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なぜマスコミはリベラルを批判できないのか、国や都の政権批判もできなくなった理由としての伝統的な構造 55年体制という予定調和 [弁護士会 民主主義 人権]


最近の出来事で、一昔前ならば一大キャンペーンをするような政治疑獄も、野党政党が絡んでいることを良いことに批判記事を報道しないテレビや新聞が、中立的な報道もなされないという現象を突き付けられて、若者やインターネットユーザーを中心としてマスコミに対しての不信感が広がっています。毎日新聞を筆頭として、朝日新聞、東京新聞というリベラル系と言われていた新聞に対して大きな批判が寄せられています。

批判の内容としては、公平な報道姿勢ではなく、ある事件をめぐって対立している当事者の一方がリベラル的な色合いがあるのですが、その一方の不都合なことを報道しないということが中心です。インターネット上は「報道しない自由」を行使しているという言葉が流行のようになっています。また、かつてそれらの新聞が政府与党の公金の不正使用疑惑を批判的に報道しているのに、この事件では自治体などの疑惑の報道を一切しないというダブルスタンダードも批判されています。中には、そのリベラルの色彩を持った一方の側を擁護し、他方を不当な妨害者の一味であるかのようなに新聞が印象操作をしているという批判もあります。

以前、自分が担当している事件の報道について記者と話をする機会があり、公平な報道がなされないことをその不公平な記事に加担した記者と話して色々教えてもらったことがあります。言い訳をするという反省する態度ではなく、「マスコミはそういうものなのですよ。」とでもいうような説明ぶりにいろいろ考えさせられるところがありました。

そのことをふと思い出しまして、「ああ、これがあの時言ってたことか」と思い当たりました。

その記者が言うには、報道は国家権力の問題点を広く知ってもらって、国民の議論に役に立たせなければならないという使命感があるそうです。特にリベラル系マスコミにはそういう使命感を持ってみんな入社するそうです。ただ、何をどう問題にして報道するかということについては、「批判の視点」というものが必要なのだそうです。やみくもに批判するわけにもいかず、読者にも共感してもらわなければならないということらしいのです。

このため、55年体制の続いていた時期までは不動の野党第1党である社会党の視点を借用して政府の問題点を報道をしていたというのです。社会党と同じことを言うわけにはいかないので、そこは新聞社の見解として整えてから主張していたのでしょう。当時国民の半分弱を占めていた革新派の強い需要にこたえやすい記事のトーンになっていたともいえるかもしれません。

そう考えていくと、55年体制は政党間の問題だけでなく、マスコミも含めた大きな体制であったようです。賛成勢力も否定勢力も織り込み済みの、一つの大きな枠の中に納まった形になっていたといえるのかもしれません。そうだとすると内部に対立を抱えた高度の秩序、体制が築かれていたことになります。基本となる体制があって、それに反発する人たちの受け皿もちゃんとあって、衝突しながらもそれなりに秩序を形成し、維持し続けていたということです。マスコミもそれに貢献していたということのようです。

ところが、昭和の後期から社会党が衰退をはじめ、自民党もまた力を失い始め、象徴的には社会党党首が首相となるという出来事が起き、色々な意味で55年体制は終了しました。困ったのはリベラル系新聞社だったと彼は言います。社会党政権下では、社会党の視点で社会党政権を批判しても新聞社の役割を果たせないですから、自民党の視点で現政権を批判することがリベラルだと考えたり、また自民党が政権を取ったらそれを批判しなくてはならないということになり、民主党が政権を取ればまた自民党の視点で民主党政権を批判するということが起こり、そんなことが続いている中で、特にリベラル系マスコミの「報道の視点
」が定まらなくなり、苦労しているとその記者は言っていました。

彼の話が本当だとすると、報道は是々非々とか論理で行うものではなく、政治対立の構図を反映した土台のあやふやな視点で行っていたということになってしまいます。

だから、かつてのリベラル系マスコミは、たまたま与党が長期政権を維持しているので、与党批判を展開することができていたのですが、その視点が定まらないのだと思います。本当は保守なのに野党ということで55年体制よろしくその政党をリベラルという枠にはめてその視点に立ってみたり、革新を標榜する少数政党の視点を取り入れたりしていますが、根本的にどの視点に立つかについては定まっておらず、その時その時でずれたり歪んだりしていると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

そうすると、本来は国政や都政批判の場面であるのに、人的つながりで、リベラルということにしている野党や革新少数派政党とつながりがあると、それだけで反射的に擁護してしまうという方向になることはわかりやすいのではないでしょうか。

これに対して、従来から保守派の新聞だと言われている新聞社は、昔から野党の視点など利用していませんからスタンスも変わりません。また、面白いことにタブロイド版という過激な政権批判を身上とする夕刊紙も彼らなりの是々非々の視点を貫いており、本件の問題について公平に扱っているようです。

但し、私は、リベラル的色彩があるから擁護するというのは、末端の記者レベルではその通りかもしれませんが、マスコミの上層部、意思決定機関ではそうではないのではないかという疑念を持っています。

つまり、今話題になっているのは東京都の委託事業にまつわる委託金の支出の是非なのですが、受託事業者がリベラルの色彩があるのでリベラル系が擁護しているように見えています。しかしこの事件の本質は、東京都や国がそのような支出をしている是非と、受託業者を選定した経緯、事業の企画そのものに対する疑惑であり、中心は東京都や国の問題なのです。これだけの公金を動かすのは野党の力ではなく、国や都という国家的規模の「意思」が動いているはずです。その意思主体の思惑と、リベラル的色彩のある受託業者たちが結託して(あるいは利用されて)まさに55年体制のような蜜月の深い闇があるのではないかという疑念なのです。

その記者の説明による55年体制の枠の中で果たしてきたマスコミの役割を考えると、深い闇を隠そうとすることはむしろ自然なことです。また、野党時代の自民党の視点で取材していた記者は人的つながりができるでしょうから、本質的批判ができなくなることも想定していなければならないと思います。

受託業者を擁護することは、出来事を事件化しないという効果を生みます。事件化をしなければ深い闇を暴かないことに直結します。これがリベラル系マスコミ上層部の思惑だとしても、今更特に驚きません。そして、リベラルに対する攻撃だという筋書きは、ポリシーをもって入社してきたリベラルマスコミの記者は反射的に受け入れてしまうことかもしれません。「リベラルの視点」どころか「組織の論理」で取材して記事にしている記者もいるくらいです。

ただ、現在事件は訴訟案件にまでなってしまいました。東京都の「論理」は、入り口で裁判所からはねられているようです。都知事は国の事業を実質的に委任されて行っているという趣旨の発言を繰り返ししています。それでも、実際に委託事業費の管理を行わなかったのは東京都の問題です。このままいけば、敗訴となり資金の返還義務が判決で命じられる流れになっています。知事や都の幹部にとって打撃になることはもちろんですが、受託業者を擁護して、実質東京都をかばったリベラル系マスコミにこそ大打撃になるはずです。

ただ、深い闇自体はこの裁判からは明らかにはならないでしょう。可能性があるとすれば、どうして東京都がずさんな委託をしたかということを東京都自ら暴露する場合ということになります。おそらく、それは無いと思います。

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