SSブログ

なぜ仲間を攻撃するのか、仲間から攻撃されるのか。夫婦間の攻撃とは愛情の裏返しということについて。 [家事]



攻撃する方は
自分が仲間を攻撃をしているという自覚がないことが多いようです。
自分の言動によって、多少軋轢を生んでいる自覚があったとしても
罪悪感がないことが通常です。

攻撃される方は
どうして、相手がそういうことを言うのかなと
激しく落ち込んだり、
これからは、元のように自分は仲間の一員として
一緒に笑ったりすることはないのかなという
解決不能感を感じ、
その人たちと関わることにおびえるようになります。

その人から電話が来るだけで
血圧が上がったり、脈拍が早くなったり、
どうもいやあな気持ちが台風の雲のように足早に心を覆います。

職場、学校、あるいはSNS等どの人間関係でもこれは起きるのですが、
前回お話しした通り夫婦の問題にクローズアップして考えてみましょう。

男性と女性でどちらにこういう傾向があるかという点については
誤差の範囲であり、性差はあまり関係が無いというのが実務的実感です。

例えばこんな感じの例を出してみましょう。
****
 子どもの成績が悪くて、妻が夫に心配である旨を伝えた。夫は妻の心配も分かるけれど、妻の言葉の端々から子どもの悪口に聞えて聞くに堪えないため、「そういう言い方はないだろう。」と妻の言い方の問題を先ず指摘してしまう。心配を共有したい妻、対策を講じたい妻からすれば、理由なく自分が攻撃されたと感じてしまう。そして、「どうしてそうやっていつも話をはぐらかしたりするのよ。あなたはいつもまじめに子どものことを考えてくれない。」等と反撃してしまうわけです。
****

妻の最初の子どもの成績が悪いという情報の伝達と相談ですが、つい心配してしまうあまり、余計なことを言っていることが多いのではないでしょうか。勉強しないで服装のことばかり気にしているとか、スマホばかりいじっているとか、努力をすることができない等の人格的なことまで言及してしまって、本当に言わなくてはならないことが埋没して見えなくなってしまう。このため、たんに子どもの悪口を言っているように聞こえることがあります。

分かりにくくはなっていますが、受験が近くなってきたとか、子どもの状態から、妻が何を言うのか、夫がわからないということはないはずです。
ある程度余計なことを言うのは、家庭の会話なのだから仕方がないことなのですが、どうもそれを許さない考えに染まっているということはよくあることです。「夫婦の会話なのだから」という観点で、取捨選択して聞くという作業はどうしても必要です。

これができないのは、子どもへの心配を口実に、自分が責められているのではないかという意識がどうしても出てきます。「俺のせいだと言いたいのか?」というおなじみの感情です。
でも冷静に考えれば、子どものことを心配しなくてはいけないよなと思い、「そうだよな。」という言葉をとりあえず発してから考えるという選択肢を持っても良いというのが教科書的な、対処の第1歩でしょう。

次に夫の代弁をすると
そうは言われても、自分が成績をあげさせるアドバイスをする自信なんてまるっきりないし、成績が悪いのは子ども本人が一番よく分かっているから、改めて親がそれを言ったところで子どもにとってはプレッシャーにしかならないし、子どもから反発されるだけではないか。つまり夫としては、どうしてよいかわからないから早く話題を打ち切りたいという気持ちになっているということもあるかもしれません。

ちなみに教科書的には、わからないことはわからないと言って、塾に行かせるなり対策を相談すればよいのですが、そう理性的に進んでいかないのも「普通」の中に入るのかもしれません。

そして、妻の反撃を受けた夫は、もう「自分を守る」というテーマでの行動となります。一連の出来事の記憶も、自分が妻から突然攻撃されたという記憶として残ることがあるようです。

妻の側からすると
子どもを心配しなくてはならない時に、「ささいな」自分の言葉に対して攻撃するとは何事だという感覚となることでしょう。子どもの心配をして親として話し合うよりも、自分を攻撃したいのかこの人はという気持ちになるわけです。もちろん、「子どもの成績が悪いのは私のせいだというの?」というお決まりの感情もでてくることでしょう。

