった人たちを探り出し、
昇進や昇格で差別したり、仕事を与えなかったりと
具体的に不利益を与えています。
(東電、思想差別で検索すると、
裁判を担当した法律事務所のHPが
いくつかヒットするようです。)

こうなっちゃかなわんと
イエスマンに徹するようになるわけです。

しかし、
東電だけでなく、
それが色々な理由から、
社会全体に蔓延している
日本病としてみなければならないという、
事を言いたいのだけれど、
その能力が私には無い。
上記「色々」が思いつくだけでも多すぎる。
まとめる力もない。

また、それは、明治政府の効率至上主義官僚制に
源流があり、
本来第二次大戦の総括として、
国民的総括が行われ、
少なくともそれが国民的に自覚されなければならない
ということを論証しようと思ったのですが、
やはり能力がない。

そして、
それは、この震災からの再生の時にこそ必要なんだ
復興を超えた創造のために避けては通れない、
戦後の誤りが繰り返されてはならない

ということを言いたいのですが、
ちょっと通じませんね。

まあ、私のブログですから、
メモというか、長すぎるツイッターというか・・・・

何学かわからんけれど
学者の人にがんばってもらいましょうか。
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