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原作改変問題に見るこの国の公平公正や自由競争の現状 テレビ局が自分自身のためにも検証するべき内容とは [弁護士会 民主主義 人権]



テレビや映画の脚本が、原作と大きく異なることについて、改変それ自体の良しあしの評価とは少し異なった角度から考えてゆきます。

なぜ、原作を改変するのかというその理由について、業界内部からの問題提起が続々と上がってきています。それによるとどうやら、脚本家が原作を「自分の好みで好き勝手に原作を書き換えている」というわけではなさそうなのです。

私がなるほどと思った理由は、テレビドラマや映画の制作初期の段階で、先ずキャスティングが先に決まるようなのです。この時間帯のこういう期間、こういう年代をターゲットにするドラマを作ると、それに対して、それぞれの俳優の「実力」、所属の「実力」等に応じて、おおよその役柄を配点して、少なくとも出演の合意をとっておき、出演者のスケジュールを確保するということのようです。

なかには旧名称を持つ事務所と音楽番組のように、所属タレントを使うために企画を持ち込んでいくということもあったのかもしれません。

ところが、原作にそのような売り込み俳優の出番が無いとか、所属事務所が配役の原作の人物を所属俳優が演じることに難色を示すことが出てくるわけです。

そこでニーズが生まれるのが、脚本家による原作の改変だというのです。原作には登場しなかった登場人物を脚本による原作の改変で登場させるとか、はなはだしい場合には登場人物が男性なのに、女優を使うために原作を改変するということも、これらのニーズに応じる手っ取り早い方法だというのです。

件の脚本家の方は、このような制作側のニーズに合わせて器用に原作を改変させる「才能」があったということだったのでしょう。

「じゃあ、原作を使わないで、オリジナルの脚本を作ればよいではないか。」ということも考えられると思うのですが、それも理由があって、オリジナルの脚本を書けないというよりも、原作があった方が話題になる分視聴率が見込めるし、テレビ化すれば出版の側も売り上げが上がるという思惑もあるようなのです。

私はこの一連の理由には説得力があると思いました。この原作改変システムであれば、特定俳優の割り当てという制作の思惑は実現するわけです。

私は、原作の改変や原作では出ない登場人物をつくるとか、逆に割愛させるということについては、原作者の承諾があれば、それは理由のあることだと思っています。絵やアニメのようなメディアでできても、実写映像では表現しえないこともあるし、逆に実写映像だから表現できることもあると思います。また、一人の頭の中で作った進行に不自然な点があり、それが実写化されると矛盾として受け止められ、視聴者を混乱させるということもありうるからです。

このように、制作側の主観で構わないのですが、エンターテイメント性を高めるとか、作品の質を高めるとかというならば、ある程度原作から変わることもありうるだろうという風に考えています。こう考えるのも私が松本清張氏の影響を受けているということもあると思います。

しかし、観る側の満足度を高めるとか、作品の質を高めるとかそういうことではなくて、制作側やスポンサー、俳優の所属事務所の都合で原作を改変して行ったら、それは視聴者や作品の質という方向は二の次になっているということだから、観る側からすれば、つまらない方向への改変ということにしかならないでしょう。単にその「ごり押し俳優」のファンだけが喜ぶ、程度の低い番組になることは予想が付くことだと思います。一部のファンだけが見る番組は視聴率が低下していくことはあまりにも当然だと思います。

思えば、旧名称を持つ事務所の問題も、性加害問題だけでなく、そのようなテレビ局の事務所による私物化というところにも本質があったはずです。つまり、所属事務所とテレビ局の関係が旧名称を持つ事務所だけの問題ではなかったということです。考えれば当たり前です。

昨年から今年にかけてインターネットで話題になっている様々な問題は、このようにテレビ局の特定の人間との結びつきに関しての問題であると整理できそうです。
「特定のスタッフやキャストとの結びつきがどうして起きたのか」ということについて厳しく検証をしていくことが必要であると言えそうです。

単なる人間的結びつき、情実等の問題なのか
そこに利益供与があったのか
スポンサーの意向なのか
それが論点になるはずです。社会的非難をかわすことを目的とした検証ではなく、自社の生産性を高めるための検証でもあるのだから、真剣に取り組まなければならないことだと思うのです。

テレビ局が私企業であっても、報道部門もあるわけです。同じように報道の目的以上の私的な結びつき、個人的な利益、スポンサーの圧力等によって、報道するべき事柄を報道せず、報道内容を都合よく改変している可能性が否定できないということになり、貴重な電波をこのテレビ局に割り当てて本当に良いのかという公的事情が存在することになります。

あれはドラマ制作部門だけの問題だということは通らないと思います。音楽制作部門でも同様の問題があったのだから、報道部門だけは別だという理屈は通らないからです。少なくとも、そのように部門独自の問題だという構造を解き明かした検証は無いと思います。

もしかすると、テレビの衰退は、この日本という国の生産性の衰退を象徴しているのかもしれないという危機感を持っています。良いものを作るという製作者の誇りよりも、一部の担当者の感情や利益を満足させることが優先となるとか、良いスタッフに活躍の場を与えるよりも、個人的な都合に対応できる要領の良い人ばかり起用され、あるいは本当の実力とは関係のない人間関係の力学によって場を与えられている人ばかりが横行し、能力のある人たちが能力を発揮できないということがあるのではないか。このような状態だから、日本企業の生産性が高まらず、本当はもっと繫栄するはずの社会が停滞しているのではないかという危機感です。

これが現代日本のように複雑な人間関係であり、かつ、大量の人間と利害関係が生じている社会ではなく、100人前後のムラが人間の世界のすべてであれば、仲間を大切にして、仲間の利益を優先することは当然のことだと思います。

しかし現代日本では、誰かに利益を与えることが、誰かに損をさせることになってしまうということをもう少し意識しなくてはならないと思います。意識する際のツールが、「公平公正」という概念だと思います。仲間がいたとしても、公平公正な起用をしていくこと、良いものが流通するようなシステムによる資本主義的な自由競争原理を精巧に作り上げていくことが求められていると思われます。

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