さらには、仲の良い、お互いをよく理解している夫婦の場合は、「夫は子どもの成績対策まですべて私に押し付けようとしている」と察して、そうはさせまいと防御態勢を予め敷いてくる場合もあるわけです。もう、夫の反応としての原因が原因なのか、夫婦の在り方なのかわからない混然とした攻撃の応酬が始まってしまうわけです。そしてその攻撃から自分を守るという行動が攻撃の応酬という性格をより際立たせていくわけです。

ここまでお話ししていて、皆さんはどう思われるでしょうか。
このような些細な食い違いから攻撃を受けると感じるのは
面倒くさいし、くだらないし、初めから結婚するべきではない
とか感じられる方も多いかもしれません。

しかし、私のように年齢が高いからとか、事例をたくさん見ているからとか
何らかの理由はあるのでしょうけれど
私は人間とはいじらしい生き物であって、かわいらしい存在だと
そう思えてきてしまうのです。
仲良しでいたいという気持ちから
仲良しでなくなるのではないかという不安が生まれるわけです。
だから、仲良しでいられなくなる原因を説明して
みんなが行動を改善すれば
もっともっと簡単に楽しくなるのではないかと思うのです。

仲良くしたいという感情がうまく伝わらず
逆に攻撃されたという気持ちになってしまうということが
多くあるだけなのだと私は思います。

もつれた感情を解きほぐす手段を考えていきましょう。

これが、SNSならば、簡単です。
こちらが楽しい気持ちで楽しさをシェアしようとしているのに
わざわざコメントを書き込んで
自分はこれだけ辛い思いをしているとか
本論と異なるところで揚げ足をとってくるとかいう人がいますよね。
同級生とか面識のある人ならば攻撃とは感じないで笑いになりますが、
どこの誰なのか、本名なのかもわからない人からこういうことされると
攻撃されているとしか思われず、不愉快になります。
客観的にはシェアを台無しにされたと思うわけです。
こういう人はブロックすればすむわけです。

しかし、夫婦間ではブロックするわけにはいきません。
家庭内別居は、心理的に双方かなりのダメージを受けます。

攻撃を無くして、攻撃だと感じなくする方法は
それほど難しいことではないと思うので
一緒に考えてみましょう。

二つばかり考えてみました。

第一は、攻撃されているという意識を持つ人は
実際以上に攻撃されていると過敏に感じてしまいやすくなる
ということです。

色々な相談会で、
攻撃を受けている様子を色々とお話をされるのを聞きます。
確かにそれはひどい攻撃だなあと思うことももちろんあるのですが、
「え?それはどうして攻撃として受け止めたの?」とか
「それは明らかに攻撃として受け止めるべきではない」とか
ということを感じる時が多くあります。

率直に、その旨感想を述べると、
例えば、「これとこれはだめだよね。
でもこれも攻撃というのはどういうこと?」と尋ねてみます。
そうすると、別の人に相談したところ、それは攻撃だといわれたというのです。

こういう支援者はかなり多いのですが、
せっかく仲良くなりたいということから出発している人間通しの争いを全く理解できない
悪魔のような存在となる危険があります。

こういう人は人間は合理的に行動するべきであり
合理的な行動をしない方がトラブルの責任を持たなくてはならない
と言っていることになると私は思います。

こういう人は、
一番最初の夫婦喧嘩のケースで
子どもの成績に対する不安は、
そのことズバリだけ、客観的な情報だけを伝達するべきで、
感情的な説明をしたためにトラブルが起きた
という判断をすることになります。

人間関係を上から裁こうとしている
ということに気が付いていないのです。

私から言わせてもらうと
人間はそんなに合理的に行動することができない生物であり、
過度なビジネスライク的な評価は、流行ではありますが
人間性を無視している危険な評価だと苦々しく感じています。

攻撃を受けていると感じている人は
当然自分を守ろうという反射的行動をしますから、
自分を守るために、慎重になり、悲観的になります。
このため冷静に考えれば攻撃を受けているわけではないとわかるのですが、
冷静に考えることができず
とりあえず攻撃を受けているととらえて
守りをしておこうという発想になるわけです。
だから、攻撃だととらえる範囲が限りなく後半になりやすいのです。

攻撃を受けているわけではない第三者であるにもかかわらず、
当事者の不安の妥当性を検討しないで、無責任に寄り添い
「それは確かに攻撃です。」というのだから
極めて悪意のある態度だと言われなくてはなりません。

考えの足りない人
人間についての理解の無い人
何か自分の思惑が強くある人が
他人の相談に乗るということは
大変危険なことだと思います。

夫婦の問題だけは
自分の不安を駄々洩れのように肯定する人には
相談するべきではありません。

また、全部が気の持ちようだという回答も
稚拙な回答者のすることですから
そういう場合も別の人に相談するべきです。

客観的には、あなたのこれとこれの心配は過剰だと思う。
でもあなたがそれを心配するのは理由があることで
もしかしたらこういう理由ではないか
だからここをこう改善してみたらどうなるか
試してみる価値があるのではないか
とかいう回答をするべきパターンが一番多いように思うのです。

できればこういう相談者に相談しながら
自分が心配するべき事柄と、心配し過ぎなくても良い事柄を
区別する作業が出発になるような気がします。

第2に もしかしたらあなたは相手に過剰な期待をしているのではないか
ということを検討することに価値があると思われます。

特に攻撃を受けている人は、
自分の味方に対する要求度が高くなり、
結局、自分の不安を解決して不安を無くしてほしい
というところまで要求が高くなってしまうことがあります。
そういうことをして初めて味方だと認識できるみたいな感じです。

パワハラやいじめを受けている人が典型です。
こういう相談を受けていると、
その人の職場や学校には
いじめ等、明らかな攻撃をする人とその取り巻き
何も言わずに知らんぷりをしたり、にやにや笑って
攻撃者の攻撃を承認する人たちが確かにいるのですが、
中には、公然と
「あなたが言うその人は、勇気をもって
あなたの味方になろうとしているじゃない。」
という人がほぼ例外なくいます。

いじめのようなひどい攻撃を受けている人ほど
助けてくれようとする人の気持ちに気が付かないようです。
その水準では味方だという気持ちになれないようです。
もっと自分を助けてほしいという感情が先行してしまう
ということが理由ではないかと考えています。

実際には、いじめられている人は
その手を差し伸べる人も攻撃者としてカウントしているようです。

そういう人の多くはいじめが始まる前には
仲良く一緒にいた人たちのようです。

どうやら、攻撃者としてカウントする理由は、
その人が相手に対する期待値が高すぎて
相手がその期待値に到達していない
ということを非難する感情が起きているからではないかとにらんでいます。

夫婦の相手から攻撃されているというよりも
職場で攻撃を受けていたり
自分の親戚など人間関係で不具合が生じていたり、
相手に内緒でやっているSNSで、
自分のスレッドとは場違いな攻撃のコメントがなされ
それに別の人が同調して自分が無視されるなどのことが
多くなっているのか
あるいは単に体調から、訳もない不安が起きていて
自分が攻撃されているという意識が
慢性的に起きやすくなっているということもあるでしょう。

どの人間関係も順調で、一点の曇りもない
という人はいるでしょうか?
おそらくめったにいないと思います。

人間は少なくともどこかしらとげが刺さったようなトラブルを抱えており
悩んでいるのではないでしょうか。
また、例えば秋口になればうつっぽく不安に苦しむということは
誰でも経験があると思います。
そんな時につい、最も身近な夫婦の相手に期待が大きくなりすぎる
ということはあるのが普通なのではないでしょうか。

しかし、それがあるのは仕方が無いとしても
最低限度、そのことを自覚して相手と接する必要はあると思います。

先ほどの子どもの成績をめぐるトラブルを見てみましょう。
妻は子どもの成績不良に真正面から向き合っています。
夫はどうでしょう。
成績不良だから、志望校のランクを落とす
あるいはもっと勉強の量、質を改善する
ということを子どもに提案しなければならないはずです。
しかし、
親から成績不良の現実を突きつけることが可愛そう
子どもの反発を想定して気が重い
自分が何らかの改善を提案する能力が無い
という様々な問題から
成績不良に向き合っていない
という側面があると思います。
(本当は、いま評価しなくても良いのではないかとか
 親が言わなくても良いのではないか等
 それなりの理由があるという評価が可能だとしても)

真正面から向き合って子どもと話すということが
非常に重苦しいため
それを避ける、先送りするため
話し合いの必要性を指摘されることが苦痛だ

それはなんとか妻の方でうまくやってほしい
という、身勝手な期待があるということもよくあることではないでしょうか。

厳しい方をすれば、
責任があるのに責任を果たさない
責任を果たさないことを非難されないために
自分の行為を正当化する行動が
相手に対する攻撃になってしまう
という側面がないとは言い切れないようです。

結局は、言わなくてはいけないけれど
子どもを刺激しないように妻からうまく言ってほしい
という勝手な期待が高まっていて
妻がその期待に応えないというだけで、
夫は非難していると受け止められる行動をしている
ということになっているのではないでしょうか。

言っている方はそれに気が付きませんので
攻撃している意識はありませんし
相手からしてみると、自分が相手を攻撃していると思われている自覚もありません。 

夫婦間では、夫、妻に関わらず
子どもを守ろうとするあまり、
相手に対する期待が高まりすぎて
期待に到達しないということだけで
相手を非難しているように見える行動をすることが
けっこう多くあるようです。

結局、赤ん坊の時からの流れで
子どもには何にも期待していない
パートナーには無意識に過剰な期待をしている
ということが実態なのだと思うのです。

妻は、最初の心配の情報伝達と相談の持ちかけの際に、
自分が余計なことを言っていることに気が付きません。
この時点でも妻が言いたいのは、「一緒に心配してちょうだいよ。」
ということなのですが、
もしかすると、余計な気をまわしすぎる夫にとっては
それこそが過剰な期待だという負担感を持っているのかもしれません。

もしかすると妻は夫に、
子どもの成績を上げる結果となる働きかけをしてほしい
という過度な期待をしているのかもしれません。
結局夫はなんだかんだと言ってそれができないから逃げているのだ
と「正しい認識」になってしまうと
逃げる夫は自分と子どもを守ろうとしないで攻撃をしている
という感覚になるのかもしれません。

最低限ここから始めるのはどうだろうと思うことを箇条書きしてみます。

1 家族の中の不具合を相談されているからと言って
 その不具合の原因が自分にあると言われていると思うのは、
 はっきりそう言われるまで待とう
 (まじめで、責任感の強すぎる正義の人はこれができないようです。)

2 特に子どものこと等、自分も関わることこそ、
  相手が何を言いたいのか、まず考える。
  とりあえず、「そうだね。」と言ってから考え始める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、そうだねと同調したら最後、自分の責任にされると思い込んでいるようです。意味のない「そうだね」という存在は頭の中に存在しないようです。)

3 相手の本当に心配していることを突き止める。
  突き止めて自分も心配しているならば、心配だと言う。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、心配という言葉を言って時間を使うということができず、心配であることを前提として心配を解消する具体的方法を提案し、実行しなければならないと思い込んでいるようです。口先で心配だねということがひどくみっともないことだという価値観を持っているようです。)

4 相手の心配から目をそらさないでしっかりと受け止める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、自分が何とか対処して解決しなければならないと過剰に義務感に取りつかれているようです。だから自分ができないと感じたことに対しては、目をそらしたり、無かったことにしたりしてしまうことがあるようです。まじめな人ほどパニックになりやすいようです。)

5 受け止めた上で、どうしたらよいか、回答を出すよりも相談をする。
 (世の中、解決しなければならないことだけではありません。でもまじめで責任感の強すぎる正義の人は、「わからない。」、「できない。」ということを言ってはいけないと思い込んでいるようです。しかし、通常の場合は、相手はそこまで期待していません。相手の不安を受け止めているということをはっきりと言葉にした上でならば、「自分はこんなことしか考えつかないけれど、あなたはどう思う。」と投げかけてみることも誠実な対応の一つなのだという考えを持ってみましょう。

6 自分の対応、態度に文句をつけられることは、
  相手はまだあなたに何らかの信頼を置いているという風に考えてみましょう。
  あなたができないことは、おそらく多くの人ができないことです。
  相手はできないことであなたへの信頼を無くすということはないと思われます。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、信頼されている以上、無理してでもそれに完璧にこたえなければならないと考えるようです。無理なことは無理で、仕方が無いと思いましょう。)

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